はてなキーワード: 邪教とは
何が良かったってクリアにコツがあってその通りにやると見事にハマるという事
主人公は早さ極振りで逃げる。カオスヒーローは魔力極振りで序盤からエストマ
レベル差で取得経験値が増える仕組みのおかげで低レベルが最適で
天狗8体にこどくざらでレベル爆上げからの合体悪魔選び放題のワクワク
みたいなところが好きだった
続編が出てるにも関わらず同じゲームばっかり繰り返してるのもなんだなと思って
でも普通だ。
既に仲魔にしている悪魔に話しかけると倒す以上に金が貰えることも無い
戦闘システムが大きく変わったせいでブフハメ、ジオハメも無くなった
普通にレベル上げして、合体できるレベルになったら邪教の館に行って合体
今作には仲魔もレベルがあってレベルが上がると進化するらしいが、主人公ほど上がりやすくも無いのでレベル上げをするより合体して強い悪魔を作った方が良い
とあるポイントで先に進めなくなりレベル上げを余儀なくされる。ストーリーの間が大きく空く。それがどうもしっくりこない。
メテオが落ちてくるつってんのに「どうせ話進めるまで落ちてこないからw」とチョコボレースしまくってるような感覚
真1みたいなのを期待した自分が間違いだったんだろう
当時デビルサマナーをサターンでやったが、やっぱり合体したくてもレベル足りなくてレベル上げがだるくてやめた覚えがある
どうやら自分には戦わない事が最適(お得)ってRPGが良いみたいだ
たとえば今だと多数決ならとある宗教を「邪教」として禁止さえできそうですよね。でも、多数決でも、「内心で信仰させろ」「儀式は続けさせろ」までは侵せない理由付けが「自由」です。
反多数決主義の難点という議論がアメリカで古くからある。選挙で選ばれていない裁判官がなにゆえ選挙で選ばれた国民代表議会の法律を覆すことができるのか、というやつである。これは、単なる哲学的問題ではない。19世紀末から20世紀前半にかけて、産業資本の著しい発展の弊害が顕在化してきた。それに対して立法的対処を行ったところ、裁判所が「契約の自由」を盾にしてそれを違憲にしたところから来ている。
もう少し具体的に言おう。ニューヨーク州議会が、パン屋の労働時間を規制する法律を作った。一日10時間、週60時間までという規制である。これに反して処罰を受けたあるパン工場経営者は、労働者をどのくらい働かせるかについては、契約の自由があるのだからそのような規制は違憲であると主張した。そして連邦最高裁はその主張を認めたのである。このような判例法理が通用した時代のことを、この著名判例(Lochner v. New York, 198 U.S. 45 (1905))の名前をとってロックナー時代という。
すったもんだの末、ロックナー判決は否定されるに至る。どのように否定されたかというと、これがある意味羮に懲りて膾を吹くというようなやり方なのである。すなわち、裁判所は議会の制定した法律については、原則として合憲の推定を与える。議会制定法については、①目的が正当か、②目的と手段が合理的に関連しているか、しか裁判所は審査しない。換言すれば、手段の必要最小限度性を要求しないということであり、まことに緩い審査基準である。こうなるとまたしても困った事態が発生する。確かに、労働関係の規制については、そのくらいゆるい審査で良いかもしれない。しかし、議会に自らの利益を代表してもらうことができないような少数派の利益を押し潰すような法律を議会が作った場合も、そんな緩い審査基準を適用して良いのだろうか。連邦最高裁は、戦前の判例の中で、キャロリーヌ・プロダクツ判決(脱脂粉乳の規制に関する法律が問題になったのだが、それは措く)の脚注4で、人種的・宗教的あるいはその他の少数者の利益が問題になった場合などは、別の処理をするかもしれませんよ(この事件はそういう人が問題になっていないが)、ということを仄めかしている(United States v. Carolene Products Co., 304 U.S. 144 (1938))。
このような戦前のアメリカの判例を取り入れて始まったのが有名な二重の基準論である。二重の基準論は、精神的自由については厳格な審査を、経済的自由については合理性審査をという図式として受容されているのだが、実際には、一般的には裁判所は合理性の基準という緩い審査しか行わないが、政治過程の中で不利になっている少数者の利益が問題になる場合は、審査基準を厳格化する、というものなのである。一般論としては合理性の審査しかしない、というのがミソなのである。
芦部説はこのような議論を巧妙に換骨奪胎(?)し、精神的自由の制限は、政治過程そのものを傷つけるおそれがあるから、原則として審査基準が厳格化する、という議論を立てた。こういった議論はアメリカにも見られる。ところが、これを逆に考えると、精神的自由の制限であっても、政治過程そのものを傷つけるおそれがない場合には、裁判所は合理性基準で審査するべきだ、ということにならないだろうか(ロバート・ボークというある意味悪名高い裁判官が直球でそういうことを言っている)。これが問題になる典型的な事例が「わいせつ」である。少なくともハード・コア・ポルノ※に関しては、その禁止が政治過程を傷つけるとは言えないだろう(アメリカの場合、猥褻obscenityに該当する言論については、第一修正によって保護されないので、合理性審査すらしなくても良いということになっているのだが、それは措く)。わいせつの規制は、精神的自由の制限ではあるが、厳格審査に服しないというのが、反多数決主義の難点に対して一般に合理性審査を行うという解決法を用意した司法審査論の帰結となる。
ハード・コア・ポルノに対する規制を(も)廃止するべきだと考える者が、表現の自由論や民主主義を素朴に信奉するのも考え物である。一般論として合理性審査をもたらす反多数決主義の難点という論点それ事態を疑ってかかる、つまり、多数決によって事態が進行する議会政、多数決主義それ自体を排撃したり、あるいは、ハード・コア・ポルノの規制に対しても厳格な審査をもたらすような議論を何とかして立てるほかあるまい※。そういうことをしない表現の自由の信奉者は、表現の自由で戦死せざるを得ない。
※長谷部恭男『憲法』などを読むと、刑法175条違憲論が、単なる「表現の自由」によって支えられているわけではないということが分かる。
宗教、難しいんだよねえ。
特に「教義が危険」系統の攻め方は無理。今やらかしてることが、今現在の法律で直接的に犯罪かどうか、の切り口ではなんとかできるんだけど。それ以外はもう無理。
いわゆる「昔からある伝統の宗教」がたいがいなので、新興の宗教がやらかしたからっていっても教義自体を比べるとわりとたいしたことない。
武装蜂起するような教義が悪いんだ、人殺しするような宗教はダメだ、なんて「僧兵」「島原の乱」「悪魔の詞」で簡単に国内の事例だけで揃っちゃいますな。
まあアブラハムの宗教なんて明確に淫祠邪教ですわ。中高とキリスト教系の学校に行った私からみてもそう。
新約聖書なんざ今その場その場でもっともらしいことを言って生き延びようっていう口達者のでまかせがまあまあ出来が良かったんで成立しちゃったもので、数百人から千人ぐらいのクッソ小さなカルト宗教向けの教義。大きく広まったことで歪んで大変なことになっちゃったっていうようなもんなんで。
若さの反抗がテーマだったのにファン層がそのまま歳とって老人のものになっちゃった音楽みたいなそういう歪み方の何か。アンチ伝統の側面があるので、伝統側に回っちゃうと変なことになる。リソースの管理とか統治とかの観点がてんでダメなんだよな。パンは無限にわかねーってんだよこのすっとこどっこい。
旧約聖書もなあ、故郷を追い出されて集団でまとまって流浪生活するためのうまくやる知恵、みたいな感じで、人の多い都市に定住して支配的な人数になってしまうと歪みが出る感じ。少ないリソースをガチガチに分け合うとき輝く。
コーラン?砂漠部族社会専用カスタムじゃんあれ。そうじゃない土地もってくと変になる。
金融が引締的か緩和的かはあくまで均衡実質金利との兼ね合いでしか言えないものだから、持続的な低金利を見て長いこと金融緩和が続いていたと認識したのなら、それは間違い。たとえばゼロ金利は往々にして金融引き締めなんだよ。それは物価がギャロッピングしていかないことが傍証となる。
で、インデックス投資教についてだけど、長期に持てば必ず儲かるってのが間違いというのはその通り。そもそもインデックス投資というのは、必ず儲かる投資戦略ではなく、個別株などの他の投資と比べて一番ましな投資戦略というだけのもの。小さなリスクしか許容できないならインデックスをお小遣いの範囲だけで、あるいはでっかいリスクを取りたいなら借金してインデックスにぶち込む、といったように、どんなリスクやリターンを求めるにしても投資対象はインデックスが良いというだけで、別に必ず儲かるからインデックス投資をするわけではない。まあ、インデックス投資は長期に持てば必ず儲かる、とか言う手合いは、真のインデックス投資教徒から見れば邪教の類なのよ。