はてなキーワード: 洋服とは
とりあえずまあ、まず、産んでみたい。
「子どもがいたら」ってのはもう私の子宮にいる時点である意味叶ってると思うので、まずはちゃんと産んでみたい。
近々二人目を産む友達が、「またあれをやると思うと怖いけど」と話していた。そのくらいには怖いことなんだと思う。でも、それでもいいからエイヤと産んでみたい。
だってそれが、子どもと出会える最初の瞬間なんでしょ?おまたからでもおなかからでもいいから、会ってみたいなあ。まずは。
あと、今の彼氏とさんにんで、たくさんお出かけしたい。ポニーショーとか見たいなあ。動物園に友だちとその子どもとかと行くと、ふれあいコーナーとかですごく表情がキラキラしてるの。私もふれあいコーナーとか行くの大好きなんだけど、自分の子どもと行けたらより楽しいだろうな。
言葉とか教えるのも楽しそうだよね。
「わんわんだねー」とか言うのだろうか。私は絵本を読むのが大好きなので、絵本をたくさん読んであげたいな。どてっ!ってやってくれたら多分悶絶しちゃう。私はダルマといえばかこさとし派なのだけど、新しい絵本も、ベストセラーな名作も、私も読みたいものをたくさん一緒に読みたい。
絵を描くのもいいなあ。新幹線を見に行くのもいいなあ。ディズニーは疲れちゃうから、まずは小さな遊園地から行こうね。
お洋服を買うのも楽しそう。モイモルンというブランドのものが好きで、お友達とかにあげたりしてたけど、自分の子どもに着せてあげたい。ユニクロの絵本シリーズもかわいいよね。マールマールみたいなかわいいのもいい。西松屋で探すのも楽しそう。
親戚の子どもには服をときどきあげるんだけど、とっても喜んでくれる。すごくあったかい気持ちになる。自分の子どもだともっとあったかくなれるだろうな。まあ、我が子となれば自由に買いまくることはできないんだろうけどねえ。ときどき、遊びでジャアンみたいなコーディネートさせたい。
絵本を読むのは楽しいだろうなあ。私が。本を読むのが好きな子ならいいんだけど。絵本に興味がなくて外で戦いごっこがやりたいタイプなら、彼氏に全部任せよう。
あ、そうだ忘れてた。手もつなぎたい。手を繋いで歩きたい。ちょうど昨日、親戚の子どもの手を繋いだばかりだ。あったかくてずっと汗ばんでんの。エスカレーターのぼるときに、えいっ!って言ってぎゅっと握るのがかわいい。
つないでる小さい手が少しずつ大きくなるのは、きっとかけがえのない思い出になるだろうな。
手をつなげるようになるまでは、体力がないのでおんぶは避けて、なるべくベビーカーに乗せて、いろーんな景色を見せてあげたい。おんぶは彼氏に任せよう。彼も子どもが好きだし力持ちなので、多分率先してくれるはずだ。
キョロキョロと景色を見る姿を眺めるのは愛しいだろうな。なんだこれは!?これがきになるのですが!?なぜ右に進んでくれないんですか!?右の景色が気になるんですが!?みたいな表情を見ながら、街を歩くのは大変でもあるだろうけど、かけがえのない思い出になりそうだ。
子どもがいたら何がやりたいって、
結局、やっぱり、「育てたい」んだな。
私の彼氏は抗がん剤治療をしたことがあるので、子どもはもう多分つくれない。多分とつけてみたけれど、周りのみんなよりよっぽど叶わない。夢のまた…だからときどき、こうやって、誰にも見つからない場所でたられば日記を書くのだ。
現実では「いなけりゃいないでしょうがないからね」って顔で生きてるし、その気持ちも嘘じゃない。でも、つい鼻がツンとしてしまう。
私と彼にこどもがいたら、どんな子なんだろうなあ。
特にストレスの心当たりはなく、病気やアレルギーも見つからず、自分で抜いてしまうといったクセもなく、血縁者は皆ふさふさのなか、原因不明の脱毛が始まった。20代の終わり頃から抜け始めいまでは髪が生える場所は2割程度しか残っていない。日を追うごとに減っていく髪が辛かった時期もあるけれど、最近はカツラを洋服感覚で変えて楽しむ余裕ができてきた。
今度は夫がハゲはじめた。先祖代々の薄毛だからこうなることは察していたようだ。髪型を変えたり育毛シャンプーを試したりする姿はちょっと前の自分を見ているようでちょっと辛い。
ハゲの先輩としては、結局なるようにしかならないよ、諦めてカツラ被るなり潔く坊主にするなりした方が楽になれるよ、と言ってしまいたい。
卑しい話だけど、育毛にお金を注ぎ込んでいるのも気になる。毎月5万も6万も投じるのはさすがにそろそろやめにしてほしいというのもある。
夫婦揃ってハゲでいいじゃん。あなたよりハゲ散らかった女が隣にいるんだし大丈夫だよ。だからもうちょっと頭以外に目を向けて暮らしてくれないか。
トイレを我慢していない時がない 立ったり座ったりが面倒臭いので大学ではトイレに行かない
尿意は最悪寝て押し込む 頻度は少ないが空腹も寝て我慢することがある
◯部屋が常に汚い
足の踏み場がない
洗濯して干す所までは出来ても畳むことができず床に散らばっている 床に落ちているものは「汚いもの」なので着る洋服がどんどん無くなっていく 着る下着が無くなったら洗濯をする
◯洗い物をしない
やるわけがない 割り箸や紙コップがあれば洗い物をしなくて済むのではないかとかなり前から考えているが、面倒臭くて買いには行かない
◯髪の毛を乾かさない
面倒臭い そもそもお風呂に入るのが億劫で寝る前にお風呂に入ることがほとんどない
翌朝外出前にシャワーを浴びて、強制的に髪を乾かす状況を作り上げる
◯遅刻する
5分以上の遅刻をする
◯後回しにする
やるべきことをやることが出来ない 締め切り直前になって焦りをブーストにする だから遅刻をするし尿も我慢するしお風呂にも入れない
ただ焦りブースト効果で課題提出などはうまくいっている あまり痛い目に遭ったことはない 苦しんだことがないから変われないの体現
◯計画性がない
計画を立てることが面倒でしない
◯動かない
とにかく壁に肩をぶつける
人混みで人を避けるのが面倒 譲り合いになった際、何故か相手と同じ方向に動いてしまうため常に真っ直ぐ歩く 遠くを見て真っ直ぐ歩いていると自然と周りが避けてくれる
休日はずっと寝ている
◯忘れ物が多い
家を出る直前に用意を行うため忘れ物が多い 前もって用意をすることが出来ない
期日を知らないことも多い
◯サボり癖がある
休めるものはすぐに休む
「おじさん」という言葉はたいていネガティブな意味で使われる。私自身も、良くないと思いつつ「おじさん」という単語を使ってしまう。
ただ、一定の年齢を過ぎた男性すべてが「おじさん」と呼べるかと聞かれるとそうではない。「おじさん」とされる人たちは、多分「名前を呼ぶに値しない」と思われている気がする。「千と千尋の神隠し」で千尋が湯婆婆に名前を奪われているけれど、そういうノリに近い。仮想敵のような群衆感もある。「◯◯おじさん」と呼ぶ時、多くの人が「いるよね〜w」となるのは、それがもはや個人ではなく群衆的存在だからなのだろう。「おじさん」の対義語は「イケオジ」なのかもしれないけれど、おそらく「おじさん」と呼ばれない人は「個人名で呼ばれている」が正しい気がする。
では「おじさん」と「個人名で呼ばれる人」の違いは何なのだろうか。
多分、その差は「努力の値」なのだと思う。「おじさん」は、なんとなく努力が不足しているように見える。少なくとも自分の場合はそうだ。
例えば、会社で新しいツールを使い始めたときに、おじさんはすぐに「無理」と音を上げる。そして私がツールを使いこなしているのを横目で見て「さすが若いからすぐ慣れるよね」とか言う。「いや、違うから。自分でこのツールの使い方をググってYouTubeでチュートリアル動画を見て今に至ってるの。努力してるの」と思う。面倒くさいのでこの言葉を口に出さず「あはは〜」と受け流していると「今度レクチャーしてよ」とか言ってくる。まだこのように言ってくる人はマシな方で、プライドが高いおじさんは、結局新しいツールを使えずまじで窓際で何もせずに時間を潰すだけになる。
「若い子向けの施策を打ちましょう」という話をしているのに、出してくるアイデアは「野球」みたいなものばかりで「リサーチしてます?」と問いただしたくなる。「若い子の間で流行ってるものわからないんだよね〜」みたいなことをマジで平然と言う。「トレンドとかYouTubeの急上昇とか見てます? そんなの30秒あればできますよね? やる気ある?」。この手の苛立ちを感じた時、私は東京五輪の開会式を思い出す。
そして、こういう中年男性は私よりも給料をもらっているのだ。勤続が長いとか、年齢を重ねているからとか、そういうどうしようもない理由で。
実力とか成果が反映されて無能おじさんが「無能」としてそれなりの処遇を受けているなら納得感もあるのだけど、日系企業だとなんだかんだ年功序列の慣習が残っている場合が多い。おじさんたちは自分たちの立場があやうくならないように、うっすら群れては、似たような価値観をもった人間たちで足場を固めてたりする。この群れは合議で有利に働くから組織にとって悪質な場合もある。外資系企業で働いている中年男性がなんとなくシュッとしているように見えるのは、無能だとレイオフされるからかもしれない。なんというか緊張感が違う。「おじさん」はすべてが弛緩している。
いくら働く女性が増えたと言っても、すぐに社会全体が変わることは不可能で、世の中には今も「努力と処遇が見合っていない中年男性」が多い。それは給料の面だけではなくて、社会的信用とか、無意識レベルの「格差」がやっぱりある。「いや、私の方がこいつより努力しているんだが?」となったときに、「こいつのことは名前で呼んでやらぬ」となるような気がするのだ。
外見だってそうだ。ハゲたならAGA治療すればいいし、太ったならばビールをやめてジムに行けばいい。かわいい女の子から対等に扱ってもらいたいなら、洋服に気を遣えばいいし、美容室に行けばいい。
ザ・クリエイター観た。
スターウォーズをひとつまみ入れたサイバーパンク世界で、火の鳥の語り口で湾岸戦争をやるような……
冒頭の世界観説明のニュース映像は皮肉っぽくて、アメリカの映画でもこういう描き方するんだな〜って思ったけど脚本監督の人アメリカ人じゃないんですね。AIロボットを潰すためにはAIロボットを使うのも辞さない。アメリカだね〜と思ったけど適性言語とか言って洋服着てた日本軍も似たようなもんか。
脳みそスキャンしてロボットに降霊させる唯物論的なイタコ芸をするのは面白かった。逆に人間のコピーであるロボットは身体が鉄でも信仰のようなものを持つし、死人を悼むし自殺もする。JDワシントンが義肢使ってるのも「人間の定義とは?」的な要素なんだろうか。
メカは最近のスターウォーズ作品のドロイドっぽくてかっこよかった。特攻ロボットはなんかかわいかった。
アイスの配達かと思って開けたら爆弾だった所で「マジか……」みたいな感じで死ぬ(?)とこがなんか良かった。警察の投げた爆弾を犬が返しに行く所もなんかコミカルで良かった。あれが人間だったらやはりもっと神妙な空気になってしまうんだろうか。
ただブレードランナーみたく人間とロボットの境目みたいなのが軸にあるというよりは、あくまで最終兵器のブチ壊し合いというエンタメ的物語が本筋で見やすい作品だったと思う。ブレードランナーの方も別に作中でハッキリと何かを断言する事はなかったしな。
https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_104009/
時が止まった故郷、残したい 東日本大震災11年、福島・大熊町 帰還困難区域の住民語る
https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/143687
バービー、ryuchellさん追悼「時が止まったまま。現実を受け止めていません」急死翌日が収録日だった
https://hochi.news/articles/20230718-OHT1T51211.html
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230412/k10014036491000.html
https://www.cnn.co.jp/world/35057248.html
20年時が止まったままの建築も、時代に翻弄された有明・青海エリアが動き出す
https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/02281/011700004/
数年前に仕事で知り合った男性Aさんについて。Aさんは現在50代の男性で、離婚経験があり子供は元奥さんが育てている。年に数回、複数人で飲む程度の付き合いが続いていたが、先月3人で飲んでいたら友人が子供の体調が悪いと連絡を受けて一次会で帰ってしまった。Aさんはまだまだ飲み足りなさそうだし、2人はちょっととも言い出せず少し付き合うことにした。
Aさんは結構酔っていて、増田ちゃんとは一回サシで飲んでみたかったんだよと嬉しそうだった。Aさんは酒のペースは早い。私と同じだけ飲んでいたが、私は酒に強いので温度差は開くばかりだった。すっかり酔っ払ったAさんが、実は自分にはもうひとつの顔があるなどといかにも聞いて欲しそうに言い出したので聞いてやると、要は女装趣味があるそうだ。
私の友人にトランス女性がいるが、彼女と違ってAさんは性自認男性、恋愛対象女性のいわゆるシス男性らしい。ただ若い頃に遊びでやってみた女装が周囲に好評で楽しかったので今でも続けているらしい。離婚の原因の一端は女装にあるとも匂わせていた。
引くよねー?と言われたので、別に(興味もないけど)引かないですと答えた。するとAさんは目を輝かせて自分の女装自撮りを見せてきた。はっきり言って加工していてもおじさんとわかる仕上がりだった。なんで女装おじさんっておばさんじゃなく、若い女の子になりたがるの?(追記・性自認男性女装おじさんにとって、女はどこまでいっても『見るもの』でしかないので、自分好みの女の子になる発想しかないのかも?と思った)
でもそんなこと言えるわけがないので、なるほどいいんじゃないですかね・・・。と無難な感想を述べるにとどめた。褒められたととったらしい。Aさんはナンパされちゃうとか女装仲間にメイクを教えているとか言って挙げ句の果てに30代女のくせにほぼ化粧をしてないわたしに向かって増田ちゃんにも教えてあげようか〜?笑などとのたまった。今度増田ちゃんとサシ飲みする時は女装でくる!などと勝手に宣言までしていた。なんでまた2人で飲まなきゃいけないんだよ・・・。と思ったが、教えてあげよっか〜?のムカつきによって女装姿を見てやりたいという意地悪な気持ちが勝ってしまい3週間後にまた飲むことを約束した。
飲みの日、Aさんは本当に女装で来た。どこかで着替えてきたのかと思ったら、自宅からその格好で来たと聞いて驚いた。ペラペラのミニスカートとふわっとした長袖のブラウスと厚底のサンダル、10代風の格好だけど若い子は私服に使わないストッキングとスカーフ(性差のでやすい足の質感や首元を隠すためなんだろうが)があまり合ってなかったし、メイクはとにかく厚かった。
変じゃない?と本人に聞かれれば、変じゃないですとしか言えない。でも確実に女装とわかる仕上がりだった。年相応の肌に対して異様にツヤのある明るい色のウィッグは一昔前の姫カット風だった。褒めて欲しいのはよくわかったが嘘を言いたくはなかったので濁し続けた。そしたら女性服の店員に男と伝えたらすごく驚かれただとか、男からの視線が凄いとか語りだした。そうなんですねとしか言いようがない。
途中でAさんがトイレに立つ間どうやって切り上げようかなと考えていた。戻ってきたAさんが女子トイレにナプキンあったよ!と大きめの声で言ったのですべて無理になった。その日私が生理だとかそういう話は一切してない。Aさんの自慢を聞き流し、まだ飲みたがる彼を振り切って1軒目で解散した。帰ると、Aさんから「なんか、増田ちゃん意外と偏見あるなと思った😅笑」とLINEが来ていて怒りが湧いた。私が帰ったのは、彼が女子トイレを使ったからだと思っているのかもしれない。はっきりとは言わないが、なんか嫉妬してる?的ことまで言われた。自分を褒めない人間には問答無用で差別主義者のレッテルを貼れるの便利そうで羨ましいです😅
私にはトランス女性の友人が何人かいるけど、彼女らは当然女子トイレを使っている。これからもそうすべきだと思う。以下はそんな彼女たちとAさんを比べるのがそもそも間違いなのだが、という前提付きで書いていく。
Aさんは小柄で細身なので、180近くあるトランス女性と比べたら“女装”はしやすいと思う。洋服のサイズもピッタリだって自慢していたし。でもあのミニスカートは、50代女性が履くものじゃない。50代男性が女装するなら普通に考えて50代女性に近づけるのが不自然さがでにくいと思うが、なぜかAさんは10代のような格好をしていた。それで男の目がすごいって、そんなギリギリの丈のスカートを履いてたら見られるに決まってる。いかにも服装にこだわりがありそうなお洒落さんかギャルならともかく、ダサくて若くなくてミニスカなのは異常なのだ。その上、それで集まる視線を良いものとして喜んでるんだから、本当に男なんだな…と思う。男性からの性的な視線って、女性にとっては危険と隣り合わせだと思う。
別に女子トイレが必要でもないのにパス度とかいう自分がどれだけ女性として違和感なく周囲に溶け込めたかという仲間内のマウントのために女子トイレを使っていていいご身分だ。女装の男性だってわかっても誰も言わないだけだよ。ブチ切れされても怖いしさ。仲間内で褒め合うのは結構だけどみんな褒めてほしいから褒めてるだけでしょ。Aさんレベルの女装を本当に服装相応の「女の子」として周りが誉めそやしているならそいつらも女の解像度が低いとしか言いようがない。
あと女装をカミングアウトしてから馴れ馴れしく、腕とか組んでこようとしたのも無理だった。女同士でやってるのたまに見るからだろうけど、本当に仲良い人しかやらないし女でも無理な人は多いし学生じゃなくなってからはほぼやらなくない?長年女をやってたらその辺の線引きできるはず。どこまでいってもおっさんじゃん。女の都合のいいとこだけつまもうとするなよ。
もちろん私が気づかない女装の男性はいるだろうね。女性的な格好をしている人の内、出生時に女性じゃなかった人をすべて見抜けるとは思ってないし見抜きたいとも思ってない。最近知り合ったトランス女性は、言われなければ男の体で生まれたとは気づかない見た目だった。
私はトランスジェンダーの人が手術なしで性別変更できる件には賛成だし、女性用スペースもどんどん使ってほしいと思う。でもその賛成の気持ちにどうしてもAさんみたいな趣味女装の人の遊び場にしてほしくないとか、性犯罪者が…とネガティブな気持ちが混ざってしまう(それを増田以外では表明しないようにしている)。トランスジェンダーと性別問わない危険人物の問題は別なのはわかっているのに、どうしても「〜だったら嫌だな」という気持ちが手放せない。
Aさんからはちょこちょこ連絡が来るけど無視してる。相手からしたら偏見と嫉妬まみれのクソ女なんだろうけど、対話したいとは思えない。わたしは今いるトランス含めた友人たちを大切にしていこうと思う
苦手というと毒親や、貧乏な家庭だと思うかもしれないが、私の親は裕福で理解のある親だった。私は何不自由ない教育を与えられて、それなりに評価される大学に入り、それなりに社会からも認められる会社に入った。まさに今の言葉で言えば親ガチャ成功だと思う。親が苦手とは何事かと思われるかもしれない。まさにその通りで私は親不孝な息子なのだ。
なんとも言えない親への思いは歳を経るごとに増していった。なぜだか全くわからないが、親と話すたびに、苦手意識が増していくのだ。
自分の親は愛すべきである。兄弟は助け合うべきである。私は強くそう思う。そう思うからこそ、どこかむず痒く、脂っこいものを食べて胃酸が上がってくるような気持ちに襲われるのだ。そして時には胃が痛くなるほどの胸焼けを起こすのだ。
思い起こせば高校生の頃からそうだった。親とは何を話しても面白いとは思えない。むしろ窮屈になる。視野が狭窄して自分というものが何かわからなくなる。こんな気分になるのは親と話している時だけだ。
社会に出て実家に帰るたびに、この思いに駆られては押しつぶすを繰り返している。30歳をすぎて、そろそろこの思いに決着をつけなくてはいけない。
実家から帰る新幹線のホームでぼんやりとそんなことを考えながら、電車に乗り込み窓際の席に座った。今日はとても空いているようだった。
思い起こすと、私の親は自分というものが一切なく透明に見えるのだ。自分の意思よりも、家族の意思を優先する。家族の意思よりも、社会の意思を優先する。自分の意思が全くなく、何かに決められているようだった。
そうやって生きてきた人なのだ。よく親が言っているのはこんな言葉だ。「親はこうあるべきだ。子はこうあるべきだ。親戚なのに何もしてくれない。医者は真摯に病人に向き合うべきだ。女性はこうだ。男性はこうだ。良い歳して何してるんだ。」そんなことを口にしながら、泣いたり、怒ったり、苦しんだりしている。それを聞くたびに私は頭が痛くなるのだ。他人のことなんて放っておけば良いのにと思う。誰がなんと言おうとやりたいようにやれば良いのにと思う。
私が進路を選ぶ時もそうだった。社会が決めた基準を遂行できる洋服を着飾るために一生懸命だった。親心という名の善意の名を借りて何かに決められた基準を私に諭しているだけだった。塾にももちろん通ったし試験のために必死に勉強もした。
「あなたのためを思って言っている」と口癖のようにいう。今もそうだ。だけどそれは、あなたのためを思って[社会的に間違えてない正解]を諭しているにすぎないのだ。それが愛というのだろうか。そんな生き方は窮屈じゃないのだろうか。
こうして言語化してしまうと、たちまち親への思いがただの苦手から嫌いに変容しそうになり、自分が嫌になった。普通なら感謝すべきだろと思うし、どれだけ自分に投資したかを考えると頭は上がらない。だからこそ辛いのだ。なんとなく苦手で終わらせておけばよかった。終わらせれば良いのだ。私は高校時代に、親に向かって「絶対に友達にはなれない性格」と言っていたらしい。なんてひどい奴だと思った。そんな自分を自覚したくなくて、必死に隠そうとしていたのかもしれない。
まったく行き場のない、終着点のない思いを抱えて、新幹線は見慣れた高層ビルの合間を縫って東京駅へと着いた。誰も私のことなど気にしてない、気にかけてない、横糸も縦糸もない。ふらふらと行く宛もないまま、高架下を通って寂れた飲み屋に入った。終着しない思いを抱えて、浴びるように酒を飲んだ。このまま記憶がなくなって、全く別な人間として生きていければ良いのにと思った。記憶がなくなるほど飲んで、夜の街をふらついた。夜中の12時を回っていたと思う。
ふと気がつくと目の前には知らない女性がいた。見ず知らずの会ったこともない女性だった。身元もわからないただ性を売る女性と、何を質問されても嘘ばかり答えている自分が遠くから見える。そこに存在するのは、ただお金のつながりだけで、お金を得たい女性と、性を買いたい男の汚くて生臭くて、目を背けたくなるような関係しかなかった。「こうあるべきだ」という呪縛から、社会が決めたドレスコードを守るだけの生活から、なんとか抜け出そうとして、ここに辿り着いたのかもしれない。全くの間違いだったとしてもそんな自分を許して欲しい。良い歳してこんなことするなんて馬鹿だと親にな言われるだろう。
過去にも同じようなことがあった。酔っ払って大学時代の友人に出鱈目ばっかり喋ってたと言われたことがある。何かになりたくて、何者にもならなくて、結局そんな自分が嫌いで、自分を消し去ってしまいたいと思っているのかもしれない。いや、きっとそうなんだと思う。
目の前の女性はとても暖かかった。水槽の中で飼われた魚のように思えた。複雑な世界から、生臭くて汚くて煩わしいものを引き抜いた、美しい世界だと思った。誰かを愛したり愛されたり、面倒で煩わしくてこんがらがった関係を自分は築ける人間になれるのだろうか?それを受け入れて、複雑な社会で透明になって生きていくことはできるだろうか。プラスチックのような、テトリスのブロックを積み上げるような、機械的な会話をして外に出た。10月とは思えないほど外は肌寒かった。
苦手というと毒親や、貧乏な家庭だと思うかもしれないが、私の親は裕福で理解のある親だった。私は何不自由ない教育を与えられて、それなりに評価される大学に入り、それなりに社会からも認められる会社に入った。まさに今の言葉で言えば親ガチャ成功だと思う。親が苦手とは何事かと思われるかもしれない。まさにその通りで私は親不孝な息子なのだ。
なんとも言えない親への思いは歳を経るごとに増していった。なぜだか全くわからないが、親と話すたびに、苦手意識が増していくのだ。
自分の親は愛すべきである。兄弟は助け合うべきである。私は強くそう思う。そう思うからこそ、どこかむず痒く、脂っこいものを食べて胃酸が上がってくるような気持ちに襲われるのだ。そして時には胃が痛くなるほどの胸焼けを起こすのだ。
思い起こせば高校生の頃からそうだった。親とは何を話しても面白いとは思えない。むしろ窮屈になる。視野が狭窄して自分というものが何かわからなくなる。こんな気分になるのは親と話している時だけだ。
社会に出て実家に帰るたびに、この思いに駆られては押しつぶすを繰り返している。30歳をすぎて、そろそろこの思いに決着をつけなくてはいけない。
実家から帰る新幹線のホームでぼんやりとそんなことを考えながら、電車に乗り込み窓際の席に座った。今日はとても空いているようだった。
思い起こすと、私の親は自分というものが一切なく透明に見えるのだ。自分の意思よりも、家族の意思を優先する。家族の意思よりも、社会の意思を優先する。自分の意思が全くなく、何かに決められているようだった。
そうやって生きてきた人なのだ。よく親が言っているのはこんな言葉だ。「親はこうあるべきだ。子はこうあるべきだ。親戚なのに何もしてくれない。医者は真摯に病人に向き合うべきだ。女性はこうだ。男性はこうだ。良い歳して何してるんだ。」そんなことを口にしながら、泣いたり、怒ったり、苦しんだりしている。それを聞くたびに私は頭が痛くなるのだ。他人のことなんて放っておけば良いのにと思う。誰がなんと言おうとやりたいようにやれば良いのにと思う。
私が進路を選ぶ時もそうだった。社会が決めた基準を遂行できる洋服を着飾るために一生懸命だった。親心という名の善意の名を借りて何かに決められた基準を私に諭しているだけだった。塾にももちろん通ったし試験のために必死に勉強もした。
「あなたのためを思って言っている」と口癖のようにいう。今もそうだ。だけどそれは、あなたのためを思って[社会的に間違えてない正解]を諭しているにすぎないのだ。それが愛というのだろうか。そんな生き方は窮屈じゃないのだろうか。
こうして言語化してしまうと、たちまち親への思いがただの苦手から嫌いに変容しそうになり、自分が嫌になった。普通なら感謝すべきだろと思うし、どれだけ自分に投資したかを考えると頭は上がらない。だからこそ辛いのだ。なんとなく苦手で終わらせておけばよかった。終わらせれば良いのだ。私は高校時代に、親に向かって「絶対に友達にはなれない性格」と言っていたらしい。なんてひどい奴だと思った。そんな自分を自覚したくなくて、必死に隠そうとしていたのかもしれない。
まったく行き場のない、終着点のない思いを抱えて、新幹線は見慣れた高層ビルの合間を縫って東京駅へと着いた。誰も私のことなど気にしてない、気にかけてない、横糸も縦糸もない。ふらふらと行く宛もないまま、高架下を通って寂れた飲み屋に入った。終着しない思いを抱えて、浴びるように酒を飲んだ。このまま記憶がなくなって、全く別な人間として生きていければ良いのにと思った。記憶がなくなるほど飲んで、夜の街をふらついた。夜中の12時を回っていたと思う。
ふと気がつくと目の前には知らない女性がいた。見ず知らずの会ったこともない女性だった。身元もわからないただ性を売る女性と、何を質問されても嘘ばかり答えている自分が遠くから見える。そこに存在するのは、ただお金のつながりだけで、お金を得たい女性と、性を買いたい男の汚くて生臭くて、目を背けたくなるような関係しかなかった。「こうあるべきだ」という呪縛から、社会が決めたドレスコードを守るだけの生活から、なんとか抜け出そうとして、ここに辿り着いたのかもしれない。全くの間違いだったとしてもそんな自分を許して欲しい。良い歳してこんなことするなんて馬鹿だと親にな言われるだろう。
過去にも同じようなことがあった。酔っ払って大学時代の友人に出鱈目ばっかり喋ってたと言われたことがある。何かになりたくて、何者にもならなくて、結局そんな自分が嫌いで、自分を消し去ってしまいたいと思っているのかもしれない。いや、きっとそうなんだと思う。
目の前の女性はとても暖かかった。水槽の中で飼われた魚のように思えた。複雑な世界から、生臭くて汚くて煩わしいものを引き抜いた、美しい世界だと思った。誰かを愛したり愛されたり、面倒で煩わしくてこんがらがった関係を自分は築ける人間になれるのだろうか?それを受け入れて、複雑な社会で透明になって生きていくことはできるだろうか。プラスチックのような、テトリスのブロックを積み上げるような、機械的な会話をして外に出た。10月とは思えないほど外は肌寒かった。
今年30歳になったんだけど、今まで異性とまともに付き合った事がない。
性別は女。
中高共学だったけど付き合うとか好きとか告白するされる、そんな経験がないまま専門学校に行って(医療系)そこも女ばっかり。バイト先でも浮いた話もなく気がついたら就職してた。
この時まではまあ芋臭かったとは思うが、目も当てられないブスではなかった(と思う)
就職したら同期で1番ブスと先輩たちに言われたため一生懸命ダイエットして、メイクもプロに習って洋服も骨格診断プロに受けて全部変えた。
そしたら、合コンで連絡先を聞かれるようになった。
アプリで異性に会えるようになった。
だけど相変わらず彼氏はできないし、告白されたと思ったら音信不通になったり。
もうずっとそう。
誰かを好きになりたいよりも、「嫌われたくない」が先に来てしまう。
でも無意味に真面目だから、付き合おうって言われないと寝ない。
寝たからって付き合えるわけではないのだけれど。
今思えば、学生時代からまともに異性と話ができない。小学生の時までは普通に一緒に遊んでいたのが、中学になって「異性」と周りが認識しだしてから何か上手くいかなくなった。
それがいまだに続いて、30歳にもなるのにプライベートでまともに男性と話ができない。
仕事モードになれば話はできるが、プライベートの雑談もまともにできない。
脳を通さず口だけで会話してしまう。
そんな自分が情けない。
周りからは異性を意識しすぎだというけれど、じゃあ女友達みたいに話しかけていいのかと言われたらそうじゃない。
上手く話せなくて大人しくして、慣れて話をするように慣れば「思ったのと違う」とか言われる。
自分磨き頑張って、見かけは綺麗に取り繕えたのに、結局自分で誰かを好きになることもなく、このまま1人で生きていくのだろうか。
1人で生きるには自分が無さすぎて
お金もなくて、人を見る目もなくて
誰かを愛したいし誰かに愛されたいそれだけの事がこんなに難しいなんて知らなかった。
旅行したり、美味しいもの食べたり、世の中面白いこと沢山あるのに勿体無い。君のためを思ってこんなに言ってるのに、言い訳ばっかりして休日も引きこもって本当に勿体無いよ。まだ若いのに人生楽しまないと。と言ってくるのだけれど、そもそも給料が少なく生活がカツカツなのでそれどころではない。お金がないので恋人を作る気も起きないし、デートするお金も洋服買うお金も捻出するのに苦労するのに、とても維持出来る気がしない。そんなんだから結婚なんてとても考えられないし、考えたこともない。それとも自分が知らないだけで、低所得で貯金もないのに海外旅行したり、毎週グルメ三昧出来る方法が何かあるのだろうか。自分が無理だと思って情報収集を怠っていたので、低所得者も結婚して子供持って、マイホーム立てれるような制度が施行されたのだろうか?厭世観を持って生きているわけではない。普通に人生楽しんでいる人たちが羨ましくてしょうがない。平均所得以下の人間でも人生を楽しみ尽くす方法があるのなら教えて欲しい。
私は今年28歳になる女だ。
就活に失敗してとんでもないブラック企業で足掻くこと3年、運良く大手の会社に転職できたため、婚活をはじめてみた。遅い年齢であることは分かっていたが、やはり年齢的に同世代のいわゆるハイスペ男は市場から撤退した後だったことに薄々気づきはじめた。
私はそこまで可愛くなく、愛嬌も無い。男に媚を売るのも嫌いである。おまけにコミュ障で、そんなに洒落っ気もない。そんな28のフツメンババアなど婚活市場ではまあ無価値だ。
だが、私は子供が好きだ。大学では高校の教員免許を取り、仕事もずっと教育関係の仕事をしてきた。いつか自分の子供を持ちたいとずっと夢見てきた。それだけは、どうしても諦めたくない。私のエゴであることは分かっている。
ならば適当な男でいいじゃないか、と思うかもしれないが、先行き不透明な時代を生きる子供のことを考えると、せめて容姿とIQだけはいい物を授けてあげたい。
それが、過酷な時代を生きる子供の武器になると思うからだ。ただし、これはあくまで可能性の話であって、勿論どんな子供であっても生まれたからには大切に育てるつもりだ。精子を選ぶという部分においては選択権は私にあるので、高スペックで生まれてくるために自分でできることの最善を尽くすべきであるという考えである。
これは何においてもそうだと思うが、全力を尽くした上でダメだったら現状を受け入れやすくなると考えている。
私のスペックで捕まえられる男との間に出来る子供と、優秀な精子との掛け合わせで出来た子供、どちらが幸せな人生を送れるか考えた時、私は後者だと思った。
この決断を正解にできるよう、頑張っていく。
まさかこんなに読まれると思わず、全てのコメントをありがたく読ませてもらっている。
一つ追記したいことがある。私は昔からおしゃれや化粧がとても苦手で、嫌いだ。人並みに頑張ってはいるが、近年のトレンドである全身脱毛やプチ整形などは、本当にやりたくない。
正直なところ、婚活アプリなどで男と会う前、化粧品を漁ったり洋服を漁ったりしていると無意識に動悸がするし、涙が出てくるくらい辛いのだ。美という客観的指標がないものに、時間とお金をかけている自分が辛くて辛くてたまらない。勉強より就活より受験より何より辛い。だから、私は市場から撤退する。
追記2
両親揃っていないと不幸だという社会は、一人一人の思い込みがそうさせてるんだと私は思う。
つまり、両親が揃っていないと不幸だということにしたい、そういうことにしたい人たちが多いんだと思う。
それがなんでかは分からないけれど。
追記3
肯定コメントや応援コメントがちらほらあって本当に嬉しかったです。世の中捨てたもんじゃないね。子供のために頑張って稼ぐよー
追加4
私は風呂でアベマニュースを見るのが大好きなんだが、冒頭にこのブログのことが取り上げられてて危うく溺れそうになった。マジか。