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2018-03-03

西ヨーロッパ(+南ヨーロッパ諸国歴史的英雄

anond:20180228164845

オーストリアプリンツ・オイゲン(1663-1736)オーストリアの名将。元はフランス貴族だが、軍人としてハプスブルク家に仕え、祖国フランスと戦い続けることになる。オスマン帝国との戦いでその西進を挫き、スペイン継承戦争においてはイングランドマールバラ公と共に大活躍をした。
スイスウィリアム・テル(?-?)スイス建国英雄として知られる。オーストリア代官に強いられて息子の頭に置かれた林檎を射抜き、後にその代官を射殺したことで、それがリュトリの誓いに始まるスイス独立運動へとつながったという。ほぼ確実に架空人物だが、スイス国民実在を信じているならそれでいいのだ。
スロバキアユライ・ヤーノシーク(1688-1713)伝説的な義賊山間商人聖職者などの金持ちから金品を奪い、それを土地の貧民や有力者たちに渡していた。有力者は見返りにヤーノシークを守っていたという。やがて捕らえられ処刑されたが、民族意識の高まりと共に支配者への抵抗の象徴と見なされるようになった。
チェコヴァーツラフ1世(907-935)ボヘミア公敬虔信徒として、チェコキリスト教化積極的推し進め、また神聖ローマ帝国に臣従して外圧を緩和した。キリスト教に反対する貴族たちによって暗殺されたが、その死の前後にさまざまな奇跡が起こったという。
ハンガリーマーチャーシュ一世オスマン英雄フニャディ・ヤーノシュの息子。ハンガリー王に選出されると、領土としては最大版図を、文化としてはルネサンスをもたらし、ハンガリーの最盛期を築き上げた。水戸黄門のような廻国漫遊譚があるらしい。
ポーランドヤン三世ソビエスキ(1629-1696)若いから各地で戦功を重ね、国民的人気を得たことで自由選挙によって王に選出された。オーストリア首都ウィーンを包囲していたオスマン帝国大軍を、かの有翼重装騎兵フサリア3000騎の中央突破によってさんざんに打ち破り、ヨーロッパ守護者として大きな名声を得た。
オランダウィレム一世(1533-1584)オラニエ公ハプスブルク家支配下にあったオランダ貴族だったが、カトリックへの強制改宗に反発して起きた独立戦争においてその反乱の中心となる。「海乞食」と呼ばれる船団を率いて港湾都市ゲリラ的に襲って勢力を拡大、事実上独立を果たしたものの、戦争が続くなかで暗殺された。
ベルギーアンビオリクス(?-?)ガリアに住むベルガエ人の一部族、エブロネス族の王。「アドゥアトゥカの戦い」において、カエサルの麾下にあったローマの一個軍団を、谷に誘い込んで殲滅した。カエサルにとってはガリア戦争における最大の痛手となり、その後の反撃でエブロネス族の土地占領したものの、とうとうアンビオリクスを捕らえることはできなかった。ウェルキンゲトリクスと似た扱いで、ガリア自由を求めた英雄とされる。
ルクセンブルクヨハン盲目王(1296-1346)ボヘミア王およびルクセンブルク伯。晩年には病を得て盲目になりながら、百年戦争の激戦「クレシーの戦い」に参戦して壮絶な討ち死にを遂げた。ルクセンブルクでは国を発展させた名君として評価が高いが、チェコでは戦争ばかりで領地に戻ってこなかった王として人気がないという。
ドイツビスマルク(1815-1898)プロイセン王国首相普墺戦争普仏戦争勝利してドイツ統一し、外交でもフランスを封じ込めて欧州の均衡を保った。その豪腕ぶりから「鉄血宰相」の異名を取る。他の候補オットー大帝バルバロッサフリードリヒ大王あたりか。
フランスナポレオン・ボナパルト(1769-1821)言わずと知れたフランス皇帝。他の候補カール大帝ジャンヌ・ダルクド・ゴールあたりか。ちなみにカール大帝ドイツでも人気だけど出生地ベルギーが最有力らしい。
スペインエル・シッド(1045-1099)本名ロドリゴディアス通称アラビア語の「アル・サイイド」に由来する。カスティーリャ王国アルフォンソ6世のもと数々の戦いで活躍し、王によって追放されたあともバレンシア征服するなど、レコンキスタ英雄として勇名を馳せた。後に叙事詩に歌われた。
ポルトガルアフォンソ1世(1109-1185)初代ポルトガル王伝説的な「オーリッケの戦い」でムラービト朝大軍寡兵撃破し名声を得た。主君であるカスティーリャ王国対立した後、和解して独立した。イベリア半島イスラム勢力と戦いながら領土を広げ、リスボンまで占領した。
イタリアジュゼッペ・ガリバルディ(1807-1882)南米ウルグアイの「大戦争」に参加し、そこでゲリラ戦術を身につけた。オーストリア支配のもと、統一の機運が高まるイタリアにおいて「赤シャツ隊」と呼ばれる義勇軍を結成、シチリア南イタリア占領すると、そのままサルデーニャ王国に献上。イタリア統一に大きく貢献した。その後も何度か軍を率いて決起しつつも、政治にはほとんど関わらないまま隠遁生活を送った。

2018-02-28

東ヨーロッパ(+バルカン半島南コーカサス諸国歴史的英雄

中東アフリカはすっ飛ばしました。

anond:20180223194300

ウクライナボフダン・フメリニツキー(1595-1657)ウクライナコサックを率いてポーランド・リトアニア共和国に反乱を起こし、ウクライナ自治権を勝ち取った。その後、単独での防衛は難しかたこからロシア保護下に入ったことで、後のロシアによる支配を招いたとも言われる。ユダヤ人虐殺したこともあり、毀誉褒貶が激しい。
ベラルーシタデウシュ・コシチュシュコ(1746-1817)現在ベラルーシ、当時のリトアニア大公領に生まれアメリカ独立戦争に参加し、ポーランド独立のためにロシアと戦った英雄。なにがなんだか。一般には「ポーランドリトアニア英雄」とされるが、ベラルーシも「うちの出身やで」と主張している。ベラルーシ人特に民族意識希薄なため、他に民族的英雄があまりいないようだ。
モルドバシュテファン三世(1433-1504)モルドバ公国の公。その統治モルドバ歴史上で最も繁栄した時代だとされる。またフニャディ、スカンデルベグ、ヴラドらと並ぶ「反オスマン」の英雄であり、特に「ヴァスルイの戦い」での大勝が名高い。ヴラド・ツェペシュとは従兄弟同士で、親友だったとも言う。
ロシアアレクサンドル・ネフスキー(1220-1263)ウラジーミル大公国大公モンゴル帝国に臣従しつつ直接的な被害を免れ、むしろ敵対していたスウェーデンを「ネヴァ河畔の戦い」で、ドイツ騎士団を「氷上の戦い」で打ち破って勇名を轟かせた。スターリン独ソ戦の際に「かつてドイツを打ち破った」アレクサンドルを英雄として持ち上げたために有名になったとも。
アルバニアカンデルベグ(1405-1468)オスマン帝国支配下にあったアルバニア軍司令官だったが、フニャディ・ヤーノシュの反乱を鎮圧するために差し向けられると、逆にフニャディに同調して造反し、オスマン軍をアルバニアから追い払って独立を達成した。
ギリシャアレクサンドロス三世言わずと知れたアレクサンダー大王大王の出生地現在ギリシャにあるなど、古代マケドニア王国の大半はギリシャ領に含まれており、ギリシャは「マケドニア共和国マケドニアと名乗るべきではない」と主張している。しか地域としての「マケドニア」にマケドニア共和国が含まれるのも事実である
マケドニアアレクサンドロス三世言わずと知れたアレクサンダー大王現在マケドニア共和国に住んでいるのはスラブ民族であり、古代ギリシャ人との血統的繋がりは無いとされる。しか古代マケドニア王国ギリシャ人国家だったものの、都市国家形成せず、政治体制も異なるなど、アテネスパルタにとっては「辺境」「蛮族」の感が強かった。
クロアチアシップ・イェラチッチ(1801-1859)オーストリア帝国支配下にあったハンガリーの、さら支配下にあったクロアチアにおいて、クロアチア人たちの総督として独立志向し、オーストリア皇帝の命でハンガリー独立運動鎮圧するなどした結果、一定自治権を獲得した。独立運動先駆者評価されている。
セルビアミロシュ・オビリッチ(?-1389)セルビア王国騎士セルビアオスマン帝国惨敗したコソボの戦いの後、オビリッチは寝返ったふりをしてオスマン帝国皇帝・ムラト一世に近づき、そして刺殺した。コソボの戦いで戦死した王や騎士たちは後世英雄とされ、多く叙事詩の題材となったが、オビリッチもまたさまざまな伝説主人公となった。そらこんなんおったらオーストリア皇太子暗殺するわな。
ブルガリアワシル・レフスキ(1837-1873)革命家オスマン帝国統治下にあったブルガリア独立を目指して、国内革命組織ネットワークを作り、外国武力によらない独立を構想したが、オスマン帝国によって拘束され、処刑された。
ボスニア・ヘルツェゴビナリン(?-1204)ボスニアの「バン首長)」。もとは東ローマ帝国に属していたが、セルビアのステファン・ネマニャと共に離反し、ハンガリー王国庇護を得つつ、実質的独立を果たした。彼の統治のもと、ボスニア文化民族の土台が築かれ、いまなおボスニア歴史上で最も平和繁栄した時代と称される。
モンテネグロペタル二世ペトロビッチ・ニェゴシュ(1813-1851)モンテネグロ君主国家近代化に貢献し、オスマン帝国との軍事衝突を凌いだ。しかしそれよりも大きいのは詩人としての名声で、彼がものした叙事詩モンテネグロ文学史上の傑作と目されている。いくつかは日本語訳もされているらしい。
ルーマニアハイ勇敢公(1558-1601)ワラキア公。オスマン帝国敵対し、「カルガレニの戦い」でこれに大勝した。また、トランシルヴァニアモルダヴィア併合し、ルーマニア統一一時的にでも成し遂げたが、その翌年に暗殺されてしまった。
アルメニアヴァルダンマミニアン(387-451)アルメニア貴族アルメニア支配していたササン朝ペルシャによるゾロアスター教強制改宗に反発し、寡兵ながらササン朝大軍に立ち向かった。戦いには敗れ、ヴァルダン戦死したものの、ササン朝は譲歩してアルメニア宗教自由を認めた。
アゼルバイジャンスマーイール一世(1487-1524)サファヴィー朝建国者。サファヴィーとは教団の名前で、その狂信者兵士としたイスマーイールの神憑り的な軍事能力によって勢力を拡大したが、「チャルディラーンの戦い」でオスマン帝国に敗れ、意気消沈して晩年を過ごした。ちなみに当時のアゼルバイジャン現在アゼルバイジャン共和国領土はけっこうズレているらしい。
ジョージアタマル(1160-1213)ジョージア王国女王セルジューク朝の影響を排除して、ジョージア王国の最大版図を築き、文化的にも黄金期を現出した。中世グルジア文学最高傑作『豹皮の騎士』はタマ女王に捧げられた長編叙事詩である

2012-10-02

http://anond.hatelabo.jp/20121002152601

一言坂の戦いは、忠勝が殿を務めて、相手は引いて、

そこで「家康に過ぎたるものが〜」という言葉が出てくるんだけど、

まりエピソードとしては「忠勝がすごいから敵が引いた」みたいな話になっている。

んな逸話ねーよ!

グダグダ家康軍の撤退のために本多隊が尻に残った

 本多隊も大概グダグダで酷い目に遭った

 でも大敗で殿軍を引き受けた忠勝の覚悟忠誠心はイイよね!」

っていうのが一言坂の逸話だ。

むしろ武田軍が少し武士の情けをかけて見逃してくれた。忠勝はあとで感謝を伝えてる。

忠勝が評価されるとすれば

そういう辛い局面で見せ続けた健気な忠誠心だ。

小牧長久手でも同じようなシチュエーション秀吉が哀れんで寡兵の忠勝を討ち取らせなかった

みたいな逸話ならある。(もちろん与太話くさい)

秀吉も忠義者が好きだしそういう意味で忠勝を褒めてる。

西の立花宗茂を気に入って褒め上げてたのも超忠義者の息子だったからだ。


忠勝が名乗っただけで敵が引いた~みたいな与太話はどっかにはあったが

一言坂じゃないのは間違い無い。

一体誰にそんなデタラメ話吹き込まれたんだ?

ツリーにあるみたいに、ゆとり向けゲームで仕込んだ知識か?


幸村の知名度は個人的武勇に拠るものじゃないと思うけど…。

から忠勝のもそうじゃん。

それを指摘されたら「逸話が乏しくても知名度があればいいんだ!」っていうから

「知名度なら幸村の方があるじゃん」って言ってんの。

これぐらいの話の流れは理解しろよ。

「俺はこっちの武将のほうが忠勝より知名度が高いと思うぜ」という反論は、

むしろ大歓迎なので、ぜひ挙げていただければ。

いや、無数に居すぎて…

何言ってんだおめえ?

2012-10-01

http://anond.hatelabo.jp/20121001130729

俺も詳しくないけど、講談では智勇兼備の名将的な扱いじゃね?

Wikipediaからの又聞きだけど、

数ヵ年間、山陰山陽に武威を振るい、寡兵大軍に勝つこと数え切れないほどであった。その武名は天下に響き渡り、樵の子供や猟師の老人までもが日常の会話にしたほどであった。

とか実績としては十分かと。

 
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