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はてなキーワード: 大名とは

2022-07-29

日本人の中には、子どもが生まれるとお宮参りをし、結婚式教会で挙げ、お葬式はお寺でするということに、何の抵抗も疑問も持たない人々が多くいます

結局は、神道キリスト教仏教も本気で信じてはいいからだともいえますが、では、信仰心のものがないのかといえば、そうではないようです。

例えば、仏滅の日は割引をする結婚式場があったり、友引の日は休業する葬儀場や火葬場があったりするのは、そういうことを気にする人が決して少数派ではないからです。何かの教理に基づいてはっきりした根拠を持ってそれを避けるというわけではなくても、縁起が悪そうなことはできるだけしたくないという気持ちには根強いものがあるようです。

テレビ番組雑誌占いのコーナーが欠かせないのも、先祖水子のたたりを脅しの手段に使う霊感商法が成り立ってしまうのも、人々の中に目に見えない超自然的な力や霊の世界漠然と信じる心があるからではないでしょうか。

この漠然とした気持ちがひとたび具体的な信仰対象を得ると、驚くほどいちずな強さを見せることがあります。例えば戦国期の一向宗門徒たちは、当時の大名たちが恐れてその顔色をうかがっていた織田信長をも敵に回し、命を賭して戦いました。キリシタンたちも、キリシタン禁制がしかれてからもその信仰を捨てることなく、拷問死刑によって命を落としていった信者たちが大勢ます

明治から第2次世界大戦が終わる頃にかけては、天皇現人神とする皇国信仰日本宗教になったともいえます特に敗戦間際には、最後には神風が吹いて日本が勝つと信じたり、天皇のために死んでいくことが最高の名誉とされたりする世論は、まさに宗教のものでした。

終戦とともに天皇が神の座から降り、日本経済が発展の一途をたどり始めた1950年代後半になると、テレビ冷蔵庫洗濯機が「3種の神器」と呼ばれるようになりました。これらをそろえれば幸せになれるという日本国民の心情を表したネーミングです。

宗教に頼るほど弱くない」と言って、真の意味で何にも頼らず、何にも左右されず、ただ自らの努力や才能、目に見える世界がすべてだと思って生きている人は、実は日本の中で(あるいは世界中どこを探しても)少数派なのではないでしょうか。

2022-07-24

anond:20220724103302

FPS無限弾数バグ動画みたく視界一面に降り注ぐ弾丸と爆発って感じかな?

そんなん強くても大義いから大規模な集団が成り立たないんで、日本の要所を破壊し尽くした上に弾丸金属汚染し尽くして土地ごと殺し、大名を名乗れるほどの組織を他に作れなくし天皇みたいな大義も殺し尽くしておく、天下絶滅ENDしか無理やん

2022-07-23

anond:20220723170934

スイーツを食べれるとはどこの大名かな

2022-07-23

anond:20220723170756

いっぽうワイはコーヒーで餅入り小倉もなかを食べていた

2022-07-22

anond:20220722201920

いや大名が早めに引退して次代の後見をするというのは家康に限らずよくあることだよ。

秀吉も1591年には秀次に豊臣家の家督を譲っていたわけだからね(秀次事件は1595年、秀吉死去は1598年)。

2022-07-10

anond:20220703120633

江戸時代に転生したカツオが暗愚な大名翻弄されながらもひたすら武士の一分を貫き通す生きざまを描く。

カツオ武士

2022-07-09

anond:20220709195804

そのとおりで、だからこそ日々の調練というのが重要になる

織田信長愛知無名大名から、たった20年くらいで機内掌握して天下を9割とれたのは、

農民軍隊を分けたからといわれる

秋になると収穫のために軍を離れる寄せ集めの農民と、

24時間365日いつでも動ける軍隊では、調練度が全く違う

自衛隊地方警察では天と地ほども違うのはそこである

2022-07-07

田舎結婚

妻が浮気をして離婚することになったんだけどね。そのことはまあ、いいんだ。幸か不幸か子供もいなかったし、感情的には蹴りが付いたと言うか、愛情も一瞬で覚めたんで、間男にもどうぞこんなのでよろしければ引き取って下さい、って感じ。

ただ、妻の一族ってのがややこしくて、一族の長の宗主様っていう人がどうしても謝罪したいと言うことで、会いに行くことになった。

ここは東北なんだけど、俺は九州出身なわけよ。大学だけ東北大に進んで、同じ大学で妻と知り合って、東北就職したと言う流れ。

義父が、俺が東北の者じゃないと言うことで、最初挨拶に行ってもけんもほろろ状態だったんだけど、その宗主様が俺のことを調査して、結果、後押ししてくれて結婚に漕ぎつけられたんだ。

俺は苗字は平凡なんだけど、うちの家系は旧大名家なんだよね。と言っても分家で、最後伯爵様の次男長男長男長男が俺。つまり本家からはかなり遠いし、本家当主さんには無理を言って俺の結婚式に来てもらったけど、その時に初めて会ったくらいの関係。もちろん財産普通だし、父祖伝来の家宝みたいなものも持っていない。

でも、そんな家系がありがたがられて、宗主様はこの縁談に大乗り気になって、あれだけ渋っていた義父が態度をころっと変えたのにはびっくりした。

あ、俺は九州出身だけど、その大名領地九州じゃないから。祖父が俺と同じように、大学九州大学に進んでそのまま福岡市に土着したっていう流れ。

で、離婚の時に、宗主様屋敷に行ったらさ、一族の人たちが100人くらい集まって、土下座しているわけよ。

宗主様が言うには一族の格を上昇させる旧大名家の婿を迎えたのに、手放したくないと言うわけよ。で、一族女子の中から独身キレイどころ5人揃えて、好きな子を選べというわけよね。

俺んちが源氏じゃないのが良かったみたいで、源氏だったら絶対ダメ、みたい。でも源氏、多いからねー。源氏じゃない大名家ということで、こんなに都合がいい婿はいないということで、絶対に手放したくないと。

女子5人に「君らこんなんでいいの?」と聞いたら、さすがに選んでいると。俺のことは知っているから、俺ならいいかなーと思った、と言うことだった。

最初に、俺ならいいかなーと答えてくれた人が今の妻。

嘘みたいなホントの話。

2022-07-02

増田ますだ)という読みは誤り

増田(ました)が歴史的には正しい。

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行

https://www.touken-world.jp/tips/38368/

1657年(明暦3年)、江戸で発生した「明暦の大火」で消失してしまったのが、増田長盛の愛刀とされる「増田来国次」(ますだらいくにつぐ)です。

江戸時代にいつの間にか「ますだ」になっていたwwwwwwwwwwwブフォwww

2022-07-01

https://yururito-sengoku.com/sengoku9/bushinikushokuji.html

戦国時代武士食事!~お肉事情編~

『腹は減っては戦はできぬ』という言葉があるほど、戦国時代武士にとって食事は大切なもの

食事をとらなければ力がでない!

力がでないという事は動けない!

動けないという事は戦に勝てない!

そう、食事は戦に勝つ為のパワー!

食事を怠れば死、あるのみ!

それなのに、なぜか戦国時代武士達は肉を食べるという事をあまりしていなかった?!

なぜなのか??

戦国時代、肉を食べるという事はどういう事だったのでしょう??

今回は戦国時代の肉食文化についてゆるりと解説しております

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戦国時代以前にあったらしい『肉食禁止令』・・・

そもそもの話…、

戦国時代より昔から日本人仏教の影響で肉食文化にあまり馴染みがなかったようです。

はいってもまったく肉食文化があったわけではなく、これにいたっては身分の高い人がその傾向にあったようです。

歴代天皇は『肉食禁止令』なるものを出していたそうで、公家などの貴族なんかはこのお触れを守り肉を食べる事をしなかったそうです。

『肉食禁止令』なんかがあるくらいだから、肉食は普通に行われていたと考えられるわけですが、

武士というもの貴族文化マネしたがる傾向にあるようで、

肉なんてヤダわはしたない~時代魚介類っしょ~!

ってな感じで魚が副食の定番となっていったそうです。

ちなみに鯉や鯛なんかが高級食材だったらしい。

宣教師登場で変わる日本食事文化・・・

日本人なら魚っしょ!ってのが当たり前だった昔の武士達…。

そんな武士達の食事常識を変えたのが、キリスト教文化日本に広めに来た宣教師だといいます

日本人ってなんで肉食べないの?

肉、美味しいんだよ?

首回りのピラピラした衣装マント動物の毛皮なんかの南蛮アイテム流行に敏感な武士達に多大なる影響を及ぼしました。

南蛮文化イケてる、だぜ?

食うしかねぇだろ。肉!

戦国時代になると南蛮文化の影響を受け、肉はなんか食べちゃダメという感覚が薄れていったといいます

動物であれば猪、豚、ウサギ、狸なんかが食べられていたそうで、鳥であれば雉や鶴、小鳥なんかが食べられていたそうです。

基本的に、食べられるものは何でも食べちゃうというスタンスであったそうな。

しかし、意外にも現代では超メジャー牛肉は食べなかったそうです。

牛は農耕に使う生き物。

食べるもんじゃない。

という常識があったんですって。

食べた事ないけど絶対ウサギや狸より美味しいのに…

戦国時代の人に焼き肉の美味さを教えてあげたい。笑

ちなみに馬も食べなかったそうです。

牛同様に、

馬は交通手段や戦で使うもの

という感じだったそうな。

ちなみに猫や犬、猿なんかのペット系は現代と同じで「食べるもんじゃない!」という感覚ちゃんとあったんだって。良かった…。

豊臣秀吉、虎の肉食べてたらしいよ。

豊臣秀吉は虎の肉を好んで食べていたそうです。

戦国時代で虎といえば『加藤清正の虎退治』が有名ですが、朝鮮出兵では秀吉のご機嫌を取る為、他の武将達もこぞって虎を討ち取ったと言われております

武将達は討ち取った虎の肉を塩漬けにして日本にいる秀吉の元へ送ったそうですが、あまりの量に秀吉

もういらない…。

ウンザリしていたそうな。

ちなみに虎の肉は滋養強壮に良いとされていたそうです。

その味やいかに・・・。

絶対に美味しいチキン鶏肉が食べられなかったのはなぜ??

雉や鶴、小鳥なんかは食べられていたと言われていますが、実はこれまた意外にも鶏肉を食べていた記録はないらしいです。

鶏は昔から日本存在する鳥、手軽かつ美味しいのになぜ昔の人は鶏肉を食べなかったのか…??

それは、鶏は『神様に近い鳥』とされていたから。らしい。

白く美しい体に映える真っ赤なトサカは『日の出』を連想させ、日本の『旭日信仰』に通じるものがあるからというのと、

毎朝正確な時間に鳴いて日の出を告げるのが、当時の人々には凄く不思議神秘的に感じていたそうです。

鶏様は神の使いに違いねぇ!

鶏様を食べたら天罰がくだる!

という事ですね。

こんな感じなので、鶏の卵を食べていた記録なんかも見当たらないそうです。

戦国時代武士食事普段はどんな感じ?

肉が普及しだしたとはいえ戦国時代武士普段食事はと比べると極めて質素でありました。

戦のない時は朝と夕方1日2食がデフォだったという…。

しかし、それには…

戦が始まれば、毎日満足に食事がとれる保証なんてないからな。

長期戦になればなるほど兵糧の確保も大変なわけだし…

数日間食事がとれない状況になったとしても大丈夫なように、1日2食で体を慣らしておくのだよ。

このような理由があったと言われているようです。

とは言ってもその1日2食の食事量は凄まじく、1回の食事で2合半のお米を食べていたそうな…。

ちなみに米は米でもそこらの武士玄米を食べていたんですよぉ。

白米は当時、高価で貴重なものでしたから…

身分の高い大名毎日食べてたのかなぁ~いいなぁ~。

ちなみにおかずは、魚や大根や芋の煮物、菜物入りの味噌汁なんかがあったそう。

玄米漬物だけという質素メニューの時も多かったらしいので、その時の経済状況や食料事情、それぞれの地域結構格差がありそうですね。

世界各国から様々な食料を輸入してる現代とは事情が違うもんね。

日本国内だけじゃなかなか賄えないし、食糧難とかもあるよねぇ~。

ちなみに、いざ戦が始まると白米のほうが玄米より早く炊けて消化も良いとの理由足軽たちも白米を食べていたんだとか。

白米に味噌ネギ野菜を混ぜ、雑炊にして食べる事が多かったよ~!

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おまけ・武士定番携帯保存食

兵糧がん

そば粉に酒やはちみつ、すり胡麻を混ぜて蒸し、それにきな粉をまぶしたもの

焼きおにぎり

玄米おにぎりに赤みそを塗って焼いたもの。保存も効く。

みそ玉

味噌にすりおろし生姜や酒を混ぜ焼き、丸めもの

塩分補給に最適。お湯でとかせば味噌汁にもなる。

煮干

カルシウム満点の煮干し。多分、おやつ感覚で嚙んでたと思う。

干し飯

白米、玄米を一度蒸して乾燥させたもの。お湯や水で戻して食べていた。

インスタントライス

2022-06-27

家康が天下とったのは必然

本能寺の変の直前、

上京する家康にたいする光秀の接待が悪かったといって足蹴にした、

という話があったりするが、

創作臭い話は抜きにしても、信長家康に対して

かなり丁重に扱っていたのは事実であり、

接待が悪くてひどく叱ったため光秀の恨みを買った、

というのはあり得る話である

もちろんそれは働きっぷりもさることながら、

家康名大将の噂を、信長は逐一聞いていたかである

また秀吉政権になってからも、

有力大名が困ったら、まず家康相談してとりなしてもらっていた、

という案件がかなり多い。

伊達政宗加藤清正豊臣秀次といった有名どころはほぼすべて家康の世話になっている。

かい家臣に対することなどまで相談に乗っている。

「内府殿に相談すればまちがいない」

という空気があったに違いない。

やっぱり人の上に立つ人間だったということだろう。

ちなみに家康に近い評価だったのは前田利家だったらしいが、

秀吉の後を追ってすぐ亡くなってしまった。

そういうこともあって天下をとった。

2022-06-22

anond:20220622145532

出生

天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安祖父春日大社奉仕する猿楽(現能)金春流猿楽師で、父の信安の時代大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。

武田家臣時代

父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老土屋昌続与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。

武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。

ただし一説では、武田勝頼からまれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。

徳川家時代

遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行連署傳馬掟書』慶長6年1月個人蔵)[2]。伊奈忠次彦坂元正連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている

甲斐武田家が滅んだ後、長安徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。

長安大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正106月本能寺の変信長が死去して甲斐家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康本多正信伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安釜無川笛吹川堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康関東に移ることになる。この時、長安青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次長谷川長綱彦坂元正らと共に奉行代官頭)に任じられ、家康関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。

また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安長谷川長綱彦坂元正伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。

天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。

長安はまた、家康に対して武蔵治安維持国境警備重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後豊臣氏支配下にあった佐渡金山生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月大和代官10月に石見銀山検分役、11月佐渡金山接収役となる。

慶長6年(1601年)春に徳川奉行補佐にて甲斐奉行8月石見奉行9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康長安経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである

慶長8年(1603年)2月12日家康将軍に任命されると、長安特別従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。

慶長10年(1605年)、大久保長安普請奉行として武蔵御嶽神社の本社普請

慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安家康から全国の金銀山統轄や、関東における交通網の整備、一里塚建設などの一切を任されていたのである現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である

これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったこから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的支配を任されていたと言われている。

慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。

しか晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さら正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日中風のために死去した[5]。享年69。

長安の死後に生前不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安嫡男藤十郎(37歳)、次男外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。

人物逸話

ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクション対象となっている。

無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。

金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分遺体黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。

一説に長安は、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗幕府転覆計画賛同していたと言われている。

2022-06-21

ワイの家系図辿って行くととある大名に繋がる。で、その大名を更に辿ると天皇家に繋がる。つまりワイは天皇の遠い遠い遠い遠い遠い遠い遠い遠い遠い遠い遠い遠い親戚なのだ

2022-06-18

本能寺の変について個人的考察

当時信長の頭の中には、東国東北徳川家康に、

中国九州羽柴秀吉に任せる構想があったらしい。

そして柴田勝家上杉の抑えで北陸方面を。

すると秀吉と同勢力もつ光秀はどこに置くかということになるが、

光秀本人は、もし京都近辺の坂本城丹波亀山城を召し上げられるのであれば

四国征伐希望していたらしい。

しかにこの方法であれば4人の有力大名が均等に分散できる。

しか信長は光秀に秀吉の部下となることを命じた。

その時点では中国平定が目前になっており、

中国を光秀、九州をそのまま秀吉に当たらせるつもりだったのだろう。

しかし光秀はすでに60歳を超えていたといわれ、

当時の平均寿命からすれば老人である

そのような人間中央を外れ、百姓出身秀吉の下につけ、

という命令はもはや限界があったのだろう。

実際、本能寺の変の後に自分の味方をするような事前調略は皆無であり、

衝動的な行動だったことがわかる。

もし信長四国方面に「切り取り次第」を命じていたら、

本能寺の変は起きず、長曾我部は光秀が平定し、

数年後には秀吉九州島津を平定していただろう。

あるいは、中国担当を光秀と正式に交代させておけばよかったと思われる。

ちょっとした命令の仕方ですべてがくるってしまったのかもしれない。

2022-06-15

政治家を父母に持つ)女性だけの街

参勤交代の時の大名の娘が江戸にとらわれていたようなことがグローバルに行われるのであれば

世界各国トップレベルのお偉いさんの娘が一か所に集められ女性だけの街が成立するのか?

2022-06-14

欠点

この時期に問屋業者が増え、店自体の売上が均一化し、多くのぬけ荷品が闇市場に並ぶといった所があげられる。それらの欠点豊臣秀吉時代の末期には露呈した。また、領主特定商人関係を結んで御用商人化し、領主命令を受けて座に代わって市場支配権を得る例も見られた。これらは欠点と言うよりは規制緩和としての楽市楽座が不完全であったこと、また楽市楽座が相当な利益商人にもたらし、制度としてのインセンティブ設計成熟していなかったことを意味する。

更に近年では中世日本都市中世西欧自由都市比較しようとして、楽市・楽座そのもの過大評価しているとする批判もある。そもそも楽市自体城下町や領内の主要都市商人を集めるための政策であり、大名がこうした地域に対して何らかの統制を意図しなかったとは考えられないというものである。また、一見して商人による自治を認めながら、実際にはその自治責任者地位にいるのは大名の御用商人や被官関係を結んで商人司など大名が定めた役職に任じられたものであり、商人司を通じて大名経済政策に沿った方針が浸透していたと言われている。更に織田政権楽市・楽座を推進する一方で座の結成・拡張を図っている事例もある。例えば越前国足羽郡で薬屋を営んでいた橘屋は、朝倉氏の滅亡後に織田信長から北ノ庄などで唐物を扱う唐人座と絹織物を扱う軽物座の責任者に任じられて役銭を徴収し、天正4年(1576年)に北ノ庄に楽座令が出された際には先の信長命令理由として両座に対する安堵状が出されている。つまり楽市楽座一見上は規制緩和を掲げながら、実態大名による新たな商業統制策であって江戸時代幕藩体制における商業統制の先駆けであったとする指摘もある。

anond:20220613155233

蒼天録か何かで高レベル忍者を何人も送り込んで信長暗殺成功して信忠にさせたけど、大勢力だったからかそんなに状況は変わらなかったな。

大名が変わったからといってルーチンがそれほど変わるかなあ?というのもあった。積極的天下統一を狙うとか勢力の維持に徹するなどの方針の違いはあるみたいだが。

ギリワンを内応させてお城や砦乗っ取りはそういうゲームの仕組みとチャンスがあれば常にやってた。

2022-06-13

anond:20220613155233

確か天翔記以前は大名を捕まえても斬首しか無かったかガンガン暗殺してたけど

それ以降は逃がして浪人で登用できるからあんまり暗殺しなかったな

とはいえ天翔記暗殺やすいか個人的思い入れがないけど強い奴(九鬼とか)は暗殺して有利に進めるとかやってた気がする

風魔小太郎とか服部半蔵とかの忍者軍団作って全武将暗殺して空白地帯の白を乗っ取ったり無茶苦茶できて楽しかったなぁ

徳川家康は記録に残っているだけでも最低5回は命を狙われ、すべて事前に察知して乗り切っている

信長の野望の「暗殺システム」ってすごかったよね。

信玄とか謙信とか強い大名には

なかなか成功しないけど

にんじゃ→あんさつ

グリグリグリって暗殺できると

次の代のボンクラ即位するってやつ。

光栄テクモでも

子供作れたり(三国志8)とか

はあるけど

主人公死んで代替わりできるゲームって少ないですよね。

親子設定、義兄弟設定は出来るけど。

https://anond.hatelabo.jp/20220613155233

信長の野望の「暗殺システム」ってすごかったよね。

信玄とか謙信とか強い大名には

なかなか成功しないけど

にんじゃ→あんさつ

グリグリグリって暗殺できると

次の代のボンクラ即位するってやつ。


光栄テクモでも

子供作れたり(三国志8)とか

はあるけど

主人公死んで代替わりできるゲームって少ないですよね。

親子設定、義兄弟設定は出来るけど。

2022-06-08

このように、兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に恵まれた名将と評価されている。事実、信康は武勇に優れ、秀康も秀吉にその人物評価され、忠吉も関ヶ原本戦島津豊久を討つという武功を挙げている。それに対して秀忠には、武勇や知略での評価は乏しく、またその評価ができるような合戦経験していない。ただし、秀忠は2代将軍だったため、後半部分で秀忠は温厚な人物だったと弁護している(「仁孝恭謙」と、儒教倫理上での最高の評価をしている)。しかし、当の徳川家による史書でさえ、秀忠の武将としての評価は低かった。

それでも後継者となったのは、家康が秀忠を「守成の時代」の主君に相応しいと考えていたからだと言われている[17](家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、貞観政要には「守成は創業より難し」という一文が存在する)。父の路線を律儀に守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言える。

為政者としての評価

公家諸法度、武家諸法度などの法を整備・定着させ、江戸幕府の基礎を固めた為政者としての手腕を高く評価する意見もある[注釈 6]。娘の和子を後水尾天皇に嫁がせ皇室牽制、また紫衣事件では寺社勢力を処断し、武家政権の基礎を確立させた。家康没後は政務に意欲的に取り組んでおり、家康が没した直後の元和2年(1616年7月小倉藩主の細川忠興は息子・忠利に「此中、公方様御隙なく色々の御仕置仰せ付けられ候」(最近将軍様政務に余念がない)と書き送っている[19]。

秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、家光に将軍職を譲った後の秀忠も、大御所として全面的政務を見ている。作家海音寺潮五郎は「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。」としている。

江戸上洛の途中、三島宿で鰻を獲ると神罰が当たるという三島明神の池で鰻を数尾獲った小者がいた。そのことを耳にした秀忠は小者を捕えると宿の外れで磔に処した。「神罰を畏れぬ者はいずれ国法をも軽んじて犯すに違いない。それでは天下の政道が成り立たぬ。神罰覿面とはこのことよ」と言った。一罰百戒、厳罰主義の秀忠らしいエピソードである

大名たちの家族関係には些細なことにも気を配り、それを解決する時には茶目っ気もあった。小倉藩細川忠興は父・幽斎譲りの脇差「大三原」(『享保名物帳』の同名の刀とは別物)を愛刀としていたが、嫡子忠利が所望しても与えないので、親子関係がぎくしゃくしていた[25]。どういうわけか、この事情は秀忠の耳にも及んでいた[25]。そこで、ある年、細川父子を伴として浅草川に水浴に出かけ、忠興にも一緒に川で水を浴びるように誘った[25]。忠興も、水浴びとなれば、大三原を腰から外さざるを得ない[25]。秀忠は、忠興より先に水浴びを済ませ、川辺に置かれていた大三原を手に取ると、一人川に入らず側に控えていた忠利に気を利かせて、「余がこれを拝借し、取り次いで、そなたに下賜してやろう。(将軍仲介しているのだから、)越中(忠興)のやつもまさか異議は申すまい」と堂々と宣言して、大三原を忠利に与えてしまった[25](『細川忠興公年譜』[26])。このときのやりとりは実は忠興にも聞こえてはいたのだが、将軍の声には逆らえず、しぶしぶ従ったという[25]。秀忠の大物ぶりに感化されたのか、忠利は後に大三原を気前よく弟の立孝に譲っている[25]

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