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応慶の乱
肥前国の平戸には、室町幕府の命令で、南蛮貿易の窓口として、ポルトガル人やスペイン人の宣教師たちが住んでいた。彼らは日本の文化や言葉に興味を持ち、日本人と交流を深めていた。中でも、応慶という名の若い僧侶は、彼らの信仰や知識に魅了され、彼らからキリスト教や西洋の学問を学んでいた。
しかし、応慶の行動は、幕府や寺院の目に留まり、不快に思われるようになった。彼は、外国人の影響を受けて、日本の伝統や仏教を軽視していると非難された。幕府は、応慶を捕らえて、尋問するように命じた。しかし、応慶は、宣教師たちの助けを借りて、平戸から逃げ出した。彼は、肥前国の各地に散らばっていた、キリスト教に改宗した武士や農民たちを集めて、反幕府の勢力を築いた。彼は、自分の名前にちなんで、その勢力を「応慶軍」と名付けた。
幕府は、応慶軍の存在を知り、室町幕府将軍、足利義稙は大内弘興を大将とする討伐軍を肥前国に派遣した。永正5年(1508年)こうして、肥前国で、応慶の乱と呼ばれる戦いが始まった。応慶の乱は、数か月にわたって続き、肥前国は火の海と化した。応慶は、大内軍の軍勢に対抗していたが、大内氏の軍勢は、数や装備で勝っており、応慶軍は次第に劣勢になっていった。永正6年(1509年)最後の決戦は、平戸山で行われた(平戸山合戦)が、早々に大将である応慶が矢に倒れ討死することとなる。
大内軍は、応慶軍の残党を一掃しようとしたが、平戸の宣教師たちが仲介に入った。彼らは、幕府と応慶軍の和睦を提案し、両者の寛容を求めた。当時、大内氏は京において細川氏や畠山氏との権力闘争の火種が残っていたため帰京を急いでおり、宣教師たちの説得に応じて、応慶軍の残党に恩赦を与えた。応慶軍の残党は、幕府の支配に従うことを誓った。こうして、応慶の乱は、和睦によって終わった。
応慶の名前は、肥前国の人々にとって、平和や幸運の象徴となった。彼らは、応慶の名前を「おーけー」と発音し、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使うようになった。この言葉は、平戸の宣教師たちにも伝わり、彼らは、応慶の名前に敬意を表して、その言葉を使うようになった。
宣教師たちは、幕府の追放を受けて、平戸を離れたが、その言葉を忘れなかった。彼らは、自分たちの母国に帰って、その言葉を広めた。彼らは、その言葉が、日本の文化や歴史に関係することを説明し、その言葉を使うことで、日本との友好を示すことができると言った。彼らは、その言葉を、手紙や書物に書いたり、会話や挨拶に使ったりした。
やがて、その言葉は、ポルトガルやスペインだけでなく、他のヨーロッパの国々にも伝わった。その言葉は、様々な言語に翻訳されたり、略されたり、変化したりしたが、その意味は、元の応慶の名前と同じだった。それは、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使う言葉だった。その言葉は、世界中に知られるようになった。それが、「OK」という言葉の起源である。
肥前国の平戸には、勢力を伸ばし大名となっていた松浦隆信の庇護によって、ポルトガル人やスペイン人の宣教師たちが住んでいた。彼らは南蛮貿易を通じて日本にキリスト教を伝えるとともに、日本の銀や刀などの商品を中国やヨーロッパに運んで交易を行っていた。また彼らは日本の文化や言葉に興味を持ち、日本人と交流を深めていた。中でも、応慶という名の若い僧侶は、彼らの信仰や知識に魅了され、彼らからキリスト教や西洋の学問を学んでいた。
しかし、応慶の行動は寺院の目に留まり、不快に思われるようになった。彼は、外国人の影響を受けて、日本の伝統や仏教を軽視していると非難された。当時、一向宗に帰依していた土着の武士たちは応慶を捕らえて、尋問するように命じた。しかし、応慶は、宣教師たちの助けを借りて、平戸から逃げ出した。彼は、肥前国の各地に散らばっていた、キリスト教に改宗した武士や農民たちを集めて、反幕府の勢力を築いた。その勢力は応慶の名を取り「応慶軍」と呼ばれた。
幕府は、応慶軍の存在を知り、室町幕府将軍・足利義稙は大内弘興を総大将とする討伐軍を肥前国に派遣した。永正5年(1508年)、こうして肥前国で応慶の乱と呼ばれる戦いが始まった。松浦氏は応慶に僅かながら援助していたが、松浦氏は当時、大内氏の配下でもあったため表立って応慶への支援は行えなかった。応慶の軍は、当初は大内軍の軍勢と拮抗していたが、大内氏の軍勢は数や装備で勝っており、次第に劣勢になっていった。永正6年(1509年)、最後の決戦は、平戸城の南西に位置する川内峠で行われた(川内山合戦)。しかし、早々に大将である応慶が矢に倒れ討死することとなり、合戦は数時間で決した。
大内弘興は平戸に残る応慶軍の残党を一掃しようとしたが、平戸松浦氏と縁戚関係のあった宇久氏が仲介に入った。宇久家当主であった宇久盛定は幕府と応慶軍の和睦を提案。当時、大内氏は京において細川氏や畠山氏との権力闘争の火種が残っていたため帰京を急いでおり、宇久盛定の説得に応じて、応慶軍の残党に恩赦を与えた。こうして、応慶の乱は、和睦によって終わった。
応慶の名前は、肥前国の人々にとって、平和や幸運の象徴となった。応慶の名前を「おーけー」と発音し、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使うようになった。この言葉は、平戸の宣教師たちにも伝わり、応慶の名前に敬意を表して、その言葉を使うようになった。
その後、宣教師たちは平戸を離れたが、その言葉を忘れなかった。宣教師たちは自分たちの母国に帰って、その言葉を広めた。その言葉が日本の文化や歴史に関係することを説明し、その言葉を使うことで日本との友好を示すことができると言った。彼らは、その言葉を手紙や書物に書いたり、会話や挨拶に使ったりした。
やがて、その言葉は、ポルトガルやスペインだけでなく、他のヨーロッパの国々にも伝わった。その言葉は、様々な言語に翻訳されたり、略されたり、変化したりしたが、その本来の意味は変わらなかった。それは、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使う言葉だった。その言葉は、世界中に知られるようになった。それが、「OK」という言葉の語源である。
年 | 名称 | 概要 |
---|---|---|
463年 | 吉備氏の乱 | 雄略天皇が吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。 |
479年 | 星川皇子の乱 | 雄略天皇と吉備田狭の妻のあいだに生まれた星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。 |
527年 | 磐井の乱 | 朝鮮半島へ出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州の豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。 |
587年 | 丁未の乱 | 仏教の布教を巡って、大臣・蘇我馬子と、大連・物部守屋が対立し、戦に発展した。蘇我氏が勝利した。 |
645年 | 乙巳の変 | 中大兄皇子・中臣鎌足らが、朝廷を壟断していた蘇我入鹿を暗殺、続いて蘇我氏を粛清した。 |
672年 | 壬申の乱 | 天智天皇の後継者争いが発生し、皇太子・大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子が挙兵した。大海人皇子が勝利して天皇となった。 |
729年 | 長屋王の変 | 皇族の長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王は自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。 |
740年 | 藤原広嗣の乱 | 藤原四兄弟の死により藤原氏の勢力が退潮し、九州に左遷されて不満を持った藤原広嗣が太宰府で挙兵したが、朝廷軍により討伐された。 |
757年 | 橘奈良麻呂の乱 | 橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。 |
764年 | 藤原仲麻呂の乱 | 孝謙上皇と対立した太政大臣・藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。 |
780年 | 宝亀の乱 | 朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷の族長・伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純を殺害して反乱を起こした。 |
782年 | 氷上川継の乱 | 天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇の崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。 |
807年 | 伊予親王の変 | 藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王が自死したが、のちに冤罪と認められた。 |
810年 | 薬子の変 | 平城上皇と嵯峨天皇の対立が激化し、平城上皇は挙兵を決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇は出家した。 |
842年 | 承和の変 | 嵯峨上皇の崩御に伴い、皇太子・恒貞親王を擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王が皇太子となった。 |
866年 | 応天門の変 | 応天門に放火があり、大納言・伴善男が「左大臣・源信の仕業だ」と告発したが、逆に伴善男が真犯人だとされて流罪になった事件。 |
878年 | 元慶の乱 | 長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。 |
889年 | 寛平・延喜東国の乱 | 関東の治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望が勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。 |
901年 | 昌泰の変 | 右大臣・菅原道真が失脚し、大宰府に左遷された事件。左大臣・藤原時平の陰謀だとされる。 |
938年 | 天慶の出羽俘囚の乱 | 朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明。 |
939年 | 承平天慶の乱 | 東では坂東平氏の平将門が、西では藤原一族の藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。 |
947年 | 藤原是助の乱 | 伯耆の豪族・藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。 |
969年 | 安和の変 | 謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣・源高明が太宰府に左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。 |
986年 | 寛和の変 | 皇太子の外祖父であった右大臣・藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件。 |
995年 | 長徳の変 | 「花山法皇が自分の恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したことで藤原道長が台頭していく。 |
1028年 | 平忠常の乱 | 坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。 |
1107年 | 源義親の乱 | 源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲で乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏の繁栄のきっかけとなった。 |
1113年 | 永久の変 | 千手丸という童子が鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。 |
1156年 | 保元の乱 | 後白河天皇・藤原忠通派と、崇徳上皇・藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇は流罪となった。 |
1160年 | 平治の乱 | 信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝がクーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。 |
1180年 | 治承・寿永の乱 | いわゆる源平合戦。平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府が樹立された。 |
1184年 | 三日平氏の乱 | 平氏の都落ちのあと、伊賀の平田家継、伊勢の平信兼・藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。 |
1189年 | 大河兼任の乱 | 奥州藤原氏の家臣だった大河兼任が出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。 |
1199年 | 梶原景時の変 | 源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉を追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。 |
1201年 | 建仁の乱 | 梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠の越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府に鎮圧された。 |
1203年 | 比企能員の変 | 将軍・源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵の北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍の地位を追われた。 |
1203年 | 三日平氏の乱 | 二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢・伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅に鎮圧された。 |
1205年 | 畠山重忠の乱 | 平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。 |
1213年 | 泉親衡の乱 | 北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方をくらませた。続く和田合戦のきっかけとなった。 |
1221年 | 承久の乱 | 後鳥羽上皇が北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇は隠岐に配流された。 |
1293年 | 平禅門の乱 | 平頼綱は北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権・北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。 |
1305年 | 嘉元の乱 | 得宗・北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。 |
1325年 | 安藤氏の乱 | 津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官・安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。 |
1324年 | 正中の変 | 後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝が佐渡へ流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。 |
1331年 | 元弘の乱 | 後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。 |
1335年 | 中先代の乱 | 最後の得宗・北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉を占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。 |
1336年 | 建武の乱 | 後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏が勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇も吉野に逃れて南北朝時代が始まった。 |
1366年 | 貞治の変 | 室町幕府で権勢を振るった斯波高経・斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。 |
1375年 | 水島の変 | 九州に派遣された今川了俊が、同じ北朝の少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏や大友氏などが離反した。 |
1380年 | 小山氏の乱 | 鎌倉公方・足利氏満と下野守護・小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。 |
1387年 | 小田氏の乱 | 常陸の小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満が小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。 |
1389年 | 土岐康行の乱 | 有力守護の弱体化を図る将軍・足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。 |
1392年 | 明徳の乱 | 一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍・足利義満の挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。 |
1395年 | 田村庄司の乱 | 白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。 |
1399年 | 応永の乱 | 六カ国の守護である大内義弘が将軍・足利義満と対立、鎌倉公方と手を結び、土岐氏・山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。 |
1411年 | 飛騨の乱 | 飛騨国司・姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵、幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。 |
1413年 | 伊集院頼久の乱 | 島津家の後継者争いをきっかけに、当主・島津久豊と対立した重臣の伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。 |
1416年 | 上杉禅秀の乱 | 関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。 |
1422年 | 小栗満重の乱 | 室町幕府と鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東の武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。 |
1423年 | 越後応永の乱 | 室町幕府と鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護・上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。 |
1429年 | 大和永享の乱 | 幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝の越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。 |
1438年 | 永享の乱 | 鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立から、室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。 |
1441年 | 嘉吉の乱 | 三カ国の守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍・足利義教を暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。 |
1443年 | 禁闕の変 | 南朝復興を唱える勢力が御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍に鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。 |
1455年 | 享徳の乱 | 足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。 |
1457年 | 蠣崎蔵人の乱 | 陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。 |
1457年 | 長禄の変 | 赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。 |
1467年 | 応仁の乱 | 畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから、東軍・細川勝元と西軍・山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。 |
1476年 | 長尾景春の乱 | 関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。 |
1479年 | 毛利次郎の乱 | 赤松氏らの支援を得た因幡の国人・毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。 |
1486年 | 江戸城の乱 | 扇谷上杉氏の当主・上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城を占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。 |
1487年 | 長享の乱 | 享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。 |
1487年 | 長享・延徳の乱 | 将軍・足利義尚が自ら軍を率いて近江守護・六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。 |
1489年 | 山名新九郎・小太郎の乱 | 前伯耆守護・山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護・山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。 |
1490年 | 佐竹の乱 | 佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠を攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。 |
1502年 | 伊庭氏の乱 | 長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔・挙兵するが、最終的に鎮圧された。 |
1507年 | 永正の乱 | 越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護・上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いから関東を二分する戦いに発展した。 |
桶狭間度:★★★★★
海道一の弓取りと謳われた今川義元の大軍を、小勢の織田信長が打ち破った戦い。「桶狭間は谷だった」「いや山だった」「奇襲だった」「いや正面攻撃だった」など、その実態については今なお盛んに議論される。また、勝利した織田信長がこれをきっかけに勢力を拡大し、のちには天下人となっていったことから、「小大名が敵の大軍を破り、その後の飛躍に繋げた戦い」のことを「〇〇の桶狭間」と言うようになった。
桶狭間度:★☆☆☆☆
父親を殺された伊達政宗が、その弔い合戦として畠山氏の二本松城を攻めたところ、相手方の救援として駆けつけた佐竹氏・蘆名氏などの連合軍と戦いになった。兵力差四倍以上の相手に正面決戦を強いられることとなった伊達方はほぼ敗勢だったが、勝利目前の佐竹軍が急に撤退したため尻すぼみに合戦は終結した。壊滅必至だった伊達軍がそれを免れたという点では「勝ちに等しい引き分け」と見ることもできる。その後、巻き返した伊達政宗は二本松城を落とし、蘆名氏を滅ぼして南奥州に覇を唱えることとなる。
桶狭間度:★★★★☆
泥沼の争いを繰り広げていた古河公方・山内上杉・扇谷上杉らの関東勢が、勢力を急伸させた北条氏を恐れて連合し、北条方の要所・河越城を大軍で包囲した。それに呼応した今川義元も西から挙兵して挟撃の形となり、家督を継いだばかりの北条氏康は早くも絶体絶命の危機を迎えた。しかし手早く今川と和睦した氏康は、大軍に驕った連合軍に夜襲を仕掛けて撃破した。この戦いで古河公方・山内上杉・扇谷上杉はいずれも滅亡・没落し、関東は北条氏を中心として動くようになった。
桶狭間度:★★☆☆☆
甲斐に侵攻した今川の大軍を、武田信玄の父・武田信虎が迎え撃った戦い。荒川沿いの飯田河原を戦場に選んだ信虎は、数で上回る今川軍を地の利を活かして撃退、ひと月後に上条河原で再戦したがそれも打ち破り、敵の大将を討ち取った。一連の戦いにより武威を示した武田信虎は、敵対していた穴山氏などを服属させ、甲斐の統一を成し遂げた。
桶狭間度:★★☆☆☆
北近江の浅井氏は、越前・朝倉氏と南近江・六角氏という大勢力に挟まれ、当時は六角氏に従属する立場だった。父親を隠居させて浅井家の若き当主となった浅井長政は、すぐさま六角氏からの離反を表明した。それに対し、六角氏は当主・六角承禎自らが大軍を率いて攻め寄せたが、浅井長政は半数以下の兵力で迎え撃って勝利した。弱い立場だった浅井氏はこの勝利により戦国大名としての地位を固め、敗れた六角氏はお家騒動などもあり衰退していくことになる。
桶狭間度:★☆☆☆☆
備前の大名・浦上氏の家臣として頭角を現しつつあった宇喜多直家は、毛利氏に従属しながら備前へ進出しようとした備中三村氏の当主・三村家親を、日本史上初となる火縄銃の狙撃により暗殺した。怒れる三村氏は、弔い合戦とばかりに宇喜多方の明善寺城を攻め取ったが、宇喜多直家は素早く奪回し、逆にその救援にやってきた三村氏の大軍を待ち構えて打ち破った。この戦いにより影響力を増した宇喜多直家は、のちに主君に反旗を翻し、戦国大名として独立することになる。
桶狭間度:★★★☆☆
かの毛利元就の初陣。源氏の名門・武田氏の一族で猛将と謳われた武田元繁と、味方の城の救援に向かった毛利・吉川連合軍の戦い。寡兵の連合軍は劣勢を強いられたが、初戦で運良く敵方の武将を討ち取り、それに激怒して自ら前線へ打って出た武田元繁をも討ち死にさせた。この戦いにより、大内氏から独立して勢力を拡大していた武田氏は一転して衰退し、代わって毛利元就が歴史の表舞台に躍り出ることとなった。
桶狭間度:★★★★☆
毛利元就の戦いとしてはこちらのほうが有名だろう。主君・大内義隆に謀反し、大内家内を牛耳った陶晴賢だったが、その隙に離反した毛利元就によって安芸を奪われてしまう。大軍を率いる陶晴賢は要衝・厳島を拠点に安芸奪回を狙うが、毛利元就は嵐に乗じた奇襲でそれを打ち破り、陶晴賢を自害に追い込んだ。この勝利により、毛利元就は逆に大内氏を滅ぼしてその領土を併呑し、中国地方の覇者となっていくのである。
桶狭間度:★★★☆☆
肥前で勢力を拡大していた龍造寺隆信に対し、脅威を覚えた北九州の覇者・大友宗麟は大軍を率いて侵攻、数ヶ月に渡って佐賀城を包囲した。援軍の見込みもないなかで龍造寺軍はよく持ちこたえたものの、ついに大友宗麟は弟の大友親貞に総攻撃を命じる。大友親貞は総攻撃前夜に士気を高めるため酒宴を開いたが、それを見た龍造寺家臣の鍋島直茂はわずかな手勢を率いて夜襲を仕掛けた。油断していた大友軍は総崩れとなり、大友親貞も討ち取られてしまった。その後、和睦に持ちこんだ龍造寺隆信は、大友氏に従属しながら勢力を拡大し、のちに九州三強の一角に名を連ねることになる。
桶狭間度:★★★★☆
島津の当主・島津貴久が亡くなった直後、その隙を突いて隣国の伊東氏が島津領に侵攻した。伊東方が数千の軍であったのに対し、島津の軍勢はその十分の一ほどしかなかったという。だがそれを率いていたのは名将・島津義弘だった。島津軍の頑強な抵抗により、伊東軍はいったん退却して陣を立て直すことになった。しかし、島津義弘から指示を受けていた農民たちが太鼓を鳴らして伏兵を装うと、伊東軍は慌てて陣から飛び出し、そこで待ち伏せていた島津軍に四方から攻められて壊滅、総大将も討ち取られてしまった。窮地を脱した島津氏は、島津四兄弟のもと勢力を拡大し、九州を制覇していくのである。
美少女コンテンツが好きだけど、だからと言って中の人にそこまで興味や関心があるわけではないオタクは多いと思う。私もその1人だ。
同じゲームやアニメを好む方々から「ラジオいいよ」「声優のラジオ聴いてみてよ」と言われることがある。
時間というのは有限だ。オタクとして漫画を読んだりアニメを見ることができる可処分時間には限りがある。
その中で、彼らはラジオを聴き、人に勧めている。つまりそれだけの魅力を持っているわけだ。
ならば聞いてみよう、とオススメされた女性声優のラジオを聴いてみる……が。
その女性声優のラジオだけつまらないのかと思い他のラジオも、男性声優のラジオも聴いてみる。
中には面白いものもある(ひだまりラジオの近所の狂人紹介コーナーなど)が、やはり大多数がつまらなかった。
トークテーマも平凡、送られてくるリスナーからのメールに山もオチも意味もなく、淡々とした番組が進行していく。
「笑いどころはどこだ?」
そう思う内に番組は終了したりする。
マジか、と驚愕するばかり。どこが面白いのかわからない、何が受けているかわからないラジオが多かった。
声優のラジオって一部を除いてつまらないんだな、というのが私の見解である。
私はつまらないと断じたが、声優のラジオなんて多く存在する。無料パートと有料パートに分けられてたりして、金を稼いでいるものだってある。出演した声優がMCを務めるアニメ作品ごとのラジオだって存在している。
つまり、声優ラジオの需要は高くあると言うことだろう。人気もある。面白いパートがなくても受け入れられるというわけだ。
ではなぜ私は声優のラジオを「つまらない」と断じたのだろうか。
私の個人的な話になる。私が初めてラジオを聴きはじめたのは中学生の頃だ。祖父が死に、形見分けとしてもらったSONYのポケットラジオをいじりまわしていた時に聴くようになった。祖父の形見は古く、自動チューニング機能もないためにダイヤルを回して周波数を合わせるタイプだった。
その頃はまだ美少女コンテンツにそこまでハマってなかった。ラジオといえばジョジョ3部の冒頭のイメージが強く、大相撲中継や野球中継ばかりだろうと思っていた。
しかし夜10時ごろにラジオのダイヤルを回していると、ある電波を拾った。
スクールオブロックだった。私が初めてしっかりとラジオ番組として認識したのがそれだった。
そう思った。同年代の中学生や高校生が電話越しにオナニーの話をしてる。まだエロとギャグの区別がついてなくて『セックス』をウンコやチンコと同じくらいオモロワードとして捉えていた私はゲラゲラ笑った。
彼氏を押し入れに匿って3日ほど寿司を与え続けた話なんかもう夜中だったので声を抑えて笑った。
今になって思えば、初めて聴いた回がいわゆる『当たり回』だったのだろう。継続して聴くとそこまでブっ飛んで面白い回は少なかった。どちらかといえば悩める中高生を励ましたりする回が多かった。
「またこれかよ! 励ますなよ! セックスの話をしてくれよ!」
私は最悪のリスナーに成り果てていた。スクールオブロックもいい迷惑だろう。たまたまいつもと違う回から聴き始めたリスナーから「あれを毎回やれ!」と願われているのである。気の毒。
なんとなく面白い番組がないかまたダイヤルを回してみる。すると次にとある芸人のラジオとぶつかった。
『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』である。通称サンドリ。
スクールオブロックを超える下ネタ、芸能ネタ、暴力……中学生の私の心を捕らえて離さなかった。
・足の皮膚をヨーグルトに入れ発酵させ『皮膚エネルギー』を取り出そうとする
・ラグビー日本代表選手を呼び「クソヒゲゴリラ」「畠山クスコ」と名付ける
チンポ、勃起、アナル、ゲロ、包茎、ションベン、言葉狩り……とにかく最高だった。
ゲスナー(サンドリのリスナーのこと)から送られてくるメールも生放送ということもあり、番組の内容を踏まえた暴言妄言が多数届く。それにゲラゲラ笑ってしまった。
ここから『芸人のラジオってすげぇな!』という感情が芽生える。
すると私はオードリーのオールナイトニッポンを片端から聞くようになった。オードリーのオールナイトニッポンはサンドリほど下ネタが多いわけではないが、2人の軽快な掛け合いが聴いてて心地よかった。
特に若林さんのトークで捩れるほど笑い転げた。ドラクエの回とか何度も聴いた。
それからダイアン、三四郎、ハライチ、空気階段、最近だと真空ジェシカのラジオ父ちゃんなど、聴いてて笑えるラジオ番組にどっぷりとハマった。
話が逸れたが、つまりで言うと。私はラジオを聴く際に『笑えるかどうか』を強く求めているのだ。トークを組み立て、自分達の間を取り、盛り上がりを計算して話す芸人のラジオのようなものを求めているのだ。
だから私は声優のラジオを「つまらない」=「腹を抱えて笑うようなシーンがない」と断じたのだろう。
番組を企画する人たちだって馬鹿ではない。「ラジオつまんねーぞ!」とはてな匿名ダイアリーに書いてる私の方がよっぽど馬鹿だ。
あの声優さんを起用して、こういうテイストの番組にして、前半を無料に後半を有料にして、アニメに合わせて、ゲストを呼んで…と。慈善事業ではなく商業として声優さんのラジオを流しているわけだ。
それに「芸人のラジオみたいな笑いどころがなくてつまらない!」と宣う私は客ではない。ターゲット層から外れているのだ。そんな顧客ではない私が文句を言うのはお門違いだ。
声優のラジオが多くあり、webラジオもたくさんある。長年続いているものもある。それだけ多くの人から求められているし、商業的にも利が出ているわけだ。
声優さんのラジオをつまらないと断じる視野狭窄状態な私の人間性こそがつまらないのだ。
テレビでもニュースやバラエティ、アニメ、ドラマがあるように、需要や客層に応じてさまざまな番組があるのを理解してない私こそが愚者であるのだ。
そうだ俺はカスだ……。
オードリーのオールナイトニッポン、オススメですよ。
切れたから続き
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一等輸送艦
滅・昇龍拳
スペースジェットモグラ
楠正成 菊水
地底王国 デロ
グレーの金魚
山と谷を越えて
テレンス ダービー
吸血エイリアン
良栄丸事件
Ki-83 速度
Ta152 高度
しなちく 割り箸
屋根裏を整理してたら古いパソコン(といっても2006年頃)が出てきたのでブラウザの検索履歴をサルベージしてみた。
当時自分が何にハマっていたのか思い出されていろいろ懐かしい…
パラ様 生え際
ホケマクイ
ブッチーン 灯花
ぶっこぉすぞー
るくしおん しびれるぜ、鋼の
ティプトリー・ショック
「デストロイがいいね」と君が言ったから六月二十四日はUFOの日
わたるが死んじゃう
琵琶湖タワー
猫いらず 口の周り 光る
尸条書
立方晶窒化炭素
ドーマン法
ひだまりスケッホ
空飛ぶ冷し中華
セーラー戦士が全員ブルマーだったら、アニメ史を変えていたと思うね
34歳児
実はまだ2階に
アリオク
緑はいらない子
そうです。あのコが僕の畏敬する天使様なのです
おかしとか食べる
T-34が倒せない
さあ牛だ
セノバイト
omegaの視界
ぽこにゃん
だぞなもし
倒福マーク
ボッキアウト
フムン
ユープケッチャ
目なき顔のジールバ
やったー+1 シヴィライゼーション
ルロス ロルス
玉音盤奪取
ハレとケ
もえたん 06話
路肩のピクニック
白楽電の詩
ガッシボカ
聖なんとか女学園
クートニアン
お脱ぎなさい
グンニョキ
強さ激しく変動
南斗聖拳108派一覧
みなぎる力がみなぎるぜ
力こそパワー
重い生理が来たみたい
4ひえた
ムーミンパパ海へいく
チャンパーノウン定数
見知らぬ国のデイトリッパー
紫暗号
いざり
比留間 京之介
この娘、最後死んじゃうんだよね
旧神なんていないよ
棒シムーン
S級だけどめどいんでB
オレモダビール
"オナホさん"
アントノフ 積載量
黄金の真昼
Let's Beginning to Look Alot Like Fishmen
けいせい出版
共生るんです
ガネッコ
莫迦め 死んだわ
スコープドッグ 装甲厚
かみそり半蔵地獄攻め
クンデラ 不滅
如意棒 重さ
ちびくろサンボ 枚数
俺のケツをなめろ
大胖女人
大司令症候群
gunyoki
グンニョキ
おしつおされつ
どうしてエレクチオンしないのよぉぉぉぉ
こぐにっしょん
虹作戦
燕山夜話
ドラ28
中国人の部屋
エロ イッカイヅツ
菊屋橋101号
システムショック
ゲバルト・ローザ
完全黙秘
唸るコカトリス亭
みずずちん
なんてこった 死の宣告
アンダーダーク
ロンゴ・ロンゴ
ゲオルギウス
毒薬仁
まじかるぴゅあソング
だいす☆くえすと
つめたく冷えた月
フンカーリート
Shang-Du
水エタノール噴射
願望機
舟に棲む
rom ヘッダ 削る
長靴いっぱい食べたいよ
陣形技 閃き
ハリマオ
ぺちんぺちん
カタリナ おそるべし
野月まひる
マライア 多摩
素敵医師
相沢 祐一 最強
みなみおねいさん
あまぞn
夢のクレヨン王国 SONGBOX
振武刀
クリントワン
ロイさーん
レムコレクション
カードゲーム テケリ・リ
グレゴール・ザザ虫
きみはホエホエむすめ
東方夢終劇
ファミソン8BIT
生きなさいキキ
dwarvish mattock
蟹工船 光線
パラシュート部隊 突然に
ゴクイリイミオオイ
アウト・オブ・眼中
モルディギアン
納骨堂の神
ヴェクナ
パラシュート部隊 突然に
情無用ファイア
末期 少女病
唸るコカトリス亭
アカディネの泉
ショスタコーヴィ
ジャック ケッチャム
シャノン 情報理論
ガロアの郡論
ルルスの術
ラヴォアジエ
宇津田さんの死
レムコレクション
佐保姫 信太の森
ころがる石のような俺の生き様
はしれぐずども
紫暗号
白い神兵
火のバプテスマ
清家理論
サールクラフト
lycanthropy
某研究者
アナ姫さま おげんきですか
オナホ 2番目
宇宙麻雀
電戦トリオ
乳ロマンサー
私は痛みだ
くやしい、でも ビルケナウ
グレゴール・ザザ虫
新藤幸司 CV
Chante キミの歌がとどいたら 先生
開路に時限のある リレー
Drizzt
ちんぽ生やして出直して来い
男根 恐ろしいまでに
コロラド撃ち
HEARTWORK
誠ぉっ そこにいるんでしょ
ずっとオレのターン
ぼくはぼくであること
おれがあいつで
アラバハキ
幻影都市
わたしこそ しんの ゆうしゃだ
クトゥル スペースジョッキー
フラッシャー付自転車
神よりも弱いただのオセロ
おがわみめい
水無神知宏
CARNIVAL 小説
じゃこつばばあ
生と死の境界 安置
うぉ、まぶしっ
ゼロで割る
ココロン
有尾人 フィリピン
子供達を責めないで
圧力計 連成計 BV
エドガー ダケェ
おびんずる
にこにこ商事
ひろ
鎌倉殿の13人で畠山殿が「腕相撲はしない」って言った理由を考えてるんだけど
①自分と和田殿のどちらが勝つかわからなくて、そんな曖昧なものに自分の生き死にを任せたくない
②和田殿に勝ち目があると思っていて、腕相撲に応じて負ければそれを口実にこの戦をやめられると分かっていた。だが、負けて生き延びるより誇りある戦を選んだ
③自分に勝ち目があると思っていて、腕相撲勝負に応じて自分が勝って和田殿に諦めをつけさせることもできるし、わざと負けてこの戦をやめることもできた。けれど、おそらくはそんな複雑なことは考えてなくて本気で真剣に腕相撲を挑んでくるであろう和田殿と、そんなめんどくさいこと考えながら最後の腕相撲なんかしたくないし、もう戦で死ぬと決めた決心が揺らぐから、腕相撲には応じなかった。
他にもいろいろ解釈はあるとおもうんだけど、自分だったら③がいいかなあ。
めちゃくちゃいろいろ考えられて、いい脚本だったなあ。
13日午後1時55分頃、東京都千代田区永田町の衆院第2議員会館の1階ロビーで、70歳代の女性が突然、持ってきたカミソリで自らの左腕を切った。女性は救急搬送されたが軽傷とみられる。
このへんに感化されたんかな?
天皇の謝罪もむなしく皇太子が日本を立ち去ったことを知り、死を以って詫びるとし京都府庁の前で剃刀で喉を突いて自殺し、後に「房州の烈女」と呼ばれた畠山勇子のような女性も出現した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6
0002 おさかなくわえた名無しさん 2021/05/07 06:26:27
ヒリとは、文字通りガキをヒリだしただけで国や少子化対策に貢献していると思い込み、恥じらいを捨て、ガキをだしに傍若無人で非常識な振る舞いをする頭の悪い自己中心的な子持ち女のこと。
ヘラヘラして聖母に女神気取りのニヤニヤ系ヒリと、無愛想で棒読み注意の仏頂面ヒリの2パターンが多い。
汁とはヒリの男バージョン。
ダニとはヒリ汁に躾をされていない+少子化を理由に甘やかされ、国の宝としてかしずわれることが多い為に
傍若無人で我儘勝手な振る舞いをする何の理性のない畜生以下の糞ガキの事。
赤ダニとは自我が芽生えていないすぐ喚き散らす人間未満の赤ん坊のこと。上記のダニの前段階。
特にヒリ汁に盾や免罪符に使われる多くどこにでも連れまわされることが多い。ダニーカーで突撃や無理難題を要求する際の口実に利用される。
ヒリには周りに愛想よくすることを強いるための道具として利用されることが多い。
ダニーカーはベビーカーの通称。ダニを運ぶために使われるためそう呼ばれる。
ヒリ汁の最強兵器で、突撃や場所の占拠に使われることが多い。特にヒリが使用しており並列走行が多く人の歩行の阻害になっている。
他人に持ち運びさせるなど親切の強要に使うことが多く、手助けしても十中八九礼言わずである。
ダニンプはパコってボテっただけなのに、国の宝を抱えていると思い込み傲岸不遜な振る舞いをする妊婦のこと。
ダニをダシに傍若無人な振る舞いをするヒリの前段階。 通称ニンプリンセス
道路族は文字通り公共の場である車道を占拠し通行の妨害や、騒音を撒き散らしたりするなど傍若無人な振る舞いをするダニヒリ汁の集団のこと
これらのポイントは
「世の中の全ての子持ちに当てはまるわけではない」
と言うこと
『 酷 く 目 に 付 く 様 に な っ た 』
0003 おさかなくわえた名無しさん 2021/05/07 06:26:51
これだけは確実に言える
・年金や税金の仕組みを知らないでこなしは年金貰うなと喚き散らす
・躾と虐待の線引きが出来ないので手を挙げただけで虐待だと喚く、もしくは引っ込みがつかずに一線を超えてしまう
・堪え性が無いので少しの我慢すらできない
・かつて日本国内を恐怖に陥れたテロリスト団体オウム真理教の教祖(麻原彰晃・死刑執行済み)は妻子持ちであることを知らない
・「母は偉大」と言いつつ、2006年に起きた秋田児童連続殺人犯の畠山容疑者のような母親がいることは認めない
・人には徹底的に厳しく自分にはどこまでも甘い
・他人に迷惑をかけることに対しては無頓着だが、自分にとって都合の悪いことや迷惑になることには過敏に反応する
・社会のルールやマナーに順応しようとせず自己中心的な主張をし反社会的な行動をとる
・子供は泣くのが仕事と都合のいいような弁解をし、親の仕事は果たさない
・子供が親を選べないように、親だって子供を選べない!って意味不明な理屈をこねる
・好きでパコってボテっただけなのに、少子化に貢献してると威張り散らす
0004 おさかなくわえた名無しさん 2021/05/07 06:27:14
・他人任せなくせに要求が高い上に多く、気に入らないことがあれば文句を言う
・自分のダニのことを未来の宝!や未来の納税者!と言って憚らない
・そのくせ今の納税者には感謝のかけらもなく迷惑をかけても平気
・個性や多様性の理解を求めるくせに、「子供嫌い」という個性は認めない
・ダニに対する愛情やママアピールは母性本能ではなく、単なる自己満足、自己陶酔であることに気づいていない
・ダニの奇声は親でもきつい!とか言うくせに他人が迷惑がると不寛容!と喚き散らす
・24時間ダニに付き添うなんて無理!というくせに教員には365日24時間休むことを許さないと抜かす
・他人の落ち度は過剰に責め立てるくせに、自分に落ち度がある場合は言い訳にヒリ屈をこね自己擁護し挙句の果てには責任転嫁する。
youtubeでラッパーのダースレイダーと芸人のプチ鹿島がやってる「ヒルカラナンデス」って番組とか、選挙取材でたびたび話題になるフリーライターの畠山理仁の影響だよ。
ちなみに筆者こと増田の選挙へのスタンスは前回からようやく選挙公報を見るようになった程度で、演説にわざわざ足を運ぶのは初めてだよ。
選挙区は岐阜5区(多治見市、土岐市、恵那市、中津川市)で、県南東部の東濃地方と呼ばれるところ。
南西部の西濃地方(県庁所在地の岐阜市はここ)に次ぐ人口密集地。
陶器、焼き物が伝統産業(アニメ「やくも」まったく話題にならなかったね)で、西部は愛知県、東部は長野県の文化が混ざる感じの地域。
広域名古屋圏のベッドタウンの印象が強く、若干トヨタ経済圏にも属し、近年は中津川市のリニア駅建設も話題になりがち。
候補者は以下の通り。
古屋圭司(68) 現職 自民(公明推薦) 党政調会長代行(ちな総裁選で高市早苗の選対委員長) 12年に拉致問題・防災の各担当大臣
今井瑠々(25) 新人 立民 党岐阜5区総支部長 政治経験なし
この4人についてのイベントを回って感想を書きたかったのだが、結果的にメディアが本命とみる前2人のイベントしか行けなかった。
山田候補についてはツイッターやってなくて演説会とかの情報もつかめず。増田の力不足のせいだよ、ごめんね。
ついでにいうと増田はただのヒマなし会社員なので奇跡的に連休とれたここ2日間しか行ってないよ。ごめんね。
10月29日(金)
・参加者は大半がスーツまたは作業着を着た男性、一部女性。年齢層は下40上80ぐらいで、分布はやや上より。100名ぐらい?
・みんな近い業界でそろって来ているのか、関係者や参加者同士であいさつを交わす場面多し。
・選対本部長、多治見市長、自民市議、公明市議らがあいさつ。公明は女性。演説者の名簿とか掲示がなかったので覚えてないよ。
誰だったか、今井候補をさして「25歳に何ができる」的な発言、拍手起こってゲンナリ。
でも「性別は関係ないですが」とはわざわざ言いつつ「女に何が…」とは言わなかったあたり思ったよりまともな印象。
・古屋候補本人は他選挙区へ応援演説のためリモートで参加。その場にいないからかしゃべりが早口かつ一方的でよくわからず。
党の公約を高市さんと一緒に、他総裁候補みんなの思いを盛り込んで作ったって言ってたかな。でもそれ高市さんの話と矛盾してない?
・参加者は年配の男性、次いで年配の女性多め。とはいえ30代くらいもチラホラ見える感じ。200名弱?
・選挙スタッフは明らかに若い人多めで、どっちかといえば文化祭のようなノリを感じた。
・山下八州夫・選対本部長(元参議)、赤松広隆・元衆議、連合岐阜副本部長、今井候補と同級生の選挙スタッフ、高木貴行・岐阜県議(選対)が演説。
赤松さんは若者を応援するのはいいが関係ない話長すぎ。同級生は緊張しつつもラフな話と本気の語りが混ざっていて虚実の被膜!と思った。
高木県議は今井氏立候補のきっかけを作った張本人らしく、現職有利の情勢を見て悲壮感を漂わせつつも泣きながら大熱弁をふるう名役者ではあったが、
でもこれあなたの選挙じゃないんですよ感はどうしてもあった。長いよ。
・今井候補本人は非常に演説がうまく、立民の労働政策、育児・若者政策の掲げる理想と自らの地域への思いを冷静かつ熱意をもって話していた。
先の同級生を指して「~さん」と呼んでいたのが途中「~ちゃん」に変わることでまたしても虚実の被膜が揺らいだ。
参加者の年齢層を考えると妥当だが、比較的年齢の近い増田からすると「若者」「若輩者」と自ら連呼しすぎて卑下しているような印象を受けた。
10月30日(土)
・ここは増田が時間を間違えてて30分遅れで到着した結果やってなかったよ。これでも高速乗って急いだよ。ごめんね
・小関候補は元土岐市議なので最終日は土岐市内でちゃんと集会やってほしかったなと思うよ。
・前日の集会と似た感じの人たちが挨拶を交わしている。50名くらい?
・恵那市長が応援演説。地域のことを忘れない人だと太鼓判。あと恵那市議が複数
・本人の演説は堂々たる横綱相撲といった趣き。政調会長代行として高市さんとがんばりますとか、
リニア駅で地域に雇用とか、岐阜大学と名古屋大学が合体したので東濃地方に大学院作って地域に雇用とか。
中枢にいることのアピールや政策の具体性はさすがベテラン現職という印象だが、政策が地域に寄りすぎて国政選挙から離れている気がする。
あと物事を変えたり批判したりすることには意味がない(それよりも今の生活を守る)って言ってたのはわからなくもないけど残念。変化は対立軸ではないと思うよ。
・選挙スタッフと一部近所の方々のみ。全部で20名くらい?あとカメラ複数
・山下選対本部長、候補者の父、高木県議が演説。山下氏と父は簡潔で内容もよかったが、高木県議はここでも熱意のあまり話が長い。
今井候補は疲れからか下向いたり余所見したりする場面があって、カメラも入ってるのに選対のケアやフォロー体制が気になった。
・今井候補は最後の最後でも自分の演説になると内容も発声もうまく、このあたりの周到さは現職よりもすごい。
でも「いまだかつてこの地域でここまで若者が参加した選挙はあったか」というのはちょっと買いかぶりな気がした。
今政治参加する中高年もかつては若者だったわけだし、そこはちょっと内輪で盛り上がった感があった(確かに身内ばかりの状況だったけど)。
全体の感想
・2世議員の現職がどうにも有利な構図。これは建築・土木系が発展を支えた昭和からの変わらなさを感じるが、
でも今でもその仕事をしている人たちは各地方に存在する以上一理はあるわけで、一概に切り捨てられるものでもないよなあ。
・若手が大規模政党から公認を得て出馬しようとすると、どうしても支える側は元議員とか先輩議員(地方含め)になってしまう。
例えば25歳の今井候補の選対本部長である山下氏はは79歳。これだけ年齢差があるといくら山下氏ががんばっても今井候補は顎で使うの無理じゃない?
25歳なんて一般企業ならようやく30代の先輩と対等に話せるようになるくらいじゃないか。若い人が出馬するのは「厳しいお声」以外にもこういうハードルあるよなあと思う。
その点で人を使い慣れているしそれが普通に見える年配の現職はますます有利になっていくの、本当に難しいな。
・アメリカのような選挙コンサルタントが一般的になるか、本当に若者たちだけで団結する必要がある気がするが、
やっぱりそれだと地盤看板なしの戦いだし、若者は国会議員1期務める間に(若者たちから見て)そんなに若者でもなくなってしまうしなあ。
・どの候補も結局演説に集まるのは高齢者が多い。そりゃあ「若者」は朝から夕方まで仕事や学校に行ってるからな。
これでは候補者の年齢関係なく、若者政策に舵を切るのが難しいと思う。見えてないし、見えようがないからだ。
選挙に投票しない人を重視するインセンティブの働く仕組みを作れればよいのだが、それこそ難しいし、現行の制度で議員になった人はそれを支持するはずがないのでなあ。
・がんばろう三唱は通算3回やったけど、「テレビで見たやつだ!」って興奮した。
ようこそようこそって言われてこんなに一体感を感じるの、増田は奇跡的にクラスの陽キャグループに入ったときか教会の礼拝行ったとき以来だよ。
選挙戦そのものが行くと楽しく興味深いものであると同時に、使いようによっては非常に危険なものだなと感じたよ。
以上レポっす。
・前年度借金28で圧倒的最下位だったにも拘わらず、2位巨人と2ゲーム差の3位
・楽天から移籍した近藤さん(防1.02)と今野さん(防4.15)の使い勝手がヤバい
・巨人から移籍した田口さんのQS率(71.43%)が異常。とうとう神宮でも好投しはじめる。ツイッターではファンと交流もし燕ファンを虜にする。無事、スワローズ名誉生え抜きに
・奥川さんが1試合毎に成長してヤバい(5月の防御率2.25、被打率.233、whip1.08)
・古田臨時コーチらのおかげで、捕手中村さん・古賀さんのリード・フィールディングが覚醒
・オスナ・ミンゴ・サイスニード、まだまだ本調子じゃないが十分役に立っている。夏場にアジャストして調子を上げていく事が約束されている
・山田村上以外、全ポジションで競争があり試合を重ねながら成長している
・エース金久保さん(防1.69)、阪神佐藤との熱い新人王対決
・勝ち継投が盤石。近藤さん(防1.02)・マクガフ(防1.42)・清水昇さん(防2.60)・石山さん
・ビハインドや敗戦処理も今野さん・坂本さん・杉山さん・吉田大喜さんで大崩れしなさそう
・サニ・ブラウンに勝った男に勝った男並木さん(くりぃむ上田晋也似)、脚が早すぎてファインプレーや好走塁連発
・元山さん、才能がありそう
・結婚した松本友さん、OPS.983で代打の切り札へ。しかも足が速いので代走としても使えるユーティリティっぷり
・二軍投手コーチがお花ニキ・小野寺さんなので、木澤・山野・大西がいつ覚醒してもおかしくない
・ベンチの雰囲気がいい(ミンゴ卵かけジャパニーズパワー事件、オスナベルト破壊打法事件、村上先輩事件)
吉良姓を受け継いだ吉良上野介の子孫はいない。(後に別家が吉良の名を継いだ形で、子孫の方は上杉家や畠山家等におられる)
三河地方に吉良の領地があったのは元禄16年(1703年)までで、それ以降は吉良と三河地方との関係は無い。
近年「実は吉良上野介は地元では名君」っていう話をよく聞くようになった。
「吉良上野介は名君」って言う説を知っている人も多いだろう。
で、その「吉良の地元ってどこだ?」って話になると
案外、知ってる人が少なかったり誤解している人が多かったりすると思う。
恥ずかしながら私もそうで、
三河地方っていうのは知っていたのだけれど
この辺には歴史的な経緯があるそうで、
その後、これら土地は、あちこちの藩やら寺社、旗本の領地なんかに吸収されて
(こういう状態で「吉良の地元」という意識が受け継がれてきたというのには少し無理があるような)
その後、昭和三十年に 横須賀村と吉田町が合併して吉良町が生まれる。
(余談だが吉良には雲母の意があったという)
歴史を知っている人でも、吉良上野介は大昔の隣の殿様という扱いで
古くからの西尾市の人に「吉良上野介の地元」と言われると変な顔をされたわけだ。
んで、もう少し突っ込んで話を聞いてみると、
西尾藩の領民が、吉良が作った堤防により水害が発生して苦しんでいたので
こういう逸話があるぐらいなんで旧西尾藩の地域の人にとっては、
「吉良上野介は地元では名君とされている」と言われるのに抵抗があるみたい。
吉良上野介を地域の名君として賞賛する教育を西尾市の全域で行っているとのこと。
それで地元とは言えない所の子供達にまで「地元の名君」と教えられているそうな。
(吉良の堤防による洪水で、エライ目に遭ってた所だったりしたら洒落にならんな)
調べてみると、
吉良上野介が黄金堤を作って地域の開発に役立ったのかからして怪しいという。
残された絵図面なんかをみると、この地域にあった鎧が淵の新田開発で
近年になって「吉良つながり」で、吉良上野介が担ぎ出されてきたっぽい。
でも、そういう都合で「新しい歴史」をつくっちゃて
堤防などの治水等で名代官と言われる鳥山牛之助(さきほどでた新田開発のトラブルの調停もしている)
なんかの話が、わりとしっかり記録や文献をたどれるのに殆ど注目されなくて、
「らしい」という話しかない吉良上野介だけが「地元の名君」って言われて教育現場で広められている状況は、
なんだかなぁって思ったりする。
吉良上野介が名君であったという話に「吉良の赤馬」という郷土玩具をセットにする人が多い。
「吉良上野介義央は治水事業に心を寄せ、領内の水害を防ぐため、黄金堤を築き、自ら愛馬赤馬に乗り巡視にあたりました。その姿は威風堂々とし、愛馬も大変立派であったので、領民はこれを称えいつしか赤馬と呼ぶようになりました。領内の村に住んでいた村人が江戸・天保年間に子どもの玩具として作ったのが始まりです」
とある。
いわゆる赤穂浪士の討ち入りが元禄15年末(1703年の1月)。
三河の領地を取り上げられる裁定が下ったのが元禄16年(1703年)になる。
「領内の村に住んでいた村人」と言っても、
その時には吉良領は跡形もなくなっている。
昔、吉良の領民だった人も既に死に絶えた後のはず。
実際の記録では吉良上野介が三河の領地を訪れたのは生涯一回だけだったらしい。
直に吉良上野介を見た村人が、後に玩具を作り出したとかいう話なら、
まだなんとなくわかる気がするのだけれど、
百年以上前に一回だけ訪れた殿様の馬を、
わざわざ玩具にしようというのいうのは変だよなぁ。
天保年間には別の殿様が治めている状況なのに。
調べると、さらに興味深い話が出てきて、
この時点では「白馬」なのね。
もし本当に赤馬と吉良上野介の話が元になっていたのなら、
突然、殿様に白馬ってのは出てこないよなぁ
「自ら愛馬赤馬に乗り巡視にあたった」という話自体が後から出た感じがする。
もちろん、こういうのは商品を開発したり売る人が、
色々面白おかしく「いわれ」を主張するのは別に良いと思うのだが、
このエントリーは「吉良上野介が地元では名君」という説が「ちょっと変」っていう話で、
だからといって、これだけでは「名君ではない」とまで言えない。
(西尾藩の領民に洪水被害を出した伝承とかは、ちょっとふれたが)
「名君だと言うならもその根拠資料を出せ」と言っている所もあるそうな。
「吉良上野介が名君だった」という人は、きちんとした資料を出してやれば良いと思うよ。
それを元にして、地域教育とかを書き直していく必要があるんじゃないのかな。
少なくとも教育委員会とか自治体が、根拠に疑問が持たれる話を持ち出して
へんな形で「地元の名君」を作り出そうとするような状態は良くないなぁと。
もっとも「実は、吉良が名君という話は怪しい」というのは、
中々メディアとかでは取り上げにくい話だと思う。
実は「正義の味方だった」と言うのは受けるだろうが
例えば「イメージ通りの悪い人でした」と言っても、
そこには話題性も何も無いわけだ。
この点は、なかなか興味深くて、
必ずしも同じように拡散するわけでは無くて、
このまま誰も異議を唱えないまま残ってしまうんじゃ無かろうか。
とか思ってたら、wikiとかにもわりと詳しく書いてあったわ。
このあいだ畠山選手がな、わざわざ味スタのFC東京の試合前ゲストとして来てくれて「FC東京、サッカー関係者、ファンのみなさん味スタを開けてくれてありがとう、ラグビーに使わせてくれてありがとう」というようなことを言ってくれたんだよ。
なぜならFC東京(あと東京ヴェルディも)はラグビーワールドカップの開催期間だけでなくその前後含めて合計3ヶ月の間(11月まで)ホームの味スタを使えなくなる。それも事後承諾でFC東京にはロクに調整も相談もなく決められたというクソ対応でな。結局そのあいだFC東京は北関東から九州まで8戦連続でアウェーロードだ。しかも今年は初の優勝争いまでやってるような状況でだ。
だから気を遣ってわざわざサッカーの試合に挨拶にまで来てくれたわけだ、畠山選手は。あの振る舞いにはまさに品位や情熱、そんで他競技に対しての尊重があった。それに比べたらあんたには口だけの薄っぺらさしか感じないわ。畠山選手の気遣いや行動に傷をつけるような一文だよ最後のは。偉そうに『ラグビーをラグビーたらしめるキーワードは「品位・情熱・結束・規律・尊重」』とか書いた次の行でな。情けない。