はてなキーワード: 諦観とは
原発反対派が今回の汚染水問題についてどう考えるか書いておく。
といっても別に原発反対派の総意なわけではまったくない。他のやつは知らん。
「処理水」海水放出賛成派は以下の人たちがほとんどなので、私は賛同できない。
産経などは、
https://www.sankei.com/article/20230831-KD5JEXBTZFKTHGOICMXBRJZ24Y/
などと言ってるのだから、「汚染水といってはいけない」と思ってるのは明らかだ。
この場合の前提とは、処理水はなんのための処理水か、だ。
この問題の前提は汚染水をなくすためのステップ、であることを常に忘れてはいけない。よって汚染水という単語を使ってはいけないというのは前提が間違ってる。
それが「処理水」海水放出賛成派に全く賛同できない理由の一つ。
そして「処理水」を汚染水と言いかえるのは、歴史改変をしたい人たちと同じ感覚だろう。
何故か日本の間違いを少しでも認めたくない人たち。しかも明らかに科学的に間違ってる。前提を無視するという形で。その点でも科学的に間違ってる。
福島事故が実際起こっていて汚染水は厳然と存在する以上、中国原発と比較して「処理水」の海水放水は正しいなどと言ってはいけない。
中国原発は事故を起こしてはいないのだ。中国原発と何を比較したとしても「処理水」海水放出が正しくなるわけではない。
中国の言い分が間違っていたとしても、残念ながら、真っ当な反論の方法などない。すべては東電及び経産省の無能が原因であり、福島原発事故は中国のせいではない。
では、「処理水」海水放出賛成派でないとすれば、自分の立場はなにか、といえば
東電及び経産省の無能のせいで、もはや汚染水を海水に放出する以外の科学的方法はない。
中国の原発と比較してトリチウムが少ないから正しいなんて馬鹿げてる。比較する意味自体がない。
汚染水海水放出諦観派は、科学的には汚染水をタンクに貯めて、ALPS処理を繰り返し(多分)他の核種を除去(したであろう)後の「処理水」がトリチウムしかなく、特に害がないことは分かってる。
「多分」や「であろう」でしかないが、今のところ明確な科学的疑義は出てないのは事実だ。
https://www.foejapan.org/energy/fukushima/pdf/200330_kawai.pdf
が、私の見立てでは無理があることは明らかだ。
なんせ東電はあくまで強電屋。土木屋さんじゃない。土木の方法は成功率が下がる。
にも書いてあるがモルタル化しても容積が大きくなりそれ自体が放射性物質になり更に扱いにくくなるだけで問題は解決しない。
そもそもモルタル固化がもし失敗したら、本当に汚染水が海水に放出されてしまいかねない。
更には、東電の無能を考えれば、失敗の可能性があるものに賭けるのは無理がある。
結局どれも無理があり、汚染水海水放出諦観しかない。東電の無能が主だが、要するに
「こういう事があるから原発反対派は問題があるから辞めろと言ったのに」
は強調しても足りない。
これはそもそも原発を真っ当に運用できないから辞めろと言った原発反対派のことを無視して行った原発賛成派の無知度合いが原因だ。
結論だけ見れば「処理水」海水放出賛成派とあまり変わらないので諦観派で声高に主張する人はいないだろう。
もちろん、汚染水から「処理水」に至るまでの過程が明らかになってるとは言えないなどの細かいことがあるがあまり重要だとは言えないだろう。
せめて、日本の原発行政が、賛成派と反対派を5:5で議論して結論を出し必ず従うような「公平」な運営をしていたなら、私は原発に賛成していたのだが、むべなるかな、だ。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
https://anond.hatelabo.jp/20230726225333
共通点は、配信者が意図したものとは別の反応をリスナーがして、それを配信者が不愉快に思うのが問題、ってことだ。
本人(配信者)が不愉快に思っていなければ問題ではない。むしろ人によっては喜ばしいことにもなる。
元増田にはきっと当てはまらないだろうが、個人で1万程度のフォロワー数ならばファンを増やしたがいために、そういう売り方を積極的にしてところも多い。
ちなみに配信者を好意的に思うあまり、表に出していないものまでを汲み取ろうとする行為は火種の元である。
表に出す出さないを決めるのは本人とその所属事務所の意向であり、本人がたとえ裏で愉快、不愉快に思っていたとしてもリスナーはそれを確認できない。
そしてもし裏で不愉快と思っていたとしても、それを仕事として割り切っていたら憶測で同情するのも気分を害するものである。そのデリケートな精神的ケアはリスナーには求めておらず、事務所や同僚に頼む。本当にリスナーに対して理解してほしかったら定期的に何度も口にする。
こちらは楽しさを売っているのだから、大人しく楽しさを受け取れ!と思うだろう。
正解のない問題をいくら考えても徒労でしかないのだ。リスナーは出されたモノだけを享受すべきである。
出されたモノというのは、アイドル売りをしていない者をアイドル視することも内包する。
このインターネットは広いので、「かわいい」を歓迎している男配信者もいる。
どれだけオムライスが食べたいからってとんかつ屋のメニューにはオムライスはない。カツ丼の卵とご飯の組み分せを見つけてキャッキャッするのは勝手だが、そんなに食べたいのなら洋食店にいけばいい。もちろん好みじゃなくてもとんかつの美味しさを純粋に楽しむのもいい。自分の好みのようにコントロールしようとするのがダメなのだ。その点、元増田は早く気が付いたほうだろう。一生気が付かないやつも世の中にいる。
なんでもOKの人や、限度を超えたその妄想やメタ的視点も楽しみの一つであると考えている人も多い。隠れてやればOKとかな。見聞が悪い言い方をすれば、反発するリスナーがめんどくさいから。
だが多少のことでアレルギーを起こす男は多い。
じゃあどうして、「かわいい」はたびたび話題に出るが、「エロい」は問題にならないのか。
それは今までインターネットは男達が強者として君臨していたからである。
現実社会で弱者だった彼らは、インターネット上の匿名性を利用して強者として振る舞い。様々な差別用語や差別文化を生み出した。その言葉や文化はSNSが普及した今でも残っている。
女性にこっぴどく振られたり、騙されたり、そもそも縁がなかったり、なんらかの恨みを持つものが多かった。というか幸せなやつはインターネットをやっていなかった。そして女性と深い関係の男性に対しても、バカにする文化もあった。現実だと小学生がよくやるやつだ。幼い。
だが実際、女体は好きなので手のひらくるりんとなるやつらばっかりだった。なので過激な性的搾取は当たり前で矛盾はしなかったし、どれだけ気持ち悪いこというか大喜利があったりもした。本田望結には同情する。
女も女でそれはわかっていたので、性別を男だと偽ったり、荒らされないように隠れたり、棲み分けを徹底したり、と自治を行った。その常識を逆手にとって、色気を武器にして成功を収めたものもいた。腐女子の元増田のほうが詳しいかもな。
元増田は配信者といっているので、まあゲーム実況だろう。それかひろゆき。
ゲーム実況ならば、なおさら男社会で女性差別が激しい。少し前に「人権」で炎上したがあんなものかわいいものだ。そう思えるぐらい凄まじい。特にFPSと格ゲー。
今はインターネット人口が増えて、体感だが男女の比率が6:4になってきている。スマホとSNSとコロナのおかげだな。
そしてモラルの向上を求む声も大きくなっているが、知ってか知らずか文化を受け継いでいる人も多い。
そんな中で、自分がセクハラされるとなると免疫がない男は発狂しやすい。ネットじゃなくても、現実社会を生きていても、男性は女性に比べてセクハラはされることが少ないのに。ゲームをミスって罵詈雑言をなんなく受け流すことができる人も予想もされない「かわいい」「えらい」を受けると無視できないのだ。女性のように諦観せずに、タレントとみてほしい配信者としてみてほしいという人が多い。
まあ10年ぐらいすれば、男女平等にネットでセクハラされることは当たり前になり、男女ともに厄介なやつは一定数いるのが常識になり切り捨てられるだろう。それで「かわいい」って言われても別になんとも思わないやつがのし上がる。
それが待てないのならば、やはり元増田の言う通り、「かわいい」に代わる新しい言葉を生み出すのがいいと思う。
ジョジョの物語って「トロッコで誰かが犠牲になる!?それなら俺達が犠牲になる!」と考えて我先に身を投げ出せる男達が「だが、俺達が助かる道もあるかも知れねえ!諦めるな!」と立ち向かうという大筋じゃないですか。
覚悟を決めた先に諦観を見出して終わるのではなく、覚悟を決める決めないを終わらせた先にある「覚悟を決めたことで広がった視野に映る可能性」を追いかけていく。
「自分の手を汚せますか?保身のために見殺しにする?」で終わり。
ジョジョは違う。
でも最高の仲間達は「もう終わりだね。最後にいいことしたなー」で諦めない。
トロッコ問題も「いい感じにトロッコを脱線させます」とか言えない雰囲気がある。
とにかく誰か殺したがってばかり。
この話は難解という感想をよく見るが、その実は全く逆で、宮崎駿が監督作品として一貫して伝えたかった事を、教養のない愚かな大衆の為に限りなく簡潔で単純なストーリーに落とし込んだ結果、宮崎駿自身も「訳が分からなくなった」作品である。
この作品は宮崎駿の自叙伝であることは既によく知られているが、彼の内面やバックグラウンド、そしてこれまでの作品で彼が伝えたかったテーマの一貫性を保っている。
彼はそもそもこれまでの作品にも自分と周囲の環境とを幾度となく投影してきた。ただし、それは一部のマニアにしかわからないものであった。今回は、そのベースに加えて現実の宮崎駿自身の回想を複雑に絡ませて投影されているだけでなく、そのものずばりで作品のオマージュという形で追想しているのだ。
そしてここからが重要な点だが、当然それは単なる追想ではなく彼が監督作品で一貫して伝えたかった「生きるとはどういうことか」というテーマに対して「自分はこうしたがダメだった」のだというメッセージになっている。
戦闘機の風防を量産する軍需工場の経営をしていた父のもとで軍国少年として育ち、裕福ながらも厳しい家庭で母の愛を十分に受けることができなかった宮崎は、敗戦後左翼に傾倒して東映アニメーションで高畑功と出会い、強い影響を受けて監督作品にそれを秘めるメッセージをこめてきた。
これまでの監督作品で散りばめられていたオマージュや背景設定には、子ども向けの作品でありながら大人には「鑑賞者の教養」をもってして強烈な現代資本主義と衆愚政治に対するアンチテーゼが展開されてそれこそが深みとして楽しめるものになっていたのだ。
だがそれは一部のマニアだけが知るものとなり、実際に「大人」である大衆が想定以上に教養がなかったがためにジブリ作品のストーリーやアニメーションとしてのレベルの高さといった表面的なものばかりが「良い」とされ、宮崎駿や高畑功が伝えたかった事は伝わらなかったのである。
それでも宮崎駿は諦めず、本作のアオサギたる鈴木敏夫にそそのかされて愚かな大衆と私腹を肥やす連中のために作品を作り続けた。いつか伝わるだろうと鑑賞者を信じて。
いや、もう飛べないのに何度も何度も鈴木敏夫に首根っこをつかまれて。
そうして作った過去の作品たちだが、まるで伝わらなかった。そして彼は遂に「諦めた」のである。「諦観」にも近いだろう。戦後の日本人が当然に持っていた強く気高い教養は、戦後75年高まるどころか全く失われてしまった。
まさに劇中のインコのように、脳みそが小さく何も考えることができない、ただぴーちくぱーちくインターネットで喚き、特異なものを攻撃する。コンテンツをひたすら消費する愚かな大衆に対する、宮崎最後の強烈にシニカルな表現である。
そして現代日本人を代表するように庵野のような表現と個人主義的な自己実現による自己救済、新海のような風刺のない純潔な大衆作品、そして特に何もない残せていない息子が残った。中盤から終盤にかけて、継母のタッチが明らかにジブリのキャラではなく、庵野や新海といった顔の印象を残しているのは、「俺はこう生きた、お前らもあとは好きにやれ」という餞であろう。
こうした自身の溜まりにたまり、ある種の呪いに近しい諦観を、いよいよ吐き出し昇華せんと最後の力を振り絞って、教養が無くてもそれとわかるように単純かつオマージュもジブリ作品にし、走馬灯のように仕立てた。大叔父は死期を間近に控えた自分自身であり、13個の積み木と世界はスタジオジブリそのものである。自分自身が、自分自身に対してケジメをつけた作品なのだ。
「作家は経験したことしか書けない」は宮崎駿とて例外ではない。自己を総括するように、母性に対する渇望と周囲の女性達との思い出が上手く母・継母・見守るおばあちゃんたちといった具合に添えられている。
だが、この作品は紛れもなく宮崎駿の自伝かつ遺書であり、「君たちはどう生きるか」はこれまで一切メッセージが伝わっていなかった人間達に対する、まっすぐな問いかけである。
追記:
残念なことに、この作品を観て本当の意味で「あぁこれはねぇ~」と嬉々としてはしゃいで満足するのは岡田斗司夫ぐらいで、上記のような内容を今にYoutubeでレビューをするだろう。
記事への反応を見てたらわかんなくなってきたので教えて。
ジャニーさんがショタ好きなのは薄ぼんやりとは知ってたけど、合意もなしにほぼ全員毒牙にかけたみたいな話でここまで酷いとは思っていなかった。
ここでジャニーさんが存命なら辞任は元より強姦による刑事罰を受けるべきだと思うんだがね。
ただ既に故人であり、加害者が既に居ない訳じゃない?当事者はとっくに不在じゃんかよ。
今後も権力者の牙が向く可能性もあるから再発防止云々も効果がない訳じゃないけどもさ。当座の問題はとっくに解消しているわけじゃん。
だから、あとは粛々と損害賠償とかに応じる程度かなと思ってたんだが、皆は違うの?
個人的には社長が白々しく知らんかったという発言をしたのは納得が行ってない。
しかしそもそもが前面に出る人じゃないから社長辞任しても株主だしどうにでもなっちゃうだろうから、辞任とか溜飲を下げるだけで解決策にもならん気がする。
人によっては事務所が潰れるまで許さんくらいの勢いで書いてる人をよく見るんだが、それが本当に必要なことなの?
ようやく被害を受けずに済むようになったタレントが、今度は職場を失って我慢のし損になればいいの??
追記1:
会社が共同正犯または幇助であるという意見は頷ける。被害者が内側にいる状況下で会社にも責任を問うべきかは意見が割れている気がする。主な論点はそこかなぁ。
同様にメディアの責任を挙げている人がいて、過去の検証は大事だし進めるべき。タレントをそのまま採用し続けていることへの批判については上と同じで被害者にダメージが行く方法だからね。
例えば過去の番組も全部配信なしね、とか。って確か配信系NGなんじゃなかったっけ。じゃぁそれすら今とあんまりかわらんじゃない。
意見の中で社名変えるというのがあり、それは別に良いけど現社長もそこまで「ジャニーズ」という名称にこだわってるとは思わないけどなぁ。名称変更によるダメージっていうほど少なくない?
タレントと会社を切り離して別会社へ移籍させるというのは流石に安直で、そんなことが一存でできるならとっくにやっているだろうという。流石に世の中そこまで単純にできてない。
まぁホリエモンはライブドア事件の際に役職取り上げられて株も強制的に売ることになったから、似たようなことだしやれなくはないのかも知れんけども。
感情はおいといて、法的根拠を鑑みるにそこまでさせる正当性がないよね。
あと一部届いてなかったから俺の意見も改めて述べるけど、この内容では過去の被害者に対して損害賠償をするのがせいぜいで、それによる金銭的ダメージと社会からの信用失墜が落とし所なのかなと思ってる。
追記2:
一部権力もたせたらやばそうな発言してる人も含めてはてな村の民度が気になるところもあったよ。スカッとジャパンコンテンツが無くならない理由なんだろうな。
なお、そのスカッとコンテンツについては、立法で「権力者による性的搾取を取り締まる懲罰的損害賠償法(通称ジャニー法案)」みたいの作ってあげると溜飲が下ろせるのかも知れんね。
本件は、大多数の発言ははやり問題意識は持っていて、許せないという思いが共通してあったことは安心したよ。こんなことは繰り返させちゃいけない。
落とし所が人それぞれ違うなぁっていうのはよくわかって大変参考になった。
このまま風化させないことで社会的責任を問うというのは大事だと思うので、この投稿も少しでも問題提起に繋がったのなら良かったと思う。
追記3:
増田プロファイルを勝手にジャニオタ女子にされてたのでそれだけはないと言わせてくれ。
俺はどっちかというとSMAPごと飯島氏を追い出したメリーにブチギレてた勢だから。
ただ功労者を追い出す権力者という構図が許せないという義憤はもつが、一方でTVもアイドルにもそんなに興味がないんだわ。
この件は単なるゴシップを超えて権力者による性的搾取という問題だから気にはしてるが、広末の不倫くらいの話だったらお好きにどうぞで流す程度にしか芸能界は興味ないんだわ。
追記4(2023/09/16):
俺は無意識に日本を侮っていたのかも知れない。こんなふうに世間が動くはずがないという諦観があったが良い意味で予想を裏切られた。自浄作用あったんだな。
TV局も徐々にスポンサー包囲網が敷かれ、タレント降板の話もチラホラ出てきた。まぁ事なかれ主義的なTV局は自浄作用は働いてない気がしているけど。
ともあれ、前時代的な対応は許されないというのが社会的に認知されてきたなぁと実感する。良いことだね。
なお、最後の「ようやく被害を受けずに済むようになったタレントが、今度は職場を失って我慢のし損になればいいの??」という疑問についても解が得られた。残念ながらこれを受け入れるしかないのだね。
新疆綿は「強制労働」による搾取があり、働いている人たちに罪はなくても結果として搾取構造の是認につながるので不買するべきである。
既婚、子持ちである。
年末届いたsteamからのプレイレポを今になって見た。2022年は20本の新作をプレイし、400個ほど実績をアンロックしたらしい。3本ほど積んでいるが、ほぼクリアしている。加えてPS5でもちょいちょい遊んでいるのだから、これはもう才能と言って良いのではないか。
中年過ぎてゲームに夢中になれない/クリアまでモチベーション維持できないみたいな声を良く聞く。俺は今でも、ゲームへのワクワクで仕事を定時に上がっている。子育てあるから実際始めるのは寝かしつけ後だが、一緒に寝落ちしないのはゲームの続きがやりたいからだ。
この文章はゲームを楽しめなくなった中年へのマウンティングのために書いているが、できればみんなにもっとゲームをして欲しいので、アドバイス的なことを試みたい。
※なお、ここでいうゲームとは、いわゆるPS5とかSwitchの、画面の前に座ってやるやつだ。スマホは専門外。
PS5もSwitchも悪くないが、手に入るゲームの多彩さで言えばPCが圧倒的だ。それに安い過去名作ソフトも多い。ゲーム用PCは高いが、ゲーム好きであれば費用対は決して悪くない。
・クリアしなくても良い
子どもの頃のくせで、ゲームはクリアしなければと思っているかも知れない。俺もそうだった。ただ、クリアを目的にするとできなかったときの挫折感というか、変な諦観が沁みつくように思う。自分の稼ぎで買ったゲームなんだから、飽きたら次のゲームを買えば良いのだ。ゲームをクリアする権利はあるが、義務はない。
・合わないゲームは切れ
上記の続きだが、大作だろうが名作だろうが、合うゲーム合わないゲームというのはある。俺はなぜかティアキンがダメだった。過去でいうとFalloutもダメだった。俺ほどの才能があってもそうなのだ。合わないと感じたら諦めてゲームをとっかえひっかえしろ。不思議なもので、今はダメでも後から楽しくなることがある。俺にとってはウィッチャー3がそうだった。
・攻略サイトを見るな
時間がなくて最大効率を求めたくなる気持ちは分かるが、攻略サイトを見た途端にゲームを消化するためだけの歯車になる。そんなのは仕事だけにしておけ。攻略サイトはゲームの全要素をしゃぶりつくすためにある。気に入ったゲームだけ、クリア後に見ればよろしい(シミュレーション系は除く)。
・感想を書き留めろ
感想というか、言語化しておくのが重要で、何が楽しかったか/ダメだったかが自分に蓄積されていくことで、全然知らんゲームの目利きが聞いてくるし、一見して楽しめなさそうなゲームの楽しみ方が見えてくる。
とはいえ最近は俺も、大作ばかりで中々新しいものに手を出せていない。サイバーパンク、エルデンリング、Horizon、合間にStellaris、シヴィライゼーション、DysonSpherProgramといった感じで、もうちょっと冒険したい。最近買ったゲームだとStranger of Paradise(FFのアクションゲーム)が気楽にできて面白かった。FF16楽しみですね。
今この瞬間自分が不幸でも、他人は幸福であるという事は普通にあるんだよね 当たり前っちゃ当たり前だけど。社会の幸福度というのは本当に不公平にできていて、それを諦観し始めたのが最近、36になってから
俺は保育園小中高大全部いじめにあって家でも虐待されたけど、全くいじめにあうこともなく家庭円満で普通に人生過ごして、友人に囲まれながら恋愛をして結婚して子供作ってエスカレーターに乗って出世していく人もたくさんいるわけで。
当然だけど社会の需要も後者の方が高くなる可能性がずっと高い。
実際俺の中学の友人は俺の年で上場企業の取締役だかをやってるらしい。
俺は18で悪徳経営者の下で新聞奨学生をやって大学を留年、20代でうつ病と慢性ヘルニアで人生ドロップアウト、職歴もなく、もう肉体労働もやれない。
今はフリーターやりながらコツコツ貯めた貯金を投資に回して細々と食ってるただの無職。
カネが尽きたら終わり。俺より不幸な奴はいないという事はないだろうけど、客観的に見たら俺もかなりひどい人生を送っているとは思う。
割合で言うと1000分の1位には不幸な人生を送っているとは思う、つまり俺みたいな人間は1000人に一人ってこと。
人の幸福度を100としたら、自分の幸福度は20もないと思う。今の5倍くらい幸福な人生を送ってみたいなあ、まあ無理なんだろうけど。
まぁおっさんおばさんの集落で高校生・女子大生です🥺ってやるよかええけどね
●みなさんは未婚のシングルについてどう思われますか?
●私はどう息子を育てていくべきでしょうか?(親のことなんて気にならないようにしてあげたいですが、大きくなってどう説明したらいいのか、学校で虐められないか)
●今の日本の性教育ではどこまで学校で教えてくれるのでしょうか?
これ気になるね。令和はどうなってるのかしら
ワイは通ってた学校はなんかのモデル校だったから海外の性教育アニメ見せられたな
ノリノリでズッコンバッコンバッタンしとったけど、それを見て子どもが笑うと言う演出が作中にあった
あの時の冷え冷えとした空気感が忘れられないわ
そのあと例によって例のごとく感想文を書かされたのだけど、その時の空気感も忘れられない
仏教用語的にも日常使いのあきらめ受け入れるみたいなニュアンスでも『諦観』ってこういう時に使うんやなって・・・
あと、『コンドームは完全に避妊できないよ』もやったな。中学で
けど、性教育は学校以前に親の仕事だぞ。今も昔も親が子どもの発達に合わせて教えるもの
凡庸でも惨めでもカッコ悪くても、自意識と折り合いをつけ人は生きていかなければいけない…
みたいな。
中高生だかの頃、まさに当事者だった時にも読んだけど、当時はあんまりテーマを理解してなかった。
なんか変態的でショッキングな作品くらいに思ってて、そういうのに惹きつけられる年頃だから読んでたって感じ。
まあ青春の当事者は青春について言及する大人を非常にウザく感じるものだし、そういうもんだと思う。
若さを大事にしろよ~と語る大人への死ねカスという思いは今でもよく覚えてる。
何を描いてるかをはっきりと意識したのは20前後になってからだった。
でも10代の頃も、ジュブナイルだの自意識だの定型的なワードに頼らず、肌感覚で描かんとするものに接近してたような気もする。
読んだ後の諦観や爽やかさの入り混じったような感情や、心の中の大事な部分を突っつかれたような感覚はまだギリギリ覚えてる。
この手の作品ってどれもこれも「自意識の殻を破り、凡庸さを受け入れて生きていく」みたいな似たり寄ったりの着地点になってしまってなんかなあって思う。
もちろんその結論が大正義って訳じゃなくて、物語の示す過程がその平凡な結論に納得や実感を持たせる所に意義があるんだけど。
それでもたまには違うゴールがあったっていいじゃんねって思う。
スーパーサクセスストーリーもいいけど、それは思春期の自意識というテーマからちょっとズレる。
普通に、かっこ悪く生きていくなんて嫌だが?自意識と向き合うのを諦めて、生活や凡庸さに屈するのは全くかっこよくないが?
美しく生きられず、美しく死ぬ事もできず、死んでないだけの人間の自己弁護だが?
でもこの鬱屈をぶつける先とかそのための才能とかは特にないから、枯れかけた若さを大切に抱きしめながら美しく死ぬが?
つって首吊るなり飛び降りるなりする話があったっていいと思う。いや探せばあるのかもしれんけど。
そういうキャラクターがいたとして、せいぜい作品の芯になる部分と対比的に置かれるような扱いになってそうな気がする。
ネット小説サイトにそういうの書いたらふつうにんげん達に独りよがりだの厨二病だの拗らせてるだの、ボロクソに言われそう。
まあ実際私も然るべき時期に自意識と向き合い、ある程度の折り合いはつけたんですけど。
ただ、中年の危機どころか23にして「ええんか?」という気持ちが沸々と湧いている。
ニーチェやらハイデガーやらが語るような価値あるサムシングを、たった一度の人生で得ようとしなくてええんか?
今際の際に後悔が過るのは怖くないか?って。
フィクションみたいな出来事でもなければ、自意識は爽やかにハイサヨナラと決別できるものではないっぽい。
押さえつけるために、これでいいんだと思えるような、強い納得という重しが必要になる。
これは邪推だけど、思春期の延長戦やってる人間をやたら嫌う人もまた、胸の奥に未消化なそれを抱えてるんじゃないかなって思う。
何かしらの納得という重しもなく雰囲気でふつうにんげんをやってるからこそ、同族嫌悪的な苛立ちを感じるのかなって。
まあそれはともかく、ふつうに生きるには自意識を抑えるための重しが要る。
例えば結婚するなり家庭を持つなりして他者への愛、他者からの愛というありきたりながら固有の充足を得て、人生の指針とする。
これはジュブナイル作品の主人公の多くが採用していますね。勇気を出して積極的に人と関わればそこに人生のリアリティがありましたと。
あるいは、賃金労働に心をすり減らして抽象的な思考をする余裕などなくなってしまうか。現実にはこれも結構あるのかも。
私は青春作品眺めてニチャニチャするフェーズに愛着を感じてるし、この居心地の良さにもっと浸ってたい。
そういう人らを別にキツいとも思わんけど、ふつうにんげんに擬態する身としてはキツイと言っておかなければならない。
それが社会性ってもんなので。
なんてことをあれこれ考えていた折、『桐島、部活やめるってよ』を観た。
ラストシーン、映画部の底辺オタクな神木隆之介とイケてるグループの東出昌大の会話がとても良かった。
8mmカメラについて触れた東出に、オタク特有の早口で嬉しそうに説明する神木。
カメラを向けてインタビューする東出に「将来はプロですか?」と訊かれ、少し表情を変える神木。
予算も撮影場所もロクにない。8mmカメラで撮るのは手作り感満載の不出来なゾンビ映画。
きっとプロになんてとてもなれない。でも、時々「憧れ」と接近している気持ちになれる。
フィルムは手に入らない、現像は面倒、画は汚い8mmフィルムにも、ビデオにはない味があるはずだと信じながら映画を撮る。
「生きるとは…」とまではっきりはしなくとも漠然とそんな悩みを抱えてた東出は、そのやりとりで涙を浮かべる。
素敵な作品だなと思いました。
言ったら自己満足の趣味な訳だけど、それを心から愛せるのなら人生の芯に成り得るはず。
それは10代の頃の自分が辿り着いた結論と丸っきり同じだった。
思春期の自意識は、自分の内なるものを形にしてみたい気持ちにさせる。
あるいは、なにかくりえーてぃぶな事でチヤホヤされたいという程度のものかもしれない。
でも誰もが才能がある訳じゃない。どこかで折り合いをつけなければ。
だったら自己満足でもいい。心から愛せるものなら、それはきっと確かな納得になるはず。そういう折り合いの付け方もある。
古今東西、陰気ボーイズはそういう結論に辿り着くものなのかもしれない。
でも『桐島~』の神木隆之介と違い私の「好き」は漠然としたもので、自意識を抑える重しとしては軽かったっぽい。
ほどほどにふつうにんげんをやりつつ、奥底では変態でありたいね。クソムシでなく。
まあホントは今でも全然草野マサムネや志村正彦みたいに思春期のイノセンスを卓越した言葉選びで紡ぎたいし、ついでにチヤホヤされてえんだけどなァ~
ってほんと救いようがないよな。俺のことなんだけど。
この歳になってくるとさ、自分の周囲の同年代の友人も結婚する/したって話を聞くこともちょっとずつ増えてきた。
もちろんそれはおめでたいし純粋に祝福するんだけど、同時に自分自身に対する焦りか、自己嫌悪か、あるいは諦観か、よくわからない感情も渦巻く。
何もないのはお前だけ。
って書くと、なんだか恋愛コンプレックスとか結婚コンプレックスみたいだよな。本来そんなんじゃないはずだったんだ。
昔からアニメ・ゲームに漬かって生きてきた典型的な陰キャオタクで、恋愛とか交際とか結婚とか、自分には全く関係ない話だと思っていた。
いや正確には、都合良い言い訳ばっかり考えて目を背けてきた。自分のことを騙してきたと言ってもいい。
「俺のこと好きになる女の子なんているわけないし、期待なんて持つだけ無駄」
「今の時代、結婚して一人前とかいう昭和な価値観ではもう無いんだし」
「好きなことして生きて行く方がいいに決まってる」
…
なんと耳触りのいい言葉だ。
もちろん、それで独身のままの人生を貫いてる人もいるし、それも立派な生き方だと思う。
でも俺にはどうやらそれを貫く意志がなかったらしい。
ただ逃げの言い訳にしていただけだったらしい。
だからこうして悶々としながら匿名ネットの片隅に言葉を吐き出しているんだな。
小中学生の頃軽いいじめに遭っていたこともあって、自分のキモさは自覚していた。
トラウマになるようなひどいいじめではなかったけど、当時の俺は女の子と話すのを避けるようになった。
なんて考えていたのを覚えている。
高校の頃はいじめなんて無かったけど、女の子とはあまり話さなかった。
結局「俺に話しかけられても迷惑だろう」って考えは抜けなかったんだ。
流行りの音楽なんかも興味持ってなかったから、共通の話題もないしね。
大学、そして就職後はもう周囲ほぼ男しかいない環境だ。もちろん女の子と会話する機会なんてものはない。
なんて言ってるうちにほら、会話すらできないモンスターの完成だ。
できるのは業務的な会話と、男オタク同士の身内ノリのじゃれ合いだけ。
三十数年生きて来て、日常会話の経験値が中学生くらいのレベルしかない。
理想の女の子が空から降って来るなら別だけど、そういうわけにもいかないので、出会いの場がないなら自分が動くしかない。その通り。
でも街コン?とかそういうのには行きたくない。正確に言うと、行くハードルがめちゃくちゃ高くてしんどい。
そもそも当たり障りのない日常会話ができないのに、何をしに行くのか。
「服を買いに行くための服が無い」ってやつだ。
どっちかというと、プレイ時間の長さで敵が強化されるゲームで、Lv1のまま時間だけ過ごしてしまって詰んだ、って状態か。
レベル上げしに行くための最低限のレベルが無ぇ。これも言い訳なんだけどね。
なんだ、あるじゃん。オフ会なら当然話も合うだろうし。なんで活かさないの。
出会い目的でオフ会来たと思われるのは嫌だったし、日常会話の練習の場にしたくもなかった。
相手からしても、趣味について語りたかったのに男に色目使われるのも嫌だろう。
趣味の話題だけで終始し、そこから何かあるなんてことは無かった。たぶん今後もない。
じゃあさ、風俗とか、あるいは健全に女の子とお喋りできるお店とか、そういうの行けよ。
金さえ払えば会話の練習なんてなんぼでもできるぞ。
そうなんだよ。でも行ったことない。
仮に練習だと割り切ったとして、何を話せば良いのかもわからない。
風俗は…なんか怖い。
いや性欲自体は人並み程度にはあると思うんだけど、それはそれとして、なんか怖い。
もうね、おしまいだよ。
変えたい、どうにかしたいのならせめて変えようと動くしかないってのもわかってる。
やらない理由ばっかり探して、自分から何もしようとせず、何者にもなれない。
このまま異常独身男性を経て俺もいずれ害悪おじさんにクラスチェンジするんだろうな。
訴えられたら嫌なので名指しはしないが○にも普通にIT部隊(開発、運用)があって、困ったちゃんをいっぱい飼ってるぞ
日立以外は技術も向上心もヤベーの多いんだけど日系で激詰めがないからかおっとりしてる人が多いんだよね
けど外資系の〜コンサル系の〜IT部隊(開発、運用)の子らは〜
技術も向上心もヤベー上に上長からは外資・コンサル的な詰め方されるからか『まぁいいか』がねぇのよね
そのあふれる情熱はあなたの足りな過ぎるスキル向上に是非まわして?と思いながらヨシヨシしてるよ
キミがいまアサインされているのはIT部隊のメンバーであって、コンサルとしていまアサインされていないよ?ってヘッドホン強制装着させて24h聴かせたい
関連増田:コンサルだけど同業ツイッタラーにクソムカついた愚痴 https://anond.hatelabo.jp/20210318022825
↓
そもそもコンサルがハイスペックの代名詞みたいになってるのはMとかBとかの外資系トップティア戦略コンサルのこと(O氏とかH氏とかM大臣とかN女史とかK女史とか錚々たる面々。年齢順。間違ってたらスマン)
↓
社内のキャリアパスがどうなっているのかは知らんけど
会計系は最初っからIT部隊のメンバーとして求人掛けてたりもするよ
そしてみんなやばい
そしてやはりやばい
どこぞの会社のCTOにおさまったりシステム部門の部長に収まったりする方々も
まぁ経営陣は『技術』を重要視しないでそのポジションに添えたのだと思われるので
外野がどうこういうことではないのでしょうけど
IT部隊のメンバーなのにそれ以外の何かだと思っていてスキル低いし向上心ないけど『まぁいいか』が無い
上に激詰めされるからかな?
https://anond.hatelabo.jp/20190128220133
https://anond.hatelabo.jp/20190128220133
↑この2つ、言い方が過激すぎる
https://note.com/storch/n/n71a4cefbd759
https://note.com/nagatsuki_chaka/n/ne5f448555b6b
住み分けの問題という話はわかるが、BiliBiliに比べてニコ動ユーザーの3DCGに関する審美眼や価値観が時代遅れなのは事実だし、一つのコミュニティとして見劣りする部分はあると思う。
才能はコミュニティをきっかけに生まれることが多いと思う。うごメモに親しんだ子供が、将来凄腕のアニメーターになるように。
そのコミュニティのレベルが低ければ、生まれる才能に少なからず影響があるように思えるのは偏見だろうか、
MMDからプロの3DCGクリエイターになった人もいるという。それは良いことだ。けれども、MMDに親しんだ人のうち、どれだけの割合の人がそうなったのか。
絵を親しむ人の全てがプロのイラストレーターになるべきと言いたいわけではない。
ただ、もしMMDコミュニティが今よりも新しい技術に明るかったら、排出される若き才能が少しでも増えるか、より質が良くなっていたのでは、と思わずにいれない。
問題なのは、MMDコミュニティ全体の審美眼と価値観が前時代的すぎることだ。
高水準の技術に触れられる環境は大切だと思う。大成したミュージシャンやアーティストの子供は、同じように一芸に秀でる人物になることが多いように見受けられる。
いつまでも古い技術で満足し続けている現在のMMDコミュニティは、古い技術で満足し続けるフォロワーを生みかねないのでは。
趣味でやっていることなのだからとやかく言うなとなれば、それはそうだと言い返すしかない。
けれども、それで済ますにはMMDというコミュニティはあまりにも大きすぎるし、それにしては進歩がなさすぎる。
あと、いつまでも同じステージでとどまっていることに、趣味を言い訳にするのは、どこか諦観的で情けないように思う。
ツールの習熟度は上がるだろう。しかし、そのツールに限界が来ている。明らかに時代に即していない、となれば話は別ではないか。
例えるなら、
みたいなものか。
今理解した、だからこそ、彼らはモデラーでもアニメーターでもレイアウトアーティストでもなく、MMDerと名乗るのか。
あえてそうやっているのだな。なるほどな。つまり、もう先に進むことを諦めた人たちしかいないのだな。
諦めた人たち同士で好きにやっているから、放っておいてくれということなんだな。
みじめだ。
自分が25歳までは「美」側にいたから美醜を気にする必要が無かっただけで、26を越えて「醜」側に足を踏み入れてから気にし始めて、30越えたあたりからリアルに「醜」側の人生を感じて辛くなってるだけだろ
そうなんだろうか。そういうことなんだろうか?
25まで「美」側にいたのか?
自他共に認める全盛期は26だった。26で初めて「自分にも美というやつがあるのかもしれない」と思えたし、初めて人から綺麗だと言われたのでそういうことにしている。体重も今よりだいぶ軽かった。
それより前に美側にいたとはちょっと思えない。
最後に彼氏()いたの小6だった。イチャイチャどころか手もろくにつないでない、おしゃべりするだけのパピーズラブ。初めての「好きな人」。中学上がって自然消滅した。以降は恋人とかずっといない。恋人が欲しいという感覚が非常に薄い。そもそも恋人って何?定義してからじゃないとよくわかんない。発達あるあるじゃないでしょうかこういうの。
しかし30超えて醜側に行ったというのは否定できない。太ったからな…全盛期比で8キロくらい…腹の肉がたるんでてみっともないのはイヤでもわかる…
ただそもそもの話として、「美側」「醜側」がピンとこない。
「醜側」に行くというのはどうやってそれとわかるものなのか?
太ると衣服とかで冒険できなくなるので自意識が醜側に傾くというのは話としてはわかるが、今どき太ったら太ったなりに服を似合わせる手段はあるし、自分に限れば太ってなかった時期も服で冒険は別にしてなかった。「ああ…これが…美か…」みたいになるトリガーとしては弱い。
だいたい「自分が醜くなると美に対しての感性が鋭くなる」というのは理屈としてなんか意味不明じゃない?
お手数ですがもうちょっと詳しくしてほしい。「美側」「醜側」って何?
ついでに言うとそれがさらっと「強側」「弱側」にすり替わってるのもよくわからない。
美しいと強いは常にイコールじゃないし、醜いと弱いも常にイコールではない。強さが醜いことも弱さが美しいことも普通にあるやつでは?美しい側は常に強いとか、醜い側は常に弱いとかもちょっと怪しい。「同じスペックならかわいい方よ」のコピペが示唆する通り、「他の条件が同じである上のプラスアルファ」の域を出ないんじゃない?
「弱い側としてやっていく」もちょっと意味がわからない。弱い側って何?
普通に考えれば、発達障害絡み以外では(まだ)大病もしてなくて五体満足で、不満がないとは言わんが職があって、貯金もゼロではなく奨学金含む借金もない、という時点で、私はあんまり弱者ではない。ので税金免除されたりしてない。いや、自立支援取ってるから発達関連に関しては病院代は安くなってるか。あと女性なので「女性であるが故」系は全部被っているし今後もある程度までは被らざるを得まい。
そしてそれは26のころと今とで変わってない。
であるのになにゆえに、美に対して鋭敏になった今、醜側で弱側として「諦観」せねばならないのか。何もわからない。
実家が太い旨を書いたのは「みんなビンボーが悪いんや」的な帰結になるのはアレだったからです。そりゃみんなビンボーが悪いとは思うが、私個人は幸いにも貧乏ではなかった。だから原因は貧乏ではない他の点にあるはずだということ。そも親ガチャSSRはマウントにはならんしょ…親からすれば子ガチャ大失敗ってことなので恥の開陳に近い心境…
とにかく欲しかった。誰かが好きになるというかは誰かを彼女にしたかった。
ただ積極的ではないので、空から美少女が降ってくれればいいみたいな夢想をしていた。
あと、積極的にモテるようなファッションをするというのは負けとおもっていたのでそんなモテたい素振りをしないようにしていた。今思えばどうしてそれをしなかったんだと思うが…
高校生の頃、彼女ができる夢を見た。特定の誰かではなく、架空の人物、その時僕はついに「ついに僕にもできたぁぁ!!」という気持ちで、今でもその高揚感を覚えている。そして目が覚めた時にそれが夢だと分かったときの落胆ぶりも覚えている。
好きな人と付き合いたいではなく、誰かと付き合いたいだった。
90年代は、何かと恋愛文化が重要視されていて、ドラマは恋愛ものがほとんどだったし、やらずに二十歳を超えることを「ヤラハタ」と言われて童貞は恥ずべきものというのが男どもの共通認識であった。
彼女ができるというのは、その社会での一つ上のステップにいけるという気持ちだったのかもしれない。
いわゆるトロフィーってやつ。
19のときに初彼女ができた。しかし1か月で別れた。それでもなお僕は「彼女がいたことがある人間だぜ。20歳前にできたんだぜ」という気持ちになった。
完全にトロフィーだよね。何を勉強するかではなく偏差値で大学を決めている人間と同じだったわけだ。
初彼女と別れた後も、付き合っている状態じゃないとダメだという気持ちになった、フラフラし始めてしまったが、
その後いろいろあって大人になって、大学時代にできた彼女と(前述の人の次に付き合った人)そのまま卒業と同時に結婚した。
ステータスや世間体じゃなく人として見るということを教えてもらったんだね。なお妻は大学生ではなく、自分の周りとは違った価値観を教えてくれた。年もだいぶ違ったし。
19歳の頃初彼女ができなかったり、今の妻に出会えなかったりして、あの頃のトロフィーを求める気持ちをもったまま今の年齢になっていたらどんな人間になっていたんだろうと思うことがある。
ある時から諦観していたと思う。僕を選ばない側が悪いと思っただろう。それには根拠があって、こじれていた16くらいの頃はでも、チャラい男を選ぶ女が目がないという気持ちになっていたからね。
勉強ができる僕のような人がいいだろうとも思っていた。
その気持ちはおそらくずっと増幅されることになっただろう。
あと、当時のスクールカースト上位の男子たちを疎ましくも思いつつも、どこかあこがれているところがあった。
僕は本当はおしゃれしたいけれど、気恥ずかしさがあってできない。それをやすやすと越えている連中はすごいという気持ちもあったが、鬱屈しているメンタリティは素直になれない。
強そうだからモテるとか、イケメンだからもてるとか、はやりのファッションをきているからだとか、体育会系だからとか、表面的な分析にしかならないわけだ。
だから、連中のことを嫌だと思いつつ、自分にないものを持っていて社会に認められているとも思っている。つまり強さとか男らしさというモノの価値を逆説的に認めちゃっている状態だった。
このまま僕があのまま年を取っていたら、男らしさというモノへの羨望と恨みで鬱屈した感情を持つかもしれない。
「僕は男らしさを持てなかった。男らしさは低俗なものだ。粗暴だ。だからあえて持たなかったともいえる。でもそれでは女からは見向きもされない。女どもは男らしさを無くせというが、その結果が俺みたいなもんなんだぞ」と思っていそうだ。