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2019-01-09

札幌タイムズスクエアー

でおなじみ、札幌お菓子製造会社「菓か舎」は

そもそも明治の頃創業した「三八菓舗」という和菓子屋さんで

私も札幌市民でありながらごく最近までタイムズスクエア

タイムズスクエアフレッシュロール(安価のわりにおいしく季節により種類が変わる)しか

食べたことがなかったのだけど数年前ここの和生菓子を初めて食べてそのおいしいことにあまりにも衝撃を受けて以来

三八は和菓子特に生菓子!と思って応援しています

というのも三八及び菓か舎は各スーパー等に必ずある銘店コーナーに必ず商品が置いてあるが直営店舗はそう多くなく

道民にはあのタイムズスクエアCMソングはまあまあおなじみとはいえ今ではしかほとんどテレビで流れず

六花亭や柳月ほどは恐らく知名度的にもメジャーではなく北菓楼やきのとやほど菓子バリエーションも多くないので

道外の人どころか道民にもそんなにその存在お菓子レベル認知をされてないと思うからなのだけど

三八菓舗の和生菓子個人和菓子屋の少ない北海道において大手企業運営する店舗で選べる中では

群を抜いて本当においしいと思うのでとりあえず知らない人に知ってもらいたいもらいたいと思いながら

でも具体的にどうしていいかからないので一人で黙々と和生菓子を買っている おいしい

季節ごとに種類が変わる和生菓子は見た目のバリエーション素材の組み合わせも豊富で美しく

一つだいたい260円札幌の中では価格が高い方だと思うのだけれど、

そもそも一般的な和生菓子の1.5~2倍くらいの大きさなので妥当金額と思う 三八の和生菓子はでかいのだ

年寄りには一個完食することが結構キツいかもしれないと思う これも認知度に繋がらない原因かもしれない

そこにちょっといい意味地方都市っぽい大味さを感じるが味は端正で甘すぎずどれもとてもいい

特に黄身餡が絶品でこの時期になると登場する「南天」というほろほろ崩れる食感のいい黄身餡のそぼろで

薄い粒餡の層をサンドした和生菓子が最高の最高で年末年始の間に10個くらい買って食べる

くどくなく、でも卵の風味がしっかりとあり香りよく少し洋菓子のような感じもあって紅茶にも合う すごくおいしい

歯触りはほろほろででも口どけはさらっとしてなめらかでもう最高本当においしい 三八の黄身餡が今まで食べた中で一番好き

あと「栗くわし」というものすごいボリュームのある名物和菓子もありこれは本当に食べごたえがある

道内大納言小豆でごろっとした栗の甘露煮をくるんで型押ししてあるお菓子なのだがこのシンプルさで

外側と内側の食感の違いが3段階あり食べ飽きさせず満足感のあるお菓子なのだ

あと「かのう」という桃山なんかもあってこれもおいしい 紹介が雑になってきたがうまいのだ

おそらくだけどこれらの商品本店すすきの店(行ったことない)、札幌三越店でしか売っておらず

この細々感が恐らく認知度に影響してる気がする どうせデパートで買うなら京都岐阜和菓子にしたい、

和菓子好きな人は思うだろうし実際そうやって購入する人も多いだろう

でもあなたの街の三八の和生菓子も本当においしいんですよ~~と若輩者の私は声を大にして言いたい、

デパ地下でこっそり思いながらきのうも「南天」を買って帰った やっぱりとてもおいしい

道民の人はもとより道外の人にも「菓か舎」におけるこういった業態を知ってもらって

おみやげの一端に加えて貰えたら嬉しいな~と思いながら明日は「栗くわし」を買って帰りたい おいしいよ

2018-02-03

日本閨閥支配されている

池坊保子ときがなんでああも偉そうなんだって話なんですけどね。

あの人は旧華族、梅渓家の出で、村上源氏羽林家に分類される。羽林家は極官は大納言で、武家公家は違うけれど、武家で言えば大納言加賀前田家や尾張徳川家の家格だからね。

梅渓家出歴史上の有名人と言えば、徳川将軍家・十代将軍・家治を産んだおこうの方が、梅渓中納言家の出。おこうは、家治の正室について、京から大奥入りをしたわけですけど、将軍家正室をだせる家柄ではなくて、御台所の側近を出す家格なんですね。

で、明治以後は子爵家に叙されたんですけど、戦中戦後期の当主の通虎がやり手で、没落もせずに乗り切っただけじゃなくて、長女を読売の正力家に嫁がせてるんですよね。で、よみうりランド社長とかやっている。

池坊保子は、その正力夫人の妹で、要は読売グループ外戚一族であるわけですよ。

池坊ももちろん相応の影響力はあるけど、彼女傍若無人言動を示しても誰も掣肘できないのは、読売財閥権力があるからですよ。

どっちが頭でどっちが尻尾かは分からんですけどね、読売新聞日本相撲協会側について貴乃花を叩いているのは偶然ではないですよ。

読売日本相撲協会になんか権益があるんでしょうね。あの女はそれに沿って踊っているだけですよ。

[追記]

ま、陰謀論と言うか、こういう構造があるのですよ、っていう話です。

なぜある種のオバサマたちが素で支配者面をしてそれがまかり通っているのかっていうそもそもの話ですよ。

白洲正子とかもそういう面があるからね。

戦中戦後の怪しい財閥は、旧華族と結託することで血統ロンダリングするとともに、上流コネクションを手に入れたわけ。小佐野賢治とか典型的だよね。

華族の人たちの「いやーうちはすっかり没落しちゃって」の話を真に受けてはいかんと言う話ですよ。

いわゆる「財産」はなくても「財産」を築くコネクションは維持しているから。銀行商社マスコミ典型的だけど、役員は旧華族つながりばかりよ?

MさんとかNHKにいるけど、あれだってそもそもコネだし、生涯年収で言えば「三億、四億」は贈与されることになるわけ。

別に陰謀論じゃありませんから霞会館現存しているし、そこで話がつけられているのは事実ですよ。

なお池坊保子閨閥については本人が自伝で書いています。かなり赤裸々なので面白い自伝ですよ。

2017-05-19

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

2017-05-14

[] 采女の杖衝

(うねめのつえつき)

四日市市の『杖衝坂』のすぐ近くにある和菓子店菊屋本店製造する看板商品最中

大納言小豆の粒あんたっぷり、やわらかいお餅(求肥)も入り、食感・食べ応えのある一品です。

銘菓采女の杖衝」は、そのままでも、お湯をかけてもおいしくいただけます

常連のお客さんの間で広まったという『お湯かけ』は、最中にお湯をかけ、お塩ひとつまみ。ぜんざい風にいただきます

  

東海道でも屈指の難所に数えられた「杖衝坂」は、東征を終えた日本武尊ヤマトタケルノミコト)が負傷した足を引きずり、

剣を杖の代わりにして坂を登られた故事にもとづいて名付けられたといいます

ちなみに三重県の由来もこのとき日本武尊が、「吾が足は三重の勾がりの如くして甚だ疲れたり(足が三重に曲がるほど

疲れてしまった)」ことによるといいます

後年、芭蕉もこの難所にて馬の鞍もろともに転落。その折に詠んだ句が、「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」。

天下の俳聖・松尾芭蕉もつ季語を入れ忘れたのではという伝説の残る坂です。

http://www.mietv.com/yajikita/archive/160801/02.html

[] 阿闍梨

阿闍梨あじゃり)餅は、京都市満月製造する菓子

  

丹波大納言の粒餡を、さまざまな素材を練り合わせた秘伝の餅生地で包み、焼き上げた半生菓子

しっとりした皮と自家製餡の絶妙なる調和…。

独特の食感を楽しめる逸品。

  

比叡山修行する僧にちなみ命名。形は阿闍梨かぶる網代笠を象った。

http://www.ajyarimochi.com/a_ajarimochi.html

http://www.ajyarimochi.com/a_kasidukuri.html

[] せめんだる

「せめんだる」は、山口県山陽小野田市のつねまつ菓子舗が製造する菓子

  

昭和27年より製造

当時、セメントは樽に詰めて出荷されていたことより、もなかをたるにセメントを餡に見立て山陽小野田市代表する銘菓

北海道産大納言使用し、職人の手によって粒よりにていねいに炊き上げられた餡がすきまなくたっぷり詰まっている。

昭和30年代にたる最中から「せめんだる」と改称し商標登録された。

  

他に産業に因んだ銘菓として横浜市久里浜に「発電もなか」、山陽小野田市火薬工場があることからダイナマイト羊羹」が

あったが、いずれも現存しない。

http://www.e-densuke.com/tsunematsu/html/semendaru.html

http://www.zenkaren.net/archives/12778

2017-05-12

[] じゃんがら

伝統芸能「じゃんがら念仏踊り」に由来し、伝統の味と技が光る「お菓子みよし」が製造する福島県いわき市代表する銘菓

水を使わず小麦粉と卵で焼き上げたサックリとした皮に大納言小豆を挟んだ独特の個性的な味わい。

じゃんがら念仏踊が描かれた包み紙は一枚一枚絵柄が違い、また3個入りの箱は、じゃんがらの太鼓イメージして作られリニューアル

http://kankou-iwaki.or.jp/souvenirs/sweets-of-iwaki/30426

2017-05-03

[] 澤鹿

徳島市和菓子店、澤鹿文明堂販売する蒸し菓子徳島名産和三盆糖、大和芋、備中大納言などを使用

澤鹿の表面の線は川の水面を表し、そして大納言はたわむれる鹿を表す。

  

あんと卵の生地を蒸した浮島と、山芋卵白生地を蒸した軽羹の間にあるようなお菓子で、蒸し菓子ならではの、

しっとりとした湿度のある生地は、薄い小豆色の中に大納言の粒が散っている。

http://tokushima.sweetsplaza.com/shop/shop.html&sid=24

http://jafmate.jp/blog/cat113/6-2.html

2016-02-06

枢機卿大納言について

やはり枢機卿に軍配があがる。

2007-07-24

俺的最強あんパン

http://anond.hatelabo.jp/20070724063648

小豆あんと牛乳は合う。

かためのパンと牛乳は合う。

これを地で行く俺的最強あんパンの店がある。

東京赤坂見附駅の駅ビルに中に入ってる「ペルティエ」ってパン屋の「大納言」ってパン。

硬くて噛み締めるほどに小麦のうまさがスルメみたいに出てくるハードフランスパンの中に、

粒を崩さず煮られた小豆がどっさりと入ってるんだ。

スタンダードあんパンとしては邪道かもしれないが、これほど牛乳に合うパンはないと思う。

マジうまい

 
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ようこそ ゲスト さん