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2022-06-27

anond:20220627133848

今回のは切腹までいくかは微妙ラインだと思う。

たぶん遠島・流罪とかじゃないかな。

尼崎藩 → 普請業者ユニシス家に発注

ユニシス家 → 二次受け家 → 三次請け分家

って構造だけど、

尼崎藩が寛大な処置をしたとしても、

ユニシス家と二次受け家の判断で、分家武士自主的切腹させる、

というのはありえる。

2021-10-17

創価二世が語る糞みたいな話

1.創価学会系とは

創価学会日蓮正宗という仏教宗派の教えを受けた団体だった。

しかし後に関係性にひびが入り最終的に袂を分かつことになった。

顕正会という組織も同様。

なお創価学会顕正会共に日蓮正宗から破門されたという事になっている。

それは日蓮正宗の教えを正しく守らなかったからと言われている。

創価学会名誉会長池田大作氏と日蓮正宗総本山大石寺日顕氏が対立したことが原因とも

言われている。

  

2.日蓮正宗日蓮宗関係

日蓮正宗自体は、日蓮弟子日興という人が日蓮の教えを受け継いで開祖した。

(創価学会系では日興上人と呼んでいる)

一方日蓮宗とは、日興以外の弟子5人が開祖となっている。

この日蓮弟子たちは日蓮六老僧と言われたが、日興以外の5人は日蓮の教えを

正しく守らなかった、日蓮の教えを捻じ曲げたとして

関係性にひびが入り最終的に袂を分かつことになった。

これが数百年前の事件

創価学会及び日蓮正宗では、日興以外の老僧たちは教えを守らなかったとして謗法である

としている。

そのため日蓮六老僧ではなく日興を除外した上で日蓮文字を頭から外し五老僧と読んでいる。

  

3.日蓮宗

どんな教えを守らなかったと言うと例えば日蓮神仏習合は間違いだとして

鳥居をくぐらない」というようなことをしていた。

しか日蓮宗はそれでは柔軟に対応が出来ないとか時代の流れと反目するとしてそのような

教えは撤廃した。

また、日蓮思想自体危惧した一部の権力者から弾圧されたとき自分たち日蓮弟子

ではなく天台宗などと嘘をついたことなどで日興から批判を浴びたとされている。

なおこれを五老僧たちは、弟子たちを守るために行ったとされるが真偽は定かではない。

  

4.そもそも日蓮って何なの

元は天台宗勉強をしていたが、後に釈迦の最高の教えは法華経、すなわち妙法蓮華経という経典

が最も素晴らしくこれこそが全ての仏教原典(原点)のだとして天台宗から離れて行った。

創価学会系の人が言う「南無妙法蓮華経」とは「妙法蓮華経」の教えに「帰依しますという意味になる。

そして妙法蓮華経という釈迦の最高の教えがあるのだから今こそ仏教は原点に戻るべきという

考えで他の宗教方針は間違っていると指摘した。

これが元になって佐渡流罪されるなどのいわゆる法難というものにあっている。

が、法難にはあったものの生き長らえたことで法華経の教えこそが正しいものであると一層主張するようになった。

  

5.妙法蓮華経って何なの

仏教開祖である釈迦の教えをその弟子たちが編纂した経典。つまり最も古い歴史を持った仏教経典

釈迦の教えとは釈迦悟りを開いたことで幸福境涯に達したこと他者にも分け与えることを目的としている。

これらの釈迦の教えは時代とともに変化していったことで、今日仏教は様々な宗派が分かれている。

なお創価学会では法華経二十八本のうち、方便品第二(ほうべんぼんだいに)と如来寿量品第十六(にょらいじゅりょうぼんだいじゅうろく)

特に素晴らしい物であるとして、朝と夕に題目と合わせて唱えている。

  

6.釈迦って何なの

インドにあったとされる釈迦族の王子本名ゴータマ・シッダールタ

出家して数々の過酷修行をした後に最終的に菩提樹の下で瞑想をして悟りを開いた。

この悟りとはあらゆる苦しみを克服し、あらゆる煩悩を消し去った最高の境地とされている。

しかしこの悟りについて他人に教えることはかなり難解であることから当初は躊躇したが

最終的には自分の教えで悟りを開く手助けになるのならと教えを広めた。

  

7.なんで池田大作日顕対立したの?

創価学会側の主張は日顕氏が池田大作氏に嫉妬して破門たから。

日蓮正宗側の主張は池田大作が教えを背いたからとしている。

なお、一番対立があったのは、かつて大石寺という寺にあった、総本堂という物を

日顕氏が壊したからとしている。

この建物創価学会信者からお布施数百億円かけて作った物だったが

それを数十億円かけて解体したという日顕氏は謎の行動を起こした。

維持費がとんでもないものだったので解体したとも言われているが真偽は定かではない。

  

8.創価学会公明党って何なの

創価学会広宣流布という日蓮の教えを広めるためには政治への参加が不可欠として立ち上げた政党

しか政教分離という観点から創価学会のものがあってはならないという事を指摘されたために

現在創価学会支持母体となって公明党があると言った状態になっている。

  

9.創価学会って何をしている組織なの

日蓮の教えを守り、世界中広宣流布して世界平和を目指している。

創価学会SGIというのは創価学会インターナショナルであり、国際的組織となっている。

数々の国に支援を行っており、それはグラフSGIという書籍から知る事ができる。

関連した物に大白蓮華という書籍やら人間革命といった書籍販売している。

また、聖教新聞社創価学会の教えを広める会社であるし。公明新聞というのは公明党新聞である

   

10.でもなんかカルト認定されてるよね?

一部の過激信者やらかしているというのは真実であり創価学会側も認識している。

また池田大作自身自分の事を神格化するなと言っている。

しかし、創価学会は3代目までの会長、つまり初代牧口常三郎、二代目戸田城聖、三代目池田大作

までを特に崇めているような部分があるためこれはやはりよくない傾向である

かつて池田大作氏は折伏大行進なることを行い、行列となって沢山の家に大して創価学会に入るように

説得をしまくったということがあった。これが大きな反響というか問題を大きく引き起こしたのも事実である

だがこのような行為したこと信者が増大したというのもある。

  

11.お前はなんでそんなこと知ってるの?

俺は創価二世で散々辛い思いをさせられたから。

教学試験かい創価学会試験があってその試験を受けさせられて合格した。

更に牙城会だとかい創価学会警備員的な組織に親父に強制的に入れと言われた。

子供の頃から座談会だとか新年勤行会だとかに連れていかれた。

御書(日蓮が残した書物)を拝読させられ、題目毎日あげさせられて、

神社には成人するまでは言った事が無く、お祭り行事なども行けず散々苦しんだ。

当然クリスマスは無し。少年部とか男子部とかのイベントにも強制参加だった。

  

12.創価学会ってなんかしてくれるの?

別に何もしてくれない。

金は貰えない。でも本部組織と言う人たちは本部勤めってことで給料を貰っている。

本部に入ればお金が貰えるなら俺も本部勤めになりたいと思うくらいには本部仕事って

まり大変そうには思えなかった。

もし俺が本部勤めとかいうので毎月50万円くらい貰えてたら今も信者をやっていただろう。

  

13.最後

俺は親から下記の事を散々言われ、しか暴力まで振るわれた

・お前が唱題をあげないか病気になるんだ!

・お前の頭が悪いのはきちんと御本尊の前で祈らないからだ!

・お前がきちんと御書人間革命を読まないから成長しないんだ!

こういう過激信者がいるというのは本当の事であって、俺はだから創価学会は嫌いだ。

「ほしのゆうえんち」とかい池田大作氏の絵本原作アニメを見せられたり

そもそも池田大作氏の絵本だとかなんだとかそんなものを読ませられたりしてきた。

ふしぎなパコちゃんとかハッスルパンチかい漫画も読ませられた。

さらに竜女の成仏・貧女の一灯という仏教系の漫画も読ませられた。

当人生でストレスを溜め込んだが、親から開放されて面倒な勤行だとかしきたりとか

やらなくなってから自由に何でもできて最高の気分だ。

宗教なんてやるもんじゃない。俺はそう思う。

  

anond:20210621141321

2021-10-09

後醍醐天皇ってテロリストだよな?

後醍醐天皇って倒幕を企んで流罪にされてるし、

その後も楠木正成とか足利尊氏とか各地の武士煽動し、

挙句の果てに挙兵してるんだからどう見てもテロリストだよな

anond:20211009161345

2021-07-08

anond:20210708135922

流罪にあったり雷が落ちて助かったりとかエピソードはそこそこある

が、弟子の育成には失敗していたようで

5人の弟子のうちの1人である日興日蓮正宗を立ち上げて

他の4人の弟子日蓮宗を立ち上げる

こんな早くから分裂したとかアホ過ぎる

2021-06-06

anond:20210602112719

反乱を起こした(元)犯罪者だし、流罪最中には現地妻作ったり人間的にはカスだよな

2021-05-01

anond:20210501214451

それが本当なら島流し流罪)とかしてみたいけど野垂れ死ぬんだろうなぁ

やっぱり罰ばっかりではなくなんらかの保護は受けて育ってきたんだろうよ

2021-03-03

ちゅうる

中流

律令制の「三流」の一つ。中程度の重さの流罪

2021-01-31

[]配所

流罪(るざい)によって流された場所

下のブログでは「気を配る」という意味での使い方をサれてたから、ほえーそういう言葉があったのかと思ってぐぐったら全然違った

http://schizophonic9.com/re7/artifact.html

2020-07-09

anond:20200709162702

そういや天皇流罪にされたりしてたな。

平将門自分が新しい天皇になろうとして一瞬で消えたんだっけ。

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士あいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

 
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