はてなキーワード: 西国とは
つい先日第2クールが最終回を迎えた『SPY×FAMILY』、このED曲の『色彩』(yama)を10年後のアーニャが過去を振り返ったものと解釈するとしっくり来ることに気付いたので、ここにその仮説を展開してみたい。
きっと大人はそれらしくするのでかかりきりになるんだ
関心はまだ僕ら
冒頭2行の部分は、10年後のアーニャが自分自身に対して「ロイドとヨルの機微を見逃すな」と言い聞かせていると解釈できる。「僕ら」はアーニャとボンドを指す。
からくりのなかで廻る僕ら命だ
「真珠の欠片」はロイド、ヨル、アーニャ、ボンドを指し、「物語」はこの四者の家族としての歴史を指す。「からくり」はオペレーション・ストリクスのこと。元々フォージャー家はオペレーション・ストリクスの遂行を目的として形成された人工的な家族なので、家族としての物語(歴史)をあえて意識的に作らないと、ロイド以外の三者は単なるオペレーション・ストリクスという「からくり」の中で廻るだけの命になってしまう。仮にオペレーション・ストリクスの失敗によって西国やWISEが深刻な危機に瀕するならば、ロイドはこの家族を見捨てる可能性が高い。彼にそれを思いとどまらせるのが家族の「物語」である、と10年後のアーニャは内なる危機感を抱いている。
...
落ち込む夜でさえ多彩で気まぐれなように
この部分はこれまでの家族の歴史を10年後のアーニャが回顧している。
どの人生も悪くはないだろう
強がる事を知れど今までの
アーニャは心を読む超能力によって、ロイドに自分を引き取らせるよう仕向けた。ということは、別の養親に自分を引き取らせるよう仕向けてスパイとは無関係の別の人生を歩むこともできた。しかも、超能力によってその人生は悪くはないものになっただろう。これが「どの人生も悪くはないだろう」の意味である。しかし、これまでのフォージャー家での歴史としての「足跡や産まれたことは消えやしない」ので、もはや全く別の人生を選ぶのは難しい。
あぁ間違っていないね
喜劇ばかりじゃここには立っていないってこと!
現在のアーニャはまだ幼年期なのでオペレーション・ストリクス遂行に際しても厳しい局面は立たされず「喜劇ばかり」のシーンが続く。しかし、長じるにつれて厳しい局面に何度か立たされる。「喜劇ばかりじゃここ(=フォージャー家)には立っていない」は、このことを示唆する。
気晴らしに今ならどこへだって
僕ら光のように気がつかない
考えてみるとアーニャの心を読む超能力にボンドの未来予知能力が合わさると、社会的にほぼ無双できる。他人の心と未来を読めるならば、ほとんどの事柄で大成功を収めることができるからである。現在のアーニャは知性が低いために無双からは程遠いが、10年後の成長したアーニャはロイドやヨルが足元にも及ばない程の力を獲得している。アーニャとボンドの力を以ってすれば「気晴らしに今ならどこへだって(行ける)」、つまりオペレーション・ストリクスを離脱することもできる。しかも「僕ら(の超能力は)光のように(誰も)気がつかない」だろう。
10年後のアーニャはオペレーション・ストリクスに嫌気が指して離脱することも考え始めている。彼女の超能力を以てすれば、そんなことは朝飯前だろう。しかし、「物語」(フォージャー家の歴史)に後ろ髪を引かれて踏み止まっている。『色彩』の歌詞からそんな情景を夢想するのである。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20220130195853
sugimurasaburo
sds-page
srgy
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daydollarbotch
裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。(憲法82条1項)
n_kasei
やすらはで寝なましものを小夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな/ネットで聞くと答える人の好む歌を単発で教示されがちなので、国語便覧とか大岡信の『折々のうた』とかで並び見ながら見つけるのがいいのかも。
msdbkm
zeromoon0
中古の和歌からなのか現代短歌なのか。お手軽万葉集とか現代短歌選みたいなの見た方がいいと思う。
穂村弘「ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は」 単純に自分が好きな歌を選びました。
migurin
「大江山 いく野の道の遠ければ まだふみもみず 天の橋立」小式部内侍でwikiってこの歌の凄さを知って欲しい。あと柿本人麿の「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む」とかも好き。
hate_flag
「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」寺山修司
x100jp
枡野浩一さんの小説『ショートソング』は自作含むキャッチーな短歌が多く紹介されていて好き。小手川ゆあさんの漫画版なら更にお手軽。/好きな歌 twitter.com
renu
中学生の頃に教科書で読んだ石川啄木の「働けど働けどなおわがくらし楽にならざりじっと手を見る」は、短くてわかりやすい言葉なのにすごい苦悩が伝わってきて、衝撃的だったな
klear
梅の花もさきにけり、桜の花みなさくけしきになりにたりと人のいふをききて「君とこそ春来ることも待たれしか梅も桜もたれとかは見む」(赤染衛門集)
yas-mal
ao-no
正岡子規が明治初期の短歌界をけちょんけちょんに言うとるんよな。で、実朝を見習えと言っている。その評価が現代から見てどうなのかはわからないけど悪口が面白いので『歌よみに与ふる書』はおすすめ
sumika_09
これやこの行くも帰るも別れては あんたはここでふゆと死ぬのよ 蝉丸
tomaho
名歌はありすぎるので好きな歌を。「ああそうか日照雨(そばえ)のように日々はあるつねに誰かが誰かを好きで」永田紅
shinonomen
「黒髪の乱れも知らずうち臥せば まづかきやりし人ぞ恋しき」和泉式部
sonzinc
狂歌だけど「永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」が好き。
dusttrail
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞおもふ(流れが速くて岩に隔たれ分かれた川がいずれまた海で出会えるように、私たちもまた会おうね)夫を戦争で亡くしたうちの祖母が好きだった短歌。
regularexception
百首ほど有名な歌あるんだが。これやこの行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
toomuchpopcorn
連続駅五七五で発掘された富山地方鉄道の「新魚津・電鉄魚津・西魚津・越中中村・早月加積」は記録に残しておきたい。|加積(かづみ)という地名は早月の他に、東・西・南・北・中・浜がある様子。浦和並みの逸材。
tenn_yu
「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」「思い出は人生のキャラメル」という安住紳一郎氏の名言とともに。
Lhankor_Mhy
morimori_68
斎藤茂吉の「赤光」。名歌の宝庫
miyahoyo
与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」 tankanokoto.com
ENUmori0183
トラバにもあるけど、とめはねという書道漫画で知った「迷いながら ぶつかりながら 揺れながら 過ごした日々を いとしく思う」が最高に好き。
ayumun
「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」いつも何日か分からなくなってググってしまう
afunrupar
成層圏硝子床ごし見える距離「存在しない者を愛せよ」 / 二階堂奥歯
wuzuki
みんなの好きな短歌が分かって良いね。私は加藤千恵、中家菜津子作品が大好き。/ あとは、岡山の女子高生の川北天華さんが詠んだ「問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい」有名だけど大好きな歌。
mugi-yama
lovizfr
「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」寺山修司
greenbuddha138
世の中にいつら我が身のありてなし あはれとやいはむ あなうとやいはむ / 白鳥はかなしからずや / 孤独感は時空を越えて共感できるんだなと
sbiw0829
「君がため春の野に出でて若菜摘む 我が衣手に雪は降りつつ」と「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」が中学生の時からずっと好き。
ichigocage
和泉式部「暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」/平岡直子「ねえ夜中のガードレールとトラックのように揺れよういちどだけ明るく」
abinosuke
goldhead
一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと 石川啄木
Bantoya_Banto
「餓沙羅なる/ 遙けき便り / 打ち捨てむ / そは呪われし / 回文にして」
sander
「東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡(ひんがしののににかぎろひのたつみえてかえりみすればつきかたぶきぬ)」柿本人麻呂。学校で万葉集を初めて習った時に出てきた中の一首。音が面白くて不思議と覚えてる。
whirl
anond.hatelabo.jp のトラバやらブコメを読んでみればいいのではないか
noizecehi
「ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし」岡本真帆
type-100
白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染そまずただよふ
sangping
どうぞ→ ja.wikipedia.org (タンカーのメーカー)
eirun
「なにごとも思うに任せぬやるせなさ 我が手に結わう髪かたちさへ」中原綾子
laislanopira
minboo
鎌倉三代将軍源実朝は東夷でありながら京の最先端文化である和歌の達人で、現代で言えば「東京の文化に憧れる地方のサブカルスター」のような人なんだが、『鎌倉殿の13人』はどこまで彼の屈折ぶりを描くのだろうか?
takamurasachi
もののふの猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも 女なのに故郷を守る戦に参加して死んだ人の歌
sakuradrop999
船乗りになりたかったな。コピー機が灯台のようにひかりを送る /ユキノ進
misopi
元の濁りの田沼恋しき
layback
「電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ」東直子
youco45
もういやだ 死にたいそして ほとぼりが 冷めたあたりで 生き返りたい(岡野大嗣) / 仕事中によく心の中で思ってフフッてなる
kidspong
毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである(枡野浩一)若き日はあなたのメールを焦がれたがあなたはおろか誰からも来ない今(kidspong・返歌)
linus_peanuts
pero_pero
「どちらを向いても人のいない畠の真ん中で勢いよく小便をする 人は来ない」うちの祖父の作った歌です
ameshonyan
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも / 故郷の奈良を離れることになったので、たまには月を見ながら故郷を思い出そうと思う。
tukanpo-kazuki
俳句の最後に「そして輝く ウルトラソウル」をつけるとなんでもいい感じの短歌になるよ。
htnmiki
先日見かけたこれは子育てしてない私にも刺さった「 最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくその連続と思う子育て」 twitter.com
skinamono
私選。滅茶苦茶や言語道断が服を着て西新宿を歩いています(笹井宏之)/原子爆弾官許製造工場主母堂推薦附避妊薬 /(塚本邦雄)/一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと(石川啄木)。
oaz
殺したいやつがいるのでしばらくは目標のある人生である(枡野浩一)
negi_a
それは世界の端でもあつてきみの手を青葉を握るやうに握つた/荻原裕幸 個人的にとても好きな歌を。
behuckleberry02
短歌や俳句を書き込む時に五七の枠ごとにスペースや改行を入れてはいけません。元々入ってる場合は漏らさず入れましょう。それらも作者の表現の一部だと心得ましょう。大事。(出来れば気付いて直してほしい)
tajuuta
「ドラえもんがどこかにいる!」と子供らのさざめく車内に大山のぶ代 笹公人
jinkaishitsu
もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい /岡野大嗣さんの歌
kico_wm
永田紅、好きな人がいて嬉しい/精神は物質なれば苛立ちもそんなもんかとやり過ごすべし 永田紅はこれも好き
百人一首は60番台周辺がカオスでいいぞ。マウント合戦に幼女萌えにガチ悲恋に
dominion525
浜松町 田町品川 大井町 大森蒲田 川崎鶴見(京浜東北線)。高輪ゲートウェイがなければなあ…。
mukudori69
「散髪の帰りの道で会う風が風のなかではいちばん好きだ」岡野大嗣
shiroikona333
藤原定家「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」。「無い」ものを詠うという新古今調の極致。声に出すと畳み掛ける「の」も良い。和歌は新古今和歌集でいったん完成している。
mazmot
あとで読む。短歌の名歌を知りたいかも。ブクマカたちの好みもわかる
MiG
「君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ」北原白秋、色っぽいのに可愛い後朝の歌。実際には白秋が不倫してたときの歌なんだけども…
mssetup0126
ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし(岡本真帆) 名歌かは分からんが好き
blueboy
小林秀雄の「実朝」に、歌と解説がともに出ている。 x.gd 「大海の磯もとどろに寄する波 割れて砕けて裂けて散るかも」 「山は裂け海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」
ackey1973
“サラダ記念日”の俵万智に“親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト”という歌があって、名歌とは思わないんだけど、彼女、当時は現役の高校教師だったんだよなあと思うと味わい深い。
kou-qana
「ひむかしの のにかぎろいの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ」デカくて好き。皇位継承の見立ては置いといて、グワッと体ごと天球上に視線移動する。「えーえんとくちから」「サバンナの象のうんこ」も。
peketamin
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む。柿本人麻呂。橋本治さんの『これで古典がよくわかる』で紹介されてた/もう一つ。大空は梅の匂ひに霞みつつ くもりもはてぬ春の夜の月。藤原定家
momizikeiko
『万葉集 巻七・一三七四』闇夜者 辛苦物乎 何時跡 吾待月毛 早毛照奴賀
「向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちいささよ」前田夕暮 なんか心象風景的な感じで好き。
izmasky
ひどくあいしたあとはコーラの缶のあかビールの缶のぎんならぶだけ/加藤治郎 サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい/穂村弘
seitenugetsu
「透明になれる薬をゴキブリに食べさせたからもう大丈夫」木下龍也/「非常時に壊せる壁をこわすのはオレには無理だオレにはわかる」工藤吉生/「味のりを5袋ぐらいたべてから自分がまずい状態と知る」シラソ
yopit
tigercaffe
西行法師「願わくは 桜の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃」/崇徳院「瀬をはやみ 流れせかるる 滝川の われてもすへに 会わんとそ思ふ」/崇徳院のは大河ドラマだと兄弟の仲を詠んだ短歌と解釈してた。
sidecar_ni_inu
そんな啄木も、「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五のこころ」とよむ素敵な方です。
toriaezu113
「深海に潜る鯨の尾のうねりきみを愛した日々の確かさ」 小島なお
「筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛しけ妹ぞ昼も愛しけ」茨城で見かけた万葉歌。名歌ではなかろうが、直接的にエロくておもしろい。エロい万葉集選抜とかあったらウケるかも。
the-hosi
今日もまた 心の鐘を打ち鳴らし 打ち鳴らしつつ あくがれてゆく(若山牧水)/白骨温泉に行くと碑銘があります
candy296
「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい/笹井宏之
shun_shun
Caerleon0327
perfectspell
「うつうつと 汗ばむ吾が身 熱あれば 悲しき顔に 河童寄り添ふ」宮 柊二 「夕焼ける 左脳ふたりの 思い出が 誤字を含んだ 文字列になる」兵庫ユカ
atohiro
kuro_pp
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」は記憶に残るよね/現代短歌もいいぞ!「煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火」井上法子
kawai_masanori
tamakky
「東風吹かば 匂い起こせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」菅原道真。京から西国へ左遷される寂しさ、植物に対してまで優しい視線を送る人柄、そして日本史のターニングポイントと、この文字数で情報が多い。
shimeji_029
「うすく開くまなこの底へひさかたのひかりの春の流れ入るかな」(壱羽烏有)と「みかきもり衛士のたく火の夜はもえ昼は消えつつ物をこそ思へ」(百人一首のどれか)が好き
HanaGe
『実は僕家でカエルを飼つてゐる夕立来るも鳴かないカエル』(平成25年 宮中歌会始 お題「立」)
mutinomuti
蝉丸(´・_・`)ブコメの崇徳院は今は亡きうちの祖母も好きだったな。時計職人として働けなくなるまでずっと働いてた
Champion00
百人一首とかは違うのかな
owata89
途中にてふと気が変り、つとめ先を休みて、今日も、河岸をさまよへり。 石川啄木
adhd1978bba
ひさかたの 光のどけき 春の日に しず心なく ファンシーグッズ(あぶらとりがみ)
gm91
あとで詠む
osaan
鶴こうがい亀べっこうのひそみあり 用に立たない君は千代まで (江戸時代の狂歌。長生きする鶴亀でもコウガイやベッコウにされたりするけど、天皇は役に立たないから千代に八千代に続くだろう)
江戸時代に幕府領・天領だった「西国筋郡」に、田野村庄屋というのがあった
明治維新のあと、庄屋の15の娘には、薩摩系の森藩だった村から、若い村民が婿に来た
初代村民は、それで九重鉱山を購入し、約20年間経営し、それを船会社の広海二三郎(損保ジャパン始祖)に売った
その娘には、また森藩だった村から婿が来た、2代目の村民は発電所を経営することにした
2代目の村民は1941年、発電所を九州水力電気(九州電力の始祖)に売った
その娘には、また森藩だった村から婿が来た
3代目村民は、陸軍の理系教授だったが、戦後、2代目が死亡したのち、2年後に死亡
その息子は1人生き残っていたが、女学校報国団のあった熊本県甲佐町から、プロテスタントの町民が嫁に入った
つまり薩長政権は、天領の役人の財産などを使って鉱業や保険業や電力事業をしたかね
わいは、会社社長。といっても従業員はおらん。わいの一人法人や。
さぁ数カ月ぶりに休みができた。やっほーーーー。それも二日。
まぁ、今日の夕方にお客さんが書類取りにくるから、その時間だけは自宅兼事務所にいないといけないので、泊まり旅行は無理やけど。
■ ほしいもの
・ダンベル
自宅トレーニングメニューを増やそうかな。チューブは買ってよかったし
わいは紙派や。
■ 少し欲しいもの
・iPad
動画見るだけやから、手持ちのFire HD 10でいいといえばいいんやけど。
Miスマートバンド気に入った。睡眠ログは、Miスマートバンドでいいけど、お出かけように時計っぽいのもほしいな。
いらんちゃいらんけど。
・冬用のアウター
ちょっと機能的に若干不満があるので、新しいのほしいけど、まぁ今のでいいっちゃいいんだよ。
■ ほしかったけどやっぱいらん
・フルサイズ一眼 (α7)
大学の時は、こしかけ写真部で写真展に出したりしてたな。だから、カメラこだわってたんや。中判使ったり、暗室使ったりしてたな。そこまで真剣じゃなかったけど。
少し前は、フルサイズほしかったな。でも、いま写真撮るっていったら、メモ替わりだけや。Redmiのカメラで充分や。
クロス乗っているとロード欲しくなるのが定番だが、あんま長距離お出かけする時間なくて、買い物で乗るのがメインやからクロスでいいか。わい車なし。
・PS5
ほしかったけど、買えないうちに物欲なくなってきた。買ったらゲームばっかしてそうやから、まぁないほうがいいかもしれん。
物欲おわた。
■ したいこと
・うどん屋
■ そこそこ
・美術館
でも、今、見たい展示がなーい。
・ラーメン
ラーオタばかにしてたけど、今なんかわかる。休みの日に、1000円+αでなんかやった気になれる。
・本屋
コロナになってからデカイ本屋ブラブラ一回しか行ってないな。今までは、スポーツ見に行くか、友達と飲みに行く前に行ってたけど、なくなったしな。
まぁ、今読みたい本ないんだよな。だから、むしろ行くべきなんかもしれんけどけど。
■ ほぼあき
一時期はまってた。だいたいいった。もう飽きた。
・岩盤浴
疲れをとりにでも。数ヶ月で1回でいいか。
■ あきた
・スポーツ観戦(生)
コロナになってからいってない。中継でいいっかって感じになった。中継されないような小さな大会は、今も無観客やし。
・旅行
数年前に何個か行きたいなぁってメモしてたところに、去年夏・秋・冬で行ったら、もう行きたいとこなし。
旅行中、スマホばっかしているから、SNSでどうでもいい情報知って、むしろ疲れる。旅行はいいかなと思った。
前から同業者でやっている人がいて興味本位で、去年のGoToの時に少しやったけど、二日で飽きた。
・登山
北ア、中ア、南ア、八ヶ岳の登りたい山リスト制覇したら、あきた。本当はまだあるけど、わいの実力だと無理ポやし。
近所のハイキングはしているけど。
途中でSTOP。
■意味
資料1:「へそが茶を沸かす」の項による。
おかしくてたまらない、また、ばかばかしくてしかたがないたとえ。多くあざけりの意をこめて用いる。
資料7:p.219~220 大笑いしてへそのあたりが大きく揺れるさまを、茶釜の湯が沸騰するさまに見立てておもしろおかしく表現したもの、とあり。
資料8:p.118 「臍が縒(よ)れる」の項に「臍で[が]茶を沸す」があり、「臍のあたりが笑い捩(よじ)れて茶が沸くほど熱くなる」、との意味あり。
他には、「へそで茶を焼(た)く」「へそがくねる」「へそが西国(さいこく)する」「へそが入唐(にっとう)渡天(とてん)する」「へそが宿替(やどが)えする」「へそが笑う、へそで笑う」いう言い方もある。
■出典
資料1:用例として、浄瑠璃『前太平記古跡鑑(ぜんたいへいきこせきかがみ)』(1774)、『譬喩尽』(1786)、歌舞伎『盲長屋梅加賀鳶』(1886)などがあがっている。
資料2:用例として『糸桜本町育(いとざくらほんちょうそだち)』があがっており、資料9によると、安永6年(1777)初演とあり。
資料6:p.275に、『譬喩尽』の例の他に、〔役者三津物・京〕と〔六あみだ詣初・下〕の用例あり。資料10のp.757に、『役者三津物(やくしゃみつもの)』は享保19年(1734)成立とある。また、資料11のp.171に、滑稽本『六あみだ詣(ろくあみだもうで)』の項があり、初編の成立が文化8年(1811)とある。
これらの用例の中では、『役者三津物』の1734年が一番早いことになる。
『役者三津物』は『歌舞伎評判記集成 10』(資料12)p.477-544に収録されている。「役者三津物(京)」の中、立役者之部の澤村長十郎の中に、「…いつもかはらぬ古格とは、イヤハヤ臍が茶をわかす。…」(p.486)と出てくる。
[google]で<へそ×茶×沸かす×出典>をキーワードとして検索すると、資料2の用例『糸桜本町育』が出典として紹介されている。(最終検索日:2005.12.8)
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000027683
なんで図書館がこんなのにこたえてんだろ
開始早々の祟り神戦は、アニメ映画の中でも屈指の爽快なアクションシーン。
激しい動きのようでいて人間の目の動きをよく押さえていて、ただ画面を揺らして画面酔いさせるようなものとはレベルが違う。
音楽も画面と完全にシンクロして印象的な金属音ともあいまって脳汁ドバドバである。
その後、アシタカが西国へ赴く場面は多くの人が言うように素直に号泣するしかない。
一見のどかな田舎の風景でも病や飢え、戦が絶えない非常に厳しい世界であること、シシ神の森の不思議さやタタラ場の異様さなどが自然と配置され、複雑な背景を解説無しですっと飲み込ませる演出はまた最高。
思うに、エボシは、高級遊女か何かで上流階級とツテがあり、そこから師匠連とつながって石火矢の技術や、もしかしたらタタラの技術も手に入れたのだろう。
ただし、おそらくきちんとした後ろ盾はなく、師匠連やその上の人たちから見て使い捨ての手駒でしかなく、地侍などと組んでも主導権を奪われかねない危うい立場であったと思う。
そこで、手っ取り早く勢力を築いて生き延びるための手段として、自分を裏切らない捨てられた女達と病人を利用し、そのことに本人も自覚的だったと思う。
だから、「曇りなき眼」発言で大笑いしたのには、意表を突かれたこともあり、また多少は青二才に対する嘲笑もあったと思うが、自嘲の成分もある気がして目頭が熱くなる。
結局、神々たる自然に向かっていくのは、人間の地から追われた弱い者たちであって、「最初に人が自然を侵したのだ」としたり顔でいう人間に限って、人間の地の真ん中でのうのうと生きているという欺瞞に気が付いたから、エコを前景から引っ込めたのではないかと疑っている。
ジコ坊というのも面白い人物で、徹底的に現実的な前線指揮官であるにもかかわらず、結構な遊びがある。アシタカのようにやけに戦闘力の高い不審な若者を、自分の関係先に送り込んだりする。
作中に天朝様の御文が出てくるが、基本的に師匠連の目的は神殺しとそれによる更なる権威の増大である。
ジコ坊のセリフで「神殺しは怖いぞ」というのがあるが、彼は以前にも神殺しに関わっているともとれる。
怖いのは神による祟りだけなのか。神殺しの英雄は、権威を求めるものにとって邪魔なのではないか。ジコ坊は神殺しに関わったために、いい年して最前線に送られているのでは。ことが済んだとき、エボシの立場は非常に危うい。
たぶん、ジコ坊が「神殺しは我々でやろう」と部下に言ったら、その時点でエボシは殺されてしまったかもしれない。
鮎之助と別れて、またどしどしと歩き、兵庫の町に着いた鹿之助は、
そこで女を挟んで浪人と大男とが争っているのを見かけて、仲裁に入った。
浪人に話を聞いてみると、彼はこの浮舟という遊女と馴染みになって放蕩したため、
主君の勘気を蒙って流浪の身となり、仕方なく二人で駆け落ちをしてきたところ、
こちらも浮舟に入れ込んでいた大男が怒り、浮舟を渡すか果し合いをするかと追ってきたということらしい。
そのうえ浪人は、刀さえも売り払って竹光を差していたので、果し合いをしようにもできないのだと言う。
そこで鹿之助が刀を貸すと、浪人は喜び勇んであっという間に大男を斬り殺してしまった。
浪人は浮舟に、これから心を入れ替えて精進し、いずれ名をあげたら迎えにいくから、いまは大坂の店に戻れと言い渡した。
また鹿之助には感謝し、家臣になることを申し出た。
鹿之助は承諾し、兵庫の横道で出会ったということで「横道兵庫之助」という名を授けた。
そして兵庫之助に、浮舟を大坂の店まで送っていくよう命じたのだった。
さて、鹿之助はまた旅を続け、早くも播州上月城の尼子義久と面会した。
義久は話を聞いて喜び、すぐさま鹿之助を軍師として遇した。
尼子の家臣たちは、新参の鹿之助を信用していなかったが、あるとき彼が怪物退治をしたことで、たちまち敬服することになった。
この怪物退治については別に申し上げるほどのこともないので省いておく。
また山名配下に菊池音八という者がおり、西国に敵う者なしという剛勇無双、毛利でさえ手を焼くという大豪傑であると聞いて、
鹿之助は一計を案じ、「伯州の腰抜け・菊池音八を討ち取る者は播州尼子の山中鹿之介なり」と高札に大書してあちこちに立てさせた。
音八はもちろん怒り狂い、「舞子の浜にて殺してやるから待っておれ」などといった書状を送りつけてきた。
鹿之助が軽装で出向くと、音八は甲冑に身を固めてやってきた。
鹿之助は笑って「内心、私を恐れているから、大仰な鎧を着てきたのだろう」と挑発した。
腹を立てた音八が鉄棒を振りかざして向かってくるのを、素早くかわした鹿之助は見事に相手の首をはねてみせた。
これにより鹿之助の名は近隣に轟き、容易に尼子を攻めるものもなくなった。
数日後、鹿之助は山名家へ出向いて「毛利家臣、清水三郎である」と名乗り、当主の山名氏資に面会を求めた。
http://anond.hatelabo.jp/20170604204919
1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇は後鳥羽天皇を即位させ、寿永二年の宣旨で頼朝の東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝の上京を要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝は東国の支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経が上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。
義仲が京都で乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。
兵糧不足のまま進撃して首都を占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件(南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?
また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います。
(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝が西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ、自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)
「頼朝は挙兵以来、北条氏や三浦氏などの東国の武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察を担当する侍所を設けて、有力御家人の和田義盛を別当(長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。
頼朝は後白河法皇の要請を受け、範頼と義経に平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏を滅亡させた。後白河法皇は頼朝の権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿・九条兼実(藤原兼実)らを朝廷の重要政務を担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族を追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝は義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝は東国や西国の多数の武士を御家人として組織しながら、主に東国の支配を確立していった。
1190(建久元)年、頼朝は挙兵後はじめて京都に入り、右近衛大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」
当然ながら『詳説日本史』にも、侍所、政所、問注所、地頭というキーワードは出てきます。しかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています。
それに比べて、この教科書は歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから、時系列に即してこれらの言葉の意味を理解することができるはずです。
結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。
鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます。名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府の政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。
あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。
一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護・地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職が地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?
例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています。守護は「おもに東国出身の有力御家人」から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内の御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人を支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務は年貢の徴収・納入と土地の官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配を保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公の関係となって封建制度の基礎となりました。
ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されています。しかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。
私は最初にこれを読んだとき、わけが分からなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許で守護・地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。
1960年に石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたものが守護・地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護の前身となりました。
三省堂の教科書は、次項でそのことが説明されています。頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園・国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢・公事の徴収、治安維持に当たらせた」としています。
このように、三省堂の教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。
実教出版もこの新説を採用しています。こちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります。東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護の前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います。
それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護・地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用な矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。
なお、山川の参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語が掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭の前身だったと思わせるような記述です。
地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝の要請で後白河法皇は諸国の公領・荘園に地頭を設置することを認めた。当初は1国単位に荘園公領を支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家・寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務は土地管理、年貢・兵糧米の徴収、治安維持など。
ですが三省堂・実教出版・東京書籍の教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています。
「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語を独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。
(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭が掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。
予防線を張っておくと、私は高校で日本史Bを履修しなかったし、大学も理系に進みました。教科書を読んだのは興味本位にすぎません。
はじめに書いたとおり、最新版の教科書を持ってません。今回はてブでバズっていてびっくりしましたが、筆者は歴史学の専門家でも何でもないことをお断りしておきます。
再追記。id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝です。)
(追記2
複数の教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます。
『詳説日本史』では、前九年合戦・後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏は東国武士団との主従関係を強め、武家の棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから、教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています。
ここで例えば山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかったことを理解することができるのです。(上述参照)
つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。
『詳説日本史』によると、戦国大名の性格は次のように説明されています。戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人や地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準で統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代を下り、別のページで豊臣秀吉の太閤検地を説明しています。太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分の田畑の所有権を法的に認められることになった」わけです。
このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版『日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ、大名の統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しか分からないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。
この視点を最もわかりやすく記述しているのが、三省堂『日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉は太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地の一元的支配の確立、荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。
ちなみに、東京書籍『日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制の体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)
はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。
『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。
僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああいう教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである。
ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである。日本民族がいかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的な価値観を元に記述せざるをえなくなる。
客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。
いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。
クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。
例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています。
平清盛が後白河法皇を幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団や中央の貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇の皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏の源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。
これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団が挙兵して、ついに内乱は全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。
平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。
しかし、畿内・西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏は北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国に都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼・義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係の説明が詰め込まれています。
まず、平清盛が後白河天皇を幽閉したこと、安徳天皇を即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています。
当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています。
次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団や中央の貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王と源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています。
これはまさしく因果関係に言及しているわけです。
このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価や因果関係がしっかりと述べられているのです。
そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。
なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています。
治承・寿永の乱は、一般には源氏と平氏の戦いといわれている。しかし歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏と平氏の勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王の挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃・近江・河内の源氏、若狭・越前・加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏らである。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである。
彼らの動向をまとめあげ、武家の棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲・源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。
教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。
他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。
【参考文献】
(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)
伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏の根拠地・鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦、千葉、上総氏などの有力な東国武士と主従関係を結んで御家人とし
頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います。
三浦、千葉、上総という武士の名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏の名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦のときに唐突に登場します。)
[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政・裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元・三善康信が就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島で平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦で平氏を滅ぼした。
[]は引用者註。
この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。
鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています。
北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦いで平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国の地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原(神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇と対立したので、法皇は同年、頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経はさらに平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏一門を滅ぼした。
この教科書は歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。
上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏が都落ちに安徳天皇を伴ったことも言及なし。
というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります。
鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍に面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。
教科書の中では唯一、桐原書店だけが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。
(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍に面接して」という説明も省かれています)
["新恩給与"についての註]
土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。
これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!
所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世の土地支配の構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います。
なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています。
職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園の場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。
この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。
しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会と文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています。
地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益の意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利。
これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配の構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?
せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。
さて、桐原書店の教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています。
幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権を意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近衛大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。
Aについては南北朝時代の武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨・甲斐善光寺蔵)。
とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。
網野善彦の著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います。
他の教科書には載ってませんが、ピンポイントで東大入試に出題されました。
源氏と鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏の氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮(八幡宮の前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。
鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍の教科書だけです。
上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉と経済流通」というのも掲載されています。
東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉の都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います。
こののち、後白河法皇は義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令を希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。
頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています。
あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷の命令を無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。
それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇・朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。
両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます。
関西にある政権が東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ。
平氏は安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力を回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門の壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。
この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス。
都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。
どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています。
ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西の教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇や平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)
例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国の武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とあります。さらに西国の御家人が東国の御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書の関西中心っぽい史観は独特です。
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 仕官以前
2 子孫
3 主な家臣
3.1 一門衆
3.2 重臣
3.3 その他
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
生涯[編集]
生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国に存在した増田氏との関係は不明である。
秀吉に仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。
天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。
秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。
太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋・五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
文禄4年(1595年、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このときの対応が秀吉によるキリスト教(フランシスコ会)の弾圧(日本二十六聖人の殉教)の端緒を開いた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和中から夫役が徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を委ねられている。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。
慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。
墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。
共通の敵と戦ったことで各家にくすぶっていた敵愾心は冷却された。
それ以上に効果的だったのは増田家(八)が他の三家に送った軍目付の存在だ。
いざとなれば暗殺されるだけの存在にみえて、彼らには赴任先の軍を「まじめに訓練する権限」が与えられていた。
増田家(五)の強硬な反対を押し切って付与されたこの権限によって、各家の軍隊は雑魚ナメクジ化した。
戦争を起こそうとしても雑魚ナメクジ同士のにゅるにゅるしたナメクジ試合になると悟って、
次世代の当主たちは軍事面での野望を抱かなくなった。一方で海外から侵略者は増田家(八)の戦略を洗練させた戦い方で、にゅるにゅると迎撃される事になった。
最終的に増田島は以下の形に落ち着いた。
アルファマスダ家 | 当主 | 領国 | 石高 |
---|---|---|---|
増田家(八) | 大便公方 | (八)(六)半国(七)(九) | 560万石 |
増田島の統一に中心的な役割を果たした増田家(八)は、石高にして全体の半分近くを領する。
増田島の中央に位置するのをいいことに島中から名産品をかき集め、みやこの人間を飽食させる島最大の人肛を誇るうんこ生産国でもある。
旧増田領(九)に運河を建設して南と北の交流を活性化、平和の中でのさらなる発展を目指している。
当主の意向で公衆便所の整備が熱心に進められ、多数抱える人口密集地が衛生的なことは海外の商人にも感心されている。
増田匿兵衛は自分は戦争向きの人材だとして引退し、増田家(四)から預けられた増田四五郎などの育成にあたっている。
増田騎馬軍団は馬の機動力を活かして各地をむすぶ伝馬に新しい役目を発見した。
ベータマスダ家 | 当主 | 軍目付 | 領国 | 石高 |
---|---|---|---|---|
増田家(四) | 鎮寇将軍(鎮北将軍あらため) | 増田出羽守 | (四)(一)(二)北半国(三) | 290万石 |
増田家(四)は連合軍から制圧した旧増田領(一)を預けられる代わりに、(二)南半国を増田家(五)に、(六)半国を増田家(八)に割譲した。
ただし、海上の交易利権はより広く得ており、増田家(四)の廻船は大洋側でも盛んに活動している。
当主は北方異民族の来寇にそなえる意味で公式に鎮寇将軍の名をたまわった。
狄人には和戦両様で対応し、彼らとの交易や旧増田領(三)を中心とする金山銀山の開発で豪華絢爛な文化を興した。
金製の馬糞ウニ模型など「出来は素晴らしいけど、なんで作ったの?」と言われる日々である。
増田家(八)はこの芸術品への対抗に金の雲細工を作らせた。後の金のうんこである。
ガンママスダ家 | 当主 | 軍目付 | 領国 | 石高 |
---|---|---|---|---|
増田家(五) | 東上管領 | 増田金吾 | (五)(二)南半国(六)半国 | 290万石 |
まったく動かずに北と西から半国ずつ奪った増田家(五)は増田島全体の穀倉となった。
収穫期が訪れるたびに大量の穀物が北や西に送られ、ここでの穀物の出来が相場に大きな影響をあたえた。
穀物の形で西に流出する栄養素を補うため、漁業によって得た魚を肥料にする方法が開発された。
その魚の栄養は増田家(五)の穀物を食べた人々のうんこの形で海に流出し、潮に乗ったものであり、
ここに穀物とうんこと魚(とプランクトン)を媒体とした元素の循環が完成した。
また、受け入れたカラトラヴァ騎士団との交流が増田家(五)を海の果ての国々との取り次ぎ役にした。
彼らは居住を制限されながらも、布教と皮膚病を治す薬草の探査にあたっている。
緯度が異なる旧増田領(二)の半分を手に入れたことは増田家を気象変動に強くして、飢饉の防止に貢献した。
なお、石高は増田家(四)と互角ながら、鉱山や商業の収入では大差があり、文化的には他からゆっくりと遅れて行った。
デルタマスダ家 | 当主 | 軍目付 | 領国 | 石高 |
---|---|---|---|---|
増田家(十) | 西国大宰相 | 増田大学 | (十)(士) | 210万石 |
増田家(十)は他の増田家に比べて独立性が低く、増田家(八)からの干渉を強く受けている。
しかし、増田家(四)(五)の思惑もあって、第四の増田家として存在できている。
二位から四位の三家を足せば、石高では増田家(八)を上回るのである。
増田家(八)も西の外様大名を削るよりも、強い藩屏に育てる選択をした。
また、大陸との取り次ぎ役には歴史的に増田家(十)が適任であった。
歴代の当主は気性のあらい増田家(士)の武士を制御するのに苦労する。連中の雑魚ナメクジ化が増田大学最大の功績であろう。
その他
大名格の増田家 | 旗本格の増田家 | 商家になった増田家 | 消滅(吸収された)増田家 |
---|---|---|---|
(三)(九) | (二)(士) | (七) | (一)(六) |
役目を終えた忍者たちは、走狗として煮られない自衛のために、集まって一つの村を作った。
文化背景の異なる彼らを結びつける手段として、俳句が盛んに利用された。
俳句でなくても「決まりきった単語」を用いて100文字以内で伝えるのが作法であった。
より荒っぽい忍者はコミュニケーションに手裏剣を投げつけあった。
帰農した忍者が増えてからは野良仕事に使う手斧が活躍することもあったという。
また、村内の政治的対立を回避するためカラトラヴァ騎士団からもらった異国の犬が名目的な村長に推戴された。
村民は独身のおっさんばっかりだったので、将来性には乏しかった。
ひとつの戦乱の果てに増田家は以上のように整理されたが、勝ち残った増田家が次々と分家の増田家をつくったことは言うまでもない。世に増田の種は尽きまじ。
そじゃーな!
前回
東大基礎科学科卒。過去250~340年間世界の大数学者達が解こうとして解けなかった、世界史的数学難問4つを解き、現在ロシア科学アカデミー数学の部で審査中。マスターした11ヶ国語を駆使したプロの通訳・翻訳家。矛盾だらけの現代物理学を初め、全科学(自然、社会、人文科学)の主だった物を体系的に批判し各々に別体系を提起。各種受験生(医学部、難関大学入試、数学オリンピック、社会人大学院入試、IT関連資格)支援。
■経 歴
2002年 (至現在)セント・クレメンツ国際大学 物理学教授
2001年 英国系セント・クレメンツ大学で数理物理学の博士号取得
2002年 ロシア科学アカデミー・スミルンフ物理学派論文審査員となる
1999年 英国系ウィットフィールド大学でコンピュータ科学人工知能の博士号取得
1991年 (~1993年)University of California、 Irvine人工知能研究所で確率論批判・学習システムの研究
1988年 (~1991年)世界の認知科学の権威ロージャー・シャンクのCognitive Systemsのデータベース研究所IBSで自然言語処理研究
1986年 (~1988年)欧州先端科学研究プロジェクトESPRITにESPRITディレクターとして仏Telemecanique研究所より参加(生産ラインへの人工知能導入の研究)
1985年 西独ジーメンスのミュンヘン研究所で生産ラインへの人工知能導入の研究
1982年 (~1985年)[仏国]世界一速い列車TGVのメーカーAlsthom社の知能ロボット研究所
1981年 (~1982年)[仏国]グルノーブル大学院、ソルボンヌ大学院で通訳の国家免状取得
1980年 (~1981年)[スペイン]マドリード大学院で言語学履修 西国政府給費留学生
■専門分野
数理物理学Ph.D.、コンピュータ科学人工知能Ph.D.、マスターした11カ国語を駆使したプロの通訳・翻訳家
■講演テーマ
「ビジネスマン、文系卒社員に理工系技術と技術的発明を評価できる眼を」
近年世界の大学でビジネス志向の学生向けに、理系の技術的な事がある程度分かるためのカリキュラム改変が始まっている。しかし申し訳程度であり、また理系の拠って立つ数学物理学の科学理論自体に欠陥が有る事が最近明らかとなっているため、正しい数学と物理学の粋を伝授し、文系でも本物の理系技術評価が出来るように支援する。
「英語を完璧に&現地語(非英語)を或る程度使えるマネジャー急遽創出と、社員の中から各国語通訳をネーティブに肉薄する敏捷性と正確さで急遽育成を支援」
海外のプロジェクトや企業と折衝するとき、英語がネーティブ並みであったり、現地語を自社のディレクター自身がある程度こなせるか、英語、現地語につきネーティブ並みの社員が通訳出来ると先方との話が大きく好転する場合が少なくない。それを本当に実現する教育訓練を私は提供できる。平明に説明し、実体験をしてみたい方がいらっしゃるなら講演会場で手解きをしてみたい。
「発見された言語学理論と外国語訓練方法論を基に、文科省と英会話学校の英語教育訓練方法論の根本的誤りの中枢を詳説」
統語法意味論、文脈意味論、実世界意味論の3レベルで進展するネーティブの母国語習得過程の中、言語能力の真の中枢は解説も無しに親の喋るのを聴いているだけで分かるようになる統語法的意味把握能力で、これは文法用語を全く使っていなくても徹底した文法訓練となっている。ネーティブが敏捷性、精度の点で万全であり、先ず文法的間違いをすることはない理由はここにある。全文法分野について書き換え問題の「即聞即答訓練」を一気に中学生以上の年齢の人に施し、全文法のビビッドな一覧性を習得させるとネーティブに肉薄する敏捷性と精度で外国語を使いこなせるようになることが発見された。
「<証明された欠陥数学> 確率統計と微積分学のビジネス、金融工学、保険業界での使用に対する警告と、それに取って代る新数学体系」
我々物理世界は離散値の世界であることが原因で、物理世界に住む人間の頭脳が考え出した数学の中で連続実数値に基づく確率統計学と微積分学だけが欠陥数学として発現していることが証明された。決して建設的な予測をすることができず、崩壊していく事象に後ろ向きにしか適用できず、せいぜいリスク管理にしか使い道の無い確率統計学をビジネス学の分野では金科玉条の如く信用し積極的やり方で利用しているが、ここに「理論」と現実との間に大きな食い違いが生じている点に警告を発したい。そのためそれに取って代る新数学体系を提起する。全てを分かり易く解説します。
「新エネルギー・エコ向けの発想を大転回した技術的な重要な発明を提起」
20世紀初頭に数理物理学者Henri Poincareは二体問題までは解けるが三体問題(三つの星が互いに重力で引き合いながら運動している時の時々刻々の位置を計算で求める事)以上は微積分学を使って解く事が出来ない事を証明した。これは無限小差分を使う微積分は計算式中で交差する項をほぼ同等とみなして相殺してしまうため、作用反作用の法則(F1*v1=-F2*v2)の取り違い(F1=-F2が作用反作用の法則であると圧倒的多数が信じている)と相俟って、交互に対称な運動しか記述できないため、対称性の有る二体までは記述できても対称性のない三体以上は記述できないためである。この欠陥数学微積分を基に二体までは「エネルギー保存則」を証明したものの三体以上の「エネルギー保存則」は本来的に証明不可能であることが明らかと成った。現に永久磁石がエネルギー保存則を大きく超えることが実証され始めている。それらの実験につき具体的に物理学の素人の方々にも分かりやすく報告したい。
「世界史的体系的誤りに迷い込んだ現代物理学とその使用者への警告とそれに取って代る新物理学」
現代物理学の二本柱、量子力学と相対論の中、量子力学は水素原子の原子核と軌道電子の関係説明を辛うじて試みただけで、水素原子より複雑な原子や分子の構造の説明に実は悉く失敗し、繰り込み・摂動理論はその失敗を隠すため後に持込まれた。軌道電子は光速に比べ無視できぬ速度でクーロン力で原子核に引かれて急カーブしながら等速加速度円運動、大量のエネルギーを消費するが、半永久的に軌道を回る。しかしシュレーディンガーの波動方程式(その波動関数とその共役関数の積は確率)はエネルギー消費に一切言及せず、エネルギー・レベルが一定に保たれるという明らかに矛盾した論を展開する。また確率を持ち込んだからには、エントロピー単調増大法則がここに適用され、水素原子は瞬時に粉々に飛び散らなければならぬ現実に反する二つ目の重大矛盾に遭遇するが、これもシュレーディンガーは見てみぬ振りをする。つまり水素原子の構造の説明にすら量子力学は完全に失敗した。量子力学とは動力学でなく各エネルギー・レベルについての静力学でしかなく、「量子力学」の「力学」なる名前とは裏腹に力を論じられない。論じればエネルギー消費が起こりエネルギーレベル一定論が崩れる。
「現代のフォン・ノイマン型コンピュータ・アーキテクチャーの誤りと、創るべき新コンピュータ・アーキテクチャー」
現代のフォン・ノイマン型コンピュータの計算機モデルが取りも直さずチューリングマシンそのものである。チューリングマシンは決ったパラメータ数の状態間の遷移を静的モデル化したものであるのに対し、歴史的にその直前に発表されたアロンソ・チャーチの計算モデルのラムダ・キャルキュラス(人工知能プラグラミング言語LISPの言語理論でもある)は関数の中に関数が次々に入れ子のように代入されて行き擬パラメータが増えていくダイナミックな仕組みを持つ。この後者は人間が作ったコンピュータを遥かに凌ぎ、宇宙の始原から発生した環境データから関数をf1(t),f2(t),.,fn(t)と次々に学習し入れ子のように代入進化し、次の一ステップの計算には宇宙の始原からの全ての関数f1,f2,...,fnを思い起こし、そのそれぞれの差分を取って掛け合わせる事をしているコンピュータとも言える物理世界とその時間の学習・進化を時系列順に模写するのに持って来いの仕組である。関数と言っても多項式で充分である事を世界の7大数学難問の一つPolynomial=Non-Polynomialの私の証明も交えて平明に解説する。これは日本の国と世界の先進諸国のコンピュータ科学の今後の研究方向を左右する発言となる。
■実 績
【講演実績】
Trinity International University
「コンピュータ科学」 学士号コースの学生に卒業まで全コースを講義
St.-Clements University
「金融工学に必要な数学・物理学」の博士号コースの学生3年間に渡って講義、研究テーマと研究内容、博士論文のアドバイス
St.-Clements University
研究テーマ「コルモゴロフ複雑系の二進ビット・ストリングの下限=Lower bound for binary bitstring in Kolmogorov complexity」の博士号コースの学生Dr. Bradley Ticeに英語でアドバイス
St.-Clements University
外国語学部のポルトガル語・伊語の通訳・翻訳の学士号コースの学生に教養学部のレベルから全社会科学(経済学、法律学、社会学、経営学)、人文科学(哲学、言語学、心理学、歴史学)、自然科学(数学、物理学、化学、生物学、医学、計算機数学)、エンジニヤリング(Information Technology、ソフトウエア工学、電気工学、電子工学)の各々の学科の全講義を行う。
Госдарственный Университет Санктпетербургской Гражданской Авиации (サンクトペテルブルグ国立航空大学)
物理学学会の論文発表会で幾多の論文の露語によるプリゼンテーション。
【メディア出演】
【執筆】
ti-probabilistic Learning by Manifold Algebraic Geometry, SPIE Proceeding, 1992 Orlando 等 人工知能学会論文
禿げた男「おかしいな、もうそろそろ約束の時間なんだが・・・」
謎の男「西国原秀雄だな・・・」
東郷「用件を聞こうか」
西国原「はい、こちらの資料をご覧ください」
資料に目を通す東郷。
東郷「つまり、こういうことか。大沢が地元岩手県の畜産業を潤わせるために、今回の口蹄疫騒動を利用したということか?」
西国原「おっしゃるとおりです。口蹄疫が起こってしまったことは仕方がありません。しかし、積極的に対処して被害を最小に抑えるべき政府に対し圧力をかけて対処を誤らせ、故意に宮崎の畜産業のみを壊滅させて、その結果として地元だけが潤うような状態に仕向けた大沢をどうしても許せないのです。どうか、どうか依頼を受けていただけないでしょうか」
東郷「わかった。やってみよう・・・」
西国原「おお、ありがとうございます!」
低学歴にとってこの世は地獄だ。どこへ行こうと、結局優等生は素晴らしかったことと、自分が愚かであったことを証明させられる。
229 名前: エリート街道さん [sage] 投稿日: 2008/02/09(土) 21:16:32 ID:7V2xVG0c
【S】:東大
【B】:筑波 東外 東工 早稲田
【C】:金沢 岡山 熊本 電通 東京芸術 名工 東京理科 立教 同志社
埼玉 新潟 静岡 奈良女 東京海洋 東農 九州工業 横浜市立
230 名前: エリート街道さん [sage] 投稿日: 2008/02/09(土) 21:17:03 ID:7V2xVG0c
【D】:宇都宮 岐阜 徳島 長崎 鹿児島 豊橋技科 神戸外語 法政 南山 関学 北里
和歌山 岩手 山形 山口 長岡技術 富山 香川 愛媛 弘前 都留文化 高崎経済
北海道教育 兵庫教育 成城 成蹊 明学 関西 西南 芝浦工業
【F】:東洋 近畿 北洋 東北学院 広島修道 札幌大谷 札幌学院 札幌国際
千歳科学 天使 道都 函館 藤女子 北星 北海商科 北海道医療 北海道工業
北海道情報 北海道東海 北海道文教 北海道薬科 酪農学園 青森 青森中央
東北女子 八戸 八戸工業 弘前 富士 盛岡 石巻専修 仙台 仙台白百合
東北生活 東北福祉 東北文化 東北薬科 宮城学院女子 秋田看護 秋田経済法科
東北芸術工科 東北公益文化 いわき明星 奥羽 郡山女子 東日本国際 福島学院
筑波学院 つくば国際 磐木 流通経済 足利工業 宇都宮共和 国際医療福祉
作新学院 白鴎 文星芸術 関東学園 群馬社会福祉 群馬パース 上武 創造学園
高崎健康福祉 高崎商科 東京福祉 跡見学園女子 浦和 共栄 埼玉学園 埼玉工業
231 名前: エリート街道さん [sage] 投稿日: 2008/02/09(土) 21:17:39 ID:7V2xVG0c
【F】:十文字学園女子 城西 尚美学園 女子栄養 駿河台 聖学院 西部文理 東京国際
東邦女子 日本工業 日本薬科 人間総合科学 文教 平成国際 武蔵野学院 明海
ものつくり 愛国学園 江戸川 川村学園女子 神田外語 敬愛 国際武道 秀明
城西国際 聖徳 清和 千葉科学 千葉経済 千葉工業 千葉商科 中央学院 帝京平成
東京情報 東京成徳 日本橋学館 了徳寺 和洋女子 上野学園 大妻女子 桜美林
共立女子 恵泉女学院 工学院 駒沢女子 産業能率 白梅学園 白百合女子 杉野服飾
聖泉女子 大正 多摩 多摩美術 デジタルハリウッド 東京家政 東京家政学院 東京経済
東京工科 東京工芸 東京女子館 東京女子 東京聖栄 東京造形 東京電気 東京農業
東京富士 東京未来 東洋学院 日本社会事業 日本女子 日本女子体育 日体大
日本文化大学 文化女子大学 文京学院大学 明星大学 目白 立正 ルーテル学院
LEC東京 和光 神奈川 神奈川工科 鎌倉女子 関東学院 相模女子 松蔭 湘南工科
鶴見 田園調布学園 桐蔭横浜 東洋和英女学院 フェリス女子 横浜商科
敬和学園 長岡 長岡造形 新潟医療福祉 新潟経営 新潟工科 新潟国際情報
新潟産業 新潟青陵 高岡法科 富山国際 金沢学院 金沢工業 金沢星陵 金城
北陸 仁愛 福井工業大 健康科学 帝京科学 山梨英和 諏訪東京理科 清泉女学院
長野 松本 朝日 岐阜医療科学 岐阜経済 岐阜聖徳 岐阜女子 中京学院
232 名前: エリート街道さん [sage] 投稿日: 2008/02/09(土) 21:18:11 ID:7V2xVG0c
【F】:中部学院 東海学院 静岡英和 静岡産業 静岡福祉 静岡文化芸術 静岡理工科
聖隷クリストファ 常葉学園 浜松 浜松学院 富士常葉 愛知 愛知学院 愛知学泉
愛知工科 愛知工業 愛知産業 愛知新城大谷 愛知東邦 愛知文教 愛知みずほ
愛花花園 金城学院 星城 大同工業 中京 中京女子 中部 東海学園 豊橋創造
名古屋外語 名古屋学院 名古屋学芸 名古屋経済 名古屋芸術 名古屋産業
名古屋商科 名古屋女子 名古屋造詣芸術 名古屋文理 日本福祉 人間環境 名城大学
鈴鹿国際 三重中京 四日市 成安造形 聖泉 長浜バイオ びわこ成蹊スポーツ
京都外語 京都学園 京都光華女子 京都嵯峨芸術 京都産業 京都女子 京都精華
京都造形芸術 京都創世 京都橘 京都ノートルダム 京都文教 花園 平安女学院
蒼野 追手門学院 大阪青山 大阪学院 大阪河崎リハビリ 大阪観光 大阪経済大学
大阪経済法科 大阪芸術 大阪工業 大阪国際 大阪産業 大阪樟蔭女子 大阪商業
大阪女学院 大阪成蹊 大阪総合保育 大阪体育 大阪電気通信 大阪人間科学
関西外国語 関西福祉科学 摂南 相愛 太成学院 常盤会学園 梅花女子
羽衣国際 阪南 東大阪 プール学園 桃山学院 芦屋 英知 大手前 関西国際
関西福祉 近畿福祉 近大姫路 甲子園 甲南女子 神戸海星女子 神戸学院
神戸芸術工科 神戸国際 神戸凧川学院 神戸松蔭女子 神戸女学院
233 名前: エリート街道さん [age] 投稿日: 2008/02/09(土) 21:18:43 ID:7V2xVG0c
【F】:神戸女子 神戸親和女子 神戸ファッション 神戸薬科 神戸山手 聖和
園田学園女子 宝塚造形芸術 姫路独協 兵庫 武庫川女子 流通科学 天理
奈良 奈良産業 鳥取環境 岡山学院 岡山商科 岡山理科 環太平洋 吉備国際
倉敷芸術科学 くらしき作陽 山陽学園 就実 中国学園 ノートルダム清心
実作 呉大 比日山 広島経済 広島工業 広島国際 広島国際学院 広島修道
広島女学院 広島文教女子 福山 福山平成 安田女子 宇部フロンティア
東亜 徳山 梅光学院 山口芸術 山口東京理科 山口福祉文化 四国
徳島文理 四国学院 高松 聖カタリナ 松山 松山東雲女子 高知工科
九州栄養福祉 九州共立 九州国際 九州産業 九州情報 九州女子 久留米
久留米工業 西南女学院 聖マリア学院 第一福祉 筑紫女学園 中村学園
西日本工業 福岡大学 福岡経済大学 福岡工業大学 福岡国際大学 福岡女学院大学
西九州 活水女子 長崎ウエスレヤン 長崎外国語 長崎国際 長崎純心
長崎総合科学 九州東海 九州ルーテル学院 熊本学園 熊本保険科学 崇城
229 名前: エリート街道さん [sage] 投稿日: 2008/02/09(土) 21:16:32 ID:7V2xVG0c
【S】:東大
【A】:阪大 一橋
名大 慶應
【B】:筑波 東外 東工 早稲田
【C】:金沢 岡山 熊本 電通 東京芸術 名工 東京理科 立教 同志社
埼玉 新潟 静岡 奈良女 東京海洋 東農 九州工業 横浜市立
230 名前: エリート街道さん [sage] 投稿日: 2008/02/09(土) 21:17:03 ID:7V2xVG0c
【D】:宇都宮 岐阜 徳島 長崎 鹿児島 豊橋技科 神戸外語 法政 南山 関学 北里
和歌山 岩手 山形 山口 長岡技術 富山 香川 愛媛 弘前 都留文化 高崎経済
北海道教育 兵庫教育 成城 成蹊 明学 関西 西南 芝浦工業
【F】:東洋 近畿 北洋 東北学院 広島修道 札幌大谷 札幌学院 札幌国際
千歳科学 天使 道都 函館 藤女子 北星 北海商科 北海道医療 北海道工業
北海道情報 北海道東海 北海道文教 北海道薬科 酪農学園 青森 青森中央
東北女子 八戸 八戸工業 弘前 富士 盛岡 石巻専修 仙台 仙台白百合
東北生活 東北福祉 東北文化 東北薬科 宮城学院女子 秋田看護 秋田経済法科
東北芸術工科 東北公益文化 いわき明星 奥羽 郡山女子 東日本国際 福島学院
筑波学院 つくば国際 磐木 流通経済 足利工業 宇都宮共和 国際医療福祉
作新学院 白鴎 文星芸術 関東学園 群馬社会福祉 群馬パース 上武 創造学園
高崎健康福祉 高崎商科 東京福祉 跡見学園女子 浦和 共栄 埼玉学園 埼玉工業
231 名前: エリート街道さん [sage] 投稿日: 2008/02/09(土) 21:17:39 ID:7V2xVG0c
【F】:十文字学園女子 城西 尚美学園 女子栄養 駿河台 聖学院 西部文理 東京国際
東邦女子 日本工業 日本薬科 人間総合科学 文教 平成国際 武蔵野学院 明海
ものつくり 愛国学園 江戸川 川村学園女子 神田外語 敬愛 国際武道 秀明
城西国際 聖徳 清和 千葉科学 千葉経済 千葉工業 千葉商科 中央学院 帝京平成
東京情報 東京成徳 日本橋学館 了徳寺 和洋女子 上野学園 大妻女子 桜美林
共立女子 恵泉女学院 工学院 駒沢女子 産業能率 白梅学園 白百合女子 杉野服飾
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232 名前: エリート街道さん [sage] 投稿日: 2008/02/09(土) 21:18:11 ID:7V2xVG0c
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233 名前: エリート街道さん [age] 投稿日: 2008/02/09(土) 21:18:43 ID:7V2xVG0c
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