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2023-07-22

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)

名称概要
463年吉備氏の乱雄略天皇吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。
479年星川皇子の乱雄略天皇吉備田狭の妻のあいだに生まれ星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。
527年磐井の乱朝鮮半島出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。
587年丁未の乱仏教布教を巡って、大臣蘇我馬子と、大連物部守屋対立し、戦に発展した。蘇我氏勝利した。
645年乙巳の変中大兄皇子中臣鎌足らが、朝廷壟断していた蘇我入鹿暗殺、続いて蘇我氏粛清した。
672年壬申の乱天智天皇後継者争いが発生し、皇太子大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子挙兵した。大海人皇子勝利して天皇となった。
729年長屋王の変皇族長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。
740年藤原広嗣の乱藤原四兄弟の死により藤原氏勢力が退潮し、九州左遷されて不満を持った藤原広嗣太宰府挙兵したが、朝廷軍により討伐された。
757年橘奈良麻呂の乱橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。
764年藤原仲麻呂の乱孝謙上皇対立した太政大臣藤原仲麻呂恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。
780年宝亀の乱朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷族長伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純殺害して反乱を起こした。
782年氷上川継の乱天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。
807年伊予親王の変藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王自死したが、のちに冤罪と認められた。
810年薬子の変平城上皇嵯峨天皇対立が激化し、平城上皇挙兵決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇出家した。
842年承和の変嵯峨上皇崩御に伴い、皇太子恒貞親王擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王皇太子となった。
866年応天門の変応天門放火があり、大納言伴善男が「左大臣源信仕業だ」と告発したが、逆に伴善男真犯人だとされて流罪になった事件
878年元慶の乱長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。
889年寛平・延喜東国の乱関東治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。
901年昌泰の変右大臣菅原道真が失脚し、大宰府左遷された事件左大臣藤原時平陰謀だとされる。
938年天慶の出羽俘囚の乱朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明
939年承平天慶の乱東では坂東平氏平将門が、西では藤原一族藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。
947年藤原是助の乱伯耆豪族藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。
969年安和の変謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣源高明太宰府左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。
986年寛和の変皇太子の外祖父であった右大臣藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件
995年長徳の変「花山法皇自分恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したこと藤原道長が台頭していく。
1028年平忠常の乱坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。
1107年源義親の乱源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏繁栄きっかけとなった。
1113年永久の変千手丸という童子鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。
1156年保元の乱後白河天皇藤原忠通派と、崇徳上皇藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇流罪となった。
1160年平治の乱信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝クーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。
1180年治承・寿永の乱いわゆる源平合戦平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府樹立された。
1184年三日平氏の乱平氏都落ちのあと、伊賀平田家継、伊勢平信兼藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。
1189年大河兼任の乱奥州藤原氏の家臣だった大河兼任出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。
1199年梶原景時の変源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。
1201年建仁の乱梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府鎮圧された。
1203年比企能員の変将軍源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍地位を追われた。
1203年三日平氏の乱二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅鎮圧された。
1205年畠山重忠の乱平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。
1213年泉親衡の乱北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方くらませた。続く和田合戦きっかけとなった。
1221年承久の乱後鳥羽上皇北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇隠岐に配流された。
1293年平禅門の乱平頼綱北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。
1305年嘉元の乱得宗北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。
1325年安藤氏の乱津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。
1324年正中の変後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝佐渡流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。
1331年元弘の乱後醍醐天皇鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。
1335年中先代の乱最後得宗北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。
1336年建武の乱後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇吉野に逃れて南北朝時代が始まった。
1366年貞治の変室町幕府で権勢を振るった斯波高経斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。
1375年水島の変九州派遣された今川了俊が、同じ北朝少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏大友氏などが離反した。
1380年小山氏の乱鎌倉公方・足利氏満下野守護小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。
1387年小田氏の乱常陸小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。
1389年土岐康行の乱有力守護の弱体化を図る将軍足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。
1392年明徳の乱一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍足利義満挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。
1395年田村庄司の乱白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。
1399年応永の乱六カ国の守護である大内義弘が将軍足利義満対立鎌倉公方と手を結び、土岐氏山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。
1411年飛騨の乱飛騨国司姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。
1413年伊集院頼久の乱島津家後継者争いをきっかけに、当主島津久豊対立した重臣伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。
1416年上杉禅秀の乱関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。
1422年小栗満重の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。
1423年越後応永の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。
1429年大和永享の乱幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。
1438年永享の乱鎌倉公方・足利持氏関東管領・上杉憲実の対立から室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。
1441年嘉吉の乱三カ国守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍足利義教暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。
1443年禁闕の変南朝復興を唱える勢力御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。
1455年享徳の乱足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。
1457年蠣崎蔵人の乱陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。
1457年長禄の変赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。
1467年応仁の乱畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから東軍細川勝元西軍山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。
1476年長尾景春の乱関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。
1479年毛利次郎の乱赤松氏らの支援を得た因幡国人毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。
1486年江戸城の乱谷上杉氏の当主上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。
1487年長享の乱享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。
1487年長享・延徳の乱将軍足利義尚が自ら軍を率いて近江守護六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。
1489年山名新九郎・小太郎の乱伯耆守護山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。
1490年佐竹の乱佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。
1502年伊庭氏の乱長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔挙兵するが、最終的に鎮圧された。
1507年永正の乱越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いか関東を二分する戦いに発展した。

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

2022-11-05

大黒の芝

私は歴史が好きなのでトリビア的な歴史エピソードはだいたい知っているしそれにいちいち心を動かされることはなくなった。

ただそんな中でも「大黒の芝」のエピソードは時々思い出してグッとくることがある。

710年に造られた平城京は、その後長岡京平安京遷都の中で主役の座を譲り、810年平城太上天皇の変以降は周囲には水田が広がるばかりになっていた。

時は流れて明治時代関野貞という人物平城京の跡地を探していたところ、付近農民たちが「大黒の芝」と呼ぶ小高場所があることを知った。

関は「大黒って大極殿がなまったんじゃね?」と考え、実際に朝廷の中心である平城京大極殿がばっちり発見され、現在への史跡整備につながっていく。

1000年以上よく農民が語り継いだなぁと思う。

大極殿意味は失われたが、音だけが残り、近い言葉信仰でも身近な大黒になった。

それでも残ったわけだ。実際の建物がなくなっても、言葉意味が分からなくなっても、それでも残った。

藤原道長とか足利尊氏とか織田信長とか西郷隆盛とか色んな有名な日本史を彩ってきたけど、その一方で誰もしらない農民たち誰もその重要性を鑑みず、ただ土地を示す言葉としてひたすら1000年語り継いできたとものなのだろう。

もちろんここは水田地帯で、おそらく遺構部分は水田造成に不向きのため芝生として残ったという現実的な考え方もできる。

それでも、世の中失われるものはいくらでもある中、なぜか語り継がれ、明治考古学者のヒントになった。

このエピソードから思うに、自分何気なく喋ったり伝えたりしているものの中にも、何か未来へ伝えるべき内容(未来の人が知りたい内容)が僅かながら含まれているのかもしれない。

何も知らない農民と同じで、私はそれに気づくことはできないだろうけれども。

2018-07-14

デレマスコミカライズ

デレパで募集してたのを考えてみた。

パクって応募してもいいよ。

よい犬、わるい犬、ふつうの犬、押井守

・メイン登場人物

水木聖來、渋谷凛太田優、宮崎駿

・メイン登場犬

わんこ、ハナコ、アッキー押井守

・あらすじ

犬を飼っているアイドルが、自身ペットの色々な面を披露する四コマ漫画

よい犬、わるい犬、ふつうの犬の部分は一本ごとに担当するアイドルが変わるが、

毎回落ちの押井守の部分は宮崎駿担当し、起承転結の結がワンパターンになりがちなのが難点。


これまでと違うお話

・メイン登場人物

相原『雪』乃、島村卯『月』、涼宮星『花』、宮村優子に似た女優山賀博之

・あらすじ

雪乃卯月、星花が三姉妹役の学園モノで、末っ子の星花が女の子ストーカーにつきまとわれているのでは? と不安になるお話を三人が演じる。

しかし、途中からその役を演じている三人が、監督に演技指導を受ける場面になっていく。

監督から「お前らはこれを見て勉強しろ!」と渡されたのは『新・変態よい子通信』というアダルトビデオであった。

そして、時は過ぎ西暦2018年監督風邪をひいてしまい、昔いじめ山賀博之のことを思い出し、ガイナックス和解するのであった。

U149の再生数が届かなくてもデビューできるくだり、デビューCDが1500枚売れなくても解散しなくてよかったときラジオビックバンで学んだやつだ!

・メイン登場人物

佐々木千枝

・あらすじ

ポアロマンスリーライブに出演した佐々木千枝は、伊福部崇スカートめくられるなどのセクハラを受ける。

「恋はしたことあるの、いややだとんでもない、本当に本当なの、嘘かもです、てんてん」の部分、今聞いてもとてもいいので、アイマスカバーしてほしい。

関係ないけど、あの辺繋がりで、るーりぃーも入れてさ!

ざ・ライバル

・メイン登場人物

原田美世、島村卯月

・あらすじ

原田美世がサイド6で車を運転するところから始まる。

いろいろあって、原田美世と島村卯月の間に愛が芽生えることになるはずだったが、原田美世は車の運転が上手だったため、芽生えずに終わる。

なお、2ページしかないが、単行本では4ページになるので安心して芳崎せいむ、無粋が浜じゃないよ!

地球少女島﨑信長

・メイン登場人物

水野翠、硲道夫、島﨑信長

・あらすじ

水野翠がマクドナルドハンバーガーを食べて具合が悪くなり、環境ホルモンの影響で女性になった島﨑信長のへその緒を飲み干し、硲道夫の部屋で難解な数学講義を受ける。

何が何やらだが、恐るべきことに殆ど原作そのままなので、正直毎回アルジュナネタにするのは、ネタにしてる方の狂気度合いの方が低いような気がしてならない。

とりみきあたりが、当時の彼を振り返ってほしい。

私のすてきなピアニスト

・メイン登場人物

双海真美双海亜美松山久美子、文芸部前川みく、依田芳乃(高田憂希)、西園寺琴歌

・あらすじ

大人アイドル双海真美は、普通中学生双海亜美の返信した姿であった。

そんな中、ピアニスト志望の松山久美子と真美が出会うところから話が始まり

物語亜美が「サヨナラ真美の久美子さん」」とひとりごちるところで終わる。

というラブストーリーと、文芸部前川みくと付き合っているが彼女の依田芳乃(高田憂希)と、西園寺琴歌の声が似ていることから……

あれちょっとまって!

私のすてきなピアニストって脚本家伊藤くんじゃなくね? ごめん! なんか混合してたわ! これ成り立ってないわボツ!!!

えーっと、エンディング曲ギターを売れる前の松本沙理奈さんが弾いてるんだよ。

晴天の詩女 ーオートマチックフラワーズー

・メイン登場人物

望月聖、速水奏

・あらすじ

星団歴2780年ハス統一戦争のため蘇生したカイエン制御するボルサ・バスコ。

しかし、ハスハの地を統一するという人と人の争いに剣聖を担ぎ出す必要性とは何だったのだろうか。

純血の騎士よりもさらに濃い騎士の血を持つカイエンの力を借りなければならないほどの争いとは。

死んだはずのハリコンがまだ生きているという事実大国フィルモアの元にも生まれる純血の騎士慧茄、未だ存命のハイアラキ、後にカイエンフロートテンプルデモンが襲来した際に何かを感じていたこと、一体ハス統一戦争とは何と何の戦争だったのだろうか?

そして、2810年に天照はミラージュ騎士団を結成することになるなど、星団歴2000年台後半にはまだ謎が多い。

そんなこととは無関係に、永野護望月聖の、川村万梨阿速水奏コスプレをしてセックスをする漫画である

なお、幾原邦彦道明寺歌鈴コスプレして乱入する続刊も出るぞ!

るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-

作家

木多康昭

・あらすじ

るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』(るろうにけんしん めいじけんかくろまんたん)は、和月伸宏による日本漫画作品。1994年平成6年から1999年平成11年)にかけて集英社の『週刊少年ジャンプ』で連載。アニメ化実写映画化などと様々な形でメディアミックスも行われている。略称は「るろ剣」。2017年平成29年9月からは続編であるるろうに剣心 -明治剣客浪漫譚北海道編-』が『ジャンプスクエア10月号より連載中[1][注釈 1]。

2017-05-06

[]シンコ・デ・マヨ

スペイン語でCincoは5(コピぺで有名だ)、Mayoは5月で、つまり5月5日のこと。

1862年5月5日プエブラ会戦で、メキシコ軍が二倍の数のフランス軍を破ったことを記念して、メキシコ各地で祝祭が行われる。

が、実のところメキシコ本土よりも、アメリカ合衆国メキシコ移民たちのほうが盛大に祝うらしく、

アメリカでは「メキシコ料理がたくさん食べられる年間行事」と認知されているようだ。

そもそもシンコ・デ・マヨが始まったのはメキシコではなくカリフォルニアらしいとか、

よく独立記念日的なものと間違われるが、メキシコ独立記念日9月16日で(1810年メキシコ独立革命の決起日)、

しろプエブラの戦いのあとメキシコフランス占領されているとか、なんだかよくわからない感じであるが、

ともかく「メキシコ大国に一矢報いた日」としてメキシコ人の誇りとなっているようだ。

2016-10-27

[] ヴーヴ・クリコ

ヴーヴ・クリコ(Veuve Clicquot Ponsardin)はフランスシャンパンブランドLVMHグループ企業製造販売している。

  

1772年フィリップ・クリコ=ムーリオンがランスに、多角事業を行う企業を「クリコ」の社名で設立した。

その後フィリップ・クリコ=ムーリオンが死去した後に、義理の娘のヴァーヴ=ニコル・クリコ(「"ヴーヴ"・クリコ」)が経営

引き継ぎ、シャンパン事業と他の事業を切り離し、1810年に「ヴーヴ・クリコ・ポンサダン」と改名する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B3

2012-12-08

維新の会最低賃金撤廃&賃金補助政策がひどすぎる

維新の会最低賃金を撤廃し、足りない分を国が出すと言っている。

だが、ある国でこれと同じことを行い、財政の悪化と勤労意欲の低下を招いてしまった

1795年に始まるスピーナムランド制度は、物価連動制の院外救貧制度である。パンの価格に下限収入を連動させ、働いていても下限収入を下回る家庭には救貧手当が支給された。これはフランス革命の影響から物価が高騰するいっぽう、収入は増えず困窮する農民・市民が続出したためであるバークシャー州スピーナムランド村の治安判事は貧民の窮状を見かねて、対策を協議した。その結果、ギルバート法の院外救済の制度拡大解釈し、パンの価格をもとに基本生活費を算出した。この基本生活費に収入が届かない家庭には、その差額分を補填した。

博愛精神から生まれたこの制度は、思わぬ副作用をもたらした。安い賃金でも差額を救貧費で埋めてくれるため、企業家たちが労働者給与を切り下げだしたのである。救貧税は膨れ上がり、1810年ごろには当初の3倍以上に急増した。救貧税を負担していた農民は重税に耐えきれず貧民化し、いっぽうで貧民は働いても働かなくても収入がかわらず、勤労意欲を削ぐという事態まで引き起こした。

過去の過ちをまた繰り返してどうするんだよ

ちなみに維新の会がこの政策を実施し、企業が全く給料を支払わない場合に国が支払う総額は

57120000*749*8*20=6845260800,000

(H22年度の就業状態別15歳以上人口と最低賃金平均値より推定)

となる。その総額なんと7兆円弱。(900円だと、9兆円弱必要

#追記

金額が間違っているので訂正

2012-05-03

http://anond.hatelabo.jp/20120503165150

老中失脚後は、白河藩の藩政に専念する。白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政が苦しかったが、定信は馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた。また、民政にも尽力し、白河藩では名君として慕われたという。定信の政策の主眼は農村人口の維持とその生産性の向上であり、間引きを禁じ、赤子の養育を奨励し、殖産に励んだ。ところが、寛政の改革の折に定信が提唱した江戸湾警備が文化7年(1810年)に実施に移されることになり、最初の駐屯は主唱者とされた定信の白河藩に命じられることとなった。これが白河藩の財政を圧迫した。

財政面では定信が持ち上げて自身が過去に出した政策で落とした

まあ、今の企業はいくら儲けたところで雇用お金を使わず株主経営者お金を落とすから橋本市長は定信のようにはなれないと思うけどね

 
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