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はてなキーワード: 進歩的とは

2021-04-19

anond:20210419105249

全然進歩的じゃないんだが

多分「どっかの会社員として働いて給料を貰う」事だけを社会進出と言ってるんだろうけど

それだと途上国だと男でも進んでないよな

途上国田舎で村総出で農業しているとして、それは全員「社会進出」してないわけだし

anond:20210419105153

コラッ!進歩的意見に対し定義を聞くことはソーシャルジャスティスに反しているぞ!

今すぐ再教育施設に入りなさい!

2021-04-11

進撃の巨人最終話海外勢による批判ってやつ

https://twitter.com/kemohure/status/1380886614524579842?s=21

これ見て思ったんだけど

じゃあゆうて暴力性をリアルに細部まで再現したただただ悲惨漫画読んで面白いか?フィクション役割とは?だし、理想的過ぎるらしい描き方がされるのはやはり作者が日本人日本育ちなのが圧倒的にあるだろうな。類稀に治安の良い日本から。なので、海外勢の暴力性が少なくて違和感っていうの結局は嫉妬に行き着くんじゃないの?

あと、"人類が壊滅的被害を受けて混乱している惨状社会では、安定した社会からまれ進歩的思想(生命尊重人権思想etc)も大打撃を受けて社会ベースにはなれない"

とか言うけど、じゃあ欧米の、昨今のハリウッド映画やら何やらの、殺人とかの暴力は起こりまくって殺伐としてるのにフェミニズムとかLGBTには配慮迎合する白々しいおかしポリコレ路線はどうなの?

2021-04-10

anond:20210410021602

どうでもいいのに「死ねばいい」って、全然どうでもよく思ってないじゃん笑

多分だけどあなた、冒頭の「年収500万の妻」に該当する人物でしょ?

「こんな夫がほしい」って思ってる女性じゃないかな?独り身ではなさそうだね。

はてブなんてやってるぐらいだから独身でそんな厚かましい条件を希望する女性に対するネットの住人からの当たりのキツさは弁えてるだろうし、無謀だってこともはてブにたどり着くぐらいネットに浸ってたら知ってるでしょ。

から、そんな条件を男性に求める女性ということを鑑みると、増田は少なくとも既婚者というステータスぐらいは備えていて、そこから来る自信ゆえに「いつか白馬王子さまが迎えに来ると信じてる女」と差別化は出来ていると思い込んでいる、結婚相手を選ぶのに失敗した既婚女性と予想してみる。

妄想上の人物が現れますように」ではなく、「現実人物がこうなってくれますように」って願いだからまだ進歩的って自負が総資産一億うんぬんみたいなスペック旦那様を恥ずかしげもなく捏造できた……とか?

全部妄想だけど心理学者ぶってみた。

2021-04-07

anond:20210407172559

ちょっとこれは考察が甘いですね

みんな「女」が自由意志剥奪されるっていうありえない仮定をしてるけど、普通に女性自由意志を持ち続ける前提にして、そこにシステムがどう貢献できるか考えればいいんです

 

たとえば金と権力はあるけどそれ以外どう見ても魅力のない男に美女が寄っていくパターンが世の中にはありますね?あれは脅迫されてるとかでなければ自由意志でしょう

たとえ人格的・肉体的魅力がカスでも、トロフィー的魅力があれば選択肢に入れてもいいと考えるタイプ人間存在するものです

ところで金とか地位とか名誉とか特権というものはまさに「お上システムとして与えられるもの」です

さすがに弱者男性に金や地位を与えたら強者男性になるだけなのでやるべきでないでしょうが、何か代替になるような概念公共事業として創出することができれば、あとは市場原理に基づいて自然に人々が流れていくと期待できます

 

たとえば障害者介助のボランティアを行えば道徳的学生とみなされ進学・就職で有利になるように、弱者男性結婚すれば進歩的女性であるとみなされ様々な優遇を受けられるようにするというのはどうでしょう

優遇の内容は金銭的援助でも公務員試験評価ポイント加点でも選挙権2倍でもなんでもいいので各自適当に考えてください

もちろん強制ではないので自由恋愛メリットとのトレードオフで好きな方を選べばよいし、恩恵を失ってもいいなら離婚可能しま

多くの人は自由恋愛の方を選ぶでしょうが、「私のスキルでは他にいい職もないし、安月給でも働けるだけまだマシか」と判断する人が世の中にはいるように、「私のスペックでは幸せ結婚できないし、公募結婚して社会貢献実績を得るのもひとつの手か」と判断する人が集まっても不思議ではありません

 

あっこれは思考実験であって「ぜひ導入して欲しい」って言ってるわけじゃないからね!

システム人権侵害なしに実行できることは意外とたくさんあるんだから奴隷制ばっかり想定するのやめようよという話です

2021-04-06

あてがえ論の展開はリベラルの反射的差別

女性差別だ」なんて訴えを起こした時に男から「そんな差別なんか無い」といった反発があるように

リベラルの主張は「弱者男性差別だ」に対してリベラルから「そんな差別なんか無い。ただのあてがえ論だ」と反発してるだけである

人は自らの差別を認められない生き物だからね。自らを進歩的勘違いしてる人も自省できるようになるといいね

2021-03-30

anond:20210330132127

すまん、間違えた

×ソビエト連合

ソビエト連邦

英語のUnionに引きづられちまった

自分としては戦前の文献とかに出てくる「『ソ』同盟」の呼び方の方がなんか好き

これでもレーニンスターリン歴史上の人物として興味を持って読んでるほう

きじゃないのは戦後日本進歩的マスコミ

2021-03-29

サザエさん言及するやつだいたいサザエさん見てない問題

やたら旧弊象徴として槍玉に挙げられるサザエさんアニメだが、だいたいその手の言及をしてる人は最近サザエさんを見てないんじゃないかという気がする。相当昔に見た印象だけで語ってるんではないか

家庭の事情でこのところサザエさんを見ているが、一部の進歩的婦人方が「子供には絶対見せません!」とプンスカするような、家父長制を背景に波平が横暴な振る舞いをするようなシーンはまず出てこない。カツオゲンコツなんてしない。叱ることはあるが、怒鳴りつけるようなシーンはめったになくなっている。要するにサザエさんアニメサザエさんアニメなりに「アップデート」されている。

ただ人の距離感あいかわらず昭和というかムラ社会的なんで、わーやだなーと思うのはしょうがいね

2021-03-28

とあることばについてのたとえ話

あなた言語多様性についての研究をしている、権威ある学術団体所属しています

この度あなたは、消滅危機に瀕しているというある少数言語研究・記録チームの一員に選ばれました。

すなわち、アフリカのどっかのあたりにあるベラルリ島に住むリコネポ族のリコレポ語についての研究に携わることになったのです。

ところで、リコレポ語では黒っぽい色彩のことを「バジャネエサ」と呼びます。これはリコレポ語で「人の肌の色」という意味言葉です。

.

ここで、研究チームの一人がこんなことを言い出しました。

「肌の色は黒とは限らないのに、黒を肌の色と呼ぶのは不適切ではないか前近代的で、野蛮な習慣だ。記録から削除し、リコレポ語をより正しく進歩的言葉にしてあげよう」と。

別の一人が言いました。「記録から削除するのはやりすぎだ。だが、今後リコネポ人にはこの差別的単語を使わせないことにしよう。愚昧で愚かで醜悪なリコネポ人を政治的に正しく我々が導いてあげよう」

もう一人が言いました。「野蛮だ愚かだと言わせておけば、傲慢な連中め。この言葉は彼らの文化尊重され、大切に記録されるべきもの、そして今後も使われ続けるべきものだ」

.

さて、あなたは誰に賛同したものでしょうか。それとも第四の意見があるでしょうか。

2021-03-24

anond:20210324231732

プライベート言動進歩的でない学者に高い評価を与えるのは進歩的な行動ではない

これがすごいのは研究業績を判断できないんだけど、言動評価して出処進退を決められる能力がある、と思い込んでるところでしてね。

退廃芸術排斥、と同じですね。

こわいこわい

anond:20210324221659

研究者としての評価研究業績で測るべきであって、プライベート言動評価されるべきではない

いかなる言動政治的であることから逃げられない

学術研究進歩的反動的かはっきりさせる必要があり、中立ものなどありえない

プライベート言動進歩的でない学者に高い評価を与えるのは進歩的な行動ではない

テレビ朝日が主張したかたこ

話題報ステCM、あれ同時間帯におっさん向けのWBSが移動するらしいというのを理解していれば「進歩的自由で自立した知性のある女性」は報ステを見てるんだよという女性へのアピール以外の何物でも無くて別に差別的意図は全く無いものだと一瞬で理解できる物だと思う。

あのへんのフェミニズム界隈をリベラル扱いしている人も多いようだが、あれは全然リベラルじゃないだろう

既存の統制の仕組みを保存しようとする「保守」と、それに代わる新たな統制の仕組みを作ろうとする「あのへんの人たち」、

そして、統制の仕組みをなくそうとする「リベラル」(リバタリアンも含めていいかも)の三者がいると捉えるのが良いんじゃないか

保守から見たら、「あのへんの人たち」も「リベラル」も、伝統やら秩序やらを破壊する敵として一緒くたに扱うし

「あのへんの人たち」にとっては、「保守」も「リベラル」も、より善き社会形成に協力しない不正義な存在だろうし

リベラル」にとっては、「保守」も「あのへんの人たち」も、個人自由を抑圧する邪魔者しかない

からみんな1対1で論争してるつもりになって、敵に対して間違ったレッテル貼りをしてる部分があるのではないか

「あのへんの人たち」、進歩的一元主義者とでも呼べるものに含まれそうだけど、

フェミニズムに関する部分については一元主義的だとしても、それ以外はそうでもないかもしれないから、乱暴な括りかもしれない

2021-03-23

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/6d6332bd79bf5cc855b9169080a9c2417e8af30

ゴシップ誌にいっても仕方がないかも知れないが、東大王は王では無いし、論破王も王では無い。

そういう売り出しをしているんだろうが、彼は多額の民事賠償請求を踏み倒す人でしかない。法制度の根幹を危機晒している人に過ぎない。最近ポリコレしぐさで進歩的リベラルのように扱うメディアがろくでもないだけ。

2021-03-21

出産主体は「母親」なのか

「両親」ではないのか?

そうしないと他の進歩的な考えと整合性が取れなくない?

2021-03-19

anond:20210319150012

はてなは、自称進歩的リベラルの牙城だから仕方がない。朝日新聞読者より朝日新聞読者っぽい。

新聞って割と新聞の主張と意見が合わない人でも読むけど、はてなはそうじゃない。

2021-03-17

結婚とは古い時代残滓

同性婚革新的とか進歩的と言われても「結婚」に拘泥してる時点で「古い」んだよなぁ

結婚」ではなく「上下関係のない家族」の制度を作るのがより進歩的なんじゃないかな?

養子みたいに「親子」関係を作らずただただ「家族」とだけ戸籍に残す感じ

そうすれば異性も同性も関係いから変な差別化も行われない。

東京に生まれてよかった

田舎から頑張って東京遡上してきた人の話聞くとやっぱり田舎に生まれると大変だわ

東京には遊ぶところには不自由しないし何でも売ってるし

人々の考え方も進歩的から苦労がない

それに比べて田舎男尊女卑とか長幼の序とか排他的だったりしてめんどくさい

要するに差別が好きなんだよね田舎の人って

そういうしがらみがない東京に生まれてよかった

2021-03-11

リスト

夫婦同姓の強制を主張する人が、現在別姓夫婦差別し殴っているので

差別者は死ね殺せと罵った上で、相手方を「差別者」と罵ることがいかなることかお分かりですな?

むろん私はリベラルではありませんから思想に基づき死すべき人間を選別するようなことはしませんが、あなた方は違う。靴の先がちょこっと違うだけで笑って人を数億人殺してきた、そういう前科前歴がある。ならばこの発言はもはや新たな被差別階級を生まんとするヘイトに他なりません。

 

https://togetter.com/li/1627335

たぶん何も考えてない人たち/古い価値観/姓を変えさせるとか昭和かよw今令和でしょ?/気持ち悪いなぁ

創作上ですらこの憎悪

 

https://twitter.com/yukiho_dx/status/1367444386540179460

敵ならばいかなるカリカチュアライズしてもいいという党派性

 

https://togetter.com/li/1676666

なお、参院通称が認められているのは基本のき。それすら知らんような馬鹿か、すっとぼけ個人攻撃するような奴に矯正の目はありません。

 

https://president.jp/articles/-/32830?page=4

自分たちの残念な結婚(観)を露呈

自らが進歩的であるという誤信

 

https://b.hatena.ne.jp/entry/4697777430609336898/comment/driving_hikkey

狂信カルト以外に表現が見つからない。

信条の違いをカルトと罵るカルト

おなかいっぱいです。無論、お示ししたからにはこいつらの首、一つ残さず刈り取ってご持参いただけますな。その上でお話し合いをいたしましょう

追伸

申し訳ありませんが、ロストしたブクマがありまして

こいつらみんな国外退去できねぇかな

という直球ヘイトを見たことがあることもお伝えしておきます。見失ったのはこちらの手際ですので特にお探しいただかなくとも結構発見し次第、こちらに追記いたしましょう。

zmk

2021-03-08

夫婦別姓の実現って別に男女平等でもなんでもなくない?

夫婦別姓を「ジェンダー平等一丁目一番地」とまで言い切ってるフェミ記事を見かけたんだけど、

夫婦同姓の仕組み自体別に女性側の姓にできない制度じゃないよね。

とっくの昔から機会平等としては達成していて制度としては限りなく平等じゃん。

実態としては96%が男性の姓を選んでいて女性側の姓を選ぶと珍しい目で見られたりっていう問題があるわけで、

しろ夫婦同姓にあるこの偏りの問題こそ、フェミニストがよく言うジェンダーバイアスやら男性優位社会とやらの象徴じゃない?

そういう偏りこそ、彼女らが大嫌いだったとこじゃないの?

そこ放置して解決する気でいるのおかしくね?

夫婦別姓が実現したとしても、大多数の夫婦同姓で96%が男性姓を維持して、少数の夫婦別姓が出るだけになる。

それで男女平等なの?そうじゃないよね。

当然、このままだと平等にならないので、夫婦別姓にするのが当たり前だ。

進歩的だという活動をしていくのだろう。実際そういうような風潮を広める動きを既にやってる。

夫婦別姓選択しなかった著名人に対して炎上騒動引き起こして悪いことだと言い出す。

これにより男性優位の夫婦同姓の文化を潰して平等にする計画なんだろう。


個人的には夫婦別姓自体には賛成よりだけどさ、それはサイボウズの青野社長が言ってるように「法の下の平等」の観点から問題

多様性を増やすという点で賛成なのであって。

実際には多様性を潰す動きをし続けるフェミニスト陣営の言うことは信用してはいけないと改めて思うのであった。

女性社会運動保守的存在犠牲にすべきだ

「絆」の危うい弊害災害女性学提言する研究者は「ネットワーク」を訴える。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_603c6d46c5b6d7794ae0177a

  

女性たちが立ち上げる"運動"や"活動"に入る"女性"という言葉

問題なのは、"女性の"、"女性のための"とつけることによって

保守的存在の扱いを無視していないかとうことだ

(もちろん、女性たちは包括できると主張するだろうが、私はそうは思わない)

保守的女性にとって、進歩的女性リーダーシップを取ることで

女性男性が、女性進歩的女性に代わるだけではないのか

(まぁそうならないために"女性"と一括りにしていると思う)

保守的女性にとって、その位置関係であるなら進歩的女性が目指す社会にとって

保守的女性は旧来の状態にとどまることを意味する

  

混乱させるかもしれないが、私は別に保守的存在犠牲にするのは全然かまわないと思っている。

私サイドの男性活動を見ると、"男性の"、"男性のための"とはあまりつけない

そもそも男性にとって集団内部で常に優劣が存在している

進歩的男性にとって保守的男性は下に見てるし、また保守的男性進歩的男性を下に見ている。

ここらへんは女性も同じだと思う

90歳の祖母がいるけど、男はキッチンに入るなとか平気で性差別主義者のようなことを言い出すし

でもそれがこれから犠牲になっていく保守的女性ってことなんだと思う(それを女性教育してなんとかなると思うのだろうか?)

私は全然かまわない、男性であっても同じだ

男性女性保守的な人は差別的だし、進歩的はその保守的な人に対して差別的

  

私が言いたいのは、"女性"とつけることによって保守的存在も包括してしまい、

犠牲になるべく保守的存在も生き残らせてしま可能性があるということだ。

  

もちろん、"女性"と付けざるを得ない根本的な問題には触れていないし、私はそのことに対して解決策を持っていない。

ただ根本問題によって派生的に生じた問題だと思う。

2021-03-06

シグロ氏の発言について、ある左翼かつリベラルから見た感想(続き)

前半はこちら↓

https://anond.hatelabo.jp/20210306213555

結局のところ、このイシグロ氏のインタビューの浅さ、つまらなさは、インテリ向けの文学芸術業界という自分の属する世界世界全体であるかのように錯覚して語っているところにある。

その上で、あくまでもそういうインテリ業界文学芸術業界への提言、また自戒としてイシグロ氏の発言を読むなら、部分的同意できないこともない。イシグロ氏は「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術必要です」と言う。必要かどうかはわからないが、非リベラルの人が思想感情表現した芸術があってもいいというのはその通りだろう。リベラル原則からしても、非リベラルの人の表現自由制限するのは筋が通らない。ただしその表現批判する自由もあり、表現する以上は批判を受けるリスクは負うべきだというだけだ。

しかしここでもやはりイシグロ氏との現状認識の断絶は感じる。イシグロ氏から見ると世界リベラルが作った芸術ばかりらしいが、少なくとも私は日本に生まれ育って、「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術」の方を圧倒的に多く目にしてきたと思う。そもそもポリティカルコレクトネスなどが日本で多少とも意識され始めたのはごく最近のことであり、それ以前の言論にせよ芸術にせよ、今の視点で見れば差別偏見にあふれているもの普通だ。

たとえばイシグロ氏と同じくノーベル文学賞を受賞した川端康成という作家がいて、日本はいまだに高く評価され、小さな書店にも文庫本の数冊くらいは置いてあるだろう。私も過去にいくつも作品を読んできたが、同時に忘れられない言葉がある。ある時私の母親が言った「若い時に川端康成を読んで、女は芸者しか出てこんのかと思った、芸者にならにゃいけんのかと思った」というものだ。私は芸者という職業否定しないが、ここで問題なのは芸者の側ではなく、女性を極度に美化しつつあくまでも鑑賞される客体として描きがちだった川端康成視線の方である現在の目で見て、こういう川端康成視線女性蔑視的要素を含まないということは難しい。

また私は十代の頃に太宰治を読み、貧しく教育のない芸妓を買い取るようにして妻にした挙げ句、その妻が他の男と寝ていたというので絶望し、何やら自分が裏切られたかのように荒れている主人公(これは作者自身体験に基づく)の思考回路がよくわからないと感じたことがある。しかし当時の私はまだ、そんなものはわからなくていいと突き放すことができなかった。そこであれこれ想像力を駆使しつつ、そういう「苦悩」に何とか共感できないかと努めた記憶がある。ずいぶんと「理解しがたい他者」に耳を傾けようとしたものだ。その後フェミニスト批評に触れたりする中で、共感できなくて当然だったといつしか思うようになったが。『男流文学論』や『妊娠小説』を笑いつつ興奮しつつ読んだ日を思い出す。

私の世代には、そういうフェミニスト批評のように、また女性自身による新しい表現のように、男性作家視点を相対化してくれるだけの「他者の声」が辛うじてあった。その他の多様なマイノリティ視点から作られる芸術も探せばそれなりにあった。しか古典とされるようなものは言うまでもなく、世間で人気のあるもの話題になっているものは多くがリベラルでも何でもなく、機械的に「差別語」を排除したりする他はポリティカルコレクトネスにも多様性にも無配慮なのが普通だった。それにもかかわらず、「逆差別」だの「自虐史観」だのとリベラル側の価値観攻撃する言説は早々と巷にあふれていた。私は左翼だが、小林よしのり作品をいくつか読んだことがある。周りで流行っていたからだ。小林よしのりは「じいちゃんの死は無駄だったというのか」といったまさに感情に訴える手法保守派戦争観を広め、当時の若い世代にかなり影響を与えた。

シグロ氏の周りはどうなのか知らないが(と皮肉を込めて言うが)、日本書店というのはいまだに「嫌韓本」が山積みにされたり、保守論客歴史本がベストセラーになったりしている。イシグロ氏の小説を読むようなインテリ層の一部はそれに眉をひそめるかもしれないが、現実として、日本にはずっと「リベラル以外の人」の表現があふれ、どこにでもいる「リベラル以外の人」がそれをのびのびと享受している。「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許である社会などいったいどこにあるのだろうか。私は見た覚えがない。

小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラル進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。」そう思うのかもしれない。「私は人生の大半を進歩自由主義的な考えのもとで心地よく過ごしてきた」と言えてしまうような人は。この言葉移民であり民族的マイノリティであるシグロ氏の口から語られることは、イギリス社会成熟を示すものでもあるだろう。

しかあいにく、私の住んでいる世界はイシグロ氏の世界とは違う。イシグロ氏の世界にしても、単にイシグロ氏に見えていないだけで、リベラル価値観の過剰ではなくその不足に苦しんでいる人がまだたくさんいるだろうと私は思う。私はリベラルとして非リベラル発言権を奪えとは言わないし、またその声に耳を傾ける人がいてもいいと思うが、私が日本社会でより多く耳を傾けたい声は、やはり非リベラル社会が長らく抑圧してきた、今も抑圧している声の方である

ところで、私は川端康成太宰治作品差別的な要素があると言ったが、かれらの本を絶版しろとも、教材に入れるなとも、子どもに読ませるなとも思わない。差別的要素があるからといって作品全体が否定されるべきだとも思わない。私は川端康成文章の美しさも、太宰治小説面白さも理解することができる。それに価値がないとは言わない。

キャンセルカルチャー」という言葉が指す状況を私は詳しく知っているわけではないが、作者がある場面で「政治的に正しくない」言動をしたからといってその作品全否定したり、市場から完全に追放したりすることは私は支持しない。差別思想公的な表明は批判されるべきだが、芸術表現を直接的に規制したり、作品を抹消したりすることは慎重であるべきだと思っている。

この点はおそらくイシグロ氏の考えと私の考えは近いだろう。芸術総体として愛するならば、自分の嫌いな作品理解しがたい作品が生まれてくる可能性も含めて愛さなければならない。私は現在視点川端康成太宰治表現の一部に批判をもっているが、その批判を表明する方法作品を焼いたり隠したりすることでは決してなく、批評や新たな作品で相対化していくこと、注釈を書き加えていくことだと思っている。

ただし同時に、かれらの作品にも行動にも現在から見て許しがたい要素があること、それは当時には自覚も変更も難しかたかもしれないが、今後の社会に引き継ぐべきではないこと、そこを否認するつもりもない。作品は消さないが、今後も読まれ続けるのなら、そういう観点から批判作品自体と同じくらいに読まれ、語られるべきだと思う。もし川端康成教室で読むのであれば、教師にはその美しさだけでなく、その女性の描き方が一方的であったり一面的であったりすること、フェミニズムを通過した視点でどう見えるかというようなことにも学生の注意を促してほしいと思う。これが過剰な要求であるとは私は思わない。

最後に、イシグロ氏が述べている「感情」というものについて少し違う角度から見ておきたい。最初に書いたように、私は政策決定などにおいて事実科学的根拠より感情が優先されるような事態は望まない。この点ではイシグロ氏に同意する。

しか人間感情というもの社会のあらゆる場面で抑えられるべきとも、それが可能とも思えない。イシグロ氏の主張を大きくまとめると、現在世界(実際はイシグロ氏の属するインテリ業界)はリベラル側の感情を優先しすぎるものになっているので、感情優先を抑えると同時に非リベラルももっと発言の場を与えるべきだ、と読める。私はこれには同意できない。

まず現状認識が違い、芸術世界リベラルに席巻されているようには到底見えない、というのが上に書いたことだが、それとはまた別に文学芸術世界でまで政策議論場合のように感情排除する必要はないだろうと思う。イシグロ氏は小説家として、感情を重視する文学トランプ支持のような不合理に加担した可能性を反省しているのかもしれない。しかし思うに、それはそれで文学の買いかぶりというものだ。感情に訴え、感情を揺さぶもの文学芸術の他にもいくらでもある。むしろ現実生活が多様な感情を強く喚起するからこそ、それを芸術表現し直すことが対象化や客観視の手段になりうるのだ。そして文学芸術は、合理性を追求する世界からこぼれ落ちる感情思想避難所としての役割をもっている。人間が完全に「合理的」な存在に変化しない限り、この役割がなくなることはないだろう。科学エビデンスに基づいてワクチン政策を決めるように自分人生を生きられる人はいない。そんなことを個人に求めるべきだとも思わない。

また、イシグロ氏の言う「リベラル」に人種的民族的性的その他の抑圧されてきたマイノリティが含まれるのだとしたら、かれらが時に強い攻撃性をもってその感情、蓄積されてきた恨みや怒りの感情表現することを私は一律に非難したくない。被差別者表現が時に復讐的な攻撃性をもっていたり、「逆差別」と見えるような偏見を含んでいたりすることはある。それ自体はたしかに「良いこと」とは言いがたい。しかしこれもまた現状認識問題になるが、今の社会マイノリティマジョリティ攻撃するような表現公然と行えば、より危険さらされるのはマイノリティの方である。だから圧倒的多数マイノリティはそんなことをせず、むしろ感情抑制に非常に長けている。

BLMを暴力的だと言って眉をひそめる人を数多く見たが、私が以前から思っているのは、もし黒人たちがその何世代にもわたる奴隷制怨恨復讐としてそのまま投げ返したなら、アメリカ白人社会はすでに何度廃墟になっているかからないということだ。しか現実はそうなっていない。現実マイノリティは、時に攻撃的に見えることがあるとしても、総体として恐ろしく理性的で自制的で、そして寛容なのだ。何一つ復讐も、感情表現することもできずに埋もれていった膨大な被抑圧者の忍耐の上に今の社会は維持されている。多くの被差別者は、深い痛みを抱えながらも、求めるのは復讐ではなく次世代幸せになることだと穏やかに語る。その中から時に感情的な表現が投げかけられたとして、それを感情的だと単純に排除することを私はためらう。

ずいぶんと長くなってしまったが、ふと書く気になったので書いた。まだいくつか書き残している気もするが、土曜も一日つぶれたことだしこのへんで。

シグロ氏の発言について、ある左翼かつリベラルから見た感想

この記事が注目を浴び、多くのブコメが集まっている。

"カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ"

https://toyokeizai.net/articles/-/414929?display=b

まず、私は自分が大別すれば「左翼」かつ「リベラル」の立場にあることを自覚している。左翼定義リベラル定義の困難さ、特に現在日本で「リベラル」が「左翼」の言い換えのように使われて混乱が生じていることは十分承知しているが、そのあたりに触れるといくら前置きをしても足りなくなるので、要するにここを見るような人間たちがイメージする「左翼」であり「リベラルであると考えてもらえばいい。ただし、左翼かつリベラル、というように私はこの両者は区別している。区別した上でどちらでもあるということだ。参考までに、最近やってみた下記サイトポリティカルコンパスでは、

https://www.idrlabs.com/jp/political-coordinates/test.php

61.1% 左派, 72.2% 自由主義者

という結果だった。これを見てもわかるように「左派」と「自由主義」(リベラル)は別軸である混同している人は気をつけてほしい。

そういう一人の人間として、件のイシグロ氏の発言への感想や疑問を書いてみる。

まず、社会制度の大枠を議論したり決定したりする際に、感情より科学的なデータエビデンスが重視されるべきだというイシグロ氏の意見には私も異論がない。陰謀論フェイクニュース似非科学歴史改竄代表されるような事実軽視は、それが誰によるものであれ批判したいと思う。私は左派だが、左派の中にこの種の問題がないとも言わない。

たとえば近年では、日本共産党などがHPVワクチン副反応被害者立場に寄り添うあまり、反ワクチン的な言説を許してしまっている(自分で言わないとしても、運動内部のそういう言説をはっきり否定しない)ことを歯がゆく思っている。誤解している人もいるようだが、日本共産党本来ワクチン否定的ではない。HPVワクチンについても、むしろ導入を行政要求したりしてきた。しか副反応被害を訴える声が上がり、裁判になってその原告支援する立場となると、原告側の科学的根拠が弱い言説に対しても必要以上に寛容になっているように見える。それが被害を訴える原告の「感情」を優先したためなのか、あるいは裁判運動を進める上での利害を計算したためなのかはわからない。そのあたりは人によっても違うだろう。しか現在出ている科学検証の結果が原告側に有利ではない以上、主張はデータを軽視しつつ苦痛の強調など感情に訴えるものになりやすい。イシグロ氏が言う「科学エビデンスより感情が優先される」問題として私が連想したのはこのような例だ。

この件で一応私の意見を言っておくと、副反応を訴える人にはなるべく広く補償適用しつつ、HPVワクチン自体は普及を進めるべきだと思っている。副反応裁判原告団体については、補償範囲を広げる運動としては支持するが、同時にHPVワクチンの勧奨再開に反対したり、さらには反ワクチン的な主張をする人物が混じっているのが支持できない。また便宜的に日本共産党名前を出したが、私は共産党員ではなく関係も薄い。共産党に限らずHPVワクチン訴訟原告支援する左派政党や団体に共通する問題として挙げた。

しかし多くの部分で、私はイシグロ氏の発言同意できず疑問を感じる。そもそも現状認識が私とは大きく違うように思うからだ。たとえば次のような部分だ。

"小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラル進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思いますリベラル側の人たちはこれまでも本や芸術などを通じて主張を行ってきましたが、そうでない人たちが同じようにすることは、多くの人にとって不快ものかもしれません。

しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です。

リベラル側の人が理解しないといけないのは、ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許ではなく、誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけないということです。"

ここは私には非常に疑問が湧くところだ。何よりわからないのは、いったいいつどこの世界で「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」になったのかということだ。

シグロ氏が住むイギリスのどこかにはそういう特殊場所もあるのだろうか。まあおそらく、イシグロ氏が属するコミュニティの大半が教養ある「リベラル」で、そこでは「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」はほとんど目につかず、その声が抑圧され死に瀕しているかのように錯覚してしまったのだろう。しかしイシグロ氏自身が言っているように、アメリカでは半数近くの人が一時的にであれトランプを支持し、イギリスではブレグジット派が不正ではない投票で多数を占めてしまったのだ。「リベラル進歩的な考えを持つ人たち以外の声」は十分に力を持ち、各国の舵取りに影響を与えている。

語ることがリベラル専売特許に見える世界とは、イシグロ氏を取り巻く知的文学芸術を愛する少数のインテリ世界のことでしかないだろう。イシグロ氏もそれを自覚はしているようで、だからこそ「縦の旅行」というようなことを言う。しかしその狭いインテリ業界での経験一般化し、世界全体がそうなっているかのように語ることこそがまさにインテリ傲慢であり、相変わらずその狭さに無自覚発言だとは気づいているのだろうか。

シグロ氏と違い、私は左翼でありリベラルである自分のような立場日本社会で主流になり、語る権利を独占しているなどと錯覚できたことは一瞬たりともない。たしかに近い考えを持つ人の集まる場所というものはある。しかしそういう場に足を運びながら、その場を一歩踏み出せば「世間」は全く違うのだと常に意識している。「縦の旅行」などするまでもなく、日本社会で「普通に」暮らせば、全くリベラルでない人、左翼蛇蝎の如く嫌っている人、そもそもそういう言葉も、そういう違いがあることも知らない人などに電柱並みの頻度で出会うのである

たとえば私は天皇制廃止すべきだと考えているが、世論調査では天皇制に反対する人はずっと一割を切っている。周囲の人間ランダムに選べば十人中九人以上はこの点で私と考えが違うわけである。まあ日常生活でいきなり天皇制の話をする機会は少ないが、先日の代替わりだの改元だのの騒ぎの時には、自分が少数派であることをあらためて意識させられた。特に天皇問題については、過去右翼の襲撃のような直接的暴力による脅迫があり、言論の自由が大きく損なわれたことを知っておくべきだろう。「じゃあこっちはどうなんだ」をあまり振り回したくはないが、ポリティカルコレクトネスなどによる言論不自由懸念するのであれば、日本社会にはびこる天皇をめぐる言論不自由にも一通りの知識と関心は持ってほしいと思う。

自由民主主義」の社会享受してきたと語るイシグロ氏は、部屋で文章を書くだけでなく、デモに参加し、街頭で語ったりビラを撒いたりしたことがあるのだろうか。それは自由民主主義を維持するための不可欠な活動の一つなのだが。やってみるとわかるが、街頭では温かく応援してくれる人だけでなく、口汚く罵ってくる人にも出会う。私の知人の中には、突然殴りかかられてけがをした人さえいた。手渡したビラを一目見るなり舌打ちして破り捨てる人もいる。私たちはその断片を拾う。それでも受け取ってくれるだけましとも言え、多くの人は避けるように通り過ぎていく。「自分とは違う世界がある」どころか、周囲の人の大半は自分とは違う考えだが、それでも少数者として声を上げていくことは無意味ではないはずだ、と私は自由民主主義社会で日々自分に言い聞かせている。

日本左翼をやっていると、自分投票した候補者当選することも少ない。民族的性的、その他さまざまなマイノリティ権利擁護運動に関わっていると、そもそも多数決に任せれば無視されるのが当然、そういう世界いか存在認識させ、主張を届けるかというのがあらゆる活動第一歩になる。言うまでもない前提だ。

上記のイシグロ氏の発言で何度読んでもわからないのは、「多様性」についてわざわざ「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味多様性ではなく」と言っていることだ。これは何なのだろう。イシグロ氏はここで、「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」と「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」をあえて対立させ、前者より後者多様性重要であるように言う。前者の多様性と同時に、それに加えて後者多様性も、というならまだわかる。しかし、少なくとも多数決投票勝利したことのあるような「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」の声を「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」の声より優先して聞こうというような提案が現状の「多様性」をどれだけ高めるというのだろうか。

また、「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語る」という記述を読んで私が疑問に感じるのは、これはいったい誰が、どの立場から語るのだろうか、ということだ。翻訳問題などもあるのかもしれないが、これを読むと、その人々の世界を外の人間が「誠実に」語ることのように読める。たとえばイシグロ氏のような作家ブレグジット支持者の内面世界を誠実に想像して描くというようなことなのだろうか。

しかしそれは、その傍で言われている「誰もが語る権利」と矛盾する。「語る権利」と言う時、マイノリティ運動の中などでは特に当事者が自ら語ることを重視する。当事者心中を非当事者想像して代弁することは推奨されず、場合によっては本人の言葉を奪う行為として非難される。トランプ支持者やブレグジット支持者にしても、たとえばイシグロ氏のようにもともと思想立場の違う作家いかにも理解ありげに、「あなたはこんなふうに思っているのでしょう」とばかりにその思いを代弁したら多くは反発するのではないか。だから原則としては、その声に耳を傾けたいなら、非リベラルと言われる人々に語る場を保障し、自ら直接語ってもらうのが正しい。

その上でイシグロ氏は、そうして語る場を提供して耳を傾けた時に飛び出してくる言葉が、「○○○人はゴキブリ、この国から出ていけ」や「同性愛者は天罰を受けて死ね」だったり、静かな口調で確信に満ちて語られる「あなたがたは皆ディープステート洗脳されているのです、ぜひこの資料を見てください」だったりした時にどういう反応をすべきか、どこまで現実感をもって考えているのだろう。この発言が単なる綺麗事に見え、それゆえ面白くないのはこのあたりの現実に何も触れていないからだ。

シグロ氏は「誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と言うが、これは理想論原則としては全くその通りであるしか現在問題になっているのは、その「誰もが語る権利」を尊重した結果次々と湧き出してくる陰謀論ヘイトスピーチへの対処現実的にどうするかということなのではないか。先日話題になったツイッター社のトランプアカウント凍結なども、この原則現実の間で行われた苦渋の選択だった。こういうリベラル原則現実とのジレンマは、「寛容は不寛容に対して寛容になるべきか」といった形で長く議論されてきたテーマでもある。それで言えば、トランプ陰謀論支持者に向き合いつつ、あえて寛容の原則に立とうと語る下の記事の方に私は感銘を受けた。

"「トランプ陰謀論」が今なお5000万人を魅了するワケ。『白人ナショナリズム』著者、渡辺靖に訊く"

https://finders.me/articles.php?id=2529

私はリベラルだが、この問題についてはここまではっきりと「寛容」に立つとは言い切れない。ヘイトスピーチ規制にも慎重派でありつつ、現実的にやむを得ないとも思っている。各国の法規制方針を見ても、それぞれの背景に基づく大きな違いがある。現時点で何が妥当判断しにくい難しい問題なのだ。「私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と書斎で言い放つだけでいいならそんなに楽なことはない。

また、いくつかのブコメが触れていたが、たとえばトランプ支持者が陰謀論を信じるのはそもそもシグロ氏が言うような「感情優先」のせいなのかというのも疑わしい。選挙の敗北を認めたくないという感情陰謀論を信じさせているのだ、というのはあくまでも外から解釈で、本当に信じている人にとっては陰謀論は「事実」そのものだ。実際、陰謀論を広めている人はしばしば「まずは事実を知ってください」と言う。誤情報さらされ、修正機会がないまま信じ込んでしまうという現象特に感情からまなくも起きる。平凡な思想感情的に主張する人もいれば、陰謀論を冷静に信じる人もいるのだ。トランプ支持のような現象を「感情優先」として批判するのは、陰謀論フェイクニュースのような誤情報の浸透をどう制御していくかという問題に対してあまり有効でないように思う。

ちなみに、トランプ支持者やブレグジット支持者に向き合ってその声を聞こうとした研究取材はすでに数多く行われていて、下の記事のように日本記者によるものさえある。

"トランプ支持者はなぜ熱狂的に支持しているの? とにかく彼らに会い続けた記者が、これからも語り合う理由"

https://www.nhk.or.jp/d-navi/note/article/20210208.html

シグロ氏が自宅でなぜリベラルは非リベラルの声を聞かないのかとぼんやり嘆いている間にも、実際にトランプ支持者の家を訪ねて話を聞こうとしているリベラル寄りの人間は山ほどいるのだ。イシグロ氏は「リベラルが」ではなく「自分が」ご近所の非リベラルの声さえ聞いてこなかった、と言うべきだろう。主語を大きくしすぎてはいけない。

続きはこちら↓

https://anond.hatelabo.jp/20210306213813

2021-03-03

AI, VR, 仮想通貨, IoTで大量殺戮するのはまだ良いことで、それらの平和利用こそ恐ろしい」

当時高校生だった私は3.11のその年に福島県大学(会津大学)に入学しました。あれから10年も経ってしまったので、私のごくプライベートなことについて書きます

あと、匿名性は低いです。匿名ダイアリーなのにごめんなさい。

3月11日

2011年3月11日に、私は茨城県博物館の中にいた。高校卒業式が終わって、車の免許を早々にとったらしい友人と二人、車で博物館にきていた。地震とき、私は吹き抜けの空間の中心にいて、長い振動の間、博物館全体のガラスは轟々と鳴り響いていて、「ああ、私は、今日が命日なのだなぁ」と人々の動揺の中、思った。

実際にはガラス耐震性能が高かったので、館内にはけがはいなかったようだった。

信号機の止まっている、徐々に昏れていく道を、車中でほとんど会話もなく急いで帰った。急いで帰ったけれど、通常の2倍以上もかかって家についた。

私は地震の直後、2ちゃんねるに張り付いていた。「福島原発やばいらしい」そんな書き込みを見て、いよいよ日本は終わったんだ、と私は思った。

私が高校生の頃、世界原発事故ドキュメンタリーが大好きだった。チェルノブイリスリーマイル島東海村。「原子力」という尋常ではないエネルギーが生身の社会に取り込まれて、人間の内側におとずれるということに私はなんとも言えないグロテスクさを感じて、親や友達気持ち悪がられながらも読んでいたのだった。

当時、特にJCOの臨界事故NHKドキュメンタリーは何度も読み返したものだった。事故が起きた時、「出奔した原子力」に対しての(政治的・肉体的・精神的)人間の無力さ、弱さのコントラストがあまりにもどぎつく、生々しく顕れていたからだった。

私は地震が起きて、一、二日後にはリビングこたつ占拠して、こたつのど真ん中にデスクトップPCを置いて、情報官気取りで気象シミュレーションをみたりしていた。そして、家族にも協力してもらい家中シャッターを閉めた。それくらい、当時私は怖かったのだと思う。

震災直後、福島県大学入学した

私は震災の年、福島県大学入学した。私の地元同級生にも福島県大学入学する予定だった子がいたが、辞退したらしかった。大学入学式は遅れて執り行われた。ガイガーカウンターを買った方がいいかな、とか、「あそこには近づかない方がいい」とまことしやかな噂を聞いては少し怖いな、という思いが常に頭にあった。

しかし、入学してみると、その話はなんとなくしてはいけない話に思えてきたのだった。それはその土地に長く住んでいて動くことができない人たちには、惨い話であるからである。私もいつの間にか、放射線の話はしてはいけない気がして、話題にするのをやめた。すると、怖いという感情もいつの間にか薄れていった。

しかし、時々、放射能汚染される夢を見ていた。これはつい福島県を離れる少し前まで見ていたのだった。

私の当時住んでいたアパートには窓の近くにベッドがあって、その窓の外には何年も取り込み忘れたバスマットが干してあった。私の覚えている夢では、実はそのバスマットは大気中のチリや雨に放射性物質たっぷりまれていて、そのバスマットの線量が高くて、実は私の身体が蝕まれていて……という夢であった。何年もそのバスマットを干しっぱなしにしてしまったのは、もしかしたら、そういうことに対する無意識的な恐れから触りたくなかったのかもしれない。

長年大学でくすぶっていた

私は、大学特にパッとした研究もできないでいるのに何年も何年も大学にいた。でもそれが良かったのかもしれない、と今では思う。福島県という土地に「土着」して、私なりの感覚放射能の感じ、特にその怖い感じの中に居たということが。

私はもともと怖い思想の持ち主だと思う。正しいと思ったら、それに突き進んでしまう。人の感情も、中学生くらいから読まないように生きてきてしまったため、無視する癖がついてしまっている。だから原子力という「科学技術コントロールから外れた状態」の中に当事者として生きた、というのは私が、私の歴史にとって重要ことなである。もちろん、日本にいたら誰だって当事者なのだが、私は福島県に住まわず当事者と思えるほど賢くない。

核兵器はまだ可愛いもので、核の平和利用こそ恐ろしい」= 「AI, VR, 仮想通貨, IoTで大量殺戮するのはまだ良いことで、それらの平和利用こそ恐ろしい」

3.11から10年が経って、私は福島県から遠い場所に住んでいる。今は遠くから考えることしかできない。

最近原子力、ひいては(科学技術についての論考を読んでいる。1950年台、まだラジオな世の中で、近未来的なもの技術とか科学が大きな期待を背負っていて、すごくキラキラしていたであろう時代、人々は核の技術に対して、今でこそ信じがたいが「核兵器の利用は良くないが、核の平和的利用こそ人類幸福につながる」と本気で思っていたようなのだ。多分、今でいうところの、テレビCMIT系企業がたくさん広告を打っていて、IT企業に勤めていることが一種ステータス少女漫画に出てくる男性IT企業勤め!)になっていて、AIすごい!VRすごい!仮想通貨すごい!IoTすごい!みたいなイケイドンドンな感じだったのだろうと思う。そんな時代、「核兵器はまだ可愛いもので、核の平和利用こそ恐ろしい」と指摘した人、ハイデガーがいた。今でなら、「AI, VR, 仮想通貨,IoTで大量殺戮するのはまだ良いことで、それらの平和利用こそ恐ろしい」と言うのと同じことなである。今でなら炎上やむなし発言なのであるしかし、このアナロジーを単なる面白おかしアナロジーとしてだけで捉えていいか。彼は世の中の潮流とは全く違う発想を省察によってしたからこそ、核の平和利用危険性をかなり早く認識できた。

科学は考えない」

ハイデガーは「技術」について『放下』の中で、(科学技術に対して「その価値を認めつつ、それに対して否、と言う」 ―ーこの本のタイトルにもなっている、「放下」という態度が大事なのではないか、と言っているらしい。(まだ『放下』は直接読めていないので、「らしい」でごめんなさい。)

そして、彼は思考について、「計算する思考」と「省察する思考」とに分けて考えており、彼は「科学は考えない("Wissenschaft denkt nicht")」、科学計算する思考であって省察ではない=「考えていない」、というしかたで核の平和利用について否、と言ってみせた。

科学は考えない」

これは、理系立場仕事している者にとっては「耳が痛い」ことなのではないかしかし、耳が痛いからこそ考える価値があるのではないか

彼の言っていることを私は理解できる気がするのだ。科学進歩的に進んでいく。その「ひたむきに進んでいく」ということが「科学は考えない」と彼が言う理由なのではないかと私は思う。何か、ある方向に、引っ張られるように「進んでいく」。立ち止まる者は厄介者として排除される(Publish or Perish)。ハイデガー技術批判するだけではない。もちろん価値を認めつつ否定するという態度を彼は実践している。私も技術がなくなったら困る。方向音痴の私はGPSが無くなったら、地図が無くなってしまったら、とても狭い世界を生きることになってしまう。だから難しい、ある意味矛盾の中を生きなければならない。

私について

私は、実は博士過程を休学した。プライベートも荒れてしまったし、閉塞感でいやだったし、どうしても、論文が書けなかったのだ。

私は小さい頃から哲学が好きだったらしい。「最近哲学系の本を読んでいるよ」と昔の友人たちにいうと、みんな「よく哲学的な話してたもんね」と言ってくる。

でも、私が文系に進学しなかった理由が、「確かなものが何もないと怖い」という恐れからであったし、国語がとても成績が悪いし、理系ってなんかかっこいいとか思ってたのもあって、ずっと理系研究室で研究していて、哲学とか諸々の教養ほとんどないのだ。

哲学最近やってる」と言うと大半の人に苦い顔をされる感じがする。「中二病が抜け切っていないな、こいつ」と言いたげなそんな感じ(笑)。おそらくそれは哲学に「生産を止める」作用があるからなのではないだろうか。無意味で、ある意味破壊的な作用が。

以前、こんなことがあった。課外活動で何人かで集まってスマホアプリを作ろう、となったときに、誰かが「xxさん(有識者らしい)から教えてもらった方法で、xxという仕方でブレーンストーミングすると良いらしい」と言った。私は「なんでその方法でなければならないの?」と、ある意味チームの士気を下げるようなことを言ってしまったのだ。こういう「そもそも論」(哲学)というのは「生産を止めてしまう」。イヤな感じに水を差す。だからまれる。

しかし「生産を止める」という行為が実は重要なのではないか。世の中的に、「生産的=いいこと」という認識がある。生産を止め続けないことがそれほどいいことなのだろうか。これこそが、ハイデガー批判するところの「考えない」態度ではないか。「より幸せに、より便利に」を目指すために科学技術を信じて、生産生産生産、とひたむきに努力してきた末の原発事故ではないか

昔の時代原子力は「兵器として利用されることはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられていた。

今の時代も同様に、情報技術生命科学が「非倫理的に利用されるのはとてもよくないことであるが、平和的に利用するならむしろ幸福に導く」と信じられている。「再生可能エネルギーでなら、持続可能社会が実現できる」とも信じられている。

もし、「なぜ地震大国原発つくったらヤバイという今ではあたりまえの認識を持てず、当時誰も水を差す人がいなかったのだろう?」と考える人がいるならば、なぜ、現代においてもその人が水を差す人にならないのかが不思議なのである。だから、私はあえてこうして水を差す、ということをしてみたい。

ということで、私の全然論文を書けていない「生産しなかった」大学時代も、この哲学的態度の実践とみなしてこの文章を締めくくることにする。

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