はてなキーワード: コンセンサスとは
違います
辞書を引くなり本読むなりしてください
違います
辞書を引くなり本読むなりしてください
だとして
じゃあ自分の娘が、親友が、男に媚びなきゃ仕事もらえない状況とかすげえいやだなって思うと、俺は男だけど女性の人権を大事にしたほうがいいんじゃない?とか
黒人に生まれたってだけで女に生まれたってだけで、学校に入るな、政治家になるな、投票権を取り上げろ、とかおかしいよね?というのがどんどん認められてきたのが近代
自分が信じてた配偶者に裏切られたら嫌だろ?→リベラル でも妻を保持して巨乳とセックスできるならしちゃいたい→保守 という話です。
定義やコンセンサスのある言葉を俺流解釈で延々掘り下げるのはやめた方がいいと思います
直接関係は無いけど、なんか昔書いた日記の事を思い出しました。
読み直してみて、これが誰かの何かの助けになればと思い共有します。
誤字脱字含め当時のままです。
-----------------------------------
障害について。
それは絶対に正しいと思う。
というかそれが正しくないなら、逆に正しいってことになんの意味があるのかと問いたいくらいだ。
○○と○○が生まれた時、今後どうなるか分からなかった、今もそうだ。
子供だけの話ではなく、自分がいつ障害を負うことになるのかも分からないのだからこれを考えておくことは重要だ。
人生の豊かさや幸福というのは、その人自身が決めるというのは真理だと思う。
なので、障害が人生に寄り添っても、その上での人生の豊かさと幸福を追求すればよいだけだと考える。
ただ、そのためには、それを含め幸福だと思える物の考え方に沿った人生にしなくてはならない。
なので、その考え方を決めることは重要だ。人生を決めるというのと同義な程に。
だから、障害者は生きる価値があるという正しさを自分の中で納得しなければならない。
障害者にも生きる価値がある、のではない、障害者は生きる価値がある、のである。
私は生きる価値がある、と言いたいということだ。私にも生きる価値がある、ではない。
その考えを血肉にしなくてはならない。
様々なことを考える時に、その考えの元となる軸として機能させる程に自分が納得していなければならない。
その考えを自分の考えとして相手を説得できる程でなくてはならない。もちろん相手を説得することが重要なのではない。
相手を説得することができる程、自分の血肉になっていることが重要なのだ。
自分の中で納得できない考えを元にして、自分の行動に結びつけることはできない。
自己矛盾を抱えたままでは強い意志が持てない、堂々と人生を生きていけない。
まずは、ここから始めたい。
「障害者は社会の役に立っていない。医療費や介護、治安の面で社会の負担となっているのではないか?」
つまり、
ということである。
障害者→治安という結びつきは、多分知的障害等のコミュニケーションがとれないことを想定していると考え、話を進める。
知的障害者は、
→コミュニケーションがとれない
→何をするか分からない
→怖い
このような経緯で治安の面の負担という議論が上がってくるのだろう。
しかし、実際治安の面で言えば、知的障害者よりも健常者の方がはるかに犯罪率が高いのが事実である。
しかし、そうは言っても、やはり怖いものは怖いという人がいるかもしれない。
それに関しては、それでもいい、としか言えない。
怖いなら近寄らなければよい、そっと離れればよい。
街にいる健常者で危険そうな人にはそのように対応するだろう、それと同じでよい。
というより、こうした議論に上げるまでもなく、そうした対応に関しては相手が障害者かどうかが重要なのではないはずである。
医療費、介護の面で社会の負担となっているということに関して、これは費用対効果ということになると思う。
障害者に対して、かかる費用とその効果だけを考えれば、それだけを考え社会負担だと判断するのなら、多分、そうだろう。
人通りの少ない道の電灯は費用対効果がないと言っているようなものだ。
その電灯の明るさがもたらすものに目を向けていない。
人通りが少ないからこそ本当に必要な場面があるのだ。そこに電灯がついているという安心感が何をもたらすかということなのだ。
たばこなどにかかる医療費だって社会の負担ではないか。それと同じなのだから障害者の医療費だけ問題にするのはおかしい。
このように、同じような他の悪者を上げて、その問題と比べると・・・といった議論の進め方をする人がいるが、こういった進め方は自分はあまり好きではない。
―たばこを吸う人は税金を納めているのだからプラマイゼロ位だろう
―いや、肺ガンになったらかかる医療費の方が大きいから少しはマイナスだろう
―健常者で社会の負担にしかならない人もいっぱいいるじゃないか
押し付け合い、悪さ探しでは、生きる価値の答えからは遠ざかるばかりだと思う。
「障害者は医療費、介護の面で社会の負担となっているので生きる価値がない。」
つまりこれは、価値を判断する側から見て、いらないのでいなくて構わないということである。
本当にそうだろうか。
障害者がいないことが社会にとってプラスになるのだろうか。そうではないと思う。
もしも、障害者がいないことが当然という社会ならば、自分が健常者であってもそういった社会で生きること自体が不安であると思う。
自分だって、事故や病気でいつ障害者になるか分からない。そうなったら自分は生きる価値がないんだ。
自分の子供が障害を持って生まれてくるかもしれない。そうしたら社会は誰も助けてくれない。
このような不安を社会全ての人々が抱えている状態は、はたして幸福なのだろうか。
こうした不安を緩和するという点だけでも、障害者は生きる価値があり、安心して暮らせるようにすること自体が社会にとって大きなメリットがあると言える。費用対効果は正確には表せないが、医療費とか、そういった細かいレベルではない。
ただ、障害者が幸福に暮らせることは社会にとってもメリットなのだ。だからあなたには生きる価値がある。
これでは、社会の人々から障害者が攻撃を受けることを防ぐ効果はあるかもしれないが、
障害者本人が―だから僕には生きる価値がある―と自己を肯定するところまでには至らないだろう。
それではまだ、障害者には生きる価値があるということの本質には至ってないように思える。
生きる価値があることの社会的なコンセンサスを得ることも大事なのだが、それは本質ではない。
極端に言えば、どんなにおかしな考えだろうが、本人が自分には生きる価値があると納得できる方が大事なのだ。
そういった個人的なものの答えを求めようとしているのだから、答えも個人的なものになるのかもしれない。
と自分が強く思えるような納得できるような考えを見つけること。
―僕は歩くことができないけど、僕には生きる意味があるの?―
と言った子供の問いに、意味があると心の底から答えられること。
それが大事なのだと思う。それこそがこの問いの辿り着くべき姿なのだと思う。
逆に言えば、一般論では難しいのだ。
この手の問いに一般論で正解が出たことなんていまだかつてないのだから。
費用対効果の部分で考えたこと―視野を広げて考えれば、障害者が幸せに暮らすこと自体に社会的な大きなメリットがある―について、それではまだ、心に響く答えではなかった。なので、コストという面でもう少し掘り下げてみる。
コストという面から障害者を見ることは、コストという面から健常者、もっと広く言えば人間を見ることにつながると思うからだ。両者の答えが異なるならば、異なった考えが必要だし、同じならコストという面から障害者と健常者を分けて考えること自体が無意味であるということかもしれないと考えるからだ。
ただ、何を持って社会の役に立つ還元だと判断するかにもよるが。
環境破壊を伴う経済活動は、短期的には社会に賞賛をもって迎えられるかもしれないが、長期的には何もしないよりもデメリットが大きいといった場合もある。
しかし、ここでは、世間一般の視野レベルにおいて好ましいと思われるレベルと考えれば良いだろう。簡単に言えば社会的な成功(スケールは問わず単なる賃金等小さなものも含まれる)ということで良いだろう。
その基準で判断するならば、やはり、障害者はコストの方が勝るだろう。
個別で見ていけば、社会的に成功する障害者も、社会的な害悪としかならない健常者も存在する。
だが、障害者、健常者という全体のくくりで見ると、障害者というグループに分けた場合にそのブループはコストが勝ると言うことができてしまうだろう。
コストに関して、障害者、健常者と分けて考える必要はあるのだろうか。どうであれ、コストが勝る人がいるということだけである。
と、言ってしまいたいが、生きる価値という部分を産むべきか否かといった側面から考えた場合には残念ながら簡単には言い切れない。
一生体を起こすことはできない、一生自分を自分と認識することができない、といったように、ほぼコストが勝るであろうということが、生まれる前から分かってしまうという事がありえるからだ。
ただ、これについても、ドーキンス博士のように例外もいる。彼は生まれる前ならコストが勝ると判断されても仕方がない状態であったと思われる。だが、彼が社会に与えた功績は非常に大きい。
これの意味するところは、コストが勝るなどと正確に判断はできない、ということだが、この判断と同様のケースにおいて、数が増えれば平均コストが勝ることになるだろう。
平均という概念にはその平均を算出するためのくくりが必要である、そのくくりとして障害者、健常者といった分け方がなされることになる。
あと残っている議論は障害者と健常者の線引きをどうするかといったことだけだ。
この議論では生きる価値には辿りつかない。なのでこの方向で進めるのはもうやめることにする。
もうこれは、誰にとってのコストかということに尽きる。
他の生物にとって人間は特に価値がない、地球にとっては逆に諸悪の根源かもしれない、宇宙にとっては人間などなんの意味もないだろう。まとめれば、人間は等しく生きる価値がないということだろう。
それでも、大部分の人々はそれぞれ自分には生きる価値があると思っている。
意識していないと言う人がいるかもしれないが、それは、自分には生きる価値がないわけではないと思っているということだ。
なぜ、大部分の人々はそう思えるのか。
いや、もしかしてこれは、必要とされている度合いから、かけている迷惑を引いてプラスになるからということなのかもしれない。
あれ、よく分からなくなってきた。
この考え方で生きる価値があるという答えに辿り着けるのだろうか。
いったん、ここでやめる。
下記にネットに載っていた、何か訴えかけられた気がした文章をのせておく。
あの子が死んで、この子がまだ生きていることの理由やその不思議を
いったい誰に説明できるというのだろう。
そんな、人智をはるかに超えたところにある命に、質もへったくれもあるものか。
「生きるに値する命」だとか「命の質」だとか「ロングフル」だとか、
生まれてきて、そこにある命が
生きて、そこにあることは、それだけが、それだけで、是だよ。
だから、
生きてこの世にある命を、誰はばかることなく、ただ生きて、あれ──
それを、せめて大らかに懐に抱ける人の世であれ──と
その頃の氏は増田をバカにしていた。増田を見下す文章を多数書いており、今でも記録が残っている。
あれほど増田を軽蔑していた氏だったが、今ではすっかり落ちぶれた。はてなブログは誰にも見てもらえなくなった。ワードプレスで書いていたブログもたった数千円のブログ費用すら賄えなくなったので閉鎖した。
ちょっと前はTogetterやDLチャンネルで足掻いていたがそちらでもヒットしなくなり、今では野球中継を見ながら筋トレをしていることになっているただの埋没アカウントだ。
DLチャンネルでは最初は暖かく迎え入れられていたのだが、もう自分がオッサンになったことを認めずに、いつまで経っても青二才仕草を続けた結果みんなから嫌われた。
例えばDLチャンネルには新着記事を報告しよう!という掲示板がある。そこでは余程のことがない限り報告ポストにいいねがつくのだが、彼だけは誰にもいいねを押してもらえない。
というのも、彼は特定の人物を貶めようとしてその人の悪口を掲示板で繰り返していたためだ。
逆に掲示板の人物から厄介者として情報を共有され、こいつは無視しようというコンセンサスができたのだ。
どこにいっても馴染めない哀れな虎というか豚。
読書が趣味なんだけど、他人にそれを伝えると大抵「どんな作家が好きなんですか?」と返ってくる あんま本読まない人にとって読書のイメージは文芸本を読むことっぽい
でもおれは大体学者や専門家が書いた本を読むことが多い、今読んでんのはアセモグルのこれ↓
こういう、一般人向けに専門家が書いた特定ジャンルについての知見をちょっとエンタメっぽくした本を端的に表現する言葉ってなくない?上記のアセモグルの本はAmazonだと「世界史」のジャンルなのだが、それをもって「世界史の本読んでます!」というのも憚られるし
ちょっと前に売れてたFACTFULLNESSも似たようなジャンルな気がするけど、これもAmazonでは「確率・統計」ってジャンルに入ってて、でもあの本を読む人の意識として「確率・統計について知りたい!」っていうモチベーションではないと思うんだよな、もっとざっくりと「あんまコア過ぎない知識を楽しく得たい」っていう感じで読まれる本というか
「専門書」だとなんか固すぎるよな、それこそ専門家や学生が大学の授業で使うような、予備知識のない一般人では読めない本って感じ 「教養書」もなんか違う、ちょっと観念的すぎというかカーネギーみたいな自己啓発本が想像される感じ
これが例えば岩波新書だったら「新書をよく読みます」といえば結構ニュアンスが伝わる感じがするけど、これはしょせん本のサイズによる分類を表したものでしかないんでね
———————————
なんかブコメとトラバ眺めてみても結構割れてて、イメージは共有できててもスパッと表現できるようなコンセンサス取れてるワードはなさそうに感じる
書店、版元、読者、本読まない人がそれぞれ考える本の分類のちょうど狭間にあるエアポケットって感じがするんだよなあ
でも素朴でライトな知識欲を満たすために本を探したら自然とこういうのに行き着くよね、ていう本は沢山あって、書店でも目立つ場所に平積みされてる印象があるのに端的に表すワードがないのは不便だなと思う
ゴールディンの賃金格差に関する本とノアハラリの人類史に関する本って全然テーマ違うけど多分読者層は被ってるよね
———————————
「一般書」→いくら何でも抽象的すぎ、初対面の人にそういったとしてこの人会話進める気あんのかって思われそう 雑誌読む人がどんなジャンルが好きって聞かれて一般誌とか言わんやろ
「啓蒙書」→人口に膾炙した言葉じゃなさすぎ、初対面の人に「啓蒙書好きです」って言ったら99%「ケーモーショ???なに???」ってなると思う
「学術書」→ニュアンスの一致具合と言葉の使いやすさとしては一番バランス良さそう ただ自分の考える定義だともう少しライトな本も入るのよね 例えば 「なぜ働いてると本が読めなくなるのか」みたいなライトな新書を含むにはちょっと大仰かも
「人文、科学」→これもニュアンス近いな、ただ理系と文系の垣根をちょっと感じる もっと包括的なジャンルとして捉えたい
「哲学」→めっちゃ広義に考えればそうかもしれんが絶対「ニーチェとか?」ってなるやろ
「雑学本」→まあ超ざっくり分けるならそうなのだろうけど、ノーベル賞取るような学者が書いてることを一般に「雑学」といえるか?という疑問はある もっとトリビア的なことを指さない?
「リベラルアーツ」→この言葉自体が一種のサブジャンルなのでは?教養を目的とした知識が書かれた本というか もっと上のレイヤーを想定してる
「新書」→やっぱこれが一番無難なのかなーでも言葉の厳密性に欠けること言うのがほんと嫌 冬用タイヤ全般をスタッドレスって呼称するような居心地の悪さを感じる
「教養書」→俺が考えているより広範なイメージっぽいな、でもまだ高尚すぎるというか、知識についてのニュートラルな感覚に欠けるというか、教養という言葉自体が「値打ちこいてんな」って感じする
高等教育受けた期間と世の中が左傾化(ってほどでもないけど)していくそれが重なってた気がする。自分の政治・経済的スタンスが前者に影響されてるのか、無自覚に時勢の尻馬に乗ってるだけなのかいまいちよく分かってない。自分の人生でさほど重要なトピックではないのもあって。
ニヒリストである所は一貫してるから、どうあるべきでもないというところは変わらないけど。
どうあるべきでもないべきだ。と思ってるんではなく、事実として、全知全能の神の声でも聞けない限り、どうあるべきだともあるべきでないとも言えないと思ってる。
その上で単に各々の都合として自分はどうしたいか、というのが政治思想で、そのポジショントーク同士を調整するのが政治なんだとは思うけど。
経済的には貧乏人に有利であればあるほど良いと思ってる。自分が貧乏人になりそうだから。金持ちからいくら税金持ってかれようがどうでもいい。まあ重すぎて逃げ道を作るのもそれはそれでアレよねっていうくらい。
これって左傾化とかそういう問題なんだろうか。でも割とどこの党も経済は左派寄りらしいしな。
政治左派ってなんだろうな。今ホットなのだと選択的別姓くらいしかパッと思い浮かばんけど、マジでどうでもいい。
伝統には特に何の意味も見出さないけど、それを積極的に変えていく事にもさほど意義を感じない。社会的なコンセンサスを必要とするシステムにそもそもあんまり関心がない。
外部から影響を受けてんのか受けてないんだかよくわからん。でも中高の頃に比べたら汚い言葉とかも大分控えるようにはなったし、その辺の社会性はまあ影響されてる気はするな。となれば政治思想も思い出せないだけで実は結構保守的な部分もあったんかな。
ハンス・ロスリング氏は「事実とデータの理解が課題解決に不可欠」と言うから、彼の言うことに対して「事実」を用いて反論しよう。
つまり「人口は問題ではなく、将来の人口増加は自然に解決される」というロスリングの主張は間違いであると示すわけである。
このように、人口問題は単なる数値以上のものであり、協調的な行動と持続可能な解決策が求められている。希望的観測では対処できない。
なんかtwitter(X)でまたこの手の議論が再燃してたので、思うところを書いてみる。
個人的には「表紙の原稿料くらい払ってあげなよ」と思うけど、払わないのもまた理屈としてはわかる。
まず一般的に、漫画編集部がどんな時にお金を払い、どんな時に払わないのか、以下にざっと整理する。
(※勿論例外もあるが、古くからある出版社の多くはこのようなシステムになっていると思う)
→漫画雑誌の表紙絵などを依頼される場合、当然、原稿料が支払われる。勿論連載原稿にも原稿料が支払われる。
→アンソロジーコミックなど、自著以外の単行本の表紙イラストを依頼されて描いた際にも、ちゃんと原稿料が支払われる。
③自著の単行本の表紙、本文の描きおろし、修正作業などには原稿料は支払われない。
→???
今、③が問題になっている。
なぜ③で表紙の原稿料が支払われないのか?
ロジックとしては簡単で、「自著の単行本絡みの書き下ろし報酬はすべて著者印税に含まれる」ということになっている。
書き下ろしで小説を出版する場合、書き下ろしの本文原稿だからといってその原稿に「原稿料」は出ない。印税がもらえるだけ。すべての報酬は印税にくるまれている。
ただし、「雑誌」に連載した場合は印税とは別に原稿料がもらえる(これはマンガ家も同じ)。
ちなみに小説単行本の表紙や挿絵を担当するイラストレーターは、勿論「原稿料」をもらえる。だが「印税」はもらえない。
そういう仕組になっている。
要するに、印税が発生する仕事に原稿料は発生せず、原稿料を貰うような仕事には印税は発生しない、という感じになっている。
「雑誌の表紙絵などを描いて原稿料をもらい、その時の原稿を単行本表紙に流用する」という裏技ならある。
これで間接的に単行本の表紙に原稿料を発生させることが出来る。
ただ、これも売れている作家だから出来るような方法かもしれない。
「いやいや、そもそもなんでちょっとのお金をケチるんだよ。商品の大事なパッケージ部分なんだから、普通に表紙に追加のお金出せよ」と感じるかもしれない。
もし単行本の書き下ろしに原稿料を払うようにするとなると、その編集部(もしくは出版社)が取引するすべての作家に同じ待遇を始める必要がある。
一人だけ特別に払うというのは難しくて、場合によっては出版時に交わす契約書の文面を修正する必要も出てくるかもしれない。
今後制度が変わるにしても、編集部の垣根を越えて(あと更に上層部の人とかも含めて)コンセンサスをとるのに時間がかかると思う。
だから、現状はとりあえず
「既に表紙の原稿料を払ってくれるのが判明してるところ」を選んで仕事をするしかないと思う。
最近できた新しい出版社や編集部は、最初から古い出版社とは違う方式でやっているから、
しかし、そうやって仕事先を選べる作家というのも、結局「力のある作家」に限られる……。
原稿料って原稿に支払われるお金じゃなくて原稿をお借りすることに対する原稿使用料が本当のところだからでしょ 雑誌もアンソロも
これはそう。勘違いされやすいけど、出版社が言う原稿料というのは「依頼料(請負料)」じゃなくて「掲載使用料(レンタル料)」みたいな扱いに近い(だから雑誌とかアンソロなど、他者の著作物に寄稿する時に発生する)。
だから、もし自著の単行本の表紙原稿に出版社からお金を払ってもらおうという場合、それは「いわゆるいつもの原稿料」とは全然別の名目として払われる可能性がある。(宣伝協力の謝礼金とか?)
自著の単行本に原稿料が発生するというのは原稿料の定義上ちょっと変な話になってしまうので、支払いの名目を工夫して建付け上の整合性をとる感じになると思う。
一方で、作家にとって原稿料って「労働の時間対価」的な感覚が強いから、こういう話を聞いても「いや何をいってんの?」ってなるのもわかる。
そう言うふうに言いたくなっちゃう気持ちはわからないんじゃないけれど、深呼吸して自分の書き込みを読み直してみるといいよ。増田の書き込みは、増田の嫌ってる財務出動派と、ベクトルが違うだけで全く同じ病理になってる。
どこが病理かっていうと、「じゃあどれくらい財政出動すべきなの?」っていう数字が一切語られていないこと。
現実の日本の政府財政において、財政出動してないかっていうと毎年してるわけだよね。国債だって刷ってる。
積極財政派が嫌悪するザイム省ですらみとめてやってるわけだ。つまり、「財政出動してない」は偽なわけ。また一方で財政規律を良しとする立場の人だって「出動ゼロにしろ」とは言っていない。バランスの中で適度にしていこうっていうのが、現実の主流派であって彼らはコンセンサスを得てそれをやっているわけ。
それにたいして、その現実の支出量(数字)をまったくあつかわず「とにかく増やせ」「増やすな」って言ってるのは、一見対立しているように見えて、「現実の数字を気にかけない」「具体的な数字を要望しない」「配分の運用手法を語らない」という点で全く同一のセンスを持った集団だと思うよ。相手の言動を悪魔化することによって、議論の内容とは無関係に主張を通そうってするのは、ポピュリズムの悪いところだよ。
PS.上のは議論の手法や現在のノリに対する苦言だけど、個人としての見解を付け加える。現在の世界経済の状況、IMFの発表するポストコロナ世界の途上国金融再建と、EUの陥落、アメリカの不透明感とあわせると、「日本政府の財政規律問題」って、もはや「日本財務省と庶民生活」っていう視点で語って良い変数の域を超えちゃってると思うよ。はっきりいうと、この議論には、海外の勢力がかなりのところ跋扈してると判断してる。「そのうえで」日本国民としてどういうスタンスを取るべきかっていう視点は、持つべきじゃないかな。
陰謀論が広まる背景には、情報の誤解やバイアス、感情的な反応が関わっていることが多いです。そのため、陰謀論を特定し、理論的に検証するためのチェックリストを作成しました。このチェックリストは、個人がある情報が陰謀論であるかどうかを判断するのに役立ちます。
• 提示された証拠が、信頼できる学術的なデータや確立された研究に基づいていないか?
• 情報源が匿名であるか、もしくは特定の意図や利害関係を持つ団体から発信されているか?
2. 反証可能性の欠如
• この理論が誤っていることを証明するための明確な基準が存在しないか?
• 反証が行われても、それを「さらなる証拠」として組み込み、理論を変えずに強化してしまう傾向があるか?
• 「彼ら」や「エリート」といった敵対者の存在を強調し、意図的に何かを隠していると主張しているか?
• 特定の個人やグループを悪意ある陰謀の主犯と決めつけ、その意図を過度に強調しているか?
• 複雑な社会問題や出来事を、極端にシンプルな原因や特定のグループのせいにしていないか?
• 「全てはこうすれば説明できる」といった形で、他の可能性を排除しているか?
• 「真実を知っている」特別なグループに属することで、他者よりも優れていると感じさせる要素があるか?
• 信頼できる専門家の意見を無視し、「専門家は信用できない」「真実は隠されている」と主張しているか?
• 事実を確立した科学的なコンセンサスに対する不信感をあおっていないか?
• 単なる偶然の一致を、何か意図的な行動の証拠として捉えていないか?
• 他の主張と矛盾する事実や情報が出てきた場合、それを無視するか、または歪曲しているか?
• 主張が「大きな秘密」や「隠された真実」に依存しているか?
• 「普通の人はこの情報を知らない」という形で排他的な姿勢をとっているか?
• この情報がソーシャルメディアや陰謀論者のコミュニティを通じて広まっているか?
• 大手の報道機関や信頼性のある情報源ではほとんど取り上げられていないか?
• 批判的思考を養う: 情報を鵜呑みにせず、事実確認を行うための批判的思考を持つことが重要です。異なる視点や反証の探求に努めましょう。
• 信頼できる情報源の活用: 学術論文や信頼できる報道機関の情報を確認し、複数の信頼できる情報源から情報を収集することを習慣化します。
• 対話の促進: 陰謀論に傾倒する人と対話を試みる際には、感情的にならず、相手の考え方を理解しつつ冷静に事実を示すことが効果的です。
• デジタルリテラシーの教育: 誤情報や陰謀論を見分けるためのデジタルリテラシー教育を推進し、より多くの人々が正確な情報にアクセスできるように支援します。
その発想捨てない?
狩猟採集の縄文時代にその日のご飯の予定を立てるのは難しい。何が採れるか分からないからだ。最悪食事にありつけないまである。
冷蔵庫がなかった時代も難しい。生魚や肉はすぐに食べないと腐るし、野菜もそのままでは長期間持たないものが多い。専業主婦の割合が高く、毎日買い物をして毎日作るのが当たり前の常識だった。
でも今は違う。農家のように消費しきれないくらいの野菜が旬に大量に採れて計画に影響を与える人ならともかく、スーパーには1/2や1/4カットした食材が並び、冷蔵庫は冷凍庫が大きく使いやすくなってサブまで持つ人が増えている。
そんな時代に残った食材と新しい食材を組み合わせてできるものを毎日考えて毎日作るって工夫しなさすぎだと思わない?
技術屋さんはどんな分野であれ一般的に最初に作るものと量を決めて材料表を作って材料を買って調達して作る。今は料理でもそれができる環境が整っている。
働きながら家事もこなす人が多数を占める現代、買い物を毎日してその日食べるものを決めて自転車操業的に材料を回していく不合理なやり方は時代にそぐわない。冷蔵庫に食材を眠らせて置くことは釣った魚をクーラーボックスに入れておくことと同じ。その場で調理して冷凍するのと、放置した食材で作る作りたて、どっちも大差ない。
食材を生で持つから腐る。だから1週間分の計画を先に立てて買い出しは週に一回。肉や魚はその場で冷凍して冷凍できない野菜はその日に使い切る。食材を生で持たなければ腐る心配はないし、作り置きにしてしまえばあとは食べる日だけを管理すればいい。いちいち、冷蔵庫の食材でできるもの、足りないもの、飽きを毎日考えて意思決定するパズルを毎日解くのは仕事できない人よ。献立を考えるのは週に一日。特売で得する額なんか知れてるんだから最初から買うものを決めてその日に使い切る。余計なものも買わなくなるから特売狙うより結局安くつく。
料理の上手い下手は色々意見あるけれど、味を評価指標にしたら必ず最終的には好みの差に行き着く。でも食材を腐らせないという評価基準は定量的に測ることができてなおかつ良いという方向性にコンセンサスが確実に得られる客観的なもの。毎日考えるというクッソ無駄な作業にお別れして一週間の献立を全部先に決めてしまうのが令和の時代のやり方だと思うわ。
1. 所了: 終わりのない食べ放題。エンドレス・ビュッフェ。
4. 外方・内方: 宇宙飛行士の散歩。スペース・ウォーク・アンド・トーク。
5. 昇況: エレベーターの中での状況悪化。リフト・クライシス。
6. 真証: サンタクロースの存在証明。ホーホー・エビデンス。
7. 役務時訓練(役練): 忍者の職場体験。シノビ・オン・ザ・ジョブ。
8. 型針: 寿司職人の包丁さばき講座。ロール・プレイ・オリエンテーション。
9. 機敵: ゲーム中のラスボスとの約束の決戦。ファイナル・ボス・オポチュニティ。
10. 既計: 遅刻常習犯の「いつも通り」。クロニック・レイト・スケジュール。
11. 深罅(しんか): 恋人とのケンカで生まれた Grand Canyon。ラブ・キャズム。
12. 選蒐(せんしゅう): 子供のおもちゃ箱整理術。トイ・ストーリー・キュレーション。
13. 群衆利用: ゾンビの群れを活用した農作業。アンデッド・クラウドソーシング。
14. 可競核: スーパーヒーローの秘密の能力。ヒドゥン・コアコンピタンス。
15. 履行: 靴下の片方だけを履く約束。シングル・ソック・コミットメント。
16. 普品: どこにでもある月。ユビキタス・ムーン・コモディティ。
全18問あります。
↓はなんとなくの評価表です。あまり気にしないでいただけると。
18問全問正解: おかしい
5〜11問正解: 楽しんでいただけたようで何よりです
1〜4問正解: そんなものでしょう
0問正解: がんばりましょう
気を抜くと全部見えます。
下は凡例です。楽しんでいたけたら幸いです。
(再掲)問題文のすぐ下に答えが来るので見るときは注意してください。
気を抜くと全部見えます。
ではスタートです!
状況の昇格。エスカレーション
OJT。
型へ方向づけるための指針。オリエンテーション。
好敵手を倒す機会。オポチュニティ。
深い裂罅。キャズム。
この手の話をするとどうしても「法的にOKであれば問題ない」とか「法廷での結論が正義」と言ったような単純思考の輩が出てくるのだが、そういった方々には「法律は最低限度の道徳」という言葉を贈りたい。
人や法人は法律以外にも守らなければいけないコンプライアンスというものがあるし、そもそも現行の法律は万全ではなく技術や価値観の変化によっても変わっていくのだ。
増田はたぶん正しいことを言っていると思う。だが
最低限度の道徳を満たしているので、裏金議員たちはたいした問題ではない
というコンセンサスの成立している日本では通用する話なんだろうか? という疑いも持たずにはいられない
政治資金規正法、他の各種の会計処理がらみの法律と比べても最低限度にも達してないザル法だと思うのだが、それでもそれをクリアしてれば「潔白」とみなす我々日本人に、道徳を語る資格はあるのだろうか?
政治倫理審査会に呼ばれた面々はもちろん、政治資金規正法の粗い網を抜けてるだけでかぎりなくグレーな野党人士のドヤ顔を見ても、強く思う