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はてなキーワード: 岩波とは

2021-05-07

anond:20210507185153

黄金期の輝きを取り戻してから言って下さい。

取り戻せば何の主義だろうがどうでもいい。

結果だけ見たい。


どうでしょうねえ。ジャンプの売れ行きってどこまで落ちるかな。

100万部すれすれでしょう。

30年後には50万部くらいだと思うんですよ。

会社もどっかとくっつくかなんかでしょう。集英社国語辞典も、岩波三省堂より勝るとは思えず、何がしたいのかよくわからなかった。

2021-04-27

anond:20210427094009

村上重良『日本宗教』『世界宗教』、山我哲雄『キリスト教入門』、松尾剛次仏教入門』(いずれも岩波ジュニア新書)

文学絵画その他の文化理解するには、それらに影響を与えた宗教に関する理解必要から

2021-04-18

anond:20210418030143

本屋岩波なんて買わねーよ。こいつどこの出身だよ)

anond:20210417105912

それを「充実している」とは言わない。

充実しているというのは「岩波数学叢書ください」といったら「はい」が出せる地方

まあだせないよね。

これが格差だよ。

2021-03-30

anond:20210330150430

あの時代みんな東京を目指してって時代でもないからねえ。

映画だって全然入らないし(エヴァで34億)、ちょっとあとにでたシャングリラは48万枚。

1992年だと、まだ田舎地方80年代のまんまだったね。


杉浦の解析入門がぎりぎり読めた時代かな。93年から下りだしてったから。

カセットテープはまだ現役。150分テープすらあった。

ヤマハはまだ教会オルガンを作っていた。

岩波基礎数学選書が一冊づつチャージされてった時代で、地方都市ならどこにでもあったが田舎にはない。

予備校は今より繁盛していた。


勘違いしてる人が多いんだけど、1990年代に入っても田舎地方は何も変わってないね

唯一変わったのは「首都圏」で、美術の新しい潮流が始まっていたけど、そんなの田舎地方になんかない。

ポップアートで「モナリザバーコード」ってのを出品した奴がいたんだが、そいつカルトQに出ていたのを思い出す。

でも団塊世代とそのあとの世代はほぼ中卒と高卒と専門卒で、彼らレヴェルではなんもできない。

しかたがなく大学受験をした人間が一番多かった。

2021-03-27

anond:20201029101359

なによりの人生の山場が大学受験や専門・大学に在学中のお勉強ってほんと言葉を失う

https://anond.hatelabo.jp/20201029101359

言葉を失うのは、日本人の全員ではないし、共感を呼ぶ層でもなさそうだ。

25歳前後だと必然的にそうなるような気がするし、アメリカ大学院だとQualification Examだから当然なんだが、少々の反論がある。

日本昭和時代、9割が田舎地方に捨てられており、しっかり岩波基礎数学選書を積んでいるような境遇人間は1割を切っていたような気がする。私がいた潰れた本屋さんにも、岩波基礎数学選書は奇麗に並んでたことを思い出す。

私は今の専門が数学ではないので、今の数学科のカリキュラムのことをあまりよく知らないのだが、とにかく図書館で本を積んで生活するという経験はあるだろう。

医学部医学科だと下宿に本のタワーができる。

大学受験や専門・大学に在学中のお勉強」は、「自分人生自分で切り開く」ことでは、ない、のかどうかである

私が知っている高名な人物は、確かに大学学問放棄して別の学問に移り大成した。ある人物難関大学中退して、非常に有名な声優になった。こういうケースは稀で、ほぼすべての日本人に該当するとはとても思えない。

大学受験や専門・大学に在学中のお勉強」が、「自分人生自分で切り開く」ことであってもよいし、なくてもよい。

これでいいではないか

日本に欠けているのはこの柔軟性なんだろうと思っている。

中学受験をさせても、一向に自分の子供の頭の出来が良くならないのも、このあたりに原因があるのではないか

日本に住んでいる人間は騙されてはいけない。首都圏に住んでいる人間地方の倍賢いということはない。1.33倍くらいだと思ったほうが良い。

2035年ごろには、1.22倍くらいにまですり減っていることは容易に推察できる。

2021-02-15

高校生までに読破しておきたい

岩波ジュニア新書リストが欲しいので誰か作ってくれ。

2021-02-09

anond:20210209171133

本来的にはペーパーバック本とか新書も雑に扱っていい位置に来るはずだったと思うんだけど

新書を「教養本」として岩波とかが売り出したのが変な文脈なっちゃったのかなあ。

2021-02-08

anond:20210208151630

これはもうどうしようもない!

だってね、あんた、大学卒業できたのが2割だよ。1990年代は。1990年代末でも2.5割だったはず。

理系はその1/3。

岩波基礎数学選書なんて見たことも聞いたこともないのが14%。

もちろんランダウもなんも知らんよ。

これが20世紀日本の知性だよ。

今と全然違う。

2021-02-01

社会学は滅びるべきなのか

 以下の文章は、社会学客観性が無いか学問の体をなしていないか解体すべき、という暴論を見かけて、趣味社会学を学んでいる人間イラッとして書き散らしたものです。専門家によるまともな読み物としては、盛山和夫社会学方法立場: 客観性とはなにか』(2013)、佐藤俊樹社会学方法――その歴史構造』(2011)(たまたまですがどっちも東大系の人ですね)、あるいは以下で紹介する「客観性論文」やそれ関係論文などがあります。ちなみに「岩波科学科学論文」の人に関しては擁護のしようも無いと思います

 たとえば、この宇宙スパゲッティモンスターによって創作されたという誤ったイデオロギーを抱えた科学者がダイナマイト発明したとして、ダイナマイトは誤った発明であるとか、あまつさえ存在しないということにはなりません。それはそれ、これはこれ、という態度が科学的というものでしょう。しかし、誤ったイデオロギー社会学者が抱えることは望ましくないとされます。なぜでしょうか。

 それは社会社会問題が、原子DNAが「存在する」のと同じ意味では「存在する」と言えないことに根本的な原因があります。たとえばホームレス現在社会においては色々な意味問題とされていますしかし、ホームレス人類の定住以前においては間違いなく問題概念として存在していませんでしたし、中世近世においても今日と全く同じ問題としては存在しなかったことでしょう。原子がこの宇宙の始まりから今と同じように存在していたのとは対照的です。ホームレスを扱う社会学が、物理学生物学と比べて胡乱なものに見えがちな理由はここにあります。誤ったイデオロギーを抱えた社会学者は誤ったもの存在するとみなしてしまいかねないのですね。

 しかしだからといって、今日ホームレス問題としてまったく「存在しない」と言い切ることはできないのもまた確かな実感でしょう。原子の「存在」とは別の意味とはいえ社会社会問題は確かに存在」する、と言いたくなります。「実在」と「非実在」のあいだの独特な在り方。社会学者はそのことを「社会実在」のような言葉で表してきました。これはいかにも怪しい物に思われますしか今日における我々が「ホームレスになりたくない」、「ホームレスが怖い」、あるいは「そうしたホームレスに対する差別的見方こそが問題なのだ」と思っているのもまた確かなことです。およそ100年前、そのことを単に思うだけでなく、その思い自体を当時隆盛しつつあった科学方法分析しようと考えた人々がいました。

 マックス・ウェーバーの「社会科学社会政策にかかわる認識の『客観性』」(以下、客観性論文)という1904年論文がありますウェーバー社会学におけるビートルズであり、この論文イエスタデイくらいの重要さと著名さを誇ります。要するに、まともに社会学をやっていればなんとなくは知っているべきもの、という位置づけでしょう。(ちなみにLet it beは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。読んでいないのは許されない)

 とか言いながら私は手元にその本が無いので、ネット記述に頼りつつ思い出した記憶で以下のことを書くことをお許しください。

 ウェーバー客観性論文のなかで社会学者がよって立つべき「価値自由」という概念提唱します。この主張はしばしば「価値判断をしてはならない」とか「価値判断に影響されないデータだけを虚心に扱うべきである」といった主張として誤解されていますしかしそうではなくウェーバーはここで「社会学者もまた人間である以上、何かの価値判断を持ってしまうことは避けられない。そして価値判断は時として認識を狂わせる。しかしだからこそ、社会科学的に取り扱う社会学者は価値判断認識区別しなければならない。そのためには自分の持っている価値判断に対して敏感でなければならないのだ」といったことを主張していたはずです、たぶん。客観性論文については多様な読解や批判がなされている(上に私の手元にその論文が無い)ので客観性論文の内容についてはこれ以上立ち入らないことにします。以下ではその代わりに、客観性論文に関する微かな記憶を頼りにしながら、社会学客観性について考えてみたいと思います

 たとえば次のような主張がなされることがあります。「数字は嘘をつかないが、数字を使う人(社会学者!)は嘘をつく」。けだし名言でしょう。しかし、社会学であるならばもっと深く考えなければなりません。ここでは「ホームレスの人数」について考えてみましょう。ここで名言に従って単純に考えるのであれば次のようになるでしょう。ホームレスの人数は、数学物理における定数のように誤ることなく(それを測り間違うことはあるかもしれないが)存在しているが、それを多いとか少ないとか、それを減らすべきだとか主張する人は誤ることがある、と。

 後半は確かにそうでしょう。しかし、前半は間違っています。たとえば、日本政府ホームレスについての統計を発表していますしかし「国民税金を使ってホームレスの人数を数えよう」という時点ですでに何かしらの価値判断が働いています。そのことは政府サイトに「ホームレス実態に関する全国調査」が載っていて、「鼻くそをほじって鼻血を出した人の実態に関する全国調査」が載っていないことを考えてみればわかるでしょう。こうした極論を言うと、「どちらも数字としては存在するが、後者はただ(未発見物理性質のように)見つかっていないだけだ」と言われるかもしれません。しかしたとえば日本政府ホームレスに関する調査は「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法第2条に規定する「都市公園河川道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所として日常生活を営んでいる者」」を対象にして行われているようですが、ここからはいわゆる「ネットカフェ難民」がその統計から漏れています。これは単なる「測り間違い」なのでしょうか。そうではありません。「ネットカフェ難民」をホームレスに入れるべきか、あるいはそもそもネットカフェ難民」をそもそも問題」とすべきかこそが、ひとつ価値判断であるのです。「ネットカフェ難民」を入れたホームレスの人数と入れないホームレスの人数、どちらが正しいでしょうか?それは重力加速度として2m/s^2と9.8m/s^2のどちらがより正しいか、という問いのようには答えが出そうにありません。

 社会についての数字は、自然科学における定数のようには存在しないのです。つまり社会における事実は、自然科学における事実のようには存在しません。そのような状況で、いかにして社会科学的に扱うことができるでしょうか?

 もしかしたらそもそも可能かを問う以前に、そんなことを目指す必要があるのか疑問に思う人がいるかもしれません。あるいはより直裁に「社会科学的に扱う学問社会学って何の役に立つの?」と聞かれることはしばしばあります。それには多様な答えがありうるでしょうが、私は次のように答えることにしています。「何かの役に立つわけでもないのにやらずにはいられないのが科学の出発点なのだ」と。人間が持つ認識能力や、何かを書く/描く、喋るといった能力は、生存する上での必要から発達したはずです。自分の周囲を見渡す能力や、自分が見た物事他者に伝える能力は、それを持っていない種よりも生存上の有利をもたらしたことでしょう。しか人間は、その必要性を越え出たところまでその能力を、あるいはその能力によって生み出すものを発達させました。それは、芸術とか哲学とか、あるいは科学とか呼ばれるものです。存在しない風景を描くことに、どんな必要性があるでしょうか?死後の世界を思い描くことに、どんな必要性があるでしょうか?そして宇宙の星々の表面を調べることに、どんな必要性があるでしょうか?こういうことを言うと、次のように返されるかもしれません。「芸術哲学生存に不必要かもしれないが、いまのわれわれは科学無しには生きられないではないか」と。まあ、確かにそうです。でも、それは科学根本的な不必要性を否定するものではありません。人間ホモサピエンスは、ニュートン万有引力発見する以前からずっと世界覇者であったではないですか?それでもニュートン万有引力発見したのは、「世界のことをもっとよく知りたい」という、ただ生きるためには不必要知的欲求、こういってよければ人間特有本能からであったはずです。「ただ生きる」ことに飽き足りないのが今の人間であり、そうした人間が生み出したのが芸術哲学科学です。そのうちの科学欲求が、これまた不必要に複雑化した社会のありように向かうことも、私は自然なことだと思っています。先のような問いをする人には、正直に言えば「なぜあなた社会について科学的に分析したいと思わないでただ生きていられるのですか?」と私なんかは思うのですが、これはさすがに社会学に頭をやられてしまった奴の意見でしょう。ほかの社会学者はもっとうまく説明することができるはずです。まあ、そんな可哀想な奴もいるんだなと思っておいてください。でも実際、「社会に対する科学認識って必要?」と言われたら、究極のところ「認識したいんだから仕方ないじゃん?」としか私は返せません。なのでこの問題放置して次の段落に向かいます

 さて、いか社会科学的に扱うことができるかという問題でした。その問題は、社会に「存在する」もの数字が、ふつう科学が扱うもの数字と同じようには「存在しない」、というところから発生しているのでした。より明確に言えば、社会実在は、それを観測する人や社会価値判断を抜きにしては存在し得ないという独特の性質を持ちます。たとえば「ネットカフェ難民」は、ここ二十年ほどの日本労働環境ネットカフェの事情抜きには科学的な意味で「存在しませんでしたし、さらに言えば科学的な意味で「存在」していても、支援団体の人々などが発見ニュース等で取り上げられるまでは社会的に「存在」しえませんでしたし、いまだに政府ホームレス統計には「存在」していない、という状況にあります。そのことは万有引力宇宙の始まり以来、ニュートン発見しようとしまいと科学的な意味で「存在」していた、あるいは今現在未知の物理現象生物現象が、まだ発見されていないだけですでに世界のうちに「存在」していることとは対照的です。

 価値判断抜きで存在し得ない対象を、いか科学的に扱うか。それこそがウエーバー客観性論文のなかで考えたことでした。ここでよくある誤解は、そして絶対に避けられるべきなのは、「社会実在は実は価値判断抜きに存在しうる」と考えたり「価値判断抜きで存在するもの社会学は扱うべきだ」と考えたりすることです。前者が存在しないことはすでに説明しました。社会実在は――それが単なる数字統計であっても――価値判断抜きには存在し得ません。であるからして、後者社会学根本的に否定する思想です。そういう価値判断に影響されざるを得ないもの、すなわち社会社会実在をよりよく知りたいと考えるのが社会学なのですから。それを否定する人に対しては何も言えないということはすでに述べました(あくまで私個人からは、の話ですが。ほかの社会学者はもっとうまく説得するかもしれません)。

 そこでウェーバーが述べたのが「価値自由」でした。社会学者は自分価値判断をわかっていなければならない。より分かりにくく論文に忠実な言い方で言えば、「存在する」ことと「存在するべき」ことを区別しなければならず、科学は「存在する」ことしか明らかにできない。このウェーバーの主張に対しては、それもまたひとつ価値判断ではないか、という主張を投げかけることが可能ですし、一見ただのいちゃもんに見えるその問いは、社会学の中で大真面目に議論されてきました。私の見たところ、この問題は答えが出ない種類の問いなので、取り扱わないことにします。いいじゃないですか、どんな学問だってドグマの一つくらいありますよ。それより重要なのは、「自分価値判断をわかる」ことが、本当に社会実在を扱う上での十分条件であるのか、ということです。それが必要条件であるのは確かにそうであると思います。ある社会学者が「ホームレス問題についての社会学分析」という論文を書くとして(テーマが広すぎますがそれは置いておいて)、その人が「自分ホームレスを望ましい人間の在り方ではないと考えている」とか「というかホームレス気持ち悪い」とか「ネットカフェ難民をホームレスに含めていない日本政府問題である」とかい自分価値判断自覚していなければ、それは社会学研究として成り立たないでしょう。しかし、それだけで十分なのか。社会実在というものは、もっと慎重に取り扱わなければならないものではないか。(実際、客観性論文より後の後期ウェーバーも、そう考えて「理解」を社会実在根本に据えたと私は理解しています[詳しくないので間違っているかもしれません])

 と、ここまで書いて疲れたので一旦筆を置きます。続きは最初に挙げた二冊を読んでください。でも、ここまで読んでくださったあなたに問いたいのですが、私の書いたことは多少なりとも興味深くはなかったですか。社会学はこのような根本的な問いを抱えながら成長してきましたし、まだその途中にあるのかもしれません。私の考えるまともな社会学者はこの文章における中心的な問い「社会実在とはどのようなものか?」に対する、この文章以上に説得的な答えをそれぞれ持っています。そこが人によって違っていいのか、と思われるかもしれません。もしかしたらそこが社会学の駄目なところかもしれません。しかし、おおよその社会学者は確かにウェーバーや(この文章では触れませんでしたが)デュルケームなどが作った社会学歴史の上で考えている、という点では一致していると思います。それこそが社会学共通性であり、知的伝統であるとみなしてはもらえないでしょうか。よろしくお願いします。

2021-01-27

anond:20210127035023

ももちゃん?は読んだことないな。ありがとう読んでみる。

エンデとかダレンシャンとかドラゴンライダーとか、岩波の名作物に加えハイファンタジー海外児童文学ばかり読んでいた。

2021-01-22

anond:20210121232528

中学生なら、もう岩波基礎数学選書は読むでしょうし、

ソナタフーガは無理ですが、和声法や対位法ならやり始めるお年頃ですし、

スミルノフ高等数学ってのも読むお年頃ですし、

早い子なら、哲学書現代哲学ではない)なんかに手を付けるのもいるでしょう。

そういう人は田舎だと1人くらいですわね。

都市だとこれが数百倍なんですよね。

それでも35のころになると、99%素人になってるんですが。

2021-01-16

anond:20210116133008言われるままにするなよ!

>>>俺は勉強の事は何も分からなかったから言われるままにしたよ。>>>

マイルドBランですね。子供を作ったにもかかわらず、子供勉強を見ることができない。

わたし予言通りだね。マイルドBラン問題

満18歳までの子供の学習内容を指導できない人は、子供を作る資格などない。

ただし、「大学学部大学院」の内容を親が熟知して指導する必要は全くない。親も岩波数学叢書を読めというのはさすがに無理。

わたしんとこだとIddonとGriffithsだけど、これを親が読んで理解せよというのは日本では無理だし、諸外国でも厳しい。

2021-01-06

anond:20210106152938

>>大学数学って何?>>

42年前は高校数学が「モノグラフ」の旧34巻セットで、大学数学が「岩波講座 基礎数学」でした。

どちらのセットも、モノグラフは現行版、岩波講座はオンデマンド岩波基礎数学叢書で出ています

多くの教育者はかつてイプシロンデルタ以前以後と判断していたらしいんですが、各国の大学によって開きがあります

2020-12-26

anond:20201122172331かに、むかしの日本社会には、そのような身分存在した。

>>地頭力とは生まれついた身分のこと>>

かに1990年までの日本社会には、そのような身分存在した。

岩波講座基礎数学地方都市本屋に鎮座してた日本はそうだったに違いない。心当たりはある。

けれども、スマートフォンで片っ端からみんながなんでも調べることが常態化してるであろう2035年に、

そんな「地頭力」は意味のある分別なのだろうか?

私は本気で心配している。東京はいずれ「窯の底が抜ける」ように地頭力が低下するのではないかと。

2020-12-23

anond:20201029200726田舎の仕組みなんて普通の日本人は知らなくてよい?

東大を含めた日本のほぼすべての大学凋落したのは、この感情日本国民の多くが保持したからに違いない。

かつての日本は「最新名曲解説全集」や「岩波講座 基礎数学」など、啓蒙事業が盛んだった。それは地方田舎アカデミアから見事なまでに切り離されており、首都圏学生が使い物にならないので始めた企画でもあった。当時の昭和時代高度経済成長による国威発揚気味の出版企画はまだあった。なんせインターネットスマートフォンもない。田舎だとワープロすら持っていない親もいた。親の引き出しを開けると、親が使っていた計算尺が入っている時代でもあった。

この類の啓蒙事業は、1990年代になると受験産業に完全に切り替わってしまった。このため、18歳まで田舎地方に住んでいて、何も知らないまま大学に入ったという人間1990年代ものすごくいた。私の近辺でも、作曲科なのに音色トリルの存在を知らない人やフルート科なのにリングキー拡張奏法を知らない人までいた。そもそもリングキーを持っていないフルート学生もいた。18の年までZerboniやRicordiの新刊一つ知らない音大生ってのも珍しくない。これは日本教育方法の欠陥の一つだが改善されていない。

どうしてこうなってしまったのかというと「田舎の仕組みなんて普通の日本人は知らなくてよい」という教育放棄に似た感情は、日本では正当性を得やすいということである。「普通の日本人」とは誰を指すのか?誰が普通なのか?定義ができないのである日本人は定義しない国民といわれるが、少子化真っ最中フィンランドも似たようなものだ。救済という概念消滅しているのである

田舎のことは知らなくてよい」と放言できる国民が多数の自治体が、少子化するのは当たり前である

2020-12-20

anond:20201220003412

ウイルス地球生命岩波科学ライブラリー 2012

この本あたり読むといいよ。太古より地球生命ウイルス共生してきた。もちろん人類も。

病原体としてのウイルスはもちろん脅威ではあるが、地球生命有益な働きをしてきたウイルスもまた存在する。

2020-12-13

anond:20201213164114

リンク先)おー!加藤和也先生だ!今はシカゴですかな。

>>しか日本国民ほとんどはこの程度のバッタモンを「本物」と認識してしまう程度の教養しかないのだろうから笑えるよな。>>

そりゃそーだ。岩波基礎数学選書絶版になってオンデマンドの国でしょ。低学歴国家という証明なんだよ。

anond:20201213050745

個人的には、高校数学だけじゃなくて一般数学面白そうだと気が付いて、書店に並んでた岩波講座基礎数学の棚を見たときかな。買ってないけどね。

でも、地方都市ならそれは全部そろってたんだよ。ところが、地方都市から岩波基礎数学選書すらなくなったのが2010年代くらいかな。

2020-11-22

チキチキ、クソデカ述語チキンレース

 なんか「ないものはない」とかい深淵からやって来た命題ホッテントリに上がってたけれど、ブコメ欄で言及されていた「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」はオーストリア哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言である。我々が想定する哲学的真理の多くについて、我々は「ある」とか「ない」とかそのほか如何なる述語も設けずに、沈黙を守るべきなのだ――というのがこの発言の主旨だと思われるが、僕は学生時代ヴィトゲンシュタイン代表著作である論理哲学論考を第四章だか第五章の論理式の辺りで投げ出してしまったので、正確な解釈がどうなっているかは分からない。もし貴方が正確な知識を求めるならば、岩波版の『論理哲学論考』を書店に探しに行こう。


 ヴィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学にて当時の哲学大家であるバートランド・ラッセルの元で学んだ後に、ラッセルへとこの『論考』のアイデアを書き送り、激賞を受け出版へと至りました。この『論考』の主旨は、簡単に言えば「世界は言葉でできている」といったものです。極めて凝縮された文体で書かれたこの異形のテキストは、当時の哲学界に激しい影響を与えたと言われています

 さて、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」の一節はこの『論考』のラストを飾る言葉であり、また彼は「梯子を用いて障害を乗り越えた後は、その梯子を投げ捨てなければならない。即ち、この書物もまた投げ捨てられねばならない」とも同書において語っており、彼によれば同書によって哲学界における諸問題は「完全に解決された」とのことでした(後年、彼はこの意見を覆すことになります)。


 ヴィトゲンシュタインは極めてその人生に謎の満ちた人物で、ユダヤ系の影響を大きく受けた裕福な家系に生まれ、本人はカトリック教徒として一生を過ごしました。学業において非常に優秀な成績を収めた彼は、イギリスケンブリッジ大学に進学し、当時の学壇を占めていた哲学ほか様々な学問大家と対面し、議論思索を深めていくことになります

 彼の人物史を巡ってしばしば取り沙汰されるのは、彼が人生殆ど全てに渡り自殺への欲求に苦しんでいたというエピソードです。彼は、兄四人、そして姉三人の八人兄弟の内の末っ子として生を享けるのですが、彼の人生において四人の兄の内、四男のパウルを除く三人は自殺しています。そのため、ヴィトゲンシュタインの心には、常に死への憧憬が巣食っていたというエピソードは有名です。彼は、自分の死に場所を求めて第一次世界大戦従軍したとも言われています。その過酷戦場で、彼はトルストイ福音書解説を紐解きながら、砲声に震える塹壕の中で『論考』の原型を模索し、そして戦場の死に接する中で生への意欲を切り開いた、とも言われています


 さてタイトルの「クソデカ述語」に関してですが、いや、要するに「ない」って何なんですか? って話です。「ない」っていう述語なんなんすか、っていう話です。

 とかくこの世の中には意味のない述語というのが多数存在していて、その内の一つがこの「無」だと思うんですね。つまり、「無」っていうもの言及できないから「無」なのであって、それに対して「ないものはないですね」とか平然と言及しているダ○ソーの店員ほかその他の店員存在は一体なんなんすか? という話なのです。

 要するに、「無」なんてものは「無い」のだから本来であれば我々は「ありません」とか、「無いです」といった述語の使用基本的には控えなければならないのであり、つまり、我々は沈黙しなければならないわけです。それでも、我々が何かについて「無い」だとか、「ありはしない」とか語れるということは、本質的に我々の言語が、その意味対象との関係性に混乱を来しているからなのであって、要はこんな言葉のやりとりなんか単なるゲームのようなものに過ぎないんじゃねえか、みたいなことを考えるわけですね。クソデカ述語。

 世界は「ある」? コップはここに「無い」? もっと正確な記述方法があるはずです。空は青い? 空は青く「ある」? 「無い」について我々が多くのことを語ることができないにも関わらず、何故我々はその対義語とされている「ある」について雄弁に語ることができるのですか? もっと正確な記述方法があるはずです。正確には「コップは移動している。あるいは、コップは現在別の形状を取っている」が正解なのです。クソでけえ述語は投げ捨てろ、梯子を下ろせ。お前らはもっと沈黙しろ

2020-11-19

女性芸人の芸風リタイアポリコレ受容宣言

最近ラッシュで続々とポリコレ宣明が下されてる。

新しい生き方、誰もが傷つかない笑い、脱ルッキズム

大阪頑迷おっちゃんらは顧客から離脱していくかもなので、代わりに朝日新聞岩波の読者がちゃん顧客になって支えてあげて欲しい。

2020-07-05

ノンフィクションって面白い

小説ばかり読んでいた時期は、ノンフィクションばかり読んでいる人を見て「小説のほうが楽しいのに」と思ったものだが、

五月にふとしたきっかけで岩波ジュニア新書出会ってハマってしまい、以降面白そうなものを次々と買って読んでる。

おかげでしばらく小説を読んでいないわけだが、それでも全然構わないぐらい今は読書楽しい

2020-05-21

anond:20200521021010

文章が悪いに一票を投じたい。

山本夏彦が「私の岩波物語」で下記の様に指摘している。

私なりに要約した。拙い所は許してほしい。

岩波用語岩波から出た外国文の訳語訳文)は徹底的に或いは奴隷的に原文を尊重したもので、リズムと骨格を失った文章であり、日本語とは似ても似つかない。

様々な文章岩波用語の拙い模倣が見られ、そのために文章は晦渋難解を極める。

岩波の申し子である大学教授達の影響で、優等生ほど分からない事を言う。

中学校教師達が岩波用語もどきを用い、それが家庭にまで入ってきているのは一大事

もちろん、岩波書店のみに日本語文が混乱している原因があるわけではない。

しかし、大正昭和平成を生きた山本夏彦上記の指摘は一考する価値があると思う。

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