はてなキーワード: 治承・寿永の乱とは
年 | 名称 | 概要 |
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463年 | 吉備氏の乱 | 雄略天皇が吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。 |
479年 | 星川皇子の乱 | 雄略天皇と吉備田狭の妻のあいだに生まれた星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。 |
527年 | 磐井の乱 | 朝鮮半島へ出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州の豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。 |
587年 | 丁未の乱 | 仏教の布教を巡って、大臣・蘇我馬子と、大連・物部守屋が対立し、戦に発展した。蘇我氏が勝利した。 |
645年 | 乙巳の変 | 中大兄皇子・中臣鎌足らが、朝廷を壟断していた蘇我入鹿を暗殺、続いて蘇我氏を粛清した。 |
672年 | 壬申の乱 | 天智天皇の後継者争いが発生し、皇太子・大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子が挙兵した。大海人皇子が勝利して天皇となった。 |
729年 | 長屋王の変 | 皇族の長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王は自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。 |
740年 | 藤原広嗣の乱 | 藤原四兄弟の死により藤原氏の勢力が退潮し、九州に左遷されて不満を持った藤原広嗣が太宰府で挙兵したが、朝廷軍により討伐された。 |
757年 | 橘奈良麻呂の乱 | 橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。 |
764年 | 藤原仲麻呂の乱 | 孝謙上皇と対立した太政大臣・藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。 |
780年 | 宝亀の乱 | 朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷の族長・伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純を殺害して反乱を起こした。 |
782年 | 氷上川継の乱 | 天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇の崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。 |
807年 | 伊予親王の変 | 藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王が自死したが、のちに冤罪と認められた。 |
810年 | 薬子の変 | 平城上皇と嵯峨天皇の対立が激化し、平城上皇は挙兵を決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇は出家した。 |
842年 | 承和の変 | 嵯峨上皇の崩御に伴い、皇太子・恒貞親王を擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王が皇太子となった。 |
866年 | 応天門の変 | 応天門に放火があり、大納言・伴善男が「左大臣・源信の仕業だ」と告発したが、逆に伴善男が真犯人だとされて流罪になった事件。 |
878年 | 元慶の乱 | 長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。 |
889年 | 寛平・延喜東国の乱 | 関東の治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望が勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。 |
901年 | 昌泰の変 | 右大臣・菅原道真が失脚し、大宰府に左遷された事件。左大臣・藤原時平の陰謀だとされる。 |
938年 | 天慶の出羽俘囚の乱 | 朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明。 |
939年 | 承平天慶の乱 | 東では坂東平氏の平将門が、西では藤原一族の藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。 |
947年 | 藤原是助の乱 | 伯耆の豪族・藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。 |
969年 | 安和の変 | 謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣・源高明が太宰府に左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。 |
986年 | 寛和の変 | 皇太子の外祖父であった右大臣・藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件。 |
995年 | 長徳の変 | 「花山法皇が自分の恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したことで藤原道長が台頭していく。 |
1028年 | 平忠常の乱 | 坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。 |
1107年 | 源義親の乱 | 源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲で乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏の繁栄のきっかけとなった。 |
1113年 | 永久の変 | 千手丸という童子が鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。 |
1156年 | 保元の乱 | 後白河天皇・藤原忠通派と、崇徳上皇・藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇は流罪となった。 |
1160年 | 平治の乱 | 信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝がクーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。 |
1180年 | 治承・寿永の乱 | いわゆる源平合戦。平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府が樹立された。 |
1184年 | 三日平氏の乱 | 平氏の都落ちのあと、伊賀の平田家継、伊勢の平信兼・藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。 |
1189年 | 大河兼任の乱 | 奥州藤原氏の家臣だった大河兼任が出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。 |
1199年 | 梶原景時の変 | 源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉を追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。 |
1201年 | 建仁の乱 | 梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠の越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府に鎮圧された。 |
1203年 | 比企能員の変 | 将軍・源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵の北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍の地位を追われた。 |
1203年 | 三日平氏の乱 | 二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢・伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅に鎮圧された。 |
1205年 | 畠山重忠の乱 | 平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。 |
1213年 | 泉親衡の乱 | 北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方をくらませた。続く和田合戦のきっかけとなった。 |
1221年 | 承久の乱 | 後鳥羽上皇が北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇は隠岐に配流された。 |
1293年 | 平禅門の乱 | 平頼綱は北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権・北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。 |
1305年 | 嘉元の乱 | 得宗・北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。 |
1325年 | 安藤氏の乱 | 津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官・安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。 |
1324年 | 正中の変 | 後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝が佐渡へ流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。 |
1331年 | 元弘の乱 | 後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。 |
1335年 | 中先代の乱 | 最後の得宗・北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉を占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。 |
1336年 | 建武の乱 | 後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏が勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇も吉野に逃れて南北朝時代が始まった。 |
1366年 | 貞治の変 | 室町幕府で権勢を振るった斯波高経・斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。 |
1375年 | 水島の変 | 九州に派遣された今川了俊が、同じ北朝の少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏や大友氏などが離反した。 |
1380年 | 小山氏の乱 | 鎌倉公方・足利氏満と下野守護・小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。 |
1387年 | 小田氏の乱 | 常陸の小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満が小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。 |
1389年 | 土岐康行の乱 | 有力守護の弱体化を図る将軍・足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。 |
1392年 | 明徳の乱 | 一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍・足利義満の挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。 |
1395年 | 田村庄司の乱 | 白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。 |
1399年 | 応永の乱 | 六カ国の守護である大内義弘が将軍・足利義満と対立、鎌倉公方と手を結び、土岐氏・山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。 |
1411年 | 飛騨の乱 | 飛騨国司・姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵、幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。 |
1413年 | 伊集院頼久の乱 | 島津家の後継者争いをきっかけに、当主・島津久豊と対立した重臣の伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。 |
1416年 | 上杉禅秀の乱 | 関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。 |
1422年 | 小栗満重の乱 | 室町幕府と鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東の武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。 |
1423年 | 越後応永の乱 | 室町幕府と鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護・上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。 |
1429年 | 大和永享の乱 | 幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝の越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。 |
1438年 | 永享の乱 | 鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立から、室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。 |
1441年 | 嘉吉の乱 | 三カ国の守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍・足利義教を暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。 |
1443年 | 禁闕の変 | 南朝復興を唱える勢力が御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍に鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。 |
1455年 | 享徳の乱 | 足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。 |
1457年 | 蠣崎蔵人の乱 | 陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。 |
1457年 | 長禄の変 | 赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。 |
1467年 | 応仁の乱 | 畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから、東軍・細川勝元と西軍・山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。 |
1476年 | 長尾景春の乱 | 関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。 |
1479年 | 毛利次郎の乱 | 赤松氏らの支援を得た因幡の国人・毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。 |
1486年 | 江戸城の乱 | 扇谷上杉氏の当主・上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城を占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。 |
1487年 | 長享の乱 | 享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。 |
1487年 | 長享・延徳の乱 | 将軍・足利義尚が自ら軍を率いて近江守護・六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。 |
1489年 | 山名新九郎・小太郎の乱 | 前伯耆守護・山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護・山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。 |
1490年 | 佐竹の乱 | 佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠を攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。 |
1502年 | 伊庭氏の乱 | 長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔・挙兵するが、最終的に鎮圧された。 |
1507年 | 永正の乱 | 越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護・上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いから関東を二分する戦いに発展した。 |
51.平城天皇(806~809)
官司の統廃合、観察使の派遣など行政の立て直しに取り組んだ。藤原薬子を寵愛したが、譲位後薬子の変が起きたため、出家した。
薬子の変を鎮圧。弘仁格式、新撰姓氏録を編纂した。三筆の一人にも数えられる文化人
在位中に令義解が施行され、日本後紀が完成した他、承和の変が起き藤原氏繁栄の基礎となった。医学、書道、和歌など初学に精通した知識人
55.文徳天皇(850~858)
続日本後紀の編纂を開始した。病弱であったため、政治の実権は藤原良房がが握った。
56.清和天皇(858~876)
幼くして即位したため、良房が実権を握り、元服後も握り続けた。在位中に貞観格式が編集された。
57.陽成天皇(876~884)
乳母子を殺す、宮中で密かに馬を飼うなどの奇行が多く、藤原基経に譲位させられた。
58.光孝天皇(884~887)
55歳という高齢で即位し、基経に「実質的な関白として政治を任せた。
阿衡の変により、藤原氏を疎み、菅原道真を重用した。在位中に多くの歌人が輩出され、遣唐使が廃止された。
60.醍醐天皇(897~930)
藤原時平の讒言を信じ、道真を左遷した。在位中に古今和歌集の勅撰、三代実録、延喜格式の編纂が行われ、その治世は村上天皇と共に延喜・天暦の治と称された。
在位中は天災が多発し、平将門・藤原純友が乱を起こすなど、多難な時を過ごした。
63.冷泉天皇(967~969)
病弱であったため、藤原実頼が関白として実権を握った。安和の変の後は、摂政・関白が常置されることとなった。
64.円融天皇(969~984)
藤原氏の政権争いに翻弄され、出家、文化人として風流な生活を送った。
在位中藤原道長が実権を握り、紫式部、清少納言、和泉式部などの文化人が活躍した。
道長の孫。在位中は道長・頼通が実権を握り、藤原氏の全盛期を迎えた。
在位中は頼通が関白として実権を握った
藤原氏を疎んじ、新政を行った。記録所を設け、成功、重任を禁じ、宣旨枡を定めた
在位中に富士山噴火、後三年の役が起きた。譲位後、院生を行った。
在位中は院生が行われたが、藤原師通の補佐により自らも政治に関与し末代の聖王と称された。
譲位後、崇徳~後白河の3代に及ぶ院政を行った。崇徳院を無視して、後白河天皇を即位させたことが保元の乱の原因となった。
鳥羽上皇に冷遇され、譲位させられた挙げ句、息子の即位も阻まれた。これを不満とし、保元の乱を起こすも敗れ、讃岐に流された。死後怨霊として恐れられた。歌人としても名高い。
76.近衛天皇(1141~55)
17歳で亡くなったため、崇徳院、藤原忠実・頼長親子に呪われたのではないかと噂された。
77.後白河天皇(1155~58)
保元の乱で崇徳院を破った後、譲位し院政を行った。平治の乱、治承・寿永の乱、鎌倉幕府成立などの激動の時代の中、権謀術数を巡らせ朝廷権力を維持した。
78.二条天皇(1158~1165)
崇徳院の子を差し置いて、皇子になったため、保元の乱が起きた。即位後は後白河院の院政に抵抗するも病気のため叶わなかった。
自身への敵対勢力に擁立されることを恐れた後白河院によって、わずか4年で譲位させられた。
80.高倉天皇(1168-80)
81.安徳天皇(1180~1185)
壇ノ浦の戦いで入水した。日本史上最も短命な天皇で、わずか7歳で崩御した。
82.後鳥羽天皇(1183~98)
譲位後、土御門~仲恭の3代にも及ぶ院生を行う。承久の乱に敗れ隠岐に流された。
父である後鳥院とは不和で承久の乱にも加わらなかったが、自ら望んで土佐に流された。
85.仲恭天皇(1221)
わずか10歳で即位したため、天皇になったことのない守貞親王が後高倉院として異例の院政を行った。
滑石を用いたいたずらが原因で転倒し崩御した。
88.後嵯峨天皇(1242~1246)
譲位後、2代にわたる院政を行った。死に際して、帝位継承者決定を幕府に委ねるとしたため、南北朝問題の原因となった。
90.亀山天皇(1260~74)
大覚寺統いわゆる南朝の祖。父後嵯峨院に愛され、兄後深草院を差し置いて子の後宇多天皇を即位させたため、南北朝問題の原因となった。譲位後南禅院を建立
91.後宇多天皇(1274~1287)
大覚寺統。在位中に元寇があった。譲位後、持明院統の伏見天皇を即位させるが、続いて持明院統の後伏見天皇の即位には反対したため、両統送立が始まった。院政を行うが、後醍醐天皇と対立し、政治から身を引いた。好学の天皇として知られる
93.後伏見天皇(1298~1301)
譲位後、院生を行う。元弘の乱後、東国へ逃れるも捕らえられ出家した。
94.後二条天皇(1301~08)
大覚寺統。持明院統から2代続いて天皇が出たことに後宇多院が抗議したため、幕府の計らいで即位。両統送立が始まった。
95.花園天皇(1308~1318)
鎌倉幕府打倒に貢献した後、建武新政を行う。足利尊氏に敗れ吉野に逃れ南北朝時代が始まる。
高師直に攻められ賀名生に逃れる。一度京都を奪還するもすぐに北朝に奪われた。その後も京都回復を狙い、各地を転戦するも果たせなかった。
98.(南3)長慶天皇(1368~1383)
和歌を愛し、五十番歌合、五百番歌合などを催した。
足利義満の誘いの応じて、南北朝の和解を実現。しかし、義満の死後冷遇され、和平の条件であった両統送立も果たされなかった。
後醍醐天皇の失脚を受けて即位したが、鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐の廃位と光厳の即位が否定された。
足利尊氏の擁立により即位。譲位後、観応の擾乱によって南朝に捕らえられるが後に解放された。
北3.崇光天皇(1348~1351)
北4.後光厳天皇( 1352~1371)
後村上天皇の一統が破れると、足利市に擁護され即位した。南朝の攻撃に遭い、美濃・近江などに逃れたこともあった。
北5.後円融天皇(1371~1382)
戦力差が10倍以上のもののみ取り上げています。随時更新中 ★は(戦術的)勝者側
多くのコメント・ブクマありがとうございます。 コメントで私が知らなかった戦いについて教えてくださった方ありがとうございます。https://anond.hatelabo.jp/20210708183653こちらも参照ください
B.C.480 ペルシア戦争 ギリシア軍7000vs★ペルシア軍30万以下
スパルタ王レオニダス指揮下のギリシア連合軍がペルシア軍の大軍と激突した。狭い地形を活かし、3日間の激戦を繰り広げるが、背後から攻撃され敗北した。この戦いでギリシア軍は1000人、ペルシア軍は2万人の兵士を失った。
・彭城の戦い
漢軍が彭城を制圧した事を知った項羽は精鋭部隊を率いて漢軍を襲撃した。攻略に成功したことから油断し、酒宴に明け暮れた漢軍は突然の事態に太刀打ちできず20万人以上が戦死した。
23年 ★緑林軍1万vs新43万
劉秀率いる緑林軍が新軍に包囲される。劉秀は脱出し、外側から新軍を襲撃して壊滅させた。
ブーディカ女王率いるケルト人がローマの支配に対して反乱を起こした。ローマ軍は反乱軍を狭いワトリング街道に誘い込み、これを破った。ローマ軍の死傷者はわずか400人であったのに対し、反乱軍の死傷者は8万人であった。
・博望坡の戦い
劉備軍と曹操軍が宛で対峙する。劉備は撤退したと見せかけ、誘われた夏侯惇を撃破した。李典の援軍が来るとみた劉備は兵を引き、曹操軍も撤退した。
383年 五胡十六国時代 ★東晋軍8万5千vs前秦軍117万
華北統一に成功した前秦が東晋征服のために大軍を派遣する。前秦軍は敵軍を誘うため、先鋒を退却させる作戦をとるが、兵が混乱して退却を止めなかったため、そこを突かれて敗北した。
・チェラーミの戦い
アラブ人の支配下にあったシチリアにルッジェーロ1世率いるノルマン人が侵入、イスラム教徒を撃退した。アラブ軍は戦力の7割を失ったとされる。
・黄天蕩の戦い
韓世忠とその妻梁紅玉率いる南宋軍が金軍を打ち破り、2万5000人を討ち取った。
屋島で破れ、志度寺に立て籠もった平氏を源義経が追撃した。平氏は大軍が後に続くとみて敗走した。
・下赤坂城の戦い
楠木正成は下赤坂城に籠城し、幕府の包囲にゲリラ戦で1ヶ月以上抵抗した。城は陥落したものの、幕府は楠木正成と護良親王を討ち損ねた。
1333年 元弘の乱 ★楠木軍1000vs鎌倉幕府2万5000
千早城に立て籠もった楠木軍は幕府軍に包囲されるも、3ヶ月に渡って抵抗した。気が緩んだところを奇襲するなどの奇策で消耗した幕府軍は攻略を諦め、撤退した。
・船上山の戦い
1333年 元弘の乱 ★後醍醐天皇軍150vs鎌倉幕府3000
後醍醐天皇が隠岐の島から脱出すると伯耆国の武将名和長年が挙兵し、隠岐国守護佐々木氏を攻撃した。名和軍は数百の軍旗を見せつけて威嚇する、暴風雨に乗じて攻撃するなどの戦法で幕府軍を破った。
倭寇に悩まされた朝鮮はその本拠地と見なした対馬へ討伐軍を派遣するが、宗氏の抵抗に遭い撤退する。対馬側は100~200人、朝鮮軍は3000人ほどが戦死した。
・ビルスの戦い
1444年 旧チューリッヒ戦争 スイス軍1500vs★フランス軍3万~4万
スイス軍がチューリッヒを包囲したことにより、フランスと戦争に突入した。スイス軍は数で勝るフランス軍と死闘の末に壊滅するが、フランス軍は2000人の損害を被った。この戦いによりスイス人の勇敢さがヨーロッパ各地に知れ渡った。
・土木の変
1449年 ★オイラト軍3万vs明軍50万
明の正統帝は自ら大軍を率いて、オイラトの征伐に向かう。しかし、食料配達の困難や大雨により明軍は士気が低下しており、そこをオイラトに奇襲された。明軍はほぼ全滅し、皇帝も捕虜となった。
・九頭竜川の戦い
越前制圧を目論む一向宗と朝倉軍が九頭竜川を挟んで対峙、朝倉軍は夜襲により一向宗を撃退した。
・セントラの戦い
1519年 スペインのメキシコ征服 ★スペイン軍410vsマヤ軍1万~4万
征服者コルテス率いるスペイン軍がマヤの大軍と交戦。マヤ軍はスペイン人の軍馬に恐れをなして敗北した。スペイン軍の犠牲はわずか2名だが、マヤ軍は800の犠牲を出した。この戦いでコルテスは後の妻にして翻訳者としてアステカ征服に貢献するインディオの女性マリンチェを得た。
・オツンバの戦い
1520年 スペインのメキシコ征服 ★スペイン・トラスカラ連合軍 7~800人vsアステカ軍4万
アステカ軍はスペイン軍の侵略を一度退けることに成功した。その後、大軍を率いて追い打ちを試みる。しかし、初めて見る軍馬の威力に恐れ戦き、指揮官を含む大勢が戦死したため敗走した。この戦いの後コルテスはアステカを滅ぼした。
・プナの戦い
1531年 スペインのペルー征服 ★スペイン軍168vsプナ先住民3000
スペイン軍がインカ帝国征服へ向かう途中、プナ島で先住民と交戦するが、銃と馬の威力でこれを打ち破る。
・ディーウ包囲戦
1538年 オスマン・ポルトガル戦争 ★ポルトガル軍600vsオスマン・クジャラート連合軍2万2000
ポルトガル軍が連合軍に包囲されるも、3ヶ月の籠城戦の末にこれを退けた。ポルトガル軍の死傷者は40名に対し、連合軍の死傷者は3000名。
・スィゲトヴァール包囲戦
1566年 ハンガリー軍2000~3000vs★オスマン軍10万~30万
ウィーン遠征へ向かうトルコ軍がクロアチア総督ズリンスキ率いるハンガリー軍を包囲。1ヶ月にも及ぶ激戦の末に防衛軍はほとんど全滅したが、トルコ軍にも2万人の犠牲者が出た上、スレイマン1世が陣没したため、撤退を余儀なくされた。リシュリューはこの戦いを「文明が救われた戦い」と称えた。
・今山の戦い
1570年 戦国時代 ★龍造寺軍5000vs大友軍6万~8万
佐賀城に籠城した竜造寺隆信を大友宗麟率いる大軍が包囲する。攻防戦は4ヶ月にも及び、落城は目前に迫ったが、大友軍が勝利を確信して宴を催したところを奇襲し、これを破った。
・木崎原の戦い
島津軍は数で勝る伊東軍を伏兵に背後を突かせることで破った。島津軍は275人が犠牲となったが、伊東軍は指揮官の伊東祐安含む800人以上が戦死した。この戦いは後の島津軍の戦いにおいて参考にされ、九州制覇に貢献した。
信長は石山本願寺に味方する雑賀衆の討伐を試みるが、雑賀衆は1ヶ月にも及ぶゲリラ戦でこれを退け、両者の間に和睦が成立した。
・天目山の戦い
1582年 戦国時代・甲州征伐 武田軍43vs★織田軍3000~4000
織田軍に追い詰められた武田軍の最後の戦い。武田軍は奮戦虚しく壊滅し、武田勝頼は自害したが、織田軍にも900人近い死傷者が出た。
・沖田綴の戦い
1584年 戦国時代 ★島津・有馬連合軍6000vs龍造寺軍6万
連合軍は数で勝る龍造寺軍を釣り野伏せで破った。この戦いで総大将竜造寺隆信は戦死した。
・岩屋城の戦い
島津軍は筑前を攻めた際、高橋軍の籠城する岩屋城を攻略した。高橋軍は講話の提案にも応じず、激戦の末に全滅した。島津軍は4500以上の死傷者を出した。
・忍城の戦い
1590年 戦国時代・小田原攻め 成田軍2000vs★豊臣軍2万~5万
石田三成ら率いる大軍が忍城を包囲し、水攻めを行うも、成田軍はそれに耐え、北条氏が滅亡した後に降伏した。
・四川の戦い
1597年 慶長の役 ★島津軍2000vs明・朝鮮連合軍10万
島津義弘率いる日本軍が明軍に包囲されるも、これを返り討ちにした。日本軍の勝因として、鉄砲を使用したこと、明軍の食料庫を焼くことで短期決戦に持ち込んだこと、連合軍の統制がとれなかった上に圧倒的な兵力差故に慢心していたことが挙げられる。
田辺城に立て籠もった東軍を西軍が包囲するが、東軍には文化人細川幽斎が居たため、西軍は積極的な攻勢が出来ず、2ヶ月ほど釘付けになった。最後は後陽成天皇の命で開城したが、西軍は関ヶ原の戦いには間に合わなかった。
関ヶ原へ向かう徳川秀忠指揮下の東軍が真田昌幸率いる西軍と交戦した。足止めを食らった東軍は関ヶ原に間に合わなかった。
1762年 七年戦争 ★スペイン軍100vsイギリス軍2000
イギリス軍がニカラグアの処女降誕要塞を包囲するが、スペイン軍は19歳の少女ラファエラ・エレーラの指揮下で奮戦し、砦を守り抜いた。
・アラモの戦い
1836年 テキサス独立戦争 テキサス軍200vs★メキシコ軍4000
当時メキシコ領であったテキサスに移住したアメリカ人がメキシコに対して反乱を起こした。アラモ砦に籠城したテキサス軍はメキシコ軍の包囲に対し13日間持ちこたえた末に全滅した。
・雨花台攻略戦
湘軍によって要塞化された雨花台を太平天国軍が5ヶ月にわたって何度も攻撃するが、落とせず1万の兵力を失った後に攻略を諦めた。
サビーネ湖とメキシコ湾を繋ぐサビーネ・パスを防衛する南軍が北軍の攻撃を受けるも、これを撃退する。北軍は100名が死傷し、350名が捕らえられた。
・カマロンの戦い
1863年 ナポレオン三世のメキシコ出兵 フランス外国人部隊65vs★メキシコ軍2000
65名の外人部隊は現金300万フランを輸送する部隊の護衛を任されていた。メキシコ軍の大軍の前に破れ、43名が戦死、19名が捕虜となったが、輸送部隊は目的地へ現金を届ける事が出来た。
1879年 ズールー戦争 ★イギリス軍150vsズールー軍3000~4000
ロルクズ・ドリフトの伝道所跡に築かれたイギリス軍の砦をズールー族の大軍が襲う。イギリス軍は2日間の激戦に勝利し、ズールー軍は800名以上の死傷者を出した。
・アブ・クレアの戦い
1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1100vsマフディー軍1万2000
ゴードン将軍の救出に向かうイギリス軍とマフディー軍が激突し、マフディー軍は1100人の死傷者を出して敗北した。
・アブ・クルの戦い
1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1200vsマフディー軍1万4000
ゴードン将軍の救助に向かうイギリス軍がマフディー軍と交戦し、勝利した。マフディー軍の損失は明らかではないが甚大であるとされる。
盧溝橋付近で日本軍の夜間演習中に日本兵一人が行方不明になる。日本軍がこれを理由に中国軍を攻撃し、破った。この事件が熾烈な日中戦争のきっかけとなった。
・タラワの戦い
1943年 太平洋戦争 日本軍2600vs★アメリカ軍3万5000
タラワ環礁ベティオ島を防衛する海軍部隊とアメリカ海兵隊が激突した。島は3日で陥落し、守備隊は玉砕したが、米軍も3000人が死傷し、軍への志願率が一時的に減少した。
・拉孟の戦い
1944年 日中戦争 日本軍1300(うち傷病兵300)vs★中国軍2万
日本軍と中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は8000人が死傷した。
・騰越の戦い
日本軍と中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は2万人が死傷した。
・アンガウルの戦い
1944年 太平洋戦争 日本軍1250vs★アメリカ軍2万1000
日本軍歩兵第59連隊第1大隊が守備するアンガウル島をアメリカ軍第81歩兵師団が攻略した。1ヶ月以上にも及ぶ激戦の末に日本軍は玉砕したが、米軍も2000人死傷した。
・一江山島戦役
1955年 第二次国共内戦 国民党軍700vs★共産党軍7000
人民解放軍が一江山島に侵入、2日で占領した。台湾軍は全員が戦死するか、捕虜となったが、解放軍にも2000人の死傷者が出た。
・ロングタンの戦い
1966年 ベトナム戦争 ★オーストラリア軍108vsベトコン2500
ベトコンがオーストラリア軍を襲撃するも、撃退された。オーストラリア軍は42名、ベトコンは600名が死傷し、双方が勝利を主張した。
参考作品「デンジャー・クロース 極限着弾(クリフ・ステンダーズ監督)」
・ロンゲワラの戦い
1971年 第三次印パ戦争 ★インド軍120vsパキスタン軍2000
ラジャスタンのロンゲワラ村でパキスタン軍とインド軍守備隊が交戦。インド軍は航空機の支援を得て、パキスタン軍を破った。パキスタン軍の死者200名に対し、インド軍の死者は2名ほどであった
1993年 ソマリア内戦 ★多国籍軍160vsソマリア民兵2000
アメリカ、マレーシア、パキスタンからなる多国籍軍が、民兵のリーダーであるアイディード将軍の側近二人を逮捕すべく派遣され、民兵と交戦状態になった。民兵は数百人が死傷し、多国籍軍は目的を達成したが、100名以上が死傷した。
参考作品「ブラックホーク・ダウン(リドリー・スコット監督)」
http://anond.hatelabo.jp/20170604204919
1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇は後鳥羽天皇を即位させ、寿永二年の宣旨で頼朝の東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝の上京を要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝は東国の支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経が上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。
義仲が京都で乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。
兵糧不足のまま進撃して首都を占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件(南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?
また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います。
(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝が西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ、自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)
「頼朝は挙兵以来、北条氏や三浦氏などの東国の武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察を担当する侍所を設けて、有力御家人の和田義盛を別当(長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。
頼朝は後白河法皇の要請を受け、範頼と義経に平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏を滅亡させた。後白河法皇は頼朝の権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿・九条兼実(藤原兼実)らを朝廷の重要政務を担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族を追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝は義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝は東国や西国の多数の武士を御家人として組織しながら、主に東国の支配を確立していった。
1190(建久元)年、頼朝は挙兵後はじめて京都に入り、右近衛大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」
当然ながら『詳説日本史』にも、侍所、政所、問注所、地頭というキーワードは出てきます。しかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています。
それに比べて、この教科書は歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから、時系列に即してこれらの言葉の意味を理解することができるはずです。
結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。
鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます。名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府の政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。
あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。
一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護・地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職が地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?
例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています。守護は「おもに東国出身の有力御家人」から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内の御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人を支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務は年貢の徴収・納入と土地の官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配を保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公の関係となって封建制度の基礎となりました。
ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されています。しかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。
私は最初にこれを読んだとき、わけが分からなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許で守護・地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。
1960年に石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたものが守護・地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護の前身となりました。
三省堂の教科書は、次項でそのことが説明されています。頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園・国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢・公事の徴収、治安維持に当たらせた」としています。
このように、三省堂の教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。
実教出版もこの新説を採用しています。こちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります。東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護の前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います。
それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護・地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用な矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。
なお、山川の参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語が掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭の前身だったと思わせるような記述です。
地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝の要請で後白河法皇は諸国の公領・荘園に地頭を設置することを認めた。当初は1国単位に荘園公領を支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家・寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務は土地管理、年貢・兵糧米の徴収、治安維持など。
ですが三省堂・実教出版・東京書籍の教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています。
「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語を独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。
(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭が掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。
予防線を張っておくと、私は高校で日本史Bを履修しなかったし、大学も理系に進みました。教科書を読んだのは興味本位にすぎません。
はじめに書いたとおり、最新版の教科書を持ってません。今回はてブでバズっていてびっくりしましたが、筆者は歴史学の専門家でも何でもないことをお断りしておきます。
再追記。id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝です。)
(追記2
複数の教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます。
『詳説日本史』では、前九年合戦・後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏は東国武士団との主従関係を強め、武家の棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから、教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています。
ここで例えば山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかったことを理解することができるのです。(上述参照)
つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。
『詳説日本史』によると、戦国大名の性格は次のように説明されています。戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人や地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準で統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代を下り、別のページで豊臣秀吉の太閤検地を説明しています。太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分の田畑の所有権を法的に認められることになった」わけです。
このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版『日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ、大名の統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しか分からないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。
この視点を最もわかりやすく記述しているのが、三省堂『日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉は太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地の一元的支配の確立、荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。
ちなみに、東京書籍『日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制の体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)
はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。
『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。
僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああいう教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである。
ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである。日本民族がいかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的な価値観を元に記述せざるをえなくなる。
客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。
いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。
クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。
例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています。
平清盛が後白河法皇を幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団や中央の貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇の皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏の源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。
これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団が挙兵して、ついに内乱は全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。
平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。
しかし、畿内・西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏は北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国に都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼・義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係の説明が詰め込まれています。
まず、平清盛が後白河天皇を幽閉したこと、安徳天皇を即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています。
当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています。
次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団や中央の貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王と源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています。
これはまさしく因果関係に言及しているわけです。
このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価や因果関係がしっかりと述べられているのです。
そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。
なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています。
治承・寿永の乱は、一般には源氏と平氏の戦いといわれている。しかし歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏と平氏の勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王の挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃・近江・河内の源氏、若狭・越前・加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏らである。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである。
彼らの動向をまとめあげ、武家の棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲・源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。
教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。
他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。
【参考文献】
(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)
伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏の根拠地・鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦、千葉、上総氏などの有力な東国武士と主従関係を結んで御家人とし
頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います。
三浦、千葉、上総という武士の名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏の名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦のときに唐突に登場します。)
[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政・裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元・三善康信が就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島で平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦で平氏を滅ぼした。
[]は引用者註。
この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。
鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています。
北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦いで平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国の地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原(神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇と対立したので、法皇は同年、頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経はさらに平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏一門を滅ぼした。
この教科書は歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。
上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏が都落ちに安徳天皇を伴ったことも言及なし。
というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります。
鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍に面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。
教科書の中では唯一、桐原書店だけが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。
(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍に面接して」という説明も省かれています)
["新恩給与"についての註]
土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。
これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!
所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世の土地支配の構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います。
なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています。
職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園の場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。
この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。
しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会と文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています。
地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益の意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利。
これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配の構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?
せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。
さて、桐原書店の教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています。
幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権を意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近衛大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。
Aについては南北朝時代の武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨・甲斐善光寺蔵)。
とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。
網野善彦の著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います。
他の教科書には載ってませんが、ピンポイントで東大入試に出題されました。
源氏と鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏の氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮(八幡宮の前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。
鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍の教科書だけです。
上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉と経済流通」というのも掲載されています。
東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉の都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います。
こののち、後白河法皇は義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令を希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。
頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています。
あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷の命令を無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。
それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇・朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。
両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます。
関西にある政権が東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ。
平氏は安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力を回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門の壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。
この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス。
都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。
どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています。
ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西の教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇や平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)
例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国の武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とあります。さらに西国の御家人が東国の御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書の関西中心っぽい史観は独特です。