はてなキーワード: ナンバーとは
「ナンバー9827、エサの時間だ」っていうとマッドサイエンティストが飼ってるキメラっぽくなりそう
欧米ではというLGBTは嘘つきです。ジョージ・ソロスの人形に過ぎない。こういう連中に被害者面されるいわれはない。
ケイリー・マケナニー:アディダスは「女性を消している」最新の企業だ
「アウトナンバード」の共同司会者ケイリー・マケナニーは、アディダスが「プライド」水着を発売するにあたり、ブランドから女性を「消去」したとしてアディダスや他の大企業を批判した。
アディダスの水着広告、「女性を消している」と反発「これはコーディネートされているように見える」
ケイリー・マセナニー:ライリー・ゲインズはあなたが女性を消していると言っていますが、それが実際に起こっていることです。女性はポップカルチャーから、社会から、コマーシャルから抹殺されつつある。しかし、私にとって驚くべきことは、それが起こっているスピードとその速度です。…バドライト、アディダス、私たちは毎日新しい会社の話題をしています。大学のスポーツ、小学校の教室、政府。そして、なぜ突然それが起こったのか知りたいです。ちょっと質問したいのですが、これを調整している中心的な非営利団体はどこかにあるのでしょうか?気候変動で見たように?ワシントン試験官、これらすべての小さな組織が 1 つの大きな組織から資金提供を受けているという爆発的な報告書はありますか? これは調和しているように見えるからです。ごめんなさい、
ムスコが平均サイズを少し下回っているという。
毎度、旅先の風呂場にて遠山の目付で観察を行っている。
別に、本気を出したムスコでチャンバラするのに大きい方が都合が良い、などと思っているわけではない。
しかし、中流より上に位置していることで安心を得るのが一般人の性である故、これは必要な行為なのだ。
なお、これが当地における統計的平均を示すものではないことは予め断っておく。
地元ナンバーがほとんどのスーパー銭湯ではあったが、わずか一時間ばかりの間の観察結果に過ぎないので、俺のは例外だ、と異議申し立てされても困る。
目立ったのは、皮付きだ。
部活帰りらしい高校生大学生からおっさんじいさんまで、多くの人が皮付きなのだ。
いや、見栄なのはわかっている。
これは地域性なのか?
各地での観察の結果、日本人の7割は火星という説はアテにならんというか、わからんな、という認識でいたのだが、ここ上越では確かに当てはまる。
大きさ的には普通だ。
皮付きか否かよりも長さの方で見栄を張っているのか?
サイズの分布に関しても、わりと一般に出回っている統計通りな感じだ。
観察していた中では、やたら立派なムスコをお持ちの方は二人いただけだ。
本気出したら最低でも1.5倍か、恐ろしいな。
小さい方も、やはりそこまで多くはない。
太ると埋もれる、という通説も確かのようだ。
今まで目にしたことはなかったのだが、残酷な遺伝の結果を今回は観測してしまった。
オトウサンと呼ばれた個体のムスコさんは小さく、ドリル皮付き。
一方、息子のムスコはかなりご立派。
10cmは下らないだろう。
毛が無い、色素沈着も始まっていない。
にも拘わらずそのサイズ、その露頭。
これはあれか、世に言う、母による「むきむき体操」による結果か。
あれ、ムクことに快感を伴うことを知った時、息子としては死にたくなること間違いない体操だよなと思って以来、反対の立場を取っていたのだが。
幼少期からの英才教育の結果がこれだとするなら、安易に反対もできない。
オトウサン、泣いていいぞ。
それとも、連れ子だったり養子だったりするんだろうか。
托卵の結果であるとは、同じ男として思いたくない。
さあ、次はどこへ行こうかな。
平成26年以来、10年間、社会情勢の変化で、東京及び地方は最悪な状態になっていると言われます。犯罪性の高さや都民の痴呆化、地方住民の勝利といった状況下で、
何の解決策もないという状態である。しかし、平成30年から東京都に進出してきた前田氏の活動と、八王子に隠れているおぺちや、どこに隠れているのかは不詳であるざーちゃん
といった仲良しトライアングルが形成され、その勢力が全国的に強いため、令和5年に入ってから犯罪性は急激に減少しています。その背景には、八王子に隠れているおぺちと、
東京大学法学部卒の前田氏の社会的影響力の強化で次第に平和な状態に向かっているからです。東京大学法学部卒で、前野町に隠れている前田氏の影響力は絶大で、
令和4年6月11日以来、前田氏がネットで購入した拡声器で活動された場合に、東京都民や埼玉県住人は何もできない状態。前田氏の東大法学部卒という実績や経歴は
警察社会でも絶大で、警視総監や各警察署の幹部階級も無視できないため、いざとなれば、前田氏が、東京大学法律学部卒であるという事実が警察社会をけん制し、警察社会で
やりたい放題をしてきた延岡警察署の巡査や40代警部補なども手出しができない状態。特に最近では、前田氏による、 平成20年11月30日にお前を殺したという意見が、
さいたま県戸田市川岸に響き渡り、 延岡警察署に対しても、同じような電話が入っているため、実際に働いている警察官は激痛で耐えられない。このため、東京都内でも、延岡市でも
一戸建てに駐車している自動車のナンバーで一番多いのは、「ち」であり、前田氏の存在に対して舌打ちをしている国民が後を絶えません。
世間の評価はおしなべて低かったので、Amazon primeに来るまで待っていようと思ってたのだが、
観に行った同僚が、「TV版の仮面ライダーは観てないけど普通に面白かった」というので、本日観に行ったわけだが、
うむ、最後まで退屈はしなかったがこれは評価低いわ、という感想。
製作途中か、せめて試写会の段階で誰かヤバいと指摘しなかったんだろうかこれは。
「製作陣がアレコレ試行錯誤し過ぎて、最終的に『初見の一般人にはどう見えるか』が認識できなくなった」としか思えないまとまりの無さだった。
気になった点を思い付く端から羅列すると、
・最初の2つの敵キャラがキャラ作りし過ぎて滑ってる。蜘蛛とコウモリ。後半の敵はそうでも無い辺り、出現順序を逆にした方が良かったのではなかろうか。初見の客にどう見えるか考えろよ。
・キャラ作りを口癖でやろうという安易さ。蜘蛛なんてなんかメフィラス星人の二匹目のどじょう狙いじゃないかと疑われるわざとらしさ。蜘蛛とか蜂とかだけでなくヒロインまで。そういうの良いから。キャラ作りは人と人との間の呼吸でやろうよ。
・主人公がどういう奴か判らん。後半でやっと父親との思い出とか出て来るけど、変身して怪人と戦うモチベーションがどこから来てるのかとか全然わからん。なんか、隙あらば敵と和解しようとしちゃうせいで、改造人間の悲劇とか全然感じない。要するに主人公に情念が無い。
・途中を端折り過ぎてダイジェストみたいになってる。ラスボスに会いに行くと決めて、次のシーンではもう玉座の前。ワープ能力でも持ってんのか。
・急に疲労するラスボス。途中までライダー2人相手に圧倒してたのに、急に疲労困憊して一人相手に取っ組み合いして転げまわるようになったの何でなの。
・敵も味方も、どこにいるのか分からん。多摩ナンバーだから多摩で戦ってるのか? とにかく、場所が分からないだけでなく、位置関係も距離も判らない。前述のように移動シーンカットしまくってるし地名も出さないし、敵陣にどうやって乗り込むかとか一切作戦立てずにいきなり敵陣ど真ん中シーンになるから。
テンポが良いというレベルの話ではない。信長で喩えると、今川と戦うと決めた直後に義元の本陣に討ち入りしてるシーンに飛ぶような唐突さ。格ゲーかよ。これも、「初見の客に何が見えてて、何が見えてないのか」を完全に失念してる気がする。
観客の予想をコントロールできてない、というか予想をコントロールする発想があったとすら思えない。
・政府の技術力がよくわからん。ヘルメットとかスーツとか修理してたみたいだけど、修理できんのかよ。近い性能の物作れる技術力があるなら、家族経営企業並みに人材が少ないショッカーなんて物の数じゃなくない?
そーいや、「ろくすっぽ構成員がいない巨大組織」って、庵野の作品によく出て来る気がするな。エヴァのネルフもそうだったし。RRRみたいにむやみやたらに人海戦術になるのもアレだが、幹部やらボスやらが1人~数名の部下だけ連れて白兵戦とか笑止である。
っつーか、誰向けに作っとんじゃこの作品。初見の子供向けでは無いよな。かと言って当時はTVで見てましたという層向けでもない。前述のようにキャラ作りが強引すぎてメフィラス星人もどきだし。まあ初代仮面ライダーは観た事ないけど、幾らなんでもあんな敵だったはずがないと思う。ラブロマンスもねーし。SF的な仕掛けもねーし。今時CGで唸らせようというわけでもあるまい。本当に誰向けか判らない。
致命的なのが、美学の無さ。監督の美学が観客に刺さらずにコケた、というより、元々大して作りたい物などないのに取り敢えず何か作らなければならず、アレコレ突っ込んだり削ったり入れ替えたりと繰り返してる内に作ってる側も良く分からなくなったけど完成はさせなきゃいけないので何とか章立てした、という雰囲気がただよう本筋の無ささだった。あらすじ書けと言われたら困るぞこれ。
結論としては、各シーンの頑張りと、取り敢えずダラダラはしてない進行速度のおかげで最後まで見られるが、一本の映画としての核心の無さがひどい。製作陣には反省を求めたい。反省すべき事が山のようにあるだろこの出来なら。
ツイのステ垢作って増田ナンバー控えた紙と一緒に画像付きで出せばいいだけだけど
なんでやらないの?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
できるわけなーいですよねぇwwwwwwwwwwwwwwww
※前書き
分かる人にはすぐ分かる元贔屓ですが誰か分かってもそっとしておいて下さい。
◾︎本文
(下書きににして出せないまま8年も経ってしまったのだけど、区切りをつけるため投稿します。)
なぜ贔屓が元贔屓になったのか?
っていうか元贔屓のことを私はちゃんと好きだったのか?
贔屓が退団してからその答えに至るまで様々な葛藤がありました。
最初に言っておきたいのが元贔屓と今の贔屓を二人を天秤に掛けて元贔屓以上に贔屓が好きになって乗り換えたという訳ではない。
この二人はすごく似ているのだけれど(私見でね)現役時代の二人を比べたことなど一度もなかった。
元贔屓のことは某大作ミュージカルで好きになり組替えをきっかけにファン活動にのめりこんだんだけど、私のファンのピークは2番手時代~2作目あたりでした。
元贔屓の2番手時代はその当時2番手になるのではないかと言われていた上級生を抜かして組替えしたことが原因であまり組ファンに受け入れてもらっていないような雰囲気がありファンでも胃が痛くなる状況だった。
入出でもダントツで遅く入って早く出ていく日々。
ファンの間では、楽屋に居づらいのではないか、辛い思いをしているんじゃないかと憶測が飛び交ったり。
ファンが増えなかったのは色々原因あるとは思うけれど、会に入ったり入出をするメリットを感じられなかったからではないかと思います。
今だから思うけど、元贔屓はギャラリーするだけで十分だったかもとファンですら思う。
平日の入りなんて私含め数人くらいしかいなかった時もあり、元贔屓はギャラリーが死ぬほど嫌いだったので手紙を奪うようにとると一瞬で楽屋に入っていった。
その時は元贔屓が可哀そうで可哀そうで、私は学生だったのもあって結構な頻度で入出に行っていました。
2番手時代の元贔屓は少ないファンが「私たちが守って(応援して)あげなきゃ」と使命感を感じさせるような何かがあった。
追い打ちがトップになる前の大量の組替え、それがまるで元贔屓がトップになる為の体制を整える為のようで組ファンからの批判は凄かった。
本当のことは分からないけれど、あまりに衝撃的でそのすべての批判が元贔屓に行っているような感じがあった。
発表された翌日はどうしても自分の思いを伝えたくて『何があってもあなたについていきます』という内容の手紙を渡すため用事を全部キャンセルして入り待ちに向かった。
紆余曲折を経てトップ就任が発表され、その時のスケジュール帳にはしっかりとトップ就任発表日が記されている。
幸運なことに前トップのサヨナラショー前楽も観れて本来出演してなかったショーナンバーを踊る元贔屓も観れた。
お披露目初日もムラまで行って開演アナウンスやトップ羽を背負った元贔屓にぐっと胸が熱くなった。
お披露目公演観劇数は途中から数えなくなるほど観たし、客降りした元贔屓が本来お客さんとはハイタッチしかしないのに自分だけ手を握ってもらったことがめちゃくちゃ嬉しかったり。
トップになって初のショー、当たり前だけどどの場面でもセンターに元贔屓が居て楽しかったし何より芝居が良作だった。
自分が好きで行っていた入出も途中から自分の意志など関係なくいかなければいけないという義務に変わっていき、渡したかった手紙も何を書いていいのか分からなくなっていった。
観劇回数が大幅に減ったのはトップ中盤〜後半の地方の長期公演からだった。
大劇場と東宝は行きやすいしごまかして行ってたけど地方の長期を通うにはモチベーションが足りなかった。
そして私は上演作品が嫌いだった。
トップ前半期はとてもいい公演をしていたのに個人的にあまり好きでない再演公演を当てられまくった後半の暗黒期を私は未だに許せない。
「これが退団公演か……」
「こんな駄作をあと何十回も観なきゃいけないのか」
と思ったに違いない。
ショーがなかったら絶対に救いようがなかった。
良い公演に当たらなかったというのは贔屓が元贔屓になった要因ではない。
観劇回数は減ったけれどそれでも観ればやっぱり好きだなぁと思ってしまうのだ。
やはり一番の要因は退団発表に関する色々だった。
退団発表より前に発表されたショータイトルが退団仕様だったため
『次回公演で元贔屓は退団するに違いない』
と言われていたのだが、私はどうしてもそれが信じられなかった。
元贔屓は至る媒体で100周年のことについて聞かれ、その度に「本当に大切なのは101年目から」と口にしていた。
だがそれが現実に発表され、寂しさとか惜しむ気持ちより先に来たのは落胆だった。
「あれだけ101周年目が大事とか言ってたのに自分は辞めるんかい……」
そのうえで決定的だったのは退団公演集合日で同期の人が元贔屓と一緒にやめることが発表された時。
「やっぱりな」と思うとともに心が急速にさめていった。
「この人この組でトップになる意味あったのかな?元いた組にずっといればよかったんじゃないの?」
「結局は自分が、二人がよければ組の事はどうでもいいのかな?」
一度思い始めると良くないことしか考えられなくなっていった。
しかも無駄にファン歴が長いと友人伝いに知りたくないことも耳に入ってくる。
会に入った当初仲良くしていた子も一人、また一人と辞めていって結局退団公演まで残ったのは私一人だけだった。
「宝塚にいるの、辛かったのかな」
「ガードの事、ただのギャラリー除けにしか思ってなかったのかな」
「仮初めでも演じてもいいから舞台上で位トップコンビを演じて欲しかった」
そう考えていくともう何もかもがどうでもよくなっていった。
ファンならその人のすべてを受け入れるべき、受け入れられないのはファンじゃない!!という人もいると思うけれど、私はそんなご立派なファンにはなれないし、なるつもりもない。
何よりこれ以上この人のファンを続けていたら、私はこの人を嫌いになってしまうと思った。
言い方は悪いが、私は悩み、苦しんでいる元贔屓が好きだった。
元贔屓はトップとして、スターとして完璧な人ではなかったと思う。歌も、ダンスも、人間としても。
2番手の元贔屓には自分の欠けたものをよく分かっていて、それを埋めようともがき、苦しみ、ただひた向きに舞台に向かっているように私は感じていた。
それがトップになってから宛てられるのは、当たり前だけれど全てが元贔屓のために作られる公演で、もちろん元贔屓は日々上を目指して進化していったのだけれど、その進化のかたちは2番手やトップ初期の頃とは少し違っていた。
目指すものがなくなり、ただ作品にすべてをかけられる充実期というんだろうか。
そう思った時に気づいてしまった。
結局私は元贔屓自身について行きたかったのではなく、自分の理想通りになるであろうと仮定した元贔屓に着いていきたかったのだ。
退団公演は正直義務感とただ「既に払ったチケット代がもったいない」という2つに支えられて観劇に行っていた。
それでもモチベーションを保てなくて、入出待ちには中々行けなくなってしまった。
周りの空気も私にはつらかった。退団に向かい元贔屓を送り出そうとする姿勢や、1公演を惜しみ涙する人たち。
あと少ししかないのに、元贔屓の男役はもう見れないのに、どうして自分はその人たちのように熱くなれないんだろう。素直に応援できないんだろう。
観劇では泣けないのに、終わった後どうしようもなく虚しくなって泣いて帰ったこともある。
結局私は退団公演を結構な回数観て、サヨナラショー付きの回は全部観れたし、千秋楽の入りも出もフェアウェルにだって参加した。
もうそれは好きだから、ファンだからというよりもはや意地のようなものだった。
ずっと(といっても新公主演後からだけれど)見ていた元贔屓の最後を見届ける。それだけに固執していた。
終わった時は実感も寂しさもなく、「あ、終わったんだ」とあっけなかったことを覚えてる。
退団後しばらくは私はいつから元贔屓のことを応援するのが好きからでなく義務になっていたのだろうと考えるようになった。
パッと気持ちが離れたのは退団公演集合日の発表だったけれど、実際はもっと昔からな気がする。
それとももしかしたら最初から好きじゃなかったんじゃないかとすら思ってしまう。
でもやっぱり昔のDVDを観たりするとそこには私が好きだった元贔屓がいて、自分でもよく分からなくなってしまった。
元贔屓が悪い訳でも、辞めた同期の人が悪い訳でもない。
ただ着いていけなかった私が悪い。と自分を責めることもあった。
退団公演が終わってしばらくはとても無気力で、宝塚を観る気にもなれなかった私を奮い立たせてくれたのは
見たかった宝塚を観るためにお金を貯めて異国の地へ、好きな人の退団を思って涙している。
私はそれにとてつもなく感動した!!この出演者の人たちに昔純粋なファンだった自分自身を重ねていたのかもしれない。
この番組を見て、気になっていた今の贔屓を観にムラに行こうと決心した。
その後は宝塚でのもやもやは同じく宝塚で晴らす!というようなハマり具合。
正直今後私がずっ現贔屓を応援できるのかというととても微妙だと思う。
(だって私昔は元贔屓に退団しても一生着いていくと思ってたし)
私はもう二度と好きなのか、義務だったのかなんて悩みたくないし、楽しくて宝塚を見ているのにつらい思いはしたくない。
贔屓のファンになって、前と比べるとずっと緩くだがファン活動も再開した。
今、楽しくてしょうがない。
お芝居でもショーでもオペラ無くてもどこにいるかわかるし、1人だけをオペラで追ってしまって他の人を見る余裕なんてない。
感想のお手紙を書いてると楽しいし、入出で姿を見るだけで満足、お手紙を渡せて幸せ。
お茶会でお話をしてるのを見るのも幸せだし、近くに来ると嬉しい。
文字びっしりの便箋6枚にわたる手紙を寝ずに書いても全然眠くない。
そのたびに私は『前にもおんなじことを思ったことがあるな』とデジャヴを感じていた。
そうだ、元贔屓を応援していた時だ。
私は元贔屓のことを忘れて現贔屓を新たな気持ちで応援していると思っていたのに、現贔屓を応援していることで、元贔屓のことを好きだったのはけして嘘ではなかったのだと思えた。
そう思うと、生で観て泣けなかった退団公演のショーが今になって泣けて泣けてしょうがないのだ。
元贔屓は確かに私の贔屓だった。
私は確かにあの人のことが好きだった。
誰かを好きでい続けるのは幸せなことだけれど、同時にとてもエネルギーを使う。
長く応援していると色々としがらみが増えていく、自由だと思っていたことが不自由になってその時好きだったことを否定したりしまったりする。
「ずっと好きです」
元贔屓に送った言葉は今では嘘になってしまったけれどその時の私は確かにずっと、いつまでもという感情を贔屓に持っていたし感じさせてくれた。
それは嘘じゃないと思う。
2022年 1位シナモロール 2位ポムポムプリ 3位ポチャッコ
2021年 1位シナモロール 2位ポチャッコ 3位マイメロディ
2020年 1位シナモロール 2位ポチャッコ 3位マイメロディ
2019年 1位ヘロウキティ 2位ポムポムプリ 3位マイメロディ
2018年 1位シナモロール 2位ヨシキティ 3位ハローキティ
2017年 1位シナモロール 2位マイメロディ 3位ハローキティ
2016年 1位ポムポムプリ 2位マイメロディ 3位ぐでたま
2015年 1位ポムポムプリ 2位シナモロール 3位ぐでたま
2014年 1位マイメロディ 2位リトルツイン 3位ポムポムプリン
ヨシキティですらシナモロールに蹴散らされてんのに、K-POPが勝てるわけないだろ。
今年もシナモロールが1位はほぼ確定。
ミュシャは二流の画家、その絵はオタクのいう萌え絵程度の絵で、芸術ではありません。 - Togetter
https://togetter.com/li/2121114
これ、やはり『フェミニストは正しかった』という結論にしかならない。すなわち「ミュシャはもちろん3流(これは常識)だし奈良もそれ以下。哲学者さんの言うとおり」
ポイントは『(ミュシャやこの哲学者さんがどうこうではなく)奈良や村上、
つまりアニメ文化(オタクイズム)をいわゆる純粋芸術に昇華したと(これまで)絶賛されてきたグループの正確な美術史的評価』これ意外とヤバい
なぜヤバいかというと(その当時の)画家ミュシャが石板画や広告ポスターといった
表現形態(メディア)に機種依存してたのと全く同じ理屈で『アニメ文化(オタクイズム)がカッコいい限り奈良や村上もまたカッコいい』だから
端的にいってオタク文化、以前ほどの勢いがないばかりでなく明らかに気が狂いはじめてる。
鈴木は宮崎駿(同社の抱えるトップクリエイター)と一介の東南アジア人シングルマザーの区別がもうついてない
宮崎の後継者ともいわれてるオレたちの庵野(ナンバーツー)はヒーローモノ実写でもビシッときめてくれるはずがあの『キャシャーン』と比較されるほどのありさま(大失敗。
キャバクラなど宣伝の「広告トラック」、東京都が規制強化…都外ナンバーも審査へ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.livedoor.com/article/detail/24020810/
表現の自由界隈がなぜか元気だが、国から免許受けて営業してるテレビ局のCMの内容審査なんて昔からガチガチに厳しいぞ。公序良俗に反しないように広告を規制するのはごく普通の話でしょ。
vkaraさん がスターを付けました。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4734806760602615781/comment/fishe
表自の理屈では「殴られた」「燃やされた」「エロと言う方がエロ」「表現の自由」と騒ぐ件だけど、まあガン無視だろうね。ただ「市民」とやらにフェミ疑惑が出た瞬間にジハード騒ぎになるだろうけど( ´ー`)y-~~
vkaraさん がスターを付けました。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4734806760602615781/comment/sink_kanpf