はてなキーワード: デッドスペースとは
ここに欠けているのは、人類の進化についての真の理解である。第3章で、G&Wは、人類学の主流派のコンセンサスとされる、現存するアフリカの狩猟採集民-「小さな移動集団」で生活する素朴な民-に私たちの採食祖先をなぞらえたことを批判している。そして第4章で、彼らは考えを変える。人類学の主流派のコンセンサスとは、オーストラリアのアボリジニのような狩猟採集民のことである:
大陸を半周し、まったく異なる言語を話す人々の間を移動しても、キャンプは自国と同じようなトーテムの部族に分かれている。このことが意味するのは、住民の半分は彼らに歓待の義務を負いながらも「兄弟」「姉妹」として扱わなければならず(そのため性的関係は厳禁だった)、もう半分は潜在的な敵であると同時に結婚相手でもあったということだ。
ルイス・ヘンリー・モーガン(1877年)は、いわゆる「分類的」親族関係の発見に基づいて、私たちの学問分野を創設した。その原理は「兄弟の同等性」として要約できる。たとえば2人の兄弟は、その関係性に関して互いに相手の立場に立つ。ある女性は妹に、『あなたの子どもは私のもの、私の子どもはあなたのもの』と言うでしょう。だから、子供に関して『私有財産』という概念はない。家族生活は『核家族』ではない。すべての子どもは、数多くの異なる「母親」や他の支援者である親族の間を自由に行き来することができ、大人になるまでそのような自由を享受し続ける。
人生がこのように構成されるとき、その結果は並外れたものとなる。誰もが、広大な地域に広がるつながりの鎖の中で、形式的には互いに同等に扱われる「兄弟」や「姉妹」からのもてなしを期待できる。この結果のひとつは、国家が成長する土壌を持たないということだ。人々が自主的に組織化され、互いに同盟を結び、育児やセックス、ダンス、家庭生活の喜びがより共同的に経験されるようになれば、国家が入り込んで埋めるべきデッドスペース、つまり社会的空白はなくなる。国家に取って代わることなく国家を廃止することはできず、共同体的な家族生活(今日の世界では、自己組織化された近隣地域やその他のより広いコミュニティ)は、そのためのひとつの方法なのである。
不思議なことに、グレーバーとウェングローはその長い著書の中で、親族関係についてほとんど何も語っていない。グレーバーとウェングローは、モルガン=エンゲルスのパラダイムを批判する代わりに、『家族、私有財産、国家の起源』(エンゲルス1972[1884])におけるエンゲルスのヴィジョンをひっくり返している。彼らの言う「はじめにあったもの」は、私有財産、宗教、そして国家である。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの観念と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。マーシャル・サーリンズとの共著『王について』(2017年)では、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたのだから、国家の原理は人間の条件の不動の特徴であるとさえグレバーは示唆している。
アナーキストが私有財産と国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、『万物の黎明』はそのメッセージに重みを加えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。個人的には、すでに燃え尽きようとしている惑星に、どのような「飛び地」があるのか想像するのは難しい。グレーバーとウェングローは、「もうひとつの世界は可能だ」という革命的スローガンを放棄したようだ。代わりに彼らが提示するのは、「階層と平等は、互いに補完しあうものとして、ともに出現する傾向がある」という悲痛なメッセージだけである(p.208)。(p.208)彼らは、どこか別の場所で抑圧を受け入れなければ、ある場所で自由を手に入れることはできないと言っているようだ。
このような批判はあるが、本書の重要な点は、振動を提唱していることである。すべての生物には脈動がある。生きては死に、目覚め、眠り、息を吸っては吐き、季節の移り変わりや、私たちの生命に優しい地球・太陽・月の軌道系のその他多くの周期性によって動かされているのだ。
私たちは、物理的にだけでなく、社会的にも政治的にも、惑星地球をもう一度回転させる必要がある。これは、人々に配慮と支配や統制を混同するなと言うことでできることではない。それは、学校のストライキを支援し、そのピケラインで歌い、職場まで行動を広げ、通りで踊り、交通を遮断し、資本主義を完全に停止させることによってなされるのだ。
しかし、いったん主導権を握ったら、次はどうするのか?ストライキが長引けば、すぐに飢餓に陥る。だから、揺り動かそう。例えば、週1回の学校ストライキをもっと長くし、月に1回実施し、賃金奴隷から全人類を解放するまで世界中に広げよう。炭素排出量は即座に50%削減される。それから仕事に戻り、必要に応じて再編成する。資本主義に逆戻りしないと確信できて初めて、仕事に戻るリスクを冒すことができる。そして、次の新月には子どもたちとともにピケラインに戻ると誓い合って初めて、それを確信できるのだ。世界が再び揺れ動き、息を吹き返すまで、私たちは権力を奪い、それを放棄し続けるのだ。未来を取り戻そう。家父長制でも母系制でもなく、月による支配のようなものを。
それは、最初の人類革命の階級とジェンダーの力学を、今度はより高い次元で繰り返すことだ。このようなことは可能なのだろうか?みんなに議論を開いて、何ができるか見てみよう。それはきっと、活動家であり人類学者であるデイヴィッド・グレーバーが望んだことだろう。
この折り返し場所、いわゆる踊り場に階段を何段設けるかというのをよく見て欲しい
踊り場に段数を作れば作るほど2階に到達するのが早くなるので階段スペースは少なくて済む
階段は上下階にとってデッドスペースになりがちで物置を作っても大して活用できない場合が多い
なので狭小住宅に取って階段スペースは少ない方が良いに決まってる
ところが踊り場の段数が多いほど踏みしろが少なくなり、踏み損ねて転落する、という事故が起きる
90度の角度を曲がるのに1段(段差が無い)のが踊り場、2段回りだと45度、3段で30度、4段で22.5度の扇形になる
外側はそれなりに面積があるけれど内側はほとんど面積が無いので踏み外しやすい
4段作ることは今の住宅では全く無いが、3段も今は危険だということで避けられている
3段作る場合でも180度反転するような踊り場で半分を1段、半分を3段にしたりはするがやっぱり踏み外すので危ない
福岡市博物館の前にはめちゃくちゃ広い池がある
今調べたら、広さ2000平方メートルあるらしい
見た目が涼しげで好きだけど、飛んでもねえくらいのデッドスペースだ
深さは30㎝もないので泳ぐこともできないただの浅瀬
最初に見つけたのは細くてグネグネと曲がった像で、遠目から見たときはムーミンのくねくねとかエイリアンの類かと思った
近づいてみると、足を後ろ手に高くつき上げたバレリーナの像のようだった
次に見つけたのは裸のおっさんがあぐらで座っている像に見えた
水面に裸のおっさんが座る意味がわからなくて、だれかのいたずらか何かかと思った
裸に見えたの先に見つけた像と同じで色が塗っておらず、植木鉢の様な焼いた土色をしていたからだ
博物館の入口近くまで来てようやく池の中に小さな案内板があり、博多人形の展示を実験的に池でやってますと書いてあった
曰く、博多人形の知名度を上げるためで、色が塗ってないのは雨で落ちちゃうから屋外展示するためにあえて塗りませんでしたとかなんとか
一番ぎょっととした博多人形が宇宙服を着たやつ数体で、その足元にカブトガニの博多人形が何体も水に沈んでいるという謎の構図で展示だ
low dead space syringe。ローデッド型シリンジという表記も見られる。
ファイザー社製新型コロナワクチンが1容器あたり5回注射できるか6回注射できるかという問題で、効率よく6回注射するために必要なシリンジ。国内ではニプロなどが製品化しているが一般的な製品ではない。日本もアメリカも一般的なシリンジを用意していたため接種可能回数が目論見より減って騒ぎになっている。
普通のシリンジの場合、ニードルを接続するための筒先にガスケットで押し出しきれない100μL程度のデッドスペースができる。通常は問題にならないが、少容量の注射だと比率的に結構大きな無駄となる。
ニプロのインシュリン注射向け製品の場合ニードルを最初から一体化して筒先内部をできる限り細くすることでデッドスペースをなくしているようだ。他に”Dose Saver Syringe”という商品もあるが仕組みはよく分からない。他社の製品はガスケット先端に筒先まで入って押し出せるような小さな突起を付けている製品も見られる。それによってデッドスペースを半分以下にすることができる。