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2017-05-19

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政119月9日1828年10月17日) - 明治38年(1905年1月31日)は、日本江戸時代末期(幕末から明治時代佐賀藩士、政治家書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。

目次 [非表示]

1 生涯

2 書家

3 栄典

4 参考文献

4.1 伝記

5 登場作品

6 脚注

7 関連項目

8 外部リンク

生涯[編集]

文政11年(1828年)、佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。父は藩校である弘道館教授を努める国学者で、兄は同じく国学者枝吉神陽。母は木原宣審の娘・喜勢。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平大木喬任と交わる。

嘉永3年(1850年)、兄・神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852年)、京都遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。さらに、神陽の命を受けて大原重徳に将軍廃止天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。

安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる

元治元年(1864年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年1867年)、大隈重信脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。

明治維新後は慶応4年1868年)、新政府参与制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年(1869年)に参議、同4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。

明治6年(1873年)2月には前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件台湾出兵も参照)の処理交渉特命全権公使外務大臣として清の首都北京派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。同年10月征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部旅行滞在している。

明治12年(1879年)、宮内省一等待講。明治17年(1884年)、伯爵明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年1888年)に枢密顧問官明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。

明治38年(1905年)、脳溢血のため死去[1]。

原因・背景[編集]

1871年(明治4年)10月宮古島から首里年貢輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民現在台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落拉致された。

先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年明治5年琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡島村現在岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。

開戦準備へ[編集]

副島種臣

宮古島台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在アメリカ合衆国総領事チャールズルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人懲罰するべきだ」と日本外務省提唱した。

初代龍驤台湾出兵旗艦であり副島種臣大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。

孟春(砲艦)は三本マストスクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。

外務卿副島種臣はデロングを仲介しルジャンドル会談、内務卿大久保利通ルジャンドル意見に注目し、ルジャンドル顧問として外務省雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。

1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年明治7年)4月、参議大隈重信台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。

明治六年政変における明治天皇勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的企画したのである

台湾での戦闘[編集]

西郷従道

台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に参議木戸孝允らの長州系は征韓論否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日木戸参議辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。

台湾出兵時の日本人兵士

水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]

国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日谷干城赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵大隊砲兵一小隊出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。

5月6日台湾南部上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリア猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。

収拾への交渉[編集]

明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章イギリス駐日大使パークスは当初は日本軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通北京に赴いて清国政府交渉した。大久保は、ルジャンドルフランス人法学者ボアソナード顧問として台湾問題交渉し[7]、主たる交渉相手総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国互換条款互換憑単によると清国遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球日本帰属国際的に承認されるかたちとなった[1]。

帰結[編集]

日本清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年明治8年)、琉球に対し清との冊封朝貢関係廃止明治年号使用などを命令した。しか琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

1879年明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年明治13年)の北京での交渉において、日本沖縄本島日本領とし八重山諸島宮古島中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島領有は望まず、冊封関係維持のため二島琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。

また、明治政府兵員輸送英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。

台湾出兵と熱帯病[編集]

被害[編集]

日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。

軍医部の対応[編集]

1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省から外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。

2017-04-04

http://anond.hatelabo.jp/20170404120416

すこし事実誤認がある。

SPは各都道府県警察担当し、法律で定められた職(総理大臣、衆参議長、国務大臣政党党首)の警護には

警護要則にしたがい警察庁長官が定めているから警護そのもの公務とみなされるため、選挙に同行しても問題視されない。

警護要則では、要人家族は警護対象となっていないが、

別途要請があれば、警察庁指定により警護対象とすることができる。

からおそらく昭恵夫人には普段SPはついていない。

2016-07-06

日本死なれたら困る‥にマジレスすると

http://anond.hatelabo.jp/20160706193527

玉石混交政党選びよりも、遠回りだがみぢかな候補者達をウォッチするこった。ポスター貼り手伝います、って言えば喜んで頼んでくれるよ。そして、マスコミに乗らない話や、もうすぐ来るかもしれないヤバイこととそれを避ける知恵とかを教えてくれたりもするかもね。若さゆえ、こぞって良くしてくれるはず。

ただし宗教系だけはやめときましょう。

面倒くさければ、ネット上の衆参議サイト議事録をサラッと読むか、どこの中央図書館にでもある筈の官報を数カ月分さらっと読んでみそ。それで、現政権応援したいか、歯止めをかけたいか自分なりに感じてみることだね。他人に聞いてみるのはそれからにしたほうがいいよ。テレビ新聞本来はそうしたあとから見たほうが、より正しく判断できるでしょう。

2015-05-12

http://anond.hatelabo.jp/20150512230945

共産主義定義に「私有財産制を認めないこと」を入れるなら(入れない共産主義ってなんだという感じだが)、憲法改正しないと共産主義国家にはなれないな。

政権を取ること=憲法改正ができること ではないので、日本共産党が衆参議席の51%を確保する程度では、共産主義国家にはなれそうにはない。

2013-11-04

山本太郎参院議員の「直訴」について、中立的に考えると。

山本太郎参院議員天皇陛下に『直訴状』を手渡しした、という話は既にあちこちのSNSでも議論され尽くしており、態々書くまでも無いような気がするのだが、一点だけ気にかかる事がある。

それは少なから山本太郎参院議員の行動を「自らの身を顧みず天皇陛下に直訴状まで渡す熱い脱原発活動だ!」と評価(賛同)する人が多い件について。

もちろん彼らが所謂放射脳」であり、まともな判断力を持ちあわせていないんだ~と一般的な「ネット意見」風に言ってしまえばそれまでの事なのだろうが。

このエントリでは「天皇陛下政治利用する」事や、「直訴状」について、あるいは「ウヨク」だとか「サヨク」だとかは特に取り上げない。そのレベルに無いからだ。

山本太郎参院議員の今回のこの行動(事件)ははっきり言ってそれ以下のレベルのかなり稚拙な行動であったのではないか、という話。

山本太郎参院議員所謂脱原発派」の中でも特に急進的で過激な活動に参加している事は有名な話であり、

度々「脱原発デモ」に参加して時には過激すぎる活動(暴力沙汰)などに発展している…というのは彼の行動に賛成する人でも多分知っているだろう。

その活動の一環で、「福島に関する現状を知ってもらいたい」として天皇陛下に「直訴」の手紙を手渡すに至った、というのがまず前提である

しかしそもそも、氏は普段から東北生活するのはあり得ない。がんになるのを待っているだけ」「このまま放射能汚染が続くなら、俳優引退疎開も考えている」等と放言し、

挙句自分10ハゲ被曝が原因」「国会で出される弁当はベクレている(放射能汚染されている、という意味)」等と国会議員にあるまじき「適当放射能に関する発言」のオンパレードである

(なお、これらの発言はいい加減であてにならない、「原発推進派による陰謀にまみれたインターネッツメディア」ではなく全て新聞雑誌等のメディアによる取材の物であったり、

 はっきりと映像メディア前後の会話から公開されているため言い逃れのしようがないものである。)

氏の普段の発言は、福島県東北の事を『放射性物質を含んだ粉塵が吹き荒れる死の大地』『汚染された地に住んでいる人たちには致命的な健康被害が出ている』という脳内イメージを前提で語り、

それに伴う小学生の「バイキン」遊び(いじめ)のような福島県、及び福島県民への差別助長するような事を公的な立場で述べているのと同じ事ではないだろうか

これがいち活動家であればよかったものの、彼は現在参議委員議員である。発言には全て責任が伴ってくる。

そしてこのような氏の普段の言動から見て、はっきり言って福島県の現状を知っているとは言いがたい、というのは福島県民でなくてもお分かりになるだろう。

福島県民や東北在住・出身からしてみれば、怒りを通り越して呆れる、というレベル

そのような状況にある人が、「直訴」と称そうがしまいが誰かに「知っていただくための手紙」を出す事自体が極めて失礼に当たる。

本人は立場を「一度横に置いて」と主張していたが、立場を横に置いて、差出人と宛先の人物が友達であったとしても失礼通り越して、縁を切られるレベルである

(そもそも立場を横に置いて、というのは下の人間が上の人間に対して使うべきではないが)

レベルとしては今から韓国旅行に行く友達に「南朝鮮レイプ国家渡航を中止せよ」とどこぞの匿名掲示板怪文書手紙にして渡すのと全く同レベルだ。

妄想や不明瞭なソースからの発言を普段から好き放題言っている人間が「教えてやる」手紙を書き、

それを誰かに出すのはその手紙を出す相手にも、その「現状を訴える」相手に対しても滅茶苦茶に失礼な話で。

しかも渡した相手はよりによって何度も被災地に赴いている人物であり、間接的に「お前は放射能で汚れているのだぞ!」というメッセージにもなりうる

氏の普段の公的活動を見ていると、『脱原発』というメッセージとは別に福島県ケガレいるか差別しろ」というニュアンスが含まれているように見えてならない

そもそも原発必要か、必要でないかという話は別にして、このような「福島県差別して日本から抹殺し、脱原発しよう!」という方向性で良いのだろうか?

仮に原発が0になったとして、今度は新しい問題が出てきたらその度に周囲に住んでいた人間を「ケガレ」としてどんどん排除していき、

最終的に「ケガレていない人間」だけが生き続ければいいのか?そうした言説や行動は、明らかに間違っていると思う。

今一度、脱原発活動に賛同する人でもこうした山本太郎参院議員やその周囲で推し進められている「放射能ケガレ」言説について考えてみていただきたい。

今は他の県から福島県は汚染されている!福島県産野菜は捨てろ!福島の子供とは遊ぶな!」と主張している人も、次に「ケガレている」人間として

「ただそこに住んでいただけ」で攻撃されたり汚物のように扱われ、排斥されて容認できるだろうか?そもそもそんなケガレ思想を『脱原発』の場に持ち込む必要があるだろうか?

自分たちが主張する原発0への運動が正しいと思うのなら、ケガレた地や人に対する差別ニュアンス事実に基づかないいい加減な現状は切り離すべきだ。

子どもたちのために核の心配のない世界を残したい!」核の心配排除するのにケガレによる差別思想をまき散らす?

何かが起こったらその周辺地域の住民は差別され、産出物は全て放射性廃棄物扱いされるのが子供たちに残してあげたい未来なのか?

脱原発活動』に今一番必要なのは、このように言葉だけは強く無責任に誰かを差別するような言説を撒き散らす人や過激な(犯罪じみた)活動をする人ではなく、

正しい知識と現状把握を元に今後どうやって実現していくかを話し合い、代表意見として適正に提出・発言してくれる人物だ。

こうした無責任無知イメージによる言説で、過激なパフォーマンスを行う人はたとえ脱原発に賛成していようがいまいが決して『味方』では無い。『敵の敵は味方』ではない。

しろ、大雑把に敵と味方を分けるとすれば『余計な事をして戦況をどんどん悪化させる敵』に近いとすら思える。

残念ながら、既にインターネットメディアでは「放射脳」という言葉ができてしまレベルでこうした無責任無知な言説や「ケガレ思想=脱原発活動のイメージが撒き散らされてしまったが、

今後きちんと『脱原発』及び『核の無い世界』を実現していきたいのであれば、必要なのはこうした『無責任パフォーマー』やそれに賛同してもてはやす、擁護することで

きちんと今後の事を主張し、話し合っていく人達の足を引っ張り続けることではない、と私は思う。

2012-03-17

2ちゃんねるの+板、どうしちゃったの?

政治自民片山さつき氏「生活保護、1200億円弱も外国人に。保護率は日本人の2~3倍、3分の2が朝鮮半島出身の方」

こんなスレが今2chニュース速報+板で盛り上がっている。

スレ>>1に貼られたソースはこれ

自民片山さつき

生活保護期22年度で3.3兆円。このうちご覧いただくとわかりますが、仮試算で1200億円弱も

外国人に払っております。その保護率は日本人の2~3倍、3分の2が朝鮮半島出身の方だそうです

平成243月16日 参・予算委 自・片山さつき議員 ?…YouTube

http://www.youtube.com/watch?v=lB94UOBdsSw&feature=youtu.be#t=7m40s

http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1331943841/


片山さつき参議員の質問を抜粋されたものソースとして貼られたURLは、予算委員会動画

在日朝鮮人生活保護問題だから2chネトウヨが盛り上がるのは当然だ。

しかし、抜粋された書き起こし部分はデータを提示しているだけで、これを読んだだけじゃ「それで?」としか思えない。片山さつき議員は何を言いたいの?

動画を見たら呆れた。

片山さつき参議院議員自民

次に生活保護の問題について伺います

お手元の資料を見ていただきたいのですが、生活保護期22年度で3.3兆円。このうちご覧いただくとわかりますが、仮試算で1200億円弱も外国人に払っております。その保護率は日本人の2~3倍、3分の2が朝鮮半島出身の方だそうです。

昨日、厚労省に聞いたら、在韓国内の3万人と言われる在留邦人に、少なくとも同じ条件では生活保護は与えて頂いてないと。で、いくら払われているかは全く調査できないと。

にもかかわらず去年の日韓首脳会談は、ずーっと従軍慰安婦問題言われっぱなしだったんですね。で、そういう状況の中であなたはその従軍慰安婦の像の撤去のためのイニシアチブも見えない。何故こういう状態になってるのか、ご自身の外国人献金問題の影響があるんでしょうか?お答え下さい。

http://matome.naver.jp/odai/2133194370752356101


在日朝鮮人への生活保護費支給の話は前置きで、最後の質問は、野田首相外国人献金問題について。

冒頭の「生活保護の問題について伺います」という言葉は何なんだ?

そりゃ野田首相の答弁も

ちょっと飛躍の飛躍の話なんで、何と言ったらいいのかわかりませんが

ってなるよ

ここで問題にしたいのは、片山さつき議員の質問についてじゃない。

このように動画の一部を切り取ってソースにし、ニュース速報+板にスレが立てられることの問題についてだ。

2chソース恣意的に切り取るのは当たり前だろ」とか言われるかもしれない。

自分無印ニュース速報板ならば、そう思う。

でも、ニュース速報+板(以下+)でこういうことやられるのはチョッとなあ、と感じる。

自分意識では、無印ソース恣意的な切り貼り等なんでもありの一方で、+のほうはスレタイは工夫してもソース情報は切り貼りせずに全部出すイメージがあった。

ソース元もマスメディア限定で、無責任ネットニューススレは立たない、という暗黙の了解みたいなのがあった気がする。

仮に、動画ソースにしてスレッドを立てるにしても、質問文は全文書き起こしにしてフェアに見せるのが、昔の+のイメージだ。

しかし、今回は一部抜粋書き起こしのみ。継続スレが9番になっても、全文書き起こしが>>1に貼られることはない。

+板全体で見ても、ネットメディアソースにしたスレがやたら多くなっている。

ステマ騒動以降、今まで培ってきたルールガラガラポンで崩れ去ってしまったのか。

2011-04-01

前向きなメッセージを発信してほしい

地震から1ヶ月たつ4月11日は哀悼の誠を捧げる日にすると、

首相、衆参議長、最高裁長官はもとより、

そして天皇陛下がお呼びかけになることはできないのか?

都道府県政令市地方選挙が前日に一段落し、

次の日はプロ野球開幕の日。

区切りとしてはちょうどいい。

そしてこの日を境に自粛は終わり。

自粛よりも限られた資源の中で、

日本を盛りたててほしいと前向きなメッセージ首相は発信しろ。

2010-05-29

何だこれ

http://www.geocities.jp/osakakoudou/

辺野古基地建設計画の白紙撤回に向けた行動宣言」

紹介議員 42名 (参議員20名 衆議員22名)

無所属

糸数 慶子(無・参) / 川田 龍平(無・参)

社民党

山内 徳信(社民・参) / 近藤 正道(社民・参) / 福島 みずほ社民・参) / 渕上 貞雄(社民・参) / 又市 征治(社民・参) / 照屋 寛徳(社民・衆) / 辻元 清美社民・衆) / 阿部 知子(社民・衆) / 重野 安正(社民・衆) / 日森 文尋(社民・衆) / 保坂 展人(社民・衆) / 菅野 哲雄(社民・衆)

共産党

佐々木 憲昭(共産・参) / 紙 智子(共産・参) / 井上 哲士(共産・参) / 市田 忠義(共産・参) / 赤嶺 政賢(共産・衆) / 塩川 てつや(共産・衆) / 穀田 恵二(共産・衆) / 石井 いく子(共産・衆) / 笠井 亮(共産・衆)

民主党

喜納 昌吉(民主・参) / 大塚 耕平(民主・参) / 犬塚 直史(民主・参)/ 福山 哲郎(民主・参) / 大河原 まさこ(民主・参) / 岡崎 トミ子(民主・参) / 今野 東(民主・参) / 谷 博之(民主・参) / 松野 信夫(民主・参) / 川内 博史(民主・衆) / 古川 元久(民主・衆) / 田島 一成(民主・衆) / 平岡 秀夫(民主・衆) / 岡本 みつのり(民主・衆) / 赤松 広隆(民主・衆) / 高井 美穂(民主・衆) / 小川 淳也(民主・衆) / 近藤 昭一(民主・衆) / 横光 克彦(民主・衆)

社民共産議員が多数署名しているのは分かる。が、民主党議員署名してる奴ら、お前らどう落とし前付けるんだ?

つか農水大臣赤松署名してんじゃねえかよ。

2010-02-26

コピペ歴史

俺が小学生の頃、どうしても武田サインが欲しくて、等々力競技場で色紙とマジックを持って、選手出待ちをしていた。

武田が出てきて俺は「武田選手サインおねがいします」と叫んだがササッと車に乗ってしまった。

がっくりしてると、カズが俺に「僕のサインでもいいかな?」とニッコリしながら声をかけてくれた。

俺はびっくりしたが「もちろんです、お願いします!」と言うとスラスラとサインをしてくれた。

その後「これからも武田選手ヴェルディの応援よろしくね」と声をかけてくれた。

あのカズ笑顔は、今でも忘れられない。

サインはすぐ捨てた。

14 :名無しさん@九周年:2008/11/30(日) 21:56:31 ID:e/NDexav0

俺が高校生の頃、どうしても河野太郎写真が撮りたくて、国会議事堂および議員会館周辺でカメラを持って、衆参議員の出待ちをしていた。

河野が出てきて俺は、「河野先生写真おねがいします」と叫んだがササッと車に乗ってしまった。

がっくりしてると、山本一太が俺に「僕との写真でもいいかな?」とニッコリしながら声をかけてくれた。俺はびっくりしたが「もちろんです、お願いします!」と言うと、一太は俺のデジカメ秘書に渡し、レンズに向けて様々なポーズをとったり、肩を組んだりしてくれた。

その後「これからも太郎ちゃんと自民党の応援よろしくね」と声をかけてくれた。

あの一太の笑顔は、今でも忘れられない。

一太の後ろ姿を眺めながら、デジカメ内の写真はすぐ消去した。

31 名前名無しさん@恐縮です[] 投稿日:2010/02/25(木) 13:20:06 ID:piQH1vYk0

去年のことなんだけど、どうしても本橋マリリン写真が撮りたくて、練習場周辺でカメラを持って、チーム青森出待ちをしていた。

マリリンが出てきて俺は、「本橋さん、写真おねがいします」と叫んだがササッと車に乗ってしまった。

がっくりしてると、近江谷杏菜が俺に「私との写真でもいいかな?」とニッコリしながら声をかけてくれた。俺はびっくりしたが「もちろんです、お願いします!」と言うと、近江谷は俺のデジカメ石崎琴美さんに渡し、半袖になってレンズに向けて様々なポーズをとったり、肩を組んだりしてくれた。

その後「これからもマリちゃんチーム青森の応援よろしくね」と声をかけてくれた。

あの近江谷杏菜笑顔は、今でも忘れられない。

近江谷の後ろ姿を眺めながら、デジカメ内の写真はすぐ消去した。

 
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