はてなキーワード: 大きな政府とは
「小さな政府」を志向する政治体制が下火になりつつあると考えられる背景には、主に以下のような理由が挙げられます。
気候変動、感染症の拡大、貧富の格差、移民問題など、国境を越えた課題が増加する中で、政府の役割が重要視されるようになっています。これらの課題は、個人や民間企業だけでは解決できないため、政府が積極的に介入し、政策を推進することが求められています。このような背景から、大規模な政府支出や介入が不可欠であるとする意見が強まり、「小さな政府」から「大きな政府」への移行が進んでいます。
市場主導の経済システムによる自由競争は、イノベーションや成長を促す一方で、経済格差を拡大させるリスクが伴います。特にグローバリゼーションの進展により、高スキル層や都市部の住民とそれ以外の層の格差が顕著になり、こうした格差が社会不安を引き起こしています。そのため、所得再分配やセーフティネットの充実が求められ、政府による積極的な支援や規制が必要とされる場面が増えてきました。
2008年のリーマンショックや2020年の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のような危機に対して、政府が財政出動を行うことで経済や社会の安定を図った事例が示すように、非常時において政府の役割が再評価される傾向があります。特にCOVID-19では、政府が積極的に経済支援や医療支援を行う必要があったことから、「小さな政府」では対応できないリスクに対する懸念が浮き彫りになり、政府の規模や役割を拡大する方向が支持されやすくなっています。
IT技術の進展により、インターネット上での個人データの保護や、大手テクノロジー企業による独占などの新たな問題が生じています。このようなデジタル社会での課題に対処するためには、政府が適切な規制や監視体制を設ける必要があり、「小さな政府」ではこうした複雑な問題に対応しきれないとの認識が広がっています。
財政支出が経済成長を促進するとの考え方が再評価される中、公共インフラの整備や教育、医療といった社会資本への投資が重視されています。こうした政策により、経済全体が底上げされると期待されるため、政府による積極的な財政支出が歓迎される傾向にあります。このため「小さな政府」よりも「大きな政府」による経済支援が重要視されています。
これらの理由により、現代の複雑化した社会やグローバル化した経済においては、「小さな政府」の考え方だけでは課題に対処しきれない側面が増えていると言えます。
公助を削減して自助しろと言うのは菅義偉だったが、アレに反発していた人ってだいたい共助に協力している人であったように思うんだよな。
もちろん、中には「税金払ってるんだから公助で全部やれ」というような非現実的な人もいるけれども。
共助を頑張ってるのになぜ反発したのかというと、簡単に言えば、自助ではどうにもならないという現実を知っているからこそ共助のために自分のリソースを出している訳わけで、
そこからさらに公助は最後だから自助共助で頑張れと言う話をされたところでどうにもならないという感覚があったのだと思う。
当然、公助で100%カバーすることも無理なのも百も承知なのよ。でも、だからといってその原則を曲げられたら困る。
そんなこんなで、左派というか「大きな政府」派の人たちが「自助共助公助の順番ではない、公助が基盤にあってその上で自助と共助があるべきだ」という主張をしたのは、実感としてそうでないと無理だと言うのがあるからだよな
現実どうなっているかというと、だいたいは 公助→自助→共助→公助(保険的な)って感じで利用し、スタックされる事が多いと思われる。
で、菅義偉が自助共助公助と言ったのは、この一番最初の「公助」を最後の公助②の手間に持って来るような話だったので、共助で支える活動をしている人たちが主に反発したということになった訳だ。
事実、公助で一番金がかかっているのは公助①の方。公助②の方は、割合的にはわずかなので費用的にはたいしたことはない。
報道的にも、公助②に関わるような重度の介護が必要な人たちが矢面に立っていたけど、菅義偉や財務省系の人々が削減使用としたのは公助①の方。
ところが、いや自助、共助、公助であってるだろ、と言っていた人たちは、公助①の方を認識できていなかった、あるいは水や空気と同じで当たり前と思っている可能性が高いと思われる。
と言うのを、この増田
https://anond.hatelabo.jp/20241003150146
を読んでいて思ったので書いてみた。
欧と米でリベラルの意味が左右逆なうえに日本独自の要素が絡んでるからこじれまくる
欧では資本家寄り・小さな政府をリベラルと呼び右派とみなされてる(労働者寄り大きな政府の左派はソーシャルと呼ぶ)が
米では労働者寄り・大きな政府・世俗派の民主党をリベラルと呼ぶ(資本家寄り・小さな政府・福音派の共和党はコンサバティブ)
日本ではアメリカっぽい労働者寄りの左翼がリベラル名乗りがちやがマイナンバー・増税に反対するのが多いように大きな政府とも言い切れず
しかも護憲派で日米安保集団的自政権反対(欧米の左派政党は当然ながら集団的自衛権に反対してるわけではない)も左翼とセット売りなので
そうはならんやろ。
今回の総裁選・代表選では右寄りの高市、左寄りの枝野が落選した。
仮に高市、枝野が総裁、代表になっていたならば維新と国民民主がその中道の票を食って躍進するだろう。
しかし現実は逆だった。中道がレッドオーシャンになり、そこをターゲットにしている維新と国民民主が苦戦し、無関係な共産は我が道を行く。
ここまではわかる。
まず、立憲民主は組織がバラバラでトップが野田でもリベラルは我知らずと勝手な動きをする。ここが自民と大きく違う。
共産と同様に中道に抱きついて政策実現を目指す左派は、今はおとなしくしていても憲法や防衛の話になったときに正体を表すことをみんな知っている。
中道に支持されているのは野田であって立憲民主党ではないのだ。大統領や知事選ならわからないが総選挙で入れることはないだろう。
石破、野田ともに大きな政府指向ではあるが、金を使う方向性が全く異なる。
社会資本に投資して地方の成長の土台作りを目指す自民と、困っている人にお金を配る立民では真逆ともいえる。
高市は政治的に右派だが、経済は石破も高市も右派で、むしろ経済左派の岸田が異質だった。
だから岸田おろしは必然で、裏金発覚まで政党支持率が横ばいなのに内閣支持率が低下一途だったのは自民支持層から支持されていなかったからに他ならない。
岸田なら可能性があったかもしれないが、石破では立民左派が期待するばらまきの可能性がないことを知っているので立民左派も自民に入れることはない。
自民支持層も岸田が下りた今、自民に入れない理由がなくなっている。
なので、支持者の入れ替わりはあり得ない。
反戦平和のためなら、どうして罪なき人が犠牲になっても構わないというのか。
選挙の勝利のためなら、どうして民主主義を損なうような選挙妨害しても構わないのか。
困っている人が眼の前にいても、お互いに助け合うのではなく、政府が助けてあげるべきと彼らは感じている。
不法移民が近隣に住み着くのは拒否するが、政府がどこか別の場所で衣食住を保証してあげるべきと、彼らは考える。
大きな政府があるべきで、その大きな政府が情報も経済も統制することが正しいと、彼らは感じている。
それは「感じている」のであって、「信じている」でも「考えている」でもない。
「ライオンがいて怖い」という人がいれば、眼の前のライオンを取り除いてあげれば「安全」を認識してくれる。しかし「幽霊がいそうで怖い」という人には、いくら説得しても「不安」は取り除かれない。なにせ「感じている」のだから、もはや本人の心の問題である。
彼らの多くは「この世界には巨悪がある」と感じている。それは得てして生活圏に見出される。この国の為政者であったり、政権党派であったり、国家権力であったりする。不思議と海の向こうの独裁者ではないのである。それはおそらく「感覚」によるものなので、自分の生活圏内でしか感じ得られないのだろうと予想される。
それらの理念は国家という枠組みを超越した究極理念であると、彼れは感じている。
国家や法律がもたらす秩序や安定というベースの上に成り立つとは感じていない。国家や法律が崩壊したとしても、みんながそこを目指して然るべき理念であると感じているのである。
彼らは、巨悪組織が定めた現行の法律を外れたとしても、究極理念を目指そうとするのである。
彼らにとっては、現政権は理念を蔑ろにする間違った現状であって、新たな正しい政府を作って、その大きな政府のもとで究極理念の実現をはかろうとするのである。
最近の円安関連のブコメを見てると、はてなが左寄りだった時代はすっかり終わったんだなと感じさせる
いまだに次の国政選挙があれば自民党に投票するつもりで、ネトウヨだと思ってる自分は消費税増税して軽減税率下げるべきだと思ってるけど、ブコメは減税しろとか高齢者に対する社会保障費減らせみたいなこと書いてて、ちょっと引いてる
維新嫌いっぽいけど、ちょいちょい新自由主義が好きなの見せるよね
ただ、維新嫌いだけどそのくせ新自由主義みたいな人たちが立憲を支持して、結果として立憲が自民よりも大きな政府的なこと言い難くなる状況になってほしくない
ネトウヨの姫、三浦瑠麗は前々回の衆院選から立憲はツイッター見るなって言ってるけど、次の衆院選も立憲はツイッター見るんだろうな
なんで共産主義にならないんだろうと思っていた疑問が徐々に晴れていった。
プロレタリアによる政治といっても、プロレタリアは一枚岩ではない。
弱者男性の議論でも指摘されていた、安定労働層も居れば貧困労働層もいる。
知識やスキルも違う。やはり、大なり小なり、権力勾配が生じてしまう。
労働価値説は作り手側の都合に終始していて、買い手の需要を見落としている。
たしかに現行の資本主義ないしは社会民主主義も、格差の拡大や経済成長の停滞といった課題がある。
が、だからといって共産主義を夢見るのは、何か異世界に転生出来たらいいのになあという夢想的願望なのだろう。
現実と理想の間をステップバイステップで地道に埋めていく作業をしてくれていたのが、いわゆる社会民主主義思想の人々であったのではないか。
それでもいまだ道のりは長く険しそうであるが。