はてなキーワード: 調停とは
隣の住人の行動があなたにとって不快であり、管理会社にクレームを提出したとのことですね。
このような状況に対処する際には、次のようなステップを検討することができます:
まず、隣の住人と穏やかに話し合い、彼がなぜ夜中に騒音を立てているのか、その原因を尋ねてみることが考えられます。
既に管理会社にクレームを提出したようですが、問題が続く場合は、再度連絡を取り、問題の状況を説明し、解決策を要求してみてください。
管理会社は住人間の紛争を調停する役割を果たすことがあります。
騒音問題が長期間続く場合、地方自治体に相談することも一つの選択肢です。
多くの地域で、夜間の騒音は法的に制限されており、この種の問題に対処するための規則が存在します。
自治体のウェブサイトで詳細を調べ、連絡先を見つけてください。
問題が解決しない場合、法的手続きを検討することが必要になるかもしれません。
これには、警察や法的アドバイスを提供する弁護士との協力が含まれる可能性があります。
何度強弁しても、親権は子供を主に養育している側が有利な「だけ」ではないよ
裁判所が親権者を決める際に判断する基準の1つであり、子どもの親権者には母親を優先的に選ぶという原則のことです。
離婚する際に、夫婦で話し合いをしても離婚(協議離婚)が成立しない場合には、離婚調停を申し立てて争うことになります。
そして、調停でも離婚条件などに合意できないときは、裁判官が、どちらが親権者にふさわしいのかを判断します。この判断基準の1つが、「母性優先の原則」です。
この原則は、離婚する夫婦に乳幼児や年少の子どもがいる場合に、特に考慮されます。子どもは母親のもとで暮らした方が生育上望ましいことから、母親が親権者として優先的に判断されることになります。
母性優先の原則とは、子の福祉の観点から、子どもは父親よりも母親と暮らした方が望ましいという一般原則です。
特に子どもが小さければ小さいほど、この原則が重視される傾向にあります。乳児(0歳)や幼児(1歳~5歳)であれば、なおさらです。
親権者決定においては「母子優先」の原則があるため、父親が不利になりやすいでしょう。
とくに乳幼児の場合は特別な事情がない限り、母親が親権を持つべきという考え方があります。
子どもが小さいうちは母親によるきめ細かな養育が不可欠で、子どもの幸せのためになるとみなされているからです。
父親が親権を取れる確率は?重視されるポイント・親権獲得のためにすべきことを解説 | 離婚・不倫慰謝料相談 弁護士ほっとライン
「幼い子供にとって母親は必要不可欠な存在であり、子供は母親と暮らし方が幸せである」という考え方があります。これを「母性優先の原則」といいます。
実際に、特に乳幼児など、子供の年齢が幼ければ幼いほど、母性優先の原則が重視され、親権争いでは母親の方が有利であるというのが実情です。
離婚と親権|親権者とは?5つの要件や母親がなれないケースなど | 法律事務所へ離婚相談 | 弁護士法人ALG&Associates
なんか、この増田 そもそも女性の言う「男らしさから降りる」って何? とか「男らしさから降りる」ってことについて話題になってるので、弱者男性の当事者から見た「男らしさから降りる」の定義を考えたい。
なお、増田の当事者性を示すと、独身、低収入、氷河期、障害者、交際経験無しなので、十分と言えると考える。
いわゆるレディファースト、重い荷物を持つ、デートの費用を負担するなど、父権主義的、騎士道精神的な行動を行わない。
これは、SNSで「フェミ騎士」とか「チン騎士」と言われるような、フェミニストの主張を擁護し、他の男性を(時に過剰に)批判するような姿勢を含む。
「宇崎ちゃん」や「月曜日のたわわ」といった、フェミニストとオタクの利害が鋭く対立する問題がある。このようなときに、妥当な交換条件や、譲歩を得られないままに、一方的に譲歩しない。
相手が、一方的な譲歩を求め、政治的な力で圧力をかけてきた場合は、弱者なりに反撃する。それは、例えば暇空茜にカンパするといった手段などが考えられる。
ただでさえ、弱者男性の分け前は少ない。だから、私たちから奪うことは許さない。
これは、「男女共同参画」に大きな予算がつき、貧困女性の支援から、エリート女性のクォータ制まで政策課題として推進されるのに対して、男性の自殺問題など「ガラスの地下室」が一向に顧みられない状況も含む。
しかし、そもそも弱者男性は女性と異なり顧みられない存在、どうでもいい存在、社会のゴミ、お荷物なので、助けてくれと言っても無駄だ。だから、社会に対する非協力、拡大自殺と呼ばれるような暴力で無理やりにでも「社会問題」にするしかない。
だから、まず、例えば家族を養うなどの男らしさを放棄することが考えられる。一家の大黒柱が、いきなり仕事をやめるのは、男らしさの否定である。あるいは、別居に伴う婚費の支払い、婚費の負担に耐えかね調停で不利な条件を飲む、その後の養育費の支払い負わされるといった例が珍しくないが、資産の処分や退職、自殺といった焦土作戦は非常に男らしくないだろう。
結婚していない弱者男性の場合は、社会の中でただでさえ少ない分け前しかもらえない中で、責任を負うことなどできない。むしろ、そもそも責任を負わせてくれることもない。だから、非社会的に振舞い、責任を回避し「お荷物」になり続けるしかない。
恒常性(こうじょうせい)ないしはホメオスターシス(homeostasis)とは、生物において、その内部環境を一定の状態に保ちつづけようとする傾向のことである。
(元ネタ:ヴェーダ https://w.wiki/4EJd)
子どもの頃に「北風と太陽」というイソップ童話を読んだことがある人は、スムーズに①抑圧→②解放→③闘争→④調和を通過できる。
試行錯誤で気づいた人は、人生の晩年になってやっと④へたどり着くか、下手すると途中で止まったまま人生を終える。
人生における成果は、農業のサイクルに例えて考えることができる。
(人間の寿命を80歳程度とした場合の割合なので、100歳生きる人なら25歳区切りぐらいで4等分すればOK)
の2つが理解できるようになる。
このうち、どんな人にでも共通する同じ部分の中に、人間の本質が存在している。
なぜ、自他の区別が存在して、自分を一番大事に扱うかというと、自他の共通点=人間の本質が理解できていないから。
自分と他人が別物に見えてしまっている段階にいる、というわけ。
自分と他人の共通点、すなわち人間とは何なのか?ということが理解できる者は、自分と他人を同等に見ることができるし、同じ扱いもできるようになる。
1位が自分であり、それと同じく1位に他人を入れることも可能になる。この段階で初めて、利己と利他が同じになる。これは理屈ではなく体験しないと理解できないので、もし頭だけで理解したつもりになったら、「まだ自分は理解していない」と思わないとダメ。口先だけの傲慢な奴になるだけなので。
※この文章では、曖昧かつ抽象的な表現を用いているが、厳密にこの話を理解するためには、圏論とゲーム理論の理解が必要になる。
(夏休みの中高生では、まだ圏論やゲーム理論を学んでいない可能性があるので、平易な日本語で説明した)
人間の成長段階で③闘争の段階に該当しており、物理的な衝突ではなく精神的/論理的な衝突において、自分の主張と相手の主張をぶつけ合って、調停できなかった状態と言える。
従って、③闘争から④調和への移行ができていないので、ここが改善する課題ということになる。
もし可能なら、この投稿を印刷して、振られた相手に読んでもらい、今回失敗した原因を指摘してもらうべき。
「あなたのこの部分がダメだったから振った」と分かれば、次からはそこを直せばOK。
相手に新しいパートナーがいる場合は、無理して寄りを戻そうとしない。それは単なるストーカーであり、迷惑でしかない。
せっかく欠点を教えてもらえたのなら、感謝して次の恋愛に活かすべきである。
全てにおいて完璧な人間はいないので、失敗するのは仕方ないけど、何度も同じ失敗を繰り返すのは、やはり愚かと言わざるを得ない。
学習機能が備わっていれば、失敗の原因と解決策を理解して、失敗を克服して人間は成長できる。
人生は有限だけど、失敗してもただでは転ばない。失敗は成長の素と考えて、みんなで頑張ろう。
https://anond.hatelabo.jp/20230817044541
これまで俺は、「自分のことを一番大切に考える」って方法で自分を守ってきた。周りがどんな状況でも、まずは自分を大切にする。それから余裕がある範囲で周りのことを考える。って感じ。
でも恋愛をして恋人ができて、その先の結婚とかも考え始めたら、それじゃもう回っていかないんだな。相手も、そんな俺の考えを察知すると、当たり前だけどいつも悲しそうにしてた。
不動の一位だった「自分」と同じところに「恋人」を入れることが恋愛なんだろうか。
俺は、お互いが「自分が一位、相手が二位(またはそれ以下)」の方が上手くいくって考えてたから、そのスタンスのまま行くつもりだった。
でもやっぱそれは通用しなかったんだな。
難しい。
しばらく共同親権界隈の出来事を見守っていて、いやはやこれはすごいことになってるわと思った。たぶんこういう世界に関わり合いのない人達からすると、目も眩むようなような世界が広がっている。
共同親権絡みの話題って、ネットで目にするものだけ追ってると、「別居親(特に父親側)みんなが共同親権求めてる」みたいな印象持っちゃうけど、そもそも別居親みんなが共同親権くれくれ派ではないのよね。
現時点で別居親の境遇にあって、子どもとの面会交流の機会が充分に持てないなかで、「子との面会交流の機会を持ちたい」って希望をかなえるために頑張ってる人達がいる。そゆ人達は、別居に到った理由(たとえば自分のモラ傾向とか)を反省しつつ、同じ境遇の別居親アカウントと情報交換したり慰め合ったり愚痴を言い合ったりしつつ、一生懸命に元妻や元子どもに誠意をアピールし、時には「全面屈服」みたいな自虐的表現も交えつつ、うまくいった人は徐々に面会交流の回数や時間を増やしたりもしてる。中には「元家族から『よりを戻そう』という申し出を受ける」という幸福な段階に至れた人もいる。つまり「子どもに会う機会が欲しい」という自分の目的がわかってて、そのためにやれることを地道にやってるクラスタ。このあたりは、AAとかの依存症自助団体に似た雰囲気もある。自分を見つめ直し、自己の問題を受け入れましょう、そこからがスタートです、的な(実際、そういう当事者団体もある)。こういう人達はおおむね自己葛藤を繰り返しつつ目的のために誠実に実績を積み上げてる。目的と手段が合致してるといってもいい。彼らの多くは共同親権の制度化についても賛同はしてるけど、そこに望みを託してるわけじゃないし、「共同親権界隈の運動」のことは醒めた目で見てる。
そのネットの「共同親権推進派」のほうは、「そもそもそういうことができない別居親たち」の吹きだまりになってる。別居親当事者がこの界隈を指してしばしば使う言葉に「他責思考」ってのがあるんだけど、ほんとその通りで、とにかく全般的な論調がめちゃめちゃ他責的。今の自分が別居親という境遇にあるのは、妻が悪いからだ、あるいは義実家が悪いからだ、人権派弁護士が悪いからだ、家裁が悪いからだ…と、とにかく理不尽で不条理な「敵」の悪意や攻撃の被害者として自分をとらえてる。
んで、自分をそのような境遇に陥れた元配偶者やそれを支援する人達を、連れ去り事案だ、実子誘拐だ、片親疎外だ、児童虐待だ、洗脳だ、国際的なスタンダードに則してないと罵倒し、同じような考えの別居親当事者とつるんで怪気炎を上げる。自分の家族とは無関係な、共同親権に対して慎重な弁護士たちの懲戒請求をする。面会交流支援の施設での写真をネットに晒してその仕組みの不当性を訴える。いつできるかもわからず、自分がその恩恵を受けられるかもわからん法律の成立のために、ネット上で支離滅裂な「運動」するよりも、今すぐに取り組めて実効性もある「もっと子どもと会うためにやれること」はいっぱいあるはずなのに、それはやらない。
さらに怖いのが、その「俺は一切悪くない」の人達の中に、「ちょっと手を上げられた程度で」「一度『出て行け』と言ったくらいで」とか普通にTwitterに書いちゃうやつが一定数いること。自分自身がDVをやったり追い出しをかけたり(どっちも法定離婚事由の「悪意の遺棄」にあたる)した有責配偶者であることを認めてるのに、でも「俺は悪くない」という認知。ツイートで「虚偽DV」みたいな言葉を振りかざす人達も、そのことは咎めない。そんな雰囲気だから、今回のハッシーの件も、共同親権界隈にはハッシーの行動を擁護する声も多い。自分自身が「出ていけ」と言い放った妻子に対して、言われたとおりに出て行った後で「連れ去りだ」と激怒する支離滅裂なメンタリティが、問題視されずに「そうだそうだ」と受け入れられている。クワ持って殺人未遂事件を起こしたやつは悪くない、悪いのは実子誘拐をしたヨメや片親親権という悪法だ、ということになってしまう。
こういうタイプの人は、仮に一念発起して家裁の面会交流調停を弁護士に依頼しても、途中で辞任されるケースが多いらしい。なんせ弁護士のアドバイスをまともに聞かない。事前に「不利になるからNG」と念を押されていても、堂々と「妻が暴力を振るわれてもしかたない理由があった」「家族なんだからそれぐらいは当たり前」みたいなことを平気で言っちゃうんだから、調停がうまく行くわけがない。離婚案件に詳しい堀井亜生弁護士によると、モラハラ夫の依頼者は「弁護士を変える、必要な証拠を提出しない、遅刻する、裁判官の意見に納得ができないと怒る」みたいなことが多いそうな。さもありなん。
そういう連中の語りを読み続けて薄々わかってきたのは、彼らにとって共同親権というのは、結局「子どもとの面会交流の機会を得るための手段」じゃないってこと。「かつて、自分自身の振る舞いのせいで失ったもの(家族というリソースと、それを一時は所有・支配していた自分の権能とメンツ)を、自分の側は一切の譲歩も努力も歩み寄りも謝罪もせずに、法的な強制力によって、コスト0で取り戻すための手段」なの。「俺は悪くない」の変形で、報復。
もちろん共同親権推進派にも、運動論的な目線で「そんなこと言ってたら、世間的に共同親権推進派は頭おかしいやつばっかりだと思われる」「批判すべきは批判すべきだ」という良識派はいるんだけど、主流派からは叩かれたり黙殺されたりしている。ネットの共同親権界隈のメインストリームは「憎悪と他責の共同体」みたいなところがあって、その仲間意識を乱すような、自己批判や自浄を促すような言説を一切受け入れない当事者も多い。本当にきつい界隈だなと思う。
年 | 名称 | 概要 |
---|---|---|
1531年 | 享禄・天文の乱 | 浄土真宗本願寺派の権力闘争である享禄の錯乱。管領・細川晴元が一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文の錯乱。 |
1532年 | 北部九州天文の乱 | 大内氏と大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆が大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前・筑前・肥前を平定した。 |
1533年 | 稲村の変 | 安房里見氏当主・里見義豊が、叔父の里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。 |
1536年 | 花倉の乱 | 駿河守護・今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探と栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳が勝利し今川義元を名乗った。 |
1537年 | 河東の乱 | 北条氏と今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏が武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏が今川領に攻め込み河東地域を占領した。 |
1542年 | 天文の乱 | 伊達氏当主・稙宗とその息子・晴宗の内紛。婚姻外交が進んでいた奥州を二分する大乱に発展した。最終的に晴宗が当主となったが伊達氏は衰退した。 |
1550年 | 二階崩れの変 | 豊後の大名・大友氏において、嫡男の義鎮を支持する勢力が、当主の義鑑と三男の塩市丸を襲撃して殺害した。事件後に義鎮が当主となった。 |
1551年 | 大寧寺の変 | 周防の大名・大内義隆に対して、家臣の陶晴賢が謀反、義隆は自害に追い込まれた。後継は大友氏から迎えられ、陶晴賢が実権を握った。 |
1565年 | 永禄の変 | 畿内で勢力を誇る三好氏が、将軍・足利義輝を襲撃して殺害した。その後、将軍の後継争いから、三好氏の内紛へと発展していった。 |
1568年 | 本庄繁長の乱 | 越後上杉家臣・本庄繁長が上杉謙信に対して反乱を起こした。繁長がよく戦い、謙信の被害も大きかったので、繁長は降伏して帰参を許された。 |
1569年 | 本圀寺の変 | 本圀寺にいた将軍・足利義昭を三好三人衆が襲撃した。幕府軍がよく守るあいだに畿内の織田方の勢力が救援に駆けつけたため、三好三人衆は敗れた。 |
1569年 | 大内輝弘の乱 | 九州に侵攻した毛利氏の後方撹乱を狙った大友氏が、大内氏再興を目指す大内輝弘を周防で挙兵させた。毛利元就は九州侵攻を諦めて引き返し鎮圧した。 |
1570年 | 元亀の変 | 伊達晴宗と伊達輝宗の父子が対立するなかで、晴宗に重用されていた中野宗時が謀反の疑いをかけられ、中野一族は粛清・追放された。 |
1574年 | 天正最上の乱 | 出羽最上氏の当主となった最上義光と、その父・義守が対立し、伊達氏が義守に味方して内乱となった。最終的に義光有利で和睦した。 |
1576年 | 三瀬の変 | 伊勢北畠氏は織田氏に降伏し、織田信雄を養子に迎えて家督を譲っていたが、その後も叛意が残っているとされ、そのため北畠一族は粛清された。 |
1578年 | 御館の乱 | 上杉謙信の死後、その甥の景勝と、北条氏から迎えた景虎という、謙信の養子二人で後継争いがあり、武田氏を味方につけた景勝が勝利した。 |
1578年 | 天正伊賀の乱 | 伊勢を掌握した織田信雄が続いて伊賀に攻め込んだが敗退、数年後に織田氏はあらためて大軍で侵攻し、伊賀を平定した。 |
1582年 | 本能寺の変 | 織田家臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した。信長は自害した。 |
1582年 | 天正壬午の乱 | 織田信長の死去により武田旧領から織田軍が撤退し、空白地帯となった武田旧領を巡って徳川・北条・上杉が三つ巴で争った。 |
1585年 | 粟ノ巣の変 | 伊達氏に降伏した畠山義継が、前当主・伊達輝宗を拉致した。追いかけた伊達軍により、輝宗ともども義継は討ち果たされた。 |
1591年 | 九戸政実の乱 | 南部晴政の死去に起因する後継争いから南部家臣・九戸政実が反乱を起こした。南部当主・信直は豊臣秀吉に救援を求め、諸大名軍により平定された。 |
1599年 | 庄内の乱 | 島津忠恒が重臣・伊集院忠棟を誅殺した。伊集院氏は籠城して徹底抗戦したが、秀吉死後に実権を握った徳川家康の調停により、最終的に降伏した。 |
1637年 | 島原の乱 | 島原・天草の苛政に耐えかねた領民が、旧領主に仕えていた浪人たちを中心として一揆を起こした。一揆勢は籠城して戦ったが、幕府軍に鎮圧された。 |
1651年 | 慶安の変 | 軍学者の由比正雪が、教え子の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。由比正雪は自決した。 |
1652年 | 承応の変 | 軍学者の別木庄左衛門が、仲間の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。別木庄左衛門は磔にされた。 |
1837年 | 大塩平八郎の乱 | 腐敗した大坂町奉行所や、飢饉でも米を買い占める豪商に失望した元・町与力の大塩平八郎らが決起し、豪商などを襲撃した。半日で鎮圧された。 |
1837年 | 生田万の乱 | 国学者の生田万が、大塩平八郎の乱に感化され、仲間とともに越後桑名藩の陣屋を襲撃したが、長岡藩によって鎮圧された。 |
1860年 | 桜田門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、安政の大獄を引き起こして水戸藩を圧迫していた開国派の大老・井伊直弼を襲撃し、暗殺した。 |
1862年 | 坂下門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、公武合体を推し進めていた開国派の老中・安藤信正を襲撃し、負傷させた。 |
1863年 | 朔平門外の変 | 破約攘夷派の公家の代表格であった姉小路公知が暗殺され、薩摩藩の田中新兵衛が逮捕されたが、新兵衛が自害したため真相は不明。 |
1863年 | 天誅組の変 | 尊攘派公家による倒幕計画に基づき、尊攘派の「天誅組」が大和国で挙兵したが、幕府に鎮圧された。同時に京では政変があり尊攘派公家が失脚した。 |
1863年 | 生野の変 | 長州の支援を受けた尊攘派浪士らが、天誅組と同様に但馬国で挙兵をしたが、幕府に鎮圧された。 |
1864年 | 天狗党の乱 | 水戸藩内の尊攘過激派「天狗党」が急進的な攘夷を求めて筑波山で挙兵したが、幕府に鎮圧された。この内乱により水戸藩の影響力は低下した。 |
1864年 | 禁門の変 | 前年の政変により京から追放されていた長州藩が、復権を目指して京で挙兵、会津藩や薩摩藩らと戦ったが敗れた。これにより長州征伐が決まった。 |
1874年 | 喰違の変 | 征韓論で失脚した不平士族たちが、征韓反対派の右大臣・岩倉具視を恨みに思い襲撃、負傷させた。下手人らはすぐに逮捕され処刑された。 |
1874年 | 佐賀の乱 | 征韓論で失脚した江藤新平らが中心となって不平士族が佐賀県で挙兵したが、政府軍により鎮圧された。 |
1876年 | 神風連の乱 | 熊本県の不平士族が結成した「敬神党」が廃刀令への反発から挙兵したが、政府の熊本鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 秋月の乱 | 神風連の乱に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、政府の小倉鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 萩の乱 | 神風連の乱に呼応して、山口県で不平士族が挙兵したが、政府の広島鎮台軍により鎮圧された。 |
1877年 | 福岡の変 | 西南戦争に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、福岡城に残っていた政府軍などに鎮圧された。 |
1878年 | 紀尾井坂の変 | 石川県の不平士族たちが、内務卿・大久保利通を襲撃、暗殺した。下手人らは自首し、処刑された。 |
(Wikipediaで立項されているものだけまとめた。「〜の変」「〜の乱」という別称があっても、その呼称で立項されていなければ除外している)
明確な定義は決まっていないという前提で、だいたい以下のような基準だと思う。
〜の変:大きな戦闘を伴わない政変。謀反・暗殺・粛清・失脚など。権力の上下は関係ない。成功したか失敗したかは関係ない。
〜の乱:大きな戦闘を伴う内乱。反乱・暴動・後継者争いなど。国家同士の戦争を指すことはほぼ無い。成功したか失敗したかは関係ない。
こういった呼称は「絶対にいずれかに統一しなければならない」というものではないので、「これって乱というより変じゃね?」と思うような事件は、だいたい「変」「乱」どちらで呼んでも通じたりする。たとえば蘇我氏と物部氏の戦いである「丁未の乱」は他に「丁未の変」や「丁未の役」とも呼ばれる。将軍・足利義教が暗殺された事件は、その暗殺の部分だけを見れば「嘉吉の変」と呼ばれ、その後の赤松討伐戦も含めれば「嘉吉の乱」と呼ばれる。
あとついでに。
〜の役:大規模な軍役。必然的に辺境への遠征や対外戦争が多い(がそれに限らない)。例として前九年の役・後三年の役・富山の役・文禄の役・慶長の役など。
〜の陣:長期間の在陣。遠征・戦線の膠着・包囲戦など。例として鈎の陣・志賀の陣・天正の陣・大坂の陣など。
という感じだと思う。「役」と「陣」はなんとなく互換性があり、「小田原の役・小田原の陣」「朝鮮の役・朝鮮の陣」「大坂の役・大坂の陣」などはどちらも用いられる。
年 | 名称 | 概要 |
---|---|---|
463年 | 吉備氏の乱 | 雄略天皇が吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。 |
479年 | 星川皇子の乱 | 雄略天皇と吉備田狭の妻のあいだに生まれた星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。 |
527年 | 磐井の乱 | 朝鮮半島へ出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州の豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。 |
587年 | 丁未の乱 | 仏教の布教を巡って、大臣・蘇我馬子と、大連・物部守屋が対立し、戦に発展した。蘇我氏が勝利した。 |
645年 | 乙巳の変 | 中大兄皇子・中臣鎌足らが、朝廷を壟断していた蘇我入鹿を暗殺、続いて蘇我氏を粛清した。 |
672年 | 壬申の乱 | 天智天皇の後継者争いが発生し、皇太子・大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子が挙兵した。大海人皇子が勝利して天皇となった。 |
729年 | 長屋王の変 | 皇族の長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王は自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。 |
740年 | 藤原広嗣の乱 | 藤原四兄弟の死により藤原氏の勢力が退潮し、九州に左遷されて不満を持った藤原広嗣が太宰府で挙兵したが、朝廷軍により討伐された。 |
757年 | 橘奈良麻呂の乱 | 橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。 |
764年 | 藤原仲麻呂の乱 | 孝謙上皇と対立した太政大臣・藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。 |
780年 | 宝亀の乱 | 朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷の族長・伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純を殺害して反乱を起こした。 |
782年 | 氷上川継の乱 | 天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇の崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。 |
807年 | 伊予親王の変 | 藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王が自死したが、のちに冤罪と認められた。 |
810年 | 薬子の変 | 平城上皇と嵯峨天皇の対立が激化し、平城上皇は挙兵を決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇は出家した。 |
842年 | 承和の変 | 嵯峨上皇の崩御に伴い、皇太子・恒貞親王を擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王が皇太子となった。 |
866年 | 応天門の変 | 応天門に放火があり、大納言・伴善男が「左大臣・源信の仕業だ」と告発したが、逆に伴善男が真犯人だとされて流罪になった事件。 |
878年 | 元慶の乱 | 長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。 |
889年 | 寛平・延喜東国の乱 | 関東の治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望が勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。 |
901年 | 昌泰の変 | 右大臣・菅原道真が失脚し、大宰府に左遷された事件。左大臣・藤原時平の陰謀だとされる。 |
938年 | 天慶の出羽俘囚の乱 | 朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明。 |
939年 | 承平天慶の乱 | 東では坂東平氏の平将門が、西では藤原一族の藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。 |
947年 | 藤原是助の乱 | 伯耆の豪族・藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。 |
969年 | 安和の変 | 謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣・源高明が太宰府に左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。 |
986年 | 寛和の変 | 皇太子の外祖父であった右大臣・藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件。 |
995年 | 長徳の変 | 「花山法皇が自分の恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したことで藤原道長が台頭していく。 |
1028年 | 平忠常の乱 | 坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。 |
1107年 | 源義親の乱 | 源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲で乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏の繁栄のきっかけとなった。 |
1113年 | 永久の変 | 千手丸という童子が鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。 |
1156年 | 保元の乱 | 後白河天皇・藤原忠通派と、崇徳上皇・藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇は流罪となった。 |
1160年 | 平治の乱 | 信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝がクーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。 |
1180年 | 治承・寿永の乱 | いわゆる源平合戦。平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府が樹立された。 |
1184年 | 三日平氏の乱 | 平氏の都落ちのあと、伊賀の平田家継、伊勢の平信兼・藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。 |
1189年 | 大河兼任の乱 | 奥州藤原氏の家臣だった大河兼任が出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。 |
1199年 | 梶原景時の変 | 源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉を追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。 |
1201年 | 建仁の乱 | 梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠の越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府に鎮圧された。 |
1203年 | 比企能員の変 | 将軍・源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵の北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍の地位を追われた。 |
1203年 | 三日平氏の乱 | 二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢・伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅に鎮圧された。 |
1205年 | 畠山重忠の乱 | 平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。 |
1213年 | 泉親衡の乱 | 北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方をくらませた。続く和田合戦のきっかけとなった。 |
1221年 | 承久の乱 | 後鳥羽上皇が北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇は隠岐に配流された。 |
1293年 | 平禅門の乱 | 平頼綱は北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権・北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。 |
1305年 | 嘉元の乱 | 得宗・北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。 |
1325年 | 安藤氏の乱 | 津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官・安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。 |
1324年 | 正中の変 | 後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝が佐渡へ流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。 |
1331年 | 元弘の乱 | 後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。 |
1335年 | 中先代の乱 | 最後の得宗・北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉を占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。 |
1336年 | 建武の乱 | 後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏が勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇も吉野に逃れて南北朝時代が始まった。 |
1366年 | 貞治の変 | 室町幕府で権勢を振るった斯波高経・斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。 |
1375年 | 水島の変 | 九州に派遣された今川了俊が、同じ北朝の少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏や大友氏などが離反した。 |
1380年 | 小山氏の乱 | 鎌倉公方・足利氏満と下野守護・小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。 |
1387年 | 小田氏の乱 | 常陸の小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満が小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。 |
1389年 | 土岐康行の乱 | 有力守護の弱体化を図る将軍・足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。 |
1392年 | 明徳の乱 | 一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍・足利義満の挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。 |
1395年 | 田村庄司の乱 | 白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。 |
1399年 | 応永の乱 | 六カ国の守護である大内義弘が将軍・足利義満と対立、鎌倉公方と手を結び、土岐氏・山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。 |
1411年 | 飛騨の乱 | 飛騨国司・姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵、幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。 |
1413年 | 伊集院頼久の乱 | 島津家の後継者争いをきっかけに、当主・島津久豊と対立した重臣の伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。 |
1416年 | 上杉禅秀の乱 | 関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。 |
1422年 | 小栗満重の乱 | 室町幕府と鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東の武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。 |
1423年 | 越後応永の乱 | 室町幕府と鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護・上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。 |
1429年 | 大和永享の乱 | 幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝の越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。 |
1438年 | 永享の乱 | 鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立から、室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。 |
1441年 | 嘉吉の乱 | 三カ国の守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍・足利義教を暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。 |
1443年 | 禁闕の変 | 南朝復興を唱える勢力が御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍に鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。 |
1455年 | 享徳の乱 | 足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。 |
1457年 | 蠣崎蔵人の乱 | 陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。 |
1457年 | 長禄の変 | 赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。 |
1467年 | 応仁の乱 | 畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから、東軍・細川勝元と西軍・山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。 |
1476年 | 長尾景春の乱 | 関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。 |
1479年 | 毛利次郎の乱 | 赤松氏らの支援を得た因幡の国人・毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。 |
1486年 | 江戸城の乱 | 扇谷上杉氏の当主・上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城を占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。 |
1487年 | 長享の乱 | 享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。 |
1487年 | 長享・延徳の乱 | 将軍・足利義尚が自ら軍を率いて近江守護・六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。 |
1489年 | 山名新九郎・小太郎の乱 | 前伯耆守護・山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護・山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。 |
1490年 | 佐竹の乱 | 佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠を攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。 |
1502年 | 伊庭氏の乱 | 長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔・挙兵するが、最終的に鎮圧された。 |
1507年 | 永正の乱 | 越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護・上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いから関東を二分する戦いに発展した。 |
ここ数年、15年前に離別した父親に連絡を取るべきかどうか定期的に悩んでいる。
両親の離婚に絡んだ話で周囲の人には話すのもはばかられ、誰にも相談できないのでよかったら聞いてほしい。
ここへ投稿するのは初めてなので、読みにくいところがあったらごめんなさい。
※昼頃に投稿したんですが間違えて消してしまい、迷ったのですがせっかく書いたので上げ直しました。すみません。
・父:70歳。生死含め現在は何をしているか不明。離婚当時は大手企業部長。激務で平日はほぼ顔を合わせることはなかったが、私は割と父に懐いていた。おとなしいオタクタイプだが時々激昂することがあった。
・母:65歳。飲食業正社員。離婚当時は専業主婦。父がほとんど家にいないため、家のことは全て母が仕切っていた。普段は天然でのほほんとしているが、かなりの気分屋。教育ママで過保護だったが、私が社会人になってからの関係は良好。
・私:アラサー女。私大卒業後、社会人をしている。昨年結婚。離婚当時は高校生。
両親は15年前に離婚した。
父は仕事が忙しく、物心ついてから一緒に家族旅行に出かけた記憶もない。大手企業で出世していたため、比較的裕福な生活は送らせてもらっていた。
夫婦仲はあまり良くなかったようで、表立って喧嘩するところはほとんど見たことがなかったが仲が良さそうに見えることもなく、父がいない時に母から父の陰口を聞かされることも時々あった。
けれど、オタクタイプの父と私は気が合うところもあり、一緒に海外ドラマのDVDを深夜まで見たり、カメラを買いに連れて行ってもらったりと、私個人は父に懐いていたし父のことは割と好きだった。
逆に、教育熱心で過保護でわがままで時々ヒステリックな母に対しては委縮してしまうことも多く、学生の頃は母の言いなりになっていた私はむしろ母のほうが苦手だった。
母は度々熟年離婚するつもりと言っていたが、当時の私はまさか本当に離婚するとは思っていなかった。
事が起こったのは私が高校1年生だった頃のように思う。
夜中に両親が大声で言い争うことが増え、母が父の陰口を言うことが増えた。
ある日、「お父さん不倫してるみたい」と母が言い出した。
父の車にあった口紅のついたペットボトルを見せられたり、母が突き止めた不倫相手の職業などを聞かされたり、不倫相手の家を見に行くという母に一緒に車で連れて行かれたり、「2人のことはお母さんが守るからね」と母に泣かれたりした。
結局、母いわく「早く離婚しないと共有財産を使い込むと脅された。早く離婚したかったから不倫の話は出さなかった」とのことで、詳細は分からないがとにかく離婚となった。
正直、当時は母がいちいちこういったことを話してくるのでそのたびに傷ついていたし、不倫して私たちを捨てる父を心底憎んでいたし、辛い現実から逃げたかったのであまり関わらないようにしていた。
父が出て行った日のことも全く覚えていない。
父がいなくなってからは、私は受験で荒れていたし、弟は不登校になるしで大変だった。
父が出て行ってからは、3度だけ連絡があった。
1度目は、父が出て行った年の私の誕生日に誕生日カードと図書券が届いた。私を捨てたくせに今さら何なんだと思い、特にお礼は言わなかった。
2度目は、私が大学に合格したときに、おめでとうとメールが来た。その時も、父を殺したいくらい憎んでいたので無視した。
3度目は、大学3年生のときに母と大喧嘩をしたときに私からメールをした。実家を出たいからお金が欲しいと連絡して、父は心配する返信をしてくれた。結局母とは和解して、父には特に連絡しなかったように思う。
その後、いつ頃か忘れたが父から母あてに間違いメールがあり、どうやら再婚したようだった。
母から見せられたそれは再婚相手の連れ子あてのメールだったようで「父の日のプレゼントをありがとう」という内容だった。
それで本当に、父はもう私の父ではなくなったのだなと思った。
父のことは関わりが少ないながらも好きだった。
けれど、母の言うことを鵜呑みにして「父は私たちを捨てた」と思っていたし、好きだったからこそ裏切られて辛いし自分がかわいそうだと思っていた。
精一杯育ててくれた母には勿論感謝しているが、自分が大人になってから、夫婦としての母は未熟だったのだろうなと感じることも増えたし、離婚したくなる気持ちも分かるようになった。
そして、母の一方的な言い分だけを信じ、父からの精一杯の連絡もことごとく無視していた自分はなんて愚かだったのだろうと後悔するようになった。
正直、父のことを思うと未だに複雑な感情がわき上がってきて泣きそうになる。
母との関係は現在良好ではあるけれど、調停の内容も離婚の条件も一切知らないし、私のなかでは未だに離婚の話題はタブーなので聞くこともためらわれる。(母はあっけらかんとしており、私も気にしていないと思っているようだが…)
母からは、私が父に連絡を取るのは私の自由だと以前から言われている。
昨年に結婚もしたので、その報告もしたい。
その一方で、母の言っていたことが本当だったらどうしようと思いや、父は私のことなどもう忘れてしまっていて、連絡などしたら逆に迷惑なのではないかという思いもある。
自分に冷たくしてきた実子より、新しい家庭の方が大切なのは当然だと思うので。
連絡は取ろうと思えば取れる。Facebokで検索したら本人が出てきたし、それで連絡が取れなくても戸籍を辿ればいいだけだ。
このまま父が死んだら後悔すると思う一方で、もう傷つきたくない。
ここ数年ずっと悩み続けている。
本文にあるとおり前妻は調停勝てると思って調停には乗り気だったよ。
(もちろん、あの女まったく勝てる証拠もってなかったけど)
俺が義両親に言いたかったのは、
弁護士に要らん金払って何ヶ月も裁判所に通うくらいなら(その間に自殺成功される可能性もあるし)ましじゃないですか?
という話。
離婚届出してきた!!
妻とは行かなかった。
嬉しい。
有責は妻、いや前妻か。なので、慰謝料かわりに家をもらって、預金や年金だけ分割にして、俺に損はなし。
元々前妻にはレスられてて、外でセックスしてこいといわれてたので、そうしてた。
今の彼女はそうして関係を持った。最初はセックスできればいいと思ってただけだったが、付き合いが深まるに連れ、
前妻と別れて彼女と一緒になりたくなったのだ。
ある日、前妻と口論になったとき(俺たちの間ではよくあることだった)、今なら乗って来るんじゃないかと思って、
「もう離婚しようぜ」と言った。
そしたら妻は「ええそうしましょう。明日離婚届持って帰ってくる」と!!
俺は嬉しかった。じゃあ今すぐまず両親に報告しよう。と、俺は実家に連絡したし、前妻にもそうさせた。
それから一週間。前妻は離婚届を持って帰ってくる気配を一切見せない。
どころか、ニンテンドーダイレクトを見て、「ピクミン4出るんだ!スイッチもう一台買わなきゃね」
とか言ってた。いつまでここにいる気だよ。死ねよ。
改めて「離婚届、いつんなったら持って帰ってくんの?」と問いただした。
そしたら前妻は泣きながら「別れたくない」といい出した。
ふざけんな。俺のこともう嫌いだ、二度と好きになりはしないといったくせに。セックスしないと言ったくせに。散々人格否定してきたくせに、ふざけんな。
「俺は別れる気しかない」と突っぱねた。「お前が取りに行かないなら俺が取りに行くよ。離婚届。」そう言ってその日は終わった。
翌日前妻は起きた瞬間首を吊り始めた。気色悪い。
「何が不満なの?」と聞いたら、「離婚するなら首を吊る」と言って脅してきた。
俺は、こっそりスマホのボイスレコーダーをオンにして、「どうしたら首吊りやめてくれるの?」と聞いた。
前妻は、「首吊られたくなかったら離婚するな」といった。
数日後に離婚の話し合いを持ちかけた。
前妻に、「他に大切にした女性がいる。だから離婚は絶対だ」と言った。
前妻は持っていたグラスを俺に投げつけてきた。
破片は床や俺の足を切り裂いた。
その時の録音と写真を警察に提出し、相談した。傷は病院にいって診断書を作ってもらった。
前妻は「不倫女と飲んでたんでしょう!!」と大暴れ。
「不倫女に連絡させて」と言って聞かない妻。連絡取って、どうするの?と聞くと、
「不倫相手の職場を問いただす。職場に乗り込んで殺す!」と言った。
念のため、録音を警察に提出した。
ある日、彼女に送るために弾き語りの動画を撮影していた。ラブソングの笑
離婚したいしたいと言っている俺が楽しそうにラブソングの弾き語りをしているのを聞いた前妻は、
スマホを見せろ。でないと殺す。と脅してきた。頭突きして刃物を奪い取った。
ちょうど回っていたカメラに写った映像とともに、警察に相談した。
そろそろハッタリには十分と思い、離婚調停をしたいからそちらも弁護士を選んでおいてほしいと伝えた。
前妻は、「あんたが浮気したんでしょ!戦うから!」と血気盛んだった。
しかし俺も馬鹿ではない。前妻に彼女の存在を打ち明けてから、彼女と不貞行為に及んだことは一度もない。戦えるほどの証拠があるなら出してみろというものだ。
遠方に住む前妻の両親に、「前妻さんが首を吊りたがって困るので、助けてください」と連絡して、呼び出した。
そして取り寄せた調書をつきつけ、
「前妻さんが離婚になかなか応じてくれないので、これらをもって調停、裁判、もしくは告訴を考えています。
前妻さんはこんな感じで、僕の手に追えるものではないため、客観的に見て離婚は妥当と思います。
ただ、前妻さんのご両親が、前妻さんの説得に協力していただけるのなら、もう少し寛容に判断します。」
と告げた。
義両親はあわてて前妻の説得に協力してくれたよ。娘溺愛の義両親は、娘を告訴なんてされたらたまらんだろうからなあ。
前妻本人はヒスって話にならんし、本当に首つられても迷惑だし、助かった。
前妻は遠方の地元に帰る他なかったようで、どうせ家はいらないし、ローンもまだあるしで、ローンごと貰い受けた。
まあ、この家のローンも、頭金として義両親が1000万ほど出してくれたおかげで、たいした額じゃない。
まだ1年も住んでないからきれいだし、彼女が気にならないならこのままここで一緒に暮らせばいいと思ってる。
もちろんインボイス制度というか日本の納税制度全体に事務コストや逆進性などの欠陥が多いのは確かだ。
しかしそれよりはるかに致命的な欠陥は労働環境にあり、少なくとも声の大きいインボイス反対派が抱えている問題はこれが主因だろう。
端的に言うと「直接雇用関係のある正社員以外の【労使】間のパワーバランスがまったく調停されない」という点だ。
あえて【労使】と書いたのは、直接雇用関係がない正社員以外で事実上労使関係といえるような状況でも
業界の慣習で「これは労使関係ではありません」というふざけたレトリックが普通にまかり通っていることを受けている。
冷静に考えていただきたいのだが
「零細個人事業主は税システム変更という事業者の努力で回避不可能な事象に由来するコストアップすら全く上流にコスト転嫁できません」
「上流が強すぎて交渉不能です、というか交渉とか他に行くとかいうのは事実上不可能です、ゆえに丸呑みして死にます」
ということが「前提」として認識されている現状、何かおかしいと思わないのだろうか?
極端な例でいうとインボイス反対派として声を上げていた日本のアニメ声優業界は完全に狂っており
「日本俳優連合がほぼすべての声優を独自のギャラ制度で管理しており、最上位以外は価格交渉権すらない」
「ギャラは固定時給制ですらなく出演時間による、しかも出演時間が倍になってもギャラは倍にならない謎のシステム」
「だけど個人事業主として扱われており労働者としての保護は無い」
「業界はめちゃくちゃ狭いため制度破りしようとすると干される」
などという、偽装請負の労働者どころか農奴制から「市場」を導入したばかりの独裁国家が
謎レートで農産物を「公定価格」(作物の量に比例するとは言っていない)で買い上げる謎システムのほうがむしろ近いぐらいの面白システムである
ここで少し常識がある人々は「日本には独占禁止法とかいうのありませんでしたっけ?」という少し常識的なアイディアを思いつくだろう
しかし残念ながらそれだけでは日本の常識が十分に身についているとは言い難い。
独占禁止法には適用除外団体があり、ざっくり言えば小規模事業者が全体の利益のためにやる場合を多少除外するという理屈なのだが
なんと日本俳優連合のケースはそのうちの【生活協同組合が団体交渉のためにやってる場合】だから適用除外となるのだ。ハイ終了。合法なので一切問題はない、いいね?
いやでもそれならランク制とやらの価格はさすがに団体交渉してるんじゃないの?と多少の常識的判断をしてしまったあなたはやはり常識不足。
なんと【1991年のランク制発足以来】、ベースのギャラは全く変動していません。
馬鹿か?
一応擁護すると、1991年のランク制確立以前はさらにひどい状況だったので成立時点では賃上げになり、そのために当時の芸能界の労働運動の一環としてそれなりに戦ったそうです。
まあ30年前の話だけど。
それ以降生活協同組合に期待されるような労働の需給バランスの調整とかも当然全くやってない。それをやるならそれこそ組合加入条件を絞って声優業界に参入障壁をって話になるが
ワナビーから学費取れないと声優業界の貴重な収入源がなくなっちゃうからね。まあ価格交渉すらしてない体たらくでそんな複雑なことできるわけないわな。常識的に考えよう。
んでそんな業界がなぜインボイス反対運動はできるかといえば、今まで上流(当然課税事業者だ)が受けていた仕入税控除がなくなっちゃうから、これに尽きる。
労働者だけでなく使用者側にも不利なときだけ「運動」が許可されるという本気で腐った労働運動だ。
あ、労働者じゃないので労働運動じゃないんでしたね、個人事業主の嘆きでしたね。
【実質的な労働者を個人事業主にする】+【個人事業主の組合に使用者に有利なシステムを作らせて順守させる】
これだけで労働者としての保護も個人事業主としての自由競争も防いだまま完全な独占システムを作って誰にも介入させないことが可能になる。
もう一度言うけど馬鹿か?
まあさすがに日本といえども前者はともかく後者までやってる業界は珍しいだろうが
何がヤバいってこれが法的に許されるならほかの業界だってやろうと思えば可能ってことだ。
「他人事だと思うな、関係ない業界でも実質増税になるぞ、ニーメラーの警句だ、インボイス制度に反対しよう」ってのはまあ一理あるけど
きっかけはコロナでパッチ間隔が長くなり、暇になったことだったと思う。
1層だけはなぜか行ってたので2層から野良のレンジでデビューして、パーティーの入りづらさに辟易して固定を探し加入した…という感じだったように思う。
この固定主には割と長いこと世話になった。
絶固定まで誘ってもらって、3絶+竜詩はこの固定でクリアしたくらいだ。
まぁ絶の固定としては竜詩までお世話になったのだが、辺獄からは自分の固定を組んでみたくなり知り合いを何人か誘って後は募集で…という形で固定を組んだ。
ものすごく気が合わない人が一人いて、固定の時間がとても憂鬱だった。
その後の竜詩は、初めてのパッチ内絶ということもあって、めちゃくちゃギスギスしたのを覚えている。
ただ固定主とは未だに仲良くさせてもらっている。良い人だと思う。
一部の人はそのまま誘って、気が合わなかった人を入れ替えという感じで固定を組んだのだ。
正直Twitterも見たし、ヤバそうな人は落としたりもしたかいがあって、そこまで変なトラブルはなかったように思う。
予定より踏破に時間がかかってしまって、正直それが一番イライラしてしまった。
今思うとここで止めておくべきだったんじゃないかなと思う。
二人とも子どもがいる親御さんだったが、一人だけ子どもがまだ赤ちゃんだった。
Twitterを漁ってそれは知っていたのだが、本人に聞いたところ「配偶者が見てくれる。理解がある」とのことだったので固定に入れた。
オメガが始まったが、赤ん坊の泣き声がVCに入ることは予想以上のストレスだった。
私もそれとなく大丈夫ですか?と聞いていたが、最後まで赤ん坊の泣き声は入り続けた。
それに加えて、人柄重視で採用したツケなのかミスがとても多かった。
範囲を踏む、無敵が出来ない、男殴るはずが女しか殴れなくなってる、整列ができない、目に轢かれる、ハロワで移動が雑、塔に乗れてない、早く近付きすぎる、遠すぎる…こういうミスが本当に最後まで続いた。
本当に本当に嫌だった。
せめて4月中にと言っていたのに、終わったのはパッチ内の本当ギリギリだった。
あらかじめ分かっていただろう予定を直前に言ったり、そのせいでスケジュールを組み直したりもあって非常に疲れたし、固定の時間が本当に嫌になった。
何よりもメンバーのことを好きだったし、この人たちなら頑張れるなと思って始めたのにいらつく自分がとても嫌だった。
私は野良で踏破したが、固定に入ったメンバーも野良に行ったメンバーもいたし、零式を休止したメンバーもいた。
野良でフェーズ詐欺にもあったし、ミスってないのにボンドやペア割り、調停で殺されたりもあったが気楽な毎日だった。
零式中にめんどくさくなって休んだり、遊びに行ったりして、4層前半にものすごい詰まったりしたがなんだかんだで4週目にはクリアした。
固定は本当に楽しかった。
リーダーもやらせてもらったし、やるならまた誘ってほしいとも言われたのですごく嬉しかった。
ただ、赤ん坊の泣き声、無断遅刻、体調不良や予定を言わない、ギミックミスなどが重なって疲れてしまったのは事実だ。
これから固定主をやる人にはこう言いたい。
・赤ん坊持ちを入れるな
・ギミックミスの内容にもよるが、あまりにも多い人には少しキツく言っても良い
・ダメそうなら入れ替えろ
そしてこれから固定に入りたい人にはこう言いたい。
・予定はわかり次第言え
同じような性格、同じようなスキルレベルの人が集まれば言うことはないと思う。
ただそんなことは難しいだろう。
私はしばらくは固定を組みたいとは思わないし、次の絶も決めてない。
なのでまぁ、このエントリーをもし見た方は覚え書きの愚痴程度だと思って見てほしい。
もし心当たりがあるなという人だったとしても、私は決してあなたのことを嫌いではない。
*
*
「お前が呑気に実家暮らしの女学生の身分で音楽などやっていられるのは誰のお陰だ」
という言葉は、学費と生活費を人質にとった恫喝だとも思った。口喧嘩なんかしたくもないから細心の注意をはらって生きてたのに。
大学を休学し、女子大生というアドバンテージを使って水商売で働けば一人暮らしの生活費と、あと1年分の学費を貯めることなどチョロいだろう、そう思っていたが、その見通しは甘かった。
そもそもコロナ禍で飲食業は店を閉め、風俗業も同様で客足が途絶えていた。そして少ない客を奪い合っていたからか、働き始めたキャバクラでは現実の厳しさを味わっていた。
売上No.1の嬢は女王様として君臨し、それに付き従う子分の女がいて、悪口、陰口、ちょっとした意地悪、接客の妨害といった小さな棘のような攻撃を女王様と子分からチマチマと食らうのに辟易していて、周りの女たちも庇ってくれることはなかった。
常連客の威張り散らして自慢話ばかりの禿げた社長に「寂しいから会いに来て」とLINEするのもアホらしくてやってられず、旅館の娘なのにサービス業がまったく向いていなかった。そもそもそれほど器量が良い方ではないということも改めて思い知らされた。
結局、職場と住処を幾つか変わり、大阪、東大阪のスナックでカウンターレディとして働いていた頃には大学を休学し実家を飛び出してからニ年ほどが過ぎていた。それでも大学に戻るつもりではいたから、何度失ったって取り返してみせるよ、と思っていたし、偉そうな社長が高級腕時計を見せびらかしながら話すねちっこいエロ話より工場労働者の陽気なシモネタの方が笑えて楽しかった。アパートから近鉄電車で二つ向こうの駅には司馬遼太郎記念館もあった。
京都時代は実名で活動していて、雑にピックアップを埋め込んだアコギを掻き鳴らして電子的に変調した爆音ギターにのせてフォークを歌うというスタイルだったが、休学して一人暮らしを始めてからは音楽どころではなかった。
一度、東京のハードコアバンドにVoで誘われたこともあったが、パンクというものは中央にいてはならぬ、周縁にいて少数派として生きねばならぬ、と頑なに思っていたのでそれも断ったのだ。
だが、遂には名前を変え「東大阪半日夢想沿線」という名で電子楽器によって幻想的で悪意のこもった電子雑音を奏でるスタイルで活動を再開した。激しいライブアクションのせいで機材はすぐに壊れてしまうから楽器は日本橋の中古屋で安物ばかりを揃えた。
再開した音楽活動は客こそ少なかったが手応えはあった。しかし名前を名乗るとギョッとする者もおり、また年配の人物に「極左テロリストの名前などを元ネタにして、被害を受けた人や家族が知ったらどう思うのか」と指摘され、己の軽率さを悔い、この名前を名乗ることも音楽活動も中断してしまったのだった。
そんな折に近鉄布施駅の近くで垢じみてうずくまっている女がいるのを見掛け、若いのにホームレスだろうかと目が釘付けになっていると、その女がこちらを見つけて「金を貸して欲しい」と近付いてきた。よく見ると女は女王様に金魚のフンのようにくっついていた子分の女、ジュリだった。
話を聞くと、女王様は客だった起業家と名乗る男に入れあげてしまって、男が何をしでかしたのかフィリピンに逃亡すると女王様も後を追って行ってしまったのだという。女王様がいなくなるとジュリはたちまち他の嬢からいじめられるようになり、店を辞め、あれやこれやがあって住む家もなくなってしまったのだった。
散々意地悪された女だったが、彼女が弱さゆえに強い者に媚び付き従っていたことや、色んなことを我慢している女は強くて奔放な女に憧れてしまうことをアキコは薄々知っていたから哀れに思い、数日なら部屋に居てもよいと伝えた。そういう女は痛みにとっても弱いから。ジュリは泣きながら今まで自分がしてきたことを侘びた。
ジュリは意外と生真面目で、アキコが仕事から帰るときちんと部屋を掃除してくれていて、冷蔵庫にあるもので食事なども用意してくれた。そしてある日、部屋に帰るとジュリは開け放った窓に向かってアキコのギターを爪弾いていて、それはラジオからよく流れてくるOfficail髭男dismの曲だった。
アキコは脳内で火花が散って、ジュリにバンド結成を持ちかけた。バンドをやるならまだ部屋にいてもいいと交換条件もつけた。ジュリは喜んで同意し、よくよく話を聞くと中学時代は軽音楽部であったらしい。そして中学を卒業してから家を出て働き始め、ひょんなことから女王様と知り合い水商売で働くようになったのだという。隠し事だらけ継ぎ接ぎだらけの一人で心細く生きていた女が筋の悪い人物をメンターだと思い込むことはよくあることだ。そして年上だとばかり思っていたが、ひとつ年下だということもようやく知ったのだった。
早速近所のハードオフに行ってエレキギターとベースを見繕って一番安い激安の物を購入した。ジュリがヒゲダンを爪弾いていたことから、今度はポップなものをやってやろうと思い、それらしい曲を捻り出したが、アキコはベース初心者でジュリもギターはブランクがあり、リズムは安物の電子楽器だったので、劣化したビッグ・ブラック、初期の少年ナイフからも百万光年離れているような、やさぐれパンク以下の酷い感じにしかならなかったが、それは初期衝動ゆえであると宣言することで自分たちを納得させた。バンド名もOfficial髭男dismの名前を反転したような、公式に対して無法、髭に対して女の装飾の象徴である爪、そしてダンディズムという一流の男に対して二流や二等、二級品という意味を冠して、Lawless爪Second-Classと名付けた。何事もうまくいっていない自分たちにはお似合いの名前だと二人で笑いあった。
数曲をでっちあげ、今度はPOPなロックをやるのだと意気込んで、アングラ凶悪バンドが演奏しないような阿倍野にあった小洒落たライブハウスのオーディションを受けた。
「まあええんちゃう?」という曖昧な判定だったが、出演はさせてもらえることになった。
阿倍野のライブハウスに出入りするようになると、女二人だと色んな男が声をかけてくる。なぜならカワイイ系のアクションがジュリはとてつもなく上手かったから。でも音楽好きやバンド仲間だと思えば話も弾むが口説かれたりするのは面倒だった。しかしこっちはキャバで修行した身だ。うまくかわしていたし、ジュリはその辺りの身のこなしも上手かった。それでも面倒くさい人物もいた。
そのライブハウスに出入りするベテランのブルースマンで、最初は何かと世話を焼いてくれる風に近付いてきたが、だんだんと遠慮がなくなってきて、あれやこれやと説教をするようになっていった。相手をしているとイライラしてくる。なぜこうなのか。ワガママ放題大人たち。どうして若い女は何も知らないと思っているのか。
ある日、演奏を終えて楽屋に戻ると、当日は出演者でもないのに例のブルースマンが楽屋でくつろいでいて、アキコとジュリの楽器を値踏みし
「もっと良い楽器を使わないとだめだ」みたいなことを言い出す。そしてなぜか自分の黒いギターを持ってきていて、それを引っ張り出し
「50sのフェンダー・ストラトキャスター、クラプトンもこのモデルを使っている」などとウンチクをたれ始めた。
もう鬱陶しくて堪らなかった。怒りがふつふつと湧き起こってアキコはそれを抑えきれなくなり、そのストラトを奪い取るとネックを持って大きく振りかぶり思い切り壁に叩きつけてやった。その場にいた他の人間も唖然として誰も声を出せず、壁の石膏ボードには大きな穴があき、ストラトのネックは折れて弦だけがブラブラしている。アキコも放心状態で、これは殴られるなと覚悟した。
しかしジュリが咄嗟にアキコの腕を掴んで強引に引っ張りそのまま駆け出した。そしてそのまま店を出て走って、ずっとずっと走り続けて、ひた走る道路にはもう街灯さえないけれど、新今宮の駅の辺りまで走り続けて、やっともういいだろうと立ち止まって、息が切れて苦しかったけれど二人で顔を見合わせて死ぬほど笑った。嘘じゃない泥だらけの笑顔。ギターもベースも置きっぱなしだったけれど取りに行くつもりもなかったし、大して惜しくもなかった。
その後ブルースマンはアキコを訴えて、結局アキコは和解を受け入れた。調停の場でブルースマンの代理人弁護士に
「無法なんて名乗っているけれど法は法なので、賠償金の支払いはお願いしますよ」
と嫌味を言われたのが忘れられない。アキコは感情のないアイムソーリーだけを告げた。
もう大学に戻ることはないと薄っすら思っていたが、なんだか心の拠り所のようではあったので貯金はしていた。けれど、破壊したビンテージギターのせいで全てが消え失せてしまった。
しかし、やがてその話は噂になって、どうやら凶悪な女パンクのバンドがいるらしい、他人の高価なビンテージギターをぶち壊して平然としているような奴らしい、以前「東大阪半日夢想沿線」という不埒な名前でやっていた話の通じない女らしい、とその他あることないこと尾ひれ背びれもついて伝わっていった。まるで魔法のように簡単に広まってく噂話。お陰で奇特な人やバンドから少しばかり対バンの話も貰えるようになった。
アキコは今も近鉄電車の傍のアパートに住んでいて、ジュリも未だにアキコの部屋に居候している。貯金もなくなり、もう大学に戻ることはないだろうし、カウンターレデイの仕事は先の見通しもなく、何も状況は変わっていなかったが、それでも二級品なりになんとかやっていくしかないとアキコは思っていた。
口頭でやる意味が無い、時間の無駄って分かってて強いる会社組織、こっちが個人だと思ってナメてやがる。
まあナメるわな、自分が組織側だったら初回ナメるわ、クレーマー乙になるわ。
でも違うかんな、違うって分かってるから数ヶ月に渡ってオハナシアイになってるんだわ、もうちょい頑張れば法廷に持っていけるレベルの資料ガン積みになってんだわ。弁護士費用で足が出るし勝っても負けてもクソだから、調停にすらならんってだけだわ。無料で出来る相談ならしまくって有識者の見解を積みまくってんだわ、あとやってないの無料弁護士相談だけ。これやったら有料で法廷になりそうって行政の人に言われた。面倒、面倒だってそれ、被害者の自分が面倒だって。
あとクソ会社が微妙に行政指導入らないライン走ってやがるから一足飛びで民事になるっていう状況が本当にクソすぎた。
そのYesを前提に進めて「記憶にございません」やったのお前らだが?何回目だと思ってるんだ、今回もどうせ「記憶にございません」するんだろうが。
いいから紙で寄越せ。証跡が残る形にしろ。もちろん通話はすべて録音しているが、資料としての扱いやすさが違ってくる。
こっちからの書面は全部、簡易書留だよ。内容証明にでもしないとマトモな返事しないつもりですか?
ほんとクソ。
あとさー、会社のテンプレで出せる書面が、有識者的に失笑モノってヤベーぞ。
素人が見てもン?ってなるの本当にヤベーぞ。
契約書に付帯する覚書なのに、合意日なり署名日なりの日付を入れる箇所が作れないって、せめて契約書と紐付ける記述があれば、合理的に判断して契約書の日付と同じ日ですね、の範囲に出来なくもないけど。それもないし。
コピペミスで同じ行があるのも、固有名詞が表記ゆれするのも、変換ミスすらも微笑ましくなるわ。
あ、修正して印刷しなおしますねー。じゃねーんだわ。物体が変わったら最初から全文読み直しになるんだわ。この行を消して印刷しなおしました、じゃすまねーんだわ。手書きで線引いて印鑑押せ、クソが。