はてなキーワード: 龍造寺とは
一応「越後の龍」がいるが……
上杉謙信が崇拝していたのは毘沙門天であって龍ではない(本当に?要調査)
龍造寺氏だって龍を信仰しているわけではない(本当に?要調査)
幼名が「龍王丸」の武将もいるけれど、別に成人後に龍アッピールしてるわけでもない
一方で、龍も風雨を操るとされるから「龍が風を起こした」と書かれた文献がひとつくらいあってもいいだろうに
元寇で吹いた強風が龍の仕業ではなく神風とされたのは何故なのか
いや、書いておいてなんだがなんとなく想像はつくがね……
龍は中国……特に中国皇帝のシンボルなので、日本側が龍に助けられたとすると都合が悪かったのだろう
ここらへんの話は「神国思想」について調べるのがよさそうか
だいたい昔の日本において龍は寺院……つまり仏教と紐づくものなんだ
龍の字を冠する寺院が何と多い事か
(前述の龍造寺氏は龍造寺村という地名由来でそう名乗っただけらしい)
仏教には「龍王」がいるから、これを守護神とした僧兵とかいたのかな
じゃあ「僧兵 龍」でぐぐってみよう
……
《龍鐘の僧兵/Dragon Bell Monk》というMTGのカードがひっかかって調べるのが大変そうなので今日はここで終わり
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蛇/龍信仰では人の姿を取らない相手を信仰の対象としていたが、時代が下るにつれて龍の属性を持った仏を信仰の対象とするようにした……といったところか
桶狭間度:★★★★★
海道一の弓取りと謳われた今川義元の大軍を、小勢の織田信長が打ち破った戦い。「桶狭間は谷だった」「いや山だった」「奇襲だった」「いや正面攻撃だった」など、その実態については今なお盛んに議論される。また、勝利した織田信長がこれをきっかけに勢力を拡大し、のちには天下人となっていったことから、「小大名が敵の大軍を破り、その後の飛躍に繋げた戦い」のことを「〇〇の桶狭間」と言うようになった。
桶狭間度:★☆☆☆☆
父親を殺された伊達政宗が、その弔い合戦として畠山氏の二本松城を攻めたところ、相手方の救援として駆けつけた佐竹氏・蘆名氏などの連合軍と戦いになった。兵力差四倍以上の相手に正面決戦を強いられることとなった伊達方はほぼ敗勢だったが、勝利目前の佐竹軍が急に撤退したため尻すぼみに合戦は終結した。壊滅必至だった伊達軍がそれを免れたという点では「勝ちに等しい引き分け」と見ることもできる。その後、巻き返した伊達政宗は二本松城を落とし、蘆名氏を滅ぼして南奥州に覇を唱えることとなる。
桶狭間度:★★★★☆
泥沼の争いを繰り広げていた古河公方・山内上杉・扇谷上杉らの関東勢が、勢力を急伸させた北条氏を恐れて連合し、北条方の要所・河越城を大軍で包囲した。それに呼応した今川義元も西から挙兵して挟撃の形となり、家督を継いだばかりの北条氏康は早くも絶体絶命の危機を迎えた。しかし手早く今川と和睦した氏康は、大軍に驕った連合軍に夜襲を仕掛けて撃破した。この戦いで古河公方・山内上杉・扇谷上杉はいずれも滅亡・没落し、関東は北条氏を中心として動くようになった。
桶狭間度:★★☆☆☆
甲斐に侵攻した今川の大軍を、武田信玄の父・武田信虎が迎え撃った戦い。荒川沿いの飯田河原を戦場に選んだ信虎は、数で上回る今川軍を地の利を活かして撃退、ひと月後に上条河原で再戦したがそれも打ち破り、敵の大将を討ち取った。一連の戦いにより武威を示した武田信虎は、敵対していた穴山氏などを服属させ、甲斐の統一を成し遂げた。
桶狭間度:★★☆☆☆
北近江の浅井氏は、越前・朝倉氏と南近江・六角氏という大勢力に挟まれ、当時は六角氏に従属する立場だった。父親を隠居させて浅井家の若き当主となった浅井長政は、すぐさま六角氏からの離反を表明した。それに対し、六角氏は当主・六角承禎自らが大軍を率いて攻め寄せたが、浅井長政は半数以下の兵力で迎え撃って勝利した。弱い立場だった浅井氏はこの勝利により戦国大名としての地位を固め、敗れた六角氏はお家騒動などもあり衰退していくことになる。
桶狭間度:★☆☆☆☆
備前の大名・浦上氏の家臣として頭角を現しつつあった宇喜多直家は、毛利氏に従属しながら備前へ進出しようとした備中三村氏の当主・三村家親を、日本史上初となる火縄銃の狙撃により暗殺した。怒れる三村氏は、弔い合戦とばかりに宇喜多方の明善寺城を攻め取ったが、宇喜多直家は素早く奪回し、逆にその救援にやってきた三村氏の大軍を待ち構えて打ち破った。この戦いにより影響力を増した宇喜多直家は、のちに主君に反旗を翻し、戦国大名として独立することになる。
桶狭間度:★★★☆☆
かの毛利元就の初陣。源氏の名門・武田氏の一族で猛将と謳われた武田元繁と、味方の城の救援に向かった毛利・吉川連合軍の戦い。寡兵の連合軍は劣勢を強いられたが、初戦で運良く敵方の武将を討ち取り、それに激怒して自ら前線へ打って出た武田元繁をも討ち死にさせた。この戦いにより、大内氏から独立して勢力を拡大していた武田氏は一転して衰退し、代わって毛利元就が歴史の表舞台に躍り出ることとなった。
桶狭間度:★★★★☆
毛利元就の戦いとしてはこちらのほうが有名だろう。主君・大内義隆に謀反し、大内家内を牛耳った陶晴賢だったが、その隙に離反した毛利元就によって安芸を奪われてしまう。大軍を率いる陶晴賢は要衝・厳島を拠点に安芸奪回を狙うが、毛利元就は嵐に乗じた奇襲でそれを打ち破り、陶晴賢を自害に追い込んだ。この勝利により、毛利元就は逆に大内氏を滅ぼしてその領土を併呑し、中国地方の覇者となっていくのである。
桶狭間度:★★★☆☆
肥前で勢力を拡大していた龍造寺隆信に対し、脅威を覚えた北九州の覇者・大友宗麟は大軍を率いて侵攻、数ヶ月に渡って佐賀城を包囲した。援軍の見込みもないなかで龍造寺軍はよく持ちこたえたものの、ついに大友宗麟は弟の大友親貞に総攻撃を命じる。大友親貞は総攻撃前夜に士気を高めるため酒宴を開いたが、それを見た龍造寺家臣の鍋島直茂はわずかな手勢を率いて夜襲を仕掛けた。油断していた大友軍は総崩れとなり、大友親貞も討ち取られてしまった。その後、和睦に持ちこんだ龍造寺隆信は、大友氏に従属しながら勢力を拡大し、のちに九州三強の一角に名を連ねることになる。
桶狭間度:★★★★☆
島津の当主・島津貴久が亡くなった直後、その隙を突いて隣国の伊東氏が島津領に侵攻した。伊東方が数千の軍であったのに対し、島津の軍勢はその十分の一ほどしかなかったという。だがそれを率いていたのは名将・島津義弘だった。島津軍の頑強な抵抗により、伊東軍はいったん退却して陣を立て直すことになった。しかし、島津義弘から指示を受けていた農民たちが太鼓を鳴らして伏兵を装うと、伊東軍は慌てて陣から飛び出し、そこで待ち伏せていた島津軍に四方から攻められて壊滅、総大将も討ち取られてしまった。窮地を脱した島津氏は、島津四兄弟のもと勢力を拡大し、九州を制覇していくのである。
戦力差が10倍以上のもののみ取り上げています。随時更新中 ★は(戦術的)勝者側
多くのコメント・ブクマありがとうございます。 コメントで私が知らなかった戦いについて教えてくださった方ありがとうございます。https://anond.hatelabo.jp/20210708183653こちらも参照ください
B.C.480 ペルシア戦争 ギリシア軍7000vs★ペルシア軍30万以下
スパルタ王レオニダス指揮下のギリシア連合軍がペルシア軍の大軍と激突した。狭い地形を活かし、3日間の激戦を繰り広げるが、背後から攻撃され敗北した。この戦いでギリシア軍は1000人、ペルシア軍は2万人の兵士を失った。
・彭城の戦い
漢軍が彭城を制圧した事を知った項羽は精鋭部隊を率いて漢軍を襲撃した。攻略に成功したことから油断し、酒宴に明け暮れた漢軍は突然の事態に太刀打ちできず20万人以上が戦死した。
23年 ★緑林軍1万vs新43万
劉秀率いる緑林軍が新軍に包囲される。劉秀は脱出し、外側から新軍を襲撃して壊滅させた。
ブーディカ女王率いるケルト人がローマの支配に対して反乱を起こした。ローマ軍は反乱軍を狭いワトリング街道に誘い込み、これを破った。ローマ軍の死傷者はわずか400人であったのに対し、反乱軍の死傷者は8万人であった。
・博望坡の戦い
劉備軍と曹操軍が宛で対峙する。劉備は撤退したと見せかけ、誘われた夏侯惇を撃破した。李典の援軍が来るとみた劉備は兵を引き、曹操軍も撤退した。
383年 五胡十六国時代 ★東晋軍8万5千vs前秦軍117万
華北統一に成功した前秦が東晋征服のために大軍を派遣する。前秦軍は敵軍を誘うため、先鋒を退却させる作戦をとるが、兵が混乱して退却を止めなかったため、そこを突かれて敗北した。
・チェラーミの戦い
アラブ人の支配下にあったシチリアにルッジェーロ1世率いるノルマン人が侵入、イスラム教徒を撃退した。アラブ軍は戦力の7割を失ったとされる。
・黄天蕩の戦い
韓世忠とその妻梁紅玉率いる南宋軍が金軍を打ち破り、2万5000人を討ち取った。
屋島で破れ、志度寺に立て籠もった平氏を源義経が追撃した。平氏は大軍が後に続くとみて敗走した。
・下赤坂城の戦い
楠木正成は下赤坂城に籠城し、幕府の包囲にゲリラ戦で1ヶ月以上抵抗した。城は陥落したものの、幕府は楠木正成と護良親王を討ち損ねた。
1333年 元弘の乱 ★楠木軍1000vs鎌倉幕府2万5000
千早城に立て籠もった楠木軍は幕府軍に包囲されるも、3ヶ月に渡って抵抗した。気が緩んだところを奇襲するなどの奇策で消耗した幕府軍は攻略を諦め、撤退した。
・船上山の戦い
1333年 元弘の乱 ★後醍醐天皇軍150vs鎌倉幕府3000
後醍醐天皇が隠岐の島から脱出すると伯耆国の武将名和長年が挙兵し、隠岐国守護佐々木氏を攻撃した。名和軍は数百の軍旗を見せつけて威嚇する、暴風雨に乗じて攻撃するなどの戦法で幕府軍を破った。
倭寇に悩まされた朝鮮はその本拠地と見なした対馬へ討伐軍を派遣するが、宗氏の抵抗に遭い撤退する。対馬側は100~200人、朝鮮軍は3000人ほどが戦死した。
・ビルスの戦い
1444年 旧チューリッヒ戦争 スイス軍1500vs★フランス軍3万~4万
スイス軍がチューリッヒを包囲したことにより、フランスと戦争に突入した。スイス軍は数で勝るフランス軍と死闘の末に壊滅するが、フランス軍は2000人の損害を被った。この戦いによりスイス人の勇敢さがヨーロッパ各地に知れ渡った。
・土木の変
1449年 ★オイラト軍3万vs明軍50万
明の正統帝は自ら大軍を率いて、オイラトの征伐に向かう。しかし、食料配達の困難や大雨により明軍は士気が低下しており、そこをオイラトに奇襲された。明軍はほぼ全滅し、皇帝も捕虜となった。
・九頭竜川の戦い
越前制圧を目論む一向宗と朝倉軍が九頭竜川を挟んで対峙、朝倉軍は夜襲により一向宗を撃退した。
・セントラの戦い
1519年 スペインのメキシコ征服 ★スペイン軍410vsマヤ軍1万~4万
征服者コルテス率いるスペイン軍がマヤの大軍と交戦。マヤ軍はスペイン人の軍馬に恐れをなして敗北した。スペイン軍の犠牲はわずか2名だが、マヤ軍は800の犠牲を出した。この戦いでコルテスは後の妻にして翻訳者としてアステカ征服に貢献するインディオの女性マリンチェを得た。
・オツンバの戦い
1520年 スペインのメキシコ征服 ★スペイン・トラスカラ連合軍 7~800人vsアステカ軍4万
アステカ軍はスペイン軍の侵略を一度退けることに成功した。その後、大軍を率いて追い打ちを試みる。しかし、初めて見る軍馬の威力に恐れ戦き、指揮官を含む大勢が戦死したため敗走した。この戦いの後コルテスはアステカを滅ぼした。
・プナの戦い
1531年 スペインのペルー征服 ★スペイン軍168vsプナ先住民3000
スペイン軍がインカ帝国征服へ向かう途中、プナ島で先住民と交戦するが、銃と馬の威力でこれを打ち破る。
・ディーウ包囲戦
1538年 オスマン・ポルトガル戦争 ★ポルトガル軍600vsオスマン・クジャラート連合軍2万2000
ポルトガル軍が連合軍に包囲されるも、3ヶ月の籠城戦の末にこれを退けた。ポルトガル軍の死傷者は40名に対し、連合軍の死傷者は3000名。
・スィゲトヴァール包囲戦
1566年 ハンガリー軍2000~3000vs★オスマン軍10万~30万
ウィーン遠征へ向かうトルコ軍がクロアチア総督ズリンスキ率いるハンガリー軍を包囲。1ヶ月にも及ぶ激戦の末に防衛軍はほとんど全滅したが、トルコ軍にも2万人の犠牲者が出た上、スレイマン1世が陣没したため、撤退を余儀なくされた。リシュリューはこの戦いを「文明が救われた戦い」と称えた。
・今山の戦い
1570年 戦国時代 ★龍造寺軍5000vs大友軍6万~8万
佐賀城に籠城した竜造寺隆信を大友宗麟率いる大軍が包囲する。攻防戦は4ヶ月にも及び、落城は目前に迫ったが、大友軍が勝利を確信して宴を催したところを奇襲し、これを破った。
・木崎原の戦い
島津軍は数で勝る伊東軍を伏兵に背後を突かせることで破った。島津軍は275人が犠牲となったが、伊東軍は指揮官の伊東祐安含む800人以上が戦死した。この戦いは後の島津軍の戦いにおいて参考にされ、九州制覇に貢献した。
信長は石山本願寺に味方する雑賀衆の討伐を試みるが、雑賀衆は1ヶ月にも及ぶゲリラ戦でこれを退け、両者の間に和睦が成立した。
・天目山の戦い
1582年 戦国時代・甲州征伐 武田軍43vs★織田軍3000~4000
織田軍に追い詰められた武田軍の最後の戦い。武田軍は奮戦虚しく壊滅し、武田勝頼は自害したが、織田軍にも900人近い死傷者が出た。
・沖田綴の戦い
1584年 戦国時代 ★島津・有馬連合軍6000vs龍造寺軍6万
連合軍は数で勝る龍造寺軍を釣り野伏せで破った。この戦いで総大将竜造寺隆信は戦死した。
・岩屋城の戦い
島津軍は筑前を攻めた際、高橋軍の籠城する岩屋城を攻略した。高橋軍は講話の提案にも応じず、激戦の末に全滅した。島津軍は4500以上の死傷者を出した。
・忍城の戦い
1590年 戦国時代・小田原攻め 成田軍2000vs★豊臣軍2万~5万
石田三成ら率いる大軍が忍城を包囲し、水攻めを行うも、成田軍はそれに耐え、北条氏が滅亡した後に降伏した。
・四川の戦い
1597年 慶長の役 ★島津軍2000vs明・朝鮮連合軍10万
島津義弘率いる日本軍が明軍に包囲されるも、これを返り討ちにした。日本軍の勝因として、鉄砲を使用したこと、明軍の食料庫を焼くことで短期決戦に持ち込んだこと、連合軍の統制がとれなかった上に圧倒的な兵力差故に慢心していたことが挙げられる。
田辺城に立て籠もった東軍を西軍が包囲するが、東軍には文化人細川幽斎が居たため、西軍は積極的な攻勢が出来ず、2ヶ月ほど釘付けになった。最後は後陽成天皇の命で開城したが、西軍は関ヶ原の戦いには間に合わなかった。
関ヶ原へ向かう徳川秀忠指揮下の東軍が真田昌幸率いる西軍と交戦した。足止めを食らった東軍は関ヶ原に間に合わなかった。
1762年 七年戦争 ★スペイン軍100vsイギリス軍2000
イギリス軍がニカラグアの処女降誕要塞を包囲するが、スペイン軍は19歳の少女ラファエラ・エレーラの指揮下で奮戦し、砦を守り抜いた。
・アラモの戦い
1836年 テキサス独立戦争 テキサス軍200vs★メキシコ軍4000
当時メキシコ領であったテキサスに移住したアメリカ人がメキシコに対して反乱を起こした。アラモ砦に籠城したテキサス軍はメキシコ軍の包囲に対し13日間持ちこたえた末に全滅した。
・雨花台攻略戦
湘軍によって要塞化された雨花台を太平天国軍が5ヶ月にわたって何度も攻撃するが、落とせず1万の兵力を失った後に攻略を諦めた。
サビーネ湖とメキシコ湾を繋ぐサビーネ・パスを防衛する南軍が北軍の攻撃を受けるも、これを撃退する。北軍は100名が死傷し、350名が捕らえられた。
・カマロンの戦い
1863年 ナポレオン三世のメキシコ出兵 フランス外国人部隊65vs★メキシコ軍2000
65名の外人部隊は現金300万フランを輸送する部隊の護衛を任されていた。メキシコ軍の大軍の前に破れ、43名が戦死、19名が捕虜となったが、輸送部隊は目的地へ現金を届ける事が出来た。
1879年 ズールー戦争 ★イギリス軍150vsズールー軍3000~4000
ロルクズ・ドリフトの伝道所跡に築かれたイギリス軍の砦をズールー族の大軍が襲う。イギリス軍は2日間の激戦に勝利し、ズールー軍は800名以上の死傷者を出した。
・アブ・クレアの戦い
1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1100vsマフディー軍1万2000
ゴードン将軍の救出に向かうイギリス軍とマフディー軍が激突し、マフディー軍は1100人の死傷者を出して敗北した。
・アブ・クルの戦い
1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1200vsマフディー軍1万4000
ゴードン将軍の救助に向かうイギリス軍がマフディー軍と交戦し、勝利した。マフディー軍の損失は明らかではないが甚大であるとされる。
盧溝橋付近で日本軍の夜間演習中に日本兵一人が行方不明になる。日本軍がこれを理由に中国軍を攻撃し、破った。この事件が熾烈な日中戦争のきっかけとなった。
・タラワの戦い
1943年 太平洋戦争 日本軍2600vs★アメリカ軍3万5000
タラワ環礁ベティオ島を防衛する海軍部隊とアメリカ海兵隊が激突した。島は3日で陥落し、守備隊は玉砕したが、米軍も3000人が死傷し、軍への志願率が一時的に減少した。
・拉孟の戦い
1944年 日中戦争 日本軍1300(うち傷病兵300)vs★中国軍2万
日本軍と中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は8000人が死傷した。
・騰越の戦い
日本軍と中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は2万人が死傷した。
・アンガウルの戦い
1944年 太平洋戦争 日本軍1250vs★アメリカ軍2万1000
日本軍歩兵第59連隊第1大隊が守備するアンガウル島をアメリカ軍第81歩兵師団が攻略した。1ヶ月以上にも及ぶ激戦の末に日本軍は玉砕したが、米軍も2000人死傷した。
・一江山島戦役
1955年 第二次国共内戦 国民党軍700vs★共産党軍7000
人民解放軍が一江山島に侵入、2日で占領した。台湾軍は全員が戦死するか、捕虜となったが、解放軍にも2000人の死傷者が出た。
・ロングタンの戦い
1966年 ベトナム戦争 ★オーストラリア軍108vsベトコン2500
ベトコンがオーストラリア軍を襲撃するも、撃退された。オーストラリア軍は42名、ベトコンは600名が死傷し、双方が勝利を主張した。
参考作品「デンジャー・クロース 極限着弾(クリフ・ステンダーズ監督)」
・ロンゲワラの戦い
1971年 第三次印パ戦争 ★インド軍120vsパキスタン軍2000
ラジャスタンのロンゲワラ村でパキスタン軍とインド軍守備隊が交戦。インド軍は航空機の支援を得て、パキスタン軍を破った。パキスタン軍の死者200名に対し、インド軍の死者は2名ほどであった
1993年 ソマリア内戦 ★多国籍軍160vsソマリア民兵2000
アメリカ、マレーシア、パキスタンからなる多国籍軍が、民兵のリーダーであるアイディード将軍の側近二人を逮捕すべく派遣され、民兵と交戦状態になった。民兵は数百人が死傷し、多国籍軍は目的を達成したが、100名以上が死傷した。
参考作品「ブラックホーク・ダウン(リドリー・スコット監督)」
古猪之助のもとを発ち、京へやってきた鹿之助が、たまたま入った居酒屋で狼藉者を退治したところ、
その店の女主人が、実は更科姫が昔に助けたことのある、お菊という娘だった。
お菊の勧めもあり、鹿之助はその菊屋に逗留することになった。
またある日、五条大橋の上で、貴族の輿が何やら武士に襲われているのを助けたところ、
その輿に乗っていたのはまさしく中御門宗教の息女・九重姫であった。
九重姫を中御門邸に送り届けたところ、宗教卿はその人品卑しからぬ鹿之助を気に入り、
さらには宗行の霊夢について語られると大いに喜び、その日のうちに鹿之助と九重姫は内祝言を挙げた。
そして宗教卿は、彼のもう一人の娘婿である播州の尼子義久が、毛利や龍造寺に囲まれて負け続けであるので、
その武勇で助けてもらえないだろうか、と鹿之介に頼んだのであった。
九重姫を宗教卿に預け、お菊から多くの路銀を貰い受けた鹿之助は、ひとり播州へ旅立った。
途中、大兵肥満の男が大きな板を持って、流れの早い川を堰き止めていた。
男は板を動かして川の水を溢れさせ、泳いでいる鮎を次々に川岸に打ち上げている。
そうしておいて川から上がると、男は打ち上がった鮎を残らず捕まえてしまうのである。
なんという怪力だと感嘆した鹿之助が声をかけて素性を聞くと、
七助と名乗るこの男は、先祖が武士であったものの、いまは落ちぶれて漁師をしており、
竿や網を買う金もないので、こうして工夫して漁をしているのだと言った。
西暦2040年。東京では新種の難病「細胞硬化症」に罹患した青年・水原怜人が、兄・龍、妹・まひる、幼馴染・橘絵理沙に見送られ、治療のためのコールドスリープに入る。5年後、目覚めた怜人の前に絵理沙似の専属担当官・周防美来が現れ、新種のウイルス「MKウイルス」によって男性の99.9%が死滅したことや、その免疫を持つのは細胞硬化症を治療した怜人たち5人「ナンバーズ」のみであることを告げ、女性たちとの子作りを要請する。
先に目覚めた青年・火野恭司が子作りにセックスのみで成功したことも告げられた怜人は、龍がコールドスリープ中、絵理沙が行方不明であることを、「UW日本支部」の施設で再会したまひるにそれぞれ知らされたうえ、コールドスリープ中の男性たちがあと1年でMKウイルスによって死亡することを、美来に知らされる。怜人が絵理沙を捜し出すまで1か月間の猶予を求める一方、早々に現状を受け入れていた恭司は、施設内で美女たちとの優雅な子作り「メイティング」の日々を満喫する。
そんな恭司の姿に複雑な思いを抱く怜人のもとには、大柄のナース・龍造寺朱音や小柄のボディーガード・翠が現れる。翌日、動物研究所で何者かによって解放されたクマに襲われるも翠に助けられた怜人は絵理沙の研究を知り、自分がMKウイルスの特効薬を作ることを決意する。
秋篠寺 あきしのでら
芦峅寺 あしくらじ
飛鳥寺 あすかでら
安寺 あてら
阿寺 あてら
天寺 あまでら
尼寺 あまでら
阿見寺 あみでら
荒寺 あれでら
安岡寺 あんこうじ
安全寺 あんぜんじ
安用寺 あんようじ
安養寺 あんようじ
安楽寺 あんらくじ
石寺 いしてら
石山寺 いしやまでら
板寺 いたでら
猪名寺 いたでら
一乗寺 いちじょうじ
一条寺 いちじょうじ
一寺 いちでら
一坊寺 いっぽうじ
井寺 いてら
威徳寺 いとくじ
伊堂寺 いどうじ
稲寺 いなでら
今寺 いまでら
岩峅寺 いわくらじ
岩寺 いわでら
巌寺 いわでら
巖寺 いわでら
上寺 うえでら
氏寺 うじでら
永源寺 えいげんじ
英勝寺 えいしょうじ
永徳寺 えいとくじ
永平寺 えいへいじ
永保寺 えいほうじ
永満寺 えいまんじ
永養寺 えいようじ
江寺 えてら
慧日寺 えにちじ
家原寺 えばらじ
円覚寺 えんがくじ
円行寺 えんぎょうじ
円光寺 えんこうじ
圓光寺 えんこうじ
円護寺 えんごじ
円勝寺 えんしょうじ
円正寺 えんしょうじ
延勝寺 えんしょうじ
延壽寺 えんじゅじ
延寿寺 えんじゅじ
円城寺 えんじょうじ
円成寺 えんじょうじ
圓城寺 えんじょうじ
圓成寺 えんじょうじ
延対寺 えんたいじ
円通寺 えんつうじ
円道寺 えんどうじ
圓道寺 えんどうじ
円頓寺 えんどんじ
円応寺 えんのうじ
円能寺 えんのうじ
円福寺 えんふくじ
圓福寺 えんふくじ
円満寺 えんまんじ
円明寺 えんみょうじ
延命寺 えんめいじ
延暦寺 えんりゃくじ
王寺 おうじ
王禅寺 おうぜんじ
押領寺 おうりょうじ
大谷寺 おおたにじ
大寺 おおでら
大野寺 おおのじ
大庭寺 おおばでら
岡寺 おかでら
奥海印寺 おくかいいんじ
奥寺 おくてら
奧寺 おくてら
小倉寺 おぐらじ
長寺 おさでら
尾寺 おてら
御寺 おてら
小埜寺 おのでら
小見寺 おみでら
表慈恩寺 おもてじおんじ
音光寺 おんこうじ
園城寺 おんじょうじ
遠城寺 おんじょうじ
温泉寺 おんせんじ
隠明寺 おんみょうじ
園林寺 おんりんじ
海印寺 かいいんじ
海応寺 かいおうじ
海音寺 かいおんじ
皆尺寺 かいしゃくじ
海蔵寺 かいぞうじ
海藏寺 かいぞうじ
覚王寺 かくおうじ
覚寺 かくじ
覚満寺 かくまんじ
駆け込み寺 かけこみでら
駆込み寺 かけこみでら
笠寺 かさでら
嘉祥寺 かしょうじ
勧修寺 かじゅうじ
門寺 かどでら
金森寺 かなもり
上古寺 かみふるてら
川寺 かわでら
寛永寺 かんえいじ
観音寺 かんおんじ
観海寺 かんかいじ
観喜寺 かんきじ
舘山寺 かんざんじ
観修寺 かんしゅうじ
官寺 かんじ
観世音寺 かんぜおんじ
神大寺 かんだいじ
神道寺 かんどうじ
感応寺 かんのうじ
感應寺 かんのうじ
観音正寺 かんのんしょうじ
甘露寺 かんろじ
願海寺 がんかいじ
元興寺 がんごうじ
願興寺 がんごうじ
願成寺 がんじょうじ
北久宝寺 きたきゅうほうじ
北寺 きたでら
城田寺 きだいじ
吉城寺 きちじょうじ
吉祥寺 きちじょうじ
木寺 きでら
紀寺 きでら
木佛寺 きぶでら
紀三井寺 きみいでら
久宝寺 きゅうほうじ
久本寺 きゅうほんじ
金閣寺 きんかくじ
金勝寺 きんしょうじ
金仙寺 きんせんじ
金泉寺 きんせんじ
金熊寺 きんゆうじ
金楽寺 きんらくじ
祇園寺 ぎおんじ
行願寺 ぎょうがんじ
玉泉寺 ぎょくせんじ
銀閣寺 ぎんかくじ
久遠寺 くおんじ
久能寺 くのうじ
九品寺 くほんじ
久保寺 くぼじ、くぼでら、くぼてら
窪寺 くぼでら
弘法寺 ぐほうじ
弘明寺 ぐみょうじ
恵林寺 けいりんじ
敬礼寺 けいれいじ
華蔵寺 けぞうじ
顕聖寺 けんしょうじ
建長寺 けんちょうじ
建仁寺 けんにんじ
源法寺 げんぼうじ
高安寺 こうあんじ
光悦寺 こうえつじ
高円寺 こうえんじ
光音寺 こうおんじ
光源寺 こうげんじ
高源寺 こうげんじ
興国寺 こうこくじ
広済寺 こうさいじ
耕三寺 こうさんじ
高山寺 こうさんじ
興聖寺 こうしょうじ
光寺 こうじ
国府寺 こうじ
國府寺 こうじ
高水寺 こうすいじ
高専寺 こうせんじ
高專寺 こうせんじ
光善寺 こうぜんじ
高蔵寺 こうぞうじ
高台寺 こうたいじ
香寺 こうでら
皇徳寺 こうとくじ
高徳寺 こうとくじ
光同寺 こうどうじ
興福寺 こうふくじ
光明寺 こうみょうじ
広隆寺 こうりゅうじ
粉河寺 こかわでら
国済寺 こくさいじ
国泰寺 こくたいじ
國分寺 こくぶじ
国分寺 こくぶんじ
国分尼寺 こくぶんにじ
苔寺 こけでら
古正寺 こしょうじ
小寺 こでら、こてら
駒寺野 こまでらの
金戒光明寺 こんかいこうみょうじ
金剛峰寺 こんごうぶじ
権寺 こんじ
金蔵寺 こんぞうじ
金胎寺 こんたいじ
豪炎寺 ごうえんじ
豪徳寺 ごうとくじ
五雲寺 ごうんじ
獄寺 ごくでら
極楽寺 ごくらくじ
極樂寺 ごくらくじ
護国寺 ごこくじ
後藤寺 ごとうじ
権正寺 ごんしょうじ
権常寺 ごんじょうじ
西安寺 さいあんじ
西円寺 さいえんじ
西園寺 さいおんじ
西園寺公望 さいおんじきんもち
西教寺 さいきょうじ
西元寺 さいげんじ
西光寺 さいこうじ
最勝寺 さいしょうじ
西照寺 さいしょうじ
西寺 さいじ
最乗寺 さいじょうじ
西大寺 さいだいじ
西大寺上 さいだいじかみ
西大寺中 さいだいじなか
佐井寺 さいでら
才寺 さいでら
西徳寺 さいとくじ
西方寺 さいほうじ
西法寺 さいほうじ
西芳寺 さいほうじ
斉明寺 さいみょうじ
斎明寺 さいみょうじ
最明寺 さいみょうじ
齋明寺 さいみょうじ
西明寺 さいみょうじ、さいめいじ
西來寺 さいらいじ
西蓮寺 さいれんじ
西連寺 さいれんじ
境寺 さかいでら
讃州寺 さんしゅうじ
三世寺 さんぜじ
三代寺 さんだいじ
三大寺 さんだいじ
三福寺 さんふくじ
三宝寺 さんぼうじ
財光寺 ざいこうじ
在国寺 ざいこくじ
在國寺 ざいこくじ
坐光寺 ざこうじ
座光寺 ざこうじ
紫雲寺 しうんじ
四王寺 しおうじ
塩寺 しおでら
志観寺 しかんじ
下寺 したでら、しもでら
四天王寺 してんのうじ
志堂寺 しどうじ
嶋寺 しまでら
下海印寺 しもかいいんじ
下法軍寺 しもほうぐんじ
社寺 しゃじ
舎利寺 しゃりじ
修善寺 しゅぜんじ
修禅寺 しゅぜんじ
朱膳寺 しゅぜんじ
祥雲寺 しょううんじ
正円寺 しょうえんじ
正観寺 しょうかんじ
正行寺 しょうぎょうじ
承元寺 しょうげんじ
正源寺 しょうげんじ
生源寺 しょうげんじ
勝興寺 しょうこうじ
相国寺 しょうこくじ
正権寺 しょうごんじ
荘厳寺 しょうごんじ
清浄光寺 しょうじょうこうじ
諸徳寺 しょうとくじ
正道寺 しょうどうじ
正福寺 しょうふくじ
正法寺 しょうほうじ
淨法寺 しょうほうじ
昌明寺 しょうみょうじ
正明寺 しょうみょうじ
称名寺 しょうみょうじ
勝楽寺 しょうらくじ
正楽寺 しょうらくじ
正暦寺 しょうりゃくじ
勝竜寺 しょうりゅうじ
青龍寺 しょうりゅうじ
少林寺 しょうりんじ
松林寺 しょうりんじ
正蓮寺 しょうれんじ
青蓮寺 しょうれんじ
城寺 しろてら
眞行寺 しんぎょうじ
真行寺 しんぎょうじ
真光寺 しんこうじ
神護寺 しんごじ
新勝寺 しんしょうじ
神松寺 しんしょうじ
神清寺 しんせいじ
新寺 しんてら
真如寺 しんにょじ
真福寺 しんふくじ
新福寺 しんぷくじ
真綾寺 しんりょうじ
慈恩寺 じおんじ
慈眼寺 じがんじ
慈光寺 じこうじ
持光寺 じこうじ
慈照寺 じしょうじ
地蔵寺 じぞうじ
実相寺 じっしょうじ
實相寺 じっしょうじ
実法寺 じほうじ
慈明寺 じみょうじ
神明寺 じみょうじ
甚目寺 じもくじ
十楽寺 じゅうがくじ
十樂寺 じゅうがくじ
十禅寺 じゅうぜんじ
十蔵寺 じゅうぞうじ
十藏寺 じゅうぞうじ
鷲林寺 じゅうりんじ
十貫寺 じゅっかんじ
寿福寺 じゅふくじ
順教寺 じゅんきようじ
浄圓寺 じょうえんじ
淨円寺 じょうえんじ
常願寺 じょうがんじ
成願寺 じょうがんじ
城光寺 じょうこうじ
定光寺 じょうこうじ
常光寺 じょうこうじ
常称寺 じょうしょうじ
定禅寺 じょうぜんじ
浄智寺 じょうちじ
浄土寺 じょうどじ
城南寺 じょうなんてら
浄法寺 じょうほうじ
上坊寺 じょうぼうじ
浄明寺 じょうみょうじ
常楽寺 じょうらくじ
常樂寺 じょうらくじ
定林寺 じょうりんじ
神宮寺 じんぐうじ
神向寺 じんこうじ
秦泉寺 じんせんじ
深大寺 じんだいじ
神武寺 じんむじ
水前寺 すいぜんじ
周船寺 すせんじ
須磨寺 すまでら
随応寺 ずいおうじ
瑞巌寺 ずいがんじ
瑞泉寺 ずいせんじ
頭陀寺 ずだじ
清閑寺 せいかんじ
清岸寺 せいがんじ
清河寺 せいがんじ
誓願寺 せいがんじ
青岸渡寺 せいがんとじ
清玄寺 せいげんじ
成勝寺 せいしょうじ
西伝寺 せいでんじ
青明寺 せいみょうじ
清涼寺 せいりょうじ
関寺 せきでら
泉正寺 せんしょうじ
浅草寺 せんそうじ
千提寺 せんだいじ
泉涌寺 せんにゅうじ
泉湧寺 せんにゅうじ
千音寺 せんのんじ
善応寺 ぜんおうじ
善久寺 ぜんきゅうじ
善慶寺 ぜんけいじ
善源寺 ぜんげんじ
善光寺 ぜんこうじ
善根寺 ぜんこんじ
禅昌寺 ぜんしょうじ
善通寺 ぜんつうじ
禅寺 ぜんでら
善導寺 ぜんどうじ
善如寺 ぜんにょじ
善能寺 ぜんのうじ
善福寺 ぜんぷくじ
善法寺 ぜんぽうじ
善養寺 ぜんようじ
善立寺 ぜんりゅうじ
禅林寺 ぜんりんじ
総持寺 そうじじ
崇禅寺 そうぜんじ
崇福寺 そうふくじ
造寺 ぞうじ
増上寺 ぞうじょうじ
太岡寺 たいこうじ
躰光寺 たいこうじ
大山寺 たいさんじ
大石寺 たいせきじ
泰泉寺 たいせんじ
太寺 たいでら
大寧寺 たいねいじ
太平寺 たいへいじ
当麻寺 たいまでら
太融寺 たいゆうじ
太陽寺 たいようじ
高田寺 たかだじ
高寺 たかでら
髙寺 たかでら
宝寺 たからでら
滝寺 たきでら
瀧寺 たきでら
橘寺 たちばなでら
舘寺 たてでら
館寺 たてでら
田寺 たでら
多門寺 たもんじ
誕生寺 たんじょうじ
大雲寺 だいうんじ
大雄寺 だいおうじ
大巌寺 だいがんじ
大願寺 だいがんじ
大京寺 だいきょうじ
題経寺 だいきょうじ
大宮寺 だいぐうじ
大源寺 だいげんじ
大光寺 だいこうじ
醍醐寺 だいごじ
大師寺 だいしじ
大正寺 だいしょうじ
大聖寺 だいしょうじ
大慈寺 だいじじ
大樹寺 だいじゅうじ
大乗寺 だいじょうじ
大泉寺 だいせんじ
大善寺 だいぜんじ
大通寺 だいつうじ
大徳寺 だいとくじ
大導寺 だいどうじ
大道寺 だいどうじ
大日寺 だいにちじ
大宝寺 だいほうじ
大楽寺 だいらくじ
大琳寺 だいりんじ
達磨寺 だるまじ
檀那寺 だんなでら
旦那寺 だんなでら、だんなじ
智恩寺 ちおんじ
知恩寺 ちおんじ
竹林寺 ちくりんじ
千見寺 ちけんじ
知見寺 ちけんじ
千葉寺 ちばでら
中元寺 ちゅうがんじ
中願寺 ちゅうがんじ
中宮寺 ちゅうぐうじ
仲元寺 ちゅうげんじ
中権寺 ちゅうごんじ
中在寺 ちゅうざいじ
中善寺 ちゅうぜんじ
中禅寺 ちゅうぜんじ
中尊寺 ちゅうそんじ
中堂寺 ちゅうどうじ
長安寺 ちょうあんじ
長栄寺 ちょうえいじ
潮音寺 ちょうおんじ
長久寺 ちょうきゅうじ
長慶寺 ちょうけいじ
長源寺 ちょうげんじ
長興寺 ちょうこうじ
長勝寺 ちょうしょうじ
長松寺 ちょうしょうじ
長泉寺 ちょうせんじ
重染寺 ちょうぜんじ
長徳寺 ちょうとくじ
長坂寺 ちょうはんじ
長峰寺 ちょうほうじ
長命寺 ちょうめいじ
長楽寺 ちょうらくじ
通元寺 つうげんじ
通法寺 つうほうじ
津寺 つでら
貞永寺 ていえいじ
天花寺 てんげえじ、てんかじ
天現寺 てんげんじ
天性寺 てんしょうじ
天正寺 てんしょうじ
天寧寺 てんねいじ
天王寺 てんのうじ
天籟寺 てんらいじ
天竜寺 てんりゅうじ
天龍寺 てんりゅうじ
伝法寺 でんぼうじ
傳法寺 でんぼうじ
東慶寺 とうけいじ
東光寺 とうこうじ
唐招提寺 とうしょうだいじ
当寺 とうじ
東寺 とうじ
東泉寺 とうせんじ
東禅寺 とうぜんじ
東大寺 とうだいじ
東長寺 とうちょうじ
塔寺 とうでら
東福寺 とうふくじ
灯明寺 とうみょうじ
徳大寺 とくだいじ
道光寺 どうこうじ
道寺 どうじ
道場寺 どうじょうじ
道成寺 どうじょうじ
導寺 どうでら
道明寺 どうみょうじ
道明寺粉 どうみょうじこ
中秦泉寺 なかじんぜんじ
中寺 なかでら
中山寺 なかやまでら
若王寺 なこうじ
那谷寺 なたでら
成相寺 なりあいじ
南禅寺 なんぜんじ
南林寺 なんりんじ
飯寺 にいでら
西秦泉寺 にしじんぜんじ
西寺尾 にしてらお
西寺方 にしてらかた
西本願寺 にしほんがんじ
西本成寺 にしほんじょうじ
仁頂寺 にじょうじ
日東寺 にっとうじ
如法寺 にょほうじ
忍頂寺 にんじょうじ
仁和寺 にんなじ
念仏寺 ねんぶつじ
能仁寺 のうにんじ
野寺 のでら
廃寺 はいじ
長谷寺 はせでら
畑寺 はたでら
鉢ヶ峯寺 はちがみねじ
八九寺 はちくじ
幅寺 はばでら
浜寺 はまでら
林寺 はやしじ
原寺 はらでら
梅津寺 ばいしんじ
梅林寺 ばいりんじ
番生寺 ばんしょうじ
日向寺 ひうがじ
東本願寺 ひがしほんがんじ
東山寺 ひがしやまてら
引寺 ひきじ
百済寺 ひゃくさいじ
白毫寺 びゃくごうじ
平等寺 びょうどうじ
富貴寺 ふきでら
福王寺 ふくおうじ
福音寺 ふくおんじ
福成寺 ふくじょうじ
福禅寺 ふくぜんじ
福寺 ふくでら
福田寺 ふくでんじ
普賢寺 ふげんじ
普済寺 ふさいじ
普正寺 ふしょうじ
藤井寺 ふじいでら
二ツ寺 ふたつてら
不動寺 ふどうじ
舩寺 ふなでら
船寺 ふなでら
古寺 ふるでら、こでら
峰定寺 ぶじょうじ
仏光寺 ぶっこうじ
仏国寺 ぶっこくじ
仏生寺 ぶっしょうじ
仏寺 ぶつじ
平安寺 へいあんじ
平泉寺 へいせんじ
平林寺 へいりんじ
報恩寺 ほうおんじ
方広寺 ほうこうじ
宝厳寺 ほうごんじ
宝山寺 ほうざんじ
宝積寺 ほうしゃくじ
寳積寺 ほうしゃくじ
法勝寺 ほうしょうじ
放寺 ほうじ
法寺岡 ほうじおか
芳寺戸 ほうじど
宝仙寺 ほうせんじ
宝泉寺 ほうせんじ
法泉寺 ほうせんじ
法善寺 ほうぜんじ
宝蔵寺 ほうぞうじ
宝藏寺 ほうぞうじ
寳蔵寺 ほうぞうじ
寳藏寺 ほうぞうじ
寶蔵寺 ほうぞうじ
寶藏寺 ほうぞうじ
法蔵寺 ほうぞうじ
法伝寺 ほうでんじ
法傳寺 ほうでんじ
宝塔寺 ほうとうじ
法道寺 ほうどうじ
鳳来寺 ほうらいじ
法隆寺 ほうりゅうじ
法輪寺 ほうりんじ
法起寺 ほっきじ
法華寺 ほっけじ
法興寺 ほつこうじ
法性寺 ほつしょうじ
本願寺 ほんがんじ
本興寺 ほんこうじ
本寺 ほんじ、ほんでら
本成寺 ほんじょうじ
本能寺 ほんのうじ
本遠寺 ほんのんじ
本法寺 ほんぽうじ
本妙寺 ほんみょうじ
本門寺 ほんもんじ
坊寺 ぼうじ
鳳凰寺 ぼうじ
菩提寺 ぼだいじ
前寺 まえでら
牧寺 まきでら
松尾寺 まつおじ
末寺 まつじ
松寺 まつでら
眞寺 までら
真寺 までら
万願寺 まんがんじ
満願寺 まんがんじ
万寿寺 まんじゅじ
万造寺 まんぞうじ
萬造寺 まんぞうじ
万代寺 まんたいじ
万納寺 まんのうじ
萬納寺 まんのうじ
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三ツ寺 みつでら
三寺 みつでら
味寺 みでら
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室寺 むろじ
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藥師寺 やくしじ
薬勝寺 やくしょうじ
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藥眞寺 やくしんじ
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柳寺 やなぎでら
山寺 やまでら
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幸寺 ゆきてら、こうでら
楊谷寺 ようこくじ
養福寺 ようふくじ
要法寺 ようほうじ
横寺 よこてら
善峰寺 よしみねでら
雷音寺 らいおんじ
来迎寺 らいこうじ
楽巌寺 らくがんじ
理寛寺 りかんじ
立石寺 りっしゃくじ
竜角寺台 りゅうかくじだい
竜宮寺 りゅうぐうじ
龍宮寺 りゅうぐうじ
立花寺 りゅうげじ
龍源寺 りゅうげんじ
竜光寺 りゅうこうじ
龍光寺 りゅうこうじ
龍寺 りゅうじ
竜泉寺 りゅうせんじ
竜禅寺 りゅうぜんじ
竜造寺 りゅうぞうじ
龍造寺 りゅうぞうじ
龍胆寺 りゅうどうじ
了仙寺 りょうせんじ
了徳寺 りょうとくじ
良福寺 りょうふくじ
臨済寺 りんざいじ
輪王寺 りんのうじ
瑠璃光寺 るりこうじ
蓮覚寺 れんがくじ
蓮花寺 れんげじ
蓮光寺 れんこうじ
連光寺 れんこうじ
蓮正寺 れんしょうじ
蓮台寺 れんだいじ
楞巌寺 ろうごんじ
鹿園寺 ろくおんじ
鹿苑寺 ろくおんじ
六泉寺 ろくせんじ
六湛寺 ろくたんじ
六波羅蜜寺 ろくはらみつじ
和寺 わでら
『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。
目次 [非表示]
1 概要
1.2 書名の由来
2 脚注
3 刊本
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。
文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。また、「隆信様、日峯(直茂[1])様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記しており、鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。
当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。赤穂事件についても、主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったこと[2]と、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。
この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。
明治中期以降アメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。
また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く密伝の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまう気概と覚悟が慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。
白雲やただ今花に尋ね合ひ 陣基
葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と単純に解釈されてしまっている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。
しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括りにすることは出来ない。葉隠の記述は、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、人前であくびをしないようにする方法等、現代でいうビジネスマナーの指南書や礼法マニュアルに近い記述がほとんどである。また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、一般に近代人の想像するところの『武士道』とはかけ離れた内容もある。
戦後、軍国主義的書物という誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。先述したように『葉隠』には処世術のマニュアル本としての一面もあり、『葉隠』に取材したビジネス書も出版されている。
戦後も、葉隠を愛好した戦中派文学者で、純文学の三島由紀夫は『葉隠入門』を、大衆文学の隆慶一郎は『死ぬことと見つけたり』を出している。両作品は、いずれも葉隠の入門書として知られ、各新潮文庫で再刊された。
書名の由来[編集]
本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。
天智・天武の生涯を通して「日本」が作られるまでの過程を描く。主人公は柿本人麻呂あたり。
国家の一大プロジェクトとしての平安京造営を、蝦夷討伐や藤原種継暗殺などを交えて描く。主人公は坂上田村麻呂あたり。
藤原良房による権力掌握の過程と、そのクライマックスとしての応天門の変を、スリリングな政争劇として描く。
藤原氏同士の権力争いや後宮の女房たちのエピソードなどを交えながら、藤原道長を気宇壮大な人物として描く。
北条時政を中心とした鎌倉幕府の創立とその後の政争を下敷きに、曽我兄弟の仇討ちを描く。
足利義満を主人公として、その半生を追いながら、南北朝後半の動乱と室町幕府の絶頂期を描く。
二階崩れから島津征伐まで、九州に鼎立した大友・龍造寺・島津の三氏の戦いを群像劇として描く。
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ブコメ:ペアできた
wrss 青森岩手/秋山形/宮城福島/新潟群/栃木埼玉/茨城千葉/東京神奈/静岡山梨/長野岐阜/愛知三重/石川富山/奈良和歌/滋賀琵琶/京都福井/大阪兵庫/鳥取島根/岡山広島/香川徳島/愛媛高知/山口福岡/大分宮崎/佐長崎/熊鹿/沖縄北海道
改変案
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山口 →嫌われてそう
さらに改変案
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