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2023-07-22

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)

名称概要
463年吉備氏の乱雄略天皇吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。
479年星川皇子の乱雄略天皇吉備田狭の妻のあいだに生まれ星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。
527年磐井の乱朝鮮半島出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。
587年丁未の乱仏教布教を巡って、大臣蘇我馬子と、大連物部守屋対立し、戦に発展した。蘇我氏勝利した。
645年乙巳の変中大兄皇子中臣鎌足らが、朝廷壟断していた蘇我入鹿暗殺、続いて蘇我氏粛清した。
672年壬申の乱天智天皇後継者争いが発生し、皇太子大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子挙兵した。大海人皇子勝利して天皇となった。
729年長屋王の変皇族長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。
740年藤原広嗣の乱藤原四兄弟の死により藤原氏勢力が退潮し、九州左遷されて不満を持った藤原広嗣太宰府挙兵したが、朝廷軍により討伐された。
757年橘奈良麻呂の乱橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。
764年藤原仲麻呂の乱孝謙上皇対立した太政大臣藤原仲麻呂恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。
780年宝亀の乱朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷族長伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純殺害して反乱を起こした。
782年氷上川継の乱天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。
807年伊予親王の変藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王自死したが、のちに冤罪と認められた。
810年薬子の変平城上皇嵯峨天皇対立が激化し、平城上皇挙兵決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇出家した。
842年承和の変嵯峨上皇崩御に伴い、皇太子恒貞親王擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王皇太子となった。
866年応天門の変応天門放火があり、大納言伴善男が「左大臣源信仕業だ」と告発したが、逆に伴善男真犯人だとされて流罪になった事件
878年元慶の乱長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。
889年寛平・延喜東国の乱関東治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。
901年昌泰の変右大臣菅原道真が失脚し、大宰府左遷された事件左大臣藤原時平陰謀だとされる。
938年天慶の出羽俘囚の乱朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明
939年承平天慶の乱東では坂東平氏平将門が、西では藤原一族藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。
947年藤原是助の乱伯耆豪族藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。
969年安和の変謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣源高明太宰府左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。
986年寛和の変皇太子の外祖父であった右大臣藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件
995年長徳の変「花山法皇自分恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したこと藤原道長が台頭していく。
1028年平忠常の乱坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。
1107年源義親の乱源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏繁栄きっかけとなった。
1113年永久の変千手丸という童子鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。
1156年保元の乱後白河天皇藤原忠通派と、崇徳上皇藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇流罪となった。
1160年平治の乱信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝クーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。
1180年治承・寿永の乱いわゆる源平合戦平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府樹立された。
1184年三日平氏の乱平氏都落ちのあと、伊賀平田家継、伊勢平信兼藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。
1189年大河兼任の乱奥州藤原氏の家臣だった大河兼任出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。
1199年梶原景時の変源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。
1201年建仁の乱梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府鎮圧された。
1203年比企能員の変将軍源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍地位を追われた。
1203年三日平氏の乱二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅鎮圧された。
1205年畠山重忠の乱平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。
1213年泉親衡の乱北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方くらませた。続く和田合戦きっかけとなった。
1221年承久の乱後鳥羽上皇北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇隠岐に配流された。
1293年平禅門の乱平頼綱北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。
1305年嘉元の乱得宗北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。
1325年安藤氏の乱津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。
1324年正中の変後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝佐渡流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。
1331年元弘の乱後醍醐天皇鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。
1335年中先代の乱最後得宗北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。
1336年建武の乱後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇吉野に逃れて南北朝時代が始まった。
1366年貞治の変室町幕府で権勢を振るった斯波高経斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。
1375年水島の変九州派遣された今川了俊が、同じ北朝少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏大友氏などが離反した。
1380年小山氏の乱鎌倉公方・足利氏満下野守護小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。
1387年小田氏の乱常陸小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。
1389年土岐康行の乱有力守護の弱体化を図る将軍足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。
1392年明徳の乱一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍足利義満挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。
1395年田村庄司の乱白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。
1399年応永の乱六カ国の守護である大内義弘が将軍足利義満対立鎌倉公方と手を結び、土岐氏山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。
1411年飛騨の乱飛騨国司姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。
1413年伊集院頼久の乱島津家後継者争いをきっかけに、当主島津久豊対立した重臣伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。
1416年上杉禅秀の乱関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。
1422年小栗満重の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。
1423年越後応永の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。
1429年大和永享の乱幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。
1438年永享の乱鎌倉公方・足利持氏関東管領・上杉憲実の対立から室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。
1441年嘉吉の乱三カ国守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍足利義教暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。
1443年禁闕の変南朝復興を唱える勢力御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。
1455年享徳の乱足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。
1457年蠣崎蔵人の乱陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。
1457年長禄の変赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。
1467年応仁の乱畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから東軍細川勝元西軍山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。
1476年長尾景春の乱関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。
1479年毛利次郎の乱赤松氏らの支援を得た因幡国人毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。
1486年江戸城の乱谷上杉氏の当主上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。
1487年長享の乱享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。
1487年長享・延徳の乱将軍足利義尚が自ら軍を率いて近江守護六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。
1489年山名新九郎・小太郎の乱伯耆守護山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。
1490年佐竹の乱佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。
1502年伊庭氏の乱長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔挙兵するが、最終的に鎮圧された。
1507年永正の乱越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いか関東を二分する戦いに発展した。

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

2021-07-08

圧倒的な戦力差にも関わらず勝利善戦した戦い 2

前回のリストhttps://anond.hatelabo.jp/20210707223409字数制限に達したようなので、書ききれなかった分はここに付け足します。前回はたくさんのブックマークコメントありがとうございました。https://anond.hatelabo.jp/20210715114737も参照ください

古代

・第二次合肥の戦い

 214年 三国時代 曹操軍★7000vs孫権10

 孫権は自ら軍を率いて曹操軍の籠城する合肥城を攻める。しかし、張陵の奮戦に苦しめられた挙げ句、疫病の発生により撤退余儀なくされた。更に張陵に追討ちをかけられ、命からがら逃亡した。

中世

・沙苑の戦い

 537年 南北朝時代 ★西魏1万vs東魏20

 西魏軍は葦原に身を隠し、東魏軍の列が乱れたところを一斉攻撃する戦法で勝利した。東魏軍は6000名が捕らえられ、7万人が捕虜となった。

パリ包囲戦

 885~886年 ★西フランク王国200vsヴァイキング3万~4万

 西フランク王国首都パリヴァイキング大軍が包囲。フランク人達は1年にもわたる激しい抵抗を繰り広げ、やがてカール3世率いる援軍が到着したため、ヴァイキング撤退した

多々良浜の戦い

 1336年 南北朝建武の乱 ★足利1000vs菊池軍1万

 博多へ侵攻する菊池軍と足利尊氏が遭遇。菊池軍に離反者が相次ぎ、敗北した。

ベオグラード包囲戦

 1440年 ★ハンガリー軍3500vsオスマン軍3万~5万

 オスマン帝国はハンガリー王位を巡る内戦に乗じてセルビアへ侵攻、ベオグラードを包囲した。ハンガリー軍は5ヶ月に渡って抵抗し、これを退けた。

・クルヤ包囲戦

 1450年 オスマンアルバニア戦争 ★アルバニア8000vsオスマン10

 スカンデリベグ率いるアルバニア軍がオスマン帝国に包囲された。アルバニア軍は敵軍の補給を断ち、士気の低下と病気流行に苦しめられたトルコ軍撤退した。

近世

ベオグラード包囲戦

 1456年 ★ハンガリー軍4000vsオスマン軍3万~40万

 コンスタンティノープルを陥落させたトルコ軍は勢いに乗じて、ハンガリーへ侵攻するが、ベオグラード英雄フニャディ・ヤノーシュの活躍の前に敗れ去る。

・ヘミングステットの戦い

 1500年 ★ディットマルシェーン500~1000vsデンマーク軍1万2000

 ディットマルシェーンの農民達がカルマ同盟に対して反乱を起こす。農民達はバリケードを築き、土地を氾濫させたため、デンマーク軍は数的優位を活かせなかった上、大勢溺死したため、撤退した。

・ロドス包囲戦

 1522年 聖ヨハネ騎士団6700vs★オスマン帝国8万~12

 ロドス島支配する聖ヨハネ騎士団オスマン帝国が包囲。半年にも及ぶ激戦の末に騎士団降伏シチリア島へ移った。トルコ軍にも2000~5万の死傷者が出た

・クーセグ包囲戦

 1532年 ハンガリー軍700~800vsオスマン12万~20

 ウィーン遠征へ向かうトルコ軍ハンガリーの小さな町クーセグを包囲。貧弱な装備ながらも守備隊は25日間抵抗し続け、ハプスブルクの援軍を恐れたスレイマン1世撤退した。ハンガリー軍最後まで降伏しなかったという説と降伏を受け入れたが少数のトルコ人しか砦に入れなかったという説がある。

カステルヌーヴォ包囲戦

 1539年 スペイン軍3500vs★オスマン軍5万

 現モンテネグロの町カステルヌーヴォをバルバロス率いるトルコ軍が完全包囲。スペイン軍降伏勧告無視し、1ヶ月にも及ぶ激戦の末に100名を除いて全滅したが、トルコ軍8000から2万人が戦死した。

・アンドリエンの戦い

 1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチ連合軍500vsマプーチェ族2万人

 マプーチェ族はスペイン軍に夜襲を仕掛けるが、スペイン軍は警戒を怠らなかったため、返り討ちにされ、3000人が戦死した。

・エゲル包囲戦

 1552年 ★ハンガリー軍2000vsオスマン軍3万5000~4万

 イシドヴァーン・ドヴォ率いるハンガリー軍トルコ軍に包囲されるも、厚い防壁、イシドヴァーンのリーダーシップトルコ軍の内部対立に助けられ、防衛成功した。

マラッカ包囲戦

 1568年 ★ポルトガル軍数百vsアチェ軍1万5000

 アチェ王国ポルトガルからマラッカを奪還しようと大軍派遣し包囲するが、3000人以上の犠牲者を出して敗北した。

・ファマグスタの戦い

 1570年~1571年 オスマンヴェネツィア戦争 ヴェネツィア8500vs★オスマン10万~12

 キプロスクリスチャン最後の砦ファマグスタが1年近く激しい抵抗を繰り広げた後に降伏した。ヴェネツィア軍は7600人が戦死し、トルコ軍は1万~2万人が死傷した。当初トルコ軍は砦内のクリスチャン安全保証するもその約束反故にし、ヴェネツィア人たちを虐殺し、指揮官ブラガディンは耳と鼻を削がれた上、皮剥の刑に処された。

・英賀合戦 

 1577年 戦国時代中国攻め ★小寺軍500vs毛利軍5000

 織田寄りの小寺氏を討伐するため、毛利大軍派遣する。しかし、小寺軍は敵が上陸した直後を奇襲した。更に農民達に旗を挙げさせ、それを敵の援軍と勘違いした毛利は兵を引いた。

・クヴォダンスコの戦い

 1577年~1578年 クロアチア軍300vs★オスマン軍5000~1万 

 クロアチア都市クヴォダンスコをトルコ軍が包囲した。防衛軍は3ヶ月に渡って籠城し、3度の大規模な攻撃を退けた。守備隊が全員餓死若しくは凍死した後にトルコ軍は砦を占拠し、敵兵の遺体を手厚く葬った

・石城合戦7月) 

 1578年 ★伊東軍600vs島津軍7000

 伊東軍が建設した石城を島津軍が包囲する。しかし、石城は三方を急流、背後を険しい崖に覆われた天然の要塞であったため、島津は一度撤退した。伊東軍の死者10人に対し、島津軍は500人が死亡し、大将島津忠長も重傷を負った。2ヶ月後島津軍は1万人の大軍派遣して城を堕とした。

・ナジカニジャ包囲戦

 1601年 ★オスマン軍9000vsハプスブルク6万5000~10

 現ハンガリー都市ナジカニジャをハプスブルク大軍が包囲。オスマン軍は潤沢な物資があるように見せかけながら防衛戦を繰り広げ、73日目に奇襲攻撃を仕掛けた。これを敵の援軍と勘違いしたハプスブルクは軍を撤退させた。

・パバンカインドの戦い

 1660年 マラータ軍600vs★ビジャープル軍1万

 マラータ王国の台頭を警戒したビジャープル王国は討伐のために軍を派遣する。マラター軍はビジャープル軍の追撃から国王シヴァジーを逃がすため、狭い砦で命がけの戦いに挑んだ。この戦いで両軍とも兵力の半分を失ったが、シヴァジーは逃亡に成功した。

・ハドウの戦い

 1694年 ポーランドオスマン戦争 ★ポーランド軍400vsクリミア・ハン軍4万

 ポーランドポジーリャに侵入したタタール軍とポーランド軍が激突した。ポーランド軍は木製の柵で守りを固め、弾薬が尽きれば、モンゴル軍の矢を打ち返すなど奮戦し、撃退した。ポーランド軍の損害は100名足らずに対して、タタール軍は1万人以上であった。

アナントプルの戦い

 1700年 ★シク教1000vsムガル軍1万

 シク教の台頭を恐れたムガル帝国は討伐軍を派遣する。しかし、グル・ゴービンド率いるシク教徒たちに敗れる。

・ナフプリオ包囲戦

 1715年 ヴェネツィア軍4500vs★オスマン軍7万人

 現ギリシアの町ナフプリオをヴェネツィアトルコから奪還することに成功し、更にパラミディ要塞建設し、防衛強化に努めた。しかし、トルコ大軍に包囲され、1週間ほどで陥落し、住民達は虐殺されるか囚人として連行された。しかし、この戦いでトルコ軍8000人以上が戦死した。

・ガングワナの戦い

 1741年 マールワール軍1000vs★アンベールムガルバラプールなど連合軍1万~4万

 マルワール王国はアンベール王国戦争に敗れ賠償金土地要求されるが、国民が怒ったため、報復戦争を開始する。マールワール軍の騎兵ははアンベール軍を強襲し、蹴散らすものの、ムガル軍の砲撃によって敗北した。マールワール軍は全員が戦死するか負傷したが、連合軍12000人が負傷した。

近代

レイバー橋の戦い

 1855年 第二次フランス・トラルザ戦争 ★フランス軍14vsトラルザ軍1000人

 セネガルセントルイスを繋ぐレイバー橋をトラルザ軍が襲撃するも、14名の守備隊に撃退された。フランス軍は3名が負傷しただけであったが、トラルザ軍は127名が死傷した。

・第二次長州征伐

 1866年 ★長州軍3500vs江戸幕府10万5000

 江戸幕府将軍徳川家茂自ら軍を率いて長州討伐に出征する。しかし、西洋化が進められた長州の装備に苦しめられた挙げ句、家茂が病死したため、撤退した。

カブール英国居住地の包囲

 1879年 第二次アフガン戦争 イギリス軍75vs★アフガン2000

 カブール英国居住地に居たピエールカヴァナリ郷をアフガン人が襲撃した。護衛達は奮戦し、600人死傷させたが、2名を除いて戦死した。

・マイワンドの戦い

 1880年 第二次アフガン戦争 イギリス軍2500vs★アフガン軍2万5000

 アフガン人とイギリス軍が激突、数で勝るアフガン人が勝利を収めた。しかし、イギリス軍の死者1000人に対し、アフガン軍の死傷者は1万人以上と勝者の払った犠牲も大きかった。

・シャンガニ・パトロール

 1893年 第一次マタベレ戦争  イギリス南アフリカ会社37vs★マタベレ軍3000

 イギリス南アフリカ会社は現ジンバブエのマタベレ王ロベングラの逮捕のために軍を派遣するが、待ち伏せに遭い3名を除いて全滅した。しかし、マタベレも400~500名が戦死した。

サンファンデルモンテの戦い

 1896年 フィリピン革命 ★スペイン軍100vsカティナン800~1000

 マニラの東サンフアンフィリピン独立を求める秘密結社ティナン武装蜂起を起こすが、スペイン軍に敗れ撤退した。この戦いがフィリピン独立戦争の始まりとなった。

カカロン・デ・シリの戦い

 1897年 フィリピン革命 ★スペイン軍600vsフィリピン6000

 ブラカンフィリピン人がカカロン共和国設立宣言し、砦を築いた。スペイン軍は討伐軍を派遣し、砦を攻略した。反乱軍の残党達はスペインに対してゲリラ抵抗を続けることとなる。

・サラガリの戦い

 1897年 ティ作戦 イギリス領インド帝国軍21vs★パシトゥーン人1万人

 ティ地方アフガン人がイギリスに対して反乱を起こし、サラガリ駐在していたイギリス軍を襲った。イギリス軍は全滅したものの、アフガン人も450名が死傷した。

サンタ・クルス包囲戦 

 1898年 フィリピン革命 スペイン軍700vs★フィリピン軍1万

 ラグナスペイン軍最後拠点サンタ・クルスホセリサールの兄パシアノ・リサールが包囲した。スペイン軍は2ヶ月に及ぶ抵抗フィリピン軍に大損害を与えたが、降伏した。

・ベーラー包囲戦

 1898~1899年 フィリピン革命 スペイン軍50vs★フィリピン軍800

 教会に立て籠もったスペイン軍フィリピン人達が1年にわたって包囲する。スペイン軍フィリピン軍が700名の兵力を失う程激しく抵抗し続けたが、スペイン本国が敗れたことを知り投降した

現代

・ウェンギエルスカグルカの戦い

 1939年 第二次世界大戦ポーランド侵攻 ポーランド1200vs★ドイツ軍1万7000

 ドイツ軍ポーランド軍の防衛するウェンギエルスカグルカ村を通過する際にポーランド軍と2日間交戦する。ドイツ軍勝利したものの、多大な犠牲を強いられ、ポーランド軍の戦死者は7~20名、7名が処刑された。

・ヴェステルプラッッテの戦い

 1939年 第二次世界大戦ポーランド侵攻 ポーランド205vs★ドイツ軍2600

 ドイツ軍自由都市ダンツィヒのヴェステルプラッテ半島攻撃ポーランド軍は1週間に及ぶ激戦の末に降伏ポーランド軍の死傷者67名に対し、ドイツ軍の死傷者は300~400名であった。

ウィズナの戦い

 1939年 第二次世界大戦ポーランド侵攻 ポーランド軍350~700vs★ドイツ軍4万2000

 ドイツ軍ウィズナ村を通過した際にポーランド軍の激しい抵抗に苦しめられた。3日間の死闘ポーランド軍は壊滅したが、ドイツ軍も1400名の死傷者を出した。

ミルの戦い

 1940年 第二次世界大戦 オランダ侵攻 オランダ2000vs★ドイツ軍3万

 ドイツ軍ミル村を通過する際にオランダ軍の激しい抵抗に遭った。ドイツ軍勝利したが、500人以上が死傷し、オランダ軍は80人が死傷した。

・ソーミュールの戦い

 1940年 第二次世界大戦 フランス侵攻 フランス軍2500vs★ドイツ軍4万

 フランス軍の訓練生達がドイツ軍攻略に2日間抵抗した。フランス軍の死傷者250に対し、ドイツ軍の死傷者は400名で戦車も7両破壊された。訓練生達の勇気ドイツ軍指揮官クルト・フェルトですら賞賛した。この戦いはペタン元帥停戦呼びかけの後に行われたため、最初レジスタンスであるとされる。

・ニリムの戦い 

 1948年 パレスチナ戦争 ★イスラエル軍39~45(内12女性)vsエジプト軍500~800

 イスラエルキブツ共同体)ニリムエジプト軍が包囲した。エジプト軍装甲車航空機などの支援を受けて攻撃したが、イスラエル軍の防御を突破できず撤退した。

・3234高地の戦い

 1988年 ソ連アフガン侵攻 ★ソ連軍39vsムジャヒディーン、パキスタン軍450~650

 3234高地配備されたソ連空挺隊がムジャヒディーンの襲撃を受けた。ソ連軍は34名の死傷者を出しながらも200名以上を殺害し、撃退した。

・ヴコヴァルの戦い

 1991年 クロアチア紛争ユーゴスラヴィア紛争 クロアチア軍1800vs★ユーゴスラヴィア・SAO36000

 クロアチア東部都市コヴァルをユーゴスラヴィア軍が87日間にわたって包囲した。クロアチア軍は大半が死傷し、多くの民間人虐殺追放されたが、ユーゴスラヴィア軍も3600人が死傷し、戦車武装車両1100両以上と航空機3機が破壊された。

2021-05-26

妄想論文みたいに書いてるのウンザリ

https://twitter.com/nanai_komusai/status/1397122109319483393

これ。

もうウンザリよ、なにこれ?

なんでこんなのが賛否両論的にバズるの?

"サンは15才、僕の考察では当時が建武元年(1334年)その15年前となると元応元年(1319年)これは後醍醐天皇即位の年でエボシと後醍醐関係があったと考えるからサン父親後醍醐天皇ということになる"

なにこれ?

なんの妄想?いや、妄想なら妄想でいいんよ、問題はこれを学問っぽくペダンティックに書いてるのがウンザリ

この引用文の証明だけで、本来論文一つ書けるんよ、ちゃんとした学問やるなら。

映像に書き込まれ情報ちゃんと追って、時代考証して、

はいはいしか建武あたりっぽいですね、と。

それでようやく次のステップに進むんよ。

じゃあ当時の後醍醐とエボシに交わりがあったのかを仮説立てて検証するわけよ。

タタラ場の場所とか、エボシの出生、経歴とか、後醍醐の巡幸ログとか引いてな。

それを「僕の考察では」でもう前提として始めるわけ。

どおなっちゃってんだよ?どおなっちゃってそこまで事実仮定妄想をごっちゃにしちゃうのよ?

まともな頭の読んでる方はここで脳みそストップよ。

いや待て待て待て、それどこ情報?って。

それ置いてけぼりにして、物語構造を飛躍中の飛躍でぶっ飛びこじつけ始めるわけよ?

うその論の足元には何ひとつテクストからの積み上げがないわけよ。ぶっこいてるやつの精液しか落ちてないわけ。

どういう自己肯定感あるとここまでの妄想を、さも新説や確定事項のように語れちゃうわけ?

その後も言うてること何もかもめちゃくちゃなわけよ。

点と点が線になってないのに、曲げて線にしちゃってるんよ。

妄想妄想らしく扱ってつかあさい、説とか考察とか言わないでね、ウンザリちゃうから

こんなんに踊らされて、ハハアと唸ってる奴らも、知性やべーぞ。

2021-02-10

乱世歴史好きには右も左もいないんじゃないかな?

ここでいう乱世は日本でいえば戦国時代みたいな安定したものじゃなくて建武南北朝(+応仁の乱前後)やイギリス薔薇戦争みたいな「ああ、もう滅茶苦茶だよ!」としか言いようのないやつのこと

そういった乱世が好きな人は「圧政によるアレ」と同時に「打倒後のゴタゴタ」を両方知ってるから右にも左にも幻想を抱かなそうだなーと思った

2020-08-12

anond:20200811170757

西(南)側勝利

神武東征(日向挙兵して大和征服する)

壬申の乱吉野挙兵して近江朝廷を倒す)

元弘の乱山城大和河内などで挙兵して鎌倉幕府を倒す)

山崎の戦い備中から駆け戻って天王山明智光秀を倒す)

賤ヶ岳の戦い(京から出兵して越前から出てきた柴田勝家を倒す)

戊辰戦争薩長挙兵して江戸幕府を倒す)

東(北)側勝利

・治承寿永の乱(伊豆挙兵して京の平氏を倒す)

承久の乱鎌倉から出兵して京の上皇を倒す)

関ヶ原の戦い会津征伐から反転して大坂西軍関ヶ原で破る)

大坂の陣(江戸から出兵して大坂城を落とす)

それ以外(挙兵場所勝敗曖昧

建武の乱(鎌倉挙兵したが一旦敗れて九州で再起)

応仁の乱(ぐだぐだのまま和睦して決着つかず)

小牧長久手の戦い(戦術レベルでは東、戦略レベルでは西が勝利

こんなところじゃねえの。

少なくとも一方的東側が勝ってるとは言い難いわな。

2020-03-04

中国メディアによると、河南省周口市の劉建武副市長(45)が28日、新型肺炎で死亡した。26日に就任したばかりだった。劉氏は以前から医療廃棄物処理施設の視察などに当たっており、「殉職した」と伝えられている。

2018-08-19

元号出典一覧

元号出典備考
大化書経』(『尚書』)大誥、『漢書』巻56、『宋書』巻20 
白雉漢書』巻12帝紀 
朱鳥礼記』曲礼 
大宝易経』繋辞下 
慶雲文選』巻6、『晋書』巻54陸雲伝 
和銅和銅(ニギアカガネ)が朝廷に献上されたことにより改元
霊亀瑞亀献上により改元
養老養老の滝命名に因んで改元
神亀白亀出現の瑞祥により改元
天平天王貴平知百年」の文字を背に負った瑞亀の献上により改元
天平感宝陸奥から黄金献上により改元
天平勝宝孝謙天皇即位により改元
天平宝字蚕が「五月八日開下帝釋標知天皇命百年息」の文字を成したことにより改元
天平神護藤原仲麻呂の乱神霊の護りによって平定したことによる
神護景雲瑞雲の発現により改元
宝亀瑞亀献上により改元
天応伊勢斎宮に現れた美雲の瑞祥により改元
延暦後漢書 五十二巻 
大同礼記』礼運篇 
弘仁 
天長 
承和 
嘉祥豊後国大分郡寒川現在大分川)で捕獲された白亀が献上されたことを大瑞として改元
仁寿白亀・甘露の瑞祥による改元
斉衡石見国から醴泉の瑞を献上された事による改元
天安美作国常陸国両国より白鹿、連理の樹が献上された祥瑞による改元
貞観易経 
元慶白雉・白鹿献上の瑞祥による改元
仁和 
寛平 
昌泰 
延喜尚書』旋璣鈐 
延長文選東都賦、白雉詩 
承平漢書 
天慶漢書 
天暦論語 
天徳周易 
応和「董巴議」 
康保書経 
安和礼記』楽記第19 
天禄 
天延天変、地震による改元
貞元火災地震による改元
天元災変、陽五厄による改元
永観書経』洛誥 
寛和 
永延漢書』巻75翼李伝 
永祚『晋書』巻21礼志 
正暦大風、天変による改元
長徳揚雄の『城門校尉箴』 
長保国語』(周語中) 
寛弘漢書」(元帝紀賛) 
長和礼記』(冠義) 
寛仁『会稽記』 
治安前漢書』 
万寿詩経 
長元六韜 
長暦春秋』または『晋書』 
長久老子』(七章) 
寛徳後漢書』(杜林伝) 
永承書経 
天喜『抱朴子』 
康平後漢書 
治暦尚書正義 
延久書経』または『尚書‐注』 
承保尚書 
承暦「維城典訓」 
永保尚書 
応徳白虎通」 
寛治礼記 
嘉保史記 
永長後漢書』巻1光武帝 
承徳周易 
康和崔寔『政論』 
長治漢書 
嘉承漢書』礼楽志 
天仁文選 
天永尚書 
永久詩経』?
元永天変、疾疫による改元
保安天変、厄運による改元
天治『易緯』 
大治『河図挺佐輔』 
天承漢書 
長承史記 
保延文選卷十一·魯靈光殿賦并序』 
永治『魏文典論』『晋書』武帝 
康治宋書 
天養後漢書 
久安『晋書』劉頌伝 
仁平後漢書』孔奮伝 
久寿『抱朴子』 
保元『顔氏家訓』文章 
平治史記』夏本紀 
永暦後漢書』辺譲伝、『続漢書』律暦志 
応保尚書 
長寛『維城典訓』 
永万漢書』巻64王褒伝 
仁安毛詩正義 
嘉応漢書』王褒伝 
承安尚書 
安元漢書 
治承「河図挺作輔」 
養和後漢書 
寿永詩経 
元暦尚書考霊耀」 
文治礼記祭法 
建久『晋書』『呉書』 
正治荘子‐漁父」 
建仁文選卷四十七・聖主得賢臣頌』 
元久毛詩正義 
建永文選』卷四十二・曹子建與楊德祖書 
承元「通典」 
建暦後漢書 
建保尚書 
承久「詩緯」 
貞応易経 
元仁周易 
嘉禄「博物志」 
安貞周易』上経坤 
寛喜「後魏書」 
貞永易経」(坤卦) 
天福書経」(湯誥) 
文暦文選卷四十六・顔延年三月三日曲水詩序』 
嘉禎北斉書」 
暦仁「隋書」(音楽志下) 
延応文選卷二十四・潘安仁為賈謐作贈陸機』 
仁治新唐書 
寛元宋書 
宝治春秋繁露-通国身」 
建長後漢書 
康元赤斑瘡による改元とみられている
正嘉芸文類聚-歳時中・元正 
正元「詩緯」 
文応「晋書‐劉毅伝」 
弘長貞観政要‐封建」 
文永後漢書‐荀悦伝」 
建治周礼 
弘安「太宗実録」 
正応伏見天皇即位による改元
永仁『晋書』巻22楽志 
正安孔子家語』 
乾元周易 
嘉元芸文類聚天部 
徳治『左伝』 
延慶後漢書』馬武伝 
応長旧唐書礼儀 
正和「唐記」 
文保梁書 
元応唐書 
元亨周易 
正中易経 
嘉暦唐書 
元徳周易 
元弘芸文類聚天部 
正慶光厳天皇即位による改元
建武文選』?
延元梁書 
興国春秋左氏伝』昭公四年伝、『新五代史』伶官伝序 
正平天変や兵革による改元
建徳文選 
文中易経』彖伝上?
天授史記』淮陰侯列伝
弘和書経』君牙篇?
元中易経』彖伝上?
暦応帝王代記』 
康永漢書 
貞和芸文類聚 
観応荘子 
文和旧唐書』順宗紀、『三国志』呉志孫権 
延文漢書』儒林伝 
康安史記正義』と『唐紀』 
貞治周易 
応安毛詩正義大雅江漢 
永和尚書』舜典と『芸文類聚』巻8 
康暦唐書 
永徳『群書治要』巻17
至徳『孝経』 
嘉慶毛詩正義 
康応文選曹植七啓 
明徳礼記 
応永『会要』 
正長礼記正義 
永享後漢書 
嘉吉周易 
文安『晋書』 
宝徳旧唐書 
享徳尚書 
康正史記』と『尚書 
長禄韓非子 
寛正孔子家語』 
文正荀子 
応仁『維城典訓』 
文明周易 
長享文選 
延徳孟子 
明応周易 
文亀『爾雅』釈魚 
永正周易緯』 
大永杜氏通典』 
享禄周易 
天文易経 
弘治北斉書』 
永禄『群書治要』巻26 
元亀毛詩』と『文選 
天正文選』と『老子 
文禄杜佑『通典職官十七』 
慶長毛詩注疏』 
元和徳川家康の命により、唐の憲宗の年号を用いた
寛永毛詩朱氏注』 
正保尚書正義 
慶安周易 
承応『晋書』律暦志 
明暦漢書』律暦志と『後漢書 
万治史記』と『貞観政要』 
寛文荀子』致士篇 
延宝『隋書』音楽 
天和尚書』、『前漢書』、『後漢書』、『荘子 
貞享周易 
元禄文選 
宝永旧唐書 
正徳尚書正義 
享保後周書』 
元文文選 
寛保国語』周語 
延享芸文類聚 
寛延文選 
宝暦貞観政要』 
明和尚書 
安永文選』巻一 
天明尚書 
寛政『左伝』 
享和文選』ら 
文化周易』賁卦彖伝、『後漢書』荀淑伝
文政尚書』舜典 
天保尚書 
弘化菅原為定の漢文 
嘉永宋書』楽志 
安政内裏炎上地震安政の大地震)、黒船来航などの災異による改元
万延後漢書』馬融伝 
文久後漢書』謝該伝 
元治周易 
慶応文選 
明治易経 
大正易経』彖伝・臨卦 
昭和書経堯典 
平成史記五帝本紀、『書経(偽古文尚書)』大禹謨 

※すべてWikipediaから

 

調査を通じて学んだこと

※代始改元はかつては非礼とされていた

https://kotobank.jp/word/%E4%BB%A3%E5%A7%8B%E6%94%B9%E5%85%83-1359409

代始改元は,(中略)平安時代から806年平城天皇大同改元場合を除き,皇位継承の年に先帝の年号を改めるのは非礼であるとしてこれを避け,翌年に改元するのを原則とするようになった。

南朝元号の出典、勧申者がのきなみ不明になってる。焚書にあった?それとも元号を考えられる教養のある人がいなくて適当につけただけだったりする?

日本古典出典の元号過去に一件のみ存在する(弘化

元号って漢籍から適当に二文字抜き出しているように見える。「百姓昭明、協和萬邦」から明和昭和の2つの元号が作られているし。なんか規則あるんだろうか?

2017-11-11

anond:20171110182155

思想で世の中を動かしたってのは日本ではなかったよね

幕末にしても幕府の衰退や外国船の往来によって徐々になされたわけだし

権力争いによる内乱だけか。三王朝交代説、乙巳の変壬申の乱、源平、建武申請の瓦解、応仁の乱戦国どれもそう。

人々の意識を変えた思想家も思いつかない。

福沢諭吉GHQ意識が大きく変わった気もするが実際はどうなのだろうか。

2015-05-04

中曽根元首相って今何歳?

建武年間生まれなら800歳くらいで、

天平宝字年間生まれなら1300歳くらい、

新王国時代まれだとすると3000歳をゆうにこえている。

 
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