はてなキーワード: 放任とは
まぁ、ウソがバレても逃げおおせていたという意味ではもっと酷かったわけだ。
「大事の前にそんな些事は捨ておけ」というクソ理論がまかり通っていた。
些事をおろそかにするヤツに大事を任せたら五輪汚職でもっと大金が食い物にされた。
「状況を変えられる次の一人が出てくる可能性はあるよな」という不安が同時に襲ってきている。
既に起こったことが二度と起こらないなんてバカな妄想は出来ない。
バカ殿が国をぐちゃぐちゃに引っかき回すことは今後も起こりうるが、どう対策すれば良いのか。
代理人たる政治家を選ぶ最終責任者である有権者は代理人の管理をキチンとしているか?
バカ殿が去ったからといって、それを放任した最終責任者の責任は免責されない。
口を噤んでバカ殿に従っていた連中も同様だ。
そいつらを引きずり下ろせば終わりなのか?
さて、どうなることやら。
日本共産党が民主主義的な変革を通じて、ゆくゆくは社会主義を目指している政党だというのは知っていた。
ソ連や中国の方向性に異を唱え、社会主義の前に、まずは民主主義の確立を目指すという意味では、共産党は憲法の擁護者であったし、自由と議会制民主主義の擁護者としてふるまっていると思っていた。
そういうことを知っていたつもりだったけれども、このたび、異論を許さない態度で党首公選制を訴えた党員を除名処分にするニュースはあまりにも自由や民主主義の考え方と乖離する、という違和感が強い。もちろん、50年代、60年代に、ブントからさまざまな新左翼党派が生まれた経緯を反省すると、党の結束重視、分派につながる動きへの警戒は理解できるものの、なんとなく民主主義を擁護している風の皮をかぶりながら、やっぱり統制好きな人たちなのか?という印象はぬぐえない。
そこで日本共産党綱領を民主主義というキーワードがどういう文脈で使われているかを改めて読み直してみた。
まとめると、以下の特徴が読み取れた。
・民主主義的な変革(革命)は専制政治や覇権主義との闘いである
・変革(革命)の担い手は労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生からなる統一戦線である。
民主主義は設計された所与のプラットフォームというより、【変革】により戦った【主体】が勝ち取る動的な運動と認識されている。その主体が定義されリスト化されており、その【統一】には社会構成員全員が含まれているわけではない、というのも注目に値する。はっきり書いてないが打倒されるべき悪しき存在の匂いがぷんぷんする。昔よりマイルドになったとはいえ、人民が戦って勝ち取るぞ的な歴史観がすごい。
綱領は最後に、現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容として、国の独立・安全保障・外交の分野から憲法と民主主義の分野、そして経済的民主主義の分野で目指すべき方向性を示している。
この中には安保破棄といったおなじみのものから、ジェンダー平等など最近になって共産党自身が認識を改めたものも含まれている。
経済的民主主義の分野においては、労働規制、食糧安保などが強調されているが、自由主義経済の擁護はやはり、というか、やっぱり記載がなかった。
憲法・民主主義の分野の記載で、もうひとつ特徴的だと思ったのは、民主政にとって、ある重要なメカニズムが全く記載されていないことだった。
ははあ、と腑に落ちたところがあった。なぜ民主政にとって、もっとも重要な概念が抜け落ちてしまうのか。
共産党の考え方では、民主主義は、戦いと表現されることから象徴されるように、そもそも主体的に、イデオロギーの進歩として達成されるべきものと認識されており、しかもそれは社会主義革命に至る途上の段階とされる。
民主主義が革命に向かう運動と理解され、この革命の担い手「主体」がキーワードになるんだな、と改めて気が付かされた。運動主体が【統一】されるべきである、という共産党員の自画像が、今回の件で、党外発言を攻撃とまで罵る背景にあるように思えた。
というのは、いわゆる自由主義社会においては、「主体」について全く異なる理解をしている。多様な主体のもとで、社会が進展するという考え方のほうが支配的だからだ。
広い意味でのリベラリズムでは、リバタリアニズムやレッセフェールなど完全放任まで幅があるものの、経済や社会の進歩は、特定のイデオロギーによって達成されるのではなく、優れたものが自然に選択されるという淘汰圧が客観的な社会のダイナミズムとして理解されている。
表現の自由についていえば、特定のイデオロギーの正しさは、歴史が自然に結果を出すものであって、教会や政府が真理として押し付けるものではない、というのがヨーロッパでもアメリカの政治体制でも共通の前提となっている。
そのような認識の下では、多数の目から一見すると正しくない言論や行い、考え方についても、その考えが社会に存在することを排除しないのが美徳となる。
差別的言論しかりであり、正しくないと思えるものが一定程度、社会に蔓延するのを認容する、というのは、長い目でみて、社会が進歩するための副産物と考える。
したがって、雑にまとめれば、自由主義社会の制度設計では、ブルジョアやプロレタリアートといったイデオロギー的な主体の覚醒は必要とされないし、イデオロギー的な主体の覚醒や人民の団結を呼びかけるような政治体制は、資本主義的な搾取構造以上に、暴力装置である、というのがリベラル側からみた共産主義の問題点といったところだろう。自由主義では、イデオロギー的に多様であっても、そして無自覚であっても成立し、発展しうる社会設計を構想しているのに対し、共産主義では、変革の主体が強く意識され、その主体が統一(戦線)されることが変革のキーだと考えられている。
民主という言葉が登場するたびに、それは専制によって奪われてきた歴史であり、覇権主義との闘いであり、それに抗い変革を進める担い手が強調される。
そして、ひとたび担い手に注目するやいなや、担い手の気づきというか覚醒が求められる。革命は待ってても自然には起こらないということだ。
これは共産主義独特の進歩史観だ。ここに、担い手を教育し、同じ価値観やイデオロギーを共有させようとする契機がある。
これは、党首公選制を唱えた者を破門する、という最近みられた動きと表裏一体ということになる。
綱領に言論の自由の記載が一行も存在しないのも納得である。言論の自由のもつ社会のダイナミズムを理解しつつ、イデオロギーを啓もうすることは自己矛盾だ。
というわけで、社会の変革にとって、イデオロギーに共鳴する主体醸成を重視するか、
それとも自由のダイナミズムを重視するか、ここに分かれ道がある、というありきたりな結論に至ってしまったな。
政治体制 | 言論自由 | 進歩史観 | プレイヤー |
---|---|---|---|
自由主義 | どちらかというと放置 | 蓋然的・客観的 | 多様性重視 |
共産主義 | どちらかというと統制的 | 必然的・主体的 | 一体性重視 |
みたいなイメージになった。
しかし、共産党の皆さんに是非、戦後の世界の歴史をもう一度振り返ってもらいたいと思うのは、
言論表現の自由がもたらす社会の不協和音、暴力という副産物をある程度社会が許容できたからこそ、社会運動が大きく広がった。
この運動はもちろん差別と闘う社会変革の主体抜きには語ることはできないが、過激な言論を民主主義の副産物とする社会のプラットフォームがあることによって、運動の価値が昇華された。
暴力性という点では労働権の暴力性(争議権)も社会改革の進展のかぎだ。今では自明性に埋没して疑いもしない労働者という言葉、実は【労働者の概念】とその暴力性は、革命の概念と地続きり、出自はもちろん自由主義ではありえない。
異なる出自をもつ二つの権利、争議権と言論の自由は、社会変革のダイナミズムに伴う暴力という意味では実は共通項だ。
他者危害原則が基本の社会において、なぜ規範からの逸脱という暴力、そして異端の存在を、広く多様性という価値を認めて、一定程度、許容する仕組みを自由主義社会は構想しているのだろうか?同一コミュニティに閉じている限りは進歩も進化もない、という、それはやはり、進化のプロセスに対する直感が働いているといわざるを得ないだろう。
争議権というのは、学校が停止したり電車を全面的に止めたりと経済に甚大な被害を与える超暴力的な行為を時に伴うが、そのような痛みを社会が許容することによって社会が改善することがある。自由主義社会はこうした社会変革に伴う暴力を一定のコントロールに置いたうえで社会の進歩を進めてきたといえる。
ちょっと余談になるが、日本での社会権の受容はGHQ改革に始まって、やや独特の経緯をたどって欧米とは異なる展開となった。
敗戦直後、それまでの動員される勤労者から主体的な労働者へ突然、主体の変換が起きた。その結果としての、労働者階級の過剰な希望、そして暴力に伴う社会的な混乱は、失望と社会秩序維持へのさらなる圧力を生み、やがて国労と新左翼だけが残った。そして秩序を乱す奴イコール、テロリスト、という空気が蔓延した。
日本は国労が新左翼と一緒になって調子に乗りすぎた結果、争議権は骨抜きになった。日本では社会秩序と暴力が明確に対立概念となり、争議はなれ合いとなり、労使協調という言葉に象徴されるように、労使間の秩序模索にすぎなくなった。ただ一方、ヨーロッパではそんなことはなく、社会権の潜在的なラディカリズムが広く受け入れられている。病院だろうが航空機だろうが、誰が困って死のうがストが決行される暴力性が顕在なのだ。なんなら革命で政府を転覆させるぜくらいの勢いで。
ともあれ、自由主義社会が社会主義的な発想でラディカルな主体の考え方を一部取り込んでいる、という動きは、自由主義VS社会主義と単純に括ることができないことを示している。
絵画にトマト投げみたいな環境急進主義しかり。ヨーロッパになぜあれほどラディカリズムがパフォーマンスを繰り広げられる余地があるかというと、そもそも自由主義社会は社会変革の萌芽を言論統制などによって政府の力で摘まない社会設計になっているからだ。彼らはヨーロッパのニュース上ではResistantと表現されてもテロリストと表現されることは少ない。それは「労働者」という主体を仮構したうえでの争議権の意義とパラレルなのだ。
なんなら、「LGBT」しかり、なのだ。共産党は実は、長い間、同性愛者を差別してきた歴史がある。かつては「労働者」という概念が主役で争議権という武器が社会変革上、最重要な部分だったので性的マイノリティに考えが及ばない時代だった。LBGTというイデオロギー的な主体の意義に気が付き、公式に考えを修正したのはつい3年前の2020年のことだという。
https://www.sankei.com/article/20210706-L4MJ2RSGZFLHJLGW2LWKXILBGI/
LGBTの存在に気が付き、こうした修正が可能になるのは、自由主義社会が、ラディカリズムも含めて、多様な言論を放置できる社会だからだ。そのくせ日本共産党がLGBTをあたかも自分たちの応援団かのように仲間に入れようとするのは、労働運動が退潮し、運動の屋台骨が骨粗しょう症のようになってしまった日本の文脈を思い起こすと、図々しいという気もする。皮肉なことにこの記事を執筆した元板橋区議の男性も、党本部から除名処分を受けている。
結局のところ、共産主義においては、社会変革のための主体を重視し、その統一をもとめるがゆえに、主体そのものの議論が決定論的なものになってしまい、議論されにくい。
その結果、主体自身の変革は阻害される、というジレンマというか自己矛盾をはらんでいるといえるだろう。社会を変革したがるくせにね。これはある意味自らの正義の禍々しさに苦悩するヒロイズムのジレンマだ。自由主義社会でダークヒーローのドラマや映画のプロットが西部劇の昔から最近ではジョーカーに至るまで一定の需要があるのは変革の萌芽は必ずしも正義によって見出されるものではないという世界観の違いに由来する。
でも、自由主義社会にいる日本共産党としても社会の変化にも気が付かざるを得ない。
その過程で、弱体化した【労働者】を補完するべく、新興の主体、LBGTグループを統一戦線の一員として、ちゃっかりと追加したりする、ということが起こったりするわけだ。
であれば、社会主義革命を目指す共産党においても、内なるノイズをある程度、コントロールしつつ許容し、社会変革への考え方をより確実にする、という方向性もありうるんじゃないだろうか。その結果、やっぱ内ゲバをコントロールできなくなって、この調子じゃ人を教育して主体構成を前提とした社会主義化って無理じゃね?となって解散するならそれもよしなんだよ。
今回の除名騒動を受けて、党内で議論すべきことは党内で、というのが統治の基本、という主張が共産党から強調されているようだ。
一見正論だが、しかし、俺はちょっと違うと思う。それは、つまり【寄り合い】だ。
なぜなら、そのようなガバナンスの考えこそが組織の硬直化を招来し、日本の労働運動が労使間の秩序模索に堕落した一因であるし、日本的組織風土に風穴があかない最も大きな要因だからだ。寄り合いといえば、かつて日本の農村漁村を調査した宮本常一は、寄り合いによる時間をかけた合議の意思決定を観察し、他者の信頼醸成のプロセスが共同体のしきたりにない、外部社会の新しい事柄の受容のキーとなっていることを見抜いた。宮本はまた、共同体を飛び出し、放浪の旅を経て戻ってくるようなアウトローの存在を外部の知識をもたらす【世間師】として共同体が受け入れる様子も描写している。寄り合い的なコミュニケーションにおいても、異物を内部化するプロセスはあるということだ。
民主主義という視点に戻ると、言論の価値、そして、争議という変革の手法が組織どころか社会に迷惑をかけることを前提に行われることの意味をもう一度振り返ってもらいたい。
長年デカくて悩んでいた胸を小さくする手術を受けるために整形外科でカウンセリングを受け、見積もりを取ってきた。インターネットに星の数ほどある整形レポートのなかでも乳房縮小術の症例はとても少ない。あっても整形外科医院のサイト内に内容と手術法および画像数枚が簡潔にまとめられている程度。FtM の方のブログも読んだが、そうではないケースで手術をしたという国内の症例や個人の記録は少なかった。まだ手術を受ける前の内容ではあるが、ここまでの経緯を記録したいと思い筆?をとった。
増田は30女、カップサイズFかG75、既婚、子なし、共働き、会社員、都内在住、やや低身長、標準体重。
胸が大きいと気づいたのは高校に進学し最初の体育の授業でクラスメイトにいじられたことが最初だった。増田の家庭は若干放任と毒親気味でブラを買ってもらえなかった。生活に不便だったのでコンビニ振り込みで下着をネット通販したのを覚えている。その後胸は私の意思に反してどんどん巨大化し、部活や文化祭等で揃いのユニフォームなどを着用する際に目立つようになった。その間進学から就職、今に至るまで典型的ないじられ方(見せびらかすなとかエロいとか羨ましいとか頭が悪いとか何カップとか)やセクハラをされ続けた。いじられた時、何か言い返すことで胸が大きいことを自慢しているような構図になり嫌なやつだと思われたり、褒めているつもりだと主張する人の前で変な空気になるのが嫌だったから愛想笑いで誤魔化しながら20数年やり過ごした。切になんとかならない体型いじりは社会から無くなって欲しい。
もともと増田はモードな雰囲気が好きだがその方向性は諦め、下着はサイズがないので高額で購入し、日常的にコスプレ用のさらしで胸を潰していた。スポーツや式典は胸周りをガッチリとテーピングした。物理的に息苦しい思いをするので、毎度イベントで体調が悪くならないかハラハラした。それでも人に指をさされるこの体型が本当に本当に嫌だった。「私は胸が小さくて悩んでいるのになにを謙遜しているのか」と逆ギレする女性などもいるのだが、お互いコントロールできないことなのだし、別にこちらとしても小さくはできないので、勝手に敵対視しないで欲しい。一時、ダイエットで美容体重まで減量した際も胸だけが残り絶望感でいっぱいだった。
自分の胸が嫌だという話が長くなってしまったがなんだかんだダボダボの服を着ながら日常生活をやり過ごしていた。そんなある日、海外のスポーツ選手がパフォーマンス向上のために乳房縮小術を受けたという記事を読んだ。こんな方法があるのかと、興味本位で日本で施術ができるのか、金銭的にはいくらでできるかと思いネットで調べた。そこで冒頭に述べた通りFtMの方の体験談、そして施術可能な整形外科のページや評判をいくつか見比べ、さっそく二つの院に予約をとった。
いままで胸が大きくて悩んでいると人に言うと「贅沢な悩み」だと一蹴されてきたので、受診するのはとても緊張した。顔面を含めそもそも整形自体初めてだった。全国展開の整形外科でも乳房縮小術はレアケースなので執刀医が少ないらしく、一つは自宅から40分もかかる院だった。
真剣に悩んでいることを整形外科医とスタッフに打ち明けたところ、ちゃんと話を聞いてくれて、正直涙が出そうなくらい嬉しかった(高額な施術を控える客だからかもしれないが…)。
どちらの院もだいたい同じ流れで、医師と女性スタッフの二人体制で
・どのぐらいサイズダウンを目指すか
・ダウンタイム
・手術痕
・金額
について説明を受けた。
まず胸を小さくする方法は、脂肪吸引もしくは乳腺切除、また著しく胸が垂れている場合は釣り上げ術というものを適用するのが主流だそうだ。増田のケースは乳腺が発達してしまっている胸のタイプで、脂肪吸引だけでは理想のサイズダウンは望めないため、乳腺切除が必要だと分かった。ダイエットしても胸が小さくならないということが受診によってわかり納得感があった。
また、胸の中身を出して小さくしても乳首の位置や皮膚がそのままだと見た目がおかしいので、周辺の整形手術を行う必要がある。施術は乳輪の下から縦に皮膚を切り裂き、胸の外周を半周切り取って乳腺切除をするため、そこそこ大掛かりな手術となるとのことだった。多少の傷跡が残ること、完成までのダウンタイムが回復が早くても半年ほどかかることも伝えられた。
結論、経産婦ではない場合は乳腺切除は後戻りできないのでよく考えてから決めてくださいとのことでカウンセリングは終了した。やはり出産前に施術を受ける人は少なく、子育てを終えた人がアンチエイジングとして釣り上げ術と同時に縮小術を受けるケースがほとんどらしい。個人的にはそこまで子供が欲しいわけではないし、さらに胸が大きくなった自分の妊娠中や授乳姿を想像するのもやや気分が悪くなるが、ちょうど30代に差し掛かる年齢ということもあり、別にセックスレスというわけでもないので、やはり後戻りできない施術とダウンタイム6ヶ月を考えるとやや怯んでいる。
病気ではないので、健康保険は適用されないため支払いは全額自由診療の料金になる。いくつかの院で見積もりをもらったところ、麻酔代などを含め日帰り手術130〜150万円前後が相場で、脂肪吸引のみで済む人だと80〜100万円弱ほどになるらしい。都内なのと、ある程度名の知れている整形外科を中心に見積もりをとったからこの金額になるのかもしれないので、地方の個人院や美容先進国の韓国ではどうなのかはまだわからない。またモニターといって、症例写真を提供すると2〜3割ほど金額から引かれるようだった。100万超の手術費用の捻出は私にとって大金だが、20数年間胸がデカいことに起因する嫌な出来事を考えると、金さえあればこんな思いをしなくて済んだのかと思う。その期間、無駄な飲み会などに多額を費やしたであろうことを反省するし、なんなら若くて回復が早くスケジュールに余裕のあった学生時代に施術を受ければ進学就職でいちいち嫌な思いをしなくて済んだのだろうか。
ここまでなんとなく、カウンセリングを受けてきたことを夫に話せていない。増田夫は体型などになにかを言ってきたことは今まで一度もなく、財布も別だし、増田の行動にもあまり干渉しないタイプだ。決意はだいたい固まっているのだが、まずは夫にどう切り出そうと考えながら、整形外科からもらった見積書とパンフレットをこっそりカバンから出して眺めている。
自分の持ち物である身体の整形手術なのに、まだ予定のない子供(≒妊娠出産)とパートナーのことが頭によぎるなんて、一体この胸は誰のものなんだろうか。
元々、安西先生も別に完璧な人格者として描かれているわけではまったくなくて
「才能ある選手を追い込みすぎた結果、その選手は未熟なままアメリカに渡り、失意のうちに死ぬ」という
安西先生はそこから指導方針を大きく変えてて、猛烈なスパルタから、よく言えば限界まで生徒の自主性に任せる方針(悪く言えば放任)に切り替えてるのね。
そこには、安西先生の「才能ある選手に対して、どこまで追い込めばいいのか」「生徒の将来性と目の前の勝利、どちらを優先すべきか」という怯えと葛藤があったと思う。
例えば怪我した桜木を引っ込めろってのは正論なんだけど、安西先生と桜木は最終的にそこをエゴで踏み越えちゃう。それを間違いだって断じるのは簡単だけど、本当にじゃあそうやって引っ込めて負ければ物語的によかったの?
結果、安西先生と桜木の選択でチームは勝利し、桜木はリハビリ生活に入る…。
たしかにミッチーだってもっと細かくケアしていればそもそも不良にならなかったかもしれない。
でも作中のミッチーは一度ドロップアウトしかけたところから戻ってくることで明らかに大きく成長してる。
結局、「これが絶対正解」って選択肢は、大人である指導者たちについてすら、そもそもどこにも描かれてないのよ。
豊玉の監督もそう。指導者も生徒も、皆未熟さや挫折を抱えている不完全な人間として描かれている。
(堂本監督だけほぼ判断ミスも弱点もない理想の指導者&チームなんだけど、それを問題児軍団がひっくり返すのが醍醐味なのよ。)
昭和の頃って良くも悪くも結婚してもちゃんとしなくても良かったと思うのよ
男は仕事して給料家に入れとけば飲み会、タバコ、競馬、麻雀、ゴルフ、何やってても良かったし許されてた
要するに既婚者なのに独身みたいに過ごせてた
女も女で家事やってりゃ良かったし子育ても今以上に放任でよかった
昔は学童なんてなかったし幼稚園児や小学生だけで遊ぶのなんて当たり前だった
しかし今や男は仕事に加えて家事育児こなせないといけないし、女も稼がないといけない
【追記】
昔もちゃんとしてた、昔の方がちゃんとしてたと言う意見に対して
誰かが書いてるけど求められてる「ちゃんと」が違ってきているんだと思う
昔は男は仕事だけちゃんとしてれば良くて、その中に接待や付き合い、昇進など様々なストレス要因は含まれてたけど耐えることはできた
女も同じくどれだけ家事が完璧でも専業主婦だから当たり前でしょと見られる
例えば昔の結婚生活をレジ打ちとすると今はコンビニ店員ばりにマルチに求められてる感じ
全方位に「ちゃんと」し続けるのはかなりキツい
ゴミ、捨ててません。入浴、できてません。もちろん仕事もありません。日がな一日ゲームか動画を見るだけです。
皮膚に疾患があります。治せてません。病院にも行けてないです。歩けないわけではありません。介助が必要なほど心身に損壊があるわけじゃありません。
また能力もあまり高くないです。手につける職もないです。ゲームがちょっとできるだけです。
正直言うとクソ野郎です。奇異の目で見られます。嫌がられます。怒られます。迷惑もたくさんかけます。正直この世にいる意味もないと思います。
でも当たり前です。唾棄されるような存在であることを認知していて、それを受容しています。だって……。
このループに入り込めるのも、真面目に自分のことを考える心と頭の隙間ができたタイミングだけです。
ほんとは、色んなことを考えてるんです。それを吐き出せないんです。
よくよく考えると、これが辛いことだと認識することができます。この瞬間が、今を生きていく中で一番辛いんです。
こういうことを一切考えないで、できないことも全部棚に上げて、日々を何も考えない状態の中で暮らすのが幸せです。
思考停止です。それがいいんです。思考するのが苦しいんです。苦しさにさらされるのが苦しいんです。
抜け出したいと思う活力と、抜け出すための行動力、その支えとなる近しい関係者、一切ありません。だから苦しいのがただひたすらに苦しくて辛いのです。
愚かしく、恥ずかしい命です。何か有効に扱えるようにした方がいいし、そうでなくても誰かに命を捧げた方がいいと思います。
でも死ぬのが怖いんです。怖くて死にそうになる程怖いんです。
私は一人です。助けてほしいです。でも、一から十まで支えてもらわないと、抜け出したいという意志も、抜け出すための努力も、きっと即座になくなってしまって、また画面を見つめるだけの18時間ぐらいが過ぎてくだけです。
自省をやめたら、きっと元に戻ります。理性らしい理性なんて、私からしたら眠っててもらいたいものであるからです。
きっと明日の自分はこのことの一切を頭からクリアして、ただの自己を放任している人間になるでしょう。
なので、理性のあるうちに本音を書いて、どこかに上げておかないといけないのです。これを取り戻せなくなるのもまた、きっと辛いことなのですから。
こうして書き出してみると、もう、自分一人ではどうしようもありません。
読み進めるほどに目ウロコだわ。
今まで最近のフェミニズムは保護主義になっていて日和ってるなあ。
往年のフェミニズムの自由を求めて女たちの自立を啓蒙する態度はどこに消えた?
そんな風に嘆いていた。
❶ 欧米フェミニズムの、女性を男性のように自由にするべく解放する流れがあった。
❷ それが日本でセクハラなどの概念を根付かせて成功したのはしかし、父権的男性中心の「女性を守ろう」という動機があったためだ。
間違えた。
いいえ。そうではありません。
しかし、そのようなある程度の合理性があったとしても、統計的差別であることは間違いありません。
現状誰が権力を持っているのか?を無視するから共闘が難しいのです。
誰も男性の辛さが0だとは言いません。
男性には自ら変える力があるということです。
男同士で弱みを見せ合い癒し合うことには向いていないと言いますがお気持ちですよね。
気の持ちようでなんとでもなる話です。
しかし女性が受ける差別は個人の気の持ちようでなんとかなるものは少ないです。
女性らしさから降りるより男性らしさから降りる方が「個人の裁量に収まる」ということです。
男女平等に近づけることには合意されるとしても、男性に対しても女性がされているくらい保護する方向にいくのか、女性のことも男性がされているくらい放任する方向に行くのかで、目指すものは大きく変わるでしょう。
保護など求めていないでしょう。自立です。
たまに「放任されたら困るだろう?ほれほれ」としたり顔で言ってくる男性がいますが自立に勝るものはありません。
これ去年も見た増田(anond:20210505162132)じゃん。でも丸コピかと思ったら結論部分変えてんのね。変わった結論には賛成。俺も「女を男並みに自由だけど粗末に扱う」方向で行くのがいいと思う。これは去年レスした通り(anond:20210505191016)。
その上で、重箱の隅として。
フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆である、過度の信頼による放置という男性差別は問題視されづらいのです。
これはまったくフェミニスト側の言い分が正しい。国や社会が個人に過剰な口出しをするのは控えるべきで、可能性を狭める方向の「保護」や介入は言語道断だ。
だから、コロナ禍で女性の自殺率が上がったと騒がれていても、なお男性の方が多く自殺しているのだから、女性の自殺率の上昇は国や社会として気にすべきではない(男女平等に向かっているだけ)ということになるはずなんだけど、なぜかフェミニストはこれに騒ぎ立てたんだよな。あいつらわけわからん。
(男女問わない包括的な自殺防止プログラムはあってよいという意見もあるかもしれないけど、著名人の自殺報道に関してWHOのガイドラインとやらを振りかざして表現規制しようとしてくる連中が大勢湧いてくる現状ではどう考えても過剰な自由の統制にしかならないので反対。経済の好転とか、闇金の取り締まりとか、学校教員を増員して各学級に副担任を必ず配置するとか、学級を固定せず流動的にすることでスクールカーストの発生を抑止するとか、そういう間接的に自殺を減らす方向での対策を行うべきだ)
しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ。男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分も男だから、自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります。
個人が何を警戒するかはそれこそ自由なので、男を警戒する女がいてもよい。もちろん、それに対してこちらが配慮する必要もないので、男は堂々と夜道を歩けばよい、というのが俺の結論。
俺は夜道で前を歩くのが男か女かで対応を変えたりしない。向かっている方向が同じならそのまま後ろをついて歩くし、歩くの遅いなと思ったら追い越すし、目の前でエレベータが閉まりそうになっていたら「待ってください」と声をかけて同乗しようとする。これらはすべて前を歩くのが男なら当たり前のことなのだから、女に対しても同様の対応をするだけだ。
そこで女側の言い分を聞いて「怖がらせてしまうと申し訳ないな」などと思うのがアホらしいと思う。何を怖がるかは個人の勝手だが、普通に歩いていただけで怖がられたとしても怖がられた側に一切の倫理的責任はない。「私は青いシャツを着ている人が怖いんです」という弱者がお前の街にいたら配慮するのか? バカバカしい。そんな感情は怖がる側の責任でどうにかしろ、以外の言葉がない。
なので、
私の主観的な意見としては、消極的自由を重視して積極的自由には疑問を持っている思想なので、保護よりも自由、安全よりも可能性を男女ともに重視する方がよいと思っています。
という結論には大賛成だ。俺は男女平等を強く信じている。女は男並みに扱われるべきだ。一人前の人間に対する過剰な保護は要らない。もっと自由で平等な社会にしていこう。
男性が受けている差別として重要だと私が思うのは、警戒されることと、信頼という名目で粗末に扱われることです。
男にも女にも、男は警戒すべき存在だという感情がうっすらとあります。
同時に、男性だったらほっといても大丈夫だろう、という肯定的な信頼の形をとって、男性のことをろくに気遣う必要はないとされがちです。
だから、世間話でもマスメディアでも、男性への警戒や、過度の信頼による雑で粗末な扱いが平然と行われています。
それが積み重なった結果として男性は、敬遠されて孤独な人生になりやすく、自尊心も低く、自分たち男性自身への嫌悪も生まれ、自分の事すら粗末に扱い、次世代男性もそのように扱うので引き継がれる、などの被害を負っています。
「保護と抑圧は地続きなのでバランスが大切だ」という話をよく目にしますが、同じように、信頼と放置も地続きなのです。
家父長制は、自立したい女性にとっては抑圧という差別だけれど、自立を望まない女性には保護を受けやすいというメリットとしても働く。
それを裏返したように、男の自由放任は自立できる強者男性にとってはメリットだけれど、弱者男性にとっては助けてもらえないし悲鳴も無視される差別として働いています。
若者が遭遇しやすい実例として、バイトやサークル活動が長引き、夜になってしまった場面を考えましょう。
これは、男性の方が不安や心配事が少なく、お節介な干渉もされず自由に生きやすいというメリットととらえることは確かにできます。
しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ。男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分も男だから、自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります。
実際は、男性でも深夜に一人で帰ることに恐怖を感じる人がそれなりにいるのですけどね。
でも、女性の帰り道は心配されるが男性はそうではないという現実と向き合うたびに、「ああ、俺の夜道への恐怖は認識すべきでない感情なのだ。むしろ俺は怖がる側ではなく怖がらせる側なのだ」という方向へ矯正され、やがて本当に自分でも自分の不安や恐怖に気づけなくなります。
しばしば指摘される中高年男性の自分語りの下手さや、困りごとをうまく伝えられずかんしゃくを起こす傾向などは、彼らが自分の苦痛や不安を認識する能力を社会に破壊されているからでしょう。まして適切な言語化などできるわけがありません。
他にも色々な場面で、不安を感じてないことを前提とした粗末な扱われ方を重ねて、男性は自分に対しても他人に対しても鈍感にさせられていきます。
たとえばトイレ。
男だったら道端で立ちションしても大目に見られがちという自由は、性器を露出し排泄を見られたくない感情を気遣ってもらえないという粗末な扱いでもあります。(道端は許されないと思うならハイキングや海釣りや森林浴を想定してください)
不安や羞恥を感じていた男児も、「その辺でおしっこ済ませてきな」と言われたり、仕切りのない小便器や、女性が清掃に入ってくるトイレを使ううちにその弱さを鈍麻させ忘れてしまいます。
この言葉はおおむね好意や信頼の表れですが、同時に「男の人は一人でも不安になる必要はないよね、あなた自身が男の人なんだから加害者である男と戦えるもんね」という扱いでもあります。
一人で行動しても口を挟まれない自由の反面、一人は心細いという男性の感情は最初から考慮されていない。
このような扱いに触れ続けることで、「俺は男だから不安になる必要はないんだ」と自分を勇気づけ、痩せ我慢することが癖になります。
夜道にせよ、トイレにせよ、一人行動にせよ、成人男性に直接聞いてもたいてい「いや全然平気だが」と言うだけでしょう。
最初から平気な男性と、鈍麻し平気にさせられた男性と、本当は平気じゃないが痩せ我慢している男性を区別することは本人にすら困難です。
この論法は「たとえ当事者が男性差別を否定しても、それをそのまま受け取るべきではない。男性差別は存在する」という無敵論法っぽくなるので好きではないロジックですが、そう言わざるを得ない。
ネットでは、男性はセルフケア能力が低い、まずは自分を大切にすべきなのにそれをしようともしない、などという話も多くなっていますが、男性のセルフケア能力の低さは数十年にわたる「男性は自由に行動してよい反面、粗末に扱ってよい」という経験の積み重ねによるものであり、決して男性個人に責を負わせるべきでも、自己解決を求めるべきでもありません。
セルフケアに焦点を当てるならば、社会によって損なわれた男性個人のセルフケア能力を育て直すため、社会が反省して手厚く協力してあげよう、という話になるのが妥当でしょう。
しかし現状の男性セルフケア論では、セルフケアというスローガンと丁寧な暮らし雑誌は与えてやるのであとは自分で(せいぜい弱者男性内部で)上手くやって成長しろ、社会は手を貸す気はないぞ、という正反対の切り捨て論になっています。
男同士で友人を作っても、それは楽しさや得意分野を分かち合うには向いていますが、弱みを見せ合い癒し合うことには向いていません。「今日はパーっと遊んで嫌なことは忘れちまおうぜ」のような会話がその典型です。
男性が警戒され、気遣ってもらえない原因には合理的理由がある、という反論はできるでしょう。
腕力の強さ、性欲や暴力性の強さ、外見の悪さ(体毛が濃く皮脂が多く禿げやすいなど男性ホルモンが外見に与える悪影響は多い)、コミュニケーション能力と共感能力の低さ、など。
しかし、そのようなある程度の合理性があったとしても、統計的差別であることは間違いありません。
統計的差別はどの程度まで許されて良いか、というのは難しい問題なので、別に論じる必要があります。
そして、フェミニズムと弱者男性論の共闘が難しいのはここが主な原因でしょう。
「性犯罪は男性から女性への加害が多い(犯罪全体では男性が被害者になる方が多いですが)」「腕力が強くて制止が困難」「妊娠リスク」など様々な事実に基づき男性に対する統計的差別をどの程度認めるべきか、フェミニズムと弱者男性論は真っ向から対立しています。
統計的差別は一切許されるべきでないと言い切る人も時々いますが、それはどの陣営であっても非現実的でよくないと思います。
もっとも「社会を運営するにはマクロ視点の統計的差別が必要なことは認めるけれど、その加減を考えましょう」とかぬるいことを言ってると、確かにそうだね考えなきゃねとは言ってもらえても実態は現状維持が続くだけであり、統計的差別を一切許すな!と極端なこと言って圧を掛ける方が新規分野の社会運動としては実を結びやすいんでしょうけどね……。
今までも男性差別については、男性は加害者として認められやすく被害者として認められづらいという内容でしばしば語られてきましたが、たいてい注目されるのは女から男への悲惨なセクハラや暴力事件がほとんどです。
それも由々しき問題ですが、男性差別の根底にあるのは、もっと日常的でうっすらとした「男ならまあ平気だろ。ほら、やっぱり平気だった」という日々の積み重ねではないでしょうか。
特に、「男性なら大丈夫」という信頼により粗末に扱われる場面は見過ごされやすいと思います。
フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆である、過度の信頼による放置という男性差別は問題視されづらいのです。
「女子供は弱いから保護して指示してあげなきゃね」という慈悲的差別に対して、男性が受けやすい「男は大丈夫だろうから心配する必要もないし勝手に自立しててくれ」という扱いは、信頼的差別などと呼べそうです。
この記事は、これまで弱者男性論で強調されてきた、人間関係や恋愛や経済やジェンダーロール面の困難や、弱者男性の存在自体が不条理に否定される、などの論点と対立しません。
警戒されつつ粗末に扱われることは、親しい人間関係や恋愛関係のハードルを上げます。
経済的貧しさについては、一般的な貧困問題に加えて、男性は公的にも私的にも助けてもらいづらいし、そもそも助けを求める能力が社会により破壊されている点に、男性特有の困難があります。
男性ジェンダーロール問題とくくられるような、男なんだから泣くなしっかりしろと言われるとか、責任を負わされるとかは、「信頼の名目で粗末に扱われる」部分です。
弱者男性論自体があまり聞く耳を持ってもらえないしミソジニストとすら言われることや、困ってると認めてもらえなかったり、困っててもそれは受け入れるべき部分だと言われることなども、「信頼してるという名目で粗末に扱われる」の一種ですね。
また、「男性にも弱者がいることは分かったけど、結局どうなることを求めてるんだ、要求を出してくれ」という問いがありますが、運動として歴史の浅い弱者に、的確な要求をする強さをいきなり求めないでください。
現時点では、「どうなったらいいかを、男性に肩入れしつつ一緒に考えてくれる人が増えるのが望みです」としか言えません。
少なくとも私は、男の乳首も露出NGにしろとか、男性トイレもすべて個室にしろとか、芸人のちんちんポロリシーンやハゲネタはダメだとか、「男の人がいると安心」はハラスメントだから許すなとか、そういう短絡だったり個別的すぎる議論にはしたくありません。
男女平等に近づけることには合意されるとしても、男性も女性くらいに保護する方向と、女性も男性くらいに放任する方向では、目指すものは大きく変わるでしょう。
細かな調整が必要な問題ですから、今はまだ最終要求を問われてジャッジを受けるほど議論が深まっていません。
あくまで私の主観的な意見としては、消極的自由を重視して積極的自由には疑問を持っているので、保護よりも放任、安全よりも可能性を男女ともに重視する方がよいと思っています。
人間に限らず生物が「男性的な物、強そうな物、醜い物」へ抱く警戒と嫌悪は途方もなく根深いので、男性もケアされる男女平等の実現可能性は絶望的であり、女性も雑に扱われる男女平等の方がまだ実現可能性があるだろうという予想のせいでもあります。
本エントリの書き方だと皆が保護される平等を求めているように見えるかもしれませんが、私個人はそれが実現しそうにないと絶望しているので、皆が放任される平等を目指した方がマシだと感じている、ということです。この絶望感をぬぐえるならぬぐっていただきたい。お前にサン(son)は救えるか!
【追記】
母親と妻、そして「女をあてがえ論」についても書きました。
『男性が母と妻にだけ弱さを晒そうとするのは、皆に原因があります(anond:20220909191646)』
今日もクソゆとりが承認欲求満たすためにネットで説教かましててほんとクソ
https://twitter.com/moooooqooooo/status/1561727500622802951
#拡散希望︎
文化祭でダンボール必要なの分かりますが、店員に相談せず、ダンボール置き場から全て持っていくのは困ります。
今日は10人くらいで学生がきて、1人当たり、厚さ15センチのダンボール持ち去っていきました。
その後も5人くらい学生が
さすがに他のお客様が使うダンボールがなくなるので、「もう持っていかないで」とお願いしましたが、睨んで無視されて、持っていきました。。。
無断で大量に持っていくことが、他のお客様のご迷惑になっていることを理解していただきたいです。
大きすぎて使い物にならず、廃棄するものもあるかもしれません。
まずは、お店に相談してください。
などにより30代ゆとり女である可能性は9割超えてるため、以下ゆとりとして扱う。)
こいつが犯してる罪は3つ
・過度な一般化
まず、守秘義務違反だが、仕事上で知りえたことを勝手にツイートすんなよ。
役員や店長でもない上に、店の内情やら客の動向を非公式な手段で勝手にバラすってコンプラ意識ゼロか?
あったまわるいな~。
次に過度な一般化だ。
こいつの見解では、「段ボールをたくさん持ってくのは悪」だそうだが、それは全スーパーで共通の見解なのか?
こいつが姑息にもどこの、なんてスーパーのことか書かないから(まあ、書いたら即クビだろうが)、まるで全ての店で許可取りが必要かのように見えてしまう。
というか、そもそも「段ボールをたくさん持ってかれて困る」って意見はこの一レジ打ちの個人的見解に過ぎず、上司に確認したわけでも、店長や会社の方針を踏まえたものでもなさそう。
このツイートが標的にしているのは高校生や教師、学校なので、間違いなく「最近の若者は・・・」とか、「教師は社会経験がないから・・・」とかのクソみたいな流れを作り出す。
それはこの世のすべての高校生や学校、教師に対して要らぬ風評被害を招くことであり、年齢差別、職業差別の元凶を生み出すことでもある。
また学校だけでなく、スーパーへの風評被害も招く。事の成り行きによっては裁判沙汰になったり、警察沙汰になる恐れもある。
碌なことにならない。
こいつが取るべきだった適切な対処は、まず問題が起こったなら上司に報告する、その際に有用な対策を提案する(たとえば店内に掲示物を張り出すであったり、学校に相談・苦情を申し入れるであったり)、そのうえで判断を仰ぎ、その決定に従って粛々と業務を遂行すること、だろう。
承認欲しさに客の悪口をツイートするのは最悪だ。無駄に事を大きくするな。
あんたがたまたま住んでる地域の、あんたがたまたま働いている職場の話を、全世界に向けて発信して、全世界の問題とすることに何の意味がある?
事を大きくするリスク(前述の風評被害のくだり)と得られるリターン(段ボールがなくならなくなる(笑))が明らかに見合ってない。
一介のレジ打ちの分際で、会社の今後を左右しかねない行動を無断でとるのは完全にアウト、バイトテロだ。
にもかかわらず、
にもかかわらず、
ネットにどっぷりつかったコイツと同世代のゆとりどもがコイツみたいなやつを咎めることなく放任、増長させるから、同じような奴が次から次へと出てくるんだよな~。
子供の頃は、両親とも毒親気味だったのもあって、産んだら責任持てよ、とか
てめーらの性欲の都合で何人も産んでんじゃねーとか思ってた
父は自分勝手な放任、母は自分の理想を子供に押し付ける気○いスパルタDV精神疾患持ちだった
そう考えると、父が自分の気に入らないことをしたらどつきまわすがそれ以外ではほとんど干渉してこなかったことが当たり前に思えた
子育て中、1~2年はキツイけど、新しいイベントも多いし、人生ってやつを消化してると、疑問に思わなかったが、幼稚園~小学校入学ぐらいになって
なんか思ってたのと違うとなった。特に目新しいイベントもなくて飽きてきたし、子供の制御が難しくなってくる
これをなんとか自分の引いたレールに乗せようとすると、母のタイプになる(色々強弱はあれど)
なんとなくの責任は感じてるから惰性で子育てしてるけど、親の気持ちって多分こんなもんだろう
そんなに可愛く思えないで、放置するか、
うちの両親は極端だったけど、嫁は発狂寸前になってるし、増田は世間体とか惰性でしか子供の面倒みれてないし
みんな多かれ少なかれこんな感じでだましだましやってる。
世の中には飛び級で修士や博士を取る猛者もいるけど、研究のペースなんて人それぞれなんだから、自分のペースで納得いく研究をした方がいいよ。
私の周囲には、ボスが厳しくて5年在籍して博士号がやっと取れた人や、妊娠出産などライフイベントがあって4年で取得した人、定期的にメンタルがやられて4年で出た人、などなど3年以上在籍で博士号取った人がたくさんいるので、在籍年数はさほど大きな問題ではないと思ってるよ。
増田のように、研究の遅れに加えて経済的な事情もあって、1年休学して翌年に取得した人もいる。1年働いてお金を貯めて、休学中に論文書いていた。多少の実験であれば、ボスのはからいで許されていたらしい。国立だったので休学中の学費は免除されていた。
研究計画性が最も重視される研究機関(理研とか)に就職したいのでないなら、在籍年数よりも研究の内容を大事にしよう。アカポスの面接は研究者なんだから、研究内容の面白さを重視する人が多い。だからこそ論文は在籍年数よりも優先順位が高い。
私の周囲にも、ボスが放任過ぎて、博士課程に6年在籍したのに博士号取れなかった人がいる。彼はうちのラボに来てテクニカルスタッフやってたけど、再就職もうまくいって今は他大学でベンチャーの職員をしているよ。
アカポス以外の道もたくさんあるよ。DC1取ったけど、その後にアカポス行けなくて、弁理士の資格取って働いている人もいるし、アカデミアは肌に合わないから数年でやめて、ラボの共同研究先に就職した人もいるよ。
才能がある人が多い世界ではあるけど、凡才だけど研究が楽しいから続けてる人もいるよ。あと一部の突出した才能の持ち主以外、アカポスにつけるかどうかは運。
今、増田は疲れがピークに来ているから、人生について悲観しちゃうと思うの。1週間でも1か月でも休んで、疲れをとってくれ~~