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はてなキーワード: 藤原氏とは

2024-02-05

渡辺→なべちゃん

小林→こば ばやしこ

内田うっちー うーやん

川端→ばたやん

力間→りっきー

山田→だーやま

鈴木→ずっきー

後藤ごっちん

藤原藤原

栗原→くりり

柿崎→かっきー

2024-01-27

今回の大河ドラマ無理かもしれない…

大河ドラマは、一人暮らしをはじめた私と母を繋ぐ共通話題の一つだった。

父とはアニメ趣味が近く、わりと共通で観ている作品が多かったのだが、母とはあまり娯楽の趣味が合わなかったため、ようやくテレビの話で盛り上がれて母も嬉しそうだった。

といっても「青天を衝け」と「どうする家康しか見てなくて、本作が三本目なんだけど。


特にどうする家康は、地元静岡で、一人暮らし岡崎でしている私たち親子にとっては、初めて大河ドラマ館を制覇したり、聖地巡礼したり、一年でたくさんの親子の思い出をつくってくれたとても楽しく思い出深い作品だった。


そして今作。私は正直一話目から「無理かも…」となり、三話の今、「母と共通話題」「苦手な平安時代の大量の藤原氏の見分けをつけられるチャンス」「おなごの衣装かわいい」という3点がなければ今すぐにでも脱落しそうだ。

反面母は、「韓国ドラマみたいで面白い!最高!」ってなっており、「今回は辞めておこうかなあ…」とも言い出しにくい。


こういうときアンチ意見を見て心を落ち着かせようと#反省会検索してみたものの、全然活用されていなかった… あんなに楽しかったどうする家康は毎週のようにアンチ湧いてたのに…


なんかこう、性的な話が多かったり、女官の噂話みたいな人間の生々しく汚い感じが前面に出ていてつらい… でもようやく一緒に見れる番組がある!って嬉しそうな母を思うとなんとなくやめるとも言いづらいし、私自身母と番組を介したコミュニケーションを取る時間は好きだったので頑張りたいがしんどいな…

時代的に側室とかしょうがない部分はあるけど、わりと今まで見てきた大河ドラマは「史実が許す限りなるべく正妻love」「極力同時期に複数の妻が出てこない」みたいなできる限り汚さを感じさせない配慮を感じたけど、今回ゴリゴリ悲しい女の人とか気の多い男の人出てくる…しょうがないことだけどファンタジーで生々しさとか性的ものとか醜さみたくない…

2023-10-16

中臣鎌足まり藤原氏末裔も今じゃただの競馬好きの一庶民

徳川氏過去に遡れば源平藤橘のどれかに行き着くはすで藤原氏末裔のようなものであるのだが、徳川当主は今も事実上華族のような扱いを受け国から特別視されている。

一体どこで差がついたんでしょうねえ。

やっぱ1000何百年も過去偉人の威光を持ち越せるってわけしゃないのか。徳川みたいに最近? まで努力し続けた家だから今も庶民を超えた存在としえ扱ってもらえるのねえ

2023-09-16

岸田が「女性ならでは」うんぬんで若干炎上しているみたいだが

おれは女性ならではっていうことはアリだと思う

女性男性より事務的な、あるいは政治的能力が劣るわけではないけども

センスはやっぱり違うので

そんで、ストレートあるいはノンケな男女にもそれぞれ男性的な部分や女性的な部分がある

岸田にも森にも麻生にも女性的なところは確実にあるのよね

高市加藤松川などにも男性的なところあるしさ

女性政治的能力男性と変わらないのなら、政治家閣僚女性比率なんか関係ないはずなんだけど

でもやっぱり、女性政治家おっさんの姫だったり息子がいない政治家後継者にすぎなかったりするよね

なんかさ、加藤鮎子とか塩崎彰久とかさ、親がリベラルに見えていた政治家の子供が家業を継いでいたりするのは

実は彼ら自身しんどいんじゃないか

だけどさ、親が金を持っているおかげで高等教育を受けられて、しんどいことを引き受けなければ責任を果たせないと

考えているとすれば、藤原氏の子孫みたいな感じかもな

わしらには関係ないので、とっとと家業やめれば?としか思わないけどさ

職業選択の自由憲法保障されているわけで

やんごとなき方々以外はね

2023-07-22

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)

名称概要
463年吉備氏の乱雄略天皇吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。
479年星川皇子の乱雄略天皇吉備田狭の妻のあいだに生まれ星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。
527年磐井の乱朝鮮半島出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。
587年丁未の乱仏教布教を巡って、大臣蘇我馬子と、大連物部守屋対立し、戦に発展した。蘇我氏勝利した。
645年乙巳の変中大兄皇子中臣鎌足らが、朝廷壟断していた蘇我入鹿暗殺、続いて蘇我氏粛清した。
672年壬申の乱天智天皇後継者争いが発生し、皇太子大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子挙兵した。大海人皇子勝利して天皇となった。
729年長屋王の変皇族長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。
740年藤原広嗣の乱藤原四兄弟の死により藤原氏勢力が退潮し、九州左遷されて不満を持った藤原広嗣太宰府挙兵したが、朝廷軍により討伐された。
757年橘奈良麻呂の乱橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。
764年藤原仲麻呂の乱孝謙上皇対立した太政大臣藤原仲麻呂恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。
780年宝亀の乱朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷族長伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純殺害して反乱を起こした。
782年氷上川継の乱天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。
807年伊予親王の変藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王自死したが、のちに冤罪と認められた。
810年薬子の変平城上皇嵯峨天皇対立が激化し、平城上皇挙兵決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇出家した。
842年承和の変嵯峨上皇崩御に伴い、皇太子恒貞親王擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王皇太子となった。
866年応天門の変応天門放火があり、大納言伴善男が「左大臣源信仕業だ」と告発したが、逆に伴善男真犯人だとされて流罪になった事件
878年元慶の乱長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。
889年寛平・延喜東国の乱関東治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。
901年昌泰の変右大臣菅原道真が失脚し、大宰府左遷された事件左大臣藤原時平陰謀だとされる。
938年天慶の出羽俘囚の乱朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明
939年承平天慶の乱東では坂東平氏平将門が、西では藤原一族藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。
947年藤原是助の乱伯耆豪族藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。
969年安和の変謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣源高明太宰府左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。
986年寛和の変皇太子の外祖父であった右大臣藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件
995年長徳の変「花山法皇自分恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したこと藤原道長が台頭していく。
1028年平忠常の乱坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。
1107年源義親の乱源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏繁栄きっかけとなった。
1113年永久の変千手丸という童子鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。
1156年保元の乱後白河天皇藤原忠通派と、崇徳上皇藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇流罪となった。
1160年平治の乱信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝クーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。
1180年治承・寿永の乱いわゆる源平合戦平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府樹立された。
1184年三日平氏の乱平氏都落ちのあと、伊賀平田家継、伊勢平信兼藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。
1189年大河兼任の乱奥州藤原氏の家臣だった大河兼任出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。
1199年梶原景時の変源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。
1201年建仁の乱梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府鎮圧された。
1203年比企能員の変将軍源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍地位を追われた。
1203年三日平氏の乱二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅鎮圧された。
1205年畠山重忠の乱平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。
1213年泉親衡の乱北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方くらませた。続く和田合戦きっかけとなった。
1221年承久の乱後鳥羽上皇北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇隠岐に配流された。
1293年平禅門の乱平頼綱北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。
1305年嘉元の乱得宗北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。
1325年安藤氏の乱津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。
1324年正中の変後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝佐渡流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。
1331年元弘の乱後醍醐天皇鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。
1335年中先代の乱最後得宗北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。
1336年建武の乱後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇吉野に逃れて南北朝時代が始まった。
1366年貞治の変室町幕府で権勢を振るった斯波高経斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。
1375年水島の変九州派遣された今川了俊が、同じ北朝少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏大友氏などが離反した。
1380年小山氏の乱鎌倉公方・足利氏満下野守護小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。
1387年小田氏の乱常陸小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。
1389年土岐康行の乱有力守護の弱体化を図る将軍足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。
1392年明徳の乱一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍足利義満挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。
1395年田村庄司の乱白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。
1399年応永の乱六カ国の守護である大内義弘が将軍足利義満対立鎌倉公方と手を結び、土岐氏山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。
1411年飛騨の乱飛騨国司姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。
1413年伊集院頼久の乱島津家後継者争いをきっかけに、当主島津久豊対立した重臣伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。
1416年上杉禅秀の乱関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。
1422年小栗満重の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。
1423年越後応永の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。
1429年大和永享の乱幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。
1438年永享の乱鎌倉公方・足利持氏関東管領・上杉憲実の対立から室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。
1441年嘉吉の乱三カ国守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍足利義教暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。
1443年禁闕の変南朝復興を唱える勢力御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。
1455年享徳の乱足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。
1457年蠣崎蔵人の乱陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。
1457年長禄の変赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。
1467年応仁の乱畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから東軍細川勝元西軍山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。
1476年長尾景春の乱関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。
1479年毛利次郎の乱赤松氏らの支援を得た因幡国人毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。
1486年江戸城の乱谷上杉氏の当主上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。
1487年長享の乱享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。
1487年長享・延徳の乱将軍足利義尚が自ら軍を率いて近江守護六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。
1489年山名新九郎・小太郎の乱伯耆守護山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。
1490年佐竹の乱佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。
1502年伊庭氏の乱長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔挙兵するが、最終的に鎮圧された。
1507年永正の乱越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いか関東を二分する戦いに発展した。

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

2023-07-01

anond:20230701175236

藤原氏末裔って出るけど、まさかあの教科書に出る藤原氏か?

自分では思ってなくても実は高貴な血筋ってことあるんだなあ

ラノベ馬鹿にできないわ

2023-02-14

anond:20230214122609

大化の改新で滅ぼされたのは本家だけど他の蘇我氏はまだ生き残ってた(というか本家勢力争いして中大兄側についた蘇我氏もいたし、本家が滅びることで氏トップになって美味しい思いもしてる)し奈良時代序盤はギリ高級貴族だった

奈良平安を経て貴族ほとんど全部藤原に塗りつぶされてく過程で徐々に階級が落ちてって最後の方は地方豪族あいつどうやら蘇我氏らしいがよくわからん、ぐらいにおちぶれて消えた

外戚権力をふるうのにしても当初は蘇我氏がやってたのを、藤原氏が蘇我氏の姻戚という形で入り込んでうまいこと蘇我氏から藤原氏に外戚ルールを入れ替えてった

 

足利家や、織田家、豊臣家など武士名家()が同じことをやって、自分血縁藤原氏に嫁入りさせて生まれた娘を天皇家に嫁入りさせ、藤原の名を借りて外戚の仲間入り、を繰り返してけば藤原上流層を乗っ取って足利外戚家、豊臣外戚家になるチャンスもあったんじゃないか

そういう発想に至らなかったのか、やるメリットなかったのか、藤原氏が巧妙でそのへんのガードが固かったのか

anond:20230213024720

天皇家排除しなかったこと以上に藤原氏排除されなかったのが不思議

藤原氏の前に藤原氏立ち位置にいた蘇我氏は何度かの政変を経て徐々に中央から排除され消えていったのに、

蘇我氏立場を乗っ取った藤原氏は何度もあった政変ダメージを受けつつも生き残り、

平安時代後半には実質的貴族イコール藤原氏になりおおせ、

第二次大戦開始の自滅ボタンを押す役を引き受けるまで生き残った

奈良時代に、平安時代に、鎌倉時代に、南北朝時代に、戦国時代に、どこかのタイミング藤原氏が別の家系に入れ替わっていたら、

日米開戦しなかったIFがありえたのだろうか

2023-01-09

anond:20230109024217

日本には人権民主主義という概念がないからね

( ゚Д゚)ハァ??と思った。

日本の歴史や文化に対して浅い理解しかない欧米人結構そう思っているらしく、日本男尊女卑女性人権が無い国と勘違いしていろいろかましてくるからむしろ残念。

女性作家世界で初めてまれたのは日本だし、女性財産権御成敗式目保障されていたんだが?

欧米では長らくできていなかった政教分離鎌倉幕府成立のときにできたし。

しろ明治時代ぐらいに欧米男尊女卑文化を変に輸入したこと女性の権利が減ったんじゃないの?

ちなみに、匿名選挙みたいな仕組みは藤原氏が力を持ち始めた時代にはすでにお寺でやっていたらしい。

全員覆面をして、声色を変えて意見を言い合うことで、自分立場などにとらわれない自由議論をしていたと言うけれど...

「僕の思う最強の人権民主主義」みたいなのは無いけれど、文化に根差し人権民主主義も昔からあったと思うよ。

2022-12-08

anond:20221208165303

平成は平宮成重さんの略だからな。

平家より過ぎる。

元号藤原氏源氏平家の持ち回りにすべきだ

成宮寛貴芸名活躍し、2016年芸能界引退した元俳優、平宮博重(なりみや・ひろしげ)さん(38)

2022-09-15

福満しげゆき

ふと思ったけど、福が満ちるってすげー縁起いい苗字だな

と思ったらもともとは福じゃなかったらしいへー

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%A6%8F%E6%BA%80

富山県である越中国砺波郡福光村が起源ルーツである中臣鎌足天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)利仁流井口氏族。ほか滋野氏(現長野県である信濃)などにもみられる。 「福」は深・吹などが転化したもの

2022-07-17

自民党統一教会関係って蘇我氏親子を滅ぼすために鎌足と結託したら

今度は藤原氏朝廷支配されちゃったみたいな感じ?

2022-04-10

anond:20220410212705

チンギスハーンの遠い親戚であり、それは我々がよく知っている人間である

チンギスハン一族神風に吹かれてモンゴルに帰ることも出来ずに日本で生き残ることにした、その時彼らを匿ったのが藤原氏であり、藤原氏の一員に加わったということで加藤の名が彼等に贈られることになった。

そうして現代コント職人となった彼の名は加藤茶、そう、チャハーンとは彼のことなである

 

因みにこれは今考えついた嘘なので実際にモンゴル人に言うと「アホ死ね❗️」と言われること請け合いである

2022-04-04

日本における部族名を書く場合蘇我とか平群とか、あるいはのちの源平藤橘になるのでは?

この話題

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1868246

個人的にはウジ(氏)が日本における部族なのだと思っていたので、みんなが県名を部族名として名乗ると考えたのが意外だった。

俺は平Tairaだな。たまに、源平以外に由来がある名字の人がいると嬉しい。藤原氏でも北家以外にルーツがある(と考えられる)名字は熱い。

穂積さんとか久米さんは激アツ。伴さんとか磯部さんもヤバい

ほとんどの人がTairaかHujiwaraになるであろうところ、そのまま名字部族名でHodumiとかKumeとか書ける。

2022-02-12

anond:20220212010453

この増田の言うように私達は歴史というものを知らなさすぎるのだと思う。

色々なコメントがこの増田に対してつけられているが、

ほとんどが(理系分野でいうところの)疑似科学のような論でしかない。

そして私達は平安時代末期の情勢というものステロタイプ的にすら理解できていない。

私達は院政しろ藤原氏摂関政治しろその権力の源泉は天皇による日本国統治機構によるものであるということが理解出来ていない。

そして文学としての平家物語というものに対する理解ほとんどない。

アニメ平家物語で描かれている世界文学としての平家物語なのか、

歴史としての平安時代末期のことなのか?すら理解することが出来ない。

私達はあまり無知で卑小な存在であるしか言いようがない。

もっと勉強せねば。

anond:20220212135903

「完全論破」は安倍元総理も愛用する美しい日本勝利宣言です

NHKコメンテーターレベルお粗末すぎ。

藻谷氏といい藤原氏といい今まで言ってきた事もう一度検証したら恥ずかしくて人前にでれないでしょう。

藻谷氏はデフレの原因は人口減少とか本に書いてましたが、人口減ってもデフレに陥っていない国はいくらでもあります

この前フジテレビで完全論破しましたが、恥を知れといいたいですね。香山リカしは論外。

https://i.imgur.com/Fc1lq.jpg

2021-10-08

anond:20211007234035

とりあえずググってみたら1890年代くらいの文章がたくさん引っかかった。

島田三郎ほか『近世泰西通鑑』1884年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/776556?contentNo=219

然レドモ此ノ陰謀最モ熱心ナル助成者ノ一人ハ「ノウゴロド」ノ大僧正「セッチン」ナルカ、「セッチン」ハ俗帝ニ反シテ其ノ管内ニ在ル所ノ衆多ノ法皇即チ道士煽動セリ

今回見つけた中では最も古かった。これはトーマスヘンリー・ダイアーの『History of Modern Europe』の翻訳で、原文では以下のようになっている。

But one of its most zealous supporters was Setschin, Archbishop of Novgorod; who incited the multitude of popes or priests in his jurisdiction against the "profane" Emperor.

天野為之『高等経済原論1891年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/799370?contentNo=128

「グドウィン・サント」ヨリ成リ世界中最モ不毛土地ナリシ「フランダース」ノ「ペース・デ・ウエース」モ勤労ノ効ニ依リ豊饒ナル性質ニ変シ今ニテハ欧州最モ生産多キ土地の一ト為レリ

こちらはJ・S・ミル『Principles of Political Economy』の翻訳で、原文は以下のとおり。

One of the barrenest soils in the world, composed of the material of the Goodwin Sands, the Pays de Waes in Flanders, has been so fertilized by industry, as to have become one of the most productive in Europe.

最初の「One of the barrenest soils」については「世界中最モ不毛土地」と訳しているあたりに苦心がうかがえる気がする。

田口卯吉『史海 第7巻 光明皇后1891年

光明子は嘗て我邦土の上に生れ出てたる最も明敏なる婦人の一人に御座すなり

日本評論」誌による竹越與三郎『マコウレー』評

https://books.google.co.jp/books?id=y3ljPfzhz6EC&pg=PP11

加ふるに本書の主人公マコウレーは、著者が最も同情を表せる一人にして、其著作は著者が日夕誦読精通する所、其時代は著者が最も熟通せる所なりといへば、本書の著者が本書に置ける得意想ふべきなり。

竹越與三郎『マコウレー』は1893年刊行らしいので批評も近い時期に出たのではないか。「日本評論」は、後の日本評論社の雑誌ではなく、1890年から村正久が発行したという同名の雑誌のことと思われる。

森鴎外『月草』1896年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871718?contentNo=235

されどすべての文字上にあらはれたる人心の形象を文学なりとして、新聞紙最も重要なる文学の一つとせむは、文学の義をあまりに広く取り過ぎたるものにて、これがために青年文学会の進歩の多少障碍さらるべきは惜むべき事なり。

竹越與三郎『二千五百年史1896年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993477?contentNo=128

良房藤原氏中、無学無術、最も拙劣なる政治家の一人なりき。

再び登場の竹越與三郎。今度は本人の文章である

外山正一『藩閥之将来 附教育之大計』1899年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/809188?contentNo=11

リーランド・スタンフォルド」大学ノ如キハ、千八百八十五年ニ「リーランド・スタンフォルド」氏及其夫人ヨリノ莫大ナル寄付金ニ依ッテ創設セラレタル大学デアルガ、今日デハ、米国ノ諸大学ノ中デ最モ盛大ナルモノノ一デアル



このように並べてみても、通説のとおり英語の「one of the most 〜〜」構文を直訳したものから「最も〜〜の一つ」構文が広まっていったように思える。つまり「誰が言い始めたの?」という質問に対しては「明治初期の翻訳家のうちの誰か」が答えになる。明治といえば、いわゆる言文一致運動があったように、まだ「近代日本語」自体が固まりきらず模索されていた時期であるし、またここに挙げた森鴎外田口卯吉・竹越與三郎・外山正一などは、いずれも英語の使える教養であるので、意識的に「直訳」的な表現を取り入れていったのだろうとも思われる。ちなみに、そもそも「〜〜の一つ」といった言い方自体が、英語の「one of 〜〜」から多用されるようになったという話もあるらしい。そうした文体は「欧文脈」「欧文直訳体」だとか言われて研究対象になっているので、気になるなら本格的に調べてみてはどうだろうか。

2021-09-01

anond:20210817083708

基本的日本権力構造って二重構造入れ子構造なんだよね

天皇がハッキリ権力持ってた時期ってほとんどないでしょ

天皇権威藤原氏権力天皇権威鎌倉幕府権力、そこから源氏権威執政権力時代や、天皇権威大名権力時代天皇権威将軍権力将軍権威老中権力

みたいな

歴史的権威権力の分離とその所在曖昧にしたまま社会を作るのが日本人得意なんだよね

実力制→権力的なものと考えると

天皇を実力制にしたら、また何らかの形で曖昧権威権力の分離がおこるんじゃないかな?

2021-08-03

anond:20210803171721

藤原氏「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」

2021-07-11

日本天皇51~100代

51.平城天皇(806~809)

 官司の統廃合、観察使の派遣など行政の立て直しに取り組んだ。藤原薬子を寵愛したが、譲位薬子の変が起きたため、出家した。

52.嵯峨天皇(809~823

 薬子の変鎮圧弘仁格式新撰姓氏録編纂した。三筆の一人にも数えられる文化人

53.淳和天皇(823~833

 経国集令義解、秘府略を編纂させた。

54.仁明天皇33~850)

 在位中に令義解施行され、日本後紀が完成した他、承和の変が起き藤原氏繁栄の基礎となった。医学書道和歌など初学に精通した知識人

55.文徳天皇(850~858)

 続日本後紀編纂を開始した。病弱であったため、政治の実権は藤原良房がが握った。

56.清和天皇(858~876)

 幼くして即位したため、良房が実権を握り、元服後も握り続けた。在位中に貞観格式編集された。

57.陽成天皇(876~884)

 乳母子を殺す、宮中で密かに馬を飼うなどの奇行が多く、藤原基経譲位させられた。

58.光孝天皇(884~887)

 55歳という高齢即位し、基経に「実質的関白として政治を任せた。

59.宇多天皇(887~897)

 阿衡の変により、藤原氏を疎み、菅原道真を重用した。在位中に多くの歌人が輩出され、遣唐使廃止された。

60.醍醐天皇(897~930)

 藤原時平讒言を信じ、道真を左遷した。在位中に古今和歌集勅撰、三代実録、延喜格式編纂が行われ、その治世は村上天皇と共に延喜・天暦の治と称された。

61.朱雀天皇(930~946

 在位中は天災が多発し、平将門藤原純友が乱を起こすなど、多難な時を過ごした。

62.村上天皇946~967)

 乾元大宝鋳造し、天徳歌合、後撰和歌集などを編纂させた。

63.冷泉天皇(967~969)

 病弱であったため、藤原実頼関白として実権を握った。安和の変の後は、摂政関白が常置されることとなった。

64.円融天皇(969~984)

 藤原氏政権争いに翻弄され、出家文化人として風流生活を送った。

65.花山天皇(984~986

 女御の死を悼んだところを、藤原兼家に計られて出家した。

66.一条天皇(9861011)

 在位中藤原道長が実権を握り、紫式部清少納言和泉式部などの文化人活躍した。

67.三条天皇1011~16)

 藤原道長に絶えず退位を迫られ、眼病、脚気理由に退いた。

68.後一条天皇1016〜36)

 道長の孫。在位中は道長・頼通が実権を握り、藤原氏の全盛期を迎えた。

69.後朱雀天皇1036~45)

 在位中は頼通が関白として実権を握った

70.後冷泉天皇1045~1068)

 在位中に平等院鳳凰堂が建立され、前九年の役が起きた。

71.後三条天皇1068~72)

 藤原氏を疎んじ、新政を行った。記録所を設け、成功、重任を禁じ、宣旨枡を定めた

72.白川天皇1072~86

 在位中に富士山噴火後三年の役が起きた。譲位後、院生を行った。

73.堀河天皇1086~1107)

 在位中は院生が行われたが、藤原師通の補佐により自らも政治に関与し末代の聖王と称された。

74.鳥羽天皇(1107〜23

 譲位後、崇徳~後白河の3代に及ぶ院政を行った。崇徳院を無視して、後白河天皇即位させたことが保元の乱の原因となった。

75.崇徳天皇(1123~41)

 鳥羽上皇冷遇され、譲位させられた挙げ句、息子の即位も阻まれた。これを不満とし、保元の乱を起こすも敗れ、讃岐に流された。死後怨霊として恐れられた。歌人としても名高い。

76.近衛天皇(1141~55)

 17歳で亡くなったため、崇徳院、藤原忠実・頼長親子に呪われたのではないかと噂された。

77.後白河天皇(1155~58)

 保元の乱崇徳院を破った後、譲位院政を行った。平治の乱治承・寿永の乱鎌倉幕府成立などの激動の時代の中、権謀術数を巡らせ朝廷権力を維持した。

78.二条天皇(1158~1165)

 崇徳の子差し置いて、皇子になったため、保元の乱が起きた。即位後は後白河院院政抵抗するも病気のため叶わなかった。

79.六条天皇(1165-68)

 自身への敵対勢力擁立されることを恐れた後白河院によって、わずか4年で譲位させられた。

80.高倉天皇(1168-80)

 清盛と後白河院対立に苦しめられ、譲位した。

81.安徳天皇(1180~1185)

 壇ノ浦の戦いで入水した。日本史上最も短命な天皇で、わずか7歳で崩御した。

82.後鳥羽天皇(1183~98)

 譲位後、土御門~仲恭の3代にも及ぶ院生を行う。承久の乱に敗れ隠岐に流された。

83.土御門天皇(1198〜1210

 父である後鳥院とは不和承久の乱にも加わらなかったが、自ら望んで土佐に流された。

84.順徳天皇(1210~1221)

 承久の乱に参加するために譲位し、佐渡に流された。

85.仲恭天皇(1221)

 父順徳が倒幕を企てたため、即位後78日間で廃位された。

86.後堀河天皇(1221~1232)

 わず10歳で即位したため、天皇になったことのない守貞親王後高倉院として異例の院政を行った。

87.四条天皇(1232~1242)

 滑石を用いたいたずらが原因で転倒し崩御した。

88.後嵯峨天皇(1242~1246)

 譲位後、2代にわたる院政を行った。死に際して、帝位継承者決定を幕府に委ねるとしたため、南北朝問題の原因となった。

89.後深草天皇(1246-1260)

 持明院統いわゆる北朝の祖。

90.亀山天皇(1260~74)

 大覚寺統いわゆる南朝の祖。父後嵯峨院に愛され、兄後深草院差し置いて子の後宇多天皇即位させたため、南北朝問題の原因となった。譲位後南禅院を建立

91.後宇多天皇(1274~1287)

 大覚寺統。在位中に元寇があった。譲位後、持明院統伏見天皇即位させるが、続いて持明院統後伏見天皇即位には反対したため、両統送立が始まった。院政を行うが、後醍醐天皇対立し、政治から身を引いた。好学の天皇として知られる

92.伏見天皇(1287-1298)

 玉葉和歌集勅撰させた。

93.後伏見天皇(1298~1301)

 譲位後、院生を行う。元弘の乱後、東国へ逃れるも捕らえられ出家した。

94.後二条天皇(1301~08)

 大覚寺統持明院統から2代続いて天皇が出たことに後宇多院が抗議したため、幕府の計らいで即位。両統送立が始まった。

95.花園天皇(1308~1318)

 大覚寺統教養人で風雅和歌集勅撰させた。

96.(南1)後醍醐天皇(1318~1339)

 鎌倉幕府打倒に貢献した後、建武新政を行う。足利尊氏に敗れ吉野に逃れ南北朝時代が始まる。

97.(南2)後村上天皇(1339〜1368)

 高師直に攻められ賀名生に逃れる。一度京都を奪還するもすぐに北朝に奪われた。その後も京都回復を狙い、各地を転戦するも果たせなかった。

98.(南3)長慶天皇(1368~1383)

 和歌を愛し、五十番歌合、五百番歌合などを催した。

99.(南4)後亀山天皇(1383~1392

 足利義満の誘いの応じて、南北朝和解を実現。しかし、義満の死後冷遇され、和平の条件であった両統送立も果たされなかった。

北1.光厳天皇(1331~1333)

 後醍醐天皇の失脚を受けて即位したが、鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐廃位光厳即位否定された。

北2.光明天皇(1336~1348)

 足利尊氏擁立により即位譲位後、観応の擾乱によって南朝に捕らえられるが後に解放された。

北3.崇光天皇(1348~1351)

 譲位後、観応の擾乱で捕らえられた。琵琶を愛した。

北4.後光厳天皇( 1352~1371)

 後村上天皇の一統が破れると、足利市擁護され即位した。南朝攻撃に遭い、美濃近江などに逃れたこともあった。

北5.後円融天皇(1371~1382)

 足利義満擁立されて即位譲位後、院政を行った

100.(北6)後小松天皇(382~1412)

 後亀山天皇から神器を受け、南北朝合一が成された。

2021-06-07

anond:20210607052830

俺は、プログラミングやら簿記とかも

頭柔らかいうちにして欲しかったなと

Teen ager の時思ってた。

法律とかもね。国家資格とか10代の方が

取りやすいと思ってた。

かなり無駄な事ばかりやるなあって。

藤原氏の細かい政争とか、いらんやろみたいな。

そう言うの疑問に思わず、コツコツ勉強する人だけが認められるのは違うかなあと。

東大クイズ大会とかしょぼいよね。

なんか幼い。

社会問題について議論するとか、コロナ研究するとかないのかなと。

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