はてなキーワード: イヴとは
AIがどんなにうまい曲を作ろうとステージに立って演奏して客が熱狂して……という空間に存在するのは人間で そこで金が動く
同じ曲を何度も演奏して集客したり収益につながるのが 一枚絵を時間をかけて完成に持っていって発表する絵との違いな気がする
絵描きでもライブペインティングとか黒板に絵を描くとかというのはあるけどメインストリームではないと思うし求められるのは体験より成果物のように思う
リミックスだったりヴェイパーウェイヴだったりカバーだったりコピーだったり歌ってみただったりの文化もあるし
初音ミクが市民権を得てるのも人間じゃないものが歌うことへの受容というか AIを受け入れやすい土壌なんじゃないだろうか
基本的に肉声は唯一無二(そっくりさんとかもいるけど)というのもあるかも
そこを勝手に学習されるともうディープフェイクの問題になってくると思うのでその辺どうなんだろう
とはいえいくら学習されてもライブで客の前で歌うことができるというのがやっぱり強いというか
絵よりも属人性がわかりやすいのかな……絵だって唯一ではあるんだけど成果物だけで勝負だと絵柄学習されたら簡単に代替されてしまう
漫画になるとまた変わってくる感じはする
曲目
Google翻訳のアプリを利用して画像から文字を取得したため、曲名、歌手名が正しく表記されていない場合があります。
蒼い星くず 加山 雄三
青葉城恋唄 さとう 宗幸
アケミという名で十八で 千 昌夫
あざみの歌 伊藤 久男
あじさいの雨 渡 哲也
あの鐘を鳴らすのはあなた 286 和田 アキ子
雨 1256 三善 英史
雨の御堂筋 欧陽 菲菲
逢わずに愛して 内山田洋とクール・ファイブ 13
22 小柳ルミ子 漁火恋唄
射手座の女 敏いとうとハッピー&ブルー 232 愛しき日々 堀内孝雄 40
命の花 大月みやこ 383
祝い酒 坂本冬美 26
455 門脇 陸男 祝い船
ザ・ピーナッツ ウナ・セラ・ディ東京 355
松原のぶえ 461 男なら
おもいで酒 小林幸子 195
想い出の渚 ザ・ワイルド・ワンズ 199
お嫁においで 加山雄三
松原のぶえ 305 おんなの出船
悲しい色やね 34 上田正樹
がまん坂 18 北島三郎
北の漁場 41 北島三郎
京都の恋 196 渚 ゆう子
くちなしの花 462 渡哲也
圭子の夢は夜ひらく
369 藤圭子 恋あざみ
高山厳 152 心凍らせて
343 森山良子 この広い野原いっぱい
伊東ゆかり 197 小指の思い出
酒よ 36 ジジサン
さざんかの宿 大川栄策 88
サチコ ニック・ニューサー 481
里がえり 嶋三喜夫 1278
435 河島英五
田端義夫 483 十九の春
大橋 純子 155 シルエット・ロマンス
ジジサン 90 酔った歌
杉良太郎 47 すきま風
60 谷村新司 1 森田公一とトップギャラン 若者 小林幸子 1280 雪泣夜(せつないよ) 小柳ルミ子 48 瀬戸の花嫁 森進一 1281 セビアの雨 ジローズ 7 「戦争を知らない子供たち 平和勝次とダークホース 360 宗右衛門町ブルース 北海道民謡 1561年 ソーラン節 内山田洋とクール・ファイブ 2 そして、神戸 49 五木ひろし そして・・・めぐり逢い 布施明 50 そっとおやすみ にしきのあきら 187 空に太陽がある限り 増位山太志郎 283 そんな女のひとりごと 増位山太志郎 157 「そんな夕子にほれました 上田正樹 301 たかこ 真木 柚布子 1282 黄昏のルンバ
トワ・エ・モア 480 誰もいない海
三船和子 198 だんな様
五木ひろし 442 契り
敵は幾万 1570年 軍歌
時の流れに身をまかせ テレサ・テン 63
和田アキ子 160 どしゃぶりの雨のなかで
内山田洋とクール・ファイブ 191 長崎は今日も雨だった
ザ・タイガース 164 花の首飾り
165 はしだのりひことクライマックス 花嫁
167 佳山 明生 氷の雨
釜山港へ帰れ 67 渥美次郎
ブルー・シャトウ 169 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
箱崎晋一郎 抱擁 142
北海道民謡 北帰行 365
骨まで愛して 大泉逸郎 96 孫
75 北島三郎 まつり
坂本九 83 見上げてごらん夜の星を
伍代夏子 441 水なし川
渡哲也 51 みちづれ
シャオ・リンシュウ 419 昔の名前で出ています
香西かおり 260 静けさ
藤あや子 377 むらさき雨情
やっぱすきやねん やしきたかじん 84
山 北島三郎 378
雪の進軍 1575 軍歌
夢追い酒 76 渥美次郎
夢の夜 181 南こうせつ
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第8巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第8巻 下」
「地球の歩き方 E03 イスタンブールとトルコの大地 2019-2020 【分冊】 1 イスタンブールとその近郊」
「A20 地球の歩き方 スペイン 2024~2025 (地球の歩き方A ヨーロッパ) 」
宮下遼『物語 イスタンブールの歴史-「世界帝都」の1600年』★★★
先月たくさん行ったしこれでOK。
満州国については通史でしか知らなかったので、こうして改めて本で読み返すと得るものが多い。
釘貫亨『日本語の発音はどう変わってきたか 「てふてふ」から「ちょうちょう」へ、音声史の旅』
今井宏平「トルコ現代史 オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで」★★
維羽裕介、北國ばらっど、宮本深礼、吉上 亮「岸辺露伴は叫ばない」
Jam「続 多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。 孤独も悪くない編」
田澤 耕「物語 カタルーニャの歴史 増補版-知られざる地中海帝国の興亡」★
今井むつみ、秋田喜美「言語の本質: ことばはどう生まれ、進化したか」
安藤 寿康 『能力はどのように遺伝するのか 「生まれつき」と「努力」のあいだ』
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第9巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第9巻 下」
旅先の歴史についての本や、旅先でも読めるくらいの軽さの本を読んでいる。岸部露伴は地中海を飛び越える飛行機の中で楽しんだ。
言語学の本を少し含んでいる。
なお、イスタンブールのドルマバフチェ宮殿には美術館が併設されており、そこにも行ったのだが流し見だった。今回の旅行のテーマは絵画ではなく建築だったからだし、軍事博物館のイェニチェリの演奏を聞きたかったからだ。
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 10巻 上」
ジャン=アンリ・ファーブル「完訳 ファーブル昆虫記 第10巻 下」★★★
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行 第S4話 露出狂時代」
飯村周平『HSPの心理学: 科学的根拠から理解する「繊細さ」と「生きづらさ」』
きい著、ゆうきゆう監修「しんどい心にさようなら 生きやすくなる55の考え方」。
堀晃 他「Genesis されど星は流れる 創元日本SFアンソロジー」
小川一水 他「Genesis 時間飼ってみた 創元日本SFアンソロジー」
「トルコ共和国建国100周年記念 山田寅次郎展 茶人、トルコと日本をつなぐ」
柞刈湯葉も柴田勝家も一度読んでから「しばらくは読まなくていいかな」と思ってしばらくしてから読みだした。柞刈湯葉は表題作が普段のクールというか知的なアイディアを軽やかに扱う感じではなく、意外な側面に驚かされた。柴田勝家はVtuber文化と死後のアーカイブを肯定的に表現していたのが大変面白い。
ブアレム・サンサルはもう何年も前にWIERD誌が紹介していたので読書メモに載せていたので読んだ。数歩遅れて読むことなどよくあることだ。僕は最先端を追うことにそこまで興味がない。
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集1 星ねずみ」
柴田勝家「ヒト夜の永い夢」
フランチェスコ・ヴァルソ (著), フランチェスカ・T・バルビニ (編集)「ギリシャSF傑作選 ノヴァ・ヘラス」
高水裕一「時間は逆戻りするのか 宇宙から量子まで、可能性のすべて」
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集2 すべての善きベムが」
トーマス・S・マラニー「チャイニーズ・タイプライター 漢字と技術の近代史」★★
SFが多くを占めた。面白いが徐々に飽きてくる。新人賞の作品は読んでいるそのときは面白いんだけど、新しい思考の枠組みや発想に触れて、それが後まで自分に影響を与え続ける作品ってのは少ないのかも。
逆に星新一の源流の一つ、フレドリック・ブラウンなんかは、古びたアイディアと今でも色褪せないアイディアの両方がある。
タイプライターの歴史も面白く感じられた。あとは、純文学が少し恋しい。
他に読みたいのは歴史の本かなあ。それか、第二次世界大戦を舞台とした小説か。「火垂るの墓」とか「野火」とかいい加減に読まないとと思っている。
池田利夫訳・注「堤中納言物語 (笠間文庫―原文&現代語訳シリーズ) 」
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集3 最後の火星人」
成美堂出版編集部「いちばんわかりやすい 家事のきほん大事典」
池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 第10巻「能・狂言/説経節/曾根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵」★
フレドリック・ブラウン「フレドリック・ブラウンSF短編全集4 最初のタイムマシン」
木村光彦「日本統治下の朝鮮 - 統計と実証研究は何を語るか」☆
エリック・H・クライン「B.C. 1177 古代グローバル文明の崩壊」☆
日本語の活字についてや、日本の植民地政策について読み始めたのは、先月の中国語タイプライターの本に、日本製の中国語タイプライターについての記述があったためだ。
楊海英「日本陸軍とモンゴル 興安軍官学校の知られざる戦い」☆
小倉孝保「中世ラテン語の辞書を編む 100年かけてやる仕事」★★
宗美玄(ソン・ミヒョン)「女医が教える 本当に気持ちのいいセックス」★★★
木村泰司「人騒がせな名画たち」
なし
読んだのは全体的に近現代史が多い。
第二次世界大戦についての本は通史を何度か読んだが、テーマごとに読むとまた面白い。歴史は技術史とか思想史とか文学史とかの別の軸で見直さないと立体的に見えてこない。とはいえ、少しは立体的に見えたとしても、知らないことが無数にあり、出来事すべてを頭の中に残しておくのは難しい。歴史は誰と誰が知り合いかとか、活躍した時代以降にどう生きたかがわかってくると更に面白くなるんだろうが、あいにくそこまで行っていない。
12月は当たりが多く、上位3冊を選ぶのに悩んだ。ほぼすべてがオススメ。
来年からは方針を変えて、すべての本を★1つから5つまでの段階で評価してもいいかもしれない。
一年を通してみると、「昆虫記」のウェイトが大きく、それから第二次世界大戦の本を多く読んでいる。それに並んで平安時代、江戸時代などを扱った新書が多い。外国の歴史の本は少ないが、旅先のイスタンブールとバルセロナの歴史を扱った本が印象深い。
SFの新人賞を数年分まとめて追いかけるのが習慣なのだが、もう少し純文学を読みたい。学生は岩波や新潮の古典ばかり読んでいたのにどうしてだろう。
人権関係で読みたい本が多数ある。とはいえ、悲しい気持ちになるので元気のある時にしか読めないし、いつ元気になるかは予測ができない。
ここ最近は美術展に行っていないなと思いきや、振り返るとほぼ毎週行っている月があったので、まとめてみるのは大事だ。秋以降は少なかったが、これは理由がわかっている。
以上。
NON-EDIT TALK : MY LITTLE LOVER featuring AKKO*華原朋美
華原:
こんばんは、華原朋美です。今日は7月り2日です。うーん? そろそろ夏ですかね。7月って言えば……、そうですね、夏ですかね、やっぱり、これから先は。今日の私の格好を見ても夏っていう感じなんですけども、みなさんはいかがですか? 今日のゲストは、私、すっごいドキドキしてます。MY LITTLE LOVERのAKKOさんです。よろしくお願いします。
AKKO:
華原:
いやぁ。
AKKO:
華原:
AKKO:
いや、なんか夏にはぴったりかなって。
華原:
AKKO:
朋ちゃんも真似したんですか?
華原:
AKKO:
好きですか?
華原:
AKKO:
いい感じ?
華原:
いい感じです。
AKKO:
華原:
ああ、やっぱり女性ですね。なんか、女ですね。
AKKO:
そうですか? いやいや、朋ちゃんもね。
華原:
いちおう、女を装って。あの、今日は、いろいろ聞きたいことがたくさんあるんだけど、歌を歌うのにつながる今までの人生ってあるじゃないですか。
AKKO:
うんうん、うん。
華原:
でも、いろいろなスタッフの人から話を聞くと、情報を集めたんですよ。昔は音大に通ったり。
AKKO:
華原:
これは私もそう思ったんですけど、バレエを。
AKKO:
うん。ちょこっとね、バレエは。
華原:
そうですか。
AKKO:
朋ちゃんはやってたんですか?
華原:
やってたんですけどね。
AKKO:
私ね、新体操やってたんですよ。
華原:
新体操って、これ?
AKKO:
そうそう、リボンとかボールとかなんだけど。だから、新体操の基礎ってバレエだから、それでちょっとね、やってました。
華原:
リボンやりながら歌いました?
AKKO:
歌わないよ。
華原:
AKKO:
あ、本当に。
華原:
うん。あの、平均台、10cmぐらいしかないんですけど、そこの上で転回やったりとかしてたんですけど。
AKKO:
危ないですよね。
華原:
危ないですよ。
AKKO:
怖いですよね。
華原:
落ちちゃった時とか、もうどうしょうもないほど痛かったんですけど。
AKKO:
なんかね、歌ったり踊ったりがとにかく好きで、ずっと。ちっちゃい頃から。だから新体操、まあ踊り、とにかく一回ハマって。まあ、それを終えて、「今度は歌か」と思って。音楽大学行って、声楽とか勉強して今に至るんですけどね。
華原:
やっぱり、音楽っていうものに関しては、自分は生まれつきすごく「それしかない!」って思ってたところってありますか?
AKKO:
いや、「それしかない!」っつうよりも、本当にただただ好き。好きでたまらない、楽しくてたまらないものが、本当に踊りと音楽だったんですよ。でも、ちっちゃい頃からね、「みんなの歌」とかなかった? ああいうの片っ端から歌ってみたりとかね、一人で勝手に部屋で歌ったりとかね。本当、それだけでもすごい楽しくって。
華原:
あの、私も「みんなの歌」みて歌ってても、私は一人で歌ったりとか出来なかったんですよ。みんなで合唱とかやった時、一回だけ自分が一生懸命歌えるっていう感じで、あの、その本を見た時、いちばん初めの印象ですけど、本を見た時に、恥ずかしいなって思っちゃったんですよ。そういうのってないですか?
AKKO:
わかるわかる。
華原:
なんか、「これ、私が自分で歌うんだ」って思った瞬間、すごい恥ずかしくなって。
AKKO:
でも、だって、隠れて歌っちゃえばいいじゃん。そういうのは思わなかったの?
華原:
AKKO:
私、逆にね、合唱とかのほうが恥ずかしかったかな。なんか、となりの人の声と聞こえたりするじゃない。で、自分の声とかも聞こえちっゃたりするのが。それだっら、なんか一人で歌ってたほうが、なんか好きだったかもしれない。うん、そうだなうん。
華原:
それはすごいプロですよね。なんか、私はそう思うんですけど。あの、合唱コンールの時に………、ごめんなさい、私の話で。
AKKO:
ううん。
華原:
合唱コンクールの時に、あの、ソプラノのパートを歌ったんですよ、私。で、ソラノのパートを歌える人がそんなにいなくて、私ともう一人ぐらいしかいなかったんすよ。
AKKO:
あら。
華原:
それじゃあもう声が、今から考えるとね、声が届かなくてしょうがなかったのになんでソプラノとかを歌えたのかな? って。恥ずかしいと思いながら声を出すってうのは、すごく見てる人が楽しむところなのかなって、今は思うんですけど。
AKKO:
なんか、見てる人も歌ってるほうも楽しいよね、歌とかってね。
華原:
踊り踊るのと歌を歌うのって、とにかく好きだし。私も踊るのも好きだし、歌うも好きなんですけど、でも、それを一緒にするのはなかなか難しくて。で、いつもフンの人から手紙とかもらって、そこに書いてある文章を読んだりすると、「左手、右が、どうしてこんなに動くんですか?」って。私はあの、「それは振りですか?」ってかれるんですけども、「振りじゃなくて勝手に動いちゃう」っていうふうに言うんでけど。で、ビデオ見たんですよ。
AKKO:
何の?
華原:
全部。
AKKO:
華原:
はい、全部見ました。
AKKO:
華原:
AKKO:
いやぁ、私はもうぜんぜん。
華原:
いいなぁとか思ったんだけど。
AKKO:
いやいや、私もやっぱり、まだやってみたことはないけど、踊りと歌を合わせるって、まだ自信ないなぁ。やってみたいけど。ジャズダンスとかも、多少習ったりとしたことあるけど、難しいよね。
華原:
難しいですよね。あの、アルバムの中で、アルバムの中じゃないけど、♪いつかHEY! HEY! HEY! ~って、あるじゃないですか。
AKKO:
デビュー曲なの。
華原:
あれ、私、すっごい好きなんですよ。
AKKO:
あ、本当に。
華原:
私、あれ聴いて、「いつかはHEY! HEY! HEY! に出て上いってやろう」とかってました。
AKKO:
あれ? その頃ってまだデビューしてないんでしたっけ?
華原:
いや、いろいろしてる時期だったんですけど。
AKKO:
あ、そうか、そうか。でも、いい歌詞ですよね、なんか。意外と前向きだしね。HEY! HEY! HEY! ~とかいって投げやりな感じだけど、じつはね、かわしてる感じでもんね。
華原:
あの歌はすごいいいですね。あと、「Hellow again」もうメチャクチャ好きです。
AKKO:
あ、本当に。いやぁ、嬉しい。
華原:
プロモーションビデオ見たんですけど、半袖でマフラーをしてるじゃないですかAKKO うん。
華原:
それは、やっぱりあのマフラーには何かあるんですか?
AKKO:
いや、私が考えついたことじゃないんですけど、その時のアートディレクターの藤さんていう方がいて、その方がなんか発想して。そういうふうにTシャツにバーバーのマフラー。すごい可愛いですよね。
華原:
可愛いなって思いましたね。
AKKO:
私もびっくりしちゃったんですけど、でも、それはその人の。
華原:
なんかあれですよね、「Hellow again」っていうのは、昔からある場所。昔かにる場所っていうのは、AKKOさんの中でどういうところですか? 昔からある場所。
AKKO:
昔からある場所? どういうところなんだろうな? けっこう冒険が好きなんで、んまり留まってないんですよ、私。だからね、ちょっと。ごめん。
華原:
ううん。あの、私は自分であの曲を聴いて、自分が、朋ちゃんが昔からある場所ていうのはどこなんだろう? っていうふうに探しちゃったんですけど。
AKKO:
どこでした?
華原:
わかんないですけど。昔からある場所って実家かな? とか思ったんですけど。
AKKO:
それはでも、私も思った、一瞬。実家かな? って思ったけど。結局なんか、自ベースの気持ちだったりするのかな、とか思ったけどね。わりと私は、なんか楽しくきようっていうのがベースにあるんですよ。
華原:
いいですね。
AKKO:
笑って生きようとか。一度しかないし、人生。だからなんか、そういうのが私のレイスというか、場所なのかなって、今ちょっと思ったけど。
華原:
いいですよね、なんか。転調の部分とかも、すごい綺麗ですよね、「Hellow agan」とかね。
AKKO:
華原:
AKKO:
いきなり変わりますよね。
華原:
すいません、ごめんなさい。私、気性が荒い人だから。
AKKO:
大丈夫です。気性なんですか?
華原:
気性? あの、何を話すのか忘れちゃった。
AKKO:
ごめん。邪魔しちゃったね。
華原:
AKKO:
そうなの。
華原:
AKKO:
華原:
憧れですよね。
AKKO:
本当?
華原:
女の人として、憧れの場所ですよね。
AKKO:
本当?
華原:
私はそうなんですけど。AKKOさんってお呼びしても?
AKKO:
もう「AKKO」で。
華原:
「AKKO」で? 言えないっスよ、そんな。AKKOさんは、あの、あれですよ、歌をて、それで売れて。それから女の人として、私が勝手に言うことですけど、女の人とて結婚して、子供を産んで、それで生活をして。それでも歌を歌い続けるっていうの、すごくいいスタイルですか?
AKKO:
いや、もうメチャメチャいいですね。
華原:
AKKO:
いや、1mmも描いてないですよ。
華原:
1mmも?
AKKO:
そんなの想像できないでしょ? 普通。ちっちゃい頃なんてそんなこと。ある意ゃ、すごい派手なことだし。でも、まあ、普通の営みだと思っちゃうんですけど、私。たまたま。
華原:
お姉さんですね。
AKKO:
え? いやいや。将来、本当に愛する人と結婚して、その愛する人との子供が産いっていう夢はずっとあったけど、それがこういう状況で起こるとはぜんぜん思ってかった。
華原:
AKKO:
華原:
すいません、なんか。
AKKO:
華原:
今日、本当に忙しい中を来ていただいて、すごく嬉しいです。
AKKO:
いやいや。本当に私も今日は楽しみだったんで。
華原:
あの、あれですよね。子供を産んで歌を歌うじゃないですか。声、変わりました
AKKO:
声? 声っていうよりも、なんか表現の仕方がすごい変わったような気はする、の中で。もうちょっと振り幅が持てたような気はしてますけどね。産んだ後レコーデングしてみて。
華原:
私は、そういう経験はしたことないんですけど、初めての人ですよね? なんと。あの、曲を書いてくれる人と結婚して、それで子供を産んで、幸せな家庭を築きなら、温かい歌をみんなに伝えるっていうのは、すごく初めてな。
AKKO:
今までそういう人、いなかったんですかね? どうだろう?
華原:
私はそういう、こういうふうになった人を目の前にして話しをするのは初めてなですけど。
AKKO:
でもね、そんなすごく見えるけど、ぜんぜん本当にただ普通のことをやっているけで。まあ、そういうことの影響が全部歌に出たりとかね、普通するし。もちろんすい前向きに楽しく生きようっていうパワーは多分出てるんだと思うんだけど。でも、から本当、私は普通なんだよ。
華原:
AKKO:
そうかなぁ?
華原:
すごくその、こういうさっきのが、私から見ると温かいふうに見えて仕方がないす。
AKKO:
そっか。
華原:
それをそのまま、べつに隠す必要もないし、それを一番として先頭に立ってる人もないし。そこがなんか、AKKOさんのいいところで。
AKKO:
そうかな。でも、そう言われるとすごい嬉しいです。
華原:
すいません、自分で喋ってて、なに言ってるのかって思っちゃって。
AKKO:
いやいや、でも、すごい嬉しい。そっか。
華原:
そうですね。なんか「ANIMAL LIFE」っていうCD聴きました。
AKKO:
ありがとう。どうでした?
華原:
それを聴いてても、すごくいいですよね。
AKKO:
いいですか?
華原:
はい。私はあの、AKKOさんの声っていうの、すごく気持ちがいいんですよ。
AKKO:
あ、本当に? すごい嬉しい。
華原:
聴いててすごく気持ちがいいし。で、私が一番気持ちがいいなって思うところと緒です。あの、私がいちばん気持ちいいと思うところは、安心して休めて眠れるってうところが一番すごく気持ちがいいとこなんですけど。そういう時にAKKOさんの声をくと、さらに。
AKKO:
子守歌のように? いい感じ?
華原:
すごくそういう声を持ってるなって思ったんですけど。
AKKO:
ああ、嬉しいです、そんな。
華原:
どこから出てるんですか?
AKKO:
いやいや、そんな。こっちが聞きたいよ、朋ちゃんの高い声とか。すごいパワーる声とか。
華原:
パワーは、AKKOさんのほうがすごく優れてると思う。
AKKO:
いやぁ。でも、正反対な感じですよね、私たちの声ってね。今、思ったけど。
華原:
そうですよね。裏返したらとか、表にしたらとか。べつのところにあるし。
AKKO:
なんかね。
華原:
だから、私にはない声だし、私がすごく欲しいなって思っても、ぜったいに手のかないところにあるし。それは間違いないですよね。
AKKO:
いや、私もだって、ぜんぜん届かないところにいるのと同じだもんね。なんか武さんとかは、声、いろんな声質を持ってるっていつも言ってくれるんだけど。変化球投げれるとかね。でも、ノーコンだって言われちゃうんでけど。だけどまあ、それが分、私のいいところで。朋ちゃんはでも、やっぱりすごい高い音域とか、すごい音域出て。で、もう本当にすごいパワフルだと思うんですよ。
華原:
じゃあ、お互いそういうふうに思ってるところってあるのかな。
AKKO:
うん。やっぱりね、持ってないものとかね。
華原:
持ってないものって欲しいよね。
AKKO:
欲しくなりますよね。
華原:
何でもそうだよね。洋服で、すごく可愛い服が店頭に飾ってあって。で、それ欲いなって思っても、お金がなかったりして買えなくて。で、本当は届きそうなところのに届かなかったりとかって思いませんか? なんか。
AKKO:
え? 届きそうなところに届かないと言うのは?
華原:
AKKO:
最近ぜんぜん行ってないよね。
華原:
カラオケとかで、私、「Hellow again」とか歌うんですけど、あれもすごいですね。男の子、女の子がいても、絶対に自分はウマく聞かせなきゃいけないっていうとろに、気持ちが届くんですよ。だけど、AKKOさんの声には絶対届かない。届きそうでかないみたいな。
AKKO:
ああ、そういうことか。
華原:
だから、MY LITTLE LOVERのAKKOはいいっていうふうに思うんですよ。
AKKO:
やっぱでも、人にはその、全部万能な人なんていないからね。なんだろう? 自ね、出来る範囲を広げつつも、その中でベストを尽くすのがいちばん素敵だよね。なんつって。
華原:
素敵。
AKKO:
いつもそう思ってるんだけど。
華原:
素敵な人ですね。一番はじめにAKKOさんていう存在を知った時、私は「あ、絶対バレエとかやってる人だな」って思いました。
AKKO:
あ、本当に。
華原:
まだ、声とかは聞いたことがなかった時で、MY LITTLE LOVER。
AKKO:
今日ね、たまたまね、本当たまたまなんだけど、昔の取材の時の切り抜きとか事所とかに置いてあったりするじゃない。それをなんかちょっと必要があって調べてたね。そしたら、デビュー当時の写真とか載ってるわけじゃない、その雑誌の切り抜きから。それ見たら、もうすごいポッチャポチャで。私、びっくりしちゃったんだけど「うわぁ、やめて!! 捨てたい」とか思ったんだけど。いや、でも、あの頃はやっぱ、かなり丸くて。もう慌ててトレーニングとかして。
華原:
トレーニングをしたの!?
AKKO:
うん。ちょっとダイエットじゃないけど、スポーツクラブとか通ってね。だいぶの頃よりはスマートになったと思ってるんだけど。
華原:
カッコいい女性になりましたね。
AKKO:
そうですか? あら。
華原:
そういう感じがする。
AKKO:
ああ、そうか。前なんかキャピキャピっていう感じでしたもんね、けっこう。そいうんじゃなくて?
華原:
全体的に、なんか楽しい感じの人だなっていうふうには思った。で、今、会ってそれは本当だった。
AKKO:
面白く生きなきゃね。
華原:
AKKOさん、そういうふうに思ってるじゃないですか。で、私はそういうふうに思てるところもあるんですけど、時々くじける時がある。「こうじゃダメなのかな?」てなっちゃう時ってない?
AKKO:
いや、あるよ、もちろん。あるけど、うーん? あるけどなんかね、そういう時向きなことを考える。
華原:
前向きなこと。
AKKO:
うん。
華原:
AKKO:
そう。最近ね、ちょっとあんまり家を空けることとかやっぱり多いじゃないです。海外に撮影とか行ったりとか。だからね、あんまりしてないんだけど、前はよく育てた。
華原:
なんか、ロサンジェルスに住んでたり、日本に住んでたりっていうのがすごく多って聞いたんですけど。
AKKO:
華原:
多かった時期ありましたね。ロスにずっといた時期とかありましたけど。
AKKO:
そうか、そうか。ロス多いんだけど、寂しいんですよ。友達とかね、あんまりいいじゃないですか、やっぱり。
華原:
AKKO:
喋れないです。
華原:
私もぜんぜん喋れないです。
AKKO:
でも、日常いちおう困らない? 困らないよね、スーパーとか簡単だもんね。そうのは大丈夫なんですよね。そうですよね、ロスとかでね、一緒とかになれたらと、ふと思ったんだけど。
華原:
思うよね。私もすごい思う。
AKKO:
けっこうね、そうだね。アメリカ人の友達とか出来にくいもんね。
華原:
外人て、なに言ってるかわかんない。
AKKO:
私もさ、すごい愛想いいっていうかさ、やっぱりアメリカ人と喋って、自分で勉しようと思うじゃない。だから、アメリカ人の人と一生懸命喋るのよ。で、前にニュヨークにいたんだけどね、その時は。まあ、妊娠中だったにも関わらず、そこのドアーイいるじゃない、コンドミニアムとかだと。そのドアボーイが、しきりに「今日、事に行こう」とかね、すごいもういっぱい誘ってきて。私、妊婦なんだけど、「I'm regnant」とかって言ってるのに、ぜんぜん通じてなくって、すごい困ってたことかせった。困っちゃうよね。
華原:
困りますよね。
AKKO:
華原:
AKKO:
本当?
華原:
誰か一緒にいなきゃって思いますけど。
AKKO:
一人でわりとね、フラフラ遊んでたんじゅゃなくてね。
華原:
AKKO:
その時はね、武史さんがちょうどMr.ChildrenとYEN TOWN BANDのレコーディング行ってて。で、私は妻ですからついてって。その間、多少撮影があったりとかしててあとは英会話学校とかちょっと行ってたりしたんですよ。
華原:
AKKO:
うん、ちょっとね。そう。だから、わりと一人で雪道とか。冬だったんでね、吹の中あるいて。
華原:
吹雪?
AKKO:
いや、すごいんだって。ニューヨークのね、去年30年振りの大寒波とかいって、雪で。もうそんな中ね、歩いて行ってたよ、ダウン着て。防寒して。一回だけね、セトラルパークの横でね、氷に滑ってね、尻もちついて。妊婦ってね、尻もちついちゃけないのね、絶対ね。で、もう、すごいびっくりしてね、泣いちゃったことあったけね。
華原:
AKKO:
歌った。レコーディングした。
華原:
AKKO:
「Yes」とか。
華原:
♪Yes~ってやつですよね?
AKKO:
華原:
雑誌で、「子供にどんな音楽を聞かせましたか?」って、妊娠中に。それで「妊にアルバムの曲を聞かせるといいですよ」って書いてあったんですよ。
AKKO:
華原:
そうなんですか?
AKKO:
アルバムの曲っていうか、何でもいいんだけど。自分が気に入った曲を、胎教にさそうな曲を、たまたま私が聞かせたのが「Evergreen」っていう。「Evergreen」のの一番最後の曲で。それを毎日毎日聞かせてたら、産まれてからね、その子がどんな機嫌が悪くても、どんなに泣きじゃくっても、それを聞くと機嫌が直るんだよっていのをね、聞いてたんですよ。だから「Evergreen」聞かせてて。で、産まれてからもっぱり聞かせるとすごいご機嫌になる。びっくりしちゃったんですけど。
華原:
あの、「アリス」っていう曲あるじゃないですか。呪文かけてますよね。あれ、いですよね。
AKKO:
あれ、なんかコンピューターのね、「ディギディギディギ」とかってなるじゃな。私もよくわかんないんだけど。あれをとったものなんですけどね。
華原:
あ、そうなんですか。私はなんか。
AKKO:
呪文っぽく思った?
華原:
呪文かけてるのかなって。
AKKO:
華原:
ああいうのって、なんて歌えばいいのかなって。
AKKO:
わかんないよね、最初ね。けっこう質問された、最初。でも、なんか、コンピュターなんですって、もとは。私もね、機械弱いんでね。
華原:
私も弱いです。
AKKO:
難しいですよね。
華原:
AKKO:
華原:
あ、すごい。
AKKO:
一時期ちゃんと向かったことがあるんですけど、ちょっとプロモーション忙しくって、中断しちゃった。
華原:
私も今、中断してますね。
AKKO:
あ、でもやってたんだ。
華原:
あの、ファンの人からメールがきたりとかして、それを見て、返せる人には返しっていうふうにやってたんですけど。難しいですよね。
AKKO:
ね、難しいよね。でも、けっこう面白いんだよね、ああいうのを見ると、 Permalink | 記事への反応(2) | 03:08
異常独身男性なので気が狂った勢いで、今年は何故かお高いクリスマスケーキを食べてみたくなって直前予約した。
さすがに直前だけあって比較的お手頃そうな2~3,000円あたりのは予約終了していて、残っていた中で美味しそうなのが税込5,616円の「クリームチーズと紅茶のピンクベアケーキ( https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:https://www.sej.co.jp/products/christmas/brand#a11 )」というやつ。3~4名向けらしいけどまあ喰えるやろと。
で、おっさんがウキウキとイヴにケーキを受け取った訳だが、なんか箱の上にピンクの布巾?ハンカチ?スカーフ?みたいなのが入った袋が付いてて、「ALWAYS THINK ABOUT SOMEONE YOU LOVE」とか書いてるのな。枠にはGELATO PIQUEとかあってジェラート…ピケ…?ジェラピケ???ジェラピケって何かイケてる陽キャ女子が来てるふわふわもこもこのルームウェアじゃないの?なんでケーキのブランドなの?みたいなのが開封前にあって、あっちゃーこれは価格の殆どはブランド代なんやろなあって期待値だった。
で、食べてみたらこれ、めっっっっっっっっっっっっっっっちゃ美味しい。なんだこれ。いわゆる高級感のある甘さ、下品で無い甘さという形容ならそこらのケーキ屋のちょっとお高めケーキでも味わえると思うんだが、それらとは一段違う感じがする。
ベースとなる紅茶のスポンジ、ここにちゃんと紅茶みを感じるのも凄い。よくある紅茶のシフォンケーキって紅茶っぽい残り香はするが紅茶じゃないよなーってな感じなのに。ひどい喩えを使うなら、スーパーに並ぶメロンパン食べてメロンみを感じるか?って話。紅茶の香りだけでなく味をケーキできちんと味わえるとは思わなかった。
挟まれてるのもクリームチーズだけでなく、ちょっと歯ごたえのあるチョコクランチもあって良い。5,000円超えのケーキを舐めてました。
丸ごと食べたら1,600kcalにもなるので半分だけ食べるつもりだったのにあまりに美味しくて完食してしまった。いや流石に9割ぐらい行くとちょっと…な感じもしてきたが、胸焼けしてもう入らないみたいにはならんのな。紅茶を飲んで一息ついたら普通に完食。大変美味しゅうございました。
そして本日、どの辺の価格帯からケーキの格は変わるのかと売れ残りのケーキ、「イタリア栗のクリスマスケーキ」税込3,672円 https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:https://www.sej.co.jp/products/christmas/standard#a15 を買ってみた。味は……うーん、昨日ほどの驚きはなく普通に美味しいモンブランって感じ。ホイップクリームがちょっとくどいか?適切な一人分を食べるなら何も問題ないと思う。
好みの問題が多いにありそうだけど、高いケーキはそれなりに美味しいということを今更理解したクリスマスだった。
そう思うじゃん?
普段から大したものを食べてないような舌だとカットケーキ程度の分量だと「あっ美味しい(こなみかん)」って思った後には既に食べきってて美味しいのは美味しいのだがなーんか物足りさを感じるのが一つ。マックの限定バーガーで、あっポテト入ってて結構良いなと思った頃にはもう食べ終えてるみたいなのに近い。
そしてホールケーキを独り占めして食べるのは食べたって感じがして単純に良い(なお摂取カロリーは無いものとする)だけでなく、味の解像度が上がることがわかった。カットケーキだったら甘さの質が違うのはすぐ気付けても、軽い歯応えの正体や僅かな紅茶の味わいにも気付かず結構美味しかったですまるってなってそうなので今回はホールで正解だったなと。
そう思うじゃん?
セブンの予約受付してるタイプのケーキは実質通販みたいなものっぽく見える。半額叩き売りされてたらしいのはキャンセル分か都会特権の店頭販売分とかかも。近場のセブンで定価5,000越えのケーキが並んでるのは見たことない。
ケーキ屋は1件近所にあるけどこじんまりしてて入るのがめっちゃハードル高くてちょっと近寄りがたい(客が3人も入れば手狭に感じる小さなケーキ屋に異常独身男性オーラを発するおっさんが一人で来たら不審者と思われても仕方ない)。
デパ地下系でも悪くはないんだけど実物見てしまうとビビって正気に戻ってショートケーキでもいいかなと折れそうになる可能性があった。
そこでネットでポチってコンビニ受取、「家族のためにケーキ注文しただけですが?」って顔で堂々と引取できて堂々と持ち帰れるという訳ですよ。
そら一番数が出る時期なんだからそらそうやろなと納得してしまうが、逆に言うとイベント時期でないと多種多様なケーキを見て選んで勢いでポチるなんてできないなと思うと意外とクリスマスって良いイベントだったんだな。
ファミマで哀しく取り残されていたベイクドチーズケーキ(税込1,080円)を確保しました。クリスマスっぽい包装だけど価格的に個別に紹介するまでもないのかURLなし。
超ひも理論は、光子からクォークに至るまで、すべての粒子がゼロ次元の点ではなく1次元のひもであるという理論的枠組みのこと。
もし、あらゆる文脈で成り立つ超ひも理論のバージョンが発見されれば、宇宙の性質を記述するための単一の数学的モデルとして機能することになり、重力を説明できない物理学の標準モデルに取って代わる「万物の理論」となるとされる。
超ひも理論の全貌を理解するには、広範な勉強が必要だが、超ひも理論の主要な要素を知れば、その核となる概念の基本的な理解が得られるだろう。
1. 弦とブレーン
弦は一次元のフィラメントで、開いた弦と閉じた弦の2種類がある。
開放弦は両端がつながっておらず、閉鎖弦は閉じたループを形成する。
ブレーン(「膜」という言葉に由来する)はシート状の物体で、その両端に弦を取り付けることができる。
ブレーンは量子力学のルールに従って時空を移動することができる。
物理学者は、宇宙には3つの空間次元があると認めているが、超ひも理論家は、空間の追加次元を記述するモデルを主張している。
超ひも理論では、カラビ・ヤウ多様体と呼ばれる複雑な折りたたみ形状にしっかりと圧縮されているため、少なくとも6つの追加次元は検出されない。
3. 量子重力
弦理論は量子物理学と一般相対性理論を融合させようとしているため、量子重力理論である。
量子物理学は原子や素粒子のような宇宙で最も小さな物体を研究するが、一般相対性理論は通常、宇宙でよりスケールの大きな物体に焦点を当てる。
4. 超対称性
超弦理論としても知られる超対称性は、2種類の粒子、ボソンとフェルミオンの関係を記述する。
超対称弦理論では、ボソン(または力の粒子)は常にフェルミオン(または物質の粒子)と対になるものを持ち、逆もまた同様である。
超対称性の概念はまだ理論的なもので、科学者はまだこれらの粒子を見たことがない。
一部の物理学者は、ボソンとフェルミオンを生成するには、とてつもなく高いエネルギーレベルが必要だからだと推測している。
これらの粒子は、ビッグバンが起こる前の初期の宇宙に存在していたかもしれないが、その後、現在見られるような低エネルギーの粒子に分解されたのかもしれない。
大型ハドロン衝突型加速器(世界で最も高エネルギーの粒子衝突型加速器)は、ある時点でこの理論を支持するのに十分なエネルギーを発生させるかもしれないが、今のところ超対称性の証拠は見つかっていない。
5. 統一された力
弦理論家は、相互作用する弦を使って、自然界の4つの基本的な力(重力、電磁気力、強い核力、弱い核力)がどのように万物の統一理論を作り出しているかを説明できると考えている。
上記の条件のうち、いくつかを満たしているものを作家ごとに紹介する。
作品のオチには触れないつもりだが、途中に何が出てくるかとかそういったレベルでは作品の内容に触れる。
思い入れが多い。ただ、近年のイーガンの長編は自然科学の素養が無いと何を言っているかまったくわからない作品が多いので(高校どころかひどいのになると大学院レベル)、短篇集から入るのがオススメ。人類の寿命が実質無限大なので、天文観測のために2人きりで宇宙に出て平気で数万年かけて工事するなんてエピソードもあったりするんだけど、わかりやすい宇宙人ヤバい系だったら「ワンの絨毯」かな。この長編版の「ディアスポラ」は未読。イーガン大好きなんだけど、たまに作者の顔がちょっと透けちゃう。
「火星の人」はなぜか「オデッセイ」の邦題で公開された映画の原作で、火星にたった一人取り残された男が持ち前のオプティミズムで生き延びていく話だ。不足する酸素を作り出し、糞便からジャガイモを育て、何とか地球とコンタクトを取り、必死で地球への帰還を目指す。コンタクトを取れた瞬間に希望が開けていく様子が素晴らしい。
「プロジェクト・ヘイル・メアリー」は、基本的にネタバレなしで読んでほしい。冒頭は記憶喪失の人物が意識を取り戻したところから始まり、振り子の周期から重力加速度を割り出すことで自分は地球にいないことを悟る。そして、ご地球外のミッションに送り出された理由を思い出す(ブクマの指摘でネタバレ削除)。
仲間の二人が死んでミイラ化しているという絶望的な状況からスタート。この作品も、サイエンスに対する信頼が読んでいて楽しい。
近未来、スーパープルームで海面上昇と地殻変動が起こり、人口が減少した世界。日本列島もさらに小さな島嶼の群れになっている。この世界には現生人類に似た陸の民と、魚のような生き物と双子として生まれ、その魚を肉親・パートナーとして暮らす海の民がいる。短編も長編もあり、海の民と交渉する陸の民の物語もあれば、やがて次の訪れるであろう、人類滅亡クラスのさらに大きなスーパープルームから人類を何とか生き残らせようと健闘する人びとが主役の話もある。なんとか宇宙に進出するとか、人類を海に適応した海生生物にしてしまうとか、核融合炉で地下都市を建設するとか、その絶望的で悲痛な努力が胸を打つ。作品によっては「異形コレクション」にも収められている。ある意味では「日本沈没」の精神的な続編でもある。
「最後の宇宙飛行士」は後述の「宇宙のランデブー」にプロットが似ていて、太陽系に未知の物体が侵入してくるんだけど、オウムアムアの正体に対する考察にもなっていて面白い。また、主役がどうしても宇宙に出たいんだけど、ミスで同僚を死なせてしまったがゆえに長らく宇宙とは無縁の生活を強いられているところからスタートする。挫折したヒーロー、いい意味で映画的で、リーダビリティが高い。ややホラー寄り。
古典のはずなんだけど児童書をのぞいて意外と読めていないなって作家。なんだけど、自分は「タイム・マシン」という小説で「複数の種に分岐してしまう人類」「知性を失った人類の子孫」「太陽が死んで滅亡に瀕する地球」という趣味を開花させてしまった。そういう意味では自分の読書傾向に決定的な影響を与えたと言っていい。
言語や数学をモチーフにした幾分難解な作品が多いのだが、最初の作品の1つである「Self Reference Engine」は少し肩の力を抜いて読める。舞台は現実改変能力を手に入れてしまったAIの発生により、無数のパラレルワールドに分裂してしまった宇宙で、AI同士が互いの存在を物理法則もろとも演算して書き換えようと争っている。壮大な世界観だが、22の断章の中ではシリアスありユーモアあり小噺あり抒情的短編ありと、何でもありだ。とにかく翻弄される人類がおかしい。
この人は「天冥の標」で有名なんだけど、長すぎるし自分も未読だ。「老ヴォールの惑星」とか「フリーランチの時代」とか、短篇集も面白いのが多くて、特に「老ヴォールの惑星」はエイリアンの生態ものでは特に面白かった。上記の条件を満たす作品じゃないけど好き。
この人はどちらかと言えば「筺底のエルピス」で有名かもしれないけど、僕が好きなのは短編の連作集「What We Want」「平林君と魚の裔」「止まり木の暖簾」だ。これは銀河系が巨大な通商連盟に支配されているという設定で、アメリカは大統領の契約違反で国民ごとエイリアンに売り飛ばされている。主人公は必死になって地球に帰還した関西弁の日系アメリカ人。特に面白かったのが2作目の「平林君と魚の裔」で、この通商連盟の究極の目的が明らかになる。
問題なのは、この短篇集があちこちのアンソロジーでバラバラに収録されていることかな。せっかくなのでそれぞれ購入したうえで他の作品も読んで、お気に入りの作家を増やしてほしい。僕も河出書房の「NOVA」とか東京創元社の年間傑作選とかでお気に入りの日本人作家を増やした。後者は新人賞作品も載ってるしお得だよ。
「幼年期の終わり」については一度ここに書いたけど、人間が進化していって人間の形を失っていく未来が好きだ。それでも残る人間らしさとは何だろうか。共感だろうか、知識だろうか、はたまた血縁だろうか。
「2001年宇宙の旅」はキューブリックの映画で有名で、「ツァラトゥストラかく語りき」のパロディが笑えるほど量産されているんだけど、これもまた人類の進化を扱った作品なのでオススメというか、進化ものでは避けて通れない作品。悪役である人工知能HAL9000がなぜ狂ったのかは「2010年」で明かされるんだけど、理由がわかるとちょっとかわいそうになる。「3001年」は「ぼくのかんがえた最強の未来社会」っぽくてそういう楽しみがある。
あえて注意することとしたら、解説で紹介されているキューブリックの映画に関するブラッドベリとクラークの発言に現代の価値観では不穏当な個所があることかな。
あとは「宇宙のランデブー」。太陽系に侵入してきた物体を探査するという一直線のプロットなんだけど、とかく未知のものに触れる驚きがいい。人物描写が浅いと批判されるのもわかるんだけど、人類が訳の分からないものに触れて戸惑うのが好きなんだからしょうがない。
意外とクラークを読んでいないことに気づく。
「果てしなき流れの果に」については前に書いたね。基本的の小松左京の作品の傾向は宇宙と人類と日本人の運命がテーマらしいので、「三体」が好きだった相性がよさそう。実は残念ながら長篇は「日本沈没」しか読めていない。と言うか三体は宇宙と人類と中国人の運命がテーマだよね。
探せばいくらでもいる。
そのほかの企業情報は企業としての公式サイト参照
集まっていた株主30人程度
会場の外・建物内通路では佐藤氏の主張を記載した文書を配布する人あり(カジュアルな服装の若い人たち)
業績・議決事項説明、質疑、議決、役員紹介のうち、質疑以降をレポートする
きたる10月に管理銘柄の解除に向けて名古屋証券取引所からの審査があり、ここで不合格となれば上場廃止となる
オウケイウェイヴには資金の安定やガバナンスの向上が求められており、今回の議決内容はこの両方を合格水準に持っていくために必要な内容だ
大株主の佐藤氏による訴訟などもあり、総会の少し前にアクセスジャーナル、前日にダイヤモンドと東洋経済からそれぞれ報道があった
『ウルフパックの標的?Q&A投稿サイトの経営騒動 OKウェイヴ経営陣と敵対、謎多い7人の個人株主』東洋経済2023/09/27
https://toyokeizai.net/articles/-/704523
『オウケイウェイヴから「ウルフパック疑惑」をかけられた筆頭株主が猛反論、株主提案なき暗闘【独占インタビュー・前編】』ダイヤモンド2023.9.27
https://diamond.jp/articles/-/329779
『経営再建中の「オウケイウェイヴ」、ウルフパック戦術の標的にされたか!?』アクセスジャーナル2023.9.20
https://access-journal.jp/73748
https://pdf.irpocket.com/C3808/cEro/ZYe0/bMfI.pdf
https://www.okwave.co.jp/ir/news/
質問者用のマイクが中央通路にあり、ナンバーと名前を告げて質問する形式
すべての回答者は杉浦代表だったため省略するが「A〇」という記載が議長である杉浦代表の発言となる
サービス別売上の中にグラティカの利用社数がある。最近件数が増えた。その内訳は、新規と既存の無料ユーザーとどちらなのか?
両方
A2
旧経営陣が集めた過去からの利用者なのか、来期見込めるかということで、新規・過去からの利用者かの内訳を教えてほしい
内訳は回答しない
この答え方についてA氏も不満な様子
70点くらいの回答ではないか
答えに注力するだけでなく、なぜその答えなのかという情報が最初から足されていてほしい
例えば「企業無料を有料に切り替えるためには、その企業に対して相応の働きかけが必要なので、ほぼ新規と同等である」「新規は〇割くらいです」などの答え方があるはず
当初議案にあがっていた社外取締役候補の立川光昭氏が辞退した。彼は仕事ができそうだ。不安だ。説明をしてほしい。
A4
一身上の都合というのは、開示している通り
セールス・マーケティングで力を発揮してもらうこと、助言・けん制機能をはたらかせたいと期待していた
Q4のB氏のリアクション
社外取締役は執行できないのは常識だから、実務にかかわる意向ならよし
立川さんと私のLINEがあるのでこれを今皆さんに配布する。あとでインターネットでも見られるようにする
まず、数日前、杉浦さんは立川さんに呼ばれ、私はオオハラさんに呼ばれたということで間違いないか?
現経営陣で経営状態が良くなったと思えない。立川さんはなんで辞任したのか。
A5
配布をやめてください
Q5
資料ここに置きますから、欲しい人はとっていってください(佐藤氏のアシスタント?が床に置く)
(公開については)はい
訴訟なりなんでもしてくださいということで
立川さんは「間違いない」「佐藤さんは正しい」と言ってくれたし、「辞めざるを得ない」と言った
A5
業績回復してもらわないと困る。取締役に何を期待するか説明してほしい
A7
工藤純平氏 IT会社の執行役員など、動画メディア事業の経験、IT統制に期待したい
山本峰義氏 厳しい状況からここまで多大な法律アドバイスをもらっている。バランス感覚がある。今後も期待。
Q7
ありがとうございます。大変期待します。
本人は関与していない
適任ということで選任した
JC証券というのは、政治家(細野豪志・元大臣・元民主⇒現自民)にお金が流れたことだったと思う
検討結果をどう考えたのか、もう少し具体的に教えてほしい
A10
先ほどの回答の通りです
基本的に質問された場合に追加で出せる情報が用意されていない印象
端的な回答を繰り返すと「答えていない」という風に受け止められる懸念がある
ファンサービスのための場ではないが、消費者としても好感を持っている場合は参加したお得感が少なくなる
ただ開示資料が多く詳しく分かりやすいので、そこまでで力を出し切ってしまっているかもしれない
つまり、最初から出す情報が素直で良い情報になるよう努めている結果、質問された場合の答えが少なくなるのではないか
立川さんが辞める経緯について。不信感がある。
A11
無いって言うと思うけど、今後、レダからの増資予定はありますか?
A12
ないです
Q12
議事録とって!
A12
席に戻ってください
A13
充分に審議はつくしました
議案1を読み上げている間に
A氏がマイクのところへ行き、抗議をする
議長、A氏に退場を求める
佐藤氏退席
A氏話す
A氏「さわらないで」
議長、A氏に繰り返し退場を求める
議案2も読み上げ、拍手
A氏は「拍手少ない」等言いながら、徒歩で退場
杉浦氏より事前のお願い(議決権行使、多大な株主の協力)などについてお礼の言葉
閉会の宣言
取締役の紹介
終了
ただし議長が本人に退場を促し、応じないからといってマイクを切る程度で、基本的には当人が徒歩で退室するまで待つという安全な対応だった
過去(松田時代)には力づくで株主を外に連れ出すようなこともあったので、文化的背景の違いを感じた
筆者は佐藤氏の意向は、DESがレダ社を含まない形で再構成された時点で反映され、ありがたいと考えている
今日の佐藤氏の活動が必然性のあることであれば、もっと周到に準備して臨む必要があったと考える
議決がなされてほっとしている
ここに欠けているのは、人類の進化についての真の理解である。第3章で、G&Wは、人類学の主流派のコンセンサスとされる、現存するアフリカの狩猟採集民-「小さな移動集団」で生活する素朴な民-に私たちの採食祖先をなぞらえたことを批判している。そして第4章で、彼らは考えを変える。人類学の主流派のコンセンサスとは、オーストラリアのアボリジニのような狩猟採集民のことである:
大陸を半周し、まったく異なる言語を話す人々の間を移動しても、キャンプは自国と同じようなトーテムの部族に分かれている。このことが意味するのは、住民の半分は彼らに歓待の義務を負いながらも「兄弟」「姉妹」として扱わなければならず(そのため性的関係は厳禁だった)、もう半分は潜在的な敵であると同時に結婚相手でもあったということだ。
ルイス・ヘンリー・モーガン(1877年)は、いわゆる「分類的」親族関係の発見に基づいて、私たちの学問分野を創設した。その原理は「兄弟の同等性」として要約できる。たとえば2人の兄弟は、その関係性に関して互いに相手の立場に立つ。ある女性は妹に、『あなたの子どもは私のもの、私の子どもはあなたのもの』と言うでしょう。だから、子供に関して『私有財産』という概念はない。家族生活は『核家族』ではない。すべての子どもは、数多くの異なる「母親」や他の支援者である親族の間を自由に行き来することができ、大人になるまでそのような自由を享受し続ける。
人生がこのように構成されるとき、その結果は並外れたものとなる。誰もが、広大な地域に広がるつながりの鎖の中で、形式的には互いに同等に扱われる「兄弟」や「姉妹」からのもてなしを期待できる。この結果のひとつは、国家が成長する土壌を持たないということだ。人々が自主的に組織化され、互いに同盟を結び、育児やセックス、ダンス、家庭生活の喜びがより共同的に経験されるようになれば、国家が入り込んで埋めるべきデッドスペース、つまり社会的空白はなくなる。国家に取って代わることなく国家を廃止することはできず、共同体的な家族生活(今日の世界では、自己組織化された近隣地域やその他のより広いコミュニティ)は、そのためのひとつの方法なのである。
不思議なことに、グレーバーとウェングローはその長い著書の中で、親族関係についてほとんど何も語っていない。グレーバーとウェングローは、モルガン=エンゲルスのパラダイムを批判する代わりに、『家族、私有財産、国家の起源』(エンゲルス1972[1884])におけるエンゲルスのヴィジョンをひっくり返している。彼らの言う「はじめにあったもの」は、私有財産、宗教、そして国家である。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの観念と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。マーシャル・サーリンズとの共著『王について』(2017年)では、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたのだから、国家の原理は人間の条件の不動の特徴であるとさえグレバーは示唆している。
アナーキストが私有財産と国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、『万物の黎明』はそのメッセージに重みを加えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。個人的には、すでに燃え尽きようとしている惑星に、どのような「飛び地」があるのか想像するのは難しい。グレーバーとウェングローは、「もうひとつの世界は可能だ」という革命的スローガンを放棄したようだ。代わりに彼らが提示するのは、「階層と平等は、互いに補完しあうものとして、ともに出現する傾向がある」という悲痛なメッセージだけである(p.208)。(p.208)彼らは、どこか別の場所で抑圧を受け入れなければ、ある場所で自由を手に入れることはできないと言っているようだ。
このような批判はあるが、本書の重要な点は、振動を提唱していることである。すべての生物には脈動がある。生きては死に、目覚め、眠り、息を吸っては吐き、季節の移り変わりや、私たちの生命に優しい地球・太陽・月の軌道系のその他多くの周期性によって動かされているのだ。
私たちは、物理的にだけでなく、社会的にも政治的にも、惑星地球をもう一度回転させる必要がある。これは、人々に配慮と支配や統制を混同するなと言うことでできることではない。それは、学校のストライキを支援し、そのピケラインで歌い、職場まで行動を広げ、通りで踊り、交通を遮断し、資本主義を完全に停止させることによってなされるのだ。
しかし、いったん主導権を握ったら、次はどうするのか?ストライキが長引けば、すぐに飢餓に陥る。だから、揺り動かそう。例えば、週1回の学校ストライキをもっと長くし、月に1回実施し、賃金奴隷から全人類を解放するまで世界中に広げよう。炭素排出量は即座に50%削減される。それから仕事に戻り、必要に応じて再編成する。資本主義に逆戻りしないと確信できて初めて、仕事に戻るリスクを冒すことができる。そして、次の新月には子どもたちとともにピケラインに戻ると誓い合って初めて、それを確信できるのだ。世界が再び揺れ動き、息を吹き返すまで、私たちは権力を奪い、それを放棄し続けるのだ。未来を取り戻そう。家父長制でも母系制でもなく、月による支配のようなものを。
それは、最初の人類革命の階級とジェンダーの力学を、今度はより高い次元で繰り返すことだ。このようなことは可能なのだろうか?みんなに議論を開いて、何ができるか見てみよう。それはきっと、活動家であり人類学者であるデイヴィッド・グレーバーが望んだことだろう。
『万物の黎明』の中心的なアイデアは挑戦的だ。人間とは政治的に冒険的で実験的なものであり、自由と平等の呪縛の後に、変化を起こすために抑圧を選ぶ傾向があると言われるほどである。歴史は、ある極端なものと次の極端なものの間を揺れ動く、リズミカルな形をとっている。しかし近年、私たちは皆、ひとつの体制から抜け出せなくなっており、その理由を理解しようと努めなければならない。
これらすべては新しく新鮮ではあるが、信用できるものではない。私は、私たちの人間性を規定する政治的本能や社会的感情は、平等主義という条件の下で形成されたという人類学的な標準的見解の方を好む。今日に至るまで、私たちは皆、対等な仲間の中で笑ったり、遊んだり、社交したりできるときに最もリラックスし、幸福を感じる。しかし、グレーバーとウェングロー(以下、G&W)は、このような私たちに馴染み深い経験を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先が平等主義者であったという考え方全体に反対している。彼らの見解では、彼らは抑圧されることを選択した可能性が高い。
彼らの言葉を借りれば、「われわれの人間性の本質が、われわれが自意識的な政治的行為者であり、したがって幅広い社会的取り決めを受け入れることができるという事実から成り立っているとすれば、人類は歴史の大部分にわたって、実際に幅広い社会的取り決めを探求してきたはずだということにならないだろうか」。これらの可能性の中には、著者たちが容易に認めているように(86-7頁)、チンパンジーのような虐待的な支配階層も含まれている。G&Wは、もし我々の祖先がそれほど冒険好きであったなら、きっと平等主義だけでなく、攻撃的でいじめっ子のオスによる嫌がらせや虐待、支配も実験しただろうと主張しているようだ。
G&Wは、私たちが革命の過程で社会的、道徳的に人間になったという考えに対する一貫した攻撃の中で、これらの点を指摘している。私はずっと、人間の言語、意識、親族関係、道徳は漸進的な進化の過程で進化し、それが巨大な社会的・政治的革命で頂点に達したという考えを探求してきた。私の動機は常に、人間は本来利己的で競争的だから社会主義は不可能であり、「革命でさえ人間の本性を変えることはできない」という一般的な偏見に挑戦することであった。
私はいつもこう答えていた。そう、私たちは類人猿の一種である。そう、私たちは霊長類のいとこたちのように、競争的で利己的、攻撃的でしばしば暴力的な本能を持っている。しかし、それが私たちの成功の原因ではない。優秀な母親や父親になる能力、自分の子供だけでなく互いの子供を思いやる能力、道徳的なルールを確立する能力、他人が自分を見ているように自分も見ている能力、音楽、ダンス、言語を使って夢を共有する能力など、私たちの本性にまつわる人間的な特徴すべてが、まさに歴史上最も偉大な革命の産物であり、成功した革命なのだ。
この「人間革命」の複雑さを詳述した私自身の著書(Knight 1991)が出版されてからほぼ10年後、人類学者のクリストファー・ボーム(Christopher Boehm)は、その洞察にもかかわらず、最も重要な要素であるセックスとジェンダーの力学についての言及を一切省くことで、政治的な観点から安全策を講じた理論のバージョンを発表した(1999)。G&Wが人間革命理論の信用を失墜させるために明示的に言及するのに十分安全だと考えているのは、この抽象的でユニセックスなバージョンなのである。
ボームは、私たちの最も古い祖先は、一方的な協力者でも一方的な競争者でもなかったと指摘する。それどころか、他者を支配する一方で、支配されることに抵抗するために同盟を結ぶという心理的傾向があった。このような下からの集団的抵抗は、最終的には、リーダーになろうとする者が集団を支配するのを阻止するために、全員が一丸となることで頂点に達した。私たちの祖先のチンパンジー的な支配は、今や逆転し、「逆支配」、つまり平等主義的な倫理観にコミットした道徳意識の高い共同体による支配へと結実したのである。
G&Wは、人類は「......何をすべきか指示されることを自意識的に嫌うようになった」(p.133)という考えに賛同している。この文脈では、現存する狩猟採集民が「嘲笑、羞恥、遠ざけ......他の霊長類に類似するものはない」(p.86)、「自惚れ屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために集団で採用される戦術の数々」を示していることに同意している。彼らがまったく関心を示さないのは、そうした戦術が進化の過程で人間の本性を形成する上で重要な役割を果たしたという考えである。
ボームの説明に対する反論をまとめると、狩猟採集民が一貫して平等主義を好んでいたという示唆は、「何万年もの間、何も起こらなかった」という「奇妙な主張」であるという。狩猟採集民の祖先が一貫して平等主義的であったとすれば、彼らの政治的生活は何らかの形で凍結され、時間が止まってしまったに違いない。G&Wは次の言葉で締めくくっている:約12,000年前以前、人類は基本的に平等主義者であったとボームは主張する。ボームによれば、約20万年間、[これらの]政治的動物はみな、ただ一つの生き方を選んだのである」。(p. 87)
唯一の問題は、これはボームが書いたことではないということだ。彼の実際の言葉は引用に値する:
ひとたびどこかのバンドが平等主義的な秩序を発明すれば、この社会的なやり方の根本的な変化は近隣のバンドにも目につくようになる。特に、非常に攻撃的ないじめっ子を擁するバンドでは、部下が支配されることに対して両義的であれば、どこでもその利点は明らかだっただろう......。魅力的な平等主義の伝統が、地元では専制的な伝統に取って代わり、徐々に文化的な拡散が起こると予想される。やがて、より長い距離を移動する移動パターンによって、この政治的発明がかなり急速に大陸から大陸へと広まっていったと考えられる。(Boehm 1999: 195)
これが成功した革命のやり方だ。ボームの主張は単純に、1万2千年前まで『人類は基本的に平等主義者だった』というものではない。そうではなく、初期の人類はさまざまな政治システムを発展させながら、平等主義というひとつの特に成功したモデルに徐々に収斂していったというのである。
かなり不当なことに、『万物の黎明』は現代の進化論を社会進化論と混同している。社会進化論とは、「未開」から「野蛮」を経て「文明」へと進歩する段階のはしごを描いた19世紀の物語である。ダーウィニズムは科学的であると私たちは語り聞かされるが、実際は純粋な神話である。G&Wはそのように空想的に、進化論を全く認めない人類の起源に関する視点を、読者が真剣に検討することを期待している。
この著者たちが認める唯一の科学は「考古学的科学」であり、その考古学がさほど遡らない場合のみである。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と、時折出てくる火打石のかけら」(p.81)からは何も読み取れないという理由で、「万物の黎明」をわずか3万年前とすることを正当化している。
このような言い訳は、私たちの種の最もユニークな特徴である芸術と象徴文化が、以前考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという最近の証拠に照らすと、もはや通用しない。この証拠は、骨や石に限らず、ビーズ、幾何学的な彫刻、墓用品を伴う埋葬、砥石や絵の具壺などの工芸品で構成されている。G&Wは、これらの発見のうちの1つか2つに気づいてはいるが(83-4頁)、ほとんど関心を示していない。最先端のダーウィン理論を黄土の記録に適用すれば、社会力学、儀式の実行パターン、性別による同盟関係についての予測を生み出す可能性が非常に現実的になるにもかかわらず、である。(Power 2019; Power et al.
残念ながら、これらの著者たちは、どのような形であれ、ダーウィニズムには近づこうとしない。彼らは、彼らが「フェミニスト」と呼ぶ人物(実際には霊長類とヒトの社会生物学の創始者として高く評価されているサラ・ハーディ)が、人間の本能と心理の形成における集団的育児の重要な役割について「物語」を考え出したことを認めている。「神話は悪いものではない」とコメントしながら、彼らはこの特別な神話を「重要なもの」と表現している。そして、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、このような洞察は部分的なものにしかなりえない」(p.82)と口にして、すぐさまこの神話に疑念を投げかける。この種のトリック--この場合は、ハーディの画期的な研究が、私たちの共通のミトコンドリアDNAの祖先の年代測定より200万年ほど前のホモ属の出現に焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに、人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
中石器時代や新石器時代の考古学に興味のある読者なら、本書には興味をそそられる推測がたくさん書かれているだろう。しかし、私たちがどのようにして人間になったのか、つまり、異常に明瞭な目、並外れて大きな脳、独特の社会的感情、笑い、音楽や言語に対する生得的能力などがどのようにして発達したのかに興味がある人には、まったく何も見つからないだろう!
タイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『万物のティータイム』の方が正確だろう。物語は、氷河期のフランスとスペインに描かれた壮大な洞窟壁画で知られるヨーロッパの後期旧石器時代から始まる。著者によれば、その段階でようやく考古学が面白くなってくる。初めて、社会の複雑さ、階層、豪華な埋葬などの証拠が見え始めるのだ。
G&Wにとって、狩猟採集民の祖先がアフリカでもっと早くから平等主義的なライフスタイルを確立していたという事実は、さしたる関心事ではない。彼らは、タンザニアのハザ族のような現存する狩猟採集民が資源を共有していることは認めるが、それを賞賛する代わりに、蓄積への抵抗が「社会的複雑性」の出現を妨げていると不満を述べている。著者たちは社会階級という概念を嫌っているようだ。
つまり、狩猟採集民は富の蓄積に抵抗することで、複雑性を妨害する、つまり階級社会の発生を阻止するのである。G&Wはここで狩猟採集民の専門家であるジェームズ・ウッドバーンの権威を持ち出している。彼らは彼の研究から、「真に平等主義的な社会を維持する唯一の方法は、あらゆる種類の余剰を蓄積する可能性をまったく排除することである」(p.128)と結論づけている。このことは、社会の複雑さを排除し、人間の文化的・知的生活の豊かさを排除することになると彼らは主張する。
ウッドバーン(1982、2005)は確かに、蓄積に対する意図的な抵抗が狩猟採集民の平等主義を支えており、意識的になされた政治的選択を表していると主張している。彼は、このような平等主義は非蓄積型狩猟採集民だけの特徴であると観察し、「即時回帰」こそが人類経済の原型であると結論づけた。しかしウッドバーンは、そのような平等主義に複雑性が欠けているとは主張しなかった。実際、彼は「単純な」社会形態と「複雑な」社会形態との二項対立を有害で誤解を招くものとみなしていた。ウッドバーンにとって、平等主義を維持することはこの上なく洗練された達成であり、単に不平等が生じるのを許容するよりもはるかに高いレベルの政治的知性と複雑性が要求されたのである。ハザ族には、必要以上の富を蓄積させることがいかに危険かを理解する知性があると彼は説明した。
しかしG&Wによれば、富の不平等は問題ではない。彼らの立場を支持するために、彼らは17世紀にヨーロッパの「文明」を批判したファースト・アメリカンのカンディアロンクを引き合いに出している。やや説得力に欠けるが、彼らは、カンディアロンクと彼の最初のアメリカ人共同思想家たちは、「富の差が権力の体系的不平等に変換されうることを想像することさえ困難であった」(p.130)と断言している。
G&Wは、即時回帰型の狩猟採集民が富の不平等が生じるのを拒んだことを認めている。しかし驚くべきことに、彼らはこの状況全体を期待外れとみなしている:
こう言うと、何か希望に満ちた楽観的な話に聞こえるかもしれない。実はそうではない。この言葉が示唆するのは、やはり、最も単純な採集者以外には、その名に値する平等は本質的に不可能だということだ。それでは、私たちにはどんな未来が待っているのだろうか?
どんな未来?アフリカの狩猟採集民からインスピレーションを得ている活動家たちは、現代の都市生活者を、不運なハッザ族のように、小さな遊牧民集団の中で繰り返される単純な生活に「はまり込む」よう招いている、と彼らは示唆する。
はっきり言っておくが、私は原始主義者ではない。私は技術的、社会的、政治的発展に賛成である。ハザ族は、必要に応じて富を共有し、笑い、歌い、遊びの中で「時間を浪費」し、誰かに支配されることに抵抗し、他のすべての心配事よりも互いの子供の世話を優先することが、充実した楽しいことであることを示している。開発に関して言えば、この政治的に洗練された弓矢ハンターたちは、私たちに多くのことを教えてくれるだろう。
(続く……)
急進的な著者の本が主流紙で書評されることは、ましてや好意的に評価されることは滅多にない。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローによる『万物の黎明』は例外である。わずか2ヶ月前に出版されたこの本は、すでに世界で最も影響力のある英字新聞や雑誌の多くから賞賛を受けている。
著者のアナーキズムの主張に疑問を呈する書評家でさえ、「3万年にわたる変化に関する岩盤の前提を覆す見事な新説」(アトランティック誌)、「多くの大陸と数千年にわたる文明に関するめくるめく物語の数々、そのすべてが自由であることの意味に取り組んでいる」(ワシントン・ポスト紙)と称賛している。また、ソーシャルメディア上の左翼的な投稿者たちからも、好意的なコメント-場合によっては絶賛!-が寄せられている。
しかし、以下に掲載する2つの書評は、いずれも唯物論的人類学者によるもので、この本の人類史に関する記述は、大量の反対証拠を無視しており、その政治的主張は観念論的で自発主義的であると論じている。どちらの書評も特に、女性抑圧の原因を考察していないことに批判的である。
クリス・ナイトはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの人類学上級研究員で、アフリカにおける人類の起源を研究するチームの一員である。著書に『Blood Relations(血のつながり)』など:Menstruation and the Origins of Culture』、『Decoding Chomsky: Science and Revolutionary Politics』などがある。The Dawn of Everything』の書評はTimes Higher Educationに掲載された。
ナンシー・リンディスファーンとジョナサン・ニールはともに人類学者として訓練を受け、人類の進化、階級社会、性的暴力についての本を執筆中。ナンシーの近著は、リチャード・タッパーとの共著で『Afghan Village Voices』(アフガニスタンの村の声):Stories from a Tribal Community, 2020』である。ジョナサンの近著は『Fight the Fire: Green New Deals and Global Climate Jobs』。The Dawn of Everything』の書評はエコロジスト誌とブログ『Anne Bonny Pirate』に掲載された。
本書は楽しく、有益で、時には爽快である。また、根本的なところで支離滅裂で間違っている。ヨーロッパに洞窟壁画が現れ始めた頃からの、比較的最近の先史時代について学びたいのであれば、必読の書である。しかし、人類が最初に笑い、歌い、話し、芸術、儀式、政治を創造し始めたのはなぜなのか、どうしてなのかを知りたければ、きっと失望するだろう。
この本のタイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『お茶の時間』の方が正確だろう。ホモ・サピエンスがヨーロッパに到着する何万年も前にアフリカで始まった文化の開花を体系的に横取りし、この物語はあまりにも遅く始まる。
欠点はあるが、この本は広報の勝利である。フリードリヒ・エンゲルスが『家族、私有財産、国家の起源』を出版して以来、左翼知識人や活動家が人類の社会的起源や先史時代の過去について学ぶことにこれほど興奮したことはない。
短い書評では、本書の幅の広さと博識を伝えることはできない。その核となる政治的メッセージは露骨だ。平等主義の狩猟採集民が生活の中で共産主義を実践したというエンゲルスの話は神話である。『万物の黎明』はエンゲルスを見事にひっくり返している。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの考え方と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。デヴィッド・グレーバーは、マーシャル・サーリンズとの共著『王について』の中で、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたことから、国家権力の原理は人間の条件の不動の特徴であると主張している。
よりによってアナーキストが国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、本書はそのメッセージに重みを与えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。もうひとつの世界は可能である」という革命的スローガンはもうたくさんだ。その代わりに、グレイバーとデイヴィッド・ウェングローは、「階層と平等は、互いに補完し合うものとして、共に出現する傾向がある」と主張している。ある場所で自由を手に入れるには、別の場所での抑圧を受け入れるしかない、と彼らは言っているようだ。
著者たちはダーウィンの自然淘汰理論に違和感を抱いており、現代の進化論を「社会進化論」と混同している。現代の進化論は科学的であると主張するが、実際は純粋な神話である。グレイバーとウェングローは、進化論をまったく認めない人類の起源についての視点を、読者が真剣に検討することを期待しているのだ。
彼らが認める唯一の科学は応用科学であり、この場合は「考古学的科学」である。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と時折出てくる火打石のかけら」からは何も読み取れないと主張することで、「万物の黎明」の年代をわずか4万年前とすることを正当化している。この言い訳は、人類の最もユニークな特徴である芸術や象徴文化が、これまで考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという、説得力のある最近の証拠に照らすと、弱々しく見える。その証拠とは、骨や石だけでなく、ビーズ、幾何学的な彫刻、埋葬品、砥石や絵の具壺などの工芸品である。
彼らが "フェミニスト "と呼ぶ人物(実際には進化人類学の第一人者サラ・ハーディ)が、現代人の本能と心理を形成する上で集団的育児が重要な役割を果たしたことについて興味深いことを言っていることは、グレーバーとウェングローも認めている。しかし彼らは、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、そのような洞察は部分的なものにしかなりえない」とコメントしている。この種のトリック--この場合は、ハーディの研究が "アフリカのイブ "の年代測定より200万年前にホモ属が出現したことに焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
グレーバーとウェングローは、初期の平等主義を "有害な神話 "として否定する一方で、狩猟採集民の多くが "自称自慢屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために、嘲笑、羞恥心、敬遠など、他の霊長類には見られない戦術を総動員している "ことには同意している。ではなぜ彼らは、私たちの人間性を規定する本能や能力が平等主義的な生き方によって形成されたという考えに敵対するのだろうか?
私たちは皆、社会的・政治的に対等な人々と笑い、歌い、遊び、交わることができるとき、最も幸福を感じる。しかし、グレイバーとウェングローは、この事実を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先も同様に、攻撃的な男性による嫌がらせや虐待、支配を選んだかもしれないと言っているようだ。進化人類学者クリストファー・ボームが描く、反権威主義的抵抗の中で形成された道徳意識の高い社会に対する反論をまとめると、狩猟採集民の祖先は一貫して平等主義を好んでいたという彼の考えを、彼らは「初期の人類をさりげなくエデンの園に投げ返している」と表現している。
グレーバーとウェングローの基本的な論点は、政治的選択の自由に関するものである。彼らの考えを説明するために、人類学の古典であるエスキモーの伝統的な生活の説明を思い起こさせる。アザラシを狩る彼らは、夏の間は家父長制的な家族構成を確立し、冬の間は共同生活(夫と妻を含むすべてを共有する)に戻るだけである。私たち人類は、その本性上、大胆な社会実験に駆り立てられるのだと著者は結論づける。その結果、奴隷制度や人身御供、大量殺戮といった極端なヒエラルキーが形成され、破滅的な結果を招くこともある。しかし、遠い過去の良い点は、少なくとも現代のようにひとつのシステムに縛られることはなかったということだ。
この歴史は対立と交替に満ちているが、その周期性はエスキモーの周期性に倣ったもので、一方的な季節性である。グレイバーとウェングローは、ほとんどの狩猟採集民が季節だけでなく月の周期にも従っていることを知らないのだろうか。月経の満ち欠けと結びついた女性の儀式は、基本的に月によって予定されている。
著者たちが問いかける重要な問いは、"なぜ不平等になったのか?"ではなく、"なぜ行き詰まったのか?"である。彼らは自らの問いに答えられるところまで来ているだけに、そこにたどり着けないことに深い苛立ちを覚える。自らに課したハンディキャップのひとつは、女性人類学者による狩猟採集民の研究を見落としがちなことだ。例えば、適切な参照もなしに、彼らはモーナ・フィネガンの共産主義の概念に触れている。彼女は、コンゴの熱帯雨林に住む女性たちが、男性たちが筋肉質な勇気と優位性を発揮する可能性を示すよう意図的に促していることを記録している--男女間の「力の振り子」で優雅に降伏する前に、「ンゴク」と呼ばれる女性だけの儀式で男性たちをあざ笑い、反抗するのだ。しかし、グレイバーとウェングローは、この政治的知性の表現を認める代わりに、ここでの成果やパターンを見出すことなく、それに言及している。
なぜ私たちは行き詰まったのか?正しい答えは、人類が農耕に依存するようになり、太陽暦が月暦の儀式よりも執拗に優先されるようになったからだ。私が最もよく知る先住民、タンザニアのハザ族の弓矢猟師たちは、今でも彼らの最も重要な宗教儀式であるエペメを、新月前後の最も暗い夜に毎月行っている。
太陽と月の中間的な存在であり、世界中でたどり着いた無数の妥協案のひとつが、中世ヨーロッパで毎年行われていたカーニバルの伝統である。庶民が今でも大切にしている伝統は、家父長制の秩序を逆転させるこのライセンスだった。
残念なことに、この「新しい人類史」は、その始まりがあまりにも遅く、アフリカが物語から切り離されているため、女性の抑圧とマンネリ化した現在の苦境との因果関係を説明することができない。
グレーバーとウェングローの新著は、エネルギッシュで、献身的で、万華鏡のようだが、欠点もある。これは私たちに問題を提起している。
デヴィッド・グレーバーはわずか1年前に若くして亡くなった。彼の代表作である『Debt』は、部分的には思わせぶりかもしれないが、その野心は当時としては刺激的だった。活動家として、またオキュパイ運動や社会正義運動のリーダーとしてのデイヴィッド・グレーバーの活動は異例であり、模範的であった。LSEの人類学部門の同僚たちからの彼への尊敬と愛情は、そのことを物語っている。そして、彼の心は常に虐げられた人々とともにあった。
しかし、グレバーが善人であり、つい最近この世を去ったばかりであったからこそ、多くの人々にとって『万物の黎明』が、今後長い間、不平等の起源に関する理解の枠組みとなってしまう危険性がある。
本書の裏表紙には、レベッカ・ソルニット、パンカジ・ミシュラ、ノーム・チョムスキー、ロビン・D・G・ケリーといった、著名で立派な思想家たちからの賞賛の言葉が掲載されている。ケリーはその代表的な例として、「グレーバーとウェングローは、私がこれまで世界の歴史について考えてきたことを、事実上すべて覆した。この30年間で読んだ本の中で最も深遠でエキサイティングな本だ」。
この本は最近、マスコミでかなり注目されているが、このような賞賛が一般的な見方になったら残念である。
人類の進化と歴史における不平等の起源という問題は、私たちがどのように世界を変えようとするかという点で、非常に重要である。しかし、グレイバーとウェングローは平等や階級に目を向けることなく変化を求め、環境や生態系の説明を敵視している。これらの欠点は保守的な意味合いを持つ。
では、ここから。これは膨大な本の、乱暴で部分的な書評である。私たちは、グレバーが知的な議論の切り口を愛し、得意としていたという知識で自分自身を慰める。
この本の最後の段落、525-526ページで、グレーバーとウェングローは自分たちの立場を明確に示している。彼らはこう書いている、
例えば、他のあらゆる点で厳密な研究が、人間社会には何らかの「原型」があり、その性質は基本的に善か悪かであり、不平等や政治的意識が存在する以前の時代があり、このすべてを変えるために何かが起こり、「文明」と「複雑さ」は常に人間の自由と引き換えにもたらされ、参加型民主主義は小集団では自然であるが、都市や国家のようなものまでスケールアップする可能性はない、という未検証の仮定から始まる場合。
つまり、神話を打ち砕く者たちは、人間社会の原型は存在しないこと、不平等や政治的意識が生まれる前の時代は存在しないこと、事態を変えるようなことは何も起こらなかったこと、文明や複雑さが人間の自由を制限することはないこと、参加型民主主義は都市や国家の一部として実践可能であることなど、正反対のことを言っているのだ。
このような断定的な声明は、非常に大胆に述べられ、新しい人類史を書いたという彼らの主張を魅力的なものにしている。しかし、2つのつまずきがある。
第一に、彼らの主張そのものが、彼ら自身の政治的プロジェクトと対立している。第二に、証拠が彼らが言おうとしていることにそぐわない。
クラシックの作曲家は同性愛者が多いとされている。同性愛者のほうが優れた作品を残しやすいという研究すらある。
昔は同性愛者カミングアウトの習慣がなかったため、死後に周辺人物から「実はあいつは同性愛者だった。私もヤラレた」と暴露されるケースが多い。
そして数は多くないが、同性愛の相手が少年だったケースもある。ここで紹介する事例はいずれもジャニー喜多川同様の性加害だった可能性が高いものだ。
ある貴族の甥と肉体関係を持っていたが、その甥の年齢はなんと14歳。ジャニー喜多川のストライクゾーン(13〜15歳)と同じである。
チャイコフスキーの死因は諸説あるが、その一つがこの性加害について当該貴族から告発され、裁判所から自殺勧告を受けて自殺したこととされている。
アメリカツアーの最中に出会った13歳の少年をホテルに呼び出して性加害をしていた話がある。キスと首筋舐めの話までだが、その先もやってるのは容易に推測出来る。
この少年はその後作曲家デイヴィッド・ダイアモンドとして性交、いや成功を収める。ダイアモンドは同性愛者であることをカミングアウトしてるが、ラヴェルによる洗礼が大きなターニングポイントになっていた。