はてなキーワード: ポーツマス条約とは
1615-05-07 大阪城が落城し、大坂夏の陣終わる。豊臣氏滅亡
1853-05-23 アメリカ艦隊、浦賀沖に来航(黒船来航)
1861-04-12 アメリカ南北戦争(1865年5月9日まで)
1868-01-03 王政復古
1868-07-17 東京奠都(「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」煥発)
1871-08-29 廃藩置県
1875-06-28 讒謗律(太政官布告)及び新聞紙条例(太政官布告)公布
1877-05-26 木戸孝允死去
1888-03-09 ヴィルヘルム1世・プロイセン王兼ドイツ皇帝崩御
フリードリヒ皇太子(フリードリヒ3世)がプロイセン王兼ドイツ皇帝に即位。
1888-06-15 フリードリヒ3世崩御。ヴィルヘルム皇太子(ヴィルヘルム2世)がプロイセン王兼ドイツ皇帝に即位。
1894-07-25 日清戦争(1895年4月17日まで。宣戦布告は1894年8月1日。台湾平定終了は1895年11月30日)
1898-07-30 ビスマルク死去
1902-01-30 日英同盟成立(1923年8月17日失効)
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1905-09-05 日露両国講和条約(ポーツマス条約)締結(日露戦争終了、条約発効は同年11月25日)
1912-07-30 明治天皇崩御。皇太子嘉仁親王が践祚。元号が明治から大正に改められる。
1914-07-28 第一次世界大戦(1918年11月11日まで)
1922-02-01 山縣有朋死去
1922-02-06 ワシントン海軍軍縮条約調印
1923-08-17 ワシントン海軍軍縮条約発効
1926-12-25 大正天皇崩御。皇太子裕仁親王(摂政)が践祚。元号が大正から昭和に改められる。
1927-03 昭和金融恐慌
1930 昭和恐慌
1930-10-02 日本、ロンドン海軍軍縮条約を批准
1932-05-15 五・一五事件
1936-01-15 日本、ロンドン海軍軍縮条約を脱退
1936-02-26 二・二六事件
1936-12-31 ワシントン海軍軍縮条約失効
1937-07-07 日中戦争(1945年9月9日まで。盧溝橋事件に始まる。当初は宣戦布告をせず、「支那事変」と呼称)
1939-07-26 アメリカ政府が日米通商航海条約の廃棄を通告
1939-09-01 第二次世界大戦(ドイツがポーランドに侵攻して始まる。1945年9月2日まで)
1940-09 アメリカ、対日屑鉄全面禁輸
1940-09-27 日独伊三国同盟調印
1940-11 日本とアメリカの各種交渉(1941年12月まで)
1940-11-30 日本国中華民国間基本関係ニ関スル条約(日華基本条約)調印
1941-01-08 戦陣訓(陸訓一号)示達
1941-04-13 日ソ中立条約調印
1941-06-22 独ソ戦(ドイツがバルバロッサ作戦を発動したことにより始まる。1945年5月8日まで)
1941-08-28 近衛首相、ルーズベルト・アメリカ大統領に首脳会談を提案(結局、沙汰止みとなる)
1941-12-08 太平洋戦争(日本の英米に対する宣戦布告及び真珠湾攻撃に始まる。1945年9月2日まで)
1941年12月(開戦)~1942年7月頃(フィリピン全土占領)まで日本軍の占領区域は拡大を続ける。
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1942-04-18 米空母から発進したB-25爆撃機によるドーリットル空襲(東京初空襲)
1942-06-05 ミッドウェー海戦
1942-08-07 米軍、ソロモン諸島のガダルカナル島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸
1943-04-18 山本五十六連合艦隊司令長官、ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)。
1943-05-12 米軍、アッツ島上陸(5月29日まで。日本軍は全滅し、「玉砕」の語の使用始まる)。
1943-11-05 東京で大東亜会議を開催(6日まで)、大東亜共同宣言を発表。
1943-11-22 エジプト・カイロで英米中首脳会談(カイロ会談。26日まで)
1943-11-28 イラン・テヘランで英米ソ首脳会談(テヘラン会談。同年12月1日まで)
1944-06-19 マリアナ沖海戦。日本軍は旗艦大鳳以下空母3隻と搭載機400機を失い、西太平洋の制海権と制空権を喪失。
1944-07 ブレトン・ウッズ協定
1944-07-04 本軍、インパール作戦を中止。
1944-08-02 テニアン島の日本軍玉砕(テニアンの戦い)
1944-09-11 米軍、ペリリュー島上陸(ペリリューの戦い)
1944-10-20 米軍、フィリピン・レイテ島に上陸(レイテ島の戦い)
1944-11-24 米軍の新型爆撃機B-29、マリアナ諸島より東京を初空襲。
1945-02-04 クリミア半島ヤルタで英米ソ首脳会談(ヤルタ会談。11日まで)
1945-04-12 ルーズベルト・アメリカ大統領死去。トルーマン副大統領がアメリカ大統領に就任
1945-05-02 ベルリン陥落
1945-08-06 アメリカ、広島県広島市に原子爆弾を投下
1945-08-09 アメリカ、長崎県長崎市に原子爆弾を投下
1945-08-15 玉音放送
1945-09-02 日本政府、ミズーリ号にて降伏文書調印(太平洋戦争(大東亜戦争)終結)
1945-09-09 日本政府、中華民国南京にて降伏文書調印(日中戦争終結)
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1950-06-25 朝鮮戦争
1951-09-08 日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約
(日米安保条約)調印
1952-04-28 日本国との平和条約並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約発効
1952-10-15 警察予備隊が保安隊に改組される。浜松に航空学校が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)
1953-03-05 スターリン死去
1954-02-01 保安庁に航空準備室が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)
1954-05-29 ビルダーバーグ会議初開催
(於オランダ、ヘルダーラント州レンクム、オーステルベーク(Oosterbeek)、ビルダーバーグホテル)
陸上自衛隊(保安隊から改組)、海上自衛隊(海上警備隊から改組)、航空自衛隊(新設)設置
1956-07 昭和31年度年次経済報告(経済白書)発表(「もはや戦後ではない」)
1958-08 大躍進政策
1960-12-27 池田勇人内閣、「国民所得倍増計画」を閣議決定する。
1964-08-02 トンキン湾事件(8月2日及び4日。アメリカによるベトナム戦争への本格的な介入が始まる)
1964-10-10 1964年東京オリンピック(同年10月24日まで)
1966-05-16 無産階級文化大革命(文化大革命)(1976年10月6日まで)
1971-06-17 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)締結
1971-08-15 ドル・ショック
1972-05-15 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)発効(沖縄復帰)
1972-09-29 日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明
勃発後に産油国による原油公示価格値上げや産油制限が発表され、オイルショックとなる。
1975-11-15 G7サミット初開催(於フランス・ランブイエ)
1978-01-07 イラン革命(1979年2月11日まで)
1978-08-12 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約調印
1978-10-23 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約発効
1978-12-22 改革開放(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議にて提唱)
1985-09-22 プラザ合意
1987-12-08 中距離核戦力全廃条約(INF条約)発効(2019年8月2日失効)
1989-01-07 昭和天皇崩御。元号が昭和から平成に改められる。
1989-04-01 消費税導入(当初は3%)
1989-06-04 六四天安門事件
1989-12-29 日経平均株価、取引時間中に38,957円44銭の最高値を付ける(史上最高値)。終値は38,915円87銭。
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1993-07 衆院選で自民党が敗北し、非自民連立政権が誕生する(55年体制の終焉)
1993-11-11 欧州連合条約(マーストリヒト条約)発効(調印は1992年2月7日)
1995-11-23 Windows95が日本国内で発売される。
1997-07 アジア通貨危機
1997-11-03 三洋証券、経営破綻(会社更生法の適用を申請する)
2003-03-20 イラク戦争(2011年12月15日まで)
2006-12-30 サッダーム・フセイン死刑執行
https://www.facebook.com/100002110983459/posts/2131123246968021/
読解力には自信ある方なんだがマジで何言いたいのかわからない。
仕事でこんな文章上げてくるやついたら一年目の新入社員でも赤ペン入れまくってしばきますが
国会議員や自民党の先生と言うのはこんなクソ文でオッケーなんでしょうかね。
12月15日 6:35 ·
【なぜこの時期に訪韓したのか】※長文ご注意
長文でもいいんだよ。
内容があればね。その文字数が必要だったと納得させるだけの内容があれば。
日韓議連の全日程が終わりました。参加すれば当然厳しい意見はあろうかと思っておりました。帰ってくるな!裏金をもらっているのか!売国!ガン!落としてやる!...なかなかなものです。
一つひとつに何か申し上げる気はありませんが、改めて私個人という意味においては、合理性という観点でみるならば、確かに極めて非合理的だったかもしれません。しかしそれでも行って良かったとも思っています。なかなか不思議な感覚です。
それでも行って良かったと思えるのは何故なのかの理由を書こう?
「改めて私個人という意味においては、」「合理性という観点でみるならば、」とか、全部要りませんよね。
こういう馬鹿学生のレポートの文字数稼ぎみたいな無駄なセンテンスもずーっと続くので見て行こう
そもそも今回の訪韓は党からも議連からも経費も出ません。全て自弁です。従って行く義務もまったくありません。しかも行き先は温暖なリゾート地でもなんでもない氷点下10度にもなる厳寒のソウルです。
この「僕個人は損をしてるんだ」(だからどうした馬鹿が)という同じ話がこれから何度も何度も何度も何度も出てきます。
しかし私には私なりの思いがあって訪韓しました。私はいま国政の一席をお預かりしていますが、それまでに私は2度と会社を辞め、それなりに安定した生活を捨てて政治の道を歩んでいます。もちろん様々な葛藤は日々ありますが、その中でも自らの信念として歩むべきことは歩まなければ、政治家になった意味も価値もありません。
私の事務所には小村寿太郎侯のポスターを貼っています。わがふるさと宮崎県の生んだ大政治家です。
小村がポーツマス条約を締結し帰国したとき、日比谷焼き討ち事件が起こりました。日露戦争で勝利したにも関わらず10年前の日清戦争と異なり賠償金が取れなかったことについて、国民の怒りとそれを煽動した者によって起こされた新聞社などへの放火を伴う暴動です。
しかし時の桂太郎内閣も、小村自身も当時の日本の戦力、ロシアの戦力を考えれば講和しかないと確信していました。(このあたりに興味のある方は吉村昭の『ポーツマスの旗』をぜひお読み下さい)
小村は当時の人、特に政治家には珍しく日記をつけませんでした。歴史は後世が評価するという思いからだといわれていますが、小村の交渉術、成果はいまなお歴史においても、外務省においても高く評価されています。
その思いと言うのが具体的にどういうものかについて全く説明が無い。
なんで突如長々と小村寿太郎の話が始まるんだよ。
それよりお前がお前の現在の行動について説明するんじゃないのか。
するんならしろよ。それだけだろ。
話が逸れましたが、いまの訪韓がいま厳しい評価を受けることはやむを得ないと思います。しかし今回の対応、文大統領の発言、対応などについては一定の成果があったと思います。
大統領が公式に面会をするという一事は極めて重いことですし、それを額賀会長が直接伝えたことは意味があります。総理からのメッセージが出なかったのは事実です。しかしそれも含めての額賀会長の発言であり、外交の極めて微妙な駆け引きとはそういうものです。
文大統領から現在の懸案についてなんか具体的な提案や表明を引き出せたの?
ないよね。
ただの定例行事だよね。
「微妙な駆け引きをした(具体的な報告は何もできましぇーん)」
これさあ、何の成果も無いのにわざわざ行ったっていうだけのことだよね。
どうしてこんな時期に行ったのかの説明も出来ず、
行ったことで獲得した成果の報告も何も出来ず、
つまりやらなくてもいいことをやったってだけだよね?
こんな内容皆無の水ぶくれした文章書いてんだよ。
その上で、いまの訪韓は国益に反する、との意見について申し上げます。
そもそも私達は勝手に政府与党の反対を押し切っていったのではなければ、隠密裏に行ったのでもありません。
そもそも、いつ、誰が行くかは公知の内容であり、私自身も岸田会長にも報告して参加しています。そもそも自民党で最も多く参加していたのは幹事長派閥の二階派です。
もし我々の行動が本当に国益に反すると政府与党に判断があれば、表裏問わず”勧告”があったはずです。超党派ですから、極端な話、わが党が全員出なくても成立するのです。
しかしそのような動きは全くありませんでしたし、また当日の開会式には長嶺駐韓大使も出席頂きました。この議連の活動に問題があれば、現場のロジ(足回りのお世話)はともかく大使が出席することにはなりません。
なんだこりゃw
「強く止められなかったから責任は党にあるんだもん!」ってか。
お前の判断についてと、その判断理由と、お前の行動成果とを報告するターンだろ。
「自民党が止めなかったもん!」
お前さあ、何年目の何歳だよ?
批判される方はこのようにご説明しても批判されるとは思いますが、かくの如きをみても、政府与党としてもこの議連に一定の意義と期待を持ってのことであろうことは、元外務政務官としての経験からも確信を持っていえます。
「僕達は期待されてたんだもん!」
「強く止められなかったのがその証拠!」
党の偉い誰かから「頑張ってきてほしい」「こういう交渉してきてほしい」とか激励なり指示なりなんかあるもんじゃないの?
「具体的に誰にもそんなこと言われてないけど外務政務官としての経験でそう思うんだもん」
話にならねえなこいつ。
冒頭に合理性と述べましたが、合理性だけを問えば東京に残って部会で厳しい発言をすることが費用対効果的にも最も合理的です。それだけで産経新聞は評価してくれますし、こんな発言をしました!といえば一定の賞賛は得られるでしょう。
しかし逆に訪韓すれば冒頭のごとく叩かれますし、わが党の議員でもツイッターで煽るような意見を述べる方もいました。(それはそれで構いませんが、同じ党の議員なのですからネットに書き込む前にぜひ直接聞いて頂ければとは思いますが)
私は日中次世代交流委員会という超党派の議員団で毎年訪中しています。公明の遠山清彦代議士を団長に私は副団長を務めていますが、今年で6回を数えます。
6年前、初めて訪中したときは政権交代直後ではありましたが、野田前政権での尖閣国有化の余韻が冷めやらず、極めて厳しい対応、いわゆる”塩対応”でした。第1回は日中国交回復35周年の年で、団として訪問したのは私達だけでしたし、訪中自体に厳しい意見も多く頂きました。
そしてその信念でどんな成果を挙げてきたのよ?
それを説明・報告してくれよ。
Q「その行動の理由は?」
A「僕の信念です」
Q「うんそっか、で、行動の理由は?」
「信念が理由ですじゃ説明になってないよね。あと君の信念って具体的には?」
「んでその信念の行動でどんなよいものを獲得してくれたの?」
A「先輩も強く止めなかったですよね」
「社が僕に期待してることははっきりわかりました」
「成果は特にありません」「微妙な駆け引きとだけ言っておきます」
Q「お前ぶっ飛ばすぞ」
ってなるやろ。
こんなわけわからん会話が成り立たないやつ1年目のガキでも嫌だわあおれ。
指導したくないわあ。
会話通じないやつにはどうしてもキレ気味ぽくなっちゃうもん。
そしていま、まだまだ課題はあるものの安倍総理の訪中、そして習近平国家主席の訪日も視野に入るまでになりました。いまは政治においても双方多くの交流が続いています。厳しい時期でも訪問を続けたことは間違いはなかったと思っています。
だから関係が非常に厳しくてボールが相手にあるときに出向いていくのは
間違ったメッセージを送ることになる、って言うのがよくある批判の声だよね?
確かに今回の訪韓は超党派ゆえの難しい部分もありました。一部政党幹部の方の文大統領をはじめとする先方に対する発言、分科会での主張などは相手にわが国の主張の一貫性を誤解させる危惧も感じました。
しかしそれは超党派の性格上やむを得ない部分でもあり、それは改めて政府与党が正確に伝えておかなければならないと実感しました。
こいつ駄目な点はわかってるのに
「自民党が強く止めなかった」
みたいに他人事っぽくまとめるのな。
そこまでしたからには当然何か手柄をたててきたのだろうからその披露を頼むわ
って言うのがお前に今求められてることだろ。
そこについてはなんにも説明できないから意味不明な冗長な駄文で逃げ回ってるわけだろ。
お前が今回の行動にきちんと説明できるものなんかもってないこと、
何かを誤魔化そうと言う邪心があることは逆にはっきりわかるわ。
その上で、ですが、もちろん私達の訪韓で劇的に変わることはないでしょう。課題は引き続くと思いますし、厳しい局面もあると思います。
しかし、日韓は引っ越しできない永遠の隣国です。訪日韓国人は過去最高を記録していますし、ミョンドンを歩いても日本人観光客が回復しつつあるこを実感しています。政治が厳しいときなればこそ、経済や観光で役割を果たして行かなければなりません。
わがふるさと宮崎はアシアナ航空、イースター航空と2社がソウルと結んでいます。この時期は温暖な気候を求めて、特に多くのゴルファーが訪れます。国と国との関係が厳しい時期なればこそ、しっかりおもてなししたいものです。
冒頭にも述べましたが、今回の訪韓は私個人の合理性を考えればまったくメリットはありませんでした。しかし国政の一席を預かる者としての役割は果たすことができたと確信しています。
だから具体的に言えよ。
何をしてきてどんなよいものを獲得したのか。
何回も内容の無い言葉を繰り返すな。
また、私は安易なアジテーター(扇動者)にはなりたくありません。小村はけしからん!擁護する新聞社もけしからん!と煽れば、それは暴動になるのてす。
あーあ。結局そんなことが言いたいのかよ。
「ぼくちんを批判するのは扇動者だーー!」「暴動こわーい」ってか。最低だな。
暴動が起きるほど注目される大物かよお前は。
んで、普通に非難されてるだけなのに「暴動だ!」とかいって被害者ぶるのは卑怯だろ。
そうやってひたすら言を左右にしたり暴動(笑)の被害者ごっこまでしながら
あくまで自分の行動や意思については新入社員レベルの説明と報告もしない・出来ない・逃げ回るってことは
これはよっぽどやましいやつかよっぽどの無能ってことだろう。
私がお世話になっていた宮崎交通創業者である岩切章太郎の言葉を集めた『無尽灯』(むじんとう)にこんな言葉があります。
「宮崎交通”が”あってよかった。宮崎交通”で”あってよかった。そんな会社になりたい。』
私も、たけい”が”いてよかった。たけい”で”よかった。