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はてなキーワード: 東国とは

2017-06-05

続・山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの続き。(文字数制限にひっかかったので分割します)

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇後鳥羽天皇即位させ、寿永二年の宣旨頼朝東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝上京要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝東国支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。

義仲が京都乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。

兵糧不足のまま進撃して首都占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?

  

また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います

(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)

頼朝挙兵以来、北条氏三浦氏などの東国武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察担当する侍所を設けて、有力御家人和田義盛別当長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。

頼朝後白河法皇要請を受け、範頼と義経平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏を滅亡させた。後白河法皇頼朝権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿九条兼実藤原兼実)らを朝廷重要政務担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝東国西国の多数の武士御家人として組織しながら、主に東国支配確立していった。

1190(建久元)年、頼朝挙兵後はじめて京都に入り、右近大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」

当然ながら『詳説日本史』にも、侍所政所問注所地頭というキーワードは出てきますしかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています

それに比べて、この教科書歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから時系列に即してこれらの言葉意味理解することができるはずです。

  

結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。

鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。

  

  

  

あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。

一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?

例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています守護は「おもに東国出身の有力御家人から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務年貢徴収・納入と土地官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公関係となって封建制度の基礎となりました。

  

ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されていますしかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。

私は最初にこれを読んだとき、わけがからなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許守護地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。

1960年石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたもの守護地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護前身となりました。

三省堂教科書は、次項でそのことが説明されています頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢公事徴収治安維持に当たらせた」としています

このように、三省堂教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。

  

実教出版もこの新説を採用していますこちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います

それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。

  

なお、山川参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭前身だったと思わせるような記述です。

地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝要請後白河法皇諸国公領荘園地頭を設置することを認めた。当初は1国単位荘園公領支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務土地管理年貢・兵糧米の徴収治安維持など。

地頭⑤ 荘郷地頭

  

山川出版日本史B用語集』より

ですが三省堂実教出版東京書籍教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています

「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。

  

(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。

予防線として言っておくと、私は高校日本史Bを履修しなかったし、大学歴史学勉強したわけではありません。高校時代文転して受験するかと生半可に考えていて(結局やめたけどね)、興味本位教科書を読んでみただけの素人です。

さいしょの方でも書いたとおり最新版教科書を持ってません。はてブでバズっていてびっくりしましたが、このエントリ専門家レベルのものとして受けとるのは、恥ずかしいのでやめてください。

再追記。id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝。)

  

  

  

(追記2

複数教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます

『詳説日本史』では、前九年合戦後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏東国武士団との主従関係を強め、武家棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています

ここで例えば山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかったことを理解することができるのです。(上述参照)

  

つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。

『詳説日本史』によると、戦国大名性格は次のように説明されています戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代下り、別のページで豊臣秀吉太閤検地説明しています太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分田畑所有権を法的に認められることになった」わけです。

このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ大名統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しかからないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。

この視点を最もわかりやす記述しているのが、三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地一元的支配確立荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。

ちなみに、東京書籍日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)

2017-06-04

山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

山川出版の日本史いかに凄いかについて情熱的に説明する」

http://blog.tinect.jp/?p=40198

はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。

これ、おっさん居酒屋でしゃべっているレベルですよね??

『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。

僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああい教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである

ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである日本民族いかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的価値観を元に記述せざるをえなくなる。

客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。

いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。 

  

クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。

例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています

平清盛後白河法皇幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団中央貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。

これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団挙兵して、ついに内乱全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。

平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。

しかし、畿内西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。

この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。

ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係説明が詰め込まれています

  

まず、平清盛後白河天皇幽閉したこと、安徳天皇即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています

当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています

  

次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団中央貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています

これはまさしく因果関係に言及しているわけです。

  

このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価因果関係がしっかりと述べられているのです。

そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。

  

なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています

治承・寿永の乱は、一般には源氏平氏の戦いといわれている。しか歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏平氏勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃近江河内源氏若狭越前加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏である。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである

彼らの動向をまとめあげ、武家棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。

教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。

この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。

こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。

他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。

  

【参考文献】

山川出版社『詳説日本史』(日B 001)

山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)

東京書籍日本史B』(日B 004)

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

桐原書店新日本史B』(日B 011)

(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)

  

  

  

余談:教科書の読み比べ

  

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)

伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏根拠地鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦千葉上総氏などの有力な東国武士主従関係を結んで御家人とし

頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います

三浦千葉上総という武士名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦ときに唐突に登場します。)

[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元三善康信就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦平氏を滅ぼした。

[]は引用者註。

この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。

鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています

  

  

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦い平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇対立したので、法皇は同年、頼朝に東海東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経さら平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏一門を滅ぼした。

この教科書歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。

上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏都落ち安徳天皇を伴ったことも言及なし。

というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります

  

鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。

教科書の中では唯一、桐原書店けが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。

(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍面接して」という説明も省かれています

  

["新恩給与"についての註]

土地のものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。

これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!

所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世土地支配構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います

なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています

職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。

本家職①、領家職②、預所職②、下司職②、荘官職①

  

[引用者註:丸の数字はこの用語を掲載している教科書の数]

山川出版『日本史B用語集』より

この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地のものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。

しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています

地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利

  

山川出版『日本史B用語集』より

これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?

せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。

  

さて、桐原書店教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています

幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。

[ふたつの源頼朝像]

Aについては南北朝時代武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨甲斐善光寺蔵)。

とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

養和は平氏政権が用いた年号で、これを認めない頼朝の支配する関東では、ひきつづき治承の年号が用いられた。

網野善彦著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います

他の教科書には載ってませんが、ピンポイント東大入試に出題されました。

  

源氏鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮八幡宮前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。

鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍教科書だけです。

上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉経済流通」というのも掲載されています

東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います

  

  

  

山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)

こののち、後白河法皇義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。

頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています

あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷命令無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。

  

それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。

両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます

関西にある政権東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ

  

  

  

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

平氏安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。

この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス

都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。

どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています

  

ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)

例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とありますさら西国御家人東国御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書関西中心っぽい史観は独特です。

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

  

……って、おい!? 増田がここで文章を掲載できなくなったんだが??

せっかくこの先が本番なのに、文字数の上限なのだろうか。

つづき→http://anond.hatelabo.jp/20170605001028

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

2016-09-14

最近のgudachan

http://anond.hatelabo.jp/20160702174925

毎度おなじみ gudachan@bonchacchanga の不定期活動報告です。

批判耐性のなさ

gudachanは自分の作ったまとめに対する反応を日々チェックしており、

自分意見肯定的な反応はRTしたりリプライで別のまとめのurlを送り付けたりしてさらなる承認に結びつけ、

逆に否定的な反応には相手レッテルを貼りしばらく叩くという習性があります

あんまりよくわからん。 QT 広島が6大都市に慣れなかった最大の理由は「郊外高速交通」の不在 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/1022672 @togetter_jpさんから

6:51 PM - 11 Sep 2016

ttps://twitter.com/kankimura/status/775149685510070272

ttp://archive.is/Rzdkj

そもそも本来「6大都市」というのは大正時代の「六大都市行政監督ニ関スル法律」で提示された古い概念東京横浜名古屋京都大阪神戸、の事を長らく指してきた。それを数だけ同じ「6」にして大都市圏適用するから、「仙台か広島か」みたいな訳の分からない話になる。

6:55 PM - 11 Sep 2016

ttps://twitter.com/kankimura/status/775150719645028352

ttp://archive.is/ak7wN

因みに「大都市圏」の定義は様々なのでまとめ方によって順位は様々。よってその順位にこだわるのはあまり意味がない。

10:59 - 2016年9月12日

ttps://twitter.com/kankimura/status/775151776936845313

ttp://archive.is/uTCGj

序に書いておくと、仙台と広島に対する「感覚」は住む場所によってずいぶん違うと思う。例えば、畿内人間の多くは広島は割とよく行くので、「西にある福岡に次ぐ大きな町」という感覚があるけど、仙台にはまず行く事がないので、「東北の町の一つ」くらいの感覚なのではないだろうか。自分だけかな。

11:03 - 2016年9月12日

ttps://twitter.com/kankimura/status/775152846970904577

ttp://archive.is/xISD2

そもそも東国の人は、畿内から西に行く事が少ないでしょうし、移動する場合にも飛行機移動が多くなるでしょうから地理感覚がつかみにくいですよね。我々が東北新潟に行く際に地続きで行かないので、距離感覚がつかめないのと同じだと思います

11:16 - 2016年9月12日

ttps://twitter.com/kankimura/status/775156122520997888

ttp://archive.is/Vdl5O

木村幹氏がgudachanのまとめについて以上のように反応しました。

6大都市という言葉にこだわって仙台と広島どちらが上かという話にそもそも意味がなく、

居住地域によって感覚も異なるので大した意味はないという指摘で、これはまあもっともな意見でしょう。

しかしgudachanにとって自分の主張を否定されることは人格否定に等しく、到底受け容れられるものではありません。

仙台は発展しているとツイートしたら、面識のない「朝鮮研究学者」が、挨拶もよこさずに本人の感知しないスペースで冷笑を繰り広げて呆れた。この朝鮮研究学者は「東国」と言う言葉を用いて、仙台の発展を否定しようとしていた。これは完全にレイシスト差別主義者の発想ではないか

4:22 AM - 13 Sep 2016

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775655913021542400

ttp://archive.is/REabK

Togetterのurlを貼ってその内容について感想を述べる、という当たり前にされている行為が、

gudachanの脳内で「挨拶もよこさずに本人の感知しないスペースで冷笑を繰り広げ」に変換されました。

自分の主張は多くの人間に共有してほしいが、否定されることは我慢できない」という彼の自意識によって、

木村氏の特に何でもない感想すら「冷笑」に見えてしまうのが涙を誘います

異なる意見を持つ人を尊重せず、表だって物を言えない陰口みたいな悪意をぶつけるのは匿名ネット原住民常識ではある。しかし、一般社会になじむものではない。だが、Twitterを見ての通り、ざんねんなことに人文学系の学者には「逆張り冷笑系ネット原住民」は大勢いる。レイシストはクソだ

20:23 - 2016年9月13日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775656161953452032

ttp://archive.is/tT83X

なぜこれをレイシストだと気付いたかと言うと、私は数年前にネトウヨが「東夷が」と言う煽り罵詈雑言表現を用いているのを、ネット原住民総本山掲示板のマトメ記事で見たことがある。こういうのは普通に考えてFacebookコミュニティや昔の個人運営掲示板では一発退場である

20:24 - 2016年9月13日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775656428853874688

ttp://archive.is/xtkX1

関東一円を指して「東国」と言うことと関東東北人間を「東夷」と罵ることにはかなりの差があると思うのですが、

批判には反論ではなく相手の態度や言葉遣い問題視人格否定するという習性のあるgudachanが今回なんとかひねり出したのがこの理屈です。

「異なる意見尊重」できていないのは誰なのでしょうか。

Twitter運営相手学者だろうが、こういうレイシスト排除するような仕組みを作るべきだと思う。普通に考えてほしい。2016年日本で「東国」なんて言葉を使うのは学者だけだ。日常表現ではない。学者からこそ知っている言葉を、悪意ある用い方をするのは、卑劣学問侮辱でもあるね

20:25 - 2016年9月13日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775656711659008000

ttp://archive.is/J7KTY

そしてこの「東国」には古来、百済から渡来人がやって来た歴史がある。朝鮮学者から知っているのだろう。知った上で悪意ある表現をしているのなら、それは「自称朝鮮専門家である桜井誠のそれと何も変わらないと思う。「東国」と言う言葉を用いて、仙台の発展を否定するレイシストヤバい

20:27 - 2016年9月13日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775657148747427841

ttp://archive.is/sFtjr

俺が嫌いなのが、こういう露悪「ユーモア」なんだよね。こいつらにとっては薀蓄こじらせたような悪意ある冷笑や逆張りジョークか何かのつもりなんだよね。どう考えてもただのヘイト。俺が「朝鮮女子」をずっと問題視しているのもこれですよ。当事者に対するリスペクトがない。その逆しかない

20:34 - 2016年9月13日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775658792792887296

ttp://archive.is/AnxNb

面識のない「朝鮮研究学者」は本当は何の変哲もない、そのへんの中小企業オヤジかもしれない。何とでも自分を偽れるのもまたネットから。ただ、俺が厄介だと思っているのは「東国」と言う言葉をことさら用いることで在日朝鮮人差別が増幅されることですよ。レイシスト一人のことはどうでもいいがね

20:35 - 2016年9月13日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775659223329878016

ttp://archive.is/ZH88b

社会への拡散力。これが恐ろしい。だってそうでしょ?在特会作った人だって元はNAVER掲示板トロルじゃないか。NAVERの季節の話題専門のHOT掲示板(だったと思う)で運営の設定するテーマ無視してずっと歴史領土について書き込んでた奴が、今や日本最大の極右勢力だもん

20:36 - 2016年9月13日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775659498308407296

ttp://archive.is/MAKQ9

朝鮮専門家であれば関東大震災当時、在日朝鮮人虐殺があったことは知ってるはずです。そしてその虐殺に巻き込まれたのは東北人も多かった。つまり大和民族日本人であっても関係なかった。「東国」呼ばわりは極めて危険だぞ。俺の先祖東北人だからこれは許せないね

20:38 - 2016年9月13日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/775659969345490944

ttp://archive.is/ibkgj

東国」という言葉を使うことは在日朝鮮人虐殺に繋がることであり許せないとのこと。

つの間にか木村氏は在特会匹敵するレイシストということになったようです。

東国」が問題であるならばgudachanが日頃使用している「裏日本」なども問題になる気がしますし、

前回の「地方人の分際でなんでそんなに偉そうなんですか」などはどうしようもないのでは?と思わずはいられません。

フェミニストgudachan

女性に虐められる男子なんているのかなあー。日本女性男性に酷い扱いされる国。逆はないはず

おかゆ @okayu_desert

女性嫌悪蔑視萌えアニメ好きが結構被ってるあれはなんだろう。いや俺も萌えアニメはよく見るし、若い女性が近くにいると発汗して息が詰まるけどさ。やっぱ小中学校時代女子イジメられたり、陰口を叩かれたりした記憶はなかなか消せるもんじゃない。それを拗らせるとミソジニーに発展する。

18:13 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769100353266716672

ttp://archive.is/YAbIc

gudachanは勝部元気氏に多大な影響を受けているのはご存知の通り。

「女が男をいじめることはありえない」と主張します。

リプライありがとうございます。でもそれってよくあるいさかいレベルじゃないでしょうか。「女子陰湿」みたいな性的な決めつけに繋がる発想だと思います。私は小学生の時も中学生の時も女子生徒とふざけあっていましたよ 

おかゆ @okayu_desert

@bonchacchanga ぼくは小学校時代女子に虐められてました。男子と違い肉体的な暴力ではなく言葉暴力とかですね。中学とき一時的に裏で悪口を言われたりだとか。特に理由はなくて単純に「顔がキモイ」とか「暗いから」とかです。もちろん社会的には女性のほうが抑圧されています

19:51 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769125069498888192

ttp://archive.is/wYfBZ

女子からいじめを受けたことがある」と言っている人を「よくあること」と一蹴するgudachan。

本当のイジメというのは、力関係によって生ずるものです。これはレイシズムとかも同じですが、関係性が不均衡であるにもかかわらず、劣位の側が優位の側を凌駕して苛めるというのは到底可能性が少ないです。「痴漢冤罪」と一緒で。皆無ではないですが 

おかゆ @okayu_desert

@bonchacchanga 少なくとも「逆は無い」と断言するのは早計です。

19:53 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769125486106546176

ttp://archive.is/TUNRf

女子DISる奴許せない

19:54 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769125870330011648

ttp://archive.is/8v30X

たとえば同級生キモイ奴がいればいじるのは普通小学生のよくあることじゃないですか。自分も囃し立てる側にも、言われる側にもなりましたよ。クラスみんなを煽ったこともありますし、みんなから口を聞いてもらえなかったこともあった 

おかゆ @okayu_desert

@bonchacchanga 「女子陰湿」だとは思いませんが、ぼくはまぁそういうイジメを受けたことはあるってことです。あとイジメを「よくあるいさかい」などと言うのはおかしいですよ。やられた本人からすれば生涯に渡ってトラウマになるレベルです。

19:55 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769126144683618304

ttp://archive.is/aiEXZ

そういうことは誰しも経験あるんですよ。やはり女子生徒が、男子生徒を一方的に標的にし、いじめをするということは、構造的に不可能だと思うので、よく自分経験を見つめ直すといいと思います 

おかゆ @okayu_desert

@bonchacchanga 「女子陰湿」だとは思いませんが、ぼくはまぁそういうイジメを受けたことはあるってことです。あとイジメを「よくあるいさかい」などと言うのはおかしいですよ。やられた本人からすれば生涯に渡ってトラウマになるレベルです。

19:56 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769126409352556545

ttp://archive.is/P07pJ

本当に酷いいじめのある学校もあるとは思いますし、田舎は酷いということを、私は地方都市出身同級生から聴かされたりしましたが、それでも加害者男子で、被害者女子であることが多いです 

おかゆ @okayu_desert

@bonchacchanga よくあるレベルからいいというものではないです。イジメという行為矮小化するのはやめましょう。

19:57 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769126636595752960

ttp://archive.is/AOo7j

自殺などの深刻な事案もありますからいじめはなくすべきです。理想は根絶。現実は難しいけど。それは人種差別と同じなんですね。そこは私もよくわかりますよ。でも女子男子いじめることはできません。絶対に 

おかゆ @okayu_desert

@bonchacchanga よくあるレベルからいいというものではないです。イジメという行為矮小化するのはやめましょう。

19:58 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769126838748614656

ttp://archive.is/nG0Qh

なんというか、女子にとって不快男子生徒がクラスにいれば気色悪く思うのは当然のことで、それが自分に投げかけられたなら、自分自身自己改善をするべきだったんではないでしょうか 

おかゆ @okayu_desert

@bonchacchanga いえ不可能ではないでしょ。事実として私は5~6人からいじめを受けました。学校もっといえば教室という限られた空間なら「不可能」ではないです

20:01 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769127605551280128

ttp://archive.is/wtvNO」

いじめを受けたと思っている者に「お前が悪い」と言うのは端的に言ってセカンドレイプ類似する行為なのではないかと思うのですが、

勝部流フェミニズムに心酔しているgudachanには理解できません。

女子男子を苛めることはありえないし、黒人警察官白人青年を射殺することはできない

20:04 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769128262798757888

ttp://archive.is/kPZps

確かにいかなる理由があってもいじめはいけないですよ。でも関係性の違いによって、優位のある側が劣位にさらされる側に対してあるべき振舞いとか、改善努力までは否定できないはずだ 

おかゆ @okayu_desert

いじめ被害者に「自己改善」を求めるなど、「自己責任論」の一種しかありません。「被害者が悪いから加害がある」など加害者側の自己正当化にすぎません。とにかくいかなる理由があったとしてもいじめ絶対にいけませんよ。

20:06 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769128803201277952

ttp://archive.is/lzVlN

もちろん私は顔がキモい人や暗い人も尊重される社会の方がいいと思います。また、子どもにとってのいい加減なもの見方で誤解があった可能性もありますが、いずれにしても、大人になった今まで引きずることではないですね 

おかゆ @okayu_desert

「あるべき振舞い」とか「改善努力」とはいったい何のことでしょうか?私がいめられた理由は主に「容姿」だったわけでして、そこに「改善努力しろ」と言われてもどうしようもないです。

20:15 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769131235272560640

ttp://archive.is/kexgK

お気持ちは十分お察ししますが、一方的な被虐の前に、まず「あの頃の自分」を振り返ることが、暗い過去と決別する第一歩だと思いますね~ 

おかゆ @okayu_desert

@bonchacchanga 幼少期に受けた心の傷は一生掛かっても消えるものではないです。「引きずることではない」など他人にそう簡単に言っていいものではないです。

20:23 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769133168767094784

ttp://archive.is/MG7DP

嫌なら一発「やーめーてー!」って言えばいいんですよ。なんで言わなかったんですか? 

おかゆ @okayu_desert

@bonchacchanga いや、だからこそ関わる意味が分からないです。そして、どう思ってようがイジメはいけない。

20:24 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769133375562977281

ttp://archive.is/EM2qg

絶対構造的にありえない「女子生徒の男子いじめ」について、そんなのおかしいと声をあげると「セカンドレイパー男が性的被害にあった女性に投げかける言葉と同じ」と言われるんだからすげーな

20:44 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769138394014232576

ttp://archive.is/gWiXW

gudachanにとって自分の考えは絶対なので何が悪いと言われているのか理解することはできません。

一連の発言にこちらこそ「すげーな」としか言いようがありません。

このおかゆさん基本的リベラル風で正しい考えをしていそうなだけに、女性男性の力関係をご理解いただけないのが大変残念である

20:53 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769140830279917569

ttp://archive.is/GLizg

たとえば合理性がなくて無駄が多い女性もいますね。でも、いじめをする女性はいませんよ。できないんですよ 

おかゆ @okayu_desert

いや人の性格なんて人それぞれでしょ。特定属性に「この性格の人はいるけど、あの性格の人などいない」って、それこそ差別的でしょ。

20:57 - 2016年8月26日

ttps://twitter.com/bonchacchanga/status/769141798853685248

ttp://archive.is/7SuRi

終わりに

おそらく、gudahcan本人は自分差別的思考をしていること、本人が批判しているネトウヨと同じ思考洋式であることに全く気付いていないのでしょう。

学ぶことができない人間差別主義的な思考をする人間サンプルとしてどうぞ。

http://anond.hatelabo.jp/20130706163318

それではまたどこかで。

2016-06-04

[]6:増田希望

 このころ、みやこの河原には、こんな戯れ歌が流行した。

藁人形カラスを追い払う。

カラス雑魚ナメクジより強い。

ゆえに、藁人形増田(八)兵よりなお強い。

 これを藁人形論法と呼ぶ。

 だが、ナメクジも数万を集めれば、ギザギザの舌歯によって藁人形を食い尽くしてしまう。

 負け続き、不祥事続きの増田家が希望をたくしたのは、この圧倒的な数のパワーであった。なにせ人口だけは有り余っている。

社会全体が不安定時代だけに職をもとめて都にあがってくる人間も多かった。

 そんな連中にも声をかけて増田家があつめた兵力は八万!国力の限界に迫る根こそぎ動員に、他の方面をまったく無視した兵力集中で増田軍は鉄壁で知られる増田家(七)に攻め込んだ。

 西の国境を接する増田家(九)は、みやこに関心がなく、北東の増田家は複雑に絡み合った東国の戦いに手を取られている。

 その好機をついた侵攻だった。

 攻められた増田家には自慢の国境城塞群があったが、その配置は西以外にも北や東に及んでおり、守備兵は広く分散している。

 しかも近年何度も撃退されている増田家を甘くみて西側は大規模な攻勢への警戒が甘くなっていた。

 だが、人の海となった増田軍は落とせない城は迂回し、落とせる小さな城だけを攻めつぶした。

増田家領内が増田家でも随一の豊かさを誇るのをいいことに、現地調達で兵糧を補いながらどんどん奥地に進んでいく。

 余力のある国境城塞は出撃して、敵の小部隊をいくつも撃破したが、続々と送り込まれる敵増援部隊なかにいつしか埋没していった。周囲を敵に満たされた恐怖に脱走する兵もあいつぐ。

 さすがに今度は増田軍が勝ちそうだとみた野武士勢力までもが掠奪の果実をもとめて勝手に加わり、増田軍はその司令官にも把握できない状態に膨れ上がった

――最初から把握するつもりなどなかったのかもしれない。

 増田家(七)は多くの兵を国境に張り付けていたことが完全に徒となった。

 想像以上の規模で攻撃を受けてしまったため、国境要塞地帯を超えて浸透してきた敵を各個撃破できるのは、本拠地の親衛部隊しかない。

 当主は豊かな領地を守るためには一刻を争うと判断した。そこで機動防御部隊を送り出すと同時に、比較的安定している東方国境地帯から守備兵を本拠地に呼び寄せる。

 だが、この判断は大失敗だった。本拠地が手薄になった絶妙タイミングで海から増田水軍が現れたのだ。

 それはほとんど偶然だったけど、防衛側の士気を阻喪させるのに十分だった。まるですべての手が敵に読まれしまっているように感じたのだ。

 築城にこだわりのある増田家の本拠地は豪華絢爛大規模すぎて少数の兵で守るにはまったく向いていなかった。

 なお、増田水軍には滅亡した増田家(十)の船団が加わっている。根拠地をうしなった元当主はうまく潜り込んで家を乗っ取ってやろうと、増田家に入り込んだ。

 ところが計画には誤算があった。

当主肛門にゆるみきった増田家中には同じ野心を抱く人間が多すぎて、

誰もがどうにも身動きがとれない状態になっていたのだ。

(これでは脱糞するのも無理はない)と元当主は妙に納得したのだった。

 しかたがないので家中での地位を地道にあげるべく、戦働きをしている。

桟橋にせまる増田軍(士)から逃げる地獄をくぐり抜けた増田船団は上陸作戦手際もよく、

増田島最高の格式をほこる六層七階のメタブ天主に、いの一番に取り付いた。

 そして自慢の手銃を撃ちまくる。メタブ天主漆喰がつぎつぎと砕けて飛び散った。

 いつもはそろばん勘定にいそしんでいる死の商人も流石に観念した。

「是非もなし……火を放て。雑魚ナメクジを侮りすぎたわ。やんぬるかな」

 増田当主白装束に着替えると、最後の詩を詠んだ。

 人生雑魚ナメクジ 下痢のうんちに比ぶれば 雪マシュマロのごときなり

 かくして増田本拠地増津は落城

 増田島の戦国時代は新しい段階に突入した。

前回

http://anond.hatelabo.jp/20160603183156

次回

http://anond.hatelabo.jp/20160606192640

2016-05-24

守護がでかい問題

鎌倉時代初期、東国において政権確立した源頼朝によって設けられた守護職は、軍事警察的な権限を持つのみであり、地域統治権限は依然として国司にあった。

後年、鎌倉幕府が滅び室町幕府が成立すると、室町幕府はその守護制度踏襲する。

しか守護は、次第に国司権限をも包摂し、独自の領国支配を固めていくようになる。このようにして広域領主化した守護を「守護大名」といい、守護大名トップとした地域支配体制大名国制と呼ぶ。

広域領主として実権を握った守護に対し、足利将軍家の影響力は薄れ、室町幕府守護大名による連合政権様相を呈していく。

さら肥大化した守護大名たちは互いに自己利益を追求して相争い、応仁の乱代表されるような戦乱を巻き起こすようになった。

これを「守護がでかい問題」と呼ぶ。

そして、守護がでかい問題対処し切れなかった室町幕府は衰退し、日本戦国時代突入していったのである

2016-05-04

「驕る平家は久しからず」というけれど

さも当たり前のようにいうけれど、じゃあ驕らなければ天下はそのまま平氏のものだったんですかって話だ。

京への未練を断ち切り福原京に腰を据えて、謙虚にふるまい義仲との和睦がうまくいったとしても、せいぜい頼朝も迎え撃てますよ的な体裁まりだろう。戦力からして自分たちの方から鎌倉へ攻め上がることはできない。飢饉の続く時代でもあるのだから、無理はできない。

そのうちじわりじわりと西国へ押しやられ、天下など夢の話に終わる。

平家は驕らなくても勝てないんだよ。頼朝東国をまとめた時点で、もはや驕りがどうとかいレベルじゃない。

2012-10-02

http://anond.hatelabo.jp/20121001174508

一言坂の戦いで殿を務めたあたりだろ。張飛パクリっぽいけど。

えっ…一言坂?

そんなの長坂坡と違って

お話の上ですら忠勝の個人的武勇では無いじゃん…

(部隊全体としても別に活躍したような話ではない)

秀吉が「東国に忠勝という無双大将が…」と言って褒め称えたのも逸話に入るだろうし。

秀吉がいろんな人に無双とか日本一って言いまくってることぐらい知っておいてくれよ

それなりに統一した基準でやってるつもりなんだよこれでも。

からお前の主観なんか聞いてねえよ

客観的な基準を責めてるのに「つもり」という主観で反論するあたり重症である

別に「これが決定版!」と言ってるわけじゃないしな。

「あの武将を忘れてる」とか「こいつよりあっちのほうが強い」とか「俺ならこの三人を選ぶ」とかよろしく

滅茶苦茶すぎるランキングたたき台としての価値すら無いって言ってんだよ


逸話の評価基準が謎(ていうか間違い多くてクソ)

逸話度と知名度の兼ね合いが謎(お前の個人的裁量じゃなくて基準を示せよ)

・ていうかお前の知ってる武将・好きな武将に後付けで理由つけてるように見えるんだけど

2012-10-01

http://anond.hatelabo.jp/20121001172504

「その人物自体架空か実在か」に拘るのは何の意味があるの?

実在縛りじゃなければ単なる「最強スレ」の論議になってつまらん。

小島は思いついたから入れたけど、いちおう実在が疑われている旨は併記している。

忠勝の個人的武勇がわかる逸話

一言坂の戦いで殿を務めたあたりだろ。張飛パクリっぽいけど。

秀吉が「東国に忠勝という無双大将が…」と言って褒め称えたのも逸話に入るだろうし。

家康に過ぎたるものが…」も。

お前の基準はグッダグダである

それなりに統一した基準でやってるつもりなんだよこれでも。

チンカス以下の存在価値しかない

別に「これが決定版!」と言ってるわけじゃないしな。

「あの武将を忘れてる」とか「こいつよりあっちのほうが強い」とか「俺ならこの三人を選ぶ」とかよろしく。

 
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