「吉良上野介」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 吉良上野介とは

2023-11-26

性格が悪いキララキング

anond:20231119165522

吉良吉影

ジョジョの奇妙な冒険4部のラスボス

10年間女を殺し続けているので性格が悪い

キラークイーン

吉良吉影スタンド

吉良吉影の言うことしか聞かないので性格が悪い

吉良上野介

忠臣蔵登場人物

赤穂藩主に嫌味を言って斬られたので性格が悪い

雪華綺晶(きらきしょう)

ローゼンメイデンの第七ドール

作り主が人形を6体作っても完璧ものが出来ず、逆転の発想で実体を持たない精神だけの人形を作ったけどやっぱり失敗した

肉体を欲して他のドールを襲う

あと性格が悪い

キラフロル

ポケットモンスタースカーレットバイオレットで初登場のポケモン

同作の目玉システムテラスタル」と深い関係を匂わされている

とくせい「どくげしょう」でダメージを与えるとどくびしを撒いてくる。当然ダメージを与えないと倒せないため、必ずどくびしを展開されてしまい厄介

とくせいが不快だし毒タイプなのでたぶん性格が悪い

パキラ

ポケットモンスター XYの登場人物

ニュースキャスターでありポケモンリーグ四天王であり、今作の悪の組織フレア団幹部でもあるトリプルフェイス

殿堂入り後に戦いに行くとフレア団を潰された恨みでめっちゃキレられる

普通に性格が悪い

きらめくパンジーさん

ペーパーマリオシリーズに登場するレア枠の敵キャラ

登場の時期に対して異常に強く、攻撃催眠属性持ちでかつすぐ逃げる

絶対性格が悪い

2022-12-14

当時、赤穂浪士の討ち入りが敵討ちなのかどうか議論になったとされている

敵討ち入りは兄弟や子など対等な立場の者がやるもので、明確に下となる家臣がやるものではなかった

能にしろ浄瑠璃しろ敵討ちは忠臣蔵以前からあるけれど、忠臣蔵はその点で画期的だった

敵討ちの要件を満たさな赤穂浪士の討ち入りは盗賊と同じ扱いになるはずだった、けれどそうはならなかった

当時は敵討ちが許されていたけど色々制約はあるから誰もが敵討ちを選択するわけではなかった

敵討ちの制約ってのは敵討ちを果たしたら自分も腹を切るって決まり

浅野内匠頭の子がそうだった、敵討ちを選ばなかった

そのせいで赤穂浪士の討ち入りは実子が不参加、大石内蔵助も困って先延ばしにしていたけれど最後エイヤーと討ち入りをすることになってしまった

当時の定義では敵討ちの要件を満たしていないけれど、江戸のみんなは立派な忠臣だと言うし、大名ですら赤穂浪士屋敷歓待するものまでいた

そんな世論空気を読んで、本来なら打首だけど幕府は譲歩して切腹を許した

死刑から処罰されたって認識大間違い

近年、忠臣蔵評価が変わっていることについて吉良上野介が実はいいやつだったんじゃないか、とか言ってる人がいるけど具体的に根拠はあるの?

吉良上野介は討ち入り前に左遷みたいな郊外への引っ越しをさせられているのに

その引っ越し左遷じゃなくて討ち入りの事前情報があったからじゃないかって説もあるけど

未だに年に1冊くらい忠臣蔵関連の新書が出てるけど、読んだことのないブコメばっかだからバカにしようと思って書きました

赤穂四十七士(一人行方不明)

これよくわかんねぇよな

 

寺坂どこに行ったんやろ

元禄15年12月14日 (旧暦) 1703年1月30日)、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった(吉良邸討ち入り)。この時討ち入りに参加した人数は大石以下47人(四十七士)である。四十七士は吉良邸から引き揚げて、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。引き上げの最中には、四十七士のうち一人(寺坂吉右衛門)がどこかに消えているが、その理由は謎とされている[11]。

寺坂を除いた四十六人は、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従って全員切腹した。

wikipediaより

2021-03-25

バレット忠臣蔵

背後から吉良上野介トカレフをぶち込む浅野内匠頭

しか吉良上野介は無傷。

秘伝の最防具を着装していたのだ。

たちまち供廻りに蜂の巣にされる内匠頭。

時は過ぎ、吉良邸。

夜半に包囲した大石内蔵助の一団が多数の迫撃砲を仕込む。

「ファイア」

放たれる迫撃砲

2020-12-29

YESかNOでたのむ

狐の嫁入りという話をよんでいたはずなんだがよ、いつのまにか、忠臣蔵になりそうなんだが、吉良上野介を切ってもいいか

2020-10-24

Vヲタ江戸しぐさに飲まれ

目下炎上しているにじさんじ騒動現代忠臣蔵

金魚坂めいろ=浅野内匠頭

夢月ロア=吉良上野介

にじさんじ運営徳川幕府

喧嘩両成敗の思考から未だに解放されていないのである

めいろが解雇されたのは情報漏洩のためで、それに関して責任のないロアも辞めるべきというのは厳密には両成敗ですらないけどな

2019-11-17

吉良上野介の話

最初

吉良姓を受け継いだ吉良上野介の子はいない。(後に別家が吉良の名を継いだ形で、子孫の方は上杉家や畠山家等におられる)

三河地方に吉良の領地があったのは元禄16年(1703年)までで、それ以降は吉良と三河地方との関係は無い。

 

 

吉良上野介は名君?

忠臣蔵で悪役として扱われている吉良上野介

近年「実は吉良上野介地元では名君」っていう話をよく聞くようになった。

歴史秘話みたいな感じでテレビでも取り上げられるので、

吉良上野介は名君」って言う説を知っている人も多いだろう。

 

 

で、その「吉良の地元ってどこだ?」って話になると

案外、知ってる人が少なかったり誤解している人が多かったりすると思う。

 

 

恥ずかしながら私もそうで、

三河地方っていうのは知っていたのだけれど

漠然と、今の西尾市だろうと思っていると、

年配の西尾市出身の人から変な顔をされた。

 

地元歴史的経緯 

この辺には歴史的な経緯があるそうで、

そもそも三河に持っていた吉良上野介領地というのは

幡豆郡吉良庄の中のうち、八か村が飛び地の形であった。

いっても吉良は旗本なんで、そんなに領地は大きくない。

吉良は赤穂事件の後、三河領地没収されて

その後、これら土地は、あちこちの藩やら寺社旗本領地なんかに吸収されて

明治からは村の統廃合が続く。

(こういう状態で「吉良の地元」という意識が受け継がれてきたというのには少し無理があるような) 

 

 

その後、昭和三十年に 横須賀村と吉田町合併して吉良町生まれる。

(余談だが吉良には雲母の意があったという)

吉良町の中に、かつての吉良上野介領地も含まれてた感じ。

  

そして平成23年にこの吉良町西尾市編入合併される。

  

もともと西尾市には西尾藩というのがあったわけで、

歴史を知っている人でも、吉良上野介は大昔の隣の殿様という扱いで

古くから西尾市の人に「吉良上野介地元」と言われると変な顔をされたわけだ。

 

 

もう少し西尾市の人に話を聞いてみると、

んで、もう少し突っ込んで話を聞いてみると、

吉良上野介時代に、西尾藩には土井利意という名君がいて

西尾藩領民が、吉良が作った堤防により水害が発生して苦しんでいたので

大二重堤防を作って、これを防いだという逸話があるという。

 

 

こういう歴史上の逸話は、どこまで本当かどうかはワカランが

こういう逸話があるぐらいなんで旧西尾藩地域の人にとっては、

吉良上野介地元では名君とされている」と言われるのに抵抗があるみたい。

 

 

名君の作り方

ただ近年、西尾市教育委員会とかが、

積極的に「黄金堤」などを吉良上野介の治績として

吉良上野介地域の名君として賞賛する教育西尾市の全域で行っているとのこと。

 

それで地元とは言えない所の子供達にまで「地元の名君」と教えられているそうな。 

(吉良の堤防による洪水で、エライ目に遭ってた所だったりしたら洒落にならんな)

 

調べてみると、

吉良上野介黄金堤を作って地域の開発に役立ったのかからして怪しいという。

そもそも吉良上野介の治績を裏付ける文献や史料は無く、

どうも大正時代に作られた怪しい逸話が元になっているらしい。

 

 

残された絵図面なんかをみると、この地域にあった鎧が淵の新田開発で

しろ周辺とトラブルを起こしていたりしてる。

 

 

どうも旧吉良町との同化政策の一環として、

近年になって「吉良つながり」で、吉良上野介が担ぎ出されてきたっぽい。

 

 

実際に吉良上野介が名君であったかどうかはともかく、

消えてしまった「吉良町」という名前を、

なんとか別の形で残そうという人の思いかも知れないね

 

でも、そういう都合で「新しい歴史」をつくっちゃて

教育を利用して子供達に広げるのはどうなのかなぁと。

 

 

また吉良上野介と同時代に、その地域

地震被害の救済に尽力したり色々と善政をおこなった土井利意や

堤防などの治水等で名代官と言われる鳥山牛之助(さきほどでた新田開発のトラブル調停もしている)

なんかの話が、わりとしっかり記録や文献をたどれるのに殆ど注目されなくて、

「らしい」という話しかない吉良上野介けが地元の名君」って言われて教育現場で広められている状況は、

なんだかなぁって思ったりする。

 

 

吉良の赤馬

吉良上野介が名君であったという話に「吉良の赤馬」という郷土玩具をセットにする人が多い。

愛知県ホームページにも、

吉良上野介義央は治水事業に心を寄せ、領内の水害を防ぐため、黄金堤を築き、自ら愛馬赤馬に乗り巡視にあたりました。その姿は威風堂々とし、愛馬も大変立派であったので、領民はこれを称えいつしか赤馬と呼ぶようになりました。領内の村に住んでいた村人が江戸天保年間に子ども玩具として作ったのが始まりです」

とある

しかしこの記述は、よく読むとあやしい

天保年間というのは、1831年から1845年までの間だ。

いわゆる赤穂浪士の討ち入りが元禄15年末(1703年の1月)。

三河領地を取り上げられる裁定が下ったのが元禄16年(1703年)になる。

 

 

まり天保年間というのは、130年ぐらい後の話になるわけで

「領内の村に住んでいた村人」と言っても、

その時には吉良領は跡形もなくなっている。

昔、吉良の領民だった人も既に死に絶えた後のはず。

 

 

実際の記録では吉良上野介三河領地を訪れたのは生涯一回だけだったらしい。

直に吉良上野介を見た村人が、後に玩具を作り出したとかいう話なら、

まだなんとなくわかる気がするのだけれど、

百年以上前に一回だけ訪れた殿様の馬を、

わざわざ玩具にしようというのいうのは変だよなぁ。

天保年間には別の殿様が治めている状況なのに。

  

  

調べると、さらに興味深い話が出てきて、

吉良の赤馬は近年になって愛好家から要望で、

商品に「白馬」と「殿様」というのが加わったという。

この時点では「白馬」なのね。

もし本当に赤馬と吉良上野介の話が元になっていたのなら、

突然、殿様に白馬ってのは出てこないよなぁ

  

まりそもそも赤馬と吉良上野介関係なく、

「自ら愛馬赤馬に乗り巡視にあたった」という話自体が後から出た感じがする。

 

 

もちろん、こういうのは商品を開発したり売る人が、

色々面白おかしく「いわれ」を主張するのは別に良いと思うのだが、

愛知県をはじめとした自治体がそういうのに乗っかって、

曖昧根拠のまま紹介するのはどうなんだろうね。

実際、どうなんだろう?

このエントリーは「吉良上野介地元では名君」という説が「ちょっと変」っていう話で、

からといって、これだけでは「名君ではない」とまで言えない。

(西尾藩領民洪水被害を出した伝承とかは、ちょっとふれたが)

 

  

んで、赤穂浪士研究している団体の中には、

「名君だと言うならもその根拠資料を出せ」と言っている所もあるそうな。

 

吉良上野介が名君だった」という人は、きちんとした資料を出してやれば良いと思うよ。

 

 

それを元にして、地域教育とかを書き直していく必要があるんじゃないのかな。

少なくとも教育委員会とか自治体が、根拠に疑問が持たれる話を持ち出して

へんな形で「地元の名君」を作り出そうとするような状態は良くないなぁと。 

 

 

たぶんメディアとかでは広がらない話。

もっとも「実は、吉良が名君という話は怪しい」というのは、

中々メディアとかでは取り上げにくい話だと思う。

 

 

実は「正義の味方だった」と言うのは受けるだろうが

例えば「イメージ通りの悪い人でした」と言っても、

そこには話題性も何も無いわけだ。

 

 

この点は、なかなか興味深くて、  

「誤った情報」と「正しい情報」っていうのを比べてみても

必ずしも同じように拡散するわけでは無くて、

広がりやすさには非対称性が生まれてる。

 

たぶん「地元では吉良上野介は名君」って話は

このまま誰も異議を唱えないまま残ってしまうんじゃ無かろうか。

 

とか思ってたら、wikiかにもわりと詳しく書いてあったわ。

 

2018-08-11

anond:20180810211812

いや、そんなことはないよ。確かに毎年8月になると戦争反対の大合唱になるけど、同じ年の12月になると赤穂浪士の季節になってくる。

江戸城の松之大廊下脇差しを抜いて切りかかったバカのことは批判されずに、主君切腹させられた逆恨みに討ち入りをしたテロリスト達を讃える異常さ。

本当に戦争や争いを良くないと考えるのなら、殿中で争いを引き起こし浅野内匠頭こそ反面教師として徹底的に批判されなければならないはず。

吉良上野介というジジイが人望が無いタヌキだったとしても、やはり反戦趣旨からすれば浅野内匠頭美談にしてはいけない。

2009-03-22

三大赤穂浪士の無名さ。

三大赤穂浪士というものがある。

赤穂浪士とは、江戸時代に主君の死の原因となった吉良上野介という男を倒した「かたきうち」の武士たちのことです。

全部で47人いるのだが、この中で特に三大赤穂浪士というのがいるんです。

まず、大石内蔵介、そしてその子主悦。そして荒木文左衛門の三名です。

このさんにんは、主君の死の以前から使えていた最古参の三人です。他のものは、遠くに住んでいたりと、死の前後に浪士入りした

新参の侍たちだったのです。

もちろん学校では、四拾七士の話をたくさん出来ませんから、知らない人が多いのも仕方ありません。ですが、いつの時代も

変わらない忠義を見せ付けたこの三人のことを思い出す人が、もう少し増えてくれたら、嬉しいと私は思います。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん