はてなキーワード: 破天荒とは
まずリーダーのマスダ
彼は特別これといって
秀でた一芸があるわけじゃないわ
ところどころ知性は感じるけど
基本的にはガキっていうか
良くも悪くも年齢相応
でも決断力があるのよね
うちのチーム個性は強いけど
主体性っていうのかしら
まとまりがないの
でもマスダはビシッと
次に何をしたいか
そのためにどうするべきか
方向性を定めて
真っ先に行動してくれる
次に紹介するのは参謀役
みんなミミセンって呼んでる
聴覚が敏感でね
普段は耳当てをしてるの
ひとたび外せば
あらゆる音を拾うソナーと化す
その聴覚もすごいけど
仲間の中で一番アカデミック
不可欠なブレインよ
お次は戦闘要員
いつも白黒の服を着てるから
みんなシロクロって呼んでる
こいつだけタメじゃないのよね
というか年齢不詳
仲間の中で一番ノッポで
たぶん大人だとは思うけど
控えめに言って破天荒
背は高いけど背伸びしてない
まーそれなりに楽しい奴よ
それしか能がないけど
それだけなら誰にも負けない
……あー実は
仲間もう一人いるんだけど
アンタ如きにゃ言えないわ
それにね
その子って繊細なの
複雑な子なのよ
そーいう子は置いてかれがち
単純な奴らは構わず進んじゃう
わたし達は違うけど
仲間としては気にかけるわよ
たまに立ち止まって周りを
皆のことを見ているから
あの子の歩調も知っている
でも仲間だからといって
踏み込みすぎはよくないわ
良い関係性を保つには
天晴爛漫見終わった。
主人公天晴は全てを数式で考えるタイプでありながらも、結局人情に逆らえないという。
第一印象は破天荒で明るい感じがしたけれども、話が進むにつれて真逆な感じに。
結構思い詰める感じ。一人で何でもやりそうなんだけど、仲間が居ないと駄目っていう。
小雨も凄腕剣士だけどトラウマ持ちで。死にかけたりしつつ、天晴をサポートし続ける。
その他のレース仲間も様々な過去を持ち、事件に引き摺られながらもレースを続ける。
突然のことに驚き元の世界に帰りたがるも、一ヶ月一緒に居るうちに絆されちゃうっていう。
まあ…昔はよく見かけたタイプの話。
それにしても、テレビでやるBLってどうしてこう「少女漫画の男女を男男にしただけ」タイプのものばかりなんだろうか。
地上波では厳しいですかね?
人に興味ないよねとよく言われることが多かった。確かに人の名前は覚えられないし、学生の頃話題になりがちな誰と誰が付き合っているだとか全くわからなかったし興味もわかなかった。
あるときふと気づく。確かに私は人のことをあまり覚えられない。でも大切にする人は大切にしていると最近気付いた。人に興味のない人の言い訳のテンプレートのようなものだけど、これが事実でほとんどの人に興味はなく、興味の大きさがクソデカ感情しかない人間だったらしい。
そんな私の3つのリアルクソデカ感情とその相手について話そうと思う。
不思議というか破天荒というか突拍子もない行動をするというか、世間的には問題児でしかないような彼女。なにか問題起こしてもまぁ彼女ならしかたないよねという風潮まであった。タバコを吸うとかそういう問題ではなく、体育祭で日傘をさしていたり、人間が入れないはずの小さいロッカーから飛び出てきたり、入学式そうそう他クラスまで殴り込みにいき、名前なんていうの?って聞いて回るような変人。しかも一回みたひとの顔と名前は絶対に忘れないという変人オブ変人だった。
そんな変人で、すらりとしていて、いつも飄々としていた彼女が美しいとしいと思ったのだ。恋愛的な意味ではなく、なんといえばいいのかわからないけど、毎日彼女がかわいくて仕方がなく、「おはよう、今日もかわいいね○○さん」と挨拶のように言っていた。かわいいね、好きだよと毎日言っていた。女の子同士のじゃれあいのような感じではなく、かといって恋愛的に好きなわけでもないのに、私はほぼ真顔で毎日伝えていた。私自身それがクソデカ感情だとよくわかっていなかったからである。彼女ほどではないが、彼女に限らず、女の子がかわいくなったら、なにも考えず本心で「かわいくなったね」とか「美人になったね」と真顔で言っていたし、男の子にもまた「なんかかっこよくなったな」ということもあった。そのときは大抵ドン引きされるか「でっしょーーやっぱり私超美人だからさーーww」と茶化されることばかりだった。それが当たり前だとは思う。
引かれてもおかしくないような挨拶を毎日していたけれど、何故か彼女はいつも普通の顔をして「おはよ」といっていた。
学校を卒業して一年後あったときに流石にクソデカ感情抑えようと以前の挨拶をしなかったら、「もう私のこと好きじゃないの?」ときょとんとした顔で聞かれた。流石に沸いた。何故かわからないけど彼女は私のクソデカ感情を、こいつはそういうもんだと思って受け止めてくれていたのだ。ありがたい。
部活動で私とふたりセットにされる男の子がいた。ふたりとも他の部員より積極的に活動していたからか、この学年だとこのふたりだよねといわれるようなセット。
彼は意図も言わずに理解できないような無理難題を急に言い出して、私に押し付ける。不思議なことにそのどれもが成功し、私に押し付けた無理難題は確実に意味のあるものだった。
最初は彼のことが恋愛的に好きだったのかもしれないけれど気づいたら、恋愛なんてなにもなく、崇拝していた。彼のやることなら絶対に成功する。彼の思い描いた思想を叶えることが楽しくて楽しくてしかたなかった。相棒のように頼り、頼られることがなにより嬉しかった(振り回されてばかりだったわけではなく、こちらからもかなり頼っていた)。部活動で死ぬことはないと言えど、不思議なことに彼のためなら死んでいいなと本気で思っていた。
ここにきてやっと、もしかしてちょっと重いかとしれない?と思うようになったこと、またもともと恋愛的に好きだった疑惑もあいまり、クソデカ感情をぶつけるのは流石にアカンなと思うことができたらしい。しかし隠せないのがクソデカ感情というもので、疲れているときに無理難題を言われると、「君のいうことは必ずいい方向に向かうし私は君のためならなんだってやりますよ」とか言ってしまっていた。何度か言ってしまったことがあり、スルーされたり苦い顔をされたした。本当に申し訳なかったと思う。
遠い昔「クラスも部活も一緒なわけでもないし仲良いけど、二番目なんだよなー」とある女の子に言われた。他意はなかったのだろう。放課後とか休み時間によく遊びはするけれど、お互いの家に言ったこともないし、クラスも部活も違う。クラスも部活も同じ子とより仲良くなるのは当たり前だ。
いや、わかるけどわざわざいうかね?一番になりたいというより、どれだけ仲良くなっても私は二番目という認識が離れなかった。
私は特に怪我をしているわけではないが階段が苦手で降りるのも上るのも無意識なら上れるけれど意識するとよたついてしまう。母親には階段の上から「落ちても助けんからねーw」とよく言われていた。当たり前だ。幼稚園児や小学生ならまだしも高校生相手なら私じゃなくて下敷きになった母が大怪我する可能性がある。人が上からふってきて怪我したくないもの。リスク避けるのは大事。
ある日疲れからか死ぬほど段差に弱い日があって、「おまえほんと今日ヤバイよ気を付けるどころの騒ぎじゃない」と周囲に言われていた。そんな日でも階段を使わなければならないときはあるもので、彼女と一緒に下の階へ向かおうとしていた。
「おまえ絶対落ちるなよーww」といいながら彼女は私の前にでた。前と言うことは私の下。
「え、前いくん?落ちたら危ないよ?」
「目の前で落ちたら気分悪いじゃん」
彼女は当たり前かのごとく少し前にでて後ろを振り返りつつ私をみて「大丈夫かー」と声をかけつつ降りてくれたのだ。もう二番目といわれたのは何年も前だけれど、二番目でも良いから彼女になにかあったら絶対に守ろう。彼女が心配してくれたその言葉だけで生きていける気がした。
これ以来彼女は階段を上るときも下るときもいつも私の落ちる側にいて声をかけてくれる。その度に彼女になにか嫌なことを言うやつがいたら、胸ぐらつかんで殴りにいこうと決心するのだ。
彼女はおそらくクソデカ感情が苦手なのでなるべく出さないようにしている。やっと自分がクソデカ感情持ちだと気付いたのだ。ただ、やっぱり隠しきれないのがクソデカ感情であり、彼女へのクソデカ感情を出すとガン無視される。ごめん。以前手紙をかいたらラブレターになってしまったのは本当にごめん。
ほかにもあと2,3人ほどクソデカ感情を向けている方もいるが、あまりにも長くなってしまうので割愛する。
クソデカ感情をぶつけられて気持ちのいいものではないと思う。私は嬉しいが、苦手な人だっていっぱいいる。流石に私もあったことのない人にクソデカ感情向けられてぶつけられるのは怖い。クソデカ感情が生まれてしまうのはもう仕方がない。なるべく出さず、クソデカ感情が苦手な人に無意識にぶつけないようにしなければならない。相手に不快な思いをさせてしまったら駄目だ。
あとクソデカ感情以外の人たちにもっと興味をもつようにしなければならない。興味の触れ幅が0か100しかないのはいろいろと不便。あと大変申し訳ないのが彼氏がいたときですら、クソデカ感情のほうが限界突破してしまっているという状態(今は彼氏いない)。勿論彼氏のことはちゃんと大好きになるし大好きだから付き合った訳なのだけれど、その思いがクソデカ感情に勝てない。相手に申し訳ないし、失礼だからちゃんと向き合わなきゃいけない。
私の人生はまだまだ続く。
クソデカ感情によって人を不快にさせないように。拗らせて犯罪を犯さないように。明日我が身だと自覚をもってクソデカ感情との向き合いかたを考えつつ生きていかねばならない。
なにか困ったことがあるかもしれない。私が相談にのってよいと君が思うのならば私がいくらでも話を聞こう。愛する人を見つけるかもしれない。直接教えてくれたとしても風の噂で聞いたとしても私は全力で祝福しよう。直接教えてくれたのならば心からのおめでとうを沢山伝えよう。風の噂で聞いたのなら祝福の意味を込めてひとりぼっちのティーパーティをしよう。
意味のない意地を張ったとは思う。
だが張ったからには、自分の思い出に決着をつけなければいけなかった。
あの物置部屋に行って、ドラキュラがいるかどうか確かめなければ。
鬼が出るか蛇が出るか、いずれにしても怖気づいてはいられない。
たとえ不都合な真実が待っていたとしても、このまま家にノコノコ帰るわけにはいかなかった。
「……というわけで、ちょっと協力してくれ」
「にわかには信じがたいね。そもそも“ドラキュラ”はキャラクター名であって、吸血鬼全般を指す言葉ではないし」
ミミセンがどうでもいい薀蓄を垂れる。
ドラキュラが固有名詞かどうかなんて今は問題にしていないんだけれど。
「ま、マスダの兄ちゃんが言ってることの方が……す、筋は通ってる、かな」
たどたどしく喋っているのはドッペルだ。
いつもは割と乗っかってくれるのだが、説明するのに兄貴の名前を出したのが迂闊だった。
ドッペルは兄貴に懐いているから、意見が割れたらあっちに味方する。
「私、予定あんだけど、そんなことのために呼びつけたの?」
タオナケが溜め息交じりにボヤいた。
連絡の際に二つ返事で応じていたから、どうせ大した予定じゃないだろう。
それでも期待はずれな用事だったせいか、かなり不機嫌になっている。
そんな感じで、皆あまり協力的ではなかった。
ドラキュラの存在を疑っていたと同時に、内心恐れてもいたからだろう。
「そいつは強いのか?」
「つまり、そいつを倒せば俺は名実ともに最強の男になるわけだ」
けれど、ただ一人、仲間のシロクロはやる気に満ち溢れていた。
けれども、さすがに俺とシロクロだけじゃ不安だった。
万全を期すなら全員の力が必要だ。
「みんなは不安じゃないのか? この町にドラキュラがいるかもしれないのに。その可能性を、大人たちは可能性とすら考えない。でも俺たちは違う!」
多少の無理を承知で、俺は勢いに任せて皆を説得する。
「夜になると、ヤツは目を覚まして血を追い求める。蚊にさされる方がマシだってくらい吸われるんだ。それは俺たちかもしれないし、俺たちの家族かもしれない」
不安を煽りながら、これは必要なことで、自分たちにしかできないことだと熱弁した。
「私、ドラキュラなんて信じてないけど、まあ確認するだけならいいかもね」
その甲斐もあり、皆も腹も括ったようだ。
俺たちは阿吽の呼吸で頷くと、おもむろに保育園のある方角へ走り出した。
昨日バラエティ番組にフワちゃんが出ていた。老け顔で悩んでる女性が『父親にスッピンを世の中にさらすな』というようなことを言われた話をしていたら、『親子といえどもグーパンだよね』ってサラッと言っていたことが印象に残った。辛さに同調するわけでもなく、自虐エピソードを笑うわけでもなく、そういう返し方ができるタレントは"強い"と思う。
フワちゃんを最初に見たときは見た目の派手さと言動の自由さに強烈な人が出てきたと思ったが、テレビで見る回数が増えるうちに、一昔前のふなっしーに似ていると思うようになった。テレビがホームグラウンドではない強みからか、周りに合わせつつもテレビの意向に流されすぎないところが似ている。どちらも当初破天荒さがウリだったが、それだけではなく内面の豊かさで人を惹きつけているところも似ている。
いつか対談してほしい。
今思い出してもとてもきらきらしていて、本当にあったことなのだろうか、と思うほど素敵な時間だった。
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私は高2の時にいじめられていた。とはいえ、「いじめ」と聞いて想像しただろうものほど凄惨なものではない。
せいぜい"嘘告"(嘘の告白をすること)の標的になったりとか、単語帳を隠されたりとか、それくらいだ。
全ての声が自分を馬鹿にしている気がして、休み時間には机に突っ伏しながら耳を塞いで流れる血の音を聞いていた。
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そんな私も、いわゆるいじめアンケート的なものでSOSを発信したことで、状況は変わった。2年生のうちはなにも変わらなかったのだが、これがきっかけで私が救われたのは間違いないのだ。
あと、いじめてきたやつらに謝られた気もするが、よく覚えていないなぁ、ということを今思い出した。
前提として、私の学校では2、3年のクラスは変わらず持ち上がりだった。
しかし、恐らくは私の救難信号がきっかけで、3年のクラスは変わることになった。
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新しい環境を与えてもらった私は、自分を変えることにした。いじめられた原因は自分にあると思ったからだ。
ただ、いじめの原因はいじめてきた奴らにあるし、自分が"悪かった"とも思ってはいない。
しかし、当時の私が弱そうで、暗くて、ひとりぼっちで、抵抗しなさそうで、いじめてもリスクがなさそうなクソゴミ陰キャだったのは事実だったのだ。だから、変わることにした。
.
手本にしたのは自由奔放な友だちだった。人の目を気にする私に「他人のことなんてみんなそこまで気にしてないよ」みたいなことを言ったやつだった。いじめられていたときは「はぁ?」と思ったものだが、これを信じてみることにした。
他人のことなんてみんな気にしてないから、自分を卑下しすぎず、相手を信用して"対等に"いることを心がけた。
当時の日記を見たら、
とも書いてあった。
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そんな感じで、ギャルとか、一軍女子とか、すごい明るい体育会系とかに話しかけられても、ビビっているのを隠して必死で会話した。
正直なところ、とても怖かったと思う。
変な人だと思われたらどうしよう、キモいって思われるかも、また人に笑われる、そういう気持ちとの戦いだった。
キモいとも思っていないようだった。ちゃん付けで呼んでも不快な顔なんてしなかった。会話を重ねていくと話しかけられる頻度も上がっていった。
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本当に優しかった。
今でも涙が出そうなくらい、優しい人ばかりだった。
今までもそうだったのかもしれないが、高3で初めて気づいたのだった。
人は意外と優しい。
.
そんな環境で私は、
から、
"人間"
に戻っていった。
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自分が人間に戻る中で、周りもまた人間だと気づいていったと、今思う。
"ギャル"は「掃除場所が一緒で破天荒なYちゃん」だったし、"一軍女子"は「体操でペアになるお洒落なTちゃん」、"体育会系"は、「席が近くの明るいMちゃん」だった。
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そこに優劣やカーストなんかなくて、みんな対等だった。そして、クラスメートで、友だちだった。
.
彼女は"クソゴミ陰キャ"の私にも明るく話しかけてくれて、初めから友達のように接してくれた。その明るさと、多少の強引さが私を引っ張ってくれた。
Mちゃんがきっかけで、彼女の友達のNちゃん(彼女も運動部だった)ともぎこちない会話を積み重ねて仲良くなった。Nちゃんは今でも付き合いがある。
.
部活も引退して久しい11月には、私たちは"友達3人組"で、一緒に帰るようになっていった。
休み時間にお菓子を交換して、テスト難しかったね、なんて笑い合った。
それも1人じゃない。
小学校のときに『挨拶は義務』といい感じで半強制的に挨拶させられていたが、このとき初めて挨拶の価値に気付いた。
挨拶は友だちの確認であり、繋がりが切れないようにする小さなコミュニケーションだと感じた。
.
12月には「1秒でも長く、このクラスでいたい。」と記している。
毎日が本当に幸せだった。死にたいなんて全く思わなくなっていた。本当に眩しい日々だった。
うまく会話できたことが嬉しくて、幸せな気持ちいっぱいで帰った青空の日を思い出す。
きっと他の人には普通のことばかりだったけど、私にとっては全ての出来事が宝石のように輝いていた。
.
大学に入り、私はさらに変わろうと思い、自分なりの大学デビューをした。お洒落を一から勉強して、自分なりに陰気を消そうと努力した。入学してすぐ声をかけ、友達を作った。
優しい環境が私を人間にし、そしてそこで出会った人たちから様々なことを学んだからできたことだった。
.
成人式があった。
私はいかなかった。
いじめてきたやつらに会いたくなかった。同じ空間にも居たくなかった。今の自分が、高校時代の自分の顔や態度をするのも嫌だった。
.
高校3年生のあの1年間は、私にとってかけがえのない宝物である。
しかし、その日々はもう戻らない。
この先も同窓会には行かないだろう。
.
私の中だけで、過ごした日々も出会った人たちも永遠になっていく。
思い出は美化され、輝きを増す。
そうしてできた"夢のような時間"を思い出して、今これを書いている。
夢のようだけど、当時の日記見ると本当にあったんだなぁってまた涙が出てしまう。
.
.
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就活、頑張るかぁ。
大阪万博会場3Dと、当時の写真が見れるサイトみつけて、ノスタルジックエモおしゃすぎて死にそうなのと、
1970年に生まれていなかったことを激しく悔やんだので、HPの感想と、私のEXPO70の呪縛について語る。
https://www.asahi.com/special/expo70/#3d
(朝日新聞の回し者ではありません。政治思想とかもないので、あしからず)
こんなにエモちらかしたイベント、今やっても大盛況になるに決まってるじゃない。
むしろ、今の日本の経済状況で、こんな大規模に各国のパビリオンを作れるとは思えない。それが悲しい。そして1970年代の、生き生きとした日本をノスタルジックに語るかつての日本人たちと同じテンションで話せないのが悔しい。1970大阪万博をテーマにした作品は数多くある。20世紀少年にしろ、クレヨンしんちゃんのオトナ帝国にしろ、万博世代でなくてもノスタルジックに浸れるが、当時を経験している人々と同じ熱を持てるわけがなく、見聞きした情報で脳内補完するしかないのだ。
これはクリエイターの作風にも影響すると思う。共通言語で語れる何かは、その世代の時を生きる人たちに対して、何らかの影響を人生に及ぼしたるものであり、共感を与える。語らずとも全国民が共有して認識している事柄、そして気持ちを揺さぶる何かに、1970年があることが、とても羨ましいのだ。
翻って、我々の世代での共通言語とは何か。私が物心ついた時からの記憶では、地下鉄サリン、阪神・淡路大震災、9.11、3.11、そしてコロナだ。これらは、世界レベルでの共通言語かもしれないが、ちっとも、たのしくない。わくわくしない。ノスタルジックを感じさせるものではない。なんなんだろう。
大阪万博のに関連したキーワードは、とっても心が踊る。「エキスポ」「パビリオン」「人類の進歩と調和」どれもなんか楽しそうで、なんかかっこいい。インターネットもなく、情報が少ない時代に、情報がとんでもなく詰まった、夢のテーマパークが、現れたらそりゃ楽しいよね。現代は逆で、情報過多な社会と言われている。取捨選択しないと自殺まで追い込まれるくらいに情報が多い。
楽しい自由は、ある程度の不自由の上に成り立つと思っていて、制限がある中でその隙間をぬって自由を見つけるから達成感があるのかなと思う。授業中にマンガ読み放題だったら、多分読まない。今は情報が多過ぎるがゆえに、しんどいニュースがいっぱい拾い上げられやすいのかなと思う。誰かを叩いたり、妬んだりのほうが視聴率やアクセス数が稼げて、キラキラした未来の裏を暴露して足引っ張ったり、前向きなことやるより後ろ向きなことを世に出したほうが短期的にお金稼げるのかなと思う。
あとは勢いが出なくなってる。でけーイベントやろうと思うと、ある程度頭空っぽにして、イケイケドンドンで進めていく人がいないと、周りの意見ぜーんぶきいてたら企画倒れすると思う。岡本太郎の太陽の塔、当時だって反対する人が沢山いたというのだから、今だったらできてないかも。後世から見て賞賛されることも、現世で叩き潰されたら、なんも残らんなと。保守的に立ち振る舞うのが今のSNS社会の処世術だけど、破天荒なやばい人が拾い上げられなくなってる気がして、なんでも世論に問いかけて同意を得るのは違うんじゃねーか、と、渋谷駅の岡本太郎の絵を眺めながら、思った次第であります。
大学生時代に「涼宮ハルヒの憂鬱」ブームを経験した三十代。当時はひねくれた人間だったので、ハルヒが流行っている真っただ中に、原作ではなくその元ネタとなった「ハイペリオン」に手を伸ばした。当時の自分はきらきらとした学生生活にあこがれていたくせに、そういう青春をテーマにしたラノベを避けていた。みんなと同じものを読むのが嫌だったのと、そういうきらきらしたものを読むと、自分の灰色の生活と引き比べてしまうからだ。そういうわけで、「涼宮ハルヒの憂鬱」の知識は、書店で一気読みした第一巻と、ウィキペディアの情報、断片的に見たアニメの数エピソードに頼っている。おそらく粗があるので、話半分に聞いてもらいたい。
「ハイペリオン」とはダン・シモンズが1989年に発表したSF小説である。邦訳は1994年に出版された。ヒューゴー賞・ローカス賞・星雲賞を受賞している超大作で、登場人物である長門有希が読んでいる。
ジャンルは一応スペースオペラなのだが、あえて言うならばSF全ジャンルと英米文学のごった煮である。というのも、七人の登場人物がそれぞれの身の上を語るのだが、それぞれがホラーだったりサイバーパンクだったり時間SFだったりで、しかもそれぞれの出来がいい。
続編として「ハイペリオンの没落」「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」がある。作者の思想がややうるさいところもあるが、絵になる場面が多くて楽しい。また、人類の各文化の多様性を高らかに褒めたたたえているのが、やや西洋・アメリカ中心主義ではあるが、気持ちがいい。
長門は「情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」であり、言い換えるならば「宇宙人が作った人間の形をした存在」ということになる。「情報統合思念体」には「主流派」「急進派」「穏健派」「革新派」「折衷派」といった派閥が存在し、それぞれの思惑ごとに動いている。
一方、「ハイペリオン」には、英国の詩人ジョン・キーツの人格を再現したサイブリッド(人造人間みたいなもの)が登場する。これは、人類に様々な助言をするAI群「テクノコア」によって、ある目的のために作られたものである。彼は長門ほど万能ではないが、この背後にいるテクノコアには「穏健派」「急進派」「究極派」が存在していることが共通している。ちなみに、それぞれの立場としては、当面は人類とは共存する、さっさと人類を滅ぼして自分たちが覇権を握る、人類も自分たちも滅んでもかまわないので究極の知性を創造する、である。このAIたちはとっくの昔に人類を超えており、人類を裏切ろうとしている。というか、作中ではすでにある方法で人類をひどく搾取しているのだが、これは読んでみてのお楽しみだ。
設定の上ではよく似ているけれども決定的に異なるところがたくさんあり、よくできたオマージュだと思う。
結論から述べると登場する。そもそも、舞台となるハイペリオンという惑星には「時間の墓標」なるものがあり、そこの封印が開くと未来から様々な事物や情報が送られてくる。同時に「シュライク」という殺戮マシーンが封じられているが、シュライクは時折人間の願いを叶える、とされているのだ。七人の登場人物がハイペリオンまで巡礼に向かうのもそれが理由だ。
ここで未来と述べたのだが、実は未来は確定していない。「テクノコア」が作り出す究極知性が宇宙を支配するか、人類の集合意識が生んだ究極知性が覇権を握るか、この二つの間で揺れ動いている。ここでいう究極知性とは神と言い換えてもいい。つまり、遠い未来で行われる人類とテクノコアの戦いが、現代にも影響を及ぼしているのだ。なんといったって彼らは神なのだから、なんでもありなのである。
この状態は、まさに朝比奈みくる(大)の周囲の事情とよく似ている。現代に干渉し、自分たちの望む形の未来を確定させようと活動している点が近い。
「涼宮ハルヒの憂鬱」の全てを読破したわけではない自分が、本文から有効な証拠をあげることはできない。というか、いくつかのブログでそれを示唆する記述が十分に述べられており、自分が付け加えることは何もない。
よって本記事では、「ハイペリオン」で行われたテクニックを間接的な証拠として用いたい。以下、「ハイペリオン」のネタバレに触れる。読みたくない方は引用部分を読み飛ばしてください。
「ハイペリオン」の七人の登場人物は、旅の無聊を慰めるため、それぞれの出自を語る。一人はフィドマーン・カッサードという兵士である。仮想訓練の度に謎の美女モニータと遭遇し、そこでむさぼるように体を重ねるが、彼女とは仮想空間とでしか会うことができなかった。やがてアウスター(人類連邦に所属しない宇宙の蛮族)の襲撃を受けるが、そこで彼女と再会し、殺されかける。カッサードは彼女との再会を目指している。
もう一人の人物はソル・ワイントラウブという学者である。彼は娘である赤ん坊を抱えて巡礼に来た。彼の願いは、娘であるレイチェルの病を治すことである。レイチェルはかつて学者としてハイペリオンを訪れた際、シュライクによって年齢を逆行する呪いをかけられてしまった。父と同じ聡明な学者であったレイチェルは日に日に幼くなり、とうとう赤ん坊にまで戻ってしまった。レイチェルが「誕生」の日付を迎えるまで、あと数日しかない。
さて、結論を簡潔に述べよう。レイチェルの病は癒される。そして彼女は未来世界へと連れていかれ、そこで再び大人へと成長する。やがてレイチェルはモニータと名乗り、カッサードと出会うのである。
つまり、「涼宮ハルヒの憂鬱」のオマージュ元である「ハイペリオン」では、意外な二人の人物が同一人物であった、そしてその片方は未来人であった、というギミックが存在するのである。
もちろん、年齢遡行までオマージュしているのかどうかはわからない。記憶に蓋をしているだけかもしれない。ただ、妖艶な美女と無邪気な赤ん坊が同一人物であった、という驚きを、朝比奈みくる(大)とキョンの妹が同一人物であった、というかたちで本歌取りしている可能性は、検討される余地はある。
どうなのだろう。キョンの妹は小五だが低学年にしか見えないという記述もあるので、実は成長がストップし、年齢が逆転し始めているのかもしれない……。
鶴屋さんは「宇宙人と未来人だったら、どっちがいい? そろそろ決めといたほうがいいかもにょろよっ!」と発言したそうだが、これは今後の展開を予測する大きな鍵となる可能性がある。というのも、「涼宮ハルヒの憂鬱」が「ハイペリオン」をどこまでなぞるかははっきりしないが、もしも設定を強く意識しているのなら、「ハイペリオン」で「テクノコア」が人類を裏切ったように、「情報統合思念体」が最後には人類に敵対する可能性があるからだ。そして、みくるは人類と「情報統合思念体」との争いの中で、少しでも人類に有利な未来へと導こうとしているのではないか。となると、長門とみくるの決別は避けらないことになる。みくるが長門を幾分苦手としている描写を考えると、興味深い。
少しだけ触れておく。「ハイペリオン」「ハイペリオンの没落」のなかには、超能力は出てこない。出てくるのは「エディミオンの覚醒」以降であり、主人公たちがある能力に目覚めることで、クライマックスに人類の命運を大きく変えるのだが、これも読んでみてのお楽しみだ。
「ハイペリオン」であらゆる願いを叶えるとされるのは殺戮者シュライクである。実に気まぐれな神なのだ。そういうと、ハルヒが悪役シュライクだということになってしまうのだが、自分は違うと思う。明るい青春ラノベにこの設定は似合わない。願いが叶う、ということだけを拝借したのだろう。とはいえ、物語全体を通しての謎の一つ、ということは決定している。
それと、実はシュライクの正体は作中でも若干ぼやかされている。テクノコアが作った殺戮マシーンを人類側がのっとったことが示唆されているが、時間を行き来できるのだから時系列がはっきりせず、筆者の記憶も確かではない。
「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」の語り手はいたって普通の青年ロールであり、彼は破天荒な少女アイネイアーの守護者に任命される。とはいえ、物語の大半は奔放な彼女の振り回されながら進む。それこそ「涼宮ハルヒの憂鬱」の本編のように。
しかし、ロールとアイネイアーは最後にはひどくつらく悲しい別れ方をしなければならない。この設定が本編のキョンとハルヒの関係に輸入されていないことを願う。
それと、ジョン・キーツ(ジョン・スミスではないが)のサイブリッドは二つ存在し、片方が殺される運命にある、とだけ述べておこう。
彼は「ハイペリオン」四部作ののちに「イリアム」「オリュンポス」を発表している。トロイア戦争の世界、遠未来の没落した人類、機械知性たちの話が入り組んでいて、文学とSFのマッシュアップ具合が楽しいのだが、残念ながら「ハイペリオン」四部作で述べた人類の多様性を寿ぐ姿勢から後退し、明確なイスラム嫌悪が出ているのはいただけない。さらに、邦訳されていない最近のシリーズは、ヒラリー・クリントンが大統領になったパラレルワールドで、国民皆保険で怠け者になったアメリカ人が薬物におぼれているというすごく政治的に偏向した作品なので、翻訳されないんじゃないかな……。
【追記】最新作ではないのだが、2011年の「Flashback」という作品。シリーズではなかった。失礼。
【もう一つ追記】その薬物は、いつでも自分の人生の最高の瞬間を追体験できるというしろものだ。そして、世界のほとんどがイスラム過激派に支配されている。経済は日本に牛耳られ、南西部の州はメキシコのギャングに支配され、作中では地球温暖化が否定されている。アメリカの保守的な世界観を煮詰めたような感がある。
ヒラリー・クリントンについての記述は記憶違いかもしれない。ただ、イスラム嫌悪が強いのは間違いない。
https://sosbrigade.miraheze.org/wiki/ハイペリオン
おそらく、ハルヒ全盛期の頃に、こうした議論は出尽くしていると思う。だが、検索をしても類似した意見が見つからなかったため、ここに記録した。
それから、ろくに原作を読んでいないのに、そして記憶もいい加減なのに、好き勝手言ってどうもすみませんでした。
多数のコメント、感謝しております。また、「全部読んでいないのに書くなんてずうずうしい」との指摘、まったくもってその通りです。ファンの気持ちを逆なでするような行い、お詫び申し上げます。また、立ち読みも迷惑でしたね。未成年の頃とはいえ、今にして思えば赤面ものです。
自分としては、「ハイペリオン」を読んだ人間からは、「涼宮ハルヒの憂鬱」の設定はこう見える、と伝えたかったのです。笑ってやってください。また、類似した意見がネットになかったので、記録しておこうという思いもありました。
ただ、ブクマカにもあるように、ジオシティーズやインフォシーク、ヤフーブログなどの一斉削除が原因の可能性のほうが強いですね。はからずもアーカイブの問題にも思いをはせることになりました。
それでは、失礼します。
んだけど、まじでRPだけしっかりして欲しいっていうのはただのわがままなのだろうか。
別に前世が歌い手であろうが声優崩れ、アイドル崩れどうでもよくてただ彼らがVとして活躍してくれているならそれで良い。
だけど自分が推している子(メンバーにもなってる)は、設定年齢よりも年上らしくてたまにそれを匂わせる。
その子が所属しているところは、そういう公式自己紹介を持ち前のキャラで打ち破るっていうことが多くて、それはそれでいい。
それでも決められたRPだけは守ってほしい。その人は別に悪魔とか天使とかこの世のものではないキャラではなくて、ただの学生なんだ。
キモくてごめんな。
法学をかじった者として,法律に興味を持ってくれる人が増えるのは嬉しい。
初めて法律に興味を持った人は,その中でどの法令から学ぶべきか。
答えは,「上三法(うえさんぽう)」だ。
「六法」とは,憲法・民法・刑法・商法(会社法)・刑事訴訟法・民事訴訟法を指す。
また,この六法のうち,憲法・民法・刑法は,まとめて上三法(うえさんぽう)と呼ばれる。
初学者は,この上三法のどれかから勉強するのがとっつきやすいと思う。
それは,各自の興味や相性によって選べばよい。
参考までに,それぞれの印象を書いていこう。
押しも押されもせぬ「最高法規」。
性的なポスターと表現の自由,ヘイトスピーチ,憲法9条,同性婚,夫婦別姓,緊急事態条項…
こうした時事ネタがとっかかりになるので興味を持ちやすいだろう。
デメリットは,条文の文言とはあまり関係ないところで解釈論が展開されるところ。
憲法だけ勉強して「法解釈ってこういうものか」と思うのは,ちょっと誤解を生むかもしれない。
交通事故やご近所トラブルも民法の問題になりえるし,親権や相続も民法の話である。
また,民法(債権法)は,制定以来120年振りの大改正がされており,改正後の民法は,2020年4月1日から効力を生じる。
そういう意味でも注目度が高いといえるだろう。
初学者にとって良いところは,捜査や公判のニュースへの理解が深まるところ。
どんなときに犯罪が成立して,どんなときに成立しないかを学ぶことが出来る。
初学者に厳しいところとして,刑法総論は理論的側面が強く,最初は分りづらいかもしれない。
これもどれしも一長一短がある。
なんといっても分りやすい。
その点,予備校には,初学者がどういうところでつまずきやすいか?どう教えればわかりやすいか?というノウハウが蓄積されており,それが本にも反映されている
より深く学びたければ,その後,試験対策講座シリーズ(シケタイ)に進むのも良い。
予備校本の難点として
・学説の良いところどりをして全体の整合性がとれていない場合がある
などがあるが,初学者は気にしなくてよいと思う
理論的に緻密(人にもよるが)。
参考文献からどんどんほかの本を読み進めていくこともできる。
難点は,難解で読みづらいところ。
最近は読みやすいものも増えたが,それでもやはり予備校本などにはかなわない。
オススメは,以下のとおり。
興味があれば,個別法の解釈論とは違う側面から勉強するのも良い。
・マイケル・サンデル「ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業」
・福井秀夫「ケースからはじめよう 法と経済学 法の隠れた機能を知る」
オススメは以下のとおり。
・弁護士のくず
・家栽の人
今度イブニングで連載が始まる「リーガルエッグ」も期待している。
百聞は一見に如かず。
実際に裁判の傍聴に行ってみるのも良い。
傍聴は誰でもできるし,予約なども必要ない。
ニュースで大きく報道されるような事件は,傍聴希望者がたくさん来て抽選になったりするが,それ以外の普通の事件は,ふらっと行って自由にみられる。
ただし,事件の選び方などちょっとしたコツはあるので,あらかじめ下調べをしていったほうが有意義だろう。
傍聴マニアの人が本を出していたりするので,それで予習するのも良い。
色々と書いてきたが,学校の試験や資格試験を受けるのでなければ,細かい条文や判例を覚えることにあまり意味はないと思う。
法律・法学の考え方全体の根底にある基礎的な考え方や発想(大げさに言うと「リーガル・マインド」)を身に着けることができれば素晴らしいと思う。
私自身も法曹にはなったものの,まだまだ勉強することだらけだ。
一緒に楽しく頑張りましょう。
【茅場君へ】
君があの時、みんなを止めたのは正しかった。でもそれが後々、君のためになったかどうかは分からない。
あと、君には夢があるのだから、一つの恋がうまく行かなかったからといって悲観することはないはずだ。
【平山さんへ】
良かれ悪かれ、逃げるのには勇気がいる。この一年でそのことを一番考えて、経験してくれたと思う。
あの時最後まで弾き切った君なら、きっと海外でも食らいついていけることでしょう。
【六分一君へ】
君はあの事件を恥だと考えているかもしれませんが、みんなも、そして先生もそうだとは思っていない。
辛くて長い道を選択したけれど、横に添い、周囲から支えてくれる人がいる今なら大丈夫。
多くの物を得た君に、より幸運が訪れることを先生は願っています。
【勝間田さんへ】
あの場での選択は、ひょっとしたら間違っていたかもしれない。けれど、一番君らしかった。
立場上素直に祝福することはできないけれど、おめでとう。末永く、お幸せに。
【館君へ】
君のおかげで助かったことは何度もあった。ただ、「模範的」の殻を破っても良い時分だと思う。
今日、ようやく弁護士の先生との話がまとまり、半年近く書類を溜め込み、まとめ、提出を受諾した。
これで労災申請についてはスタートラインを着ることが出来るだろう。肩の荷がおりると同時にまたひとつ肩に荷物が乗ってくる形にはなるが、やや身軽にはなった。
今日は陰鬱とした内容とするよりは、将来的に見返した際にかつての私自身が何を理念にして行動をしていたのかをなんとなしにでも書き起こしておきたいと思う。
過去の怨恨の煮凝りのようなブログを見てもこの時期はこんなに落ち込んでいたのか。そう思うことで一つの気持ちの整理がつく、今もこうやって執筆(?)することでも気持ちを吐き出せている心持ちになり気が軽くなる。結構日記をつけるということは大事なのかも知れない。毎日でなくてもマイペースに吐露したい気持ちがあればぶちまけておく分には誰も損はしないはずだ。
そんな前置きはさておき、何を考えて行動しているのか、逆に何を考えないようにして行動しているのかをポイントを踏まえて整理しておきたい。
1.精神面について
2.肉体面について
大区分としてはこうなるだろう。
以下に記す。
【精神面について】
これはネットワーク社会が構築された現代社会・世界の中では、非常に困難を極めることであると考える。しかし難しい一方でせめて自身を大切にしないといけないのも事実である。
自己を確立し承認欲求を満たすためにSNSで幸せに見せかけるような料理・動物・景色などの写真を上げたり、社会派な発言をして理解を得るコミュニケーション等、人によってやりたいことがあると思う。
しかしながらネットワーク社会は残酷で、常に自分より上を之くと感じる人々を見つけ、目をやってしまうことが多い。絵ならば神絵師なんて言われる神的存在があたりに跋扈し、写真なども他者のバズりを見せた動画に対し自分のものは何故伸び悩むのか、そんなことで自身を雁字搦めにしては自分を「弱者」と捉えては自身で自身を不幸の道へと誘ってしまう。
それらを完全に無視することは難しくあろうとも、自分なりの努力や工夫をした過程はせめて評価してあげて欲しい。結果を出すことができるのは残念ながら才能のある人やチャンス・タイミング等を上手く掴み伸し上がる努力をした人たちだ。
SNSは性質上成功者の発言や情報発信を多く目にするため感覚が麻痺しているが、目にしている傍らには自身と同様に彼らを見上げている有象無象が居ることを忘れないでほしい。
個人的には日本人特有の「つまらないものですが」「らくがきです」「てきとうにつくりました」といった謙りを強くかけてハードルを下げるような行為を好きなこと、趣味の中では決して行わないでほしい。私生活では”出る杭は打たれる”なんて表現があるように目をしかめられたり、よく思われないのではないかと私自身も憚ることがあるが、自己を卑下したところで残るのはセミの抜け殻みたいな空っぽの精神だけなのだから。
「がんばりました!みてください!ここをがんばったんです!!」と強く胸を張ってほしい。それに反発する人が十中八九居るだろうが、全方位に笑顔を向けたり好きになってもらおうと努力する必要なんてないのだ。尖った貴方にこそ惹かれる人が居るだろう。
あまり尖りすぎるとそれはそれで問題では有るが、丸みを帯びた鉛筆よりかは荒削りだろうと、懸命に削って先の尖った鉛筆のほうが使っていても見ていても心地が良いし。
ポイントを一つだけ上げれば「自己を卑下するな。常に胸を張れるようにあれ。」と言った形だろうか。
1-2・・・上司の脅しに屈するな。社内規律より法律を優先しろ。
これはブラック企業が蔓延している世の中では誰しもが優先してほしい。
社会人になった最初の上司ガチャ次第にもよるが「協調性」「我慢・忍耐」「従順さ」のようなものを押し付けてくる相手であるなら、ソシャゲだったらリセマラ案件だ。
そういう相手の多くは「自身がした苦労」「それらが慣習化していること」あたりを武器に殴ってくるが、それらに屈してはならない。会社が内々で何を定めていようとも、相手にプレッシャーを過度に与えたり、ましてやその反応を楽しむようなことは法律上許されないのだから。
最近ハラスメントについても防止法が施行されている。2020年6月には労災要件にパワハラが追加される予定でもある。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000126546.html
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私の場合は、「一方的な人事査定」「未払い残業代」「数々のハラスメント」に対して業を煮やし、我慢が出来ず、部下の仕事の管理すらしない名ばかり管理職の上司に対して毎日のように炊いては内心ではキレ散らかすほどになり、少し冷静になって情報を集めてようやく法律は味方をしてくれることにようやく気がつくことが出来た。
多くの人は泣き寝入りをし、中には社会復帰すら困難な立場に追い込まれた人もいるだろう。
そうなってしまってからでは行動を起こすことすら難しい。だからこそ、ボイスレコーダーでもメモでもメールでも日記でもTwitterへのツイートでもなんでもいいから証拠を残すんだ。自分がこうあったという記録を残すべきなのだ。それらは決して自分を裏切らない。最たる証拠、すなわち最強の武器と盾になるだろう。今もそんな気持ちでブログを書き起こしている。前述したが、案外文字にするとこう思ってたのだと再確認する機会を得ることも出来る。非常に大事だ。
ネットワーク社会の情報の荒波に飲まれると、ふと「自分は何もしていないのではないか?」といった謎の焦燥感に駆られることは現代人に置いて常にあるものだと感じる。だから日々、写真とか上げるのだろうし。
取り残されないためにも何かをしないといけないと思っては「無理に外出をする、遠くへ旅行をする、恋人を探す、結婚しようとする」といった何らかのアクションを起こす。人の幸せの感じるバロメーターはそれぞれ別モノであるから、他者がやっていることを後追いする必要なんてものは一切ない、後追いしまくった結果、何も残らず虚脱感を得られる…なんて負の遺産が待っているコトだろう。
人によっては「家でゆっくりする」「寝ることが幸せである」「愛猫愛犬などの動物と入れたら良し」といった外に出ずとも完結する幸せなんてものも多数転がっている。
少なからず私は近隣の猫カフェに行って何時間も何も考えずに猫と触れ合ったり何もしない様をみて改めて「何もしないことも幸せの一つ」だと噛み締めたり、偶に奮発したお高めの即席麺やお酒を飲んだりすることで満足している。
お高めのお金がかかる趣味や旅行が趣味ならそれはそれで構わない、ただ自分が本当に何がしたいのか、他者の行動に振り回されないで破天荒じみた生き方をしても、公益を妨げない限り誰も不幸にはしないはずだ。
【肉体面について】
2-1・・・飯はよく食え、ダイエットは単なる炭水化物の減量でしようとするな。
学生時代は代謝が良かったのか、社会人が動かない生活をしているせいなのか、多くの人は体重の増加に悩むことが多いだろう。
そこで考えるのがダイエットである。「低糖質ダイエット」「ごはんを豆腐に代えろ」「葉っぱだけを食せ」といったような荒療治で痩せることは簡単ではないうえ、本気で痩せようとしている人かするべきではない。
第一に生活を根本から変える必要があるためにストレスが非常に高まる、コレに尽きる。そのため一時的にダイエットが終わった後、短期間でのリバウンドが絶えないだろう。
痩せるために何かをするのであれば、まず個人的に推したいことは「飯はゆっくり目に食べる」「よく寝ること」「(昼勤務の人は)夕食時、少しだけご飯を控えめにすること」「金銭面で余裕があればプラセボ程度のサプリメント(フィッシュオイル/CLA/カフェイン/難消化性デキストリン等の食物繊維)の摂取」だと感じる。
しっかりと寝ることは精神面の安定にも繋がり、ストレスによる過食も防げる。ちなみに科学的根拠もあったりする。
2017.6.21|国立大学法人 筑波大学 国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS) 睡眠と代謝の密接な関係
https://wpi-iiis.tsukuba.ac.jp/uploads/sites/2/2018/01/PR_170621_jp.pdf
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ストレスと投薬によってここ数年間は体重増加が半年に±10kg程度あったがよく寝るようになると、少なくとも私は目に見えて痩せて安定傾向になった。荒療治は続かない上、時代に沿った流行(トマト・バナナ・ブロッコリー・卵など色々見た気はする)があったりするため、それに着目した企業からの甘い誘惑も多い。
空腹がどうしても気になるのであればカゼインプロテイン(マイプロテインやバルクスポーツが安く手に入りやすい)などの消化吸収が穏やかかつ高タンパクな健康食品で補うと、間食に走るよりはだいぶマシになるはずだ。あとはどうしても固形物食いたい人は紀文食品の低糖質麺シリーズ(https://www.kibun.co.jp/brand/toshitsuzerogmen/)を食うと幸せになれるかも知れない。こんにゃく臭さが微塵もしなくなってるから「食べやすい・食物繊維多め・腹持ちよし」の良さみ高め食品なのだ。
2-2・・・筋トレとか運動を少しでもしろ。そのついでに日光を浴びろ。
陰鬱になると家にこもりがちとなる。結果として自身の体力や見てくれにこだわりなどなくなり、浮浪者のような格好となる。去年夏から冬にかけて髪を切らなくなったこともある。気をつけなければならない。
その改善策としては筋トレをすることを勧める。少なくとも外に出たり、ジム通いをすることになるので最低限の身だしなみは整えるようになる。おまけで筋肉もついて少しだけ自身がついたりもする。金はかかるが最低限のことをした気にもなるので安い出費だろう。
テストステロンが出たり、こまめな運動で気持ちのリラックス効果も期待できる。やることがないならそうしろ。
(https://sportsgym-fc.com/self-help/)
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外に出るついでに日光も浴びると良い。日光浴ができるとなお良い。温かいのは気持ちが良い。のんびりしていることへの罪悪感も少し消える。日光は良い。浴びろ。
今日ははこんなところとする。
いちゲーオタ中年男性のハートのど真ん中の最奥部に抜けないほど深く突き刺さった「テン年代ゲーム」10本をランキング形式で挙げていきます。お付き合いください。
のっけから「特別賞」から始めることをお許しあれ。ランキング発表後だと、1位よりもスペッシャルな空気を醸し出してしまいそうで。それを避けたかった。
でも、本作がとくべつな1本であるには違いない。だから悩んだ挙句の……「特別賞」。まんまでごめん。
個人的には『ノベルゲー」って昔からあんまやらないんです。ノベルゲーやる時間あったら小説を読むほうが(たいてい)有益だろう、という長年の思いこみ集積のせい。でも、『Doki Doki Liteature Club』は例外。ゲームらしいインタラクティブな要素があるわけじゃないのだけど、小説でもマンガでもアニメでもこの表現は絶対不可能。
本作の凄さについてはもはや語り尽くされている感があるし、強く深い思い入れを持っている方が世界中にいらっしゃることも存じておりますし、まだプレイしていない方のためにも、内容については何も言いたくない。
でも、これだけは言わせてほしい。
本作は「神は存在を愛している」ってことをギャルゲー/ノベルゲーのガワで見事に顕してみせた一大叙事詩である。ここには生があって、性があって、詩があって、死があって……愛がある。さらには現象学的「彼方」をも開示してみせる。
その(一見)破天荒、かつ強烈な内容に憤怒するかもしれない。ショックのあまりマウスを壁に叩きつけるかもしれない。号泣するかもしれない。戦慄するかもしれない。でも最後にはきっと宇宙大の愛に包まれる……絶対。
ああ、すっきり。
では、こっから心置きなく2010年代・心のベスト10を発表させて頂きます。
「……なんか妙に懐かしいな。子供の頃、お前と行った鵠沼海岸をまざまざと思い出したわ」
ゲームと本の山でとっ散らかった僕の部屋にやってきて、このゲームをしばらく遊んだ君は、いかにも重たいPSVRヘッドギアをつけたまま、そう呟いた。
僕はかなり潔癖症だから、君が顔じゅうに汗をたっぷりかいてることがひどく気になって、除菌ティッシュ片手にそれどころじゃなかった。
けどさ、あの頃君と一緒に見つめた空と海の青さに、まさかVRの新規アクションゲームの中で出会えるとは夢にも思わなかったよ。
ハタチん時、『スーパーマリオ64』を初めてプレイした時の驚きと、海辺で自分の子と君の子が一緒に遊んでいるのをぼんやり眺めてるような、そのうちに自分たちも同じくらい小さな子供に戻って、一緒に無邪気に冒険してるような……切なくて温くて微笑ましい気持ちがじわじわこみあげてきた。そのことに、僕は本当に心底驚いたんだよ。またいつでもやりに来てくれ。
「あー、なんかシャベル持ったナイトのやつでしょ。古き良きアクションゲームへのオマージュに溢れる良質なインディーゲーって感じだよね、え、あれってまだアップデートとかやってんの? なんかsteamセールん時に買って積んでんだけど、ま、そんな面白いならそのうちやるわー」
あなたが『ショベルナイト』をその程度のゲームだと思っているのなら、それは大きな大きな間違いだ。
プレイ済みの方はとっくにご承知と思うが、本作はレトロゲーもオマージュゲーもとっくに越えた、誰も登れない山頂に到達した類い稀な作品である。アイロニーと切り張りだけで作られた、この10年で数えきれないほど溢れ返った凡百のレトロ風ゲームとは、かけ離れた聖域に屹立してゐる。
そして3つの追加アプデ(大胆なアイデアに溢れた全く新規追加シナリオ。今月でようやく完結)によって、本作は10年代下半期にリリースされた『Celeste』や『ホロウナイト』の先駆けとなる、傑作2Dアクションとしてここに完成したのだった。さあ、ショベルを手に彼の地へ赴け。
このゲームの印象を喩えて言うなら、
久し振りに会って酒でも飲もうものなら、いちいち熱くてしつっこい口論になってしまう、共感と嫉妬と軽蔑と相いれなさのような感情を腑分けするのが難しいくらい綯い交ぜになっている面倒きわまりない幼なじみ、みたいな。
正直、ランキングにはあまり入れたくなかった。が、初プレイ時の衝撃をまざまざと思い出してみると、やっぱり入れないわけにはいかぬと悟った。
もし未プレイだったら、このゲームはできればPC(steam)でやってみてほしいとせつに願う。当方バリバリのコンシューマー勢なので、ゲームでPC版を薦めることは滅多にない。だが、コンシューマー機ではこのゲームの持つ「鋭利なナイフ」のような「最後の一撃」が半減してしまうだろう。
作者トビー・フォックス氏は、かつての堀井雄二や糸井重里の系譜に連なる倭人的王道シナリオ(コピー)ライターと感じる。
確認のために本作の或るルートを進めていた時、初期ドラクエと『MOTHER』と『moon』が携えていた「あの空気」が30年ぶりに匂い立ってくるのを感じて眩暈がした。会えば会うほど凄みを増す狂人のような作品だ。
2020年内に出る(であろう)2作め『DELTARUNE』において、トビー氏は堀井/糸井が書け(書か)なかった領域に確信犯的に踏み込んでくるにちがいない。それが半分楽しみで、半分怖くて仕方がない。
その山の森の奥には古い洋館があった。
庭は川と繋がっていて、澄んだ水が静かに流れていた。
君は川沿いにしゃがみこんで1輪の花を流していた。
俺は黙って君を見つめていた。
君は俺に気づかない。
俺は木に上ったり、柱の影から君を見守ったり、触れられない手で君の髪を撫でたりしているうちに……君の可愛がってたシェパード犬がこちらにひょこひょこやってきて、ワン、と小さく吠えた。
ああ、なんだかこのゲームやってると批評的目線がどんどんぼやけていくのを感じる。まるで透明な死者になってしまったような、奇妙で懐かしい感覚に否応なしに包みこまれるような……。
本作は「VRで描かれた古典的AVG(アドベンチャーゲーム)」であると言われている。個人的には、そんな持って回ったような言い回しはしたくない。
VRでしか描けない世界と情緒に対して、あまりに意識的な本作。その手腕はあざといくらいなんだけど、実際に本作をやってみるとあざといどころじゃない。泣くわ。胸の内に熱いものがこみあげてくるわ。
『Deracine』はプレイヤーの原風景をまざまざと蘇らせる。かつて失ってしまった友人を、失ってしまった動物を、失ってしまった思い出を、「ほら」とばかりに目の前に差し出してくる。そのやり口はほとんど暴力的でさえある。
もしVR対応しなかったら、知る人ぞ知る良作(怪作)止まりだったであろう本作。
かくいう俺もPS Storeで見つけて何となく買った時は、まさか2010年代ベストに入れることになるとは思わなかった。怪しい仮面被ったバレリナ少女がサイケ空間を飛び回ってんなあ……製作者はドラッグでもやってんのか?くらいの。
しかしPSVR対応した本作を再度プレイして驚愕した。怪作がまごうことなき傑作に生まれ変わっていたのだ。あるいはコンテンポラリーアート作品としての本質を露にしたとも言える。ああ、VRというハードではこんな事態が起こり得るのか……。
画を作っているサンタモニカ・スタジオ(ゴッド・オブ・ウォー、風ノ旅ビト他)の仕事はいつだって凄まじいクオリティでため息が漏れるのだが、VRとの相性は抜群だ。とりわけ今作での仕事は白眉と言える。
とにかく、思わず自分と少女の頬をつねりたくなるほど美しい。少女が、景色が、色彩が、確実に「もうひとつの世界」(夢、とは言いたくない)を現出させている。
そして本作は本質的な意味で——究極の恋愛ゲーでもある。誰も認めなくても、俺はそう強く感じる。あの少女と過ごした時間を、あの少女が内に秘めていた闇の部屋を、あの少女が戦っていた怪物を、そしてこの狂気と色彩にみちみちた世界を日常生活の中で思い出す時、この胸に去来するのは——それは「恋」としか言い様のない儚い感情だ。
書き始めるまで、本作がここまで自分内上位に食い込むとは思わなかった。
が、確認のために軽くプレイしてみたら、やっぱりとんでもなかった。
実験施設内部に、そして自分の内側(Inside)に展開するめくるめく不穏な景色。ディストピアの先にある、吐き気をもよおさせると同時に、穏やかな安寧に包まれるような、唯一無二のビジョン——を完璧に描ききった本作。
終盤の怒濤の展開と比類なき生命体描写のインパクトに心奪われるが、本作の真骨頂は木々や空や雲や雨、海などの自然情景(それが何者かによって造型されたものであれ)の美しさだと思う。荒んだ世界の中、思わず立ち止まって、天に祈りを捧げたくなるような敬虔な心持ちを強く喚起させる。
俺にとって『INSIDE』とは、自己の内面に深く潜るための潜水艦、あるいは哲学書のページを繰っても繰っても掴めない、自分と世界との乖離を自覚するための尖った注射針であり、神なき世界の宗教である。
灰色にけぶった空の下、雨降るトウモロコシ畑で無心で佇んでいた時のあの安寧と絶望感に、これから先もずっとつきまとわれるだろう。
人の生には「もっとも幸福な時期」というものがたしかに存在するようだ。そして、それは必ずしも幼少期だったり青年期だったりする必要はない。
俺にとっては、傍らに愛猫がいてくれて、WiiUと3DSが現役ハードで、仕事から帰ってくると毎日のように今作にあけくれていたこの頃が——生涯でもっとも幸福な時期だったと言いきってしまいたい。なぜなら、幼少期や青年期と違って、その記憶ははっきりと想起できるから。
そして後から振り返ってみて、その時期がどれほどありがたいものだったかを確認し、やるせない気持ちに包まれるのだ。「ああ、やっぱり」と。
総プレイ時間は生涯最長となったし、この作品を通じて(自分にしては珍しく)老若男女多くの「オンラインフレンズ」ができた。
が、続編『スプラトゥーン2』は発売日に購入したものの、ろくすっぽプレイしなかった(できなかった)。
その理由は(おおざっぱに書くと)3つ。
ひとつは『2』発売時、先に述べた、俺にとってもっとも幸福だった時代が過ぎ去っていたこと(ごく個人的な理由だ)。
ふたつめは、初代スプラトゥーンが持っていた、俺を夢中にさせるサムシングが『2』には欠けているように感じられたこと(批評記事ではないので、それについてここでは掘り下げない)。
3つめは、次に挙げる同じく任天堂開発の対戦ゲームの登場である。
それは35年前に夢見た未来の『パンチアウト!!』だった。そして20年前に夢みた『バーチャロン』と『カスタムロボ』の奇跡的融合であり、同時にそれらとは全く別次元に昇華された「理想的格ゲー」であった。
『スプラトゥーン』で「共闘」の愉しさを味わった俺に、本作は「見知らぬ相手とサシで戦う」ことの妙味と厳しさをばっちり思い出させてくれた。
そして画面内のキャラをこの手で操る——そんなあまりにも原初的な「ゲーム」の喜びが本作には隅々までみちていた。こればかりは「Just do it」(やるっきゃない)。
やがて俺は日々のオンライン対戦では飽き足らず、リアルの大会にまで足を運んだ(あっさり敗退してしまったが……)。そんなゲームは、おそらく生涯最初で最後だろう。
余談だが、Joy-con特性を生かした「いいね!持ち」による操作こそが本作の革新性であると信じているのだが、革新性よりも「合理性」と「勝率」を求める猛者たちには殆ど浸透しなかった。
「いいね!持ち」メリットをうまく調整できてさえいれば、本作は『e-sports』ゲーム初の従来型コントローラーから離れた(両腕全体を用いた)操作形態を実現していたはずで、それについては至極残念だが、現在開発中であろう『ARMS2』に期待したい。
2010年代下半期は、俺にとっては「VRに初めて触れた年代」としていつまでも記憶されることになるだろう。
2017年冬、とにかく『Rez infinite』をプレイしなければならない——そんな義務感でPSVRを勇んで購入した。配線がややこしい機器をPS4に繋げ、想像していたよりもさらに重たいヘッドセットを被り、本作をプレイすると——すぐに「ここには未来がある」と思った。いや、正確じゃないな。「未来に至る——今の時間と自分」をばっちり感じたと言うべきか。現在は可視化され、360度方位に顕在し、俺をユニバーサルに包みこんだ。
AreaXを初めてプレイした時の、重たい身体感覚から自由になり、魂だけが全宇宙に放りこまれたような未曾有の感覚は、ゲームなるものと関わってから過去30数年を振り返ってみても、5歳の時に生まれて初めて電子ゲームに触れた時の体験と並ぶ、あるいはそれを越えかねない、空前絶後の体験だった。
これだけ長いこと「ゲーム」なるものを続けてきて、ゲームからそのような感覚を初めて得られたことに深く感動し、ラストではほとんど泣いていたことがつい昨日のように思い出せる。
そして『Rez infinite』の「次の体験」を今か今かと待っている。
『Rez infinite』からのまさかの……自分に驚き、何度も自身に問うた。
あれだけ昔から『どうぶつの森』嫌いだったお前が。とび森を。テン年代1位に。据えるつもりか?
お前はそんなにぶつ森好きだったのか? ありがちな中年男性みたいに「しずえ萌え」になったのか? それとも親子くらい歳の離れたフレンドと時々会えるからか? おいおい、かあいこぶってんじゃねーぞ、と。
だが本作を1位にした決定的な理由——それは、テン年代初頭に放たれた今作から「仮想世界」における、人間存在の理想的な在り方の萌芽をひしと感じたからだ。
一発で脳内に凄まじいヴィジョンを注入した『Rez infinite』と比べると、まるでアリが餌塚に砂糖を運ぶようなゆったりとした足取りだが、本作は確実に世界中のゲームファンに「もうひとつの世界」をキュートな顔つきと口調(しずえ嬢のような……)でじわじわと浸透させ、人々の無意識をしれっと変容させ、もうひとつの生活を愉しませ、ネット接続により文字通り「飛び出させた」。
『どうぶつの森』は今年3月に発売する次作『あつまれ どうぶつの森』においてさらなる大きな広がりと変化を見せてくれるだろう。
が、俺は本作をとくべつに、個人的に、偏執的に、限定的に愛しているのだ。
それは故岩田社長が生み出した『3DS』というハードへの偏愛と、ゲーム機では3DSだけが備えた「裸眼立体視」——ARとVRを折り合いし、先取りした——唯一無二の機能によって『どうぶつの森』というクローズドな世界をまるで飛び出す絵本のごとく彩り、「夢の中で他者の森を訪ねる」という奇妙かつ魅惑的な通信世界を生み出し——
要は、全シリーズを振り返っても今作『とびだせ どうぶつの森』だけが持ち得た、この奇妙で牧歌的で神秘的なアトモスフィアに由るものだ。
カフカ『城』や村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』主人公のように、俺はある時、この森の中に、夢の中に、村の中に、これからも留まり続けることを選んでいた。
そういうわけで、本作を迷わずにテン年代1位に据えたいと思う。
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長々とお付き合いくださって本当にありがとうございました。
余談ですが、最初は「順不同」にしようと考えていたのです。これほど自分にとって大切なゲームたちに順位なんてつけるのは相当失礼な気がして。
でも、敢えてつけてみた。並べてみたら、なんとなく自分内重要度みたいなものがぼんやり浮かび上がってきたので。
異論提言はもちろん、よかったらあなたのテン年代ベスト(5本でも20本でも1本でも)教えて頂けると、いちゲームファンとしてめっぽう嬉しいです。
もう10年以上前に『涼宮ハルヒの憂鬱』って流行ったじゃないですか。破天荒なヒロインのハルヒが、微妙なさじ加減で好き勝手する話。私はそのハルヒが好きで。
かなり人気があったんで、色々インスパイヤ作品があったと思うんですよ。商業ラノベ的なエロ小説で、ハルヒ的な女がヒロインの話もあったと思うんですが、小説には疎くて探し様もなく、悶々と何年もすぎてしまいました。
SSは若干よみましたが、接ぎ木的な翻案でなく、雰囲気のある違う作品を読みたい次第。
例えば高校生でなくてもいいし、キョン的な男が主役でなくてもいいです。ただ『これ、ハルヒパクリだろ?』ってのが読みたいです。
よろしくぺこり