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はてなキーワード: 近江とは

2022-06-13

nek********さん

2016/8/14 5:09

3回答

明智光秀徳川家康の饗応役を、織田信長に魚が腐っていると言われて解任されて、

怒った明智光秀安土城の堀に腐った魚などを投げ込んで、

悪臭が満ちたという話は実話なんですか?

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bir********さん

2016/8/14 5:59

近江の珍料理、鮒ずし、を織田信長が知らず

明智料理献立に予定した鮒ずし、を

織田信長が魚の料理が腐ったと誤解したから。

海産物豊富尾張三河出身である

織田信長徳川家康の好み、を分かって

いなかった明智も迂闊だったが。

2022-04-14

anond:20220414122747

滋賀県民だけど近江タクシーがクソ高くてガチオススメできない

近江鉄道もめちゃくちゃ高いんだけどあっちは1時間に1本もないかそもそも学生くらいしか使わんし

滋賀県観光巡りならレンタカー一択だろうな

2022-01-08

ラブライブって三期の世界線つながってたんだな

てっきり完全に別の世界線だと思っていた

今年いちばんカルチャーショックだわ

μ's 呼び方 呼ばれ方

高坂穂乃果 穂乃果 (先輩後輩禁止実施前)矢澤先輩⇒(実施後)にこちゃん

南ことり ことり 矢澤先輩⇒にこちゃん

園田海未 海未 矢澤先輩⇒にこ

星空凛 凛 矢澤先輩⇒にこちゃん

小泉花陽 花陽 矢澤先輩⇒にこちゃん

西木野真姫 真姫 矢澤先輩⇒にこちゃん

東條希 希 にこっち

絢瀬絵里 絵里 にこ

Aqours 呼び方 呼ばれ方

高海千歌 千歌 にこさん

渡辺曜 曜 にこさん

桜内梨子 梨子 にこさん

国木田花丸 花丸 にこさん

黒澤ルビィ ルビィ にこさん

津島善子 善子 にこ

松浦果南 果南 にこちゃん

黒澤ダイヤ ダイヤ にこさん

小原鞠莉 鞠莉 にこっち

ニジガク 呼び方 呼ばれ方

上原歩夢 歩夢 にこさん

宮下愛 愛 にこっち

優木せつ菜 せつ菜 にこさん

中須かすみ かすみかすみん にこ先輩

桜坂しずく しずく にこさん

天王寺璃奈 璃奈 にこさん

三船栞子 栞子 矢澤さん⇒にこさん

近江彼方 彼方 にこちゃん

エマヴェルデ エマこちゃん

朝香果林 果林 にこちゃん

ショウ・ランジュ ランジュ にこ

ミア・テイラー ミア にこ

あなたちゃん アンタ、あなた にこさん

2021-12-22

やっぱ継体天皇でしょ

崇神天皇が「実在した可能性のある最初天皇」って言われてるけど、やっぱ初代って継体天皇でしょ。

紀元前1世紀

BC97年-BC30年(日本長暦) 崇神天皇

BC37年頃 高句麗が成立

BC29年-70年(日本長暦) 垂仁天皇

弥生文化関東地方に波及する。

近畿地方を中心に銅鐸、西日本青銅武器形祭器による祭祀が行われる。

階層の秩序化すすむ。

関東地方東北地方南部縄文時代の一墓制である再葬墓が見られる。

北部九州では甕棺墓が盛行し、その中の一部のものが多くの前漢鏡を副葬する。

北部九州では、鉄器や鉄製農具が使用される。また吉野ヶ里遺跡のような巨大集落現れる。

北部九州勢力畿内勢力の間で、鉄の獲得のための軍事的緊張が高まる

1世紀

8年 前漢の滅亡

25年 後漢の成立

57年 倭の奴国王が後漢に朝献して倭奴国王印を授けられる

71年-130年(日本長暦)景行天皇

漢書地理志 倭は百余国に分かれており、その一部は前漢楽浪郡に朝献をする

弥生文化東北地方に波及する

2世紀

107年 倭国王帥升らが後漢の安帝に生口160人を献上する

131年-190年(日本長暦) 成務天皇

147年頃-189年頃 倭国大乱

192年-200年(日本長暦) 仲哀天皇

日本で石器が消滅し、鉄器が普及する(弥生時代後期)

魏志倭人伝倭国乱れ、互いに攻伐しあい倭国大乱)、長い間盟主なし

3世紀

201年-269年(日本長暦) 神功皇后 三韓征伐

220年 後漢の滅亡

239年 邪馬台国卑弥呼帯方郡使者を送り、魏の明帝への奉献を願う

248年頃 女王卑弥呼死す。その後、卑弥呼の宗女・壱与(または台与)が女王となる

3世紀中頃 古墳時代が始まる

266年 倭の女王が晋に使節派遣する(『日本書紀』の神功紀66条に引く晋起居注。『晋書』武帝紀、西晋の泰始二年)

270年-310年(日本長暦) 応神天皇

3世紀後半 大和王権誕生する

3世紀後半 箸墓古墳

日本では弥生時代末期から古墳時代初期にあたる。

樺太西端北海道北端オホーツク文化(初期)が成立する。

日本では銅鐸・武器系祭器による祭祀が終わる。北部九州の甕棺墓も衰退する。西日本各地に、特殊な壺形土器、器台形土器を供献した墳丘墓首長墓)が現れる。

4世紀

313年 楽浪郡高句麗に滅ぼされる

313年-399年(日本長暦) 仁徳天皇

316年 西晋が滅亡

4世紀半ば 百済建国

399年-404年 好太王高句麗と倭の戦い

空白の4世紀

5世紀

400年-405年(日本長暦) 履中天皇

406年-410年(日本長暦) 反正天皇

412年-453年(日本長暦) 允恭天皇

454年-456年(日本長暦) 安康天皇

463年 吉備氏の乱

457年-479年(日本長暦) 雄略天皇 考古学的に実在実証される最古の天皇

478年 倭の五王の武が宋(南朝)に使者を送る

479年 星川皇子の乱

480年-484年(日本長暦) 清寧天皇

485年-487年(日本長暦) 顕宗天皇

488年-498年(日本長暦) 仁賢天皇

大王クラス大形前方後円墳奈良盆地から大阪平野に移り更に巨大化する。

日本では倭国古墳時代中期にあたる。各地で巨大な前方後円墳が築造され、地方ヤマト王権中枢双方の首長たちの祭祀儀礼が執り行われる。この世紀の倭国朝鮮半島諸国間の紛争に活発に武力介入を行っていたことが、日本側と朝鮮半島側双方の歴史記録から伺われる。当時の5代に及ぶ治天下大王東晋から南朝にかけての江南王朝に盛んに朝貢して王号と官職を得ていたことが中国正史記述に残されており、倭の五王として知られている。

北海道北部東部では続縄文文化とは異質な海獣漁労民のオホーツク文化(中期)が拡大する。

6世紀

499年-506年(日本長暦) 武烈天皇

507年-531年 継体天皇

512年 倭が百済に対し任那の四県二郡を割譲する

527年 磐井の乱

531年-535年 安閑天皇

538年 仏教伝来(552年説あり)

536年-539年 宣化天皇

539年-571年 欽明天皇

562年 任那地方を含む加羅諸国新羅に滅ぼされる

572年-585年 敏達天皇

581年 隋の建国

585年-587年 用明天皇

587年 丁未の乱 蘇我馬子物部守屋を滅ぼす

587年-592年 崇峻天皇

593年 聖徳太子(厩戸王)が摂政となる

598年 隋の高句麗遠征

それまでのヤマト王権王統嫡流が断絶し、誉田別尊大王(後の応神天皇)五世の子孫とされ越前近江地盤を持ち尾張連草香の娘を妃としていた男大迹王(後の継体天皇)が、大伴氏物部氏巨勢氏らにより畿内に迎えられて前王統手白香皇女皇后に迎え、治天下大王として擁立される。やがてこの継体系の王家は新興の蘇我氏と結びつき、武川軍閥系の政権によって大陸華北の再統一から南北朝の統一へと向かう中、前世紀の「倭の五王」後に途絶えていた活発な東アジア外交を再開する。

考古学の発掘研究によればこの世紀の半ばになって日本列島での鉄鉱石からの製鉄遺構が初めて出現する。同時期に大陸では倭国弥生時代以来鉄素材の供給源としていた弁韓の後身加羅諸国新羅併合されている。

前世紀に九州などで造られ始めていた古墳の横穴式石室が全国規模で普及する。

この世紀の後期になると畿内では前方後円墳がつくられなくなり、前方後円墳伝統を保持していた天皇陵含む大型古墳も渟中倉太珠敷大王(後の敏達天皇)の陵墓を最後に以後方墳となる。関東でも群集墳が盛んに造られるようになる。ヤマト王権中央さらには地方首長統治下でも仏教の導入が進行し、前方後円墳と結びついていた首長祭祀は以後氏寺における仏教儀礼が担うようになる。

7世紀

593年-628年 推古天皇

603年 冠位十二階を制定

604年 十七条憲法を制定

618年 隋の滅亡、唐の建国

629年-641年 舒明天皇

642年-645年 皇極天皇

643年 蘇我入鹿山背大兄王一家(上宮王家)を滅ぼす

645年 乙巳の変

645年-654年 孝徳天皇

646年 大化の改新

655年-661年 斉明天皇

660年 百済滅亡

663年 白村江の戦い

668年 高句麗滅亡

668年-672年 天智天皇

672年-672年 弘文天皇

672年 壬申の乱

673年-686年 天武天皇

2021-12-14

anond:20211214094854

6/2本能寺の変
6/3光秀が近江出兵
6/4家康岡崎城に帰還
6/5光秀が近江を平定
6/7秀吉姫路城に帰還
6/8光秀が坂本城に帰還
6/9光秀が秀吉迎撃に出陣
6/12秀吉摂津富田まで進出
6/13山崎の戦い
6/14家康尾張熱田まで進出
6/16秀吉近江を平定
6/18勝家が近江長浜まで進出
6/22秀吉美濃尾張出兵
6/25秀吉美濃尾張を平定
6/27清洲会議

山崎の戦いから秀吉近江を平定するまで3日、そこから美濃尾張を平定するまで9日、

というスケジュールを仮に光秀に当てはめたとすると、

6/2に本能寺の変、6/5に近江を平定、6/14に美濃尾張平定、ということになる。

実際には、織田家本領尾張美濃での抵抗は激しいだろうからもっと時間がかかるはず。

家康進出してくるまでに、尾張平定を完了したうえで迎撃態勢を整えるのは難しいだろう。

さらに、その背後には勝家が迫ってきているわけで、光秀は尾張家康と睨み合っているわけにもいかない。

なので周辺の地固めといっても、戦力的に重要美濃尾張はどうやっても確保できず、

光秀は京付近まで下がって家康・勝家と対峙するしかないが、

そうなったとき細川筒井がいきなり明智に味方するとも思えない。

下手すりゃ近江勢まで離反する。

あるいは、近江平定から今度は大坂方面に軍を向けていたとすると、

池田恒興中川清秀摂津諸将は降伏していたかもしれないが、

近江美濃尾張は勝家と家康占領されていたかもしれない。

中国大返しが無いというのが、

秀吉普通の速度で戻ってくる」ということなのか、

秀吉近畿出兵しない」ということなのか、

秀吉が光秀と敵対すらしない」ということなのか分からんので、

光秀が大坂方面にどれだけ兵を割く必要があるのかも分からんが。

anond:20211214005025

うーん、史実では秀吉から遅れること一週間ほどで柴田勝家近江まできてるけど、

その一週間で細川筒井が光秀に靡いたかというと首を傾げるよな。

やっぱ光秀が勝家なり秀吉なりと一戦して破るまでは日和見勢は動かないんじゃないの?

2021-12-13

anond:20211212125107

中国大返しがなければ、秀吉は通常の速度で明智征伐に向かうこととなり、

同時期に出兵していた勝家・家康と合わせて三方面同時侵攻のような形になる。

清洲会議ではその三者論功行賞となり、史実よりも秀吉発言力は弱くなって、勝家は筆頭家老としての地位を維持する。

家康甲斐攻めは無くなっているはずなので、甲斐北条のものとなっている。

その家康領地割譲しようにも、織田本拠地である尾張美濃を与えるわけにもいかず、

最終的に「家康甲斐を得るために織田家が力を貸す」ということになる。

まり織田家の次の目標北条攻めということとなり、地理的問題からその方面軍は勝家が中心となる。

秀吉毛利長宗我部への抑えとして残され、力を温存できる一方で、

共同で北条と戰う家康と勝家の関係は深まり秀吉VS勝家・家康という構図になっていく。

北条戦が長引くなか、満を持して秀吉挙兵、京・近江を押さえ、美濃へと進出していく。

柴田徳川連合軍も急いで引き返し、両軍は関ヶ原で激突する。

面白いな。

2021-07-31

負けヒロイン歌集

はかなくも なほ実ればと 思ふかな かく乱れたる 心厭はで

【訳:もう終わってしまった恋だけれど、実っていればと想像してしまう。そんな自分が厭わしい。】


春すぎて にほいたちばな しずけさに けふも昔の すひたかづらに

【訳:春が過ぎて橘の香り立つ季節になったけれど、私はひとりあのときの忍冬を、好きだったあなた面影や髪を思い出します。】


をちかたに ゆきて帰り路 双つ影 伸びのびてゆき なほをちかたに

【訳:帰り道に、遠くで見かけたあなたとあの子の連れ立つ影。私はつい立ちすくんでしまい、あなたたちはどんどん遠ざかっていきました】


ねぎごとや 夕露濡れし 青懸巣 去りゆく我を いひかけてとめ 

【訳:アオカケスのような青い髪のあなたは、あのとき去っていく私に何事か言いかけましたね。夕露のような涙で眼を潤ませ、何かを願うようにして。


身一つを 藍に染めあげ 待つ鳥や 撃たれて泣くな 飢えて歎くな

【訳:深い藍色の髪を持つあなたは愛もまた深かったのでしょう。不幸もまた、多かったのでしょう】


汀なる あらまほしきを さやかにも 荒浪くもる あたしってバカ

【訳:『魔法少女まどかマギカ』の美樹さやかのことを詠ったとされる】


さざなみ大津見かかり あはれなる 近江におもき 淡江のころ

【訳:琵琶湖から大津を望むたび、かの場所いたころ背負った罪が、今も哀れな私を苛みます。/滋賀志賀)を負けヒロイン見立てた歌。『万葉集』(古の人に我れあれや楽浪の 古き都を見れば悲しき)などにあるように、滋賀を負けヒロインに重ねるのは古来よりポピュラー主題。】


かぎりある おんみをつくし 相逢いへ なんでもするから ダメなとこなおすから

ギリシャ神話、もといFGOキルケーのことを詠ったとされる。「相逢いへ」はアイアイエー島にかかっている】


さめざめと 背中なでつつ 歎くぞよ 道さだかにも 決めかねる身を

【訳:涙に暮れるあなたをこうして抱きしめているあいだにも、私はどのヒロインルートにするかで迷っています。なんという卑怯者なのでしょう】


はつこひは 遠くこそなれ いとどなほ 夜の嵐に 髪を吹かれて

【訳:初恋はもう遠い昔なのだけれど、今なお夜の嵐のように私をかき乱します】

2021-07-11

日本天皇51~100代

51.平城天皇(806~809)

 官司の統廃合、観察使の派遣など行政の立て直しに取り組んだ。藤原薬子を寵愛したが、譲位薬子の変が起きたため、出家した。

52.嵯峨天皇(809~823

 薬子の変鎮圧弘仁格式新撰姓氏録編纂した。三筆の一人にも数えられる文化人

53.淳和天皇(823~833

 経国集令義解、秘府略を編纂させた。

54.仁明天皇33~850)

 在位中に令義解施行され、日本後紀が完成した他、承和の変が起き藤原氏繁栄の基礎となった。医学書道和歌など初学に精通した知識人

55.文徳天皇(850~858)

 続日本後紀編纂を開始した。病弱であったため、政治の実権は藤原良房がが握った。

56.清和天皇(858~876)

 幼くして即位したため、良房が実権を握り、元服後も握り続けた。在位中に貞観格式編集された。

57.陽成天皇(876~884)

 乳母子を殺す、宮中で密かに馬を飼うなどの奇行が多く、藤原基経譲位させられた。

58.光孝天皇(884~887)

 55歳という高齢即位し、基経に「実質的関白として政治を任せた。

59.宇多天皇(887~897)

 阿衡の変により、藤原氏を疎み、菅原道真を重用した。在位中に多くの歌人が輩出され、遣唐使廃止された。

60.醍醐天皇(897~930)

 藤原時平讒言を信じ、道真を左遷した。在位中に古今和歌集勅撰、三代実録、延喜格式編纂が行われ、その治世は村上天皇と共に延喜・天暦の治と称された。

61.朱雀天皇(930~946

 在位中は天災が多発し、平将門藤原純友が乱を起こすなど、多難な時を過ごした。

62.村上天皇946~967)

 乾元大宝鋳造し、天徳歌合、後撰和歌集などを編纂させた。

63.冷泉天皇(967~969)

 病弱であったため、藤原実頼関白として実権を握った。安和の変の後は、摂政関白が常置されることとなった。

64.円融天皇(969~984)

 藤原氏政権争いに翻弄され、出家文化人として風流生活を送った。

65.花山天皇(984~986

 女御の死を悼んだところを、藤原兼家に計られて出家した。

66.一条天皇(9861011)

 在位中藤原道長が実権を握り、紫式部清少納言和泉式部などの文化人活躍した。

67.三条天皇1011~16)

 藤原道長に絶えず退位を迫られ、眼病、脚気理由に退いた。

68.後一条天皇1016〜36)

 道長の孫。在位中は道長・頼通が実権を握り、藤原氏の全盛期を迎えた。

69.後朱雀天皇1036~45)

 在位中は頼通が関白として実権を握った

70.後冷泉天皇1045~1068)

 在位中に平等院鳳凰堂が建立され、前九年の役が起きた。

71.後三条天皇1068~72)

 藤原氏を疎んじ、新政を行った。記録所を設け、成功、重任を禁じ、宣旨枡を定めた

72.白川天皇1072~86

 在位中に富士山噴火後三年の役が起きた。譲位後、院生を行った。

73.堀河天皇1086~1107)

 在位中は院生が行われたが、藤原師通の補佐により自らも政治に関与し末代の聖王と称された。

74.鳥羽天皇(1107〜23

 譲位後、崇徳~後白河の3代に及ぶ院政を行った。崇徳院を無視して、後白河天皇即位させたことが保元の乱の原因となった。

75.崇徳天皇(1123~41)

 鳥羽上皇冷遇され、譲位させられた挙げ句、息子の即位も阻まれた。これを不満とし、保元の乱を起こすも敗れ、讃岐に流された。死後怨霊として恐れられた。歌人としても名高い。

76.近衛天皇(1141~55)

 17歳で亡くなったため、崇徳院、藤原忠実・頼長親子に呪われたのではないかと噂された。

77.後白河天皇(1155~58)

 保元の乱崇徳院を破った後、譲位院政を行った。平治の乱治承・寿永の乱鎌倉幕府成立などの激動の時代の中、権謀術数を巡らせ朝廷権力を維持した。

78.二条天皇(1158~1165)

 崇徳の子差し置いて、皇子になったため、保元の乱が起きた。即位後は後白河院院政抵抗するも病気のため叶わなかった。

79.六条天皇(1165-68)

 自身への敵対勢力擁立されることを恐れた後白河院によって、わずか4年で譲位させられた。

80.高倉天皇(1168-80)

 清盛と後白河院対立に苦しめられ、譲位した。

81.安徳天皇(1180~1185)

 壇ノ浦の戦いで入水した。日本史上最も短命な天皇で、わずか7歳で崩御した。

82.後鳥羽天皇(1183~98)

 譲位後、土御門~仲恭の3代にも及ぶ院生を行う。承久の乱に敗れ隠岐に流された。

83.土御門天皇(1198〜1210

 父である後鳥院とは不和承久の乱にも加わらなかったが、自ら望んで土佐に流された。

84.順徳天皇(1210~1221)

 承久の乱に参加するために譲位し、佐渡に流された。

85.仲恭天皇(1221)

 父順徳が倒幕を企てたため、即位後78日間で廃位された。

86.後堀河天皇(1221~1232)

 わず10歳で即位したため、天皇になったことのない守貞親王後高倉院として異例の院政を行った。

87.四条天皇(1232~1242)

 滑石を用いたいたずらが原因で転倒し崩御した。

88.後嵯峨天皇(1242~1246)

 譲位後、2代にわたる院政を行った。死に際して、帝位継承者決定を幕府に委ねるとしたため、南北朝問題の原因となった。

89.後深草天皇(1246-1260)

 持明院統いわゆる北朝の祖。

90.亀山天皇(1260~74)

 大覚寺統いわゆる南朝の祖。父後嵯峨院に愛され、兄後深草院差し置いて子の後宇多天皇即位させたため、南北朝問題の原因となった。譲位後南禅院を建立

91.後宇多天皇(1274~1287)

 大覚寺統。在位中に元寇があった。譲位後、持明院統伏見天皇即位させるが、続いて持明院統後伏見天皇即位には反対したため、両統送立が始まった。院政を行うが、後醍醐天皇対立し、政治から身を引いた。好学の天皇として知られる

92.伏見天皇(1287-1298)

 玉葉和歌集勅撰させた。

93.後伏見天皇(1298~1301)

 譲位後、院生を行う。元弘の乱後、東国へ逃れるも捕らえられ出家した。

94.後二条天皇(1301~08)

 大覚寺統持明院統から2代続いて天皇が出たことに後宇多院が抗議したため、幕府の計らいで即位。両統送立が始まった。

95.花園天皇(1308~1318)

 大覚寺統教養人で風雅和歌集勅撰させた。

96.(南1)後醍醐天皇(1318~1339)

 鎌倉幕府打倒に貢献した後、建武新政を行う。足利尊氏に敗れ吉野に逃れ南北朝時代が始まる。

97.(南2)後村上天皇(1339〜1368)

 高師直に攻められ賀名生に逃れる。一度京都を奪還するもすぐに北朝に奪われた。その後も京都回復を狙い、各地を転戦するも果たせなかった。

98.(南3)長慶天皇(1368~1383)

 和歌を愛し、五十番歌合、五百番歌合などを催した。

99.(南4)後亀山天皇(1383~1392

 足利義満の誘いの応じて、南北朝和解を実現。しかし、義満の死後冷遇され、和平の条件であった両統送立も果たされなかった。

北1.光厳天皇(1331~1333)

 後醍醐天皇の失脚を受けて即位したが、鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐廃位光厳即位否定された。

北2.光明天皇(1336~1348)

 足利尊氏擁立により即位譲位後、観応の擾乱によって南朝に捕らえられるが後に解放された。

北3.崇光天皇(1348~1351)

 譲位後、観応の擾乱で捕らえられた。琵琶を愛した。

北4.後光厳天皇( 1352~1371)

 後村上天皇の一統が破れると、足利市擁護され即位した。南朝攻撃に遭い、美濃近江などに逃れたこともあった。

北5.後円融天皇(1371~1382)

 足利義満擁立されて即位譲位後、院政を行った

100.(北6)後小松天皇(382~1412)

 後亀山天皇から神器を受け、南北朝合一が成された。

2021-07-02

ラブライブ! スクスタで嫌なら読むなを実行した

https://anond.hatelabo.jp/20201105223148増田を書いた者だけど。

今後は評判が良ければ読むと言った通り、新章が出るたびにツイッター検索していたんだが、おおむね不評。

肯定意見も「20章を忘れれば悪くはない」程度で、じゃあわざわざ読むまでもないかスルーしてきた。

そうなるとモチ自体も落ちて、イベストも「メインみたいなゴミではないけど、冷静に考えると毒にも薬にもならない話ばっかだよな」となってイベントに参加しなくなったし、毎日劇場面白ければ5chでスレが立つし、ログイン自体ほぼせずに、キズナエピが追加されたら開く程度。

もちろん課金などするわけもない。

ただ25章の「ラブリーハルカ!」は好評だったので読んだら、確かに面白かった。

彼方ちゃんシスコン可愛い

鬼頭明里さんもよく話題にしてるし、離れた人もここだけは読むべき。

その後の三年生の和解もついでに読んだけど、μ'sみたいにファンと一緒に盛り上がるのも、A-RISEみたいに高度なパフォーマンスファンを魅了するのもそれぞれのやり方だろうに、前者が正しく後者は間違いみたいに書かれてて「?」となった。まあ前後を読んでないから、何か読み違えてるのかもしれん。

栞子回の27章も割とマシという評価だったし、栞子は好きなので一応読んだ。

うーん……普通

近江姉妹は相変わらず可愛いので、そこだけ読むのでも良かったかも。

というか栞子がランジュの悪行に抵抗しないのって、20章の頃は「学園側の強大な権力に逆らえないのでは?」とか色々言われてたけど、単に言っても無駄と思ったからってだけかよ。それで友達の苦境を見捨てるってクズじゃん。

ぶっちゃけ「栞子が本気で抵抗したら、そこで話が終わってしまう」というシナリオ上の都合でしかないし、そのために栞子がクズキャラにされたよね。やっぱり2ndシーズンのしお子はいなかった。あの子は歩夢に片想いしたりかすみんに騙されてればええんや

そして最新の28章で、ランジュが実質加入して一区切りとなったようだけれども。

早速「28章」で検索したら、20章並みに荒れていた。

うわ怖い。読まんとこ。

なので話の内容には何も言えないんだが、問題は今後のライブでランジュが出てきたときどうするかだよ。

20章のことも忘れたいので、「よく知らんキャラ」になってしまった。

声優さんは熱心なラブライブファンで好感が持てるので、ライブでは法元さんに向けてサイリウムを振ればいいのかもしれん。ご本人は不本意だろうけど……。

あとミアはねー。評判は悪くないし、唯一まともとか言われてるから普通に読めば好きになるかもしれないんだけど。

ミア一人のために地雷原に突っ込むのも嫌だし、こちらも声優さんはいい人だから、それを推すしかいかも。

アニメ2期で魅力的に描かれれば有り難いんだけど、それより既存キャラに尺を割いてほしい気持ちもあるな。

そもそもスパスタが面白かったら、こんな状態の虹ヶ咲には興味自体が薄くなっていくかもしれない。

何にせよ糞シナリオから距離を置くことで、無事にストレスを貯めずに済んだ。

ちゃんと読んで批判してる人は偉い。

2021-05-12

Butterfly近江彼方(鬼頭明里))いいね

入ってくる英語ワードが耳に心地いい

こういうちょくちょく耳をくすぐるように英語が入ってくる曲、過去に聞いたことがあるような気もするけど思い出せんな

ヒプノシスマイク…は流石に違うと思う

とにかくいい曲だった

2021-03-19

anond:20210319075345

「名乗り」だね、戦国時代だと武士のやつ

やあやあ~我こそは京で傷つき信濃国でも傷つきし出羽守××、近江では矢を受けながら此処へ参り候

2021-02-14

証拠隠滅歴史は変わる

大河ドラマきっかけにWikipediaを見ていて、室町時代足利幕府混沌ぶりと、その後始末をつけた戦国3英傑は日本を変えたと思った。本能寺の変は、その3英傑が生まれきっかけだが、主たる動機・要因が分からない。明らかな後継政権による証拠隠滅が感じられる。真相が知りたくて仕方ない。

何とかこの原因を解明しないと、なぜ「東京一極集中」が肯定されるか分からず、少子化による人口減少を食い止める手段はない。東京は、徳川家康街づくりの影響をまだ引きずっている。徳川家康関東に追いやったのは秀吉で、秀吉天下統一は、独裁織田信長とその家臣が築いた基盤があったから。本能寺の変がなければ、ずっと信長独裁政権が続いていたはず。

地方創生」を掲げる地方出身政治家は、政治が小さな単位だった織田信長以前に戻すのか、大きな国を維持しつつ、大阪京都滋賀近江安土)・名古屋尾張)・岐阜美濃)のいずれかに遷都するか、諦めて関東首都圏)・関西圏中京圏日本の全人口を集中させるか、どれがビジョンを示すべき。日本が一応統一され「大きな国」となったのは天正年間で、その時から残る天皇家元号は何としても守らなければならない。

今後、確実に地震被害が発生するであろう関東にこだわり続けると経済的に終わるし、少子化改善しないと天皇家も終わるし、新型コロナを機に(たとえなかったとしても)、急激な人口減少によって日本人は消えゆく。滅びの美学からいいのか。今こそ戦国時代の天下統一の影響下から抜ける機会。地方自治を目指すなら道州制(広域エリア制)に切り替え、目指さないなら完全にルール・条件は全国統一して欲しい。現時点で、Uber Eats未導入で、今後2年間に拡大予定のないエリアは、もう人が住むべき街ではない。地方観光産業だけ残して解体してもいいでしょう。ただし、歴史のある神社仏閣・城その他の名所は残さなければならない。

2021-01-27

anond:20210126092411

佐藤大輔信長新記」簡易年表

1582年夏 本能寺の変信長親子脱出成功山崎合戦で光秀滅亡。

1582年末 織田信忠羽柴秀吉による四国制圧

1583年夏 信忠秀吉による九州攻め開始。信長による小田原城砲撃で後北条家滅亡。柴田勝家小田原からの帰路で謀反。

1583年秋 第一関ヶ原合戦。勝家勢が信長を追い詰める間際、勝家勢後方に下品金成瓢箪が現れ勝家勢崩壊お市に会いたく無い勝家が安土城自刃

1584年夏 「三州騒乱」勃発。伊達上杉を巻き込んだ徳川家康による信長への叛逆。岐阜城攻防戦で家康勢遅滞。

1584年秋 秀吉による近江口への誘引で「第二次関ヶ原合戦」発生。

 

1585年頃 信長により天下統一完了日本皇国成立。海外進出が本格化、大陸方面では無く東南アジア北海道方面へ。

1587年頃 スペイン帝国主力の欧州連合による東洋派遣艦隊撃破印度以東の欧州権益取得。信長南海覇公と呼ばれる。

1620年頃 新大陸で新出雲新界成立。その後スペイン帝国領ヌエバエスパーニャ副王領併合日本皇国大和州となる。

 

1762年 日本皇国大和派遣軍が大和民国軍に新出雲の戦いで敗れる。これにより大和民国独立が確定。

 

1813年 プロイセン陸軍参謀本部九州攻めを参考にした「ライヘンバッハプラン」でナポレオンの内線作戦崩壊寸前にまで追い込む。

1814年 ウィーン会議ナポレオンは失脚せずフランス帝国も存続。

1848年 大和民国武力恫喝によってヴァージニア割譲される。欧州新大陸領土消失

1898年 大西戦争によって大和民国スペインからキューバをはじめとするカリブ海領土を得る。

 

1910年頃 第1次世界大戦。詳細不明

1930年頃 第2次世界大戦。詳細不明

 

1937年 「満州戦争」勃発。中華連合共和国中華民国満州へ侵攻開始。日本皇国中華民国との同盟により渋々介入。

1938年 大韓帝国日本皇国宣戦布告大英帝国艦隊大和民国キューバを奇襲攻撃し「大西戦争」勃発。

1939年 中華民国中華連合共和国降伏林彪上級大将率いる中華沿海州装甲軍日本皇国沿海州で攻勢に出る

1940年 日本皇国大和民国を中心とする「大東洋同盟」が成立。

1941年 大韓帝国日本皇国と休戦。中華連合共和国宣戦布告

1942年 中華連合共和国大英帝国が大東洋同盟降伏大西戦争終結

1948年 大和民国英国安全保障条約を締結。

 

1990年頃 大ロシア連合崩壊フランス帝国経済自由化経済発展が進行中。

2021-01-26

anond:20210126012231

皆さん騙されてはいけません。

私も西軍が勝った世界線に住んでいますが、元記事歴史修正主義者が書いた悪質なプロバガン増田です。

順を追って訂正していきます


その後関東には何人か大名が移り住んだが誰も定着せず荒れ野のまま。

関東なんて今もほとんど人が住んでいないド田舎の話は誰も興味がないと思うので話を元に戻す


後述しますが、冒頭から近世日本の歴史観の中で最も悪質なミスリードです。

大名は「定着せず」ではなく「定着させなかった」が正確ですし、「関東なんて今もほとんど人が住んでいないド田舎」は極めて恣意的表現になります


戦争が起こらず、外国との交易も進み商業が発展していったので時代遅れ武士は次第に消えていった。その代わりに交易利益を上げた大名が豊臣を中心に貴族化していく。


この部分はある意味で正しいですが、重要事実が省かれています。確かに日本列島内での大名間の大きな争いは起きませんでしたが、関ヶ原後の豊臣氏はかつて秀吉が行った朝鮮出兵を再開したのです。

石田三成が中心になって行われたこ出兵、いわゆる「元和の唐入り」は簡単に言ってしまえば外敵を作ることによる諸大名の結束を図るものでしたが、結果として成功を収めてしまます

朝鮮半島支配下に置いた豊臣政権は、万暦の三大征で国力を失っていた明との間に戦わずして講和条約を結びます。その後朝鮮半島現在に至るまで日本領地となっており、そのため元和の唐入り対外戦争ではないという風潮(沖縄北海道みたいな扱い)が強いのは事実ですが、現代人に都合のいい歴史観ではないかという議論存在します。

こうしてアジア大陸進出した日本が当時の国際貿易において強い存在感を発揮し商業により発展していくのも事実ですが、ここでも重要な部分の言及が省かれていますキリシタン大名南蛮豪商存在です。

当初は秀吉バテレン追放令を引き継ぐ動きを見せていた豊臣政権ですが、交易重要性が増すにつれてキリスト教宣教師活動制限することに無理が生じていきます。またこの頃、日本での貿易事業で一旗揚げようとポルトガルスペインから移住してきた事業家、いわゆる南蛮豪商が急増したことキリスト教信仰の活発化につながっていきます

政権はなし崩し的にキリスト教を認めていくことになりますが、そうした流れで力を付けていくのがキリシタン大名です。彼らは表立って政権や4大大名権力争いをすることはありませんでしたが、着実に海外とのコネクションを強めていき、国内キリスト教勢力の強固な後ろ盾となります


武士がいなくなっていくにつれて神道儒教は消えていった。後述のように、近隣のアジア諸国でも儒教は消えていった。今でも神社の残骸のようなものは残っているが参拝する人は誰もいない


冒頭の部分にも関係して、ここも悪質なミスリードです。たしか武士消滅神道儒教の衰退は同時期に発生しましたが、そもそもこの2つ事柄に直接の因果関係はありません。

しかしこれらが同時に発生したのには明確な同一の原因があります。それが前述したキリシタン勢力の台頭なのです。

政権貿易政策キリスト教容認に対して、元よりキリスト教対立していた朝廷はもちろん、元東軍を中心とする従来の武家社会に重きを置く大名勢力は当然反感を高めていました。これは感情的な部分だけではなく、元西軍派が中心となった貿易事業利益享受できなかったという側面もあります

そんな中、細川家、井伊家を中心として天皇を旗印に政権を打倒しようとする動きが見られるようになり、寛文になる頃には挙兵寸前まで緊張感が高まっていたと言われますしかし、そのタイミングで寛文近江若狭地震が発生し、天皇の住む京都も大きく被害を受け、挙兵どころではなくなってしまます

それに対してすかさず政権が取った対応は、表向き地震被害から避難理由にした江戸への遷都(寛文の遷都)でした。遷都といっても移ったのは天皇住まい形式上朝廷機能だけで、政権機能大阪を中心とした関西圏に残ったまま…つまり政権は目の上の単瘤だった朝廷を体よく遠ざけた形になります。元東軍はこれに乗じて江戸に集結・再度の挙兵を試みますが、キリシタン大名による牽制南蛮豪商による経済的妨害もあり叶うことはありませんでした。この頃から旧来の武家勢力神道信仰は急激に衰退していくことになります

ではこれで豊臣政権キリシタン勢力の共同支配は盤石のものになったかといえばそういうわけでもありません。形式上の都である江戸やその近辺の関東では都野伏(みやこのぶせり)、隠れ神道といった形で反南蛮勢力が生き残りつづけます。そして18世紀入ってしばらくした頃、天皇不可侵元首とする「大和帝国」として独立を果たします。その後も色々ありましたが、現代において大和帝国はの国際社会にも認められた独立国家となっています。そういう背景がありますので、現代日本領土として残っている関東地方には「ほとんど人が住んでいないド田舎」という表現が当てはまりますが、関ヶ原当時の関東地方の大部分は現代においては大和帝国領土となりますので、そこを隠すのは悪質で不誠実な表現であると言わざるを得ません。

他にも訂正が必要な部分はありますが、長くなってしまったので今回はこの辺にしておきます

東軍世界線みなさんは西日本人の悪質なプロバガンダには騙されないように気をつけてください。

2021-01-03

信長は筆マメだった

信長というと、短気で気分しだいで人を殺していたとか思われがちだが、

しろ逆で、すべて緻密な計算政治を行っていた。

20年来の宿老の佐久間信盛を解任する際も、暴君なら理由もなしに追い払ってしまものだが、

信長は以下の長文をわざわざ直筆で書いている。

信長による19ヶ条の折檻状(現代語訳)

一、佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。

一、信盛らの気持ち推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、相手坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考え、戦いを挑まなかったのであろうか。武者の道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである

一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。

一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。

一、戦いで期待通りの働きができないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらないのは怠慢で、けしかぬこである

一、信盛の与力保田知宗の書状には「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、信盛親子も連判している。今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか

一、信盛は家中於いて特別待遇を受けている。三河尾張近江大和河内和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。これに自身配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。

一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、それどころか水野の旧臣を追放してしまった。それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、収益を金銀に換えているということである言語道断である

一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。これも先の刈谷と件と思い合わされる事である

一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ。これは唐・高麗南蛮の国でも有名なことだ。

一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)、戦機の見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、結局自分正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った。これによって信長は面目を失った。その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である

一、甚九郎(信栄)の罪状を書き並べればきりがない。

一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。その上、物事をいい加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になったのである

一、与力ばかり使っている。他者から攻撃に備える際、与力に軍役を勤めさせ、自身で家臣を召抱えず。領地無駄にし、卑怯な事をしている。

一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。

一、信長の代になって30年間奉公してきた間、「信盛の活躍は比類なし」と言われるような働きは一度もない。

一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。

一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。

一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。

右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。

また、秀吉浮気したときに、奥さんの禰禰にこのような手紙も送っている。

私の命に従い、この度、この地(安土城)にはじめて尋ねてくれて嬉しく思う。

その上、土産の数々も美しく見事で、筆ではとても表現できない程だ。

そのお返しに、私の方からも「何をやろう」かと思ったが、そなたの土産があまりに見事で、何を返せば良いのか思い付かなかったので、この度はやめて、そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。

そなたの美貌も、いつぞやに会った時よりも、十の物が二十になるほど美しくなっている。

藤吉郎(秀吉)が、何か不足を申しているとのことだが言語同断けしかぬことだ。

どこを探しても、そなたほどの女性を二度とあの禿ねずみは見付けることができないだろう。

これより先は、身の持ち方を陽快にして、奥方らしく堂々と、やきもちなどは妬かないように。

ただし、女房の役目として、言いたいことがある時はすべて言うのではなく、ある程度に留めて言うとよい。

この手紙は、羽柴(秀吉)にも見せること。

又々 かしく藤吉郎 女ども

のぶ

2020-12-10

anond:20201209120751

"淡水の海(淡海(あはうみ))"→あふみ→近江 と変化しているので、別に琵琶湖を「海」と呼んでいてもそれは本来の(塩水の)「海」とは別のもの、という認識ちゃんとあったものと思われる。

2020-11-29

anond:20201128003912

世は平安。

から近い琵琶湖は「近江(おうみ)」と、京から遠い浜名湖は「遠江(とうとうみ)」と呼ばれた。

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の句でも知られる藤原家が全国各地に血を分けていった名残りとして、

琵琶湖周辺の親族は「近藤」を、浜名湖周辺の親族は「遠藤」の姓を名乗ることとなる。

いまも滋賀県静岡県に残っている名字の偏りは、この京都中央主義によって生まれたのだ。

2020-10-18

[]

陶都創造館に行ってまいりましたわ。

六角形の戦国武将家紋をあしらったタイルが売っていたのですけれど

六角氏の家紋はありませんでしたわ

六角タイルなのに六角氏の家紋はありませんでしたわ!

近江は隣の国ですのに

これですわね

https://tajimi-pr.jp/topics/sengoku-kamon-tile

真田幸村は入れておきながら・・・くっ!

ギャラリーヴォイス社長コレクションを見てきました

生物の要素を取り入れたと感じる作品が目に付きましたわ

酒井博司様の棘を抜いたウニみたいな志野作品、作るのに膨大な集中力が要りそうでしたの

2020-08-12

anond:20200811170757

西(南)側勝利

神武東征(日向挙兵して大和征服する)

壬申の乱吉野挙兵して近江朝廷を倒す)

元弘の乱山城大和河内などで挙兵して鎌倉幕府を倒す)

山崎の戦い備中から駆け戻って天王山明智光秀を倒す)

賤ヶ岳の戦い(京から出兵して越前から出てきた柴田勝家を倒す)

戊辰戦争薩長挙兵して江戸幕府を倒す)

東(北)側勝利

・治承寿永の乱(伊豆挙兵して京の平氏を倒す)

承久の乱鎌倉から出兵して京の上皇を倒す)

関ヶ原の戦い会津征伐から反転して大坂西軍関ヶ原で破る)

大坂の陣(江戸から出兵して大坂城を落とす)

それ以外(挙兵場所勝敗曖昧

建武の乱(鎌倉挙兵したが一旦敗れて九州で再起)

応仁の乱(ぐだぐだのまま和睦して決着つかず)

小牧長久手の戦い(戦術レベルでは東、戦略レベルでは西が勝利

こんなところじゃねえの。

少なくとも一方的東側が勝ってるとは言い難いわな。

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