はてなキーワード: 郷土とは
図書館司書の専門性を高めたいなら別になんかの分野の専門を持っておかないとダメなんだけど、市町村立図書館ならそういう専門性がある人を何人も集めるのって無理だよなあと思う
県立でも難しいと思う
県立レベルでも文系分野と生物分野ならそれなりに集まるだろうけど、他は難しいだろうし
そうなるとやはり現状のTRC委託が最も優れてるとしか言いようがないんだよな
あのスキームなら会社に選書部隊を飼っておけるし、学習相談とかもオンライン使ってリモートで選書部隊にお願いすることができるだろう
正直郷土資料を収集するか否かの判断も下手したら委託部隊の方がうまく判断できるかもしれない
収集は公務員の総務部と図書館の非常勤に任せて、選書の判断は委託先に任せるで機能しそう
いや、ほんとそうなのよ
郷土資料館の保存スペースが足りないみたいな話があるけど、それならマジで電子化して欲しい
郷土資料は持ち出し禁止とか許可制とかのめんどくさいものが多過ぎるからな
迷ったら電子化で保存くらいでいいほんと
あと10年そこらで絶滅すると言われてる郷土研究家(元教員が多い)が生きてるうちにやってくれないと本気で散逸するし、歴史研究が全然進まなくなる
今IT技術が発展して過去は図書館司書に最も求められるものだったレファレンスが必要なくなっちゃったんだよな
図書館司書自体が無駄になったとは思ってはいないけど、それだけではあまり意味がなくて、他の資格との掛け合わせで生きるものなのかなと思う
市町村レベルなら正直委託したほうが委託先のシステムも使えてアーカイブスにできるしメリットが大き過ぎる
委託先もたくさんあるしね
選書だけはセンスいると思うけどこれも委託して規模のメリットを生かしてもらった方が正直いい
レファレンス能力が必要になり市民ニーズが高いのは子供の学習支援の時と思うけど、それはどちらかというと教諭経験者がやったほうが良いし、現状だと専門分野については博物館の学芸員の方が優れているまである
博物館の学芸員が図書館司書を取るメリットは大きくて郷土資料の収集の選書ができるというのは非常に大きい
郷土資料は専門性が必要なので個人的には図書館司書の専門性では不足してると思う
図書館司書の非正規問題について昨今取り沙汰されているのを見る。
ざっと見た感じの問題点は、優秀な専門職が安月給で酷使されているということと、技術の継承が行われないということ。
私は先日、正規の図書館司書職を退職した。理由は、専門的な業務に従事したいという当初の動機と実際の現場が異なっていたところ。つまり、現場職員の専門性の低さに絶望して辞めた。
・30代
「優秀な専門職」と言うのは、何も知らない外野か自分たちを大きく見せたい現職だけ。図書館司書なんて単位を取ったら誰でも資格を取れるので、その資格一つで医師や教員のような実務実習を伴う国家資格と並べると思っているのが恥ずかしい。(課程の図書館実習は任意なことが多いし、たかだか一週間程度で比較にならない)
そして、専門職の専門性が発揮できる分野としてレファレンスが挙げられるが、これはレファレンスの難易度による。例えば、地域の「◯◯という地名の由来が知りたい」というレファレンスを受けたとして、まず地名辞典を見る。地名辞典になければ地方が発行してる地誌を見る。どちらかにはだいたい載っている。これの何が専門性だというのか。こういう定型化されたレファレンス対応について、口を大きくして専門性だの専門職だの言っていることが多い。逆に、人名辞典に載ってない郷土の人物などを、辞典や地誌など基本的な資料以外から、記憶や所蔵資料目録などをヒントに見つけることが専門的なレファレンスだと思う。このような真の専門的なレファレンスをできる人物がどれほどいるのか。私が勤務していたところでは、非正規職員は誰もできなかった。正規職員も半分以上できてない。
能力によって給与が異なるのはどの世界でも一緒で、非正規職員が非正規の待遇であるのは相対的な能力不足から当たり前のことであると思う。正規職員でもできてないのだから、そんな大きな声で「専門職の待遇改善をー!」なんて言える状況じゃない。そして、優秀な人間、例えば某国立図書館では正当な待遇が与えられていると思うし(ちなみに某国立図書館の応募資格に司書資格は必要ない。この点から司書資格の不安定さが伺える)、地方の優秀な人間は現状に見切りをつけて出て行く。
何度も職員の意識を変えようとしたけど凝り固まった40代後半以上の頭は変わらないし、上司層が変わらなければどれだけ下から頑張っても現場は変われないし、疲れた。非正規職員も、正規職員ですらも、基本的なコミュニケーションすらできない人がいるし(聞かれたことに答えられない、処理能力が低いなど)、現状維持ばかりで新しいことはせず、ただ自分の世代が円満に終わることばかりを考えている。こんなの一般企業の事務職ですら無能扱いだろう。一般企業で使い物にならないレベルの職員でも、一度公務員になってしまったら解雇はできない。そんな人たちがただの肩書きだけで「専門職ー!」と叫んでると思うと悲しいものがある。図書館司書の知識は年々新しいことが増え司書課程の内容も更新されていくが、大昔に司書資格をとった現状維持ばかりのおじさんおばさんたちは自分の頭を更新しようとしないので、なおさら「専門資格とは?」と思う。
図書館司書の世界では、募集の少なさもしばしば取り上げられる。募集もたくさんあるし、優秀な人は普通に就職できる。(気になる人はJLAの採用情報ページを見てみてね)40歳まで受けられるところも多く、年齢制限がないところもあり、他の公務員よりだいぶ応募資格が緩くなっている。それで若手をとろうが経験豊富な人材をとろうが、それはその館の方針によるので知ったことではない。挑戦し続けて正規職員に合格する人もたくさんいる。つまり、機会は開かれているのに挑戦しないことに問題があるし、たくさんチャレンジして受からないのであれば本人の能力の問題であろう。能力が足りなくて受からないなんてことは他の業種でも同じで、何も図書館司書に限った話ではない。それを何でそんなに特別に大々的にアピールできるの?と思う。他の業種でも、能力が足りないけど続けたいなら待遇を落とすしかないし、諦めて他の業種に行くだろう。それと同じ。
思いつくまま殴り書きしたので読みにくくてすみません。私が言いたいことは、周りが言うほど図書館の専門職に価値はないこと、専門職の中でも専門性にグラデーションがあること、能力に応じて待遇が変わるのはどの世界でも当たり前で現状に違和感はないこと(非正規職員のこと)、待遇を変えたところで職員あるいは職員の意識を変えないと半永久的な技術の継承は不可能なこと、です。40代後半以上の人たちを見て、ここにいたらこうなってしまうと思って辞めた。
こんなに読んでもらえるなんて思ってなかった。たくさんの反応ありがとうございました。いろんな意見があって面白かった。
◯タイトルと内容が違う。非正規職員の雇い止め等はどうなのか。正規職員にとって非正規職員はどうでもいいように見える。
どうでもいいです。非正規待遇が嫌なら正規になればいいし辞めたらいい。いわゆる氷河期世代など新卒時の社会状況に言及する人もいるが、正規職員の多くは中途採用(非正規職員経験者)です。社会のせいじゃない。昨今の非正規図書館員の話題を見てると、現状を変える気力や能力がないくせに空っぽの「専門性」を笠に着て「かわいそうな私たち」を演出しているだけのように思う。元職場でも組合から非正規雇用の待遇改善の署名がよく回ってきてたけど、バカだなって思ってたし一回も署名してない。私が見ていた世界では、前述の通り非正規職員の専門性なんていうのはまったくなかったので、辞めても職場や社会にとって問題ないと感じた。
私の元職場の管理職や上司は、個人の能力如何ではなく「図書館司書資格があること」を重要視し、「図書館司書資格保有者の職員数を確保すること」に専心していた。無能でも資格さえあればいいみたいな。私は資格なんていらないから優秀な人間と働きたかった。今は転職して、求めていた環境に身を置けて嬉しい。
タイトルと内容は少し違っていたかもしれません。すみません。私が図書館司書の非正規問題に触れる時、その前提にある専門性の具体的な話が出てこないように見えたので、こういう話になりました。
郷土資料は必要で、各地域の図書館が郷土資料を収集することで全国的に郷土資料を収集保存できる仕組みがある。それは大事だなと思う。場所や予算は限られているのでその限られた状況でどういう資料を収集するかといった選書にも、職員の専門性が不可欠。専門性はほとんどが属人化するから、それを半永久的に継承していくべき。実際に働いてみて、この辺はロボットやAIには難しいと感じた。
郷土資料を含む図書館資料の必要性で言えば、例えば陰謀論とか根拠のない噂話が力を持った時など、正しい情報や情報の比較検討に役立つ。図書館では全ての人がその機会を得られる。ググれば簡単な情報は出てくるけど、やっぱり紙の資料の量や質とは比にならない。少しでも調査研究をしたことがある人はわかると思うけど。
図書館は国民、県民、市民がユーザーなので、ユーザーから「図書館なんて必要ない、AIやロボットでいい」と言わしめてるこの状況を、図書館司書や図書館制度が変えていかなければいけないと思う。
私は前述のような現実に辟易していたので、一部の優秀な人間のみ残して専門性を保持し、あとの無能な正規職員と全ての非正規職員は指定管理に変えたらいいと思ってる。元職場でも一部指定管理が入っていたが、図書館業務のほとんどを占める定型化された業務なんて誰がやっても同じだし、むしろ公務員的な頭のかたさがなく新しい視点で物事を考えられるところはこれからの図書館運営に必要なのではと思った。無能は切り捨てられそうだし。図書館正規職員(公務員)の働かないおじさんおばさんや無能も切り捨てられたらいいのに。そしたら現場のモチベーションも上がるし優秀な人間も集まるかもね。
◯都道府県立図書館と市町村立図書館では非正規職員の職務が違う。(=後者では正規職員と同じような仕事をしている。)
市町村立図書館ならなおのこと、誰でもできる仕事ばかりです。図書館のあり方に関われるのは多くが館長レベルで、日常的な貸出、返却、選書(都道府県立と違って保存より利用を重視した選書)、目録(市町村ではほとんどがTRC流用)など、逆にどこに専門性があるか教えてほしい。
現職の人はこんなチラ裏に青筋を立ててないで、「図書館なんかいらない」って言わせないように頑張ってください。図書館や司書の存在意義を評価するのは仲間内じゃなくてユーザーですよ。内輪でヨシヨシしあってても意味ない。
◯コメントより抜粋「図書館司書は今の情報化社会に負けないよう専門性や職域を高めないと相対的に価値は低くなる」「専門性を定量化し、カテゴライズやレベリングを行うのは、業界のスキルアップだけでなく、権威づけや地位向上に必要」
私は図書館司書の専門性のなさと図々しさに嘆いてたばかりだけど、本当にその通りだと思った。現状に即してよりよくする方向に考えられるのがすごいと思った。
そのへんの民俗資料館で無造作に置かれてる資料を捨てる話について
どこの郷土資料館に行っても置いてあって、個人的にもあんまり見分けつかないので
農機具なんか自分の家で置いとくのが邪魔になって押し付けたんだろぐらいの気分になるのはわからないではないのだが
(自分は江戸や明治まではじっくり見ても昭和のコーナーは早歩きですっとばす)
それはだいぶ贅沢な話で、歴史資料に乏しい国は自国の存在証明のために必死で証拠をかき集めてるんだよな
なにか見つけては旧約聖書に書かれたのはこの遺跡だと主張するのに余念がないし
それにくらべると日本の自称保守は甘いというかユルいというか危機意識に欠けるというか
たとえば維新系みたいのが対馬で勢力を得て郷土資料を処分した日には
それこそ対馬は半島系の人たちの文化圏だったのだ、みたいな主張に反論するための証拠(日本文化圏の民俗が継続的に存在していた)を失うわけだが、
グローバルな人的移動が当り前の昨今、本州内陸だって今から100年もしたら「1000年前からここはXX民族の土地」みたいな話は出てくるだろうになあ
俺もだいぶ年齢を経て保守的な態度になったので、YASUKEはすごい侍大将だったのだ、みたいなのは
そこに文句を言えるのはYASUKE以外の同時代の日本人についての記述や資料がそこそこ残ってる
(信長配下の武将たちの名前や事績が直接間接の証拠を積み上げてきちんと記載されてきていて、それら数十名数百名の名前に比してYASUKEの資料はないので比較的な意味で可能性は極めて薄いと主張できる)から言えることで、
それすら、まだまだ調べきれてない資料はいくらでもあるのに、今、日本各地で中身も見ずにシュレッダーにかけられたら
”SAMURAI COMMANDER YASUKE"にも反論できなくなっていくのだなと思うと、残念
現在ある様々な資料の全部の保存ができるとは思わないし、今を生きてくのに過去だけ見ててもしかたない(歴クラみたいな態度で歴史でキャッキャするのは嫌)のだが、せめて自分たちが手慰みに弄ぶ日本スゴイなるものの拠って立つ根拠がどこにあるかぐらいは意識しておいて欲しいよな…
これを「文化」と呼ぶかはさておき、言いたいことはわかる。
医者にかかる内容によっては選択肢が全くないとか、あっても「めちゃくちゃ評判悪いところ」と「やや評判悪いところ」から選ぶようなレベルだし、それも車で30分とかザラ。
都会なら評判や予約のしやすさで選んだり、なんなら少し電車に乗る範囲まで含めれば無限に選択肢がある。
こういう選択肢の差が日常のあらゆるところに存在するのが都会と田舎の差なんよ。
田舎でしかできない体験云々も、別に都会から日帰りで体験できることばかりで本当の意味で「都会にいたらできないようなこと」は少ない。
郷土資料やら神社・祭とかも、もちろん全くないとは言わないけど文化と言えるほど充実している田舎なんてそう多くない。
この手の反論をしてくる人は幸運にもごく一部のこういう文化的なものが多く残っている地域に住めているか、想像上の「文化的な田舎」で反論しているだけだと思ってる。
企画展は東京でやってるヤツの巡回がほどんど(地方にとっては、それはそれで充分意義のあること)だが、常設展は美術館コレクションを定期的に入れ替えてやっている。
沖縄出身作家について大規模に収蔵されているのはここしかない。個人的には安谷屋正義が好きで、「塔」か「望郷」のどちらかが展示されているのでそれを見に行っている。
宜野湾市の私設美術館。丸木位里・丸木俊による「沖縄戦の図」の収蔵で知られているが、それ以外にもルオーの絵を結構持っていたりする。
常設展は琉球漆器。名のある作家の作品と言うより、歴史的な資料としての漆器の方が多く、博物館に近い。
国際通りから外れた平和通りの奥。長年研究されている学芸員の方がいて、展示・収集のサイクルがきちんと回っている印象。
与那国島。郷土資料館の類いに近いが、日本最大の蛾であるヨナグニサン(最大で全長30センチ)の標本が多数見られる。運が良ければ生体も見られる。
篤志家で、あらゆるところに寄付をして生涯に5000枚以上の感謝状をもらったという上原清善さんが、晩年に老人ホームを寄贈して、その片隅に設置した記念館。大量の感謝状が並ぶさまは現代アートといえるかもしれない。
https://anond.hatelabo.jp/20240627230737
こちらで神奈川県がまとめられていたので、何か貢献したいと思った。山梨は関東に入れていいのか問題。
個人的な美術の好みでは日本の近代洋画が一番好き。特に未来派と超現実派が好き。
日本随一のミレーを中心としたバルビゾン派のコレクションを誇る。その他にも日本を代表する木版画家の萩原英雄コレクションや、近藤浩一路、野口小蘋、米倉壽仁など、県内関係作家を中心に良い作品を多く持っている。
ミレーはいつ行っても見られるが、その他の特別展、コレクション展には当たり外れがある(ように感じる)ので、事前にホームページを確認して、好みの作品が出ているか確認することをお勧めする。
ノーベル賞受賞者の大村智氏のコレクションを中心とした収蔵品を展示している。
基本的には近代日本洋画が中心で、梅原龍三郎とか三岸節子とかもある。
旧名取春仙美術館。郷土出身の役者絵版画家、名取春仙の作品を中心とした美術館だったのだが、少し前に山梨県美の偉い学芸員だった方が館長に就任し、館名も建物もリニューアルされた。
その後は特別展も含め小規模ながら面白い企画が増えたように思う。国内外の版画を中心とした企画展が比較的多い印象。ミロとかピカソとかも来てた。
アメリカのポップアーティスト、キース・ヘリングの作品を所蔵、常設展示している日本唯一の専門美術館。北杜にある。ポップアート好きなら外せない。
ここを目当てに山梨に来ても後悔しない、という意味で諸手を上げてお勧めできるのはこのあたり。清里とか山中湖の方とか、観光客向けの小さな美術館みたいなのは山梨県はかなり多いんだけど。
あと思いつくところでは笛吹にある笛吹市青楓美術館(津田青楓の作品を中心とした小さな美術館。閉館の噂が出たり消えたりしてるので行くなら早めに行った方がいい)。
都留にあるミュージアム都留(旧増田誠美術館が移転統合して入った。増田誠は油彩画、石版画家。最近は刀剣に力を入れている印象がある)あたりだろうか。
あとは北杜に平山郁夫シルクロード美術館もあるので、好きな方は面白いと思う。
余談の余談だけれど、以前、北杜に清里現代美術館という、ヨーゼフ・ボイスやジョン・ケージ、オノ・ヨーコも参加したフルクサスなんかの作品と資料を大量に集めた、美術館のような研究機関のようなマニアには多分たまらない美術館があったのですが、運営者の方が体調を崩されたのを契機に閉館してしまった。あの資料、まとめてどこかに移されているといいのだけれど。
料金 無料
資料の量がかなり多く、更に県指定重要文化財などの貴重な資料が多い
求菩提山は山丸ごと山岳信仰の遺跡群が保存されてる素晴らしい山である
そして無料なのがとんでもない
料金 200円
標本が多く、展示がとても見やすい
小規模ミュージアムにかかわらず幅広い展示、生体展示も至る所にあり、2時間くらいじっくり時間をかけて鑑賞したい施設
好きな人にとってはたまらないような作成キットやマニアックなワークショップがあるのが良い
200円は破格
料金 200円
この時代の収蔵物がとても多いため、よくある郷土資料館というよりもこの時代に特化したものという感じになっている
料金 600円
みんな大好きいのちのたび博物館
有名すぎるので外そうかなと思ったが夏休みのキッズにオススメなので入れた
恐竜の骨や生き物の標本がダイナミックに展示されており男の子は大喜びではないだろうか
後、隣がイオンモールとアウトレットになっており興味がないお父さんお母さんのどっちかはお買い物が楽しめることもある意味高ポイントかもしれない
ぜひここでは隣のタカミヤ環境ミュージアムにも足を伸ばして欲しい
北九州市が苦しんできた公害克服の歴史と技術などわかりやすく説明されている
増田が博物館とかに行くようになったのは夏休みの自由研究がきっかけ
ってなんかあるの?
都心にある国立博物館美術館は人多すぎるし知ってるからそれ以外で
府中市美術館、八王子市夢美術館はとても良かったのでそういうのを教えて欲しい
あそこらへんみたいな郷土に必ずしも関係ないのに割と尖った展示ができるところこそ真に東京じゃないとできない美術館と個人的には思った
(追記)
元増田です
まさかこんなに伸びるとは!
おすすめしてくれてる人が多い佐倉の歴博と江戸東京建物園、横須賀美術館は増田もお気に入りだ
少し離れると混雑が幾分緩和されていいところ多いよね
上野の国立博物館系は一昔前なら常設ならそこまで混まなかったけど、最近はヤバくてフラッと行けるレパートリーが減ったなと思ってたから色々とありがたい
綺麗に歩道が整備されてるけどそこそこ森感がある
田舎民が見ると「いや、林だろ」と思うかもしれないが、郷土の森に植えられてる樹木は公式サイトによると8600本
https://nagai-park.jp/guide/guide1.html
743本を伐採し837本を植樹する
3000本以上の樹木が破壊され、そのうち500本以上が樹齢100年以上(歩道の植え込みのツツジなんかもカウントしてる)
車道を廃止して歩道にし建物を再配置すれば伐採は2本で済みむしろ逆に1000本植えられる
https://www.tokyo-np.co.jp/article/174107
本数は大したものだけど、ほぼ歩道の低木植え込み等ならば森ではない。林ですらない
森と呼べそうな部分はは建国記念文庫の森くらいで、それは事業者も認識してる
樹木の本数は149本、そのうち41本を伐採、50本を移植する
移植も破壊だとすると91/149本となり61%が破壊されることになる
https://www.jingugaienmachidukuri.jp/pdf/jingugaienmachidukuri_news_230929-01.pdf
91本 = 郷土の森の91/8600 = 1.058%に相当
無職になって2か月が経った。
いや、徒歩圏内というのは一般的な意味での徒歩圏内じゃない。「無職者にとっての」徒歩圏内だ。
それはまぁいい。
別に学習意欲が旺盛なわけでも、知的好奇心に溢れているわけでもない。
ただ、何もせず一日を過ごしてしまうと16時くらいから窓の外が完全に暗くなるまでの数時間、心の中の小さなハムスターがシクシクと泣き出してしまうので彼を慰めるために図書館に出向いている。
ところで、近所に「旭小学校」という小学校があって、図書館で「郷土の歴史」的な本を読んでいたらその由来が解説されていた。
その小学校は近隣の三つの村から子供が通うために作られたもので、学校の名前をどうするかでもめていた。
三つの村がそれぞれに自分の村の名前を小学校の名前にするべきだ、と主張していたそうだ。
ある夜にそれぞれの村の代表と校長が学校に集まり、喧々諤々の論争を行ったが、ついに結論が出ることなく朝になってしまった。
その時、窓の外の雪が積もった校庭に朝日が射し込み、なんとも美しい風景が、会議で血眼になっていた参加者の目を奪った。
奇しくも、その日は「9日」。
校長は言った「今日は明けて九日、九日を記念し、各々の主張は押さえ、この文字を組み合わせて『旭』という校名でいきましょう」
村の代表たちは皆賛成し、それ以来この小学校は「旭小学校」という名前になったそうだ。
いい話だ。
なんとなく感動的な気もするが、よく考えると別に徳の高いことは行われていない。そこがいい。
つまり会議は宿命的に平行線をたどる他ない、そんなことは参加者全員が分かっていて、でも会議を続けるしかない。
責任、疲労、うんざり、投げやり、そんな空気のグラデーションを経て、さっと射し込む朝日を見て、校長は「いまだ!」と思ったに違いない。
そして各村の代表も、正直「助かった!」と思ったのではないか。
いいじゃないか、旭小学校。うん、いいよいいよ。それでいきましょう。いやぁ良かった、良かった!はぁやれやれ、やっと帰れますな。
という声が聞こえる気がする。
今も昔も、大人たちの「面子」と「ちょっとの投げやりさ」で色々なことが適当に決定されている。
そんな世の中で自分を追い詰めても仕方がない。