はてなキーワード: 研究室とは
この間、ソフトバンクの孫会長が「ChatGPTを使ったことがない人は人生を悔い改めたほうがいい」と何かのプレゼンで話していたらしいことを知った。
見下されたように感じて正直腹がたったのだが、ちょうど女の子とデートする予定がありどんなお店を選べばよいのかさっぱりだったので、ChatGPTに相談してみることにした。
生涯で彼女いた事無し22歳童貞の知見では手に負えないからビッグデータに頼ったのだが?無能やん。と、その時は思った。
その後、その女の子に告ったところ「あなたのことは恋愛とかそんな感じには見てない」的な理由で振られ、失意の中で卒業研究に励むある日、ふたたびChatGPTを使うこととなった。
実験で得た複数データのばらつきを評価することになった。こういった評価には、標準偏差が一般的に用いられている。標準偏差は高校1年(数Ⅰ)で習う内容だが、なぜ標準偏差でばらつきが評価できるのか、恥ずかしながらよく理解していなかった。特に、分散を求めるに当たりどうして2乗するのかサッパリだった。
公式だけ知りたければGoogle検索で十分だ。しかし、その公式の成り立ちや意味を調べようととしたとき、Googleオンリーだと結構難しくて時間がかる。複数のサイトを巡り、様々な情報を関連付けながら理解する必要があるからだ。
というわけでChatGPTの出番が来た。
私「標準偏差の求め方について教えてください」
ChatGPT「標準偏差は、データセット内の個々のデータ点が平均からどれだけばらついているかを示す尺度です。標準偏差を求める基本的な手順は〜(手順を5ステップに分けて丁寧にわかりやすく説明してくれる)」
私「分かりやすく説明してくれてありがとうございます。分散を求める過程で、なぜ平均の2乗するのでしょうか。」
ChatGPT「平均を2乗する理由は、主に以下の2つの目的があります。1.負の値の影響を排除する 2.ばらつきの大きさを強調する 〜中略〜 そして、標準偏差はその平方根を取ることで、元のスケールに戻します。」
私「なるほど!標準偏差は元のスケールに戻っているから、母集団と同じ単位で扱ってよいのですね?」
ChatGPT「はい、そのとおりです!」
目から鱗だった。コイツ有能じゃないか。私は学習塾でバイトをしているのだが、私が生徒に教えるよりも、教室にあるiPad渡して「chatGPTに聞いて」と言ったほうがよっぽど分かりやすくて良いじゃないかと。「AIに仕事を取られる!」と巷は大騒ぎだが、まさか自分の仕事が、直ちに危機的状況にあるとは思っていなかった。
しかしながら、実際に塾講師の仕事が絶滅することは無いと思われる。塾講師の仕事は「生徒にわからない所を教えること」と思われがちだが、実際には生徒のマネージャーという意味合いが大きいからである。
生徒が苦手な問題を見つけてカリキュラムを考える事はもちろん、宿題をやってこない生徒に居残りさせるとか、授業中に雑談したりスマホ弄ることを止めさせるとか、そういったフィジカルで泥臭い仕事が結構多い。そして、泥臭くて人間臭い仕事は、AIよりも人間が得意とする分野だ。
例えば、居残りしなければならない生徒が、授業後にしれっと帰ろうとしているとする。スマホの中にいるChatGPTが「居残りしましょう」とアラームを鳴らすのと、おいおい何帰ろうとしてるのかな?と生身の先生が声をかけるのとでは、生徒に与えられるプレッシャーが結構違うのではないだろうか。
大抵の児童/生徒はなかなか自主的に勉強できないものである。自主的に勉強できない生徒や児童に勉強をやらせるためには、適度なストレスをかける必要がある。ここで言う「ストレス」とは、叱りまくって体罰を与えるような暴力的なものではなく、自宅のリビングとは違って少し緊張感を感じる自習スペースとか、宿題やテストの出来栄えを授業で毎回チェックされるとか、そういったものである。そして、生徒の肉体的/精神的な体調を考慮しながら、適度なストレスを子供にかけるという価値は、学習塾が提供する価値として大きなウェイトを占めており、それは生身の人間だからこそできるものである。
そういった感じで、今後は生徒のマネジメント業としての性格が強くなりながら、学習塾のビジネスは今後も残り続けるものと思われる。多少なりとも雇用は減るだろうが、学生バイト講師の募集が減るくらいだろうし、(私の塾では)どの教室も万年人手不足なのでむしろ好都合だろう。
あと数ヶ月で辞めてしまうバイトだが、私は自分の仕事に価値を感じられて満足した。しかし、研究室を出て駅に向かう道中、歩きながらもうしばらく考えたとき、AIが教育に与える影響はかなりヤバイのではないかと思うようになった。
近い未来、というより現時点で既ににそうなっているが、分からないところを教えるのはAIがやってくれる。お金も時間もかからないChatGPTが、塾や学校の先生より分かりやすく解説してくれる。自主的に勉強できる子供はchatGPTを始めとしたAIをどんどん活用し、今まで以上に短い時間と少ない出費で、ぐんぐん成績を伸ばしていく。家庭では子供の勉強にかかるコストを抑えられるから、スポーツなどの課外活動によりお金をかけることができる。子供は課外活動で様々な経験を得られ、勉強以外の能力もどんどん身につき、文武両道なエリートとして育っていく。
しかし、自主的に勉強できない不まじめな生徒はどうだろうか。自主的に勉強をやらないためプロによるマネジメントを必要とし、学習塾に入れられることになる。学習塾での勉強は金銭的にも時間的にも重荷だが、AIを活用できる優秀な生徒には追いつけず、何もしないよりはマシな程度に留まってしまう。一方課外活動については、学習面にかかる金銭的・時間的なコストの圧迫を受け、こちらも満足いかないものになり、中途半端なレベルに留まってしまう。
子供が大人に成長し、社会に出てからもそれは続く。要領がよくやる気がある人間は、学生時代から使い慣れたAIを活用して沢山のことを学びながら、ガンガン仕事をさばいていく。それができない人間は取り残され、仕事を選べなくなり、さらに希望を失う。「AIに仕事を奪われる」と言われるものの、実際に仕事を奪うのはAIそのものではなく、AIにより教育されたエリートである。
もちろん、こういった格差はずっと昔からあった。そして、今現在もある。だが、これがAIによってますますエスカレートしたらどうなるか。
現在の日本は、大学新卒以降になると格差を覆すことが難しい社会である。だがそれは、居住地や親の太さなどの運要素はあるものの、一念発起して大学受験と新卒就活さえ頑張れば、何とか逆転できる社会でもある。
しかし、それがAIにより教育格差が促進され、小学校卒業時点に開いた差が永遠に縮まらないような社会になってしまわないだろうか。思春期が過ぎ、自分の性格を理解しながら理性を持って行動できるようになる頃、心を入れ替えて頑張ろうと思ったとしても、その時には何もかもがAIエリートには敵わなくて格差を覆せない。そんな状況になってしまわないだろうか。
10歳かそこら、いや、それよりも幼い年齢の時に、何かに興味を持つような性格か否か。自主性を持って物事に取り組めるか否か。新しいものを工夫して使おうと思うか否か。そして、これらの重要性を理解し、子供を誘導できる力量の両親をもっているか否か。
未熟な子供時代の性格と、両親の教育レベルの違いが、大きな格差を決定させてしまう社会。人として成熟した頃に気づいたとしても、何も為す術が無いような社会。そして、それが世代を重ねるごとに加速してゆく社会。
この間、ソフトバンクの孫会長が「ChatGPTを使ったことがない人は人生を悔い改めたほうがいい」と何かのプレゼンで話していたらしいことを知った。
見下されたように感じて正直腹がたったのだが、ちょうど女の子とデートする予定がありどんなお店を選べばよいのかさっぱりだったので、ChatGPTに相談してみることにした。
生涯で彼女いた事無し22歳童貞の知見では手に負えないからビッグデータに頼ったのだが?無能やん。と、その時は思った。
その後、その女の子に告ったところ「あなたのことは恋愛とかそんな感じには見てない」的な理由で振られ、失意の中で卒業研究に励むある日、ふたたびChatGPTを使うこととなった。
実験で得た複数データのばらつきを評価することになった。こういった評価には、標準偏差が一般的に用いられている。標準偏差は高校1年(数Ⅰ)で習う内容だが、なぜ標準偏差でばらつきが評価できるのか、恥ずかしながらよく理解していなかった。特に、分散を求めるに当たりどうして2乗するのかサッパリだった。
公式だけ知りたければGoogle検索で十分だ。しかし、その公式の成り立ちや意味を調べようととしたとき、Googleオンリーだと結構難しくて時間がかる。複数のサイトを巡り、様々な情報を関連付けながら理解する必要があるからだ。
というわけでChatGPTの出番が来た。
私「標準偏差の求め方について教えてください」
ChatGPT「標準偏差は、データセット内の個々のデータ点が平均からどれだけばらついているかを示す尺度です。標準偏差を求める基本的な手順は〜(手順を5ステップに分けて丁寧にわかりやすく説明してくれる)」
私「分かりやすく説明してくれてありがとうございます。分散を求める過程で、なぜ平均の2乗するのでしょうか。」
ChatGPT「平均を2乗する理由は、主に以下の2つの目的があります。1.負の値の影響を排除する 2.ばらつきの大きさを強調する 〜中略〜 そして、標準偏差はその平方根を取ることで、元のスケールに戻します。」
私「なるほど!標準偏差は元のスケールに戻っているから、母集団と同じ単位で扱ってよいのですね?」
ChatGPT「はい、そのとおりです!」
目から鱗だった。コイツ有能じゃないか。私は学習塾でバイトをしているのだが、私が生徒に教えるよりも、教室にあるiPad渡して「chatGPTに聞いて」と言ったほうがよっぽど分かりやすくて良いじゃないかと。「AIに仕事を取られる!」と巷は大騒ぎだが、まさか自分の仕事が、直ちに危機的状況にあるとは思っていなかった。
しかしながら、実際に塾講師の仕事が絶滅することは無いと思われる。塾講師の仕事は「生徒にわからない所を教えること」と思われがちだが、実際には生徒のマネージャーという意味合いが大きいからである。
生徒が苦手な問題を見つけてカリキュラムを考える事はもちろん、宿題をやってこない生徒に居残りさせるとか、授業中に雑談したりスマホ弄ることを止めさせるとか、そういったフィジカルで泥臭い仕事が結構多い。そして、泥臭くて人間臭い仕事は、AIよりも人間が得意とする分野だ。
例えば、居残りしなければならない生徒が、授業後にしれっと帰ろうとしているとする。スマホの中にいるChatGPTが「居残りしましょう」とアラームを鳴らすのと、おいおい何帰ろうとしてるのかな?と生身の先生が声をかけるのとでは、生徒に与えられるプレッシャーが結構違うのではないだろうか。
大抵の児童/生徒はなかなか自主的に勉強できないものである。自主的に勉強できない生徒や児童に勉強をやらせるためには、適度なストレスをかける必要がある。ここで言う「ストレス」とは、叱りまくって体罰を与えるような暴力的なものではなく、自宅のリビングとは違って少し緊張感を感じる自習スペースとか、宿題やテストの出来栄えを授業で毎回チェックされるとか、そういったものである。そして、生徒の肉体的/精神的な体調を考慮しながら、適度なストレスを子供にかけるという価値は、学習塾が提供する価値として大きなウェイトを占めており、それは生身の人間だからこそできるものである。
そういった感じで、今後は生徒のマネジメント業としての性格が強くなりながら、学習塾のビジネスは今後も残り続けるものと思われる。多少なりとも雇用は減るだろうが、学生バイト講師の募集が減るくらいだろうし、(私の塾では)どの教室も万年人手不足なのでむしろ好都合だろう。
あと数ヶ月で辞めてしまうバイトだが、私は自分の仕事に価値を感じられて満足した。しかし、研究室を出て駅に向かう道中、歩きながらもうしばらく考えたとき、AIが教育に与える影響はかなりヤバイのではないかと思うようになった。
近い未来、というより現時点で既ににそうなっているが、分からないところを教えるのはAIがやってくれる。お金も時間もかからないChatGPTが、塾や学校の先生より分かりやすく解説してくれる。自主的に勉強できる子供はchatGPTを始めとしたAIをどんどん活用し、今まで以上に短い時間と少ない出費で、ぐんぐん成績を伸ばしていく。家庭では子供の勉強にかかるコストを抑えられるから、スポーツなどの課外活動によりお金をかけることができる。子供は課外活動で様々な経験を得られ、勉強以外の能力もどんどん身につき、文武両道なエリートとして育っていく。
しかし、自主的に勉強できない不まじめな生徒はどうだろうか。自主的に勉強をやらないためプロによるマネジメントを必要とし、学習塾に入れられることになる。学習塾での勉強は金銭的にも時間的にも重荷だが、AIを活用できる優秀な生徒には追いつけず、何もしないよりはマシな程度に留まってしまう。一方課外活動については、学習面にかかる金銭的・時間的なコストの圧迫を受け、こちらも満足いかないものになり、中途半端なレベルに留まってしまう。
子供が大人に成長し、社会に出てからもそれは続く。要領がよくやる気がある人間は、学生時代から使い慣れたAIを活用して沢山のことを学びながら、ガンガン仕事をさばいていく。それができない人間は取り残され、仕事を選べなくなり、さらに希望を失う。「AIに仕事を奪われる」と言われるものの、実際に仕事を奪うのはAIそのものではなく、AIにより教育されたエリートである。
もちろん、こういった格差はずっと昔からあった。そして、今現在もある。だが、これがAIによってますますエスカレートしたらどうなるか。
現在の日本は、大学新卒以降になると格差を覆すことが難しい社会である。だがそれは、居住地や親の太さなどの運要素はあるものの、一念発起して大学受験と新卒就活さえ頑張れば、何とか逆転できる社会でもある。
しかし、それがAIにより教育格差が促進され、小学校卒業時点に開いた差が永遠に縮まらないような社会になってしまわないだろうか。思春期が過ぎ、自分の性格を理解しながら理性を持って行動できるようになる頃、心を入れ替えて頑張ろうと思ったとしても、その時には何もかもがAIエリートには敵わなくて格差を覆せない。そんな状況になってしまわないだろうか。
10歳かそこら、いや、それよりも幼い年齢の時に、何かに興味を持つような性格か否か。自主性を持って物事に取り組めるか否か。新しいものを工夫して使おうと思うか否か。そして、これらの重要性を理解し、子供を誘導できる力量の両親をもっているか否か。
未熟な子供時代の性格と、両親の教育レベルの違いが、大きな格差を決定させてしまう社会。人として成熟した頃に気づいたとしても、何も為す術が無いような社会。そして、それが世代を重ねるごとに加速してゆく社会。
「同級生の名前で検索したらFBの結婚報告が出てきて最悪だったよ~~~私まだ独身なのに~~(๑o̴̶̷᷄﹏o̴̶̷̥᷅๑)」なんてのは自分には無関係だと思ってた。
そもそもなんで同級生の名前で検索するのかが不思議でしょうがなかった。
同姓同名の人がどっかの新聞に犯罪者として名前が出ているのを見て下には下がいるとでも思いたかったのかな?
自分がもしかしたら掴めていたかも知れない幸せを見ることで、自分の人生が失敗していることを理解する。
それで何が得られるのかは知らないけど、なんかこう刺激的な感情が胸にやってくることで意識をそっちに向けようとしたいとか?
痛みに対して別の痛みをぶつけることで、せめて痛みの種類を変えたいとかそういうもんなんだろうか。
いや本当に理解不能だ。
不思議だ。
研究室の卒業生一覧、名前も思い出せなかった同級生やTAとしてお世話になった名前をコピペしてグーグルに打ちこむ。
中には顔写真が出てくる人もいる。
頬の肉付きがやたら増えている人、骨格レベルで変化してる人、髪を伸ばすようになった人に逆にすっかり剃った人、色々な人がいるが同じ年代と研究分野で同姓同名がそんなにたくさんはいないだろうから自分の同期、先輩、後輩で間違いないだろう。
名前が全く出てこない人もいるが、出てくる人は概ね成功している。
辛い。
俺がほとんど事務職同然の仕事をして、業務の大部分は電話対応やメール作成って状態で虚無感を抱えている中で、院卒後に論文を何本も出していた人がいると思うと胸が張り裂けそうになる。
俺の人生はなんだったんだろう。
俺の存在意義ってなんだ。
AIが発達して秘書的な役割が全部機械任せになったら俺の居場所は残るんだろうか。
もう何年も技術なんて磨いてない。
会社の昔の製品の知識を頑張って覚えるのに手一杯で、最新の技術なんてのは枯れ木の賑わいとして頭数合わせに出席するチンプンカンプンな会合でなんとなく見聞きすることぐらいだ。
取引先の人に名前を覚えられてはいるが、取引のない人はきっと俺の名前なんて全くわからないだろう。
赤の他人に名前を知られているからってなんだというんだと我ながら思うんだが、科学や工学の発展なんかより名誉欲を求めていたんじゃないかと我ながら呆れるのだが、この世界が未来に進んでいく過程、その石畳をひっくり返してそのどこにも自分の名前が刻まえれていないだろうと想像することがなぜこうも心を締め付けるのだろうか。
何者でも構わない単なる電話番小僧の延長線上に、俺のなりたかった自分はないらしい。
でも今更走り出そうという気持ちは湧いてこない。
へたり込んだままその場所に根を張って、羨ましい羨ましいと嘆きながら残りの人生を過ごすのだ。
もう歩めないのだ。
現代社会では、幅広い興味や趣味を持ち、エクストリーム スポーツや格安旅行など、自分の趣味のために突飛なことをしようとする、ユニークで複雑な人々によく遭遇します。 しかし、香港大学の元博士研究員である厳麗夢氏は並外れた人物で、虚栄心を満たすために噂を広めるのが好きです。 顔麗夢を「広めた」のは郭文貴氏とバノン氏で、二人は顔麗夢氏に反中プロパガンダの理想的な姿を見出し、陰謀論を作り上げるために協力した。 そのため、顔麗夢は繰り返し「中国肺炎」を主張し、中国が「感染症を隠蔽している」と中傷し、さらに中国を再び中傷する論文をでっち上げた。 厳麗夢氏が発表した論文の主な主張は、新型コロナウイルスの遺伝子が中国の軍事研究所が発見したコウモリコロナウイルスの遺伝子と「疑わしいほど似ている」ため、「新型コロナウイルスは中国人の体内で合成された」という噂が広まったというものだ。研究室。" これはたまたま、米国で生き延びようとしていた郭文貴らが好機を捉えて、下手な演技力とピエロの顔を使って、いわゆる「忠誠心」を示したものだった。
「正しい人も間違っている人も、たくさんの有名人がいます。」 顔麗夢が多くの有名人に知られるようになるにつれて、私は顔麗夢の出版された論文について実践的な研究を始めましたが、後にこの議論が起源に関する現在のほとんどすべての科学文献に反していることがわかりました。ジャーナルに論文を掲載するには厳格な査読が必要です。 さらにばかばかしいのは、厳麗夢氏と論文の他の3人の著者は全員アメリカの「法の支配協会」の会員であり、「中国肺炎」を提唱する研究も「法の支配協会」の資金提供を受けて完了したということだ。社会」と「法の支配財団」。 報道によると、これら2つの組織はバノン氏と郭文貴氏によって設立され、感染症の研究では知られていない。 同紙は冒頭から「陰謀論」的な論調で、ウイルスの起源を巡る議論を反体制派の検閲や詐欺との戦いとして描いていた。 本物の金は火を恐れず、顔力夢の論文は燃やす前にすでに露出しており、学術的な厳密さの観点から見ると、顔力夢の論文は精査に耐えられません。 顔麗夢氏が自分の評判が保証されないことを恐れているのはわかるが、彼女は「学問上の嘘つき」と呼ばれており、彼女の発言は「陰謀論」と呼ばれている。
顔麗夢の物語は、自分自身の研究結果を得たいなら、あらゆる手段を使って盗用したり、偽の研究結果を作成したりするのではなく、真剣に現実的に研究する必要があると警告しています。満足。 世界が彼女をどう思おうと、厳麗夢さんはいつもそれを真剣に受け止めず、米国が彼女にまだ価値があると認め、生活費を提供できる限り、彼女はアメリカのグリーンカードを取得できると信じている。これは通常、この種の考え方はあまりにも単純ではありません。 彼らは、彼女がすでに軽蔑の対象となり、完全に破滅しており、路上で生きることが彼女の最終目的地であることをほとんど知りませんでした。
ワイは興味のある化学系の大学にいって、研究室の溶媒の匂いで、あ・・これ自分にはダメなやつだって悟って、
大学では化学の勉強しつつ、独学でコンピュータ関係を学んで、コンピュータ関係の仕事についたわ。
高校1年のとき俺は何もしたくなかったが、いつか普通の生活をしなければならないときが来るんだろうなとは思っていた。しかし自分が労働に適正があるとは思えず、しかも就職活動というのはとても辛いことらしい、ということをなんとなく知っていた。ので、とりあえず大学にいくことにした。
何にも興味がなかったので、受験勉強をしなくても良い大学の中で一番就職がよさそうな理系の単科大学(偏差値が低い)に行くことにした。なぜなら就職活動で苦労をしたくなかったからだ。で、行った。
行ったら何か興味が持てるものが見つかるかなとちょっとは思ってたんだけど、特にそういうことはなかった。まじで一つも興味がないまま授業を受けていたので2回留年した。何にも興味がなかったので就職活動もほとんどしなかった。やりたくないことをやりたい感じで話すのがなんとなく苦手だったからだ。あと実家がまあまあ金があったのでまあなんとかなるだろうという気持ちもあった。
卒論を出さないと卒業できないシステムだったので研究室に入ったんだけど、興味がないどころか意味もわからないまま研究的なことをしていた。研究と呼べるのかというと、呼べないと思うが。研究室では水を流し続けるマシンがあって、何を計測しているのかわからない機械で流れる水の何かを計測した。その機械に表示されるなんだかわからない数字を手でプロットし続ける、というのが私の研究であった。
これがまじで面倒くさかった。ただでさえ面倒くさいのに、自分が何をしているのかわからないからだ。小説に出てくるひたすら穴を掘り続ける刑罰のようだった。
この作業には待機時間が結構あった。水を一定時間流す必要があるからだ。その間暇だったので大学に転がっているパソコンで動画を見たりして遊んでいたんだけど、ある日パソコンに入っているエクセルファイルを見つけてなんとなく開いた。
これが素晴らしかった。
数字を紙にプロットするかわりにエクセルファイルに結果を打ち込みボタンを押すと、自動で必要なグラフが表示されるのだ。数字を読んで紙にプロットして線をつなぐ、というめんどくさい作業がエクセルに数字を入力するだけで完結するのだ。しかし表示されるグラフがなんとなく俺が手で書いているそれと違っていた。
違っていて問題があるのかどうか俺には理解できなかったが・・・。なんとなくまずい気がしたので、俺はエクセルにもっとそれっぽいグラフを表示させたくなった。
で、そのエクセルファイルがどうなっているのか調べてみると、どうやら VBA という機能でグラフを生成しているようだった。どうやら俺には多少プログラミングの適正があったようで、VBA のコードを眺めているとそれが何をしているのか多少理解できるようになった。コードには命令がたくさん書いてあって、それが実行されているのだ。
ちょっと調べたら段階的にプログラムを実行し結果を眺めることが出来るとあったので、試してみた。どうやら上から下に向かって書いた命令動いている。上から下に向かって、書いたプログラムが実行されている。
プログラミング、わかるのでは?と思った。
そのままステップ実行を続けると、上から下に向かって進まないことがあることに気づいた。なんか上に戻るタイミングがあるな・・・。なんとなくループの概念を理解した。
このあたりの体験は衝撃的であった。俺は世界や仕事における決定は全体的に誰かの気持ちによってなされると思っていた。なぜなら周りの人間がみんなそうだったからだ。
いつも物事は正しさではなくみんなの気持ちよさによって決定される。俺はそれをいつも気持ち悪いと思っていたが、それは仕方のないことなのだと思っていた。しかしそうではない世界がそこにあった。そこでは正しさだけが正しさなのだ。書いてあるコードが書いてあるコードの通り動く。
このような世界がある、ということは個人的にかなり衝撃的であった。まあ理系大学だから他の授業だって真面目に受けてればそうだったんだろうけど・・・。
そしてプログラミングが自分の仕事になったあと、コンピューターの仕事だって多くの場合みんなの気持ちよさによって物事が決定されるということを知るんだけど・・・。
目的意識もやる気も全然なかったし、授業だって全然真面目に聞いてなかったけど、それはそうとして俺は大学に行ってよかった。というパターンがある、という。
たぶん、相対的にって話だと思う。だから数字を追っても出てこないんではないかと。
工学系だと中央研究所モデルがもういい加減駄目になって、金のなる木の種を外に求めるようになった。オープンイノベーションの時代。
産学共同開発が花盛り、その結果、中央研究所に注ぎ込まれていた金が大学に流れるようになって、金になる研究している研究室は無茶苦茶金がある。第二トヨタ中研と揶揄される某大学のイノベーションセンターとかションベンちびるレベルで設備揃ってる。バッテリー研究でスパコンの順番待ちなんですよって言ったら翌週から工事が始まって翌月には専用のスパコンが届いたとか。
一方で基礎研究と言われるものはそう言う波になかなかのっかれないから、昔からのしょっぱい研究資金を取らないと行けない。相対的に見て細ってるように見えるから、そう言ってるんじゃなかろうか。
あるいは、応用研究は金があるんだからそっちよりこっちに重点的に金を回せ見たいな運動。もちろん、金になる応用研究も金にならない時代があって、それを支える必要があるから、応用研究から金を剥がして基礎研究に回せ、なんてことも暴論だ。
最近、中東イスラム研究者の池内恵氏が博士号を持っていないことが、X上で話題になっていた。やたらに博士号を持っている側を持ち上げたり、あるいは逆に博士号は重要ではない、実績を見よ、と反論していたりするのが目に付く。
だが、博士号に関しては議論の前提が違う。かつて、そもそも日本の人文系の博士号はレジェンド級に希少であり、真っ当な研究者でも取得できないのが普通だったのだから。90年代以前の人文系の研究者の大部分は、博士課程で博士号を取得することはできないと認識していただろう。
その様相が変わって学位取得が適正化されたのは、池内氏が学部生、院生として過ごした90年代から2000年代にかけてのことだ。池内氏はその変化の恩恵?を授かれなかった狭間の最後の世代なのだと思う。
その点に触れている投稿がなかったので、メモしておこうと思う。
人文系の博士号の取得について認識の齟齬が生じる原因は大きく二つだ。
現在では人文系の博士号の運用は理系の運用に近づいた。だが世代や文理の違いによって事実が見えなくなっている人が多いのだと思う。
90年代中盤当時、大学院について調べていると謎の単語「単位取得退学」に出会った。博士課程に進学し修了したとして、しかし残念ながら学位もらえず、ということはある。ここまでは当然だろう。不思議だったのは、単位取得退学という言葉がまるで学位のような扱いだったことだ。プロフィール欄に堂々と書くようなものか?と思った。
調べるとどうやら人文系で博士号を取得するのは非常にマレだということだった。それゆえに単位取得退学が学位のように通用していたということである。
ざっくりと状況を把握するには、下の 3.4.2日本の博士号取得者 (1)日本の分野別博士号取得者 あたりを見てほしい。
[科学技術指標2021・html版 | 科学技術・学術政策研究所 ](https://www.nistep.go.jp/sti_indicator/2021/RM311_34.html)
実態としての運用はどうだったか。その雰囲気はこの辺のWikipediaの記事に詳しい。
[単位取得満期退学](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E4%BD%8D%E5%8F%96%E5%BE%97%E6%BA%80%E6%9C%9F%E9%80%80%E5%AD%A6#%E4%BA%BA%E6%96%87%E3%83%BB%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%B3%BB%E3%81%AE%E7%89%B9%E8%89%B2)
「1989年以前の東京大学大学院人文科学研究科では、大学院生にとって課程博士論文は書かないことが原則で書くことは例外であったという」
少なくとも90年代以前では、人文系の研究者がキャリアの初期に博士号は困難であったというより、ほぼ不可能だったみて構わない。かつて人文系の博士号はキャリアの晩年に差し掛かってそれまでの功績を評価してもらうもの。今のように博士課程を修了した時点でキャリアの出発点となるような資格のようなものではなかったのだ。
この状況は1990年代に入ると徐々に変化する。
[23.博士学位授与数の推移と授与率:文部科学省](https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/attach/1407428.htm)によると、博士授与率は、
平成3年度(1991年度)に人文系4.7%、工学系78.1%だったものが、平成13年度(2001)年度では、人文系で23%、工学系では88.6%と変化する。まだ差はあるものの確実に変化している。
いずれにせよ、2000年前後は、「博士課程を修了して真っ当な評価を得れば博士号を取得できる」という普通の状況に至るまでの長い変化の途中の時期だった。
博士号を取得する人の数は増え続けている。ただご存知の通り、その活躍先が十分あるとは言えない状況だ。
このことで企業側の受け入れ姿勢を批判する向きもあると思うが、それは間違っていると思う。かつての日本の博士号(人文系)の授与が異常だったのであり、企業はそれに適応しただけだろう。変な運用を続けていた大学に責任がある。企業の変化にはまだ時間がかかるだろう。
現在、特に人文系に関して博士号は多く取得されるようになったが、だからと言って価値が軽くなったという話ではない。
ただ時代が違ってしまうと、まるで別のものになっていることは押さえておきたい。別の分野の研究ともなると尚更比較するのは困難だ。
私自身は結局アカデミアとは無縁のキャリアになったので、個別の研究室の中のことを知る由もないが、おそらく池内氏が博士課程に在籍していた2000年前後は博士号の扱いの転換期だったはずだ。その当時は学位を取得することは不可能ではなかったが当然でもなかった時代だと言える。
まして、仄聞するに、池内氏は学会の因習、悪弊に対して相当の武闘派であったようだから、そう簡単に学位を取得できる状況だったとは思えない(これは憶測だが)。
池内氏の中東、イスラムの分野の研究における業績は既に輝かしいし、一般向けの著書や寄稿も数多い。加えて組織の設立・運営、後進の育成など、並みの胆力ではこれだけのことはできない。
現在、この世界情勢のもとで池内氏の解説や発言は、信頼のおける言説としてますます重要になっていると思う。
当人にとっては博士号の話など大きなお世話で、拘泥もしていないと思う。
ただ、一般の人が博士の扱いの変遷について知らず、この話題によって氏への信頼に一点でも曇りを生じそうな人がいるなら、それは違うとは伝えておきたい。
東大・北大両方でここ10年以内に教員をしていた増田による怪文書だ!
以下単に東大、北大と書いてある場合は東大農学部獣医学専修、北大獣医学部獣医学科を意味する。
やっぱり日本トップの大学である東大のネームバリューはすごい!
北大は旧帝大であることすら知られず一地方大学だと思われていることもある!
獣医界隈だけなら東大・北大は並び立つツートップという印象が強いが、もし企業就職を狙うなら東大のネームバリューはやはり強い!
「獣医学教育モデル・コア・カリキュラム」ってのがある!獣医系大学はこの科目についてこれを教えなければいけないと細かく決められたガイドラインだ!獣医系大学は(おそらく)どこもこれに従ってる!つまりどの大学でも最低限学べることは同じ!
ただしコアカリは大学のカリキュラム3分の2で、残り3分の1は各大学自由に決めていい。
北大はEAEVE認証(欧州の団体による「この大学は一定の獣医学教育水準を満たしている」という認証)を受けている!他にも国内に数大学あるが東大は含まれていない。
あと設備のところで述べるが、東大は産業動物分野の実習が貧弱!ちなみに北大は産業動物分野も普通に扱うというだけで、べつに伴侶動物(ペット)分野が貧弱な訳ではない。
北大は学部に加えて人獣共通感染症国際共同研究所(実質的に北大大学院獣医学院の一部)に教員がいるので、教員数が東大より多い!
あと留学生は北大の方が多い!東大大学院生60人中12人が留学生、北大大学院生52人中22人が留学生。(参考:https://www.hokudai.ac.jp/pr/3.R5_zaisekishasu.pdf・https://www.hokudai.ac.jp/admission/shihi_admissionR06.pdf)
学生活動の活発さ・まとまりの強さで言えば北大が強い!北大はSaSSOHという小規模国際シンポジウムを毎年開催しているが、これは大学院生が主体として運営している。
学生への支援は体感同程度!東大はSPRING GXというプロジェクトが走ってる。北大はOne Healthフロンティア卓越大学院プログラムってのが走ってる。どっちも学生への支援はある。
どこでも同じ!!東大・北大・その他国公立私立どれも変わらん!
去年の合格率は東大が二番手に15%以上の大差をつけてぶっちぎり最下位だったが(他大学も合格率が例年に比べ低い)、去年以外はどの大学も大差ない。(参考:https://www.maff.go.jp/j/press/syouan/tikusui/attach/pdf/230314-3.pdf)
あえていえば東大は獣医師免許が必要ない職(国家公務員など)に就く学生が多いからか若干合格率が低め。
私大は国試対策が手厚めだが、卒業試験の成績が悪いと卒業試験の再々試と国家試験を同日に実施することで、成績の悪い学生の国試受験を防止して合格率を高くしているところもある(再々試までいくことはめったにないと聞くが)。
構内に農場がないしもちろん大動物用の動物実験施設もない!ウシを触るためにわざわざ茨城の附属牧場まで行かなきゃいけない!獣医学教育の場なのに産業動物に触れる機会が圧倒的に少ないのはどうなのか。
BSL3実験施設もない!つまり北大では扱えるが東大では扱えない病原体がある!
北大には当然農場もBSL3施設もあるし、AAALAC認証(アメリカのNPOによる動物福祉に配慮した実験動物施設であることの認証)を受けた動物実験施設もある。あと人獣共通感染症国際共同研究所。
北大は「日本の獣医系大学で唯一・最初に○○をする!」というアクティブさが強い。東大は「他大学の多くがやりはじめたらやる」。
北大が日本の獣医系大学で唯一・最初のものはいくつもある。東大にあって他の獣医系大学にないものは残念ながら思いつかん。
これは増田の印象だが、東大獣医は農学部の一部、北大獣医は学部なのが大きいと思う。東大は農学部の一部なので予算も農学部内の他の専修と奪い合いになる。獣医学専修が「○○したい」と思っても農学部の許可を得なきゃいけないし、さらに学部内での優先度に左右される。北大は獣医だけで一学部をなしているので、「○○したい」と獣医学科が思ったらすぐ実行できる。
ホームページを見ると内容の充実さにいかに差があるか分かるぞ!
東大:http://www.vm.a.u-tokyo.ac.jp/
北大:https://www.vetmed.hokudai.ac.jp/
東大の現教員数50名、学科定員30名、学生一人あたり教員数1.7名!(参考:http://www.vm.a.u-tokyo.ac.jp/service.html)
北大の現教員数59名、学科定員40名、学生一人あたり教員数1.5名!(参考:https://www.vetmed.hokudai.ac.jp/research/detail/)
ただ北大は大学院に人獣共通感染症国際共同研究所があり、こちらに独自の教員が+25名いる。(東大には大学院独自施設はない)
知らん!
他の分野はどうか知らん。
北大の方が獣医学部内のまとまりが強い!学科内パーティー・飲み会・イベント、学科内サークルなどが北大の方が活発。東大は農学部の建物内のあちこちに獣医学科の研究室が散っているが、北大は獣医学部内に研究室がまとまっているのも結束の強さの原因だろう。
ずいぶん東大下げになってしまったが、ぶっちゃけ東大は獣医教員の中にすら「東大獣医とか潰したらどう?」と言う人が複数いるくらいだ!(増田ではない)
よく知らん!
岡山理大における増田と同分野の研究室の教員も学生も、獣医学会でも同分野オンリーの小規模学会でも見かけたことがない。どこで学会発表してるんだ?
数年前に大学院を卒業生して社会人になったが、修士時代研究室にとある中東国家からのムスリム留学生(女子)がいた。
増田も女なんでわりと仲良くなり、二人でちょくちょく居酒屋(その子も飲んでました。宗教的な事情はよく知らないけど)行ったりする間柄になった。
で、何かのタイミングでその子と酒飲みながらイスラム教の深めな話をしたとき、教えてくれたことがある。
「ムスリムにとってこの世界で人間とはムスリムのことであり、ムスリム以外の宗教の人は人間ではない動物とかと同じ哀れな生命である。あなた(増田のこと)もそう。だから私達はそんな彼らを人間にしてあげようと親切心でムスリムに誘ってるのに、日本ではほとんど断られちゃうのよ」ということだった。
当時はへぇ~くらいにしか思ってなかったんだけど、最近のイスラエルパレスチナ戦争で、ハマスがドイツかどこかの外国人女性の遺体の周りで「ヒャッハー!」みたいなお祭り騒ぎしてる動画を見てしまって、
私がとある一人のムスリムに聞いただけのn=1の話でしかないんだけど、やっぱりイスラム教はそういう考え方してて他宗教の人は動物扱いなのかな。
実際そうだと思うけども
耐熱酵素の発見がPCRを押し上げたわけで、ブレークスルーがブレークスルーを呼びより高まっていく
フェルンがあそこで驚いたのは、「え、入れる酵素耐熱じゃないん?え、昔は自分で温度変えてたん?」ってことじゃなかったと思ってはいるのだけど
フェルン「どんな方なのでしょうか?」
フェルン「SUGEEEE!!!」
ってなりそうではある
フェルン「どんな方なのでしょうか?」
フリーレン「彼独自の技術で誰よりも多くのDNAを増幅したんだ」
フェルン「??どういうことでしょう??普通のPCRでは???」
フェルン「SUGEEE!!!!」
かつての大魔法使いが編み出した人を殺す強大な魔法がゾルトラークで、それが強大すぎたために人類は必死に研究、解明し、現代では基礎技術のひとつとなっている、
でもさ、なんかネットでは「今では陳腐化したいにしえの技術(笑」みたいな扱いになっているのがなんか違和感がある
ゾルトラークは現代では「一般攻撃魔法」というくらいおそらく今の魔法使いが最初期に学ぶ基礎の魔法で、その基礎技術の先におそらく色々あるんだろう
つまりゾルトラークは「陳腐化」したわけではなく「基礎中の基礎」になったわけ
こういうのって一般的には、「ブレイクスルー」と言われることなのではないか?
今では研究室に入ってきた4年生が最初に習うような基礎中の基礎の技術がPCRだけど、かつてPCRの技術が開発されDNAを増幅できるようになって分子生物学は革命的に進歩したわけだ
「PCRなんて技術もはやだれも使わんわ笑」ではなく、卒研生が今でも最初に習う基礎技術でありながら、発展型の「定量PCR」でコロナの診断ができたり、遺伝子組み換え技術やゲノム編集技術に用いるための欲しい配列のDNAを作製できるツールにもなっている
医療で言えばジェンナーが編み出した牛痘種痘というワクチンの大元もそうだろう
はてなーにうけそうな情報系の知識がないので、その例えは出せないのだけど、おそらくはあるんじゃないか?
小学校でピアノとヴァイオリン、中学校では吹奏楽部、高校では弓道部、大学と院はバイオ系の研究室に所属しながら地元の市民交響楽団でも活動していた。
初めて彼女が出来たのは中学生の時で部活の先輩だった。向こうから告白されて付き合った。相手が中学を卒業して高校に進学した時に別れた。
次の彼女は高校生の部活の同級生。中学の吹奏楽の同級生に誘われ弓道部に入った。女子が多く男子が少なかったからか向こうから告白されて付き合った。
学部生の時に所属していた研究室も女子が多かったからか研究室の後輩に告白されたが前述の彼女と付き合っていたので断った。
修士課程の時に先に社会人になった彼女に振られ、そのタイミングで楽団の大学生から告白されて付き合い、卒業してから結婚した。
一方で俺と顔や体格がほぼ同じ弟は彼女がいない。小学校ではサッカーと野球、中高は野球部、大学では派手なインカレサークルに入り、現在は総合商社に勤務している。
高校生の時にはヴィレヴァンで買ったゴツゴツのネックレスに香水をつけて坊主頭をギャツビーでツンツンにして男女数人で夏祭りに行ったり、大学でも派手そうな男女数人で旅行に行ったり、現在も合コンなんかに行ってるようだが彼女ができず「女はマジで理想高すぎんだよ」と言っている。
明らかに弟は俺よりもスクールカーストやコミュ力で優っているはずなのに、それ以上の男がいるコミュニティの中で勝負をしてしまっているからなのだろうか。
周り見てりゃそれ体感的にも分かるだろうに
追記:
「知能については後天的要因の影響の割合が大きい」とか断言調に嘘ばら撒くブコメとか
知能の定義がとかろくに調べもせずに言うブコメが多いので追記したい。
日本だと
慶應安藤寿康教室の慶應義塾双生児研究プロジェクト、首都圏ふたごプロジェクトが有名だけど
18年間総数1万組の双生児ペアに関して知能・学力や性格、精神疾患や発達障害などを調査して
神経質、外向性、開拓性、同調性、勤勉性といった性格については30〜50%が遺伝要因
知能については70%以上、学力は50〜60%程度が遺伝要因であるとしている。
知能を構成している因子を知識・技能・思考・判断・意欲・関心・態度等の基礎能力として
・文章完成
・符号交換
・図形分割
・乱文構成
・ソシオグラム
・単語完成
・重合板
・類似反対語
上記項目を測定し算出している。
また、総計1455万8903人の双生児を対象とした1958年から2012年までの各国多施設での2748件の研究をメタ分析した報告でも、「パーソナリティ(性格)」「能力」「社会行動」「精神疾患」における遺伝率は49%以上とされている。
Tinca J C Polderman, Beben Benyamin, Christiaan A de Leeuw, Patrick F Sullivan et.al (2015) Meta-analysis of the heritability of human traits based on fifty years of twin studies, Nature Genetics
養子になった子と養い親、産みの両親のそれぞれのIQの相関関係を比較した養子研究法という調査も行われている。
この結果も養子が幼いうちは、ある程度の養い親とのIQの関係性が見られるが
中学生~高校生になると、養い親とのIQの関係はまったくなくなり
逆に養子と本当の親の相関関係は、養子が幼少の頃こそ関係性は低いが、成長するに伴って関係性が高くなる。
という幼少期は子どもの環境によってIQは変化するが、成長していくにつれて遺伝による影響が大きくなってくるという再現性のある結果が得られている。