はてなキーワード: 根来衆とは
信長というと、短気で気分しだいで人を殺していたとか思われがちだが、
20年来の宿老の佐久間信盛を解任する際も、暴君なら理由もなしに追い払ってしまうものだが、
信長は以下の長文をわざわざ直筆で書いている。
一、佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。
一、信盛らの気持ちを推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、相手は坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考え、戦いを挑まなかったのであろうか。武者の道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである。
一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。
一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。
一、戦いで期待通りの働きができないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらないのは怠慢で、けしからぬことである。
一、信盛の与力・保田知宗の書状には「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、信盛親子も連判している。今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか。
一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。これに自身の配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。
一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、それどころか水野の旧臣を追放してしまった。それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、収益を金銀に換えているということである。言語道断である。
一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。これも先の刈谷と件と思い合わされる事である。
一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ。これは唐・高麗・南蛮の国でも有名なことだ。
一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)、戦機の見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、結局自分の正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った。これによって信長は面目を失った。その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である。
一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。その上、物事をいい加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になったのである。
一、与力ばかり使っている。他者からの攻撃に備える際、与力に軍役を勤めさせ、自身で家臣を召抱えず。領地を無駄にし、卑怯な事をしている。
一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。
一、信長の代になって30年間奉公してきた間、「信盛の活躍は比類なし」と言われるような働きは一度もない。
一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。
一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。
一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。
右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。
また、秀吉が浮気したときに、奥さんの禰禰にこのような手紙も送っている。
私の命に従い、この度、この地(安土城)にはじめて尋ねてくれて嬉しく思う。
その上、土産の数々も美しく見事で、筆ではとても表現できない程だ。
そのお返しに、私の方からも「何をやろう」かと思ったが、そなたの土産があまりに見事で、何を返せば良いのか思い付かなかったので、この度はやめて、そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。
そなたの美貌も、いつぞやに会った時よりも、十の物が二十になるほど美しくなっている。
藤吉郎(秀吉)が、何か不足を申しているとのことだが言語同断けしからぬことだ。
どこを探しても、そなたほどの女性を二度とあの禿ねずみは見付けることができないだろう。
これより先は、身の持ち方を陽快にして、奥方らしく堂々と、やきもちなどは妬かないように。
ただし、女房の役目として、言いたいことがある時はすべて言うのではなく、ある程度に留めて言うとよい。
又々 かしく藤吉郎 女ども
のぶ
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 仕官以前
2 子孫
3 主な家臣
3.1 一門衆
3.2 重臣
3.3 その他
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
生涯[編集]
生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国に存在した増田氏との関係は不明である。
秀吉に仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。
天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。
秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。
太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋・五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
文禄4年(1595年、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このときの対応が秀吉によるキリスト教(フランシスコ会)の弾圧(日本二十六聖人の殉教)の端緒を開いた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和中から夫役が徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を委ねられている。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。
慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。
墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。