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2021-07-15

anond:20210715150820

小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆武田二十四将の一人に数えられる。

信茂の勝頼離反から滅亡

岩殿城

天正9年12月織田信長徳川家康武田領攻めを開始し(甲州征伐総大将織田信忠副将滝川一益)、信濃木曽郡国衆木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模後北条氏武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日織田信忠伊那郡高遠城仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。

勝頼は天正9年に新府城山梨県韮崎市)を新たに築城甲府から本拠移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃国衆真田昌幸上野岩櫃城群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅小山田を頼り郡内の岩殿城大月市岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。

なお、岩殿城小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)から距離があることから岩殿城小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日岩殿城武田勝頼が在番衆派遣している事実も注目されている[17]。

武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。

信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟小山田左衛門と勝頼の従兄弟武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠大月市甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。

甲斐善光寺

一方、織田徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。

織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男人質として差し出すために信長拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。

信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。

人物

武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場重臣と共に名を列ねている。

武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。

設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。

鉄道唱歌(作詞福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。

2021-02-06

逃げ上手の若君の許嫁はなぜ不細工だったか

http://blog.livedoor.jp/kudan9-culture/archives/27926645.html

 

ネウロ暗殺教室も読んだことはないが、逃げ上手の若君を見る限り松井優征は書き割り(類型タイプ漫画家だなあという気はする。

書き割りを極端にすると例示されている嫌煙家のようなキャラクタ誕生する。こう書くと書き割りが悪いことのように聞こえるかもしれないが、それはひとつ表現手法であり上下巧拙もない、と思う。

書き割りは類型であるがゆえに読者に「つかませやすい」し、その上にキャラ固有の内面や奥行きを見せることで魅力を上乗せさせることもできる。これだけ創作物が溢れかえっている世の中で新しい作品を読者に読ませることは容易ではない。キャラに限らず世界観や設定も書き割りにすることで「摩擦係数」を減らして脱落する読者を減らそうとするのはひとつ戦略と言っていい(松井優征作品世界観や設定が書き割りだと言っているわけではない。むしろその点がユニーク作家だと思う)。

 

で、こっからが本題なのだが。

主人公の許嫁が明らかに周囲の人物に劣った外見に描かれることで悪し様に表現されていました。権力者結婚して金持ちになってやるという明け透けな逞しさに私はむしろ好感を持ちましたが、作者は違ったようです。しかし、どうせ第1話死ぬならいい人として描いておいて、主人公が見舞われた悲劇を強調してもよさそうなものですが。

これは明確な読み誤りであると思う。

1話で描かれたのは敵によって主人公日常が壊され旅立ちを余儀なくされるという貴種流離譚の第1幕だ。この日常において主人公の周りにいたのはどんな人達だろうか。普通に読んだ人なら父、兄、許嫁がぱっと浮かんだであろう(諏訪頼重キャラクタ類型でいう助言者。ゆえに日常の外から来る)。なぜか。それぞれ違うキャラクタからである

 

父…ボケてるのかな? というぐらいに愚将

兄…将としては平凡だが弟の才能を素直に評価できる優しさの持ち主

許嫁…容姿よろしくないがそのぶん見る目がある。奇貨居くべしなタイプ商家の娘だったら大成した

 

それぞれ数ページからコマしか出番がないが、これらのキャラクタがすとんと入ってくる。そしてそんな「主人公の周囲にいる色々な人が高氏の反乱によって根こそぎ殺された」とつなげることによって主人公の絶体絶命感(と諏訪頼重という一筋の光明)が強調されている。これが父、兄、許嫁が全員「いい人」程度の描かれ方だったらのぺっとして印象に残らず絶体絶命感も出なかったであろう。

この辺は鬼滅あたりと比較すると分かりやすい。

鬼滅も逃げ上手の若君同様、物語類型としては貴種流離譚であり「行って帰ってくる物語である。炭治郎にとっての日常とは家族との慎ましくも温かな暮らしに他ならず、それを失ったことで寒い雪山を往くハメになる。この場合家族は平凡で優しいことが求められる。極めて愚かな人物が混ざっていたり、逞しいタイプがいたりすると印象がそっちに引っ張られて悲惨さや悲しみが強調されない。慎ましやかな生活感もでない。

逆に北条時行が失ったのは鎌倉幕府である。その巨大さを腑落ちさせるためには色んな層の人間必要で、そのためにピックアップされたのがあの3人(父=幕府トップ、兄=家族、許嫁=重臣(の娘だが層としては重臣))ということなのだ。

ちなみに許嫁の容姿よろしくないのは他の二者との差別化もあるだろうが、明け透けに言ってしまえば生き汚さを出すためだろう。あんなに生命力が強そうなタイプがあっさりと死ぬことによって絶体絶命感が強調されている(こう書けば伝わると思って書いているが、もし分からないなら薄幸の美人という言葉を補助線にしてくれ)。

 

作品のあらゆる要素は作家胸三寸なのであり、そのようにしているのには相応の理由がある。好き嫌いを語る分には構わないだろうが正しい正しくないの観点から論じるのであれば作者に寄り添ってそれによって何を描こうとしているのかつぶさに観ることは最低限必要な態度であろう。

2020-12-06

anond:20201205160300

チンギス・ハーンがそんなかんじ

```

ある日、チンギス・カン重臣の一人であるボオルチュ・ノヤンに「男として最大の快楽は何か」と問いかけた。ノヤンは「春の日、逞しい馬に跨り、手に鷹を据えて野原に赴き、鷹が飛鳥に一撃を加えるのを見ることであります」と答えた。チンギスが他の将軍のボロウルにも同じことを問うと、ボロウルも同じことを答えた。するとチンギスは「違う」と言い、「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐら駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」と答えた。

```

wikiより

そりゃイスラム世界がぶっ壊れるわけですわ

2019-08-22

anond:20190822084741

王朝創業者滅亡
群雄農民反乱から台頭した群雄による征服
前漢ゴロツキ外戚による乗っ取り
後漢地方豪族農民反乱による弱体化・外戚による乗っ取り
王朝重臣皇族同士の内乱による弱体化・異民族による征服
王朝重臣反乱の多発による弱体化・重臣による乗っ取り
王朝重臣農民反乱による弱体化・重臣による乗っ取り
王朝重臣異民族による征服
異民族の王農民反乱から台頭した群雄による征服
ゴロツキ異民族による征服
異民族の王農民反乱による弱体化・異民族西洋日本)による征服共和革命

前漢と明くらいにしか当てはまらんな。

2019-07-01

喜多川右府薨去の事

天下布武を唱え、腹心であった飯島摂津守及び家臣団五人衆、すなわち中居弾正、木村内匠、稲垣五郎右衛門、香取金吾、草薙武蔵らの離反も、その強大な力により押し潰し、今や鳥を落とす勢いであった喜多川右府が、突如、京にて薨去されたとの噂が、日の本じゅうを駆け巡った。

ある者は流行病によるものと噂し、またある者は家臣による毒殺とも噂しあったが、果たしてその真相は、右府の生死も含めて杳として判らなかった。

マスメディアが十分に発達した現代とは違い、当時は、重大な事件は全て人々の口伝えに頼らざるをえない。戦国武将達は、不確かな状況の中で自らの去就を決めねばならず、その対応如何によって、ある家は栄え、ある家は滅びるといった悲喜劇が、絶えず繰り返されたのであった。

ところで、右府のもとには、二人の有力家臣がいた。木村内匠と滝沢左近である

木村内匠については、飯島の乱において仲間の謀議を主君へ密告した功により取り立てられ、右府からの覚えもめでたく、非常に権勢を振るったことは、既に述べた。(https://anond.hatelabo.jp/20160119162624

もう一人の重臣滝沢左近は、元は一介の素浪人であったが、右府に仕官すると俄に頭角を現し、今や右府の最側近として大いに活躍していた。

さて、両者ともに、この悲報に接したのは、京から遠く離れた土地であった。

その時、木村内匠は、右府の命を受けて城攻めを行っていた。梅雨空の下、城の周囲に幾重にも堤を築き上げ、増水した川の水を中へ流し込む「水攻め」を行うこと約1ヶ月、もはや天守は湖の中の孤島と化していた。

「ってゆーかさぁ、もうそろそろ落ちるんじゃね?」

そんなある晩のこと、勝ち戦への楽観が広がりつつあった木村陣営に、突如、右府逝去の激震が走った。京からも離れていたため情報錯綜し、いつしか町奉行である東山越前守により弑逆されたとの誤報にすり替わっていたのだった。

突然の悲報に接し、大声を上げて悲嘆する木村内匠に、その妻、静御前冷徹言葉を投げかけた。

「殿さま!今すぐ京へ引き返して、逆賊越前守を討ち滅ぼし、御館様の無念を晴らすのです!」

「よく言うた。それでこそ我が妻よ!」

木村は電撃を受けたように飛び上がると、すぐさま敵方講和を取りまとめ、全軍を京へ向けて引き返し始めた。

一方、滝沢左近は、遠く関東にてこの悲報に接した。ただし、右府の側近中の側近であったことが幸いし、在京東山越前から直接、正確な情報書簡で受け取ることとなった。滝沢左近は、俄に活発化した敵勢と対峙しつつも、手堅く京へ軍勢を引き返した。

実際のところ、この時点では右府はまだ逝去してはいなかったが、今で言うところのクモ膜下出血により、ほぼ危篤状態であったらしいので、死へ向かいつつあったというのが真相であろう。だが、意識を失う直前、右府は「余の影武者を立てて、死を三年間、隠すように」との遺言を、側近の東山越前守へ伝えていたため、先のような虚実入り混じった噂話を生む結果となってしまったのだった。こうして、両者が接した情報の確度の違いが、やがて両家の命運を全く違うものにしてゆく。

まずは木村内匠であるが、弔い合戦のつもりで軍勢摂津山城国境山崎まで進めたところで、東山越前守の軍勢対峙することとなった。

東山越前守は単騎で進み出ると、大音声を上げた。

「やれ、賊軍ども、なにゆえ京へ攻め上った!御館様に楯突くものは、尽く成敗してくれる!」

木村内匠、答えて曰く、

「傍ら痛いわっ!お前こそ、御館様の亡き後、政を私しようとする賊軍であろう!」

「何をたわけたことを!ここに、御館様はおわすぞっ!」

銅鑼の合図とともに東山軍が左右に割れると、その間から見覚えのある輿が進み出てきた。そう、それは右府の豪奢な輿であった。

「やばっ!御館様!」

突然の状況に、木村軍は戦わずして敗走を始めた。更に間が悪いことに、関東より引き上げてきた滝沢軍が退路を断つ形になり、木村軍は徹底的に殲滅されることとなった。

ちなみに、東山越前守の機転によって引き出された輿であったが、その中には、既に意識のない主人が乗っていようとは、木村内匠は知る由もなかった。

こして敗退した木村内匠は、ひとり戦場より落ち延びると、ある禅寺でひっそりと出家して生き延びたという。一時は、かつて裏切った自分主君であり、既に出家して名を改めていた飯島摂津守の元に、弟子として身を寄せていた時期もあったようであり、何とも皮肉人生である

2019-04-03

過去元号に対するイチャモンまとめ

日経こちらの連載と、

https://bizgate.nikkei.co.jp/series/DF150320194919/

こちらの「中国年号予言」という発表が面白かったので、

https://www.rekihaku.ac.jp/events/forum/old/f2017/pdf/106.pdf

その中で紹介されている「難陳」=イチャモン簡単にまとめてみた。

日本

長徳

「徳」の字が「毒」に通じるとして貴族あいだで評判が悪かった。

太初

中国採用されたとき不祥事が多かったとして却下された。

政和

秦の始皇帝・嬴政の名前と被るとして却下された。

天保

「一大人只十」と分解できる。

「家臣が十人しかいない」と読めて不吉であるとして却下された。→700年後には異論なく採用された

天仁

仏教の「天人」に通じる。→むしろ縁起がいいじゃんってことで採用

長仁

当時、同じ名前芸人がいたということで却下された。

弘保

弓偏は戦争連想させて縁起が悪いということで却下された。

建保

藤原定家が「献宝(=賄賂)」に通じるとして批判していた。

正保

音が「焼亡」に通じる。

「保」を分解すると「人が木を口にする」となって飢饉連想させる。

などとして庶民から評判が悪かったので、三年ほどで「慶安」に改元

明和

明和九で「めいわく」と読める。→明和九年に改元

令徳

徳川命令する」と読めるので却下された。

中国

永昌

「昌」は日が二つで「二日」しか続かない意味に取れる。

実際、改元したその年に皇帝が亡くなった。

隆昌・泰昌

「昌」は二つの太陽、すなわち二人の皇帝存在する意味に取れる。

実際、その一年間に代替わりがあり、二人の皇帝が在位した。

雍正

「正」の字は「一に止まる」と分解できる。

皇帝が一代で止まってしまうようで不吉。

天正

「天」は「二人」、「正」は「一に止まる」と分解できる。

二人の皇帝がほぼ同時に「天正」を用いたが、どちらも一年ほどで殺されてしまった。

天保

「一大人は只だ十なり」と分解でき、「皇帝は十年だけ」と読める。

実際、天保十年に皇帝が亡くなった。

日本で言われたのはこの故事を踏まえてのことっぽいですね。

嘉靖

悪政を嘆く民が、

「嘉靖」は「家浄」と発音が同じで「家が空っぽ財産がない」という意味だ、

と言っていたのを聞いた官吏が、それを皇帝に伝えて諌めた。

純煕

殷の紂王を討伐した周の武王を称える記述典拠としており、

当時強大だった異民族を徒に刺激するような意味に取れる。

あるいは「屯」という旁は「草木がなかなか芽を出せない」という意味なので縁起が悪い。

などといった理由改元から六日後に「淳煕」に再び改元された。

平成

「成」は「戈=戦争」が含まれているので縁起が悪いとして却下された。

美成

「美」は「羊」と「犬」に分解でき、家畜まで「戈=戦争」に巻き込まれるという意味になるので却下された。

豊亨

「亨」は「子」の横棒が欠けており、皇帝に子ができないことを連想するので却下された。

隆化

「隆」は「降」、「化」は「死」に似ており、降伏して死ぬという意味になる。

実際、この元号ときに国が滅び、降伏した皇帝は翌年に殺害された。

太平興国

四字の元号だが、「太平」は「一人六十」と分解でき、「六十歳で死ぬ」という意味になる。

実際、このとき皇帝は五十九歳で亡くなった。

大亨

分解すると「一人二月了」となり、「一人、二月に了(おわ)る」と読める。

このとき改元を主導した重臣は二年後に帝位を簒奪したが、その年の二月に起きた反乱で殺された。

宣和

「宣」を分解すると「ウ=家」に「二日」となり、一家に二つの太陽があるのは不吉である

当時の皇帝は息子に譲位して上皇となったので、実際に皇帝が二人いることになった。

また「宣和」を分解して組み立てると「一旦宋亡」となり、「一旦、宋が亡ぶ」と読める。

宣和から靖康に改元された直後に北宋は滅亡した。

靖康

「靖」は「十二月に立つ」と分解できる。

靖康元年の十二月首都が陥落して北宋が滅亡したあと、

「康」王である趙構が南宋の初代皇帝として立った。

広明

反乱を起こした黄巣が暴れまわるなかで改元したが、

「広=廣」は「黄」と「广=家」、「明」は「日月」と分解でき、

「黄家日月」と読めるので、黄巣は自らに天命があると称した。

広運

「運」は「軍が走る」と書く。

皇帝が軍によって走らされる=敗走するのではないか、と読める。

建炎

改元されてから各地で盗賊暴動や反乱を起こしたので、

「火は戦乱を意味し、炎にはそれが二つもあるから良くない」と反省して再び改元された。

以上、やはりイチャモンに感じられるだろうが、

元号縁起物であり、こうした験担ぎのようなもの真剣に考えられてきたということで、

現代において「令は命令意味だ」とか「安を入れるな」とか騒ぐことも、

決して故なきことではないのだと一抹の理解を求めたいところである

2018-11-02

将棋投了図って

敵の大将の首は取ったものの城攻め中に金銀の重臣戦死してるし、自陣もだいたい崩れてるし、国力的には負けてたりする。

次の瞬間敵の生き残りが新しい王朝を立てて逆に滅ぼされそう。

 
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