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はてなキーワード: 讃岐とは

2022-03-24

anond:20220324134543

讃岐焼き鳥(本当は鶏の脚骨付鳥だが)という胡椒たっぷり塩をそれなりにつけて焼くだけの奴うまい

2022-02-01

anond:20220130195853

かまど かまど♪

瀬戸の海はお母さん♪

讃岐の山はお父さん♪

かまど かまど♪

丸い心は かまどのお菓子

2022-01-28

anond:20220128162539

京都学生とき住んでたけど丁度よい広さの街に色々な文化があって飽きなかった。

ただ学生身分でも長く京都に住んでる人との溝みたいなのを感じたから定住は難しいと思った。

なにかしら地域に根ざした自営業の店を開けたら溶け込めるかもしれない。

香川うどんカルチャーショックを受けたくらい美味しかった。

うどんのために香川って…」と馬鹿にされるけど、大阪で(大阪在住です)有名所の讃岐うどんを食べたけど香川讃岐に勝てた店は少ない。

香川小麦の風味が凄いんだよね。

東京情報量が凄まじいと思った。多分お金なくても街を歩いてるだけで楽しいと思う。

2022-01-18

anond:20220118072658

俺も蕎麦の方が好きだけど、元増田うどん馬鹿にしすぎ。それと、知識なさすぎ。

讃岐水沢、稲庭、最低でもこれくらいの産地名知っておいてもらいたい。

関西のつゆは出汁がメイン、関東以北では黒い汁と言われてる醤油が入ってくる。

あと、ゴマダレ(つけ汁)、けんちん汁風、味噌煮込みだとか味にも色々有るでしょ。

だけど、蕎麦うどんシンプルな方が旨いと思うけどな。

2021-10-10

anond:20210915230627

丸亀製麺丸亀に成敗されて一旦解体されて経営者死刑ブランド名は変更となるスカッとする話を誰か考えてくれ

店舗に爆発してもらってもいいけどあれはあれで意外と支持者がいるから百歩譲って讃岐名乗るのやめてくれれば許してやっても良い

2021-09-15

「ここが讃岐の国かあ」

「気をつけたほうがいい、俺達の持っている妖刀不知火は妖邪たちをおびき寄せる」

「それもそうだな。まあとりあえずあそこの飯屋に入ろうぜ!」

トタトタトタトタ

「ったく飯のことしか考えてねんだからなアイツは」

ガラガラガラガラ

「ねえちゃんうどん一つ!超大盛りに天麩羅盛り合わせ!」

あいよ」ニヤリ

ザザザザッッ サパー ドンッ!

はい、おまちどおさま」

「かーっ。うっまそー!いただきまーす」

シューギュルンギュルンギュルン

「ん???」「がっはぁ!いぎがあ!いぎがあ!」

「オーホッホッ!かかったわね、わたし名前讃岐妖怪うどんの女!わたしのこしらえたうどんはね…食べようとする人のクビに巻きついて窒息させてしまう死のうどんなのよ!」

  

〜ここで書くの飽きました〜

2021-07-20

anond:20210720093426

いうて大阪うどん屋はもうどこも讃岐うどんの店ばっかりやからどこで食っても一緒や

2021-07-11

日本天皇51~100代

51.平城天皇(806~809)

 官司の統廃合、観察使の派遣など行政の立て直しに取り組んだ。藤原薬子を寵愛したが、譲位薬子の変が起きたため、出家した。

52.嵯峨天皇(809~823

 薬子の変鎮圧弘仁格式新撰姓氏録編纂した。三筆の一人にも数えられる文化人

53.淳和天皇(823~833

 経国集令義解、秘府略を編纂させた。

54.仁明天皇33~850)

 在位中に令義解施行され、日本後紀が完成した他、承和の変が起き藤原氏繁栄の基礎となった。医学書道和歌など初学に精通した知識人

55.文徳天皇(850~858)

 続日本後紀編纂を開始した。病弱であったため、政治の実権は藤原良房がが握った。

56.清和天皇(858~876)

 幼くして即位したため、良房が実権を握り、元服後も握り続けた。在位中に貞観格式編集された。

57.陽成天皇(876~884)

 乳母子を殺す、宮中で密かに馬を飼うなどの奇行が多く、藤原基経譲位させられた。

58.光孝天皇(884~887)

 55歳という高齢即位し、基経に「実質的関白として政治を任せた。

59.宇多天皇(887~897)

 阿衡の変により、藤原氏を疎み、菅原道真を重用した。在位中に多くの歌人が輩出され、遣唐使廃止された。

60.醍醐天皇(897~930)

 藤原時平讒言を信じ、道真を左遷した。在位中に古今和歌集勅撰、三代実録、延喜格式編纂が行われ、その治世は村上天皇と共に延喜・天暦の治と称された。

61.朱雀天皇(930~946

 在位中は天災が多発し、平将門藤原純友が乱を起こすなど、多難な時を過ごした。

62.村上天皇946~967)

 乾元大宝鋳造し、天徳歌合、後撰和歌集などを編纂させた。

63.冷泉天皇(967~969)

 病弱であったため、藤原実頼関白として実権を握った。安和の変の後は、摂政関白が常置されることとなった。

64.円融天皇(969~984)

 藤原氏政権争いに翻弄され、出家文化人として風流生活を送った。

65.花山天皇(984~986

 女御の死を悼んだところを、藤原兼家に計られて出家した。

66.一条天皇(9861011)

 在位中藤原道長が実権を握り、紫式部清少納言和泉式部などの文化人活躍した。

67.三条天皇1011~16)

 藤原道長に絶えず退位を迫られ、眼病、脚気理由に退いた。

68.後一条天皇1016〜36)

 道長の孫。在位中は道長・頼通が実権を握り、藤原氏の全盛期を迎えた。

69.後朱雀天皇1036~45)

 在位中は頼通が関白として実権を握った

70.後冷泉天皇1045~1068)

 在位中に平等院鳳凰堂が建立され、前九年の役が起きた。

71.後三条天皇1068~72)

 藤原氏を疎んじ、新政を行った。記録所を設け、成功、重任を禁じ、宣旨枡を定めた

72.白川天皇1072~86

 在位中に富士山噴火後三年の役が起きた。譲位後、院生を行った。

73.堀河天皇1086~1107)

 在位中は院生が行われたが、藤原師通の補佐により自らも政治に関与し末代の聖王と称された。

74.鳥羽天皇(1107〜23

 譲位後、崇徳~後白河の3代に及ぶ院政を行った。崇徳院を無視して、後白河天皇即位させたことが保元の乱の原因となった。

75.崇徳天皇(1123~41)

 鳥羽上皇冷遇され、譲位させられた挙げ句、息子の即位も阻まれた。これを不満とし、保元の乱を起こすも敗れ、讃岐に流された。死後怨霊として恐れられた。歌人としても名高い。

76.近衛天皇(1141~55)

 17歳で亡くなったため、崇徳院、藤原忠実・頼長親子に呪われたのではないかと噂された。

77.後白河天皇(1155~58)

 保元の乱崇徳院を破った後、譲位院政を行った。平治の乱治承・寿永の乱鎌倉幕府成立などの激動の時代の中、権謀術数を巡らせ朝廷権力を維持した。

78.二条天皇(1158~1165)

 崇徳の子差し置いて、皇子になったため、保元の乱が起きた。即位後は後白河院院政抵抗するも病気のため叶わなかった。

79.六条天皇(1165-68)

 自身への敵対勢力擁立されることを恐れた後白河院によって、わずか4年で譲位させられた。

80.高倉天皇(1168-80)

 清盛と後白河院対立に苦しめられ、譲位した。

81.安徳天皇(1180~1185)

 壇ノ浦の戦いで入水した。日本史上最も短命な天皇で、わずか7歳で崩御した。

82.後鳥羽天皇(1183~98)

 譲位後、土御門~仲恭の3代にも及ぶ院生を行う。承久の乱に敗れ隠岐に流された。

83.土御門天皇(1198〜1210

 父である後鳥院とは不和承久の乱にも加わらなかったが、自ら望んで土佐に流された。

84.順徳天皇(1210~1221)

 承久の乱に参加するために譲位し、佐渡に流された。

85.仲恭天皇(1221)

 父順徳が倒幕を企てたため、即位後78日間で廃位された。

86.後堀河天皇(1221~1232)

 わず10歳で即位したため、天皇になったことのない守貞親王後高倉院として異例の院政を行った。

87.四条天皇(1232~1242)

 滑石を用いたいたずらが原因で転倒し崩御した。

88.後嵯峨天皇(1242~1246)

 譲位後、2代にわたる院政を行った。死に際して、帝位継承者決定を幕府に委ねるとしたため、南北朝問題の原因となった。

89.後深草天皇(1246-1260)

 持明院統いわゆる北朝の祖。

90.亀山天皇(1260~74)

 大覚寺統いわゆる南朝の祖。父後嵯峨院に愛され、兄後深草院差し置いて子の後宇多天皇即位させたため、南北朝問題の原因となった。譲位後南禅院を建立

91.後宇多天皇(1274~1287)

 大覚寺統。在位中に元寇があった。譲位後、持明院統伏見天皇即位させるが、続いて持明院統後伏見天皇即位には反対したため、両統送立が始まった。院政を行うが、後醍醐天皇対立し、政治から身を引いた。好学の天皇として知られる

92.伏見天皇(1287-1298)

 玉葉和歌集勅撰させた。

93.後伏見天皇(1298~1301)

 譲位後、院生を行う。元弘の乱後、東国へ逃れるも捕らえられ出家した。

94.後二条天皇(1301~08)

 大覚寺統持明院統から2代続いて天皇が出たことに後宇多院が抗議したため、幕府の計らいで即位。両統送立が始まった。

95.花園天皇(1308~1318)

 大覚寺統教養人で風雅和歌集勅撰させた。

96.(南1)後醍醐天皇(1318~1339)

 鎌倉幕府打倒に貢献した後、建武新政を行う。足利尊氏に敗れ吉野に逃れ南北朝時代が始まる。

97.(南2)後村上天皇(1339〜1368)

 高師直に攻められ賀名生に逃れる。一度京都を奪還するもすぐに北朝に奪われた。その後も京都回復を狙い、各地を転戦するも果たせなかった。

98.(南3)長慶天皇(1368~1383)

 和歌を愛し、五十番歌合、五百番歌合などを催した。

99.(南4)後亀山天皇(1383~1392

 足利義満の誘いの応じて、南北朝和解を実現。しかし、義満の死後冷遇され、和平の条件であった両統送立も果たされなかった。

北1.光厳天皇(1331~1333)

 後醍醐天皇の失脚を受けて即位したが、鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐廃位光厳即位否定された。

北2.光明天皇(1336~1348)

 足利尊氏擁立により即位譲位後、観応の擾乱によって南朝に捕らえられるが後に解放された。

北3.崇光天皇(1348~1351)

 譲位後、観応の擾乱で捕らえられた。琵琶を愛した。

北4.後光厳天皇( 1352~1371)

 後村上天皇の一統が破れると、足利市擁護され即位した。南朝攻撃に遭い、美濃近江などに逃れたこともあった。

北5.後円融天皇(1371~1382)

 足利義満擁立されて即位譲位後、院政を行った

100.(北6)後小松天皇(382~1412)

 後亀山天皇から神器を受け、南北朝合一が成された。

2021-06-27

本場の讃岐うどんと都会の讃岐うどん

ここ6~7年ぐらい香川に頻繁(年に15回ぐらいかな?)に出張に行っている。高松善通寺やそんなあたり。

出張先の地元おっちゃんがうどんマニアなのか毎回いろんなうどん屋に連れて行ってくれる。

うどんのことを語らせるとこっちが引くぐらい語ってくれて「ああこういうのが郷土愛なんだな~」と疎ましくも微笑ましく思いながらうどんを啜っている。


しかしだ。

彼らが愛してやまない、偏愛しているといってもいい本場の讃岐うどんなんだが、正直丸亀製麺に劣る味ばかりなんだ。

通い始めて数年の若輩者が言うのも何なんだが確実に味の平均値が落ちてきている。(たまにうまい店もあるがそれでも丸亀製麺とどっこいぐらいか

で、地元を愛するおっちゃんには絶対に言えないんだけど、大阪東京で食べる讃岐で修業したという大将がやっている讃岐うどん店の方が確実に本場よりうまいんだ。

微妙な差とかじゃない、もう圧倒的に都会の讃岐うどんの方がうまい


なんでだろうと昔は思ってたけどもう自分の中で結論は出ててね。

本気で勝負するぞ、稼ぐぞと思って都会に出てきてる人と、日常牧歌的な安くておいしい郷土食ではフィールドが違い過ぎて比べちゃいかものなんだなと。

あらゆるジャンルうまいものがひしめく都会で自分うどんを選んでもらおうと思ったらそりゃ洗練されていくし、

うどん偏愛マニアだらけでほっといても勝手に食べに来てくれる郷土食じゃそりゃ違うものになっていくわ。


もちろん郷土食の良さを否定するつもりは毛頭なくて、かけ1杯190円なんてそれだけでただただすごい。

だけど味は絶対に都会の讃岐うどんの方がうまいし、丸亀製麺にも及ばない店が大半なのはどうしようもない事実なんだ。

ごめんな、おっちゃん。


蛇足だけどもっというと今一番大衆けするだろううどんウエスト資さんうどんのような福岡のやわめん系。

初めての人間を連れて行っても讃岐うどんは安さに驚くけど味では驚かない。

でも福岡うどんだとこんなうどんがあるんだと知らない美味しさに驚いてる。

讃岐系に飽き気味なので福岡系の全国チェーンが欲しいところ。

2021-01-01

まとめサイト古文書

大掃除してたら古文書でてきてワロタwwww

https://studynews.jp/25935/

http://blog.livedoor.jp/kinisoku/archives/5230903.html

http://himasoku.com/archives/52137451.html

http://world-fusigi.net/archives/9732146.html

このスレ何個かのまとめサイトに上がってるんだけど、半分素人の俺から見ても、讃岐直島三宅家の史料だとわかる。

瀬戸内海歴史民俗資料館から1978年史料目録も出てるから、この史料の近いところで調査の手が入っている史料なんだと想像できる。

から大切に伝えていってほしいんだけど、なかなか1にこの気持ちを届ける方法がなくてもどかしい

とりあえずまとめサイトに以下のコメントをした。

どっかで1が見てくれたらいい。

何個かまとめサイト上がっているからどのサイトコメントしていいか迷うけど、この史料讃岐直島三宅家の史料だよ。天領の村役人の家。

讃岐香川郡御料直島三宅文書目録』って本が瀬戸内海歴史民俗資料館から1978年から出てるけど、1があげた史料三宅岡右衛門とか出てくるんだよね。如上の『讃岐香川郡御料直島三宅文書目録』が瀬戸内海歴史民俗資料館の収蔵史料目録なのか、三宅家所蔵の史料目録なのか知らないんだけど、史料状態見る限り未整理(史料番号などが確認できない)だから1978年調査漏れてる史料なんだと思う。

こういう史料は、来歴がわからないとコメントされている通りちり紙なっちゃうんだけど、この史料は40年ほど前に調査されている。だから調べようがあるし、他の史料とも突き合わせて調査できるいい史料。もし1が見てたらなんだけど、大切にしてほしいと思います。また困ったら瀬戸内海歴史民俗資料館に聴いてみるといいかも。

2020-07-24

[]

新横浜から3時間くらいかけて岡山に、そして1時間くらいかけて高松に、そしてバスに乗ってシン屋島水族かンゴ新屋水族館に行きましたわ!

前回行った時はことでん屋島駅で頭のおかしババアに絡まれたので怯えていましたが今回は大丈夫でしたわ。

新屋水族館2015年頃に閉館騒動がありましたがその後元気にリニューアルしたりしていますわ。今回は面白イルカショーのステージ8月15日リニューアル公開予定ですわ。つまり今回はイルカショー無しですわ!どうせリニューアルじゃなくてもコロナで中止に違いありませんわ!ちなみに平日に行くと普通イルカショーでしたわ。

さっき書いた気がしまわ!anond:20200724211708

マナティーはここと美ら海とバナナワニ園で見ることができますわ。確かバナナワニ園だけAmazonマナティーですわ。こっちはアフリカマナティーとかなんとかですわ。

わたくしは亀が好きなのですがアカウミガメとアオウミガメタイマイがいましたわ。タイマイ水族館によくいるようなそうでもないようなそんな感じがしておりますわ。

ポストカードを買って水族館を後にしましたわ!ゼニガタアザラシが傘を持ってるやつですわ!

途中のお土産屋さんで屋島狸を買いましたわ!完全にタヌキックマスターの影響ですわ!ちなみにわたくし、タヌキックマスター様の影響で狸の剥製を購入しておりますわ。

屋島狸はなんでも日本三大狸らしいですわ!あと2つは?ですわ!!いやほんとに胡散臭すぎですわ!そんな争うほど勢力があるんですの?

あと半額になってたポストカードセットを買いましたわ。

その後、屋島寺宝物館に行きましたわ!仏像的なものとか焼き物?的なものとか、源平的なものとかがありましたわ!

駐車場のところの売店たぬきうどんといいだこおでんを頂きましたわ。いいだこうどんを頼めばいいところをタヌキックマスターの影響で以下略ですわ!

ちなみに雨で霧も凄くて景色的なものはよくありませんでしたわ!

その後バスに乗って四国村に行きましたわ。四国村に入る前に併設のわら家で釜揚げうどんを頂きましたわ!

四国村に入りましたわ!四国村は昔の(昭和とか?)建物現存する間に複製ではなくて移動させてきたものらしいですわ!大抵なんとか文化財でしたわ!入り口すぐのかずら橋を渡るのにびびりまくりで4分半かかってましたわ!手すり!掴まずにいられない!ですわ!

途中の四国ギャラリーピカソCG差分があって草でしたわ!

お酒を買って旅館に行きましたわ!

食事付きでしたわ。牛とか刺身とかでご満悦でしたわ!とんかつはありませんわ!

調子に乗ってお酒を頼みましたわ!川鶴の生貯蔵酒ですわ!よく知りませんが香川日本酒ですわ!

その後お部屋に戻りまして一本飲んで温泉行ってもう一本飲み始めて今に至りますわ!

おやすみなさいませ!


四国2泊3日新横浜高松53700円

から新横浜まで582円

水500ml110円

朝飯パン2個おにぎり2個554円

飲み物129円

高松ことでん屋島320円

ことでん屋島屋島山頂(バス)100円

新屋水族館1200円

ポストカード(相合傘)120円

屋島太三郎ダヌキ(狸置物小)600円

屋島ポストカードセット150円

宝物館500円

たぬきうどん400円

いいだこおでん350円

屋島山頂→四国村(バス)100円

わら家 釜あげうどん470円

四国村1000円

四国ガイドブックたぶん800円

ことでん屋島瓦町240円

金陵 上撰 國の光300ml 380円

県花ベル 綾菊酒造 綾菊 純米吟醸  金ラベル オリーブ 300ml495円

川鶴酒造 讃岐乃 大吟醸 レ・プリミエ 螢流湧水箱麹限定小仕込300ml 550円

川鶴 生貯蔵酒300ml(食事の時)660円

anond:20200724150906

丸亀製麺が「讃岐うどんは美味い」というブランディングリスク背負ってやってくれたわけで香川県民は知らんが、業界の方はありがとうってなわけで、市場規模こそ違えど「サムライかっこいい」を作ってくれるのはええんちゃうと思う

2020-07-21

香川に行きますおすすめ讃岐とんかつのお店はありますの?

観光の予定もあまり決まっていませんわ

2020-01-10

森まさこ氏の無罪証明発言がどれだけひどいか

森まさこ氏の無罪証明法曹としてありえない、少なくとも即座に訂正しなっきゃやばいレベル。翌日になって「いい間違えました」とかじゃ済まされない。

どれくらい酷いかを他の分野で言うと。

最初、罪をと言ってそれを無罪になおしての無罪証明なので二段階でやるよ。

くらいかな?

まあローソンで間違えてファミチキ下さいは俺も言ったことあるし、飲み屋の与太話とかじゃなくて、ゴーン氏の会見を受けて日本代表する立場法務大臣がまさにゴーン氏の批判裏付けるような発言を公開の場して、即座に訂正されない時点で、「あとでまずいと気づいて訂正した本音」と言われてもしかたないよ。

2019-09-20

丸亀製麺の何がうどん県民を憤らせるのか

うどん県民として思いを語っておきたい。

味・製法

ここは大した問題じゃない。讃岐うどんに厳密な定義なんてない。讃岐にあるうどん讃岐うどんである

https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00002/092000706/

この記事に出てくる「本場さぬきうどん協同組合」は、讃岐うどんブランド化をちゃんとしたい派閥から定義にこだわる。確かにそういうスタンス県民はいるが、実際の店は好き勝手にやっている。

ただ、香川うどん屋は丸亀製麺よりはるかに安いので、あえて量も質もよくない丸亀製麺を選ぶ理由はない。だから香川に出店した店舗は軒並み潰れた。

っつーか市街から離れた栗林公園さらに南に店出して客が入るわけないだろ!あの出店計画マジで謎。はなまるうどんちゃん商店街とかで生き延びている。

讃岐うどんを名乗っていること

これもそんなに問題じゃない。俺たちは加ト吉冷凍うどんでもおいしく食べられる。

讃岐うどん代表ヅラしていること

こはちょっとカチンとくる。なぜなら讃岐うどん形態多種多様からだ。麺通団も言っているように、セルフけが讃岐うどんでもない。

麺通団は作る側の立場でもあるから小麦の扱いや製麺方法の違いにこだわっている。釜揚げした直後から麺の品質は下がるとか、細かな技術論は色々ある。どの店にも一家言はあるものだ。ぶっちゃけうどん県内でも冷戦状態にある。丸亀製麺はその一部に過ぎない。ターゲットが大きいから目立つだけ。

変な讃岐うどん観を広めていること

まじでやめてほしい。「お茶碗持って製麺所」とか大嘘を書き散らすのは勘弁。炎上追従するマスコミがこのあたりを全然追求しないのも残念。事実関係に関しては麺通団のほうが正確である

今回の炎上というかアンチ丸亀製麺根本ってここだと思うんだけど、麺通団もいらんことまで書くから議論錯綜してしまっている。

BLOGOS取材(というほどでもないが)でも、誤った歴史認識に答えていない。

https://blogos.com/article/405108/

取材では、あわせて

讃岐うどん歴史が間違っているとの指摘があるがどう考えるか

香川県に出店した際、「亀坂製麺」という店名にしていたにもかかわらず、その後「丸亀製麺」に戻したのはなぜか

香川県に積極的に出店しない理由は何か

といった質問も投げたが、同社側から回答を得ることはできなかった。

丸亀ブランド問題

全く許していない。前述の取材に回答しないあたりダメダメ丸亀市に店舗がないこと自体別にどうでもいい。

丸亀市は仲良くやってるじゃないかという擁護

あんまり関係ない。政治経済次元ではないから。

相容れない価値観を突きつけてくるキチガイからお金もらって喜べますか?喜ぶかどうかがスタンスの違いだと思う。

もはやうどん県全体の話であって、丸亀市だけの問題でもない。

2019-09-19

讃岐うどんはマズい! (旅行客にとっては)

地域代表するものが、 (すでに廃止された) 古い地名を名乗っていることに疑問を持っている。

讃岐うどんって言うなよ、クソが。 それは「香川県うどん」だ。

讃岐と呼ばれていた頃と同じうどんなら讃岐うどんって言ってもいいけどさ、讃岐うどんってのはイリコの生臭さと噛み切れないほどのグニャグニャした (少なくとも食べなれない人からすると) クソまずい食い物なんだよ。

旅行客が食べて「美味し~~ (^^♪」って言ってるのはカスタマイズされた香川県うどんなの!!

特にバスツアーとかで寄る店は観光客向けに調整してるから、味が美味しいかまずいかは知らんけど平均的な讃岐うどんではない。

名物に美味いものなし」という格言を聞いたことないか

よその地方の食べなれないものはまずくてあたりまえ。

でも、それも含めて旅の醍醐味なんだから、美味しいものを食べに行くっていう感覚はやめろ。 まずくてもそれを楽しむんだよ。

まずい讃岐うどんが本物の讃岐うどんだ。

追記

讃岐うどんかどうかはともかくとして、しいて言えばつるやうどんはまああまあおいしいです。

追記2

https://b.hatena.ne.jp/entry/4674644977268989730/comment/mamezou_plus2

名物(常食を除く)だからな。日常食でそんな不味い物が残る訳ないだろ。日本人喰意地はってんだから讃岐うどんブーム麺通団発祥

旅行客にとっては「よその地方の」ものを食べているという話をしています

地元の人においしいもの旅行客にはおいしくない。

食い物のおいしさを絶対的指標で測れるという間違った考えを持っている人のことを想定していなかったので、そういう人にとってはわかりにくい文章でしたね、すいません。

私が名古屋へ行った時もあらゆるものが塩まみれで呑み込めませんでしたが、駅ナカで食べた串カツはたぶんよそ者向けにカスタマイズされていておいしかったです。

しかし、名古屋料理ガチでしょっぱいわ~というのも貴重な異文化体験です。

日本国内でさえ様々な価値観があるというのが旅行体験として重要なのです。

.

遠方へいってまで食べるのが普段食べているものの上位版に過ぎぬというのはつまんなくない?

普段よりおいしいものが欲しけりゃ地元にもちょっとした高級店くらいあるだろ。

味がなんであれ「その土地の」ものを食べたい。

結果的よそ者にとっても美味しいことだってあるだろうけど、よそ者向けにカスタマイズされたものを食って満足するのってあほらしいなぁと思うのだった。

2019-09-13

anond:20190913183634

讃岐 ( さぬき ) の 造麻呂 ( みやつこまろ )やん!!

せっかくやからさぬきうどんやろ👍

👵これをお土産に💝

天竺てんじくにある佛ほとけの御石みいしの鉢はち、

東海うかい蓬莱山ほうらいさんにある銀ぎんの根ね、金きんの莖くき、白玉しらたまの實みをもつた木きの枝えだ一本いつぽん、

唐土もろこしにある火鼠ひねずみの皮衣かはごろも、

龍たつの首くびについてゐる五色ごしきの玉たま、

つばめもつてゐ子安貝やすがひ一ひとつ

2019-06-18

anond:20190618005209

そんな妄想理想すぎて泣ける

美味しいねえ、讃岐美味しいねえって大晦日こたつではふはふしたい

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士あいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

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