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社会学者の宮台真司さん「トリチウム生体濃縮の根拠!」と1週間以上の沈黙から論文をミスリードし引用→総ツッコミ
https://togetter.com/li/2223352
そもそも論文一つで、なにか一般的な真実が明らかになることはほぼないと言っていい。
特に、一般性が高い大きなテーマや、論争になるような結論を簡単に出すことができないテーマにおいては。
論文というのは「◯◯の条件で△△の結果が出ました。そこから考えられるのは□□です」というフォーマットに則っている。
□□はその論文の結論と言っていいものだが、たいていの場合で語気が弱められている(断言しないような言い回しになってる)。
「□□の可能性がある」とか「□□は【より重要で一般的なテーマ】にとって重要な知見を与える」とかそんな。
件の社会学者が引用した論文でいうと(アブストラクトしか見てないけど)、
This paper presents a laboratory experiment developed to identify previously untested scenarios where tritium may concentrate or transfer in biota relevant to Baltic coastal communities.
(この論文は、トリチウムが濃縮する可能性がある未検証シナリオを特定する実験を示したものである)
current legislation does not adequately take into account the nature of organic forms of tritium and therefore may be underestimating accumulation and toxic effect of tritium in the environment.
(現在の法律はトリチウムの生体内での性質を十分考慮しておらず、それゆえトリチウムの濃縮と毒性を過小評価しているかもしれない)
may | かもしれない、を使ってちゃんと(?)結論をぼかしている。
(法律がトリチウムの性質を考慮していないの部分はmayがないので確信があるんだね。)
なぜこうなっているかというと、論理的に出せない結論は書いてはいけないから。
もし書いたら査読に通らない。
Aって書いてるけど、BかもしれないしCかもしれないよね?とか査読者に言われちゃう。
万が一査読に通っても、学会や論文で他の研究者に遅かれ早かれ指摘される。
でも「我々の実験はAかもしれないことを示した」は論理的に間違いではないから査読に通る。
逆にいうと、mayさえつけとけば何書いても許されるみたいなところはなきにしもあらずなところがある。
あまり良くないようにも思えるが、だからといって何を明らかにしたい(したかった)論文なのかは目立つところに書いておいてもらわないと読みにくいので、今の書き方が慣習となったのかもしれない。
結論を言いきれなかったからといって価値のない論文なのかというと、そんなことはない。
◯◯の条件で△△の結果が得られたことは、学術的に重要な知見である(かもしれない)のだ。
トリチウムがわずかでも生体濃縮するかどうか、みたいな結論を簡単には出せないテーマに対しては、あまり強い主張はできないけど限定的な条件でいいから少しずつ知見を積み重ねていくのが、現代の学術のありようだ。
この論文では生体濃縮の可能性を示した、あの論文では生体濃縮の可能性は見出されなかった、というのを積み重ねていくのだ。
一見相反する結論の論文があるように思うかもしれないが、実験条件がちがうのだし、ここまで書いたように結論を断定した論文は少ないので、おかしなことではない。
これで、一つの論文を引用しただけでイキったこと自体が、おかしなことであることを分かってもらえただろうか。
(論文の内容にもケチがついているようだが、その論文を読んでないし他の関連文献も見てないので、特に触れない)
これは余談にはなるのだが、もし何かの研究結果を調べなくてはならなくなったとき、たとえばトリチウムの生体濃縮について調べなければならなくなったとき、
一つの論文で結論を出せるものではないなら、どうしたらよいかを書いておく。
ようするにその研究テーマの主要論文を押さえればよいのだが、そのやりかたについて。
基本的にはGoogleかGoogle Scholar(Googleの論文検索サイト)で適当なワードで検索すればよいのだが、ほかにも一般の人はあまり知らないであろう方法をいくつか書き留めておく。
社会学者の宮台真司先生が、「植物性プランクトンからムラサキガイへの食物連鎖によるトリチウム生体濃縮を見出した科学誌の査読論文」を意気揚々と御提示されました。
(「自らの劣等感をエセ科学の威を借りて埋め合わせるヘタレども、どんどん湧いて炎上しな。 ただし炎上先は、定評ある学術誌・査読チーム・論文執筆者だぜ、くっくっく」と述べられておりますので、「意気揚々」と評して差し支えないでしょう。)
しかし、トリチウムの生体濃縮についてはそもそもこの論文では証明されておらず、また後の論文も含めて、トリチウムの生体濃縮は否定されているといって良いでしょう。
宮台真司先生は素人ですから、誤読されたり、最新の研究結果について無知であるのも無理はないとは思いますが、専門外のことなのであれば、同僚の専門家に聞いてみるという謙虚さも必要なのではないでしょうか。
宮台真司先生の能力以上に問題だと感じたのがそのスタンスです。科学の世界では論文があることが重要なのではなく、それを検証検討し、再現性の有無などを確かめ、その論文が本当に妥当であるか、問題があるとすればどの部分かを確かめるプロセスが非常に重要で、そのプロセスこそが科学と言えます。
今回の宮台真司先生は、「権威ある誌面に査読付きで載ったから正しいんだ」というスタンスを取っておられますが、まったく科学的な態度とは言えません。
社会学は門外漢なので非常に恐縮なのですが、社会学の大家たる上野千鶴子先生が「不利なエビデンスは隠す」と公言し、それに対して大した批判もないところも含め、このようなスタンスが社会学の世界で一般的だとすれば、おおよそ科学的な学問とは評価できないと感じます。
(これでは「○○先生が言ったから正しいんだ」という権威主義的な世界です。)
社会学が、このようなスタンスで社会を分析し、課題を見つけ、必要があれば政策提言をしたりマスコミに発信をしているとするならば、それは失礼クリエイターと揶揄されるマナー講師と同様に、社会学者は社会課題クリエイターなのであって科学者とは言えないのではないでしょうか。
また、社会学者として、現在の社会課題を「発見」することにインセンティブがある以上、社会学者と社会変革を求める左派政党(立憲や共産党)とが親和性があることは理解します。しかし、このようなスタンスで創られた社会課題解決のために政策を立案しているとするならば、これらの政党の政策も歪んでくることは必然でしょう。
余談ですが、共産党の言っている「汚染水」の科学的根拠って今回の宮台真司先生みたいなのではないのかと不安になりますね。
https://www.sankei.com/article/20230911-7EUGHAEVVRNXREXBB36ADTSE34/
社会運動のためなら不利なエビデンスを隠す有害な「社会学者しぐさ」って、既にビジネスモデルでは?
反ワクチン活動家も査読論文ではなく、出版と講演活動で第一人者の既成事実を作ろうとする。
まぁ定期と言っていいだろう。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2218032
社会学】上野千鶴子、学問の中立性や客観性を否定していた。「不利なエビデンスは隠す」だけでなく、覆面査読の拒否、「学問の中立性や客観性は抵抗勢力」と主張。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2217225
宮台真司がどうとかよりも「社会学者憎し」がこれ程潜在的にある・あった事に大変驚く。みんな社会学の事が本当に分かってないか、初めから無価値と決め込んでるんだな。社会学に価値を認めないということはそもそも「社会」に価値を認めないということなんだろうな。
この手の議論となったとき、多くの場合は社会学(者)不要論から文系不要論に進んでしまい、非常に迷惑している。
いつも、特徴として、
○間違った知識で専門外のことを決めつける。
○間違いが指摘されても認めない。
といったところが見て取れる。
ただ、仮にも学者を名乗っているのであれば、ここで社会学(者)に求められるのは、「ワタシ悪くないもん!」と主張するのではなく、以下のようなことではないだろうか。
もちろん、これは「社会学は社会の真理を解き明かすから」などのお気持ち表明ではなく仮説を立てて実証する。集団(群集)心理の研究なんかは正に社会学のテーマと言えるでしょう。
というか今回の宮台先生だって、処理水の安全性ではなく、何故不安に思う人々がいるのかを科学的に分析していたなら正に社会学者の仕事と言えたのにね。
「不利なエビデンスは隠す」と公言するほか、査読への拒否感など手続きを軽視する姿勢が甚だしい。そういった者が主流となり、同業他者からほとんど批判もされない理由の分析が必要です。これも正に社会学の研究テーマと言えるでしょう。
というか、いつも「○○の社会学」って他の分野に切り込んで課題クリエイターとなるくらいなら、まず「社会学者の社会学」をやったらどうですか?
まぁ、他の多くの文系分野同様(経済学や法学の一部(商法など)を除く)に左派色が非常に強い(というか形だけでも左派に理解を示さないと出世できない)中で、出世に重きを起きすぎたせいでこうなったのかなぁ、という漠然とした印象はありますけどね。
こういったところまで視野を広げてアカデミズムの社会学をやろうとすると放逐されるんですよね、知ってます。
これをすると講座制から脈々と続く、後任は前任が事実上指名する体制が崩壊するからね、仕方ないね。
(ちなみに、「保守派は学問を軽視する」という研究は認められますが、「リベラル派は~」となるとかなりオブラートに包まないと無理です。実例あり)
的はずれなブコメがあったので。
「アカデミズムから放逐」(笑)ブルデューも知らんの?https://tinyurl.com/yfdnu3ah幼稚な学問イメージで一つの学を全否定できると考えるバカの戯言。社会学や人文学がこの手のバカに敵視されることがその必要性の証明。
ここで提示したのは社会学者の社会学ね。違いが分からないかな?
分からないなら分かるように書けなかったのが悪かったね、ごめんね。
社会学という学問への自己批判だけでなく(これは社会学の社会学)、何故このような人たちが出世してしまったのかの分析が必要ってことね
世の中には三つの話があると思っていて、
1.倫理学や人類文化学や政治学や法学等を含めた、専門家が調査や学説や歴史等に基づいて、学術的な定義を積み重ねて行う学術的議論(これは体系的な知識が必要で、素人が簡単に参入できない)
2.データや文書や遺伝子検査血液検査などの単なる事実の集合(+専門家による解釈)
で、いわゆるオタクやネット民は1と3を混同した話し方をしていることがよくあるので物凄く気になるんだよな。
1と3は明確に相容れないものなので。
正義とは何か、差別とは何か、などの議論は基本的には1の領域である。
なぜならネット民は差別に関する定義の変遷、思想の変遷、歴史や諸問題、学説、論文、法制度、各国や各種団体の対応、社会問題に関する体系的知識を専門知として得ているわけではないから。こういった学説や論文は査読や批判反論、再反論など長い道のりを経て、洗練されてから1つの学説としてのポジションを獲得する。
オタクの言う「定義」は、『その辺の人が特に専門的体系的知識もなく関係ないまま、ただ個人的になんとなく考えてたこと』だったりするので、こんなネット空間に触れていたら大衆の知性がどんどん落ちていくのではないかと危惧している。
内容が「人による」「人の考え方次第」の域を出ない素人談義にすぎない。1なら定義はズレないし内容が人によるとか人次第にはならない。
議論が可能な程度に統合された意見ではない。単なる積年の感想だ。
差別という言葉を日常的に聞いたことがあって辞書で引いたレベルの知識量で適当に使ってるだけの耳学問だろう。
専門家は123を完全に区別して使っているが、ネットの有象無象は123を混同しており、そんなネットの有象無象の意見をさらに参照・引用して(例:HNマスダ氏は○○○を唱えているが、のように)メチャクチャなネット談義が活発に行われている。
誰の判断なのだろう?この人の?個人的にいいと思う、悪いと思う、こう思う、なら分かるのだが、ここでも断定されている。
1と3が区別できてないのだろうと思う。
そこを取り違えて自分たちが行っている安全のための差別をさも自分たちが正義かのように語るのが危険なわけでさ。そうして差別は拡大していくんですよ。
拡大するかどうかにつき、この人に差別史の知識はないだろう。やはり、1と3が混同されている。
この後も似たような語調が続くのであるが、
例えばすでに存在する学説の引用であるならまだわかるのだが、市井の人がなんとなく自分なりに定義することや感想を持つことを、定義とは言わないし、見解とは言わないのだ、ということをネットに親しむ人は分からなくなってしまうのではなかろうか。
人の認知は必ず歪むし人は利己的である。3のように誰でも思ったことを言うだけなら、マッド気質の人が殺人の自由を主張することだって意見になってしまうし、適当なことを意見として言うことも可能だ。定量化もされていないままの意見は議論にはならない。
だから、3は3として、体験や感想は体験や感想として重視され尊重されるが、1とは区別しないと社会全体がまともな議論のできない国へと変わっていってしまう。
その社会的な損失を考えると頭が痛い。
『お互い間違っているかも』という対等なポジションを取ることからスタートしよう←これwwwwww
できるわけねーだろwwwwwww
バカ親の思い込みに付き合ってたらいつまで経ってもワクチン接種すらできねーよwwwww
それどころかインチキな電磁波対策の施されたイヤホンを使えだの、1本5000円のEMゴールドwを飲むことを要求されたりエスカレートするだけwwwww
そもそもなんで明確な根拠を持って「これは初歩的な科学的事実にすら反しているからデマだ」と断言できる側が、
ワクチンのマイクロチップだ人類削減計画だと、嘘八百を並べ立ててただけの信ぴょう性の低いソースを対等に扱わなきゃいけねーんだよwww
それこそアホのよく言う間違った相対主義だろうがw
お前と私とどちらが正しいのかなんて誰もわからないのだから、50:50だ!とかいう宝くじも隕石もいつ当たるかわからない世界観w
査読された論文すらない主張と、多くの試験が行われて再現性が見られてる主張とが50:50ww
もちろんエセ科学のデマと違って政治や組織について「実は裏があるらしい」という話は、
ほとんどの人間は十分な一次資料にアクセスしたり検証したり出来ないし本当のところはどうかわからないかもなww
でも散々デマを流してるアホからきた話を信じてやる理由はないよね?????
合理的に考えたら「検証可能なことでデマを流してるこいつは他の事も信憑性が低い」と判断して却下するのが当たり前だろwwwwww
どこかからか拾ってきた恐ろしげな血管や細胞の画像(無関係な疾患のもの)に恐怖を煽る文章を添えたキメラのような記事を真に受け、
定量的な話が一切ないワクチンに入っている危険成分一覧などという話を真に受け、
ワクチンの成分すら明らかになっていないなどという社会システムを理解してない嘘を真に受け、
政府の出す説明は全部ウソ、日本の東半分は放射線に汚染された死の大地なのに政府は嘘をつき続けている!と雄弁に語る人の話を
何をどうすればそのデタラメすべてを一度正しいかもと受け入れてあげるなどという狂気の行動が取れるんだよwwww
受け入れてあげた途端に「絶対にもう予防接種など受けるなよ」「それとあれとこれとあれと………(何十種類もの食品名や成分名)は危険だから絶対に食べるな」と言われてどこまでも束縛される。
延岡の警察官は犯罪者だが、お題として、その犯罪者がなんとかして遊んでいる子供に手を出したくても出せないように固定できるだろうというのが予想で、その彫刻を作ろうと思って
東京に住んでいるコバッシーテルヒコとインターネット通販の拡声器会社のMyMeavelosの共同研究が出てきたのが、昔からあったYoutubeにあるGLAY等の曲を大声で歌ったり、
USBから大音量で流せばいい、それが出てくると、警官が遊んでいる子供に手を出せないようにできるだろうという論文があり、レフェリーの査読が開始されたが実際にそれを運用したところ
延岡の36歳の大塚および、東京の木元などに対してほとんど機能しないことが判明し証明になっていないとして、コバッシーテルヒコとMyMavelosはインターネットで役立たずのバカという
批判を浴びせられ、Youtubeの曲も、拡声器も突き返された。また、従前から、延岡市では、おぐら、洋食亭、イオン、ドン・キホーテなどが合体して出てくれば延岡警察署の犯罪者を
削除できるだろうというアイデアもあったがそれも失敗した。後日、東京大学法学部の下坂行雄が、イオンが出現機能しないのは、岡田克也のクソガキが既に飽きていて止めていることや
それが立証されてクソガキに殺され現在では東京または5ちゃんねるに逃げている、やる気は全く存在していないという論文を書き事実であることが証明された。
現在では、Memeavelosは、ただの拳銃であり、USBに強力なたまを入れ込んで、射殺する手段に使用しない場合には何も役にも立たないという論文が、東京の警視庁の巡査によって
書かれ、それが正しいだろうと思われている。
(1) 勘違いしているが、a^n+b^n=c^n は、 指数が一般のnでしかもこの形のときには該当するものがないという構成の定理であって、Collarzと比較すると、500から開始
して有限回の操作で1にいくが、美しい事実は、 有限回で、2種類の操作で、初期値は全ての自然数であり、結論は1にいくという構成の定理である。
(2) n=3,4のときは、 融合定理などから推測される、 背理法と帰納法を融合させて結論を得る無限降下法という理想的な証明法により確立している。
融合定理とは、素数の中に等差数列ががっつり入っているなどの結論である。そこからの逆算で、背理法と帰納法は同時に機能するだろうと思われたが実際に編み出された。
n=3のときに証明すると、 3の倍数では証明できているので、数が大きいから難しくなるわけではない、自然数のうち、33%は簡単に証明される。
(3) 素因数分解で素数だけでいいという性質をもっているため、 a^p+b^p=c^pが フェルマーだろうとどつめられた。しかし、 pに対する無限降下法が使用できず
裁判官のフェルマーは最初は使用できるだろうといって、真に驚くべき証明を編み出したと余白に書いたが間違いであることが判明した。
定理の結論として、規模が大きい。基本条件がこの形式のときだけでしかも全てのnなので極限的かつ驚愕的である。33%の証明は全部証明ではないので数学界では評価されない。
全部証明の引き金は、スキームの圏とコリヴァギン=フラッハ法という専門知識や着想により得られたが技術的に難解すぎて世界中でも理解できる者がほとんどいない。
(4)18世紀に、61%の正則素数では成立するというイデアル理論が出現したがそれ以上出来なかった。フランスアカデミー科学院は数学的には価値がないと思いながらもクンマーに
賞金を出した。
(5)1950年代に、東大理学部数学科の志村五郎は、 y=x(x^2-u^p)(x^2-v^2) という関数が複素関数論上、modularではないことと同値であると突き止めて専門知識化
し教科書に書いたが、これがmodularではないことの証明はまだアイデアがなく、到達不可能だと思われていた。
多くの数学者がこれを証明するために、p進群、既約表現、代数的サイクルやエタールコホモロジー、楕円幾何学などの研究を進めて行き、様々な教養から推測していったが、
1980年代に、宮岡洋一がマックスプランク研究所にいたときに証明できそうだという発表があったが、欠陥があり失敗した。宮岡洋一は宮岡礼子という数学者と一緒に住んでいる
小さいおじさんで、カタネーゼなどのサッカー選手をみて盛り上がっていたが、時期不詳で、もどきなどのガキが、レインボーロードからばあさんにのこぎりをもたせて落としたら、その
のこぎりに当たって殺された。
(6)志村五郎の共同研究者だった谷村豊はこれができないので自殺したが、1993年に、ワイルズが屋根裏部屋でこっそり研究していて、おぺちが、おい、今日の発表はやくしろと言われて
いたので、最初の発表をプレプリントによって行ったが、一か所間違っていて、突き返された。1994年に、コリヴァン=フラッハ法を着想し、査読の結果、間違いがないことが確認され
ネットでレスバしてたら次の日「図書館で調べてきたんすけど……お前の言ってること大嘘でしたね」ってどこぞの学者の書いた本を引用して論破されて、畜生と思いながら自分も同じ本読んだら引用部分の続きで「まあこれは完全に暴論だけど」みたいに締められている所だけカットされてるの発見して、これで反撃しようと思ったらもうとっくにスレの流れでは俺が異常者扱いになってるとかそういうのしょっちゅうだったじゃん。
そういう反則上等のディベートごっこがネットの主流だったし、それが調べながら議論するっていうことの練習にもなったし、論題についての情報収集の役に立ってた。
話題のものについてそれぞれが知ってる情報を持ち寄って誰が持ってきた情報が凄いかの自慢合戦ばかりしてたし、お互いの情報の真偽を巡ってメチャクチャに言い争う奴らがアク禁されては串通して帰ってきてた。
どこそこの個人サイトで暴れていたアイツと、あっちの掲示板で暴れていたコイツの文章がソックリすぎるって話題になって、実際には恨みを持った奴がソイツに罪をかぶせようとマルチポストしてたことがアクセス履歴解析で判明とかそういう醜い争いもあったな。
でも皆そうやってパソコンのことに詳しくなったし「こういうことをしたら議論が壊れちゃうんだ」って勉強にもなった。
今はそういうの全部すっ飛ばして迷信化した「ネットでこういうのしたら駄目らしいよ。何が起こるのかは知らないけど」っていう都市伝説状態だ。
曖昧なネットの世界がダラダラ続いて、一部のやりすぎた有名人だけが逮捕される時代が続き、そうして最近になってようやく単なる凡人でも弁護士通して訴えられるんだって認識が広まるようなことが置きだした。
ネットは怖い、でもそれはそもそも人間社会自体が繊細で傷つきやすく暴力的な者共によって構築されていて最初からリアルがクソファックなのがネットでも変わらないからだってことを学ぶ機会だ。
最高の教材じゃないか。
「ネタじゃなくて本気で言ってるならソースをもってこい」ってのはディベートごっこにおける初歩の初歩だ。
そこからソースの信ぴょう性だったりソースロンダリングという裏技だったりガセ情報をサイトごとでっち上げる力技だったりの派生知識が伸びていき、ようやくデマに踊らされないまともな人間へと育っていくわけだ。
教科書に書いてあることは嘘っぱちだと書いている本の信用度は教科書よりも高いのか低いのかを、なんとなくの経験則ではなく双方の執筆者名や査読した組織の経歴から辿っていき、自分なりの答えを出せるぐらいはしないとこの社会じゃすぐ食い物にされる。
食い物にされないようになんてネガティブなモチベーションじゃやる気にならなくても、眼の前にいるムカツクレスバ相手をボッコボコにするために相手の持ってきたソースの信憑性をヒックリ返してやりてえって熱意があればきっと身につけられる技術だ。
コミュニティノートは今までのお気持ち中心のレスバ合戦よりもソースの信ぴょう性に重点を置いた本来あるべきレスバの形だ。
リアルにおいてお気持ち中心の空気感醸成に慣れてなくて、泣く泣くネットに逃げてきた頭でっかち共が築き上げたネット流のスタイルが戻ってきたと思わねえか?
「ふーん。それでソースは?」
この言葉が強い力を持っていたインターネットが帰ってきたんだ。
「ソースが正しいかどうかと、僕のお気持ちは無関係ですよね?」
全員半匿名という驚くほどに打たれ弱いアイアンモードのインターネットで、死んでも死なねえなんてヌルゲーすぎるぜと強気に弱気に臆病に勇猛に戦ってきたあの時代の緊張感を取り戻そうじゃねえか。
増田は、chatGPTでプログラム書いたり、論文書いたりして、無茶苦茶能率上がった情報系の研究者です。
最近、新機能のcode interpreterなるものが出て、本日使ってみました。
これまでは、プログラムをchatGPTに作ってもらっても、信用性がイマイチで、結局自分がデバッグすることが多かったのですが。
今回は、あっさり正しいプログラムが出てきやすい、なぜなら、プログラムをchatGPTが実行して、その結果をchatGPTも知ることができるから、正しさがわかりやすい。
グラフとかも、いちいち自分で実行してたのが、chatGPT上でささっとグラフが書かれると、なるほどなあと速攻で納得できる。
いやあ、こりゃすごいわ。プログラミング能力に関して、今までデバッグで煩わしいから、chatGPTまだまだだなとか思ってたけど。こりゃすごい。
これ、自分が知らないだけで、もっとすごい使い方で便利になるんだろうね。
え〜っと、PDFも読めるらしいから、自分の論文の査読とかもやってもらえるのかね。
なんなら、chatGPTくんが、リライトとかしてくれるのかな。
今までは、chatGPTの字数制限とかあって、論文全体を提示できないから、部分ごとにchatGPTに投げて文章を校閲してもらってたけど、
PDFを渡して、chatGPTが全体を読んだ上で、部分部分の文章表現を訂正してくれるわけだから、全体に統一感とかまで出ちゃうのかな。
凄すぎやろ。。。
論文書くのがこんな楽しみになるとは思わなかった。
…前からTogetterのコメントに「頭悪いなぁ〜」と思ってたけど、今回はさすがにちょっとブチ切れるレベルで頭悪い。
なに?
田舎者って言われて傷ついたの?
まずさぁ…
というコメントやスタンスに影響された人が多すぎるんだけど…お前ら、「貴種流離譚」や定義についてちゃんと調べたの?
アレ、
「お話の形式として、王子様が追放されたり、不遇な幼少期を送ったところから、冒険が始まる話が多いよね?」
しか言ってないぞ
「ロックって、こんなふうに分類できるよね」
と言って、評論した気になってるのと同じやぞ。
…ごめん、貴種流離譚なんかそれ未満ですわ
主人公の身分や立場で作品を分類するという中身そんなに見てない一番頭の悪い分類じゃん…アレ
ましてや、ぼくはハリポタとNARUTOのよく似てるところに、【閉鎖的な狭い社会(田舎)で生じる差別描写の多さ】を書いた
ハリポタは純血じゃないと差別対象で、「汚れた血」の概念も出てくる
色々書こうと思ったし、書こうと思えば書けるけど、無意味だからやめよ
なんか、反論したところで理解できない人に読解力ある前提で、丁寧な反論書いても無駄だからやめます。
議論っていうのはお互いがある程度頭良くて礼節がないと成り立たないことを思い出した。
切り替えよ
「大雑把に正しいこと」
を言うひろゆき・中田敦彦みたいな人を信仰しがちな人は、たぶんあんまり数学ができないか、数学ができても国語力に応用できてない人なんだと思う。
数学で途中式も採点対象なのは、答えだけでなく理解度を問うてること、正しい順番で質問に答えているか?という話なわけで
インターネットの怖いところって
とわかったら、それ以上自分で計算したり、確かめたりする人が少なすぎること。
そして、正しい順番で計算することに対して敬意を払える人が少なすぎること。
「答え」
が重要じゃないんだよ。
答えを出すための法則・組み合わせは1つじゃないことも往々にしてある。
大事なのはその人が使った法則や論理に矛盾やズレがないかという話。
解くための法則だけで正解になるなら、受験も論文の査読もいらない。
普段、
と言ってる俺が、「受験や教育の価値について説明しないとヤバい」と感じる人がインターネットに普通にいるのを見てたら
「教育しないとわからん人・何度も説明しないとわからん人がいる」
2週間前の俺
「教育なんてクソなんだから、高等教育を全員が受ける必要もないし、大学も理系・法律・会計だけでいい」
今の俺
「高校まで勉強したことが、ちゃんとわかってない人がこんなにいるのか…。人類の愚かさを舐めてました。もっと人類を教育してください」
「高校大学でやることなんか、独学でもできるから参考書だけ全員に渡せばええやん」
と思ってたけど…そもそも論理性も読解力もない人に独学なんて無理なんやね。
ほぼ独学(世界史の先生に質問したのは2回だけ)で、模試で、世界史の偏差値74を取れるぼくみたいな人はマジでレアなんだなぁ…と
似たような話で行くと
「Wikipedia(本・説明書)読めば、(たいていのことは)わかるでしょ」
と思ってたけど…そもそも「ちゃんと読める人」ばっかりじゃないんだなと。
文字は読めるかもしれないけど、理解や応用まで来ないんだなぁ…
としみじみ。
俺、人類にすげー高度なことを求めてたんだなぁ…
ごめんね、人類
http://blog.livedoor.jp/kudan9/
https://www.instagram.com/kudan9/
https://kakuyomu.jp/users/kudan9/works
https://creator-support.nicovideo.jp/registration/20889698?ref=pc_userpage
月330円だそうです。
https://bookmeter.com/reviews/88299340
https://novel.daysneo.com/author/kudan9/
はじめに
皆さん初めまして。新橋九段です。この度は『コピペでわかる?Rで統計解析』へのアクセス、ありがとうございます。本題に入る前に、このブログについていくつかお知らせと注意事項めいたことを書かせてください。
筆者について
まず筆者たるお前は誰だよ、という点から。私、新橋九段は博士号 (心理学) を有する心理学者です。査読論文も複数出版しています。
ネット上では『九段新報』などで自分の考えをまとめたりしています。が、そこは重要ではなく、要するに心理学を専門とする研究者が書いてるんだなと思ってください。
じゃあなんで実名でこのブログをやらないんだと思われるかもしれませんが、それはRや統計に対する拙い理解が実名で開陳されると恥ずかしいからです。ですが、何かについて勉強するなら他人に説明できるようにするのが一番、とはよく言うことですから、それをするためにネット上のHNを利用するのは実に都合がよかったのです。