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はてなキーワード: 天下人とは

2023-05-30

松本人志っていつからこんなカリスマになったんだっけ?

1990年代感覚だとダウンタウンあくまウンナンとんねるずと並ぶ感じだったよな。

内村石橋と比べて松本だけ飛び抜けてすごかったとか人気あったとかそんな印象はぜんぜんないんだが。

もちろん当時はBIG3紳助がそれ以上の存在感で居座ってたし。

2000年代なんかぜんぜんパッとしてなかったイメージだけどな。

なんかビートたけしを目指して映画をつくりはじめて大コケしたり。

からナイナイとかロンブーとか出てきて「世代交代していくなあ」と思ったり。

ダウンタウン冠番組が減って、めちゃイケとかのほうがぜんぜん勢いあったし。

なにより島田紳助が全盛期を迎えて芸能界を牛耳ってたしな。

それがいつのまにか「若手はみんな松本に憧れてる」「お笑いの神」みたいな扱いになっている。

いつからだ?

M-1審査員になったときか?

それとも島田紳助引退したとき

紳助引退してM-1の顔を松本が引き継いだときに「天下人」の禅譲が行われた感じはするな。

あれが2011年のことか。

2010年代にもなるとBIG3がさすがに衰えを見せはじめたし、

ライバルウンナンとんねるずも勢いを失って、

松本お笑い界のトップに押し出されていった、という格好になるのか。

吉本」という括りで見ると、番頭格だった紳助引退して松本が引き継いで、

そうしたら上に残ってるのは権威とかぜんぜん興味ない明石家さんまだけだもんな。

タモリ・たけし・ウンナンとんねるずはいずれも非吉本だし。

から来る若手はみんなM-1を目指してるから、その代表者松本はどんどん権威が上がっていく。

うーん、じゃあ結局は島田紳助のせいってことか。

2023-02-08

さまざまな桶狭間

桶狭間の戦い

桶狭間度:★★★★★

海道一の弓取りと謳われた今川義元大軍を、小勢の織田信長が打ち破った戦い。「桶狭間は谷だった」「いや山だった」「奇襲だった」「いや正面攻撃だった」など、その実態については今なお盛んに議論される。また、勝利した織田信長がこれをきっかけに勢力を拡大し、のちには天下人となっていったこから、「小大名が敵の大軍を破り、その後の飛躍に繋げた戦い」のことを「〇〇の桶狭間」と言うようになった。

奥州桶狭間人取橋の戦い

桶狭間度:★☆☆☆☆

父親を殺された伊達政宗が、その弔い合戦として畠山氏の二本松城を攻めたところ、相手方の救援として駆けつけた佐竹氏・蘆名氏などの連合軍と戦いになった。兵力差四倍以上の相手に正面決戦を強いられることとなった伊達方はほぼ敗勢だったが、勝利目前の佐竹軍が急に撤退したため尻すぼみに合戦終結した。壊滅必至だった伊達軍がそれを免れたという点では「勝ちに等しい引き分け」と見ることもできる。その後、巻き返した伊達政宗二本松城を落とし、蘆名氏を滅ぼして南奥州覇を唱えることとなる。

関東桶狭間河越夜戦

桶狭間度:★★★★☆

泥沼の争いを繰り広げていた古河公方山内上杉・扇谷上杉らの関東勢が、勢力を急伸させた北条氏を恐れて連合し、北条方の要所・河越城大軍で包囲した。それに呼応した今川義元も西から挙兵して挟撃の形となり、家督を継いだばかりの北条氏康は早くも絶体絶命の危機を迎えた。しかし手早く今川と和睦した氏康は、大軍に驕った連合軍に夜襲を仕掛けて撃破した。この戦いで古河公方山内上杉・扇谷上はいずれも滅亡・没落し、関東北条氏を中心として動くようになった。

甲斐桶狭間飯田河原の戦い

桶狭間度:★★☆☆☆

甲斐に侵攻した今川大軍を、武田信玄の父・武田信虎が迎え撃った戦い。荒川沿いの飯田河原戦場に選んだ信虎は、数で上回る今川軍を地の利を活かして撃退、ひと月後に上条河原で再戦したがそれも打ち破り、敵の大将を討ち取った。一連の戦いにより武威を示した武田信虎は、敵対していた穴山氏などを服属させ、甲斐統一を成し遂げた。

近江桶狭間野良田の戦い

桶狭間度:★★☆☆☆

北近江浅井氏は、越前朝倉氏と南近江六角氏という大勢力に挟まれ、当時は六角氏に従属する立場だった。父親隠居させて浅井家の若き当主となった浅井長政は、すぐさま六角からの離反を表明した。それに対し、六角氏は当主六角承禎自らが大軍を率いて攻め寄せたが、浅井長政は半数以下の兵力で迎え撃って勝利した。弱い立場だった浅井氏はこの勝利により戦国大名としての地位を固め、敗れた六角氏はお家騒動などもあり衰退していくことになる。

備前桶狭間」明善寺合戦

桶狭間度:★☆☆☆☆

備前大名浦上氏の家臣として頭角を現しつつあった宇喜多直家は、毛利氏従属しながら備前進出しようとした備中三村氏の当主三村家親を、日本史上初となる火縄銃狙撃により暗殺した。怒れる三村氏は、弔い合戦とばかりに宇喜多方の明善寺城を攻め取ったが、宇喜多直家は素早く奪回し、逆にその救援にやってきた三村氏の大軍を待ち構えて打ち破った。この戦いにより影響力を増した宇喜多直家は、のちに主君反旗を翻し、戦国大名として独立することになる。

西国桶狭間有田中井手の戦い

桶狭間度:★★★☆☆

かの毛利元就の初陣。源氏の名門・武田氏一族で猛将と謳われた武田元繁と、味方の城の救援に向かった毛利吉川連合軍の戦い。寡兵連合軍は劣勢を強いられたが、初戦で運良く敵方武将を討ち取り、それに激怒して自ら前線へ打って出た武田元繁をも討ち死にさせた。この戦いにより、大内氏から独立して勢力を拡大していた武田氏は一転して衰退し、代わって毛利元就歴史の表舞台に躍り出ることとなった。

「海の桶狭間厳島の戦い

桶狭間度:★★★★☆

毛利元就の戦いとしてはこちらのほうが有名だろう。主君大内義隆に謀反し、大内家内を牛耳った陶晴賢だったが、その隙に離反した毛利元就によって安芸を奪われてしまう。大軍を率いる陶晴賢要衝厳島拠点安芸奪回を狙うが、毛利元就は嵐に乗じた奇襲でそれを打ち破り、陶晴賢自害に追い込んだ。この勝利により、毛利元就は逆に大内氏を滅ぼしてその領土併呑し、中国地方覇者となっていくのである

肥前桶狭間今山の戦い

桶狭間度:★★★☆☆

肥前勢力を拡大していた龍造寺隆信に対し、脅威を覚えた北九州覇者大友宗麟大軍を率いて侵攻、数ヶ月に渡って佐賀城を包囲した。援軍の見込みもないなかで龍造寺軍はよく持ちこたえたものの、ついに大友宗麟は弟の大友親貞に総攻撃を命じる。大友親貞は総攻撃前夜に士気を高めるため酒宴を開いたが、それを見た龍造寺家臣の鍋島直茂わずかな手勢を率いて夜襲を仕掛けた。油断していた大友軍は総崩れとなり、大友親貞も討ち取られてしまった。その後、和睦に持ちこんだ龍造寺隆信は、大友氏に従属しながら勢力を拡大し、のちに九州三強の一角に名を連ねることになる。

九州桶狭間木崎原の戦い

桶狭間度:★★★★☆

島津当主島津貴久が亡くなった直後、その隙を突いて隣国伊東氏島津領に侵攻した。伊東方が数千の軍であったのに対し、島津軍勢はその十分の一ほどしかなかったという。だがそれを率いていたのは名将・島津義弘だった。島津軍の頑強な抵抗により、伊東はいったん退却して陣を立て直すことになった。しかし、島津義弘から指示を受けていた農民たちが太鼓を鳴らして伏兵を装うと、伊東軍は慌てて陣から飛び出し、そこで待ち伏せていた島津軍に四方から攻められて壊滅、総大将も討ち取られてしまった。窮地を脱した島津氏は、島津兄弟のもと勢力を拡大し、九州を制覇していくのである

2023-01-12

徳川家康だけどなんか質問ある?

66歳にして16人目の子どもである市姫(いちひめ)をもうけたけど質問ある?

滋養強壮に良い食べ物とか知ってるよ

松潤みたいないい男でモテたの? 瀬名有村架純みたいなカワイちゃん

顔は北大路欣也なの?松潤なの?それとも西田敏行

顔はノッブほど精悍じゃないけど家臣や女中たちからは好かれてたよ

瀬名姫はツンツンしてたけどワイに会うときは晴れ着を用意するとかかわいげがあったな

今でいうツンデレじゃな

千代貴様も転生したのか・・・

近頃ときたら気軽に女にされたり、転生させられたりするから困る

人間五十年、化天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり

まさに幻のようなもんよな

ノッブ殿も転生されたのか!ご壮健そうで何よりでござる。

こちらの世界も悪くのうござるな

次期iPhoneのあらゆる機能を知ってそう

ジョブスどのは親友でござるからiPhone50くらいまでは知っておる。

懇意にしている南光坊天海が実は光秀だっていうあれは本当か?

オレ信長の親戚なんやけど、明智光秀そそのかしたのアンタ?

本能寺の変の裏事情を知ってるだけ教えてほしいっす。

天海明智光秀だったの?

実は天海どの=光秀どの=太原雪斎どのなので御座るよ。

三国同盟関東勢上洛から引き留めた功績があるからのう。

まりかの人こそ儂を天下人にしてくれた人物じゃ。

そそのかしてはおらぬが、雪斎殿が導いてくれたのじゃよ。

100歳まで生きたというのはそういうことじゃな。

駿府城公園に入ってきた謎のぶよぶよした生き物の記録があるらしいけどそれがなんだったのか知りたいです。

肉人か?

あれは今でいう宇宙人じゃ。

たまたま駿府城教養のある細川どのが来訪してての、「あれは中国の封じゃ」とゆったもんだから気味が悪いから追い払わせたぞ。

幽才どのがおらぬかったら静岡おでんにして食ってたかもしれんのう。

関ケ原で死んだってホント?(隆慶一郎脳)

実は影武者

世良田二郎三郎元信さんについて、どう思いますか?

それは創作じゃな。わしは影武者はもちろんおったが、あまり必要ではなかった。

三方ヶ原以降は安全ないくさしかせんかった。

陣形地形を徹底的に研究たからのう。鷹狩りのおかげじゃ。

わしが鯛の天ぷらで病に臥せった3か月のテキパキとした引継ぎを見ても、影武者にできるレベルの実務ではないことはわかるじゃろ?

関ヶ原の合戦射精しながらうんこ漏らしたって本当?

武田信玄とやりあったときうんこもらしたはすだけど、そのときの馬の様子を聞きたい

うんち漏らし達の聖地である増田投稿したわけど、大先輩としてどんな気持ち

実際の所、うんこ漏らしたの?漏らしてないの?

・・・あれは八丁味噌なんだからねっ!

せ、戦国武将ならだれでも味噌玉を腰に巻いてたんだからねっ!(震え声)

馬はぶひひーんってゆってたゾ

てかお前らうんち好きすぎ

武田信玄のところは戦の遺族補償みたいなのがあったけどその後どうなったか知らない?

わしの論功行賞は極めて公明正大じゃったぞ。

まあ三河武士が「知行などいりませんから徳川家のために!」という武士の鑑じゃったからのう。

豊臣ヒッデが気前よく大名知行を与えまくって(例:加賀百万石)自爆たからのう。

大名はせいぜい50万石以下におさえて、天領(直轄地)は500万石になった。

これが江戸幕府が260年つづいた理由じゃ。

実際の家康に尋ねるなら、三河駿府暮らしでどっちが好きかは聞いてみたい。

もちろん温暖な駿府暮らしやすかったぞ。

三河京都に近いが、駿府のほうが江戸京都どっちにも移動しやすかったからの。

駿府でも三河の麦飯と八丁味噌をわざわざ取り寄せて食しておったぞ。

白米好きな侍女たちは半ばあきれておったがの。

最近キドキする事はありましたか?(動悸息切れ以外で)

66歳にして16人目の子どもである市姫(いちひめ)をもうけたときは、

「なんじゃ、ワシもまだまだ現役じゃん!」って自信がついたぞ!

結局のところ久能山東照宮日光東照宮のどっちに埋まってるの?

静岡おでんを食いたくなったら久能山のほうに行くときもあるが、基本はそのときの気分次第じゃな。

この国の中心である江戸東京)を見守るのに忙しいからのう!

その後気になる政治家はいた?海外でもいいよ

うむ。民政家でゆうと二宮尊徳、藩政でゆうと上杉鷹山。幕政だと吉宗じゃな。

やつらは立派に儂の考えを理解して実行していたぞ。こっちに来たときは大いにほめてつかわした。

海外だとガンジーどのかのう。

手紙とかでおじさん構文とか使うの?

わしはそれほど筆まめではなかったのじゃ。

ノッブ殿や信玄どのは教養があったか文章がうまかったようじゃの。

どちらかというと部下に任せることが多かった。

軍略的に必要ときは一日で100通書くこともあったぞ。

とくにラブレター系は苦手じゃった。

じゃから側室口説くとき経験豊富人妻をメインに攻めたぞ。

とりあえず鯛の天ぷらでもどうぞ

天ぷらの食べ過ぎに気をつけてね

鯛の天ぷらよりたい焼きのほうが美味しいよね(´・ω・`)

結局天ぷらは何食うたん?

そなたらの気遣い痛み入る。

大坂の陣のあとの鷹狩で、シェフに「うまい天ぷらの具はあるか」って聞いたら鯛がうまいってことで、しばらくハマってしまったのじゃ。

油がよくなかったのかもしれんな。

スーパー鯛焼きが余ったら翌日に天ぷらにするとうまいよね。

関ケ原1ヶ月後に薩摩へ攻め込もうとした加藤清正黒田如水ストップをかけたの、なんでなん?

良い質問じゃな。関ケ原が終わってもまだまだ不安定だったのじゃ。

上杉伊達従属してなかったからのう。

あのときにキッヨとクロを島津征伐に送ってたら、寝返ったかもしれんからの。

井伊直政がうまくとりなしてくれて事なきを得たぞ。

寵愛していたナッオが関ケ原鉄砲傷で亡くなったのは悲しかったのう。

衆道は以降きっぱりやめたぞ。

薬を自作してたそうだけど、精力剤のレシピ教えて

八味地黄丸じゃな。けっこう今の時代でも売ってるようじゃぞ。

66歳でもバリバリ現役じゃ!

大政奉還どう思う?

時代の流れじゃの。詳しくは晴天をつくの大河ドラマ北大路さんの演技で察してくれ。

家康よ 『人は城 人は石垣 人は堀』 武田の家訓いかに解すや!?

まさに三河武士のことじゃの。

儂は基本的に軍略も政治信玄公と同じことをやったが、ワシは20長生きしたから、

武田家の御親類衆VS勝頼どの側近、の対立構図にならなかった。

わしが早世してたら同じことになってたかもしれんのう。信康もおらんかったしな。

2022-11-18

anond:20221118114957

2022-08-22

信長秀吉家康のそれぞれの言い分

ノッブ→ヒッデ 「有能なサルじゃのう。ゆくゆく九州はこやつと明智にまかせる」

ヒッデ→ノッブ 「恐ろしいお方じゃ。だが信長様のおかげで大名になれたのじゃ!この方に一生ついていくぞ!」

ヤッス→ノッブ 「さすがは天下人よ。だが最近は暴虐なふるまいが目立つのう。家臣もこれではついてこぬぞ・・・

ヒッデ→ヤッス 「三河軍団は結束が強く、使えるのう。関東以東の抑えとしてまだまだ働いてもらわねば」

ヤッス→ヒッデ 「百姓上がりのサル・・・今のところは従っておくことにしようぞ」

ノッブ→ヤッス 「義元の言った通り、並みの器ではない。東の守りは松平殿がいる限り安泰であろう」

2022-07-24

想像を絶する家康の苦労

来年大河ドラマになるけど。

家康の苦労はたくさんあるが、最大のもの奥さん長男を斬った話だろう。

築山殿が晴れ着を着て待っていた話などは心苦しいエピソードである

タイミングこそ全て。「阿茶局」との出会い必然だった⁈

天正7(1579)年。失意の中で自分を責め続けた男(38歳)が一人。というのも、これまでの、そしてこれから人生の中で、一番辛い出来事が、彼の身に起こったからだ。それは、子と妻を一気に亡くすという悲劇想像以上の痛手。トラウマさえ残るほどの苦行。これだけでも辛いのに、皮肉にも、その原因を作ったのは自分。自らが「彼らの死」を命じなければならなかった。誰を恨んでいいのか。人生矛盾に答えなどないと気付く。

その男性とは、のちに天下人となる徳川家康

当時、織田信長同盟関係にあった家康は、窮地に立たされていた。原因は、長男・信康(のぶやす)の妻、徳姫の手紙である。徳姫は信長の娘で、家康正室・築山殿と嫁姑関係がこじれている真っ最中の状況。そのせいもあり、徳姫は父・信長に対して、夫である信康の愚痴や、夫と姑が武田方に内通していると、手紙で訴える。これを受けて信長は即刻、罪状認否を行い、信康の切腹を言い渡す。

徳川家康

織田信長の決定に、徳川家中での反発は大きかった。しかし、当時の家康はまだまだ力不足選択肢などなかったのである。一時の感情で動いて信長敵対するなど、家の存続を考えればできぬこと。已む無く、長男・信康と正室の築山殿を見捨てる決断を下す。

天正7(1579)年8月に築山殿殺害9月幽閉されていた信康は切腹

残された文書に、築山殿が殺害された当時の状況が記されている。「今日岡崎から夫に会える」と築山殿は極上の晴れ着を身に着けていたのだとか。少しでも綺麗な姿で家康会いたかったのだろう。報告を受けた家康は、一説には、なんとか築山殿を逃がせなかったのかと、介錯人を責めたとも。地獄を見たとは、まさに当時の家康のコトなのかもしれない。

そして、同年。

天正7(1579)年のこと。『神尾氏旧記』と『当院古記』の資料によれば、「阿茶局(あちゃのつぼね)」が徳川家康側室として召し出されたのが、この年だとか。人生最悪の時期に、家康阿茶局出会ったのである。どのような経緯で、家康の目に留まったのかは不明。ただ、彼女が心の琴線に触れたのは確かだろう。ある意味家康阿茶局との出会いで、人生を救われたともいえるのだ。

https://intojapanwaraku.com/culture/98681/

2022-06-22

anond:20220622145532

出生

天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安祖父春日大社奉仕する猿楽(現能)金春流猿楽師で、父の信安の時代大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。

武田家臣時代

父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老土屋昌続与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。

武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。

ただし一説では、武田勝頼からまれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。

徳川家時代

遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行連署傳馬掟書』慶長6年1月個人蔵)[2]。伊奈忠次彦坂元正連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている

甲斐武田家が滅んだ後、長安徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。

長安大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正106月本能寺の変信長が死去して甲斐家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康本多正信伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安釜無川笛吹川堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康関東に移ることになる。この時、長安青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次長谷川長綱彦坂元正らと共に奉行代官頭)に任じられ、家康関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。

また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安長谷川長綱彦坂元正伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。

天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。

長安はまた、家康に対して武蔵治安維持国境警備重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後豊臣氏支配下にあった佐渡金山生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月大和代官10月に石見銀山検分役、11月佐渡金山接収役となる。

慶長6年(1601年)春に徳川奉行補佐にて甲斐奉行8月石見奉行9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康長安経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである

慶長8年(1603年)2月12日家康将軍に任命されると、長安特別従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。

慶長10年(1605年)、大久保長安普請奉行として武蔵御嶽神社の本社普請

慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安家康から全国の金銀山統轄や、関東における交通網の整備、一里塚建設などの一切を任されていたのである現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である

これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったこから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的支配を任されていたと言われている。

慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。

しか晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さら正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日中風のために死去した[5]。享年69。

長安の死後に生前不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安嫡男藤十郎(37歳)、次男外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。

人物逸話

ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクション対象となっている。

無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。

金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分遺体黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。

一説に長安は、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗幕府転覆計画賛同していたと言われている。

2022-06-16

anond:20220323135957

秀吉天下人になってから太閤検地など冴えわたっていたが、

秀次切腹事件おかしくなったといわれているな

やはり自分に見える社会家庭内の反映よ

2022-04-26

anond:20220426124541

天皇「家」ね

どこの馬の骨ともわからない人間を突然持ってきたわけじゃない

そもそもこの話は日本における天皇という存在の特異性を説明するのは難しいってことなんだけど

実力を持たない皇室が二千年以上も時の天下人に奉じられつつ存在し続けてきたって

よほどの理由がないと無理だよねっていう話で

でもその理由言語化できない

2021-12-16

anond:20211212125107

戦の勝敗で言うとどっちに転んでも勝てただろう

ただ明智首には相当な価値が付いたとすぐに判断して誰にも取らすまいと大急ぎで帰ったのが秀吉天下人たる所以

2021-08-30

タリバン首都で「刀狩り」 住宅訪ね、銃や弾薬求める

秀吉天下人になるまでは部下にやさしかったけど頂点なったら残虐非道人物なっちゃったんだっけ

2021-08-07

栃木県民だが群馬コンプレックス

北関東民独特の感覚だと思うのだけど、栃木群馬茨城県民は互いに自分が上だと思ってる。

自分もその例に漏れず、栃木県こそ北関東のテッペンだと思っていた。

茨城県には親近感はあった。

あらゆる面で似てる。

茨城栃木と同じで観光アピールが下手だ。

他県からイメージ栃木餃子茨城干し芋くらいのもんだろう。

栃木県民だからって餃子が好きなわけでもなく、茨城県民だからって干し芋ばかり食べてるわけでもないが、他県からみたらそう思われてるのが現実だろう。、

製造業も、茨城は海、栃木県は東北道東北本線東北新幹線地理的には恵まれているのに、互いにパッとしない。

正直、HITACHIには嫉妬してるが、HITACHI本社東京だし、HITACHIカウントしなければ栃木県の勝ちだ。それに、今は県民所得としても栃木県が上なのだ

たぶん勝因は、茨城県民の自滅だと思う。茨城県民は怒りっぽく協調性がない。互いに足を引っ張りあってたから、平成の大合併まで村ばっかりだった。天狗党の乱から成長してない。

港を擁するからには、天下人を何人も輩出し東海地方を見習って欲しい。東海地方からトヨタホンダが生まれたのは偶然ではあるまい。

さて、前置きが長くなった。

故郷を離れて上京するまでは、群馬県のことなんてほとんど意識しなかった。

空気のような県であった。

海無し県の栃木県に生まれると、海水浴のために茨城に行くことはあるのだが(栃木海浜自然の家は茨城にある。租借地みたいなものだ)、群馬とはとんと縁がない。

草津伊香保くらいは聞いたことがあるが、温泉など栃木県内で間に合ってる。

焼きまんじゅうかいう具なしの小麦菓子があるとか、蒟蒻や葱を好むという情報は流れてくるが、別段憧れもしなかった。

群馬総理大臣を多く輩出したことは知っていたが、その中に特に思い入れがある人物もいなかったので、コンプレックスを感じることもなかった。初めて群馬の地に足を踏み入れたとき、道の広さに政治家の力を感じたがその程度であった。

群馬意識しだしたのは、埼玉生活圏にし始めたときだ。

思いのほか、埼玉はに侵食されていたのだ。

埼玉県民は牛を食べない。食卓は常に豚だ。

埼玉県民は蕎麦も食べない。蕎麦より小麦だ。未開人群馬県民みたいな食生活だった。

栃木県民は海無し県だというのに魚介類を好んで食べるというのに。

そしてロードサイドヤマダ電機栃木県の誇りコジマはすっかり埼玉から駆逐されてしまった。

カインズホーム群馬企業ベイシア系列と知った時は衝撃だった。

しかしたら、群馬は侮れないのかもしれないと思った。

それからだ、群馬企業を調べ始めたのは。

ベイシア系列ベイシアカインズホームオートアールズ、前述のヤマダ電機築地銀だこ、悔しいが強い。

栃木企業じゃ勝てない。

しかし、意識して見てみると、群馬企業不思議群馬っぽさがある。

赤青黄色緑のけばけばしさ、雑さと下品さの融合。

栃木県民が好むデザインダサいけど、あん下品さはない。

企業の実力じゃ負けたが、センス栃木の勝ちだ。

と思っていたのだが、実家帰省したときに母が

最近出来たオシャレでとっても美味しい」とべた褒めしレストランフライングガーデン、うーん、群馬臭…

2021-03-06

anond:20210306211546

ガキを秀猿って名づけたい。

ガキが天下人になれますように。

2021-02-17

源平→源氏VS平氏という分かりやすい構図。ラスボス格の清盛に対して、一度は敗れた源氏御曹司辺境で力をつけて逆襲するというオーソドックス貴種流離譚。ただし、めぼしいキャラクターが他に義経木曽義仲くらいしかおらず、平教経とかいうよくわからん奴を義経ライバルに据えてしまうくらい平氏側の人材がいない。あとみんな似た名前で覚えづらいのも地味に難点。

南北朝→敵味方が目まぐるしく入れ替わってマジでよくわからん。大きな戦で決着がつくということもなく延々と争い続けている。勝ったら身内で争いはじめる。負けてもゴキブリのように復活する。主人公格のくせに何をしたいのかよくわからない尊氏もさりながら、「優柔不断な後醍醐」像が定着したのもグダグダ感が増している要因かもしれない。後醍醐評価路線でやればワンチャン

戦国時代群雄割拠で各地方ドラマがあり、群像劇としてさまざまな視点から物語ることができる。天下人になったと思われた信長本能寺死ぬという驚きの展開、秀吉の驚異のサクセスストーリー、そして家康権力掌握が関ヶ原という天下分け目の大戦で決まる分かりやすさ。消化試合感のある大坂の陣真田幸村のおかげで最後の盛り上がりを見せた。やっぱ戦国時代っきゃねえよ。

幕末暗殺粛清陰謀歴史が進んでいく陰湿さ。打つ手打つ手裏目幕府。ただのテロリスト集団長州。佐幕の強硬派として長州いじめていたくせにいつのまにか幕府を裏切っている薩摩奥羽越列藩同盟でもうひと盛り上がりあるかと思ったら瓦解して終わる戊辰戦争維新の最大の功労者無駄に戦いを起こして惨めに死ぬ西南戦争。全体的にグダグダで、スカッとした盛り上がりに欠ける。キャラ人気に頼る他なし。

2021-02-10

本能寺黒幕はやっぱり秀吉でしょ

あそこで信長が死んでくれなかったらもう天下人になるタイミングないでしょ

2020-12-27

anond:20201227230141

そりゃ自分も天下取りたいって野望がちょっとでもあるなら、天下人気取りの奴なんて隙あらば追い落としたいに決まってるだろう

しかしただ反織田というだけで自分の近くで敵対してる奴と手を組めるわけでもない

包囲網といっても個々の勢力が個々の事情で散発的に攻撃しているだけでは大したダメージにはなりゃしない

いやあどっかで聞いたような話ですねえ

2020-03-23

2019年に読んだ本

『おあむ物語・おきく物語』(天保8年(1837))

家近良樹『歴史知る楽しみ』(ちくまプリマー新書2018年12月)

石川太郎監修・小泉吉永編集『女大学資料集成〈別巻〉』(大空社、2006年)

磯田道史監修『江戸家計簿』(宝島社新書2017年)

磯田道史他『戦乱と民衆』(講談社現代新書2018年8月)

伊藤セツ『山川菊栄研究――過去を読み未来を拓く』(ドメス出版2018年12月)

今井幹夫『富岡製糸場と絹産業遺産群』(ベストセラーズ2014年)

岩田真美・桐原健真編『カミとホトケの幕末維新』(法蔵館2018年11月)

大塚英志日本バカから戦争に負けた 角川書店教養運命』(星海社新書2017年)

小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで』(角川学芸出版2016年)

金澤裕之『幕府海軍の興亡 幕末期における日本海軍建設』(慶応義塾大学出版会、2017年)

上條宏之『絹ひとすじの青春――『富岡日記』にみる日本近代』(NHK出版1978年)

神谷大介『幕末海軍――明治維新への航跡』(吉川弘文館2018年1月)

神谷大介『幕末軍事技術の基盤形成――砲術海軍地域』(岩田書院、2013年)

神作研一近世和歌史の研究』(角川学芸出版2013年)

香内信子編『資料母性保護論争』(ドメス出版1984年)

呉座勇一『陰謀日本中世史』(角川新書2018年3月)

佐々大河『ふしぎの国のバード』1~3巻(ハルタコミックス、2015~16年)

サビーネ・フリューシュトュック他編『日本人の「男らしさ」――サムライからオタクまで 「男性性」の変遷を追う』(明石書店2013年)

篠田信一『殴り合う貴族たち――平安朝裏源氏物語』(柏書房2005年)

中公新書編集部編『日本史の論点――邪馬台国から象徴天皇制まで』(中公新書2018年8月)

内藤一成『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』(中公新書2019年2月)

中島岳志保守大東亜戦争』(集英社新書2018年7月)

中野節子『女はいからやさしくなくなったか』(平凡社新書2014年)

中屋敷均『科学非科学』(講談社現代新書2019年2月)

長山靖生帝国化する日本――明治教育スキャンダル』(ちくま新書2018年9月)

文芸春秋編『日本史の新常識』(文春新書2018年11月)

本郷和人『戦いの日本史 武士時代を読み直す』(角川学芸出版2012年)

松浦だるま『累』全14巻(イブニングコミックス、2013~18年)

宮地正人日本リブレット人68 土方歳三榎本武揚 幕臣たちの戊辰函館戦争』(山川出版社2018年8月)

森正人鈴木元編『文学史古今和歌集』(和泉書院2007年)

山川菊栄記念会・労働者運動資料室編『イヌからすとうずらペンと 山川菊栄山川写真集』(同時代社、2016年)

山本博文編『織田信長古文書』(柏書房2016年)

山本ルンルンサーカスの娘オルガ』第3巻(完)(ハルタコミックス2019年)

吉田麻子『知の共鳴 平田篤胤をめぐる書物社会史』(ぺりかん社2012年)

和田裕弘織田信忠――天下人嫡男』(中公新書2019年8月)

渡部周子〈少女〉像の誕生――近代日本における「少女規範形成』(新泉社2007年)

渡邊大門関ヶ原合戦は「作り話」だったのか 一次史料が語る天下分け目の真実』(PHP新書2019年9月)

渡辺尚志『江戸明治 百姓たちの山争い裁判』(草思社2017年)

渡部泰明『和歌とは何か』(岩波新書2009年)

★再読★

鬼頭宏『日本歴史19 文明としての江戸システム』(講談社2002年)

ニコライ著・中村健之介訳『ニコライの見た幕末日本』(講談社学術文庫、1979年)

中屋敷均『ウイルスは生きている』(講談社現代新書2016年)

山川菊栄武家女性』(岩波文庫1983年)

山川菊栄著・鈴木裕子編『山川菊栄評論集』(岩波文庫1990年)

和田英『富岡日記』(筑摩書房2014年)

2019年に読んだ本

『おあむ物語・おきく物語』(天保8年(1837))

家近良樹『歴史知る楽しみ』(ちくまプリマー新書2018年12月)

石川太郎監修・小泉吉永編集『女大学資料集成〈別巻〉』(大空社、2006年)

磯田道史監修『江戸家計簿』(宝島社新書2017年)

磯田道史他『戦乱と民衆』(講談社現代新書2018年8月)

伊藤セツ『山川菊栄研究――過去を読み未来を拓く』(ドメス出版2018年12月)

今井幹夫『富岡製糸場と絹産業遺産群』(ベストセラーズ2014年)

岩田真美・桐原健真編『カミとホトケの幕末維新』(法蔵館2018年11月)

大塚英志日本バカから戦争に負けた 角川書店教養運命』(星海社新書2017年)

小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで』(角川学芸出版2016年)

金澤裕之『幕府海軍の興亡 幕末期における日本海軍建設』(慶応義塾大学出版会、2017年)

上條宏之『絹ひとすじの青春――『富岡日記』にみる日本近代』(NHK出版1978年)

神谷大介『幕末海軍――明治維新への航跡』(吉川弘文館2018年1月)

神谷大介『幕末軍事技術の基盤形成――砲術海軍地域』(岩田書院、2013年)

神作研一近世和歌史の研究』(角川学芸出版2013年)

香内信子編『資料母性保護論争』(ドメス出版1984年)

呉座勇一『陰謀日本中世史』(角川新書2018年3月)

佐々大河『ふしぎの国のバード』1~3巻(ハルタコミックス、2015~16年)

サビーネ・フリューシュトュック他編『日本人の「男らしさ」――サムライからオタクまで 「男性性」の変遷を追う』(明石書店2013年)

篠田信一『殴り合う貴族たち――平安朝裏源氏物語』(柏書房2005年)

中公新書編集部編『日本史の論点――邪馬台国から象徴天皇制まで』(中公新書2018年8月)

内藤一成『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』(中公新書2019年2月)

中島岳志保守大東亜戦争』(集英社新書2018年7月)

中野節子『女はいからやさしくなくなったか』(平凡社新書2014年)

中屋敷均『科学非科学』(講談社現代新書2019年2月)

長山靖生帝国化する日本――明治教育スキャンダル』(ちくま新書2018年9月)

文芸春秋編『日本史の新常識』(文春新書2018年11月)

本郷和人『戦いの日本史 武士時代を読み直す』(角川学芸出版2012年)

松浦だるま『累』全14巻(イブニングコミックス、2013~18年)

宮地正人日本リブレット人68 土方歳三榎本武揚 幕臣たちの戊辰函館戦争』(山川出版社2018年8月)

森正人鈴木元編『文学史古今和歌集』(和泉書院2007年)

山川菊栄記念会・労働者運動資料室編『イヌからすとうずらペンと 山川菊栄山川写真集』(同時代社、2016年)

山本博文編『織田信長古文書』(柏書房2016年)

山本ルンルンサーカスの娘オルガ』第3巻(完)(ハルタコミックス2019年)

吉田麻子『知の共鳴 平田篤胤をめぐる書物社会史』(ぺりかん社2012年)

和田裕弘織田信忠――天下人嫡男』(中公新書2019年8月)

渡部周子〈少女〉像の誕生――近代日本における「少女規範形成』(新泉社2007年)

渡邊大門関ヶ原合戦は「作り話」だったのか 一次史料が語る天下分け目の真実』(PHP新書2019年9月)

渡辺尚志『江戸明治 百姓たちの山争い裁判』(草思社2017年)

渡部泰明『和歌とは何か』(岩波新書2009年)

★再読★

鬼頭宏『日本歴史19 文明としての江戸システム』(講談社2002年)

ニコライ著・中村健之介訳『ニコライの見た幕末日本』(講談社学術文庫、1979年)

中屋敷均『ウイルスは生きている』(講談社現代新書2016年)

山川菊栄武家女性』(岩波文庫1983年)

山川菊栄著・鈴木裕子編『山川菊栄評論集』(岩波文庫1990年)

和田英『富岡日記』(筑摩書房2014年)

2019-06-06

本能寺の変の謎が明らかになるには

明智光秀山崎の戦いで敗れ、逃げる途中で落ち武者狩りに殺されたため、明智光秀織田信長を殺した理由永遠の謎となった。

どうすれば本能寺の変が謎にならずに済んだのか。

明智光秀山崎の戦いで勝ち、豊臣秀吉のように天下人となる

晩年側近などに本能寺の変について漏らしたらOK。ただし勝者が作る歴史だ。

明智光秀山崎の戦いで敗れ羽柴秀吉に捕えられる

問答無用処刑される。

明智光秀山崎の戦いで敗れるが生き延びて潜伏し、天下一統を成し遂げた豊臣秀吉の前に現れる

御伽衆に加えられて本能寺の変について話す機会があるかもしれないが、逆賊として処刑されるかもしれない。

明智光秀山崎の戦いで敗れるが生き延びて徳川家の天下になるまで潜伏し、徳川家に召し抱えられる

明智光秀豊臣秀吉よりも年上のようなので長生きする必要がある。

明智光秀山崎の戦いで敗れるが生き延びて、織田や羽柴とそれほど誼を通じていない大名家に拾われる

本能寺の変について誰かに話しているかもしれない。

明智光秀山崎の戦いで敗れるが生き延びて、出家して天海となる

天海本能寺の変について何も言っていないので謎は明らかにならない。

2018-06-14

金太郎はザコ

子供時代は山姥の母や熊でお馬稽古等々スター性があるキャラをしているが、最終地点が武士の部下って尻すぼみもいいとこだ。

しか源頼光四天王の一人って、せめて天下人の一の部下くらいにはなれやザコが。

2017-04-22

[]

本日美濃加茂市ミュージアム美濃和紙の里会館、郡上八幡城、

古今伝授の里フィールドミュージアムに行って参りましたわ。

せっかくだから、もう少し足を延ばそうとする繰り返しで、

小沢艦隊に釣られたハルゼー艦隊のごとく北に突進してしまいました。

わたくしの御髪が縦にカール・ビンソンですの。

美濃加茂市ミュージアムでは特別展信長秀吉家康

そして光秀の書状が展示されていました。

天下人四人の書が拝めるなんてありがたいですわ。

秀吉直筆書の筆運びがおもしろいです。

本田正信展で拝見した折り紙もありましたが、

掛け軸にするときに折り目で切断して向きを揃えていると解説がありました。

また、尊敬する相手に触れる前で改行する作法もあったそうですわ。

これは、わたくしに送られてきた手紙見直しませんと!

近隣の城についても紹介があり、ガラスの中でさら額縁に入っていた

加治田城イラスト

香川元太先生直筆の作品(本物)とのことでした。

絵が歴史群像の見開きとほぼ同じサイズで驚きました。縮小コピーじゃなかったのですね。

棒人間的な人物は米粒の表面に描けるくらいの小ささで作業の細かさに圧倒されました。

美濃和紙の里会館は地場産業である和紙の売り込みをしていて、

アーティストはともかく企業が正面に出過ぎている感じでした。

せめて入館料をとらないゾーンに展示されたほうが……。

アーティスト作品と一緒においてあった名刺のものが、

作品になっている点は和紙ならではでしたわ。

こうぞ5500gから長い工程を経て得られる和紙は220gとのことです。

日本各地の和紙が紹介されていましたけれど、

青森千葉神奈川香川長崎のみ和紙がありませんでしたわ。

羊皮紙のことを「パーチメント」と表記していて、

クイズゲーム以外に注釈がありませんでしたわ。

歴史上にはパピルス以外に樹皮や椰子の葉をたたいて合わせた「紙」も

あったことを知りました。

あと、入り口付近に「ギネスに挑戦!60mの手すき紙プロジェクト」の企画が紹介されていましたが、

よく紙をみると右下に小さく「※ギネスへは挑戦していません」と書いてありましたわ。

えっ?ええっ??

長良川沿いをさかのぼっていくと郡上八幡城のある郡上市に入ります

信号が縦になり、郡上八幡城の麓にある神社にも雪止め瓦

屋根から落ちた雪がいきおいよく人にぶつかることを防ぐ突起のついた瓦)が

使われていて、豪雪地帯に入ったことを感じましたの。

古い景観をとどめる町の中はうだつ上がりすぎて、うだつあがり症状態でしたわ。

郡上八幡城では難工事の際に人柱にされた

「およしさん(17)」が萌えキャラ化されていて、およしなさいと本気で思いました。

およしさんはデザイン東北ずん子さんに似ているというか、おキヌちゃんの系譜でしょうか。

LINEスタンプもあってかわいらしいです。でも人柱です。

関ヶ原絡みの局地戦で戦術的には負けながらも郡上八幡城を取り戻した遠藤慶隆は

成功した

小田氏治みたいですわ。

最後古今伝授の里フィールドミュージアムにつきました。

こちらは戦国大名、東(「あずま」でも「ひがし」でもなく「とう」)氏の

初期の居城である篠脇城跡の麓にある和歌ミュージアムです。

篠脇城は畝状竪堀群のある山城で、千葉から来たという東氏がその技術を得た

経緯がとても興味深いですの。

岐阜県北部にはマイナー戦国大名が多いのですわ。

そういえば途中の国道156号線デイリーヤマザキ連続で現れる場所がありましたわ。

古今伝授といえば

細川幽斎関ヶ原の合戦に際して生き残る切り札に使ったことが

有名ですけれど、まさにその古今伝授の源流にあるのが

九代目東常縁なのだそうです。

それに関連して和歌文学館では古代から現代までの代表的歌人が九人選定されていましたわ。

選者の意見があけすけに書かれていて興味深かったですの。

その上にある篠脇山荘歌詠みの会をする研修会館のようですが、

何もしていない時は立ち入りが可能で、縁側の椅子腰掛けて池と篠脇城のある山を眺めていたら

ホーホケキョの鳴き声が聞こえてきました。hウグイスですわ!

最初放送を疑いましたわ。おそらくヤマゲラの鳴き声も聞こえて、

いつになくリラックスしたひとときを過ごせました。

郡上市から一気に帰る際は地獄をみたわけですけれど……

高速(厳密には自動車専用)道路感謝ですわ。

2016-12-19

真田丸』ロスを噛みしめる

終わった。

終わってしまった。

この上なく終わってしまった。

毎週日曜日のお楽しみ。最初から最後までかじりついて見たのは『毛利元就』以来20年ぶり。いやー本当に面白かった。

だけど『真田丸』を見返そうとは思わない。ビデオ録ってないけど、録ってたとしても見返さないと思う。総集編も見ない。

なんつかこ物語は不可逆だと思うんだよね。

大坂の陣ってのは、戦国の終わりを告げる戦いだ。槍働き如何でいかようにも立身出世できた日本史上における最後の時を終わらせる、不可逆的な戦いだ。

関ヶ原で没落した連中が、夢よ今一度とばかりに大坂城へと篭って幕府抗うけど、時代はとうに転換していて、大坂方が勝つことは、泰平の世へと進んだ時代が許してくれない。戦国の亡霊たる大坂方が勝つということはまた戦国乱世の世に戻るということであって、それは許されることじゃない。連中は時代によって完膚なきまでに滅ぼされるべきなのだ

勝頼も、室賀も、氏政も、秀吉も、三成も、昌幸も、そして信繁も、時代の波に乗り切れなかった落伍者は、時代によって淘汰される。それは万物の理とでもいうべき不変の法則で、何人も逃れることはできない。

しかしながら敗れてなお名を残すことはできる。

死に様はどのように生きたかが決める。死したときその者の評価は定まる。

真田信繁人生ほとんどを歴史に埋没させながら生き、最後最後でひょっこり顔を出して歴史にその名を刻んだ。

それは信繁が成したことというより、戦国という時代の亡霊が、かくありたいと希い、信繁を依代として成したことと言えはしないだろうか。

戦場で華々しく死ぬこと。

天下人に向かって果敢に突撃し、その末に死ぬこと。

その馬印を倒し、日ノ本一の兵と讃えられるほどの奮戦の末に死ぬこと。

そのような死に様は日本史上において信繁を除いて絶無であり、みなが憧れるような最期だったからこそこぞってその戦いぶりと名を残そうとしたんじゃなかろうか。

そう感じてやまないのは、『真田丸』という物語が、時代に敗れていった者たちの生き方、そして死に様をいくつも積み重ねていったからだと思う。

真田丸』の信繁は決して完全無欠の勇将なんかじゃない。政治的センスに欠け、他者真正からぶつかることを避けて策を弄するような、敗れるべくして敗れるような凡庸さがあった。

から信繁が日ノ本一になれたのは彼の力というより、めぐり合わせ、言ってみればただの運だと思う。しかしそれは何千年という時の流れの中でようやく一回あるかないかというような奇跡

奇跡は眩しい。何度でも味わいたくなる。

でも、だからこそ消費し尽くさないで、たとえば夜空に一瞬またたいた流星をぐうぜん目にしたときのような鮮烈さを噛みしめるに留めるべきだと思う。

またいずれ真田信繁物語別に語られるとしても、『真田丸』は大坂の陣のような不可逆さとともに鮮烈な印象のまま留めるべきだと思う。

2016年という年号とともに『真田丸』は終わる。終わったままにしておく。

別れの時が来た。

ありがとう真田丸』。

さようなら真田丸』。

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