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はてなキーワード: 西国とは

2023-10-14

anond:20231014183936

いやいや東京の高貴な方々は下々の、ましてや西国ことなんざぁこれっぽっちもお気になさっておられんでしょうからなぁ😁

2023-06-10

ぽまえら家康公がおだやかな人だとおもってないか

ぴょまいら大河ドラマの影響で、家康公を「はわわ~どうしゅる~」みたいなキャラだとおもってないか

史実はこうだぞ。

72歳で亡くなる直前に、裏切る可能性のある若い衆を全員枕元に読んで、

罪人を処刑した直後の血の滴る刀をそのまま枕元にもってこさせて、

その太刀を西の方向に向かって座敷で一振りして、

「これをもって西国大名にあたらせよ」

と云ったほどだぞ。

もまいら戦国時代をあまくみるなよ。

2023-04-06

宇喜多秀家ってなんで五大老の一人に選ばれたの?

徳川→当然 前田織田政権からの重鎮 毛利西国最有力 上杉越後の龍の後継だしわかる

喜多→えっ誰君??

 

マジで急に現れた感がすごい。バランス的に西からもう一人選ぶにしても島津だろ。せめて長宗我部

東なら伊達がいるし、佐竹とかもいるじゃん。

子飼い福島ダブル加藤黒田細川あたりから選んだってよかったじゃん。なんなら幽斎でも。

喜多ってマジで誰なのよ。誰が秀吉に推薦したのよ。そんで何が秀吉眼鏡にかなってオーディション通ったのよ。

戦国ガチ勢教えてください。

 

ちなみにChatGPTの答え

質問宇喜多秀家は、島津氏や伊達氏などの有力大名をおさえてなぜ五大老の一人に選ばれたのでしょうか?

GPT宇喜多秀家は、豊臣秀吉が行った天下分け目の戦いであ山崎の戦い賤ヶ岳の戦いなどに参加し、功績を挙げました。そのため、秀吉からの信頼が厚く、豊臣政権下において重要役割を果たすことができました。

また、宇喜多秀家は、豊臣秀吉に対して忠誠心が強く、秀吉命令には絶対に背かなかったことが知られています。そのため、秀吉からの信任も厚く、五大老の一人に選ばれることができたとされています

さらに、宇喜多秀家は、紀州征伐や文禄・慶長の役など、豊臣政権重要な戦役に参加し、活躍したこと評価されたとも言われています

以上のように、宇喜多秀家秀吉からの信頼が厚く、忠誠心が強く、また多くの戦功を挙げたことが理由として挙げられます

 

嘘ばっかじゃねーかChatGPT

2023-04-02

anond:20230402162433

正確には分裂しているね。

九州大阪の人は上京しない。

沖縄出生率が高い。

東北北海道上京しまくる。

中世以前のようにに東国西国地方勢力が分断するのだろう。

2023-02-08

さまざまな桶狭間

桶狭間の戦い

桶狭間度:★★★★★

海道一の弓取りと謳われた今川義元大軍を、小勢の織田信長が打ち破った戦い。「桶狭間は谷だった」「いや山だった」「奇襲だった」「いや正面攻撃だった」など、その実態については今なお盛んに議論される。また、勝利した織田信長がこれをきっかけに勢力を拡大し、のちには天下人となっていったこから、「小大名が敵の大軍を破り、その後の飛躍に繋げた戦い」のことを「〇〇の桶狭間」と言うようになった。

奥州桶狭間人取橋の戦い

桶狭間度:★☆☆☆☆

父親を殺された伊達政宗が、その弔い合戦として畠山氏の二本松城を攻めたところ、相手方の救援として駆けつけた佐竹氏・蘆名氏などの連合軍と戦いになった。兵力差四倍以上の相手に正面決戦を強いられることとなった伊達方はほぼ敗勢だったが、勝利目前の佐竹軍が急に撤退したため尻すぼみに合戦終結した。壊滅必至だった伊達軍がそれを免れたという点では「勝ちに等しい引き分け」と見ることもできる。その後、巻き返した伊達政宗二本松城を落とし、蘆名氏を滅ぼして南奥州覇を唱えることとなる。

関東桶狭間河越夜戦

桶狭間度:★★★★☆

泥沼の争いを繰り広げていた古河公方山内上杉・扇谷上杉らの関東勢が、勢力を急伸させた北条氏を恐れて連合し、北条方の要所・河越城大軍で包囲した。それに呼応した今川義元も西から挙兵して挟撃の形となり、家督を継いだばかりの北条氏康は早くも絶体絶命の危機を迎えた。しかし手早く今川と和睦した氏康は、大軍に驕った連合軍に夜襲を仕掛けて撃破した。この戦いで古河公方山内上杉・扇谷上はいずれも滅亡・没落し、関東北条氏を中心として動くようになった。

甲斐桶狭間飯田河原の戦い

桶狭間度:★★☆☆☆

甲斐に侵攻した今川大軍を、武田信玄の父・武田信虎が迎え撃った戦い。荒川沿いの飯田河原戦場に選んだ信虎は、数で上回る今川軍を地の利を活かして撃退、ひと月後に上条河原で再戦したがそれも打ち破り、敵の大将を討ち取った。一連の戦いにより武威を示した武田信虎は、敵対していた穴山氏などを服属させ、甲斐統一を成し遂げた。

近江桶狭間野良田の戦い

桶狭間度:★★☆☆☆

北近江浅井氏は、越前朝倉氏と南近江六角氏という大勢力に挟まれ、当時は六角氏に従属する立場だった。父親隠居させて浅井家の若き当主となった浅井長政は、すぐさま六角からの離反を表明した。それに対し、六角氏は当主六角承禎自らが大軍を率いて攻め寄せたが、浅井長政は半数以下の兵力で迎え撃って勝利した。弱い立場だった浅井氏はこの勝利により戦国大名としての地位を固め、敗れた六角氏はお家騒動などもあり衰退していくことになる。

備前桶狭間」明善寺合戦

桶狭間度:★☆☆☆☆

備前大名浦上氏の家臣として頭角を現しつつあった宇喜多直家は、毛利氏従属しながら備前進出しようとした備中三村氏の当主三村家親を、日本史上初となる火縄銃狙撃により暗殺した。怒れる三村氏は、弔い合戦とばかりに宇喜多方の明善寺城を攻め取ったが、宇喜多直家は素早く奪回し、逆にその救援にやってきた三村氏の大軍を待ち構えて打ち破った。この戦いにより影響力を増した宇喜多直家は、のちに主君反旗を翻し、戦国大名として独立することになる。

西国桶狭間有田中井手の戦い

桶狭間度:★★★☆☆

かの毛利元就の初陣。源氏の名門・武田氏一族で猛将と謳われた武田元繁と、味方の城の救援に向かった毛利吉川連合軍の戦い。寡兵連合軍は劣勢を強いられたが、初戦で運良く敵方武将を討ち取り、それに激怒して自ら前線へ打って出た武田元繁をも討ち死にさせた。この戦いにより、大内氏から独立して勢力を拡大していた武田氏は一転して衰退し、代わって毛利元就歴史の表舞台に躍り出ることとなった。

「海の桶狭間厳島の戦い

桶狭間度:★★★★☆

毛利元就の戦いとしてはこちらのほうが有名だろう。主君大内義隆に謀反し、大内家内を牛耳った陶晴賢だったが、その隙に離反した毛利元就によって安芸を奪われてしまう。大軍を率いる陶晴賢要衝厳島拠点安芸奪回を狙うが、毛利元就は嵐に乗じた奇襲でそれを打ち破り、陶晴賢自害に追い込んだ。この勝利により、毛利元就は逆に大内氏を滅ぼしてその領土併呑し、中国地方覇者となっていくのである

肥前桶狭間今山の戦い

桶狭間度:★★★☆☆

肥前勢力を拡大していた龍造寺隆信に対し、脅威を覚えた北九州覇者大友宗麟大軍を率いて侵攻、数ヶ月に渡って佐賀城を包囲した。援軍の見込みもないなかで龍造寺軍はよく持ちこたえたものの、ついに大友宗麟は弟の大友親貞に総攻撃を命じる。大友親貞は総攻撃前夜に士気を高めるため酒宴を開いたが、それを見た龍造寺家臣の鍋島直茂わずかな手勢を率いて夜襲を仕掛けた。油断していた大友軍は総崩れとなり、大友親貞も討ち取られてしまった。その後、和睦に持ちこんだ龍造寺隆信は、大友氏に従属しながら勢力を拡大し、のちに九州三強の一角に名を連ねることになる。

九州桶狭間木崎原の戦い

桶狭間度:★★★★☆

島津当主島津貴久が亡くなった直後、その隙を突いて隣国伊東氏島津領に侵攻した。伊東方が数千の軍であったのに対し、島津軍勢はその十分の一ほどしかなかったという。だがそれを率いていたのは名将・島津義弘だった。島津軍の頑強な抵抗により、伊東はいったん退却して陣を立て直すことになった。しかし、島津義弘から指示を受けていた農民たちが太鼓を鳴らして伏兵を装うと、伊東軍は慌てて陣から飛び出し、そこで待ち伏せていた島津軍に四方から攻められて壊滅、総大将も討ち取られてしまった。窮地を脱した島津氏は、島津兄弟のもと勢力を拡大し、九州を制覇していくのである

2023-02-03

家康江戸幕府崩壊すら予言していた

75歳でいよいよ病状がヤバイ、ってときに、

愛蔵の名刀をもたせて血染めにさせて二三振りして、「西に向けて埋めよ」って言ったらしい

西国大名は油断できん、ってことで、薩摩長州予言してたんだな

2022-12-27

SPY×FAMILY』ED曲『色彩』は10年後のアーニャの振り返り説

つい先日第2クール最終回を迎えた『SPY×FAMILY』、このED曲の『色彩』(yama)を10年後のアーニャ過去を振り返ったもの解釈するとしっくり来ることに気付いたので、ここにその仮説を展開してみたい。

じっと機微を見逃さないで

きっと大人はそれらしくするのでかかりきりになるんだ

関心はまだ僕ら

冒頭2行の部分は、10年後のアーニャ自分自身に対して「ロイドとヨルの機微を見逃すな」と言い聞かせていると解釈できる。「僕ら」はアーニャボンドを指す。

真珠の欠片だって価値、そこに物語がなければ

からくりのなかで廻る僕ら命だ

真珠の欠片」はロイド、ヨル、アーニャボンドを指し、「物語」はこの四者の家族としての歴史を指す。「からくり」はオペレーション・ストリクスのこと。元々フォージャー家はオペレーション・ストリクスの遂行目的として形成された人工的な家族なので、家族としての物語歴史)をあえて意識的に作らないと、ロイド以外の三者は単なるオペレーション・ストリクスという「からくり」の中で廻るだけの命になってしまう。仮にオペレーション・ストリクスの失敗によって西国WISEが深刻な危機に瀕するならば、ロイドはこの家族を見捨てる可能性が高い。彼にそれを思いとどまらせるのが家族の「物語である、と10年後のアーニャは内なる危機感を抱いている。

実は奇跡のような毎日を、

...

落ち込む夜でさえ多彩で気まぐれなように

この部分はこれまでの家族歴史を10年後のアーニャが回顧している。

どの人生も悪くはないだろう

強がる事を知れど今までの

足跡や産まれたことは消えやしない

アーニャは心を読む超能力によって、ロイド自分を引き取らせるよう仕向けた。ということは、別の養親自分を引き取らせるよう仕向けてスパイとは無関係の別の人生を歩むこともできた。しかも、超能力によってその人生は悪くはないものになっただろう。これが「どの人生も悪くはないだろう」の意味であるしかし、これまでのフォージャー家での歴史としての「足跡や産まれたことは消えやしない」ので、もはや全く別の人生を選ぶのは難しい。

あぁ間違っていないね

喜劇ばかりじゃここには立っていないってこと!

現在アーニャはまだ幼年期なのでオペレーション・ストリクス遂行に際しても厳しい局面は立たされず「喜劇ばかり」のシーンが続く。しかし、長じるにつれて厳しい局面に何度か立たされる。「喜劇ばかりじゃここ(=フォージャー家)には立っていない」は、このことを示唆する。

気晴らしに今ならどこへだって

僕ら光のように気がつかない

考えてみるとアーニャの心を読む超能力ボンドの未来予知能力が合わさると、社会的にほぼ無双できる。他人の心と未来を読めるならば、ほとんどの事柄大成功を収めることができるからである現在アーニャは知性が低いために無双からは程遠いが、10年後の成長したアーニャロイドやヨルが足元にも及ばない程の力を獲得している。アーニャボンドの力を以ってすれば「気晴らしに今ならどこへだって(行ける)」、つまりオペレーション・ストリクスを離脱することもできる。しかも「僕ら(の超能力は)光のように(誰も)気がつかない」だろう。

10年後のアーニャオペレーション・ストリクスに嫌気が指して離脱することも考え始めている。彼女超能力を以てすれば、そんなことは朝飯前だろう。しかし、「物語」(フォージャー家の歴史)に後ろ髪を引かれて踏み止まっている。『色彩』の歌詞からそんな情景を夢想するのである

2022-05-30

江戸時代西国郡代の所領では、地元の小財閥事業家神社)の水路整備の投資失敗が続いたが

自己企画ならともかく、郡代の失敗まであった

オランダの水工学西国では普及していなかった

翻訳蘭学に偽物もあったかもしれない

ユーチューブインストラクション動画も同じ

原文から習えというのは言える

2022-05-25

八墓村の話を思い出した

江戸時代幕府領・天領だった「西国筋郡」に、田野村庄屋というのがあった

明治維新のあと、庄屋の15の娘には、薩摩系の森藩だった村から若い村民が婿に来た

結婚の翌年、庄屋一家は、娘と婿を残してみな死亡

初代村民は、それで九重鉱山を購入し、約20年間経営し、それを船会社広海二三郎(損保ジャパン始祖)に売った

 

その娘には、また森藩だった村から婿が来た、2代目の村民発電所経営することにした

その発電所設立の翌年、初代は夫婦ともども相次いで死亡

2代目の村民1941年発電所九州水力電気九州電力の始祖)に売った

 

その娘には、また森藩だった村から婿が来た

3代目村民は、陸軍理系教授だったが、戦後、2代目が死亡したのち、2年後に死亡

その息子は1人生き残っていたが、女学校報国団のあった熊本県甲佐町からプロテスタントの町民が嫁に入った

  

まり薩長政権は、天領役人財産などを使って鉱業保険業や電力事業をしたか

天領役人の家はだいたいこうなってたんだろうか、ほとんど戦争だろう

司法モドキにとっては正義か?

2021-12-05

anond:20211205213657

地下5階には胎内巡りもありますし、3Fのレストランフロアにはミニ西国霊場三十三か所巡りもあるし、7Fにはバーセブンズヘブンがあります

2021-11-15

したいこと、ほしいも

わいは、会社社長。といっても従業員はおらん。わいの一人法人や。

 

さぁ数カ月ぶりに休みができた。やっほーーーー。それも二日。

まぁ、今日夕方にお客さんが書類取りにくるから、その時間だけは自宅兼事務所にいないといけないので、泊まり旅行は無理やけど。

ちょっといろいろ整理を増田に。

 

ここ最近、働きまくってちょっと懐に余裕もある。

 

ほしいも

体脂肪計のついた体重

わい、ただいまダイエット中。体脂肪測れたほうがいいんかな

 

ダンベ

自宅トレーニングメニューを増やそうかな。チューブは買ってよかったし

 

来年手帳

わいは紙派や。

 

■ 少し欲しいもの

iPad

動画見るだけやから、手持ちのFire HD 10でいいといえばいいんやけど。

 

Mi Watch

Miスマートバンド気に入った。睡眠ログは、Miスマートバンドでいいけど、お出かけように時計っぽいのもほしいな。

らんちゃいらんけど。

 

・冬用のアウター

ちょっと機能的に若干不満があるので、新しいのほしいけど、まぁ今のでいいっちゃいいんだよ。

 

■ ほしかったけどやっぱいらん

・フルサイズ一眼 (α7)

大学の時は、こしか写真部写真展に出したりしてたな。だからカメラこだわってたんや。中判使ったり、暗室使ったりしてたな。そこまで真剣じゃなかったけど。

部室でゲームばっかしてたな。ゲーム部やん。

少し前は、フルサイズしかったな。でも、いま写真撮るっていったら、メモ替わりだけや。Redmiカメラで充分や。

 

ロードバイク

クロス乗っているとロード欲しくなるのが定番だが、あんま長距離お出かけする時間なくて、買い物で乗るのがメインやからクロスでいいか。わい車なし。

ロードだと止めるの心配やし。

 

・PS5

しかったけど、買えないうちに物欲なくなってきた。買ったらゲームばっかしてそうやからまぁないほうがいいかもしれん。

 

物欲おわた。

 

■ したいこと

うどん屋

うどん屋がくっそうまい食べログ3.9はだてじゃないな。

初めて食った時、こんなうまいうどんがあるんだって感動した。

最後の晩餐ならここのうどんにするかな。

 

■ そこそこ

美術館

でも、今、見たい展示がなーい。

 

ラーメン

ラーオタばかにしてたけど、今なんかわかる。休みの日に、1000円+αでなんかやった気になれる。

 

本屋

コロナになってからデカ本屋ブラブラ一回しか行ってないな。今までは、スポーツ見に行くか、友達と飲みに行く前に行ってたけど、なくなったしな。

まぁ、今読みたい本ないんだよな。だから、むしろ行くべきなんかもしれんけどけど。

■ ほぼあき

京都寺社めぐり

一時期はまってた。だいたいいった。もう飽きた。

 

岩盤浴

疲れをとりにでも。数ヶ月で1回でいいか

■ あきた

スポーツ観戦(生)

コロナになってからいってない。中継でいいっかって感じになった。中継されないような小さな大会は、今も無観客やし。

 

旅行

数年前に何個か行きたいなぁってメモしてたところに、去年夏・秋・冬で行ったら、もう行きたいとこなし。

旅行中、スマホばっかしているから、SNSでどうでもいい情報知って、むしろ疲れる。旅行はいいかなと思った。

 

ワーケーション

から同業者でやっている人がいて興味本位で、去年のGoToの時に少しやったけど、二日で飽きた。

ちょっと嫉妬してたけど、やってみるとこんな感じって感じ。

  

登山

北ア、中ア、南ア八ヶ岳の登りたい山リスト制覇したら、あきた。本当はまだあるけど、わいの実力だと無理ポやし。

近所のハイキングはしているけど。

 

西国巡礼

途中でSTOP。

2021-11-12

[]「へそが茶をわかす」の、意味と出典

意味

資料1:「へそが茶を沸かす」の項による。

おかしくてたまらない、また、ばかばかしくてしかたがないたとえ。多くあざけりの意をこめて用いる。

資料2~6もだいたい同内容の説明文。

資料7:p.219~220 大笑いしてへそのあたりが大きく揺れるさまを、茶釜の湯が沸騰するさまに見立ておもしろおかし表現したもの、とあり。

資料8:p.118 「臍が縒(よ)れる」の項に「臍で[が]茶を沸す」があり、「臍のあたりが笑い捩(よじ)れて茶が沸くほど熱くなる」、との意味あり。

他には、「へそで茶を焼(た)く」「へそがくねる」「へそが西国さいこく)する」「へそが入唐(にっとう)渡天(とてん)する」「へそが宿替(やどが)えする」「へそが笑う、へそで笑う」いう言い方もある。

■出典

資料1:用例として、浄瑠璃『前太平記古跡鑑(ぜんたいへいきこせきかがみ)』(1774)、『譬喩尽』(1786)、歌舞伎『盲長屋加賀鳶』(1886)などがあがっている。

資料2:用例として『糸桜本町育(いとざくらほんちょうそだち)』があがっており、資料9によると、安永6年(1777)初演とあり。

資料6:p.275に、『譬喩尽』の例の他に、〔役者三津物・京〕と〔六あみだ詣初・下〕の用例あり。資料10のp.757に、『役者三津物(やくしゃみもの)』は享保19年(1734)成立とある。また、資料11のp.171に、滑稽本『六あみだ詣(ろくあみだもうで)』の項があり、初編の成立が文化8年(1811とある

これらの用例の中では、『役者三津物』の1734年が一番早いことになる。

役者三津物』は『歌舞伎評判記集成 10』(資料12)p.477-544に収録されている。「役者三津物(京)」の中、立役者之部の澤村長十郎の中に、「…いつもかはらぬ古格とは、イヤハヤ臍が茶をわかす。…」(p.486)と出てくる。

資料3~5、7、8には、用例の資料名なし。

[google]で<へそ×茶×沸かす×出典>をキーワードとして検索すると、資料2の用例『糸桜本町育』が出典として紹介されている。(最終検索日:2005.12.8)

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000027683

anond:20211111184944

なんで図書館がこんなのにこたえてんだろ

2021-09-02

anond:20210831105944

西国三十三か所巡り」「全国一之宮巡り」なんか完全にスタンプラリーだもんな

2021-08-26

anond:20210826125459

へー、九州用法は知らんかった。

まあ近畿基準で「中国」が中国地方なんだから西国」が九州なのも不思議ではないか

2020-08-02

もののけ姫を観てきた(ネタばれ

学生の時に何度も映画館で観たけれど、最近また観てきた。

やはりこの映画は、映画館で観ないと人生の大損と思う。

開始早々の祟り神戦は、アニメ映画の中でも屈指の爽快なアクションシーン。

激しい動きのようでいて人間の目の動きをよく押さえていて、ただ画面を揺らして画面酔いさせるようなものとはレベルが違う。

音楽も画面と完全にシンクロして印象的な金属音ともあいまって脳汁バドである

その後、アシタカ西国へ赴く場面は多くの人が言うように素直に号泣するしかない。

一見のどか田舎風景でも病や飢え、戦が絶えない非常に厳しい世界であること、シシ神の森の不思議さやタタラ場の異様さなどが自然と配置され、複雑な背景を解説無しですっと飲み込ませる演出はまた最高。

思うに、エボシは、高級遊女か何かで上流階級とツテがあり、そこから師匠連とつながって石火矢の技術や、もしかしたらタタラ技術も手に入れたのだろう。

ただし、おそらくきちんとした後ろ盾はなく、師匠連やその上の人たちから見て使い捨ての手駒でしかなく、地侍などと組んでも主導権を奪われかねない危うい立場であったと思う。

そこで、手っ取り早く勢力を築いて生き延びるための手段として、自分を裏切らない捨てられた女達と病人を利用し、そのことに本人も自覚的だったと思う。

から、「曇りなき眼」発言で大笑いしたのには、意表を突かれたこともあり、また多少は青二才に対する嘲笑もあったと思うが、自嘲の成分もある気がして目頭が熱くなる。

結局、神々たる自然に向かっていくのは、人間の地から追われた弱い者たちであって、「最初に人が自然を侵したのだ」としたり顔でいう人間に限って、人間の地の真ん中でのうのうと生きているという欺瞞に気が付いたから、エコを前景から引っ込めたのではないかと疑っている。

ジコ坊というのも面白い人物で、徹底的に現実的前線指揮官であるにもかかわらず、結構な遊びがある。アシタカのようにやけに戦闘力の高い不審若者を、自分関係先に送り込んだりする。

作中に天朝様の御文が出てくるが、基本的師匠連の目的神殺しとそれによる更なる権威の増大である

ジコ坊のセリフで「神殺しは怖いぞ」というのがあるが、彼は以前にも神殺しに関わっているともとれる。

怖いのは神による祟りだけなのか。神殺し英雄は、権威を求めるものにとって邪魔なのではないか。ジコ坊は神殺しに関わったために、いい年して最前線に送られているのでは。ことが済んだとき、エボシの立場は非常に危うい。

たぶん、ジコ坊が「神殺しは我々でやろう」と部下に言ったら、その時点でエボシは殺されてしまたかもしれない。

また、神殺しの後、シシ神の首に部下を集中させることで、エボシの存在をうやむやにしてしまったように見える。

ラブリーである

いやー本当に映画っていいものですね!

2020-02-23

[]anond:20200223190921

鮎之助と別れて、またどしどしと歩き、兵庫の町に着いた鹿之助は、

そこで女を挟んで浪人と大男とが争っているのを見かけて、仲裁に入った。

浪人に話を聞いてみると、彼はこの浮舟という遊女と馴染みになって放蕩したため、

主君の勘気を蒙って流浪の身となり、仕方なく二人で駆け落ちをしてきたところ、

こちらも浮舟に入れ込んでいた大男が怒り、浮舟を渡すか果し合いをするかと追ってきたということらしい。

そのうえ浪人は、刀さえも売り払って竹光を差していたので、果し合いをしようにもできないのだと言う。

そこで鹿之助が刀を貸すと、浪人は喜び勇んであっという間に大男を斬り殺してしまった。

浪人は浮舟に、これから心を入れ替えて精進し、いずれ名をあげたら迎えにいくから、いまは大坂の店に戻れと言い渡した。

また鹿之助には感謝し、家臣になることを申し出た。

鹿之助は承諾し、兵庫の横道で出会ったということで「横道兵庫之助」という名を授けた。

そして兵庫之助に、浮舟を大坂の店まで送っていくよう命じたのだった。

さて、鹿之助はまた旅を続け、早くも播州上月城尼子義久と面会した。

義久は話を聞いて喜び、すぐさま鹿之助を軍師として遇した。

尼子の家臣たちは、新参の鹿之助を信用していなかったが、あるとき彼が怪物退治をしたことで、たちまち敬服することになった。

この怪物退治については別に申し上げるほどのこともないので省いておく。

また山名配下菊池音八という者がおり、西国に敵う者なしという剛勇無双毛利でさえ手を焼くという大豪傑であると聞いて、

鹿之助は一計を案じ、「伯州の腰抜け・菊池音八を討ち取る者は播州尼子山中鹿之介なり」と高札に大書してあちこちに立てさせた。

音八はもちろん怒り狂い、「舞子の浜にて殺してやるから待っておれ」などといった書状を送りつけてきた。

鹿之助が軽装で出向くと、音八は甲冑に身を固めてやってきた。

鹿之助は笑って「内心、私を恐れているから、大仰な鎧を着てきたのだろう」と挑発した。

腹を立てた音八が鉄棒を振りかざして向かってくるのを、素早くかわした鹿之助は見事に相手の首をはねてみせた。

これにより鹿之助の名は近隣に轟き、容易に尼子を攻めるものもなくなった。

数日後、鹿之助は山名家へ出向いて「毛利家臣、清水三郎である」と名乗り、当主山名氏資に面会を求めた。

鹿之助は、毛利山名との同盟を望んでいると言い包め、氏資が血判をしようと近づいた途端にひっ捕らえ、

そのまま上月城に連れて帰って、降伏を誓わせてから解放した。

こうして山名家は尼子家の軍門に降ったのであった。

2017-09-03

もう第三次朝鮮征伐しかない

すぐに西国諸藩は兵を門司の港に集めるように。

余は出兵勅許をもろうてくる。

2017-06-05

続・山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの続き。(文字数制限にひっかかったので分割します)

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇後鳥羽天皇即位させ、寿永二年の宣旨頼朝東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝上京要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝東国支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。

義仲が京都乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。

兵糧不足のまま進撃して首都占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?

  

また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います

(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)

頼朝挙兵以来、北条氏三浦氏などの東国武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察担当する侍所を設けて、有力御家人和田義盛別当長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。

頼朝後白河法皇要請を受け、範頼と義経平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏を滅亡させた。後白河法皇頼朝権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿九条兼実藤原兼実)らを朝廷重要政務担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝東国西国の多数の武士御家人として組織しながら、主に東国支配確立していった。

1190(建久元)年、頼朝挙兵後はじめて京都に入り、右近大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」

当然ながら『詳説日本史』にも、侍所政所問注所地頭というキーワードは出てきますしかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています

それに比べて、この教科書歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから時系列に即してこれらの言葉意味理解することができるはずです。

  

結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。

鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。

  

  

  

あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。

一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?

例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています守護は「おもに東国出身の有力御家人から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務年貢徴収・納入と土地官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公関係となって封建制度の基礎となりました。

  

ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されていますしかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。

私は最初にこれを読んだとき、わけがからなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許守護地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。

1960年石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたもの守護地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護前身となりました。

三省堂教科書は、次項でそのことが説明されています頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢公事徴収治安維持に当たらせた」としています

このように、三省堂教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。

  

実教出版もこの新説を採用していますこちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います

それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。

  

なお、山川参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭前身だったと思わせるような記述です。

地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝要請後白河法皇諸国公領荘園地頭を設置することを認めた。当初は1国単位荘園公領支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務土地管理年貢・兵糧米の徴収治安維持など。

地頭⑤ 荘郷地頭

  

山川出版日本史B用語集』より

ですが三省堂実教出版東京書籍の教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています

「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。

  

(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。

予防線を張っておくと、私は高校日本史Bを履修しなかったし、大学理系に進みました。教科書を読んだのは興味本位にすぎません。

はじめに書いたとおり、最新版教科書を持ってません。今回はてブでバズっていてびっくりしましたが、筆者は歴史学の専門家でも何でもないことをお断りしておきます

追記id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝です。)

  

  

  

追記

複数教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます

『詳説日本史』では、前九年合戦後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏東国武士団との主従関係を強め、武家棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています

ここで例えば山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかたことを理解することができるのです。(上述参照)

  

つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。

『詳説日本史』によると、戦国大名性格は次のように説明されています戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代下り、別のページで豊臣秀吉太閤検地説明しています太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分田畑所有権を法的に認められることになった」わけです。

このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ大名統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しかからないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。

この視点を最もわかりやす記述しているのが、三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地一元的支配確立荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。

ちなみに、東京書籍『日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)

2017-06-04

山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

山川出版の日本史いかに凄いかについて情熱的に説明する」

http://blog.tinect.jp/?p=40198

はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。

これ、おっさん居酒屋でしゃべっているレベルですよね??

『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。

僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああい教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである

ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである日本民族いかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的価値観を元に記述せざるをえなくなる。

客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。

いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。 

  

クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。

例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています

平清盛後白河法皇幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団中央貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。

これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団挙兵して、ついに内乱全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。

平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。

しかし、畿内西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。

この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。

ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係説明が詰め込まれています

  

まず、平清盛後白河天皇幽閉したこと、安徳天皇即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています

当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています

  

次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団中央貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています

これはまさしく因果関係に言及しているわけです。

  

このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価因果関係がしっかりと述べられているのです。

そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。

  

なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています

治承・寿永の乱は、一般には源氏平氏の戦いといわれている。しか歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏平氏勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃近江河内源氏若狭越前加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏である。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである

彼らの動向をまとめあげ、武家棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。

教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。

この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。

こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。

他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。

  

【参考文献】

山川出版社『詳説日本史』(日B 001)

山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)

東京書籍日本史B』(日B 004)

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

桐原書店新日本史B』(日B 011)

(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)

  

  

  

余談:教科書の読み比べ

  

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)

伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏根拠地鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦千葉上総氏などの有力な東国武士主従関係を結んで御家人とし

頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います

三浦千葉上総という武士名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦ときに唐突に登場します。)

[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元三善康信就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦平氏を滅ぼした。

[]は引用者註。

この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。

鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています

  

  

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦い平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇対立したので、法皇は同年、頼朝に東海東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経さら平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏一門を滅ぼした。

この教科書歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。

上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏都落ち安徳天皇を伴ったことも言及なし。

というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります

  

鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。

教科書の中では唯一、桐原書店けが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。

(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍面接して」という説明も省かれています

  

["新恩給与"についての註]

土地のものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。

これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!

所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世土地支配構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います

なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています

職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。

本家職①、領家職②、預所職②、下司職②、荘官職①

  

[引用者註:丸の数字はこの用語を掲載している教科書の数]

山川出版『日本史B用語集』より

この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地のものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。

しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています

地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利

  

山川出版『日本史B用語集』より

これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?

せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。

  

さて、桐原書店教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています

幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。

[ふたつの源頼朝像]

Aについては南北朝時代武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨甲斐善光寺蔵)。

とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

養和は平氏政権が用いた年号で、これを認めない頼朝の支配する関東では、ひきつづき治承の年号が用いられた。

網野善彦著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います

他の教科書には載ってませんが、ピンポイント東大入試に出題されました。

  

源氏鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮八幡宮前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。

鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍教科書だけです。

上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉経済流通」というのも掲載されています

東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います

  

  

  

山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)

こののち、後白河法皇義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。

頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています

あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷命令無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。

  

それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。

両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます

関西にある政権東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ

  

  

  

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

平氏安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。

この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス

都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。

どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています

  

ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)

例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とありますさら西国御家人東国御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書関西中心っぽい史観は独特です。

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

  

……って、おい!? 増田がここで文章を掲載できなくなったんだが??

せっかくこの先が本番なのに、文字数の上限なのだろうか。

つづき→http://anond.hatelabo.jp/20170605001028

2017-05-19

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

2016-06-23

[]23(完):増田の眺望

 北方異民族を追い払ったことで増田島に泰平の世が訪れる。

共通の敵と戦ったことで各家にくすぶっていた敵愾心は冷却された。

それ以上に効果的だったのは増田家(八)が他の三家に送った軍目付の存在だ。

いざとなれば暗殺されるだけの存在みえて、彼らには赴任先の軍を「まじめに訓練する権限」が与えられていた。

増田家(五)の強硬な反対を押し切って付与されたこの権限によって、各家の軍隊雑魚ナメクジ化した。

 戦争を起こそうとしても雑魚ナメクジ同士のにゅるにゅるしたナメクジ試合になると悟って、

次世代当主たちは軍事面での野望を抱かなくなった。一方で海外から侵略者増田家(八)の戦略を洗練させた戦い方で、にゅるにゅると迎撃される事になった。

 最終的に増田島は以下の形に落ち着いた。

アルファマスダ家当主領国石高
増田家(八)大便公方(八)(六)半国(七)(九)560万石

 増田島の統一に中心的な役割を果たした増田家(八)は、石高にして全体の半分近くを領する。

増田島の中央位置するのをいいことに島中から名産品をかき集め、みやこの人間を飽食させる島最大の人肛を誇るうんこ生産国でもある。

 旧増田領(九)に運河建設して南と北の交流活性化平和の中でのさらなる発展を目指している。

 当主意向公衆便所の整備が熱心に進められ、多数抱える人口密集地が衛生的なことは海外商人にも感心されている。

 増田匿兵衛は自分戦争向きの人材だとして引退し、増田家(四)から預けられた増田五郎などの育成にあたっている。

 増田騎馬軍団は馬の機動力を活かして各地をむすぶ伝馬に新しい役目を発見した。

ベータマスダ家当主軍目付領国石高
増田家(四)鎮寇将軍(鎮北将軍あらため)増田出羽守(四)(一)(二)北半国(三)290万石

 増田家(四)は連合軍から制圧した旧増田領(一)を預けられる代わりに、(二)南半国を増田家(五)に、(六)半国を増田家(八)に割譲した。

ただし、海上の交易利権はより広く得ており、増田家(四)の廻船は大洋側でも盛んに活動している。

 当主北方異民族の来寇にそなえる意味公式に鎮寇将軍の名をたまわった。

狄人には和戦両様で対応し、彼らとの交易や旧増田領(三)を中心とする金山銀山の開発で豪華絢爛な文化を興した。

金製の馬糞ウニ模型など「出来は素晴らしいけど、なんで作ったの?」と言われる日々である

 増田家(八)はこの芸術品への対抗に金の雲細工を作らせた。後の金のうんこである

ガンママスダ家当主軍目付領国石高
増田家(五)東上管領増田金吾(五)(二)南半国(六)半国290万石

 まったく動かずに北と西から半国ずつ奪った増田家(五)は増田島全体の穀倉となった。

収穫期が訪れるたびに大量の穀物が北や西に送られ、ここでの穀物の出来が相場に大きな影響をあたえた。

 穀物の形で西に流出する栄養素を補うため、漁業によって得た魚を肥料にする方法が開発された。

その魚の栄養増田家(五)の穀物を食べた人々のうんこの形で海に流出し、潮に乗ったものであり、

ここに穀物うんこと魚(とプランクトン)を媒体とした元素の循環が完成した。

 また、受け入れたカラトラヴァ騎士団との交流増田家(五)を海の果ての国々との取り次ぎ役にした。

彼らは居住制限されながらも、布教と皮膚病を治す薬草の探査にあたっている。

 緯度が異なる旧増田領(二)の半分を手に入れたことは増田家を気象変動に強くして、飢饉の防止に貢献した。

なお、石高増田家(四)と互角ながら、鉱山商業収入では大差があり、文化的には他からゆっくりと遅れて行った。

デルタマスダ家当主軍目付領国石高
増田家(十)西国大宰相増田大学(十)(士)210万石

 増田家(十)は他の増田家に比べて独立性が低く、増田家(八)から干渉を強く受けている。

しかし、増田家(四)(五)の思惑もあって、第四の増田家として存在できている。

二位から四位の三家を足せば、石高では増田家(八)を上回るのである

 増田家(八)も西の外様大名を削るよりも、強い藩屏に育てる選択をした。

また、大陸との取り次ぎ役には歴史的増田家(十)が適任であった。

 歴代当主は気性のあらい増田家(士)の武士制御するのに苦労する。連中の雑魚ナメクジ化が増田大学最大の功績であろう。

その他

大名格の増田旗本格の増田商家になった増田消滅(吸収された)増田
(三)(九)(二)(士)(七)(一)(六)


 役目を終えた忍者たちは、走狗として煮られない自衛のために、集まって一つの村を作った。

文化背景の異なる彼らを結びつける手段として、俳句が盛んに利用された。

俳句でなくても「決まりきった単語」を用いて100文字以内で伝えるのが作法であった。

 より荒っぽい忍者コミュニケーション手裏剣を投げつけあった。

帰農した忍者が増えてから野良仕事に使う手斧活躍することもあったという。

 また、村内の政治的対立回避するためカラトラヴァ騎士団からもらった異国の犬が名目的な村長に推戴された。

村民独身おっさんばっかりだったので、将来性には乏しかった。

 ひとつの戦乱の果てに増田家は以上のように整理されたが、勝ち残った増田家が次々と分家増田家をつくったことは言うまでもない。世に増田の種は尽きまじ。

 なぜならこの世界未来のマースだ。

 そじゃーな!

前回

http://anond.hatelabo.jp/20160622000404

2016-05-04

「驕る平家は久しからず」というけれど

さも当たり前のようにいうけれど、じゃあ驕らなければ天下はそのまま平氏のものだったんですかって話だ。

京への未練を断ち切り福原京に腰を据えて、謙虚にふるまい義仲との和睦がうまくいったとしても、せいぜい頼朝も迎え撃てますよ的な体裁まりだろう。戦力からして自分たちの方から鎌倉へ攻め上がることはできない。飢饉の続く時代でもあるのだから、無理はできない。

そのうちじわりじわりと西国へ押しやられ、天下など夢の話に終わる。

平家は驕らなくても勝てないんだよ。頼朝東国をまとめた時点で、もはや驕りがどうとかいレベルじゃない。

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