はてなキーワード: 搬送とは
縦型と乾太くんとか全然分かってない
結論としてはドラム式と乾太くん、加えて浴室乾燥と広いウォークインクローゼット(WIC)
縦型とドラム型で汚れの落ち具合が違うとか言う奴いるが
心配しなくてもそんなに汚れないしガッツリ汚したときはどうせ手洗いになる
こればっかりは電気の乾燥機は時間がかかるし乾燥中に次の洗濯ができない問題に遭遇する
最近は戸建てでも外に干す人はいなくて、そんな庭を確保するぐらいなら別の使い方をする(建蔽率ギリギリまで家を拡げる、ウッドデッキにするなど)
そうなると二階のバルコニーに干すことが増えるので水回りを二階にすることも多いが
室内に干す場所を確保するのもあり(天井にバーを作るとか)だけど
今時のユニットバスなら当たり前のように浴室乾燥が付いてくるのでそこに干せば良い
時間がかかって良いなら単に換気だけしておいてもそれなりに乾燥するし、最近はエコモードとかで換気メインのものがあったりする
浴室乾燥があっても洗濯物をハンガーにかける作業がめちゃくちゃ大変なのであんまり嬉しくない
そうなると乾太くんの出番である
絶対に入れた方がいいけれど、予算の関係もあると思うのでとりあえずガス栓だけ引っ張ってきておくのもアリ
生活スタイルに合わせて必要なら追加すればいい(住宅ローンに組み込めないけど)
浴室乾燥で乾いた衣類をハンガーから外して綺麗に畳んでタンスに入れる・・・なんてのは昭和まで
今はWICにハンガースペースを潤沢に作って乾いた衣類はそこに突っ込む
乾燥機とかで乾かすのはタオルとか肌着にしておいて、カゴに突っ込んで終わり
タンスなんていらんかったんや
まぁただ、少量のタンスは用意しておいて、あんまり着ない服とかはそっちに畳んで入れて置く方が良い
他の衣類はTシャツだろうが綿パンだろうが全部ハンガーにかけてぶち込む
寝室や子供部屋、リビングを犠牲にしてでもWICは広めに取るのが良い
圧倒的に洗濯が楽になる
とにかくWICを広く取る
初めて又は長期間(10年単位)を開けての検査で事前のCT又はレントゲンを撮影しない、院内で洗腸剤を飲めない、内視鏡検査の実施回数とADRを掲載していない、内視鏡検査を実施する医師が救命救急出身などの門外漢であるクリニックや病院はやめておこう。
大腸ポリープや胃ポリープの見逃しは現代の内視鏡では考えられないが、粘膜に直接発生するタイプの上部消化管の早期癌を見逃すことは消化器内視鏡専門医を持っていない医師では割とある。
またレントゲンやCTを撮らないで自宅で洗腸剤を服用して腸閉塞、腸狭窄を起こし搬送される患者さんは数は少なくともそれなりにいる。
CTかレントゲンを撮る、院内で洗腸剤を飲める、内視鏡検査の実施数とADRを載せている、医師が消化器外科専門医又は消化器病専門医を持った上で消化器内視鏡専門医を持っている、を満たしていればまず失敗はないでしょう。
大阪市の路上を午前0時20分に自転車でリュックの中に包丁とノコギリを入れて進行する37歳がいるという時点で不合理である。警察官は拳銃を持っているところ、木刀、包丁、のこぎりの
どれを振り回しても結論が出てくるわけがない。この3つを振り回すなどという技術により所望の結論が出てくることはない。だからこの37歳はバカである。事案の条件について何も分かっていない
という他がない。また最近の状況にかんがみても、37歳で、大阪市の路上を0時に、包丁とのこぎりをもって自転車で移動している者がいるとは理解されない。ぺちでも、そんなことはしない。
誰もいない町を、包丁とノコギリをもって移動しても何の意味もないというべきである。想定されるのは警察官に遭遇することに決まっているが、この3つを振り回すと警察官に勝てると思っている時点で
精神機能に問題がある。この3つを適用しても、警察官が発砲した場合に所望の結論が出てくるはずがないからである。そして今のご時世になってふとももに3発の拳銃を受けて搬送されている時点で
恥ずかしくてどうしようもない話である。
甲子園とコミケは、どちらも多くの人々が集まるイベントです。しかし、甲子園は高校野球の全国大会であり、コミケは同人誌の展示即売会です。この違いが、熱中症に対する対応に影響を与えていると考えられます。
甲子園は、高校野球の全国大会であり、毎年夏に開催されます。夏は暑い時期であるため、熱中症のリスクが高くなります。また、甲子園は多くの人々が集まる場所であるため、熱中症が集団発生する危険性があります。そのため、甲子園では、熱中症対策に力を入れています。例えば、水分補給を促すアナウンスや、熱中症対策パネルの設置を行っています。また、熱中症の症状が出た人には、すぐに医療機関に搬送されます。
一方、コミケは、同人誌の展示即売会であり、毎年夏に開催されます。コミケは甲子園よりも多くの人々が集まるイベントですが、甲子園ほど熱中症対策に力を入れているわけではありません。例えば、水分補給を促すアナウンスや、熱中症対策パネルの設置は行われていますが、甲子園ほどではありません。また、熱中症の症状が出た人には、すぐに医療機関に搬送されるわけではありません。
甲子園とコミケの熱中症対策の違いは、イベントの性質によると考えられます。甲子園は高校野球の全国大会であり、多くの人々が集まる場所であるため、熱中症が集団発生する危険性が高いです。そのため、甲子園では、熱中症対策に力を入れています。一方、コミケは同人誌の展示即売会であり、甲子園ほど熱中症対策に力を入れているわけではありません。
甲子園とコミケの熱中症対策の違いについて、甲子園とコミケを同じ基準で評価するのは、適切ではないと考えます。甲子園とコミケは、イベントの性質が異なり、熱中症に対するリスクも異なります。そのため、甲子園とコミケに同じ熱中症対策を求めるのは、不公平です。
私は逆にガリで熱中症で運ばれた。何事も過ぎたるは及ばざるが如しですな。ただ増田と違うのは寝不足に疲労MAXだったのに自分の体力を過信して、結果倒れたというダメっぷり。夜に運動してて熱中症で行動不能になったので「夜でも熱中症になるんだなあ。そりゃ屋内熱中症になる方が(高齢者には)多いし、当然かあ」とも思った。フラつき、猛烈な気分の悪さ(吐き気)を自覚したあとヤベェと思ってコンビニやスーパーで体を冷やしたり、冷たい飲み物(よりによってアイスコーヒー)やアイスを食べたりしたけどダメでした。頑張って家まで帰ろうとして騙し騙しやってたが、その場から一歩も動けなくなって#7119に電話して「救急車呼んでいい」と言われたので呼んだらさ、救急隊の人からは「バイタル正常、ちゃんと受け答えできる、過呼吸気味だしパニック発作では?」みたいな扱い受けたけど、搬送先の病院の救急医からは「いや、これは熱中症でしょう」と言われてホッとした。「メンヘラが緊急性がないのにパニックで救急車呼んだクソ迷惑」的な扱いにならなくて良かった。手足痺れてるし、吐きそうだし、そりゃ過呼吸にもなるってばもう! 生理食塩水(?)点滴とアセトアミノフェン点滴打って、夜勤看護師から「少し休んだならはやくベッド開けろや、こちとら救急やぞ、オラ」オーラを全開にされて、強制的にタクシー呼ばされて無事に帰宅したよ。救急外来を守る看護師こわい(こっちも余裕なかったからムカついたけど、間違いなくコイツのおかげで救急がまわってみんなの命が助かってる)、あと熱中症こわい。ほんと、塩分水分以前にそもそも酷暑の中で無理しちゃダメよな。バカだったよ。
8/14追記↓↓↓↓
いろいろ反応ありがとう。
結構言及が多かったから補足すると、多くの人が指摘しているように私の水分補給は水オンリーでスポドリではない。
スポドリを避けた理由は太っている故に糖類とかを気にしたからだが、今思うと小さいサイズでもいいから1本用意した方が良かったかもしれない。救護室でも軽度の熱中症と言われた。ただ、体内に熱がこもっている?と指摘されて、体温は平熱なのに肌が熱かった(だいぶ気分悪かった時に言われたから記憶曖昧かもしれない)
スポドリじゃなくても塩タブレットは持つべきだったと思ってる。水分補給と日射避けだけじゃ全然足りなかった。本当に反省してる。
あとコロナ前は60kg→100kgまで増えたから40kg増量は嘘松じゃない。嘘松だったら良かったと思う。
余談だけど太った理由は外出自粛とメンタル起因もあるから割愛させてください。一応今はMax体重から10kg落としてはいる。太るのは簡単だけど痩せるのはしんどい。運動始めたては膝痛めたりしたけど最近は安定してきた。みんな健康には気をつけてな。
追記終わり↑↑↑↑
コミケ参加は企業ブース目的で、今までサークルも一般もコミケに参加したことはあった。
ただコロナ禍で40kgくらい太ったので参加していた頃と体型はかなり違う。
デブだから数ヶ月前から運動や日差しに慣れた生活をしたし、前日の睡眠も今朝の朝食も待機時間中の水分補給も欠かさなかった。
日傘も差して暑さを凌いでると待機列が動き始めようとした時に嫌な眩暈がした。
一人参加だったし待機列のド真ん中だったから何かあった時に抜け出せなくなった時が怖かった。
慌てて列を抜けて、少し休もうと思ったが、その頃には地面を踏むとフワフワとした感覚がしてやばいとすぐにわかった。
最初は歩いて救護室に行くつもりだったが歩く速度もどんどん遅くなっておぼつかなくなってきて「車椅子で搬送される人」になった。
「男相手に言いにくいと思うけどお手洗いとか行きたくないですか?」って聞かれた時に、そういう聞き方してくれるんだと思った。こんな状況だから性差は気にしてなかったけどいい人だなって思った。
そこから車椅子で搬送される中、気分が悪くなっていく中で声をかけてくれたのは男性スタッフだったのは覚えてる。がんばれとか言ってくれた。それどころじゃなくて顔見れなくて申し訳ないけど、こちらへの言葉というのはちゃんと伝わってた。
後ろ押してくれる人も時々「こんなに暑いと普段は平気でもキツイですよね」とか声かけてくれてて、意識確認とか気を使ってくれてるのはわかっててもありがたかった。頷くことしかできなかったが。
で、増田はデブだから横断歩道の段差移動の時にすげー大変そうなんだ。普通に運ぶだけでキツイと思う。
でも「デブだから」みたいなニュアンスは使わずに「次の段差の時にちょっと手伝える?」って近くのスタッフに声かけてるの。
すまねえと思うし改めてもっと痩せようと思ったよ。
もうすぐ救護室ってところで私以外に搬送してるスタッフの人が「重いんじゃないですか?」って私を運ぶスタッフの人に言ったんだ。
そうしたら私を運んでるスタッフが「今重いとかそういう話してる場合じゃない」って言ってて、言われた時は症状の重さかと思ったけど、多分体重の話をされたんだよね。
なんか、デブでごめんだし人間として扱われてる感じがして嬉しかったって話。
あとなんで急に重いって言われたのかわかんなかったし病人とはいえちゃんと聞いてるってことは言いたいな。
その後「塩分不足ですね」ってことでOS1飲んで休んだら楽になった。
救護室には医者に帰るよう促されてるくらい辛そうな人もいた。軽度の人は少し休んで戻る人もいた。
私は辛かったから数十分くらい横になって、指先の痺れや眩暈がないことを確認して
これ以上迷惑かけたくないし動けるうちに帰りたかったから企業ブースは行かずに帰った。
帰るとき救護室の人(女)に優しい言葉かけてもらったりして、申し訳ないやらありがたいやらでいっぱいだった。
眩暈がした時、とにかく列から抜けることを優先して後のことは何も考えられなかった。
こんなに対策をしているのに、もっと長時間炎天下に晒された時は平気だったのにとか、焦りが大きかった。
今回に懲りて夏コミの参加はやめるよ。
目黒の女児虐待死事件の記事を昼間に読んでしまったからかなぁ。
明日出社なのにこんな時間にこんなもの打ってていいのかな、サクサクいこう。
フェイク入れるよー
20代女
中高私立
ずっと精神科に通ってる
今はCMが流れるくらいには大手の企業で正社員として働いています
もちろん金のない家の虐待の方が何倍も地獄なんだろうけど、金のある家の虐待も地獄です。
幼い頃の記憶がほとんどなくて、色んなところが抜け落ちてるからもしかすると事実と違うところもあるかもね。(補正がかかってしまっているのかも)
あと中学高校の時も事情があって記憶がないから、あやふやかも。ごめん。
まず、父親が異常者。
子供が泣いてたら指を指して大笑いする人なんだよね。おかしいよね?普通は慰めるよね。
なんで殴るの?って聞いたら俺がイラついてるからって答えてくる。今でもそう。
会社では部下を虐めて休職や退職に追い込むのが趣味で、この間も女の部下に「ブスなのに仕事もできないのかよ」と言いまくって休職に追い込んで退職までさせたのを家族に自慢してきた。
あと、私が小さい時からずっと学生時代のいじめ自慢をしてきた。小学生の時に貧乏な同級生の掘っ建て小屋みたいな家を壊しに行って、その家のお母さんやお婆さんが泣きながら「やめてくれ」と頼んできたけど壊してやったぜ!みたいな話を笑いながらするような人。
幼少期の話
・これは後から聞いた話。父親が一歳半の私の足を持って振り回して、投げ飛ばした。頭を打った私はぱっくりいってしまって出血。救急車。頭を縫うことになった。今でも私の頭の上の方には縫った跡がある。
・これも後から聞いた話。父親が無理やり煙草を私に食べさせて緊急搬送、胃洗浄。父親は笑ってたらしい。
・これは記憶にある。家族でマクドナルドに行った時、何故か両親が4歳の私にトレーを持たせたんだよね。それで、階段で転んじゃって、トレーにあったハンバーガーとか飲み物とかポテトとか全部ぶちまけちゃった。やばい、思い出して泣いてしまってる。
三人分で重かったんだよ……
で、父親が激怒。マクドナルドの店内で殴る蹴るをされて、優しい店員さんが新しいのを全部用意してくれた。本当に嬉しかったけど、その時に父親が「こんなことをするお前はもう食事をするな」と言ってきて、食事禁止令が出た。
母親はこの時転職活動中だった。(出産で退職して、私を育てていた)だから、家にいた。
地獄だった。自分でも分かんないんだけどさ、子供って親から絶食って言われて従っちゃうんだよね。しんどかった。今でもトラウマで、絶食系の虐待のニュース見る度にフラッシュバックする。
給食がないからさ、本当に何も食べられない。母親が父親に「水は飲ませてもいいですか?」と聞いて、父親が「水ならいい」と答えてくれたから母親は私に水は飲ませてくれた。お腹タプタプになるまで飲んでもさー、お腹って空くんだよね。
一週間くらい何も食べさせて貰えなかったらなんかもう頭がおかしくなって、畳のい草食べた。美味しかった。めっちゃ美味しかったよ。
みたいなことがまあ多々あったんだけど、よく覚えてない。
大学に入ってから受けたカウンセリングで無理すんなって言われたから蓋をしたままにしておく。
毎日殴られてたし蹴られてたし、父親は不機嫌になると頭からビールをかけてくるからビールが大嫌いだった。今でも飲めない。
その後ビールで汚れたカーペットは幼い私が処理しなきゃいけなかった。
時期はぼかすけど弟が生まれた。
弟の方が酷い扱い受けてるんだけど、小3くらいから私は父親から性的虐待を受けているので、トントンかなーと思うよ。
書きたくもないから詳細は書かない。女児は抵抗できないからね。
今でも隙あらば私の胸や股間を触ろうとしてくる。スマホのカメラを向けて、ムービー撮影を開始すればやめてくれるから、スマホは手放せないけど今は何もされてないよ。
風呂に入ってたら風呂に乱入してくるから、父親が帰ってくる前に風呂に入らなくちゃいけないのがネック。夜遅くに帰ることになったら父親が寝るまで待つか、朝早く起きるしかない。
小学校に入って、家庭が異常なことに気づいた。気づいたきっかけは、父親に「愛人」がいた事。今でも愛人がいるよ。母親公認の愛人。家族全員愛人がどんな人でどんな名前なのか知ってる。だって愛人との話を家でしてるからね。
行政は助けてくれない。当たり前。だって世間体がいいもん。母親も転職っていうか、再就職か。大手企業に再就職してさ、外面は二人とも凄くいいから子供を虐待してるなんて思ってくれなかった。
金がある家はこれが出来ます。
家出も数回したけど、家出をすれば見つかったあと更に酷い目にあうから家出は選択肢から無くなった。
父親がやばい人なのは祖父母から縁を切られていることで何となく察した。高校進学の時に「金は出すから」と言われて、一人暮らしをすることになったらしい。武勇伝のように語っていたけど、父親は都内の出身だし、都内の高校に通っていた。一人暮らしをする理由はないから、多分捨てられたんだと思う。
今は関係修復してて(祖父母も孫は可愛いよね)、祖父母のことを知っているけど、めっちゃ金持ち。
遊びに行くと必ず5万円くれる。これが非常に助かった。(後で書く)
学歴社会に生きてきた両親なので「MARCHはゴミ」と言われて育った。
私はそんなこと思ってないし、ヤバすぎると思う。
小4の頃から中学受験の塾に入れられた。成績が良ければ褒められたし成績が悪ければ殴られて蹴られた。
凄い話をすると、成績が落ちた時に椅子に縛り付けられて、トイレはペットボトルでしなさいって言われたよ。机から移動するな、ずっと勉強しろって事だね。
そんなこともあってか(?)、無事に偏差値の高い第一志望へ合格出来た。
中高が地獄だった。
まず、私立の学校に入れば周りは金持ちばかりだ。私の家だって金持ちの部類だけど、子供の娯楽には金をかけない家だった。
携帯?持ってない。
旅行?行かない。行ったことない。旅行は父親が綺麗な愛人と行くもの。お土産も買ってくれない。
ゲーム機?買ってもらえるはずがない。
お小遣い?ない。
そんな感じで、周りとの格差に愕然とした。友達が出来てもさ、あー……ウチ、おかしいんだわ……とテンションが下がっていく。ブランド物バッグの話してる金持ちの同級生とかね、なんかもう、世界が違いますよ。
何度か、お小遣い欲しい。携帯欲しい。って言ってみたことがあるんだけど、「それなら女なんだから風俗で稼げ」って言われた。
毎日のように殴られたし蹴られた。
タオルで鞭打ちされるのが本当に痛くて、赤い痕が身体中にあった。
この時期に弟が発達障害であることが分かった。父親は激怒して「俺の遺伝子に障害の血は無い」と母親を怒鳴って殴って、何故か私も殴られた。
そんで、父親は弟を他県に連れて行って、置いてけぼりにした。
警察沙汰になったんだけど、外面が良いからあの手この手で言いくるめてすみませんでしたーで済ませてた。許せなかった。本当に今でも怒りで身体が震える。
弟がパトカーから出てきた時に真っ先に抱きしめた。まだ覚えてる。母親も泣いてた。
あの時、ミッキーの絵柄のネクタイの刑事さんだけが父親を怪しんで追及してたのを凄く覚えているし、最後まで納得してなくて「これからは気をつけてくださいね」と嫌味みたいな言い方でチクチクしてくれたのが気持ちよかった。ちょっと怖い見た目の刑事さんだったんだけど、ミッキーのネクタイだったし、優しい人なのかなーと思った。
(ちなみに私はディズニーなんて行かせてもらったことなかった)
後日、父親に「迷惑かけてすみませんでしたって謝りに行け」と言われたので何故か母親・私・弟で菓子折りを持って警察署に謝罪しに行った。
ほんとなんで?お前が行けよ。
もう、何もかもの記憶がない。気づいたら学校にいて、気づいたら家にいた。分からない。
それでも成績は維持してた。
親の金盗んでたのがバレて、父親に半殺しにされた。家に入るなってベランダで生活をすることを強要された。まあこれは私が悪いと思ってたので夜中もベランダで過ごした。
色々ぼかすけど、この辺で自殺未遂を起こして、母親が私がおかしくなってることにようやく気づいてくれた。この時に私を児童思春期の精神科に連れていってくれたことが良かったのか……悪かったのか。
なんか凄く謝られた。私の中の母親と言えば父親に従って、殴られて蹴られて、私に「○○ちゃん、辛いよぉ……」とヨシヨシを求める人だったから、まともだったんだーってびっくりした。
母親が仕事の形態を楽なものに変えた。年収1000万→800万くらいになったけど、その代わりほぼ定時退社。職場も異動願出して家に近いところにしてくれた。家庭を大切にするようにしてくれた。
私は弟の世話のために小学校を休めと言われ、まともに小学校に通えてなかった時期があるので(かなりこの事がトラウマなので書けなかった)凄い進歩だと思った。女性のキャリアが厳しい世の中で、母親は昇進を諦めた。
小学校に通えてなかった時期のことに触れてしまったので、書いておこうと思う。
一歳の弟の世話を私に任せて両親は仕事に行っていた。当然私は学校には行けない。
なんか、弟が、あれ……わかんないな、ごめん、覚えてないんだけど、変な風になったことがあって(ひきつけ?みたいな?分からない……吐いちゃったような気もする)、どうすればいいか分からなくて、でも親の携帯の電話番号なんて覚えてないし、泣きながら赤ちゃんの弟を抱えて近くの家のピンポンを押したことがある。
出てきたのはおじいさんとおばあさんで、事情を察したのか、なんか、色々と処置をしてくれた。助けてくれた。ちょっとトラウマの発作が出てきたからもう書くのを止める。
中学で私は完全にダメになってしまって、不登校になった。鬱で身体が動かなくて、寝たきりだった。
風呂も職島も排泄も介護なしでは出来なくなったんだけど、母親が全部やってくれた。
母親は今でもヒステリー持ちだけど、この時期からまともに会話ができるようになって、普通に良い関係が築けている。
周りとの格差には悩み続けた。金持ちの学校に通ってる貧乏人の気分を味わったよ。帰りに買い食いなんて出来ないし、学食なんて夢のまた夢。
悩んでたら母親がお小遣いをくれるようになったんだけど、それが月2000円だった。月2000円でもありがたかったけど、まあ足りないよね。
2000円は交通費になった。
これが本当に助かった。じいじ ばあば ありがとう。孫は貴方たちのことが本当に大好きです。
弟は私より酷い目にあってたけど、可哀想だから書かないでおく。まず、父親には発達障害持ちってことで人間扱いされてないです。
今でも。
これを書きながら父親が弟を罵倒する声が、リビングから聞こえてる。
高二になって、母親に携帯契約していい?って聞いたらいいよって言われたので母親名義で契約することに成功した。
やっと父親の性的虐待から逃げられて、一安心した。スマホをかざすと逃げるの、ウケる。そんなに証拠を撮られるのが怖いか!なら最初からやるな!クソボケ!
ずっとうつ病だけど、頭が良いことが助かった。父親より偏差値の高いところに進学することが出来た。
家にいたら風俗やって稼げと連呼されるので、バイトを詰めて家に寄り付かないようになった。
なんか疲れてきたから後は書かない。まだうつ病は治ってないし、ぶっちゃけ虐待事件のニュース見る度に発作が起きて頓服飲んでる。
学費を出してくれただけ、マシなんだろうなーと思いながら生きてる。
実家は色々あって出れてない。出たいんだけどねー、私が出たら母親見捨てることになるからね。あんまり非情になれない。色々意見あるだろうけど、母親が「私を置いていかないで」と泣きながら頼んできたことあるし、まあいいかな。
……働き始めてから月8万円を入れることを強要されてて、辛い。
初任給の手取り23↑だけど、8入れるの辛かったよ。地方の中小と変わらんやん!ってなった。
今度交渉したい。
学費を出してやっただろうが!といわれたことがあるんたけど、それなら奨学金借りたかったよ。奨学金の方がうんとマシ。
ちなみに父親はもうすぐ取締役のポストが見えているらしい。第二のビッグモーターになるのかな。
記事へ反応で前にも見たことあるって言われてるから一応違いますーってことで書いとくと、はてな匿名ダイアリー書き方知らなくて改行?空白行の挿入?が出来ないから「 」(空白)を入れて改行してる!
選択とかしてみたら分かるかも。
その人は私と同じように「 」改行の使い手?
はてなブログ初めて書くから、誰かスマホからの改行の仕方教えて欲しいです。(検索をするほどの余裕はないし、もう遅いから寝る)
体調悪くて暇つぶしにはてな匿名ダイアリーの人気エントリ?みたいなのを漁ってたら目黒の虐待事件のやつを読んでしまって、その後色んな虐待記事を読みまくったらみんな金のある家に云々みたいなのを見たから書こうかなと思ったのが発端。
家の近所の橋の歩道を歩いているときに、反対側の歩道から人が飛び降りるのを見た。
誰かが様子を確認して通報するかと思ったけど、車は止まらないし他の歩行者もいないので、我々が車を静止しつつそちら側に渡って下の様子を恐る恐る見ると、その人は河原で血を流して倒れていたので生まれて初めて119番に架電して通報した。
家で行う作業があったので、この場にいないとダメか、どれくらいいれば良いのかを聞いたら「5分くらいで到着するけど待てますか?」と聞かれたので、まあ5分くらいならと思い承諾したら消防・救急・警察が来て最後の鑑識と思われる人の事情聴取が終わるまで1時間くらい待たされて3回同じ事を話させられた。
飛んだ人は、最初は動いていたものの通報中に動かなくなってダメかなと思ったけど、現場の会話からはまだ生きているようだった。救急車のサイレン音が帰宅後に聞こえたので、搬送開始は発生から1時間20-30分は経っている。その後どうなったのかは全く知らない。
オーストラリア・シドニー出身のティム・シャドックさん(51歳)は、1人で船に乗って旅をしている途中、メキシコで犬と出会った。
ベラと名付けられたそのメス犬は、シャドックさんから離れようとしなかったという。ベラに家族を見つけようとしたシャドックさんだが、ベラは彼が船に乗るたびについてくる。
そこで彼はそのままベラを乗せ、4月にメキシコのラパスを出航し、5000km以上離れたフランス領ポリネシアに到達しようとしていた。
ところが、航海開始から数週間後、嵐に見舞われ、船が座礁した。
電子機器と通信システムが損傷したため、シャドックさんは助けを求める連絡をすることができず、ベラと共に太平洋を漂流していた。
それから2か月後の7月12日、メキシコを出航してから実に3か月後に、奇跡が起こった。
メキシコのマグロ船「マーシャ・デリア」を監視していたヘリコプターが、シャドックさんとベラが乗っている船を発見したのだ。
ついに、漁船団グルポマールの社員たちに救助されたシャドックさんは、痩せ細って髭が伸びていたが、船の上で立ち上がることもでき、救助隊の質問に答える気力はまだ残されていた。
しかし、食糧も不足していて危険な状態にあったため、メキシコのマナジージョ市に搬送される前に、乗組員が食事と水分補給、そして治療を提供した。
太平洋の大海原で犬と漂い続けていたシャドックさんは、生魚を食べ、雨水を飲み、小さな船の天蓋の下で太陽を避けて、これまで生き延びてきたという。
釣り道具やサバイバル用品を船に積んでいたことが、命を繋ぐ結果になったと思われる。
海洋サバイバルの専門家マイク・ティプトンさんは、このように話している。
シャドックさんの持久力は運とサバイバル技術の組み合わせによるものです。
また、彼は日中の暑い時には自分の身を守る必要があることも知っています。なぜなら、脱水症状の危険にさらされているときに一番避けたいのは、発汗することだからです。
シャドックさんは、気候と立地のおかげで新鮮な水の供給を確保できたのでしょう。
このような長い航海は、歴史を振り返ると暖かい環境の太平洋で行われることが多いです。万が一座礁した場合、寒い環境だと生き延びる確率はより低くなるからです。
とはいえ、シャドックさんが助かったのは奇跡で、「干し草の山の中の針」を見つけたようなものです。
人々はこの船がいかに小さいか、そして太平洋がいかに広大であるかを理解する必要があります。 遭難者が見つかる可能性は、かなり低いです。
さらに、窮地をシェアするベラがいたことが、違いをもたらしたかもしれません。
座礁となると、その日その日を懸命に生きる必要があり、試練を乗り越え、諦めないためには、非常に前向きな精神的態度を持たなければなりません。夜の海の暗さを想像してみてください。
友人の話によると、シドニーのIT業界で働いていたシャドックさんは、その後退職し、新たな挑戦を探していたそうだ。
大腸がんを克服したこともあり、旅に出て航海を決意したのだろう。旅の途中のメキシコで出会ったベラは、シャドックさんのよき仲間となっていたようだ。
太平洋で漂流していた数か月の間も、ベラはシャドックさんの大きな励みになっていたことで、生き延びる気持ちを持つことができたのかもしれない。
後のメディア取材で、シャドックさんはベラの存在にとても救われたと語っている。・ベラとの別れを余儀なくされる
しかし救助後、シャドックさんとベラは別れることを余儀なくされた。
健康状態を完全に回復させるために、シャドックさんは家族の待つオーストラリアへ帰ることになったのだ。
私は、ベラとメキシコで出会ったとき、ベラのために飼い主を見つけようとしました。でも、ベラは何度も私の側を離れることを拒否しました。
私を飼い主に選んでくれたベラに応じて、一緒に旅を続けようと思いました。(シャドックさん)
漁船の乗組員が救助に近付いたときも、ベラはボートから離れようとしなかったそうだ。
ともに窮地を乗り越えた仲間であるにもかかわらず、ベラと離れ離れになってしまうことはシャドックさんにとってもベラにとっても辛い。
だが、国外のペットをオーストラリアに持ち込むために必要な手続きは複雑かつ厳格で、かなりの費用がかかる。シャドックさんはベラと別れる決断を強いられたのだろう。
犬は「承認国」からの入国を完全に許可される前に、ワクチン接種やマイクロチップの装着、検疫での隔離期間を受けなければならない。
残念ながら、メキシコはオーストラリアへのペット輸入が承認されている国のリストに載っていないため、ベラを連れて行くのはより一層の困難を伴うことになるのだ。・ベラはすぐにメキシコの漁船乗組員に引き取られる
結果、ベラはメキシコに戻ったマグロ漁船の乗組員ヘナロ・ロザレスさんに引き取られたという。
シャドックさんはベラを大切にしてくれることを条件に、ロザレスさんに引き渡したようだ。
ボート乗組員たちは、すぐにベラを気に入り、「素晴らしい」と評した。また、口々に「この犬は私よりもずっと勇敢だ、それは確かだ」とベラを称賛した。
シャドックさんは、疲れた表情だったが、救助されたことに大きな感謝の言葉を口にし、このように語った。
ベラは美しく、特別な犬です。ベラが生きていることにただ感謝しています。
私を救助してくれた船長や漁業会社の人たちには、感謝してもしきれません。私は今生きていますが、本当に生き延びることができるとは思っていませんでした。
しばらくの間、健康状態がかなり悪かったので辛かったです。 かなり空腹だったし、嵐を乗り越えられるとは思いませんでした。
漂流中は、何かを修理して時間を過ごし、「ただ水の中を楽しむ」ために海に入って前向きに過ごしました。
海にいるのは本当に楽しかったし、外にいるのも楽しかった。だが、状況が厳しいときはただ生き残ることだけを考えなければならない。
シャドックさんを診断した医師によると、厳しい試練の中にいたにもかかわらず、彼の健康状態は良好だそうだ。
とはいえ、究極の状況にあったシャドックさんは、ゆっくりと正常な状態に戻る必要があり、数か月は経過観察をしながら、必要に応じてさらなる治療を受ける予定だということだ。
ちなみに、シャドックさんを発見した漁業会社でグルポマー社のアントニオ・スアレス社長は、同社での船団を近代化していて、同船は最小で50年以上経過しているため、これがマリア・デリア号の最後の航海になる可能性があると述べた。
もしそうなら、それは「人命を救った船としての、素晴らしいお別れになるだろう」と、スアレス氏は語っている。
という話を、5月の26日くらいに投稿したんだけど、その後日談。
パートナーの弟(以下単に「弟」表記)は、幸い一命を取り止めた。それはいいのだが、なんと最近、入院先の病院を追い出され、ヤブ医者との悪評の高い某病院に転院したところだ。
数日前の夕飯時、パートナーが言った。
「そういえば今日、母さんと一緒に弟のお見舞いに行ってきたんだけど、」
「へぇ。それにしては帰り早かったけど、仕事は早退してきたのかい?」
弟が救急搬送からそのまま入院した大病院は、隣の隣の隣の市にある。往復だけでも二時間くらいかかるのだ。
「いや、普通に仕事終わって帰ってきて、母さんを実家から拾って行って帰ってきたよ」
どんなマジックを使ったらそんなことが出来るのだろうか。いぶかしがる僕に、パートナーはまた言った。
「ファ!?」
●●病院は、僕らの棲むアパートから徒歩数分の所にある。一応は総合病院で、スタッフが沢山いるにも関わらず、常に外来患者の姿は疎らだ。ヤブ医者だという悪評がひろまっているからだ。一般の外来患者相手というより、偶々救急搬送されてきた怪我人や急病人、そして併設されている老人ホームの入居者を診ることで回っているような病院。ちなみにそこの老人ホームは通称「終の棲家」と呼ばれ、介護士達が入居者を虐待しているのが公然の秘密となっている。
いったい、大病院に入院していた弟が、どうしてあんな病院に転院してきたのか。見舞いに通うのには遠く離れた市よりも近所の方がいいとはいえ、●●病院とはずいぶんな選択だ。
「あいつ、病棟の看護師さん達に悪質なセクハラやっちゃったとかで、追い出されちゃったんだよね」
脳に損傷を受けた患者にはよくあることだが、弟は手術後に精神が錯乱してしまったというか、人が変わったというか……。病前は大人しい性格で、女性に対しては自ら絡んでいかない方だったのだが、脳の損傷した場所が悪かったのか、人間らしい理性を喪ってしまい、言動に抑制がきかなくなってしまった。
入院していたのは脳外科の病棟だから、そこに働いている看護師達はもちろん、そういったことは脳を傷めた患者にはよくあることだと理解しているはずで、実際研修などでちゃんと教育されてきた人達なのだという。
ところが、弟を担当した看護師達が相次いで弟の看護を続けるのを拒否し、配置替えして欲しいと訴えてきた。
すると、そこの看護師長がかなり気の強い人で、部下を守るために強気で病院側と闘った。そして遂に看護師達の要求が通り、弟はベッドにベルトで拘束され、県内の病院で、家族が通える範囲内にあって、脳外科病棟があってリハビリも出来る病院が探された。
そして、全部の条件に当てはまる病院といったら偶然にも●●病院しかないということだったのだ。
転院の理由が理由だし、●●病院でも弟は冷遇されるのではないか……最悪、看護師達からセクハラの報復にかこつけて虐待されるのではないかと、他人事ながら心配になってしまう。
パートナーはショックを受けて沈んでしまっているが、彼らのお母さんはどうなのだろう。実をいうと、お母さんは他人の事より自分の面倒くささを優先するような人だから、我が子が病院でどんな目に遭わされても、替えのパジャマを届ける手間が省ける方を選びそう。
それにしても、いくらなんでも●●病院というのは。某医大病院とか、もっと良いところではよくなかったのだろうか。
パートナーは、あの弟が看護師全員に拒否られるほどのセクハラをしてしまったことにもショックを受けてしまっている。
「普段大人しい人の方が、普段抑圧されている本性が解き放たれると凄いっていうじゃん」
「いや、脳が変われば性格も変わってしまうものだから。今の状態が弟くんの本性な訳じゃないから安心してよ。回復してくれば言動も元に戻ってくるらしいしさ」
「そうかなー。でも、看護師全員、担当から外してくれなきゃ辞めるとか言い出すほどのことをしちゃったんだぞ。いったい、どんだけだよそんな」
「いまどきは人手不足だから病院も看護師さんを大事にするし。不快なことをされたら堂々と拒否していい、被害を訴えていいって世の中でもあるよ。誰も我慢しなくてよくばなったから我慢しなくなっただけだから、それが弟くんの言ったりやったりしたことの重さとは必ずしもイコールではないと思う」
「うーん」
この件について、僕が何か言ったところでパートナーにはなんの慰めにもならなさそうだ。
まあ、僕は弟の介護に関わる訳じゃないから、口出しする権利もないだろうし。
僕は、パートナーの家族、弟にもお母さんにも誰にも認めて貰えていない存在なので、出来ることなんて何もない。
23日午後11時40分ごろ、埼玉県戸田市笹目1丁目の路上で、
検問中だった埼玉県警蕨(わらび)署の男性警察官2人が職務質問した男に刃物のようなもので腕や頭を切られ、
応援に駆けつけた別の男性警察官2人も切りつけられた。4人とも病院に搬送されたが命に別条はないという。
署は殺人未遂と公務執行妨害の疑いで住居、職業ともに不詳の自称50代の男を現行犯逮捕した。男は身柄を確保された
際に自分の上半身を傷つけて負傷し、病院に搬送された。署は回復を待って詳しく事情を聴く方針だ。男は刃物のようなものを複数所持していたという。
署によると、検問中の
30代巡査部長
が歩いて近づいてきた男に職務質問したところ、男が突然切りつけてきたという。
応援で駆けつけた30代巡査と40代巡査部長の手なども切りつけたという。