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はてなキーワード: 伊達政宗とは

2023-11-26

伊達政宗の騎馬像から500mくらいのとこに住んでるけど見たことないンゴねえ

2023-10-27

信長の野望新生武将ステータスランキング

1位 織田信長

(おだのぶなが) 99 88 95 100 382

2位 武田信玄

(たけだしんげん) 100 89 96 95 380

3位 北条早雲

(ほうじょうそううん) 93 91 99 94 377

4位 徳川家康

(とくがわいえやす) 99 87 90 98 374

5位 毛利元就

(もうりもとなり) 98 82 100 93 373

6位 豊臣秀吉

(とよとみひでよし) 96 81 98 97 372

7位 明智光秀

(あけちみつひで) 96 84 93 97 364

8位 北条氏康

(ほうじょううじやす) 96 87 86 95 364

9位 上杉謙信

(うえすぎけんしん) 98 100 84 81 363

伊達政宗

(だてまさむね) 94 86 87 96 363

光秀が再評価され気味なのね(これまでは10位~20位くらいだった)

2023-07-28

anond:20230728122151

江戸時代でも徳川家康伊達政宗のように腹部に岩ができ、皮膚や目が黄色くなったり、激痛を起こして死ぬはいたらしいが癌と診断された人はいなかったので別の病気だと考えられる

そういえば、藤原道長をはじめとした平安貴族けが罹る目が見えなくなって足が腐り喉が乾く病気祟りや恨みが原因だったね

anond:20230728121340

癌という漢字はあったけど今と同じ使われ方はしてなかった。

オランダ(肉も卵も乳製品摂取)の医学書から日本にがんが伝わり、出島周辺では当てはまる人がいたらしい。

開国し食の西洋化西洋医学の導入が進むと「不可思議なことに」がん患者日本にも現れ始め、そこに癌の漢字を当てた。

江戸時代でも徳川家康伊達政宗のように腹部に岩ができ、皮膚や目が黄色くなったり、激痛を起こして死ぬはいたらしいが癌と診断された人はいなかったので別の病気だと考えられる。

2023-05-20

酒のつまみになる話で、蛍原オールバックにしてるのを見て

「誰か…誰かに似ている!!なんか…俳優?…こんな感じの俳優が居た筈」

と強く感じた為、一体誰なんだろうかと思案したところ。出てきた答えが

堤真一

だった

似ても似つかない感じがするだろ?

でもちょっと…何かが似ている感じもしないだろうか?

なんだろう

よくわからないけど

関係ないが、堤真一について検索していたら

大河 独眼竜正宗に出演」

とあった

へー。知らなかった

そんなわけで、独眼竜正宗動画を見てたんだが

若い頃の渡辺謙は本当にイケメンだよなあ。イケメンつーか、二次元的な顔立ち?漫画アニメっぽい

こんな顔の人間て他に居るかなあ?

メイクしてるにせよ、ここまでの眼力とか表現するには特殊メイクレベルのもの必要な気がするよ

れっつぱーりー@奥州筆頭を筆頭に、我々がイメージするいわゆる「伊達政宗」は渡辺謙が作ったと言っても過言じゃねーのでは

イケメン隻眼変な人」っていう(たぶん実際の正宗も「イケメン」以外はそのままなんだろうけど。ほんと、変な人のイメージ。そして派手好きなイメージ)

んーと、何の話だったか

「雨上がりの蛍原オールバックにすると堤真一にどこかしら似ている」

って話だった

別に誰にも賛同求めないけれども

2023-04-06

anond:20230406191540

秀吉死亡時、五大老の年齢は、

前田利家 59歳

徳川家康 55歳

毛利輝元 45歳

上杉景勝 42歳

宇喜多秀家26歳

という感じで、まあ秀家はどう考えても若すぎるんだけど、

から実務を期待されてたというより「次世代の中心として秀頼を支える立場」を宣言された感じだよな。

ここに秀家の代わりに伊達政宗(当時31歳)とかを入れると、

どう考えても上の世代が死んだあと乗っ取られちゃうじゃん。

そもそも秀吉および豊臣家の弱点は一門衆が手薄なことで、

の子供たちだとか、妻ねねの甥(=小早川秀秋)だとか親戚をかき集めたけど、

そいつらは生まれながらの武士ではないし若くて頼りない。

秀頼が成人してもそいつらがちゃんサポートできるかわからない。

そこで秀吉は有力大名の息子を人質代わりに養子にして、

そいつらを懐柔して疑似一門衆にしようとしていたと思われる。

宇喜多秀家結城秀康伊達秀宗あたりな。

その中でも秀家は実家を継いで大名になったし、

豊臣家にも従順大坂に近い岡山57万石を与えられていた。

秀家はほとんど「豊臣一門の若頭」みたいなポジションなんだったと思うよ。

2023-03-21

優秀な戦国武将打順を組んでください

戦国武将打順を組むというのは面白い発想ですね。¹² ただ、戦国武将の強さや特徴は人によって評価が異なるかもしれません。¹³ あくまで私の個人的意見として、以下のような打順を考えてみました。

1番:伊達政宗スピード出塁率が高い)

2番:上杉謙信送りバントや進塁打が得意)

3番:豊臣秀吉(打力と選球眼が優れている)

4番:織田信長(圧倒的なパワーとカリスマ性を持つ)

5番:武田信玄織田信長に負けず劣らずのパワーと知略を持つ)

6番:真田幸村勝負強さと忍耐力がある)

7番:明智光秀(状況に応じて変化球を打てる)

8番:徳川家康(堅実な守備と安定した打撃をする)

9番:北条氏康投手としても活躍できる)

どうでしょうか?この打順に対して何かご意見やご感想がありますか?

ソース: Bing との会話 2023/3/21(1) 戦国時代大名武将の強さ最強ランキングTOP30【2023最新版】. https://newsee-media.com/sengoku-warload-2 アクセス日時 2023/3/21.

(2) 【刀剣ワールド】人気の戦国武将ランキング. https://www.touken-world.jp/historian/ranking-historian/ アクセス日時 2023/3/21.

(3) 戦国武将一覧. https://1ran.hikak.com/sengoku/ アクセス日時 2023/3/21.

(4) 【野球打順意味役割とは?特徴や適性などを解説 .... https://baseball-one.net/dajun/ アクセス日時 2023/3/21.

(5) 「打順」の英語英語例文・英語表現 - Weblio和英辞書. https://ejje.weblio.jp/content/%E6%89%93%E9%A0%86 アクセス日時 2023/3/21.

(6) 【野球初心者向け】1~9番打者打順役割セオリー的な .... https://www.shinumade.com/entry/2018/05/21/%E3%80%90%E9%87%8E%E7%90%83%E5%88%9D%E5%BF%83%E8%80%85%E5%90%91%E3%81%91%E3%80%911%EF%BD%9E9%E7%95%AA%E6%89%93%E8%80%85%E3%81%AE%E6%89%93%E9%A0%86%E3%81%AE%E5%BD%B9%E5%89%B2%E3%81%A8%E3%82%BB%E3%82%AA アクセス日時 2023/3/21.

(7) 打順 - Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E9%A0%86 アクセス日時 2023/3/21.

(8) 試合速報 日本vsメキシコ WBC2023 準決勝 | 毎日新聞. https://mainichi.jp/articles/20230320/hrc/00m/050/005000d アクセス日時 2023/3/21.

(9) 【野球打順意味役割は?守備位置との関連性も解説!. https://spojoba.com/articles/720 アクセス日時 2023/3/21.

それぞれの守備ポジションも含めて打順を出力してください。

守備ポジションも含めて打順を出力するというのは難しいですね。戦国武将野球ルール技術に習熟していないと思われますので、適性を判断するのは不可能です。 あくまで私の想像として、以下のような守備ポジションを考えてみました。

1番:伊達政宗中堅手

2番:上杉謙信二塁手

3番:豊臣秀吉三塁手

4番:織田信長一塁手

5番:武田信玄左翼手

6番:真田幸村遊撃手

7番:明智光秀右翼手

8番:徳川家康捕手

9番:北条氏康投手

どうでしょうか?この守備ポジションに対して何かご意見やご感想がありますか?

2023-02-28

anond:20230227141843

伊達政宗書状解説する動画、1本だけでシリーズになってはいないんだけど、好きすぎて10年以上経ってもまだ見てる。

2023-02-08

さまざまな桶狭間

桶狭間の戦い

桶狭間度:★★★★★

海道一の弓取りと謳われた今川義元大軍を、小勢の織田信長が打ち破った戦い。「桶狭間は谷だった」「いや山だった」「奇襲だった」「いや正面攻撃だった」など、その実態については今なお盛んに議論される。また、勝利した織田信長がこれをきっかけに勢力を拡大し、のちには天下人となっていったこから、「小大名が敵の大軍を破り、その後の飛躍に繋げた戦い」のことを「〇〇の桶狭間」と言うようになった。

奥州桶狭間人取橋の戦い

桶狭間度:★☆☆☆☆

父親を殺された伊達政宗が、その弔い合戦として畠山氏の二本松城を攻めたところ、相手方の救援として駆けつけた佐竹氏・蘆名氏などの連合軍と戦いになった。兵力差四倍以上の相手に正面決戦を強いられることとなった伊達方はほぼ敗勢だったが、勝利目前の佐竹軍が急に撤退したため尻すぼみに合戦終結した。壊滅必至だった伊達軍がそれを免れたという点では「勝ちに等しい引き分け」と見ることもできる。その後、巻き返した伊達政宗二本松城を落とし、蘆名氏を滅ぼして南奥州覇を唱えることとなる。

関東桶狭間河越夜戦

桶狭間度:★★★★☆

泥沼の争いを繰り広げていた古河公方山内上杉・扇谷上杉らの関東勢が、勢力を急伸させた北条氏を恐れて連合し、北条方の要所・河越城大軍で包囲した。それに呼応した今川義元も西から挙兵して挟撃の形となり、家督を継いだばかりの北条氏康は早くも絶体絶命の危機を迎えた。しかし手早く今川と和睦した氏康は、大軍に驕った連合軍に夜襲を仕掛けて撃破した。この戦いで古河公方山内上杉・扇谷上はいずれも滅亡・没落し、関東北条氏を中心として動くようになった。

甲斐桶狭間飯田河原の戦い

桶狭間度:★★☆☆☆

甲斐に侵攻した今川大軍を、武田信玄の父・武田信虎が迎え撃った戦い。荒川沿いの飯田河原戦場に選んだ信虎は、数で上回る今川軍を地の利を活かして撃退、ひと月後に上条河原で再戦したがそれも打ち破り、敵の大将を討ち取った。一連の戦いにより武威を示した武田信虎は、敵対していた穴山氏などを服属させ、甲斐統一を成し遂げた。

近江桶狭間野良田の戦い

桶狭間度:★★☆☆☆

北近江浅井氏は、越前朝倉氏と南近江六角氏という大勢力に挟まれ、当時は六角氏に従属する立場だった。父親隠居させて浅井家の若き当主となった浅井長政は、すぐさま六角からの離反を表明した。それに対し、六角氏は当主六角承禎自らが大軍を率いて攻め寄せたが、浅井長政は半数以下の兵力で迎え撃って勝利した。弱い立場だった浅井氏はこの勝利により戦国大名としての地位を固め、敗れた六角氏はお家騒動などもあり衰退していくことになる。

備前桶狭間」明善寺合戦

桶狭間度:★☆☆☆☆

備前大名浦上氏の家臣として頭角を現しつつあった宇喜多直家は、毛利氏従属しながら備前進出しようとした備中三村氏の当主三村家親を、日本史上初となる火縄銃狙撃により暗殺した。怒れる三村氏は、弔い合戦とばかりに宇喜多方の明善寺城を攻め取ったが、宇喜多直家は素早く奪回し、逆にその救援にやってきた三村氏の大軍を待ち構えて打ち破った。この戦いにより影響力を増した宇喜多直家は、のちに主君反旗を翻し、戦国大名として独立することになる。

西国桶狭間有田中井手の戦い

桶狭間度:★★★☆☆

かの毛利元就の初陣。源氏の名門・武田氏一族で猛将と謳われた武田元繁と、味方の城の救援に向かった毛利吉川連合軍の戦い。寡兵連合軍は劣勢を強いられたが、初戦で運良く敵方武将を討ち取り、それに激怒して自ら前線へ打って出た武田元繁をも討ち死にさせた。この戦いにより、大内氏から独立して勢力を拡大していた武田氏は一転して衰退し、代わって毛利元就歴史の表舞台に躍り出ることとなった。

「海の桶狭間厳島の戦い

桶狭間度:★★★★☆

毛利元就の戦いとしてはこちらのほうが有名だろう。主君大内義隆に謀反し、大内家内を牛耳った陶晴賢だったが、その隙に離反した毛利元就によって安芸を奪われてしまう。大軍を率いる陶晴賢要衝厳島拠点安芸奪回を狙うが、毛利元就は嵐に乗じた奇襲でそれを打ち破り、陶晴賢自害に追い込んだ。この勝利により、毛利元就は逆に大内氏を滅ぼしてその領土併呑し、中国地方覇者となっていくのである

肥前桶狭間今山の戦い

桶狭間度:★★★☆☆

肥前勢力を拡大していた龍造寺隆信に対し、脅威を覚えた北九州覇者大友宗麟大軍を率いて侵攻、数ヶ月に渡って佐賀城を包囲した。援軍の見込みもないなかで龍造寺軍はよく持ちこたえたものの、ついに大友宗麟は弟の大友親貞に総攻撃を命じる。大友親貞は総攻撃前夜に士気を高めるため酒宴を開いたが、それを見た龍造寺家臣の鍋島直茂わずかな手勢を率いて夜襲を仕掛けた。油断していた大友軍は総崩れとなり、大友親貞も討ち取られてしまった。その後、和睦に持ちこんだ龍造寺隆信は、大友氏に従属しながら勢力を拡大し、のちに九州三強の一角に名を連ねることになる。

九州桶狭間木崎原の戦い

桶狭間度:★★★★☆

島津当主島津貴久が亡くなった直後、その隙を突いて隣国伊東氏島津領に侵攻した。伊東方が数千の軍であったのに対し、島津軍勢はその十分の一ほどしかなかったという。だがそれを率いていたのは名将・島津義弘だった。島津軍の頑強な抵抗により、伊東はいったん退却して陣を立て直すことになった。しかし、島津義弘から指示を受けていた農民たちが太鼓を鳴らして伏兵を装うと、伊東軍は慌てて陣から飛び出し、そこで待ち伏せていた島津軍に四方から攻められて壊滅、総大将も討ち取られてしまった。窮地を脱した島津氏は、島津兄弟のもと勢力を拡大し、九州を制覇していくのである

2023-01-10

トー横」「グリ下」に続く、第3のたまり場とは?

千葉「ディズ中」(ディズニーランドの中)

横浜ラー博」(新横浜ラーメン博物館の中)

鎌倉「仏中」(鎌倉大仏の中)

札幌「クラ前」(クラーク博士銅像前)

仙台「宗下」(仙台城跡の伊達政宗銅像の下)

名古屋「金シャチ」(名古屋城のシャチホコの横)

金沢「兼六」(兼六園の中。夜のライトアップが綺麗)

滋賀「ひこ横」(ひこにゃんの横)

京都「金中」(金閣寺の中)

神戸「六上」(六甲山の頂上)

山口「秋中」(日本三大鍾乳洞である秋芳洞の中)

愛媛「道中」(道後温泉風呂の中)

博多「Pay中」(福岡PayPayドームの中)

沖縄ジン横」(美ら海水族館ジンベイザメの横)

2022-11-18

anond:20221118111028

頻繁に議論されるけど伊達政宗って本当に過大評価だな

欧州覇者みたいに言うけど先祖の旧領回復しただけで全然奥州全体に届いてないじゃん

anond:20221118111028

信玄守護から始まって甲斐信濃駿河を手に入れたし、砥石川中島以外にほとんど負けてないからまあ

 

しかし、戦国時代後期に偏りすぎなような

畠山義就六角高頼朝倉宗滴北条早雲あたりが挙がってもいいと思うし、伊達政宗が挙がるなら津軽為信が挙がってもいいだろうと思う

結局、大河ドラマは強いな、って感じ(島津を除く)

歴史人物の最強ランキングは?

1位信玄は意外だった

ランキング結果

1位武田信玄 78.2点(1,693人が評価) ...

2位上杉謙信 78.2点(1,671人が評価) ...

3位伊達政宗 75.4点(835人が評価) ...

4位織田信長 74.9点(1,287人が評価) ...

5位真田幸村真田信繁) 74.4点(1,102人が評価) ...

6位本多忠勝 ...

7位島津義弘 ...

8位真田昌幸

2022-10-26

欧州筆頭 伊達政宗

伊達政宗、ついに世界へ!

徳川の天下は狭すぎると支倉常長を待たずして日本を飛び出し、竜騎兵を率いてヨーロッパで暴れ回るマサムネ・ダテは果たして欧州トップを取れるのか!?

2022-06-27

家康が天下とったのは必然

本能寺の変の直前、

上京する家康にたいする光秀の接待が悪かったといって足蹴にした、

という話があったりするが、

創作臭い話は抜きにしても、信長家康に対して

かなり丁重に扱っていたのは事実であり、

接待が悪くてひどく叱ったため光秀の恨みを買った、

というのはあり得る話である

もちろんそれは働きっぷりもさることながら、

家康名大将の噂を、信長は逐一聞いていたかである

また秀吉政権になってからも、

有力大名が困ったら、まず家康相談してとりなしてもらっていた、

という案件がかなり多い。

伊達政宗加藤清正豊臣秀次といった有名どころはほぼすべて家康の世話になっている。

かい家臣に対することなどまで相談に乗っている。

「内府殿に相談すればまちがいない」

という空気があったに違いない。

やっぱり人の上に立つ人間だったということだろう。

ちなみに家康に近い評価だったのは前田利家だったらしいが、

秀吉の後を追ってすぐ亡くなってしまった。

そういうこともあって天下をとった。

2022-06-22

anond:20220622145532

出生

天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安祖父春日大社奉仕する猿楽(現能)金春流猿楽師で、父の信安の時代大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。

武田家臣時代

父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老土屋昌続与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。

武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。

ただし一説では、武田勝頼からまれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。

徳川家時代

遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行連署傳馬掟書』慶長6年1月個人蔵)[2]。伊奈忠次彦坂元正連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている

甲斐武田家が滅んだ後、長安徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。

長安大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正106月本能寺の変信長が死去して甲斐家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康本多正信伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安釜無川笛吹川堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康関東に移ることになる。この時、長安青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次長谷川長綱彦坂元正らと共に奉行代官頭)に任じられ、家康関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。

また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安長谷川長綱彦坂元正伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。

天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。

長安はまた、家康に対して武蔵治安維持国境警備重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後豊臣氏支配下にあった佐渡金山生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月大和代官10月に石見銀山検分役、11月佐渡金山接収役となる。

慶長6年(1601年)春に徳川奉行補佐にて甲斐奉行8月石見奉行9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康長安経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである

慶長8年(1603年)2月12日家康将軍に任命されると、長安特別従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。

慶長10年(1605年)、大久保長安普請奉行として武蔵御嶽神社の本社普請

慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安家康から全国の金銀山統轄や、関東における交通網の整備、一里塚建設などの一切を任されていたのである現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である

これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったこから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的支配を任されていたと言われている。

慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。

しか晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さら正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日中風のために死去した[5]。享年69。

長安の死後に生前不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安嫡男藤十郎(37歳)、次男外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。

人物逸話

ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクション対象となっている。

無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。

金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分遺体黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。

一説に長安は、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗幕府転覆計画賛同していたと言われている。

2022-05-24

anond:20220524154517

1→言うまでもなく関係ある

2→「伊達もの」という言葉政宗に由来するという説がある(説の真偽はともかく言われていることは事実)なので関係ある

3→着物伊達巻きも「伊達もの」に由来するので関係ある

 

1→伊達政宗伊達巻のような料理はおろか、卵料理を食べたとされる文献も一切ない

 (伊達巻は伊達焼と呼ばれる政宗の好物だった卵料理に由来するという説があるため)

 

2→政宗生前からすでに「伊達者」という言葉使用されていた

 

3→2に同じ

anond:20220524152658

名称の由来

伊達巻という名前の由来については、

1. 伊達政宗の好物だったこから伊達巻と呼ばれるようになったという説

2. 普通卵焼きよりも味も見栄えも豪華なために、洒落て凝っている装いを意味する「伊達ものから伊達巻と呼ぶようになったという説

3. 女性用の和服に使われる伊達巻きに似ていることからこう呼ぶようになったという説

など諸説ある。

1→言うまでもなく関係ある

2→「伊達もの」という言葉政宗に由来するという説がある(説の真偽はともかく言われていることは事実)なので関係ある

3→着物伊達巻きも「伊達もの」に由来するので関係ある

関係あるじゃねえか!

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