はてなキーワード: 牧歌的とは
読み進めるとどうも見覚えのある顔が貼られている。
しかし誰でも利用できる簡便性の一方で
あっという間に食い物にされてしまうのだ。
くらいの位置付けだったので
香ばしさを丸出しにする人間がいなかったため
となかなかの衝撃を受けた。
私本人は彼女とそこまで親しくはなかったが
ただパンチの効いた人だった事はよく覚えている。
と一瞬気の毒な気分にもなったが、
という友人らの数はもはや片手では足りないため
起こるべくして起きた事だな……
と最終的には納得してしまった。
それくらい強烈な人物だったのだ。
友人からの伝聞ではあるが
思い出せる中で一番印象的だったエピソードは
「ね、いま後ろの男子達……ウチらの事を噂してたよ」
フゥヤレヤレクスクスと気怠げに小声で呟いてきた
という話。
その『噂』というのは要するに容姿や体型やそういう……
お年頃の男子のするフヮ〜オな話だったそうだが
もしその『後ろの男子達』の耳に入ったならば
おそらく同じ感想を抱いた事だろう。
しかも後ろといっても彼らが話していたのは
そんな下卑た話を大声でするだろうか?
とは誰も言えなかったので華麗にスルーしたそうだ。
彼女はどうやら異性の一挙手一投足に
という熱を見つける特殊能力があったようだ。
グループ内に
と自負しているらしき発言をしていた(要約)
と思ったものだ。
ついぞ耳にする事がなかったし、
まあ……お察しいただければと思う。
ゆえに傍から見ればその
といった所であろうが
そんな事はお構いなしに彼女は自信に満ち溢れていた。
グループ内の友人らにすらやや一線を引かれ
「私って高嶺の花」くらいに思っていたのだろう。
結果は言わずもがな。
と言わんばかりの大量のキメ顔の自撮り。
こんな風に常に自信満々で大胆不敵な彼女だが
詳細は伏せるが、私は確実にまともではないと感じたし
話を聞いた当時(卒業後)はそれなりに胸も痛んだ。
全く悲嘆してはいないようだったので
今はもう立派な大人なわけで。
だが思うところがないわけではない。
私は
事は起こり得るんじゃないかと考えている。
そこだけもう毛が生えてこなかったり
逆に普通より濃い毛が生えてきたりするのと同じように。
本人曰く
らしいが
無理矢理言い聞かせているようにも見えるのだ。
やら
やら
それはもう枚挙にいとまがない。
反対の手で膝を打って唸ってしまった。
容姿が万人受けでなくとも魅力的な人がいる事や
ただ、彼女はそれだけでは終わらなかった。
がセットとしてご一緒についてくる。
そりゃ反発も起こるだろう事が容易に推察された。
お前さぁ……嫉妬とかじゃなくてそういうとこやぞ。
こんな事は教えられずとも自分で気付くべきだ。
履き違えてしまっている事だけはなんとなくわかる。
何もかもに目を瞑って、自分で作り出した
夢の世界の中に閉じ籠っているだけに見えるのだ。
今のままじゃ何度ネット上で転生しようとも
私は心優しい人間とは程遠い
少しも心を痛めていない。
あそこにたむろしているのは自分含め
革靴で丸一日歩き回った後の汗まみれの靴下や
臭くて不愉快だと分かっているのに嗅ぎたくなる、
そして「クッセェェェwww」と仲間内で騒ぐのに似た、
臭ければ臭い程、喜ばれて遊ばれる。
それが嫌なのであれば、言論統制よりもまず
これはあくまでも
『ヲチられるのが嫌なのであれば』
そんな事を思っている人がいるとしたら少数派だろう。
多くは娯楽として消費しているだけだ。
中には言葉が過ぎる者もいたりするが
心が真に求めているモノは何なのかを知り
それを手に入れて心身に安寧が訪れればいいね
とも思う。
何様目線かと思われるかもしれないが、
嫉妬で片付けられては堪らないだろうと思うし、
そんな人と毎日顔を合わせ続けなければいけないなんて
発想や嗜好がなかったため
弗の原石に気付かなかった事を
一瞬もったいなく感じてしまったが、
余程タフでもない限り精神衛生に支障をきたしそうだ
という事に気付き早々に認識を改めた。
燃料を撒きに行く術もない。
超えちゃいけないラインを助走つけてどころか
また、スレッドの内容等々を
彼女の元友人らと共有する気もない。
こんなん内容が内容だけにリアル友人にも言えないし
別に悲しいとかは一切ない。
衝撃と面白さとほんの少しの哀れみと
アレとコレとソレが混ざって混乱してはいる。
https://archive.ph/2022.07.19-044423/https://anond.hatelabo.jp/20220719103756
想像の五倍長くて草
読めんわw
読み進めるとどうも見覚えのある顔が貼られている。
しかし誰でも利用できる簡便性の一方で
あっという間に食い物にされてしまうのだ。
くらいの位置付けだったので
香ばしさを丸出しにする人間がいなかったため
となかなかの衝撃を受けた。
私本人は彼女とそこまで親しくはなかったが
ただパンチの効いた人だった事はよく覚えている。
と一瞬気の毒な気分にもなったが、
という友人らの数はもはや片手では足りないため
起こるべくして起きた事だな……
と最終的には納得してしまった。
それくらい強烈な人物だったのだ。
友人からの伝聞ではあるが
思い出せる中で一番印象的だったエピソードは
「ね、いま後ろの男子達……ウチらの事を噂してたよ」
フゥヤレヤレクスクスと気怠げに小声で呟いてきた
という話。
その『噂』というのは要するに容姿や体型やそういう……
お年頃の男子のするフヮ〜オな話だったそうだが
もしその『後ろの男子達』の耳に入ったならば
おそらく同じ感想を抱いた事だろう。
しかも後ろといっても彼らが話していたのは
そんな下卑た話を大声でするだろうか?
とは誰も言えなかったので華麗にスルーしたそうだ。
彼女はどうやら異性の一挙手一投足に
という熱を見つける特殊能力があったようだ。
グループ内に
と自負しているらしき発言をしていた(要約)
と思ったものだ。
ついぞ耳にする事がなかったし、
まあ……お察しいただければと思う。
ゆえに傍から見ればその
といった所であろうが
そんな事はお構いなしに彼女は自信に満ち溢れていた。
グループ内の友人らにすらやや一線を引かれ
「私って高嶺の花」くらいに思っていたのだろう。
結果は言わずもがな。
と言わんばかりの大量のキメ顔の自撮り。
こんな風に常に自信満々で大胆不敵な彼女だが
詳細は伏せるが、私は確実にまともではないと感じたし
話を聞いた当時(卒業後)はそれなりに胸も痛んだ。
全く悲嘆してはいないようだったので
今はもう立派な大人なわけで。
だが思うところがないわけではない。
私は
事は起こり得るんじゃないかと考えている。
そこだけもう毛が生えてこなかったり
逆に普通より濃い毛が生えてきたりするのと同じように。
本人曰く
らしいが
無理矢理言い聞かせているようにも見えるのだ。
やら
やら
それはもう枚挙にいとまがない。
反対の手で膝を打って唸ってしまった。
容姿が万人受けでなくとも魅力的な人がいる事や
ただ、彼女はそれだけでは終わらなかった。
がセットとしてご一緒についてくる。
そりゃ反発も起こるだろう事が容易に推察された。
お前さぁ……嫉妬とかじゃなくてそういうとこやぞ。
こんな事は教えられずとも自分で気付くべきだ。
履き違えてしまっている事だけはなんとなくわかる。
何もかもに目を瞑って、自分で作り出した
夢の世界の中に閉じ籠っているだけに見えるのだ。
今のままじゃ何度ネット上で転生しようとも
私は心優しい人間とは程遠い
少しも心を痛めていない。
あそこにたむろしているのは自分含め
革靴で丸一日歩き回った後の汗まみれの靴下や
臭くて不愉快だと分かっているのに嗅ぎたくなる、
そして「クッセェェェwww」と仲間内で騒ぐのに似た、
臭ければ臭い程、喜ばれて遊ばれる。
それが嫌なのであれば、言論統制よりもまず
これはあくまでも
『ヲチられるのが嫌なのであれば』
そんな事を思っている人がいるとしたら少数派だろう。
多くは娯楽として消費しているだけだ。
中には言葉が過ぎる者もいたりするが
心が真に求めているモノは何なのかを知り
それを手に入れて心身に安寧が訪れればいいね
とも思う。
何様目線かと思われるかもしれないが、
嫉妬で片付けられては堪らないだろうと思うし、
そんな人と毎日顔を合わせ続けなければいけないなんて
発想や嗜好がなかったため
弗の原石に気付かなかった事を
一瞬もったいなく感じてしまったが、
余程タフでもない限り精神衛生に支障をきたしそうだ
という事に気付き早々に認識を改めた。
燃料を撒きに行く術もない。
超えちゃいけないラインを助走つけてどころか
また、スレッドの内容等々を
彼女の元友人らと共有する気もない。
こんなん内容が内容だけにリアル友人にも言えないし
別に悲しいとかは一切ない。
衝撃と面白さとほんの少しの哀れみと
アレとコレとソレが混ざって混乱してはいる。
https://archive.ph/2022.07.19-044423/https://anond.hatelabo.jp/20220719103756
名著「UNIXという考え方 - UNIX哲学」は本当に名著なのか? 〜 著者のガンカーズは何者なのかとことん調べてみた - Qiita
この記事はよく調べてあるなぁと思う反面,事実関係の間違いも多く当時の空気感など欠けていると思う部分がいくつかある。事実関係に関しては追い切れないので参考文献を挙げるにとどめておくが,空気感のほうはいくつか書いておく。なお当該記事の「当時と今では状況が全然違うんだから,安易に『UNIX 哲学』とかいうな」という主旨には大賛成である。
初期の UNIX の歴史について興味がある向きには次の書籍をお薦めする。
Peter H. Salus『A Quarter Century of UNIX』(1994, Addison-Wesley Publishing)
和訳の『UNIXの1/4世紀』(Peter H. Salus, QUIPU LLC 訳, 2000, アスキー) は絶版のうえ訳も微妙なので薦めづらいが,原書は The Unix Heritage Society (tuhs) で PDF が無償公開されているので,英語が苦にならないのなら読んでみるといい。
また同じく tuhs で無償公開されている Don Libes and Sandy Ressler『Life with UNIX』(1989, Prentice Hall)を読めば80年代終りの UNIX の状況(XENIX についてもしっかり言及されている)や利用者目線での雰囲気もある程度判るだろう。
元記事で一番気になるのが「哲学」という語の捉え方。この言葉の強さに引きずられているように読める。でもこれ,当時は設計の基本的な考え方くらいの意味でわりとよく使われていた言葉なんだよね。たとえば米 BYTE 誌のアーカイブを “philosophy” で全文検索するとこんな感じ。
https://archive.org/details/byte-magazine?query=philosophy&sin=TXT&sort=date
ほぼ毎号のように出現していたのが判るだろう。
もっとも猫も杓子も「哲学」を振りかざしていたわけではないし,UNIX の開発者たちが「哲学」の語を好んで使っていたのも間違いないように思う。傍証の一つが AT&T の定期刊行物『The Bell System Technical Journal』の1978年7, 8月号だ。元記事で言及されているマキルロイの Forword の初出がこれで,ネットのアーカイブから PDF が入手できる。
この号は二部構成になっていて第一部が Atlanta Fiber System に関する論文12本(全172ページ),第二部が UNIX に関する(Preface や Foreword を含む)論文22本(全416ページ)となっている。さて前述の PDF は OCR されているので “philosophy” で全文検索してみると8箇所見つかる。これが見事に全部 UNIX の論文なのだ。もちろん論文の性質もページ数も違うからこれだけで確定的なことはいえないが「日常的に使っていたんだろうなぁ」という推測は成り立つだろう。じつはマキルロイの哲学とされている部分は “Style” であり “philosophy” の語は一切使われていないというのもちょっと面白い。UNIX の開発者たちがなぜ「哲学」という語を好んだか正確なところは判らないが,それまでにない新しい考え方に基づいた OS を開発しているという意識があれば,そういう言葉を選ぶのが自然な時代だったことは間違いない。
UNIX が認知され拡がっていく過程で「哲学」も知られるようになっていった。自分が好むものの良さを他人にも識ってもらいたい,あわよくば他人もそれを好むようになって欲しいという布教活動は今も昔を変らないわけで「哲学」はその便利なツールとなったわけだ。元記事ではガンカースの著作を「外部の人間が後から打ち立てた哲学」と表現しているが,そんなたいしたものではない。マキルロイの論文に影響を受けた布教のためのああいう説教は到るところにあった。たとえば前掲の『Life with UNIX』にもしっかり Philosophy の項がある。また日本で最初期の UNIX 解説本のひとつである,村井純・井上尚司・砂原秀樹『プロフェッショナル UNIX』(1986,アスキー)には冒頭次のような一節がある。
オペレーティング・システムは,コンピュータを使うものにとっての環境を形成する基盤であるから,そのうえで生活する者の個性を尊重し,より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェアでなければならない。この主張こそが,UNIX のオペレーティング・システムとしての個性ではないだろうか。
「より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェア」とはテキストを入出力フォーマットとする単機能のコマンド群のことで,これらをパイプでつなげたりシェルスクリプトでまとめたりすることで「そのうえで生活する者の個性を尊重し」た「より良い環境へと作り上げて行く」ということだ。こういった説教はありふれたものであった。たんにそれを「哲学」の語を用いて書籍にまとめたのが,たまたまガンカースだったというだけのことである。
そしてじつは UNIX の場合,布教活動とはべつに「哲学」を広めなければならない切実な理由があった。これを説明するのは非常に面倒くさい。当時と今ではあまりにも環境が違うのだが,その違いが判らないと切実さが伝わらないからだ。マア頑張ってみよう。
UNIX は PDP というミニコンピュータ(ミニコン)上に開発された。このミニコンを使うためには専用の部屋に行く必要がある。その部屋は,もちろん場所によって違うわけだが,マアおおよそ学校の教室くらいの大きさだ。長机が何列か並んでおり,そのうえにはブラウン管ディスプレイとキーボードを備えた機器が等間隔に置かれている。壁際にはプリンタが何台かあるだろう。通っていた学校にコンピュータ室などと呼ばれる部屋があったならそれを思い浮かべればだいたい合ってる。ただし置かれている機器はコンピュータではなくコンピュータに接続するための端末装置(ターミナル)だ。端末装置のキーボードで打った文字がコンピュータに送られコンピュータが表示した文字がそのディスプレイに表示される。現在 Unix 系 OS で CLI を使うときターミナルとか xterm という名のアプリケーションを用いるがこれらは端末装置のエミュレータで,もともとは実体のある装置だったわけだ。
さてコンピュータ室にたいていは隣接するかたちでマシンルームなどと呼ばれる六畳くらいの部屋がある。窓ガラスで仕切られたこの部屋には箪笥や洗濯機くらいの大きさの装置が何台か置かれている。これがコンピュータ本体だ。もっともコンピュータが何台もあるわけではない。この箪笥が CPU でそっちの洗濯機がハードディスク,あの机に置かれているタイプライタが管理用コンソールといった具合に何台かある装置全部で一台のコンピュータになる。どこが〝ミニ〟だと突っ込みたくなるかもしれないが「六畳で収まるなんて,なんてミニ!」という時代のお話だ。
端末装置それぞれから(USB のご先祖様の)RS-232 という規格のアオダイショウみたいなケーブルが伸び,マシンルームに置かれたターミナルマルチプレクサと呼ばれるスーツケースに台数分のアオダイショウが刺さってコンピュータとの通信を行う。コンピュータと多数の端末装置を含めたこれら全体をサイトと呼び,root 権限を持って管理業務を行う人をシステム管理者あるいはスーパーユーザと呼んだ。
結構上手に説明できたと思うのだが雰囲気は伝わっただろうか。ここで重要なのは一台のコンピュータを数十人が一斉に使っていたという事実だ。洗濯機とかアオダイショウとかは,マアどうでもいい。
当時の UNIX の評価を一言で表すと〝自由で不安定な OS〟となる。メーカお仕着せではなく自分好みの「より良い環境」を作りあげる自由。さらに他のメインフレームやミニコン用 OS に比べると一般ユーザ権限でできることが圧倒的に多かった。そしてその代償が不安定さ。今では考えられないが UNIX のその不安定さゆえにプロ用 OS ではないと考える向きは多かったし「でも UNIX ってすぐ落ちるじゃん」というのは UNIX アンチ定番のディスりだった。UNIX の落とし方,みたいな情報がなんとなく廻ってきたものだ。
こういった雰囲気を鮮やかに伝えてくれるのが,高野豊『root から / へのメッセージ』(1991,アスキー)だ。当時アスキーが発行していた雑誌『UNIX MAGAZINE』に連載されていた氏のエッセイの1986年11月号から1988年10月号掲載分までをまとめた書籍である。著者の高野氏は勤務先の松下電器で1980年ごろから UNIX サイトのスーパーユーザを務めており,日本では最古参の一人である。この本の中で高野氏は繰返し UNIX の自由さと不安定さに言及している。すこし長くなるが,その中の一つを引用しよう。
CPU は,システムにとって重要な共有資源であるが,この CPU を実質的に停めてしまうことが UNIX ではいとも簡単にできる。たとえば,cc コマンドを10個くらい同時に走らせてみたらよい。VAX-11/780 といえども,同時に実行できるコンパイルはせいぜい3つか4つである。それ以上実行することも当然可能ではあるが,他に与える影響が無視できなくなる。つまり,てきめんに vi のカーソルが動かなくなる。あるいは,すこし大きめなディレクトリ上での ls コマンドの出力が表示されるまでに煙草を1本吸い終えてしまったり,タイムアウトでログインが撥ねつけられたりといったバカげた現象が起きだすのである。こういった状態になると,UNIX は破壊されたに等しい。真夜中,独りで VAX を占有して使っているのなら何をやろうとかまわない。しかし,20人30人と多数の人間が使っているときに勝手をやられると非常に困るのである。当人の仕事が遅れるのは自業自得だとしても,そのとばっちりで他のエディタまで止まってしまうと,もはやどの仕事も進行しなくなる。
ディスクについても同様なことがいえる。UNIX では,ファイルシステムを使いはたすまで大きなファイルを自由に作ることができる。したがって,自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュアが使うと悲惨なことになる。ディスクを使いはたすと,コンソール・タイプライターにエラー・メッセージが出力されるが,夜中にそれが発生して,コンソール・タイプライターが一晩中エラー・メッセージを打ち続け,朝マシンルームに行ってみると紙を一箱打ち尽くしてしまい,ピーピーと悲しげな声を上げて人を呼んでいた光景を私は何度も見てきた。こうなると,それをしでかした本人のプロセスは当然のこととしても,同じディスクで走っている他のプロセスも先に進めなくなってしまう。すこしでも負荷を夜間にまわそうとする善意は逆転してしまい,わずかでも仕事を先に進めようとする意図も完璧に打ち砕かれてしまうのである。
そして,こうした不安定さが「哲学」を必要としたのだ。自分が利用しているサイトに「cc コマンドを10個くらい同時に走らせ」たり「自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュア」がいるとその累は自分にも及んでしまう。だからサイトの利用者全員に UNIX の設計の基本的な考え方を理解してもらうことが,自分のために必要だった。UNIX の伝道がより苛烈だった理由のひとつがここにあるのだ。
ミニコン上で誕生した UNIX は 4.3BSD(1986)で最高潮を迎える。注意したいのはミニコン時代の UNIX は Research UNIX と CSRG BSD みたいな区別をせずにまとめて UNIX として扱われていたことだ。実際『プロフェッショナル UNIX』も『root から〜』も UNIX と記述されてはいるが実際には BSD を扱っている。べつに当時の人が無知だったわけではない。なにしろ BSD を利用するためにはまず AT&T から UNIX のライセンスを購入し,そのうえでカリフォルニア大学バークレー校(UCB)から BSD を入手しなければならなかったからその関係は当然広く知られていた。ベル研で発明された UNIX を外部の人たちも含めみんなで改良し,それら全体が UNIX であるという考え方が自然だっただけである。『Life with UNIX』のような英語の文献によく登場する “Berkeley UNIX” という言い回しが当時の気分をよく表している。UNIX vs BSD みたいな捉え方は法廷闘争を経た90年代以降の感覚だ。
もっともそういう70年代風味の牧歌的風景はミニコン世界限定の話であった。BSD そのものはミニコン用のものしかなかったが,そのコードを受け継いだ BSD 系 Unix や AT&T が推し進める System V などがワークステーション市場を舞台に80年代中盤から激しく覇権を争うようになる。いわゆる Unix 戦争で,PC 用 Unix であるマイクロソフトの XENIX も当然参戦した。ミニコン世界が牧歌的だったのは,ぶっちゃけていえば先のない技術だったからだ。ただ Unix 戦争はあくまでも標準という聖杯を争う戦いであり,AT&T と BSD 系 Unix の Sun Microsystems が共同で System V Release 4.0 (SVR4) を作りあげたように後の法廷闘争とは趣が違う。
こうしたミニコン UNIX からワークステーション Unix への転変は Unix そのものや文化にも変化をもたらした。まず激しい競争は Unix の高機能化を加速した。商品として判りやすい惹句が「あれもできます,これもできます」なのは誰もが知っている。もちろん安定性を増すために quota のような利用者の自由を制限する機能も含まれていた。またワークステーション Unix は現在の Unix 系 OS と同様同時に一人が使うものであり前述の布教の必要性は大幅に減じた。達人たちのみの楽園から万人に開かれた道具に変ったのだ。こういった変化を体感したければ『root から〜』と水越賢治『スーパーユーザの日々』(1993,オーム社)を読み比べてみるといい。『スーパーユーザの日々』はワークステーション Unix のシステム管理の入門書だ。この本ではたんに知識を羅列するかわりに架空のソフトウェアハウス(開発会社)を舞台に新卒社員が先輩社員からシステム管理を学ぶという体裁をとっており,そのおかげで架空の話とはいえ90年代前半の雰囲気が堪能できる。出版年でいえば『root から〜』と二年しか違わない『スーパーユーザの日々』の落差は “dog year” と称された当時の激烈な変化まで体感できるだろう。
当時はよくいわれたのに今やほとんど聞かれなくなったものがある。マキルロイの論文の結論部分に書かれたそれは,1973年に出版されたイギリスの経済学者エルンスト・シューマッハーの著作の題名で,中学生の英語力があれば十分に理解できる平明な一文だ。
Small is beautiful.
マキルロイは『人月の神話』を引いて一定の留保をつけてはいるものの,これが UNIX 哲学の背骨であることに違いはない。機能をありったけ詰め込もうとして失敗した “kitchen-in-a-sink” な MULTI•cs のアンチテーゼである UNI•x にとって,これ以上のスローガンがあるだろうか?
ひるがえって現在の Unix 系 OS をみれば,ブクブクと肥え太ったシステムコール,全容を俯瞰するだけでも一苦労するライブラリインターフェイス,一生使うことのないオプションスイッチまみれのコマンド群。UNIX が仮想敵とした OS そのものだ。そのことについてとくになにも思わない。ハードウェアは長足の進歩を遂げ,コンピュータの応用範囲は途方もなく拡がった。UNIX が変らなければたんに打ち棄てられ,歴史書を飾る一項目になっただけだ。ただ現在「UNIX 哲学」を語るならそうした背景は理解していなければならないし,どれだけ繊細な注意を払ったところで〝つまみ食い〟になってしまうことは自覚すべきだ。
現実問題として、宗教というコミュニティも維持にはカネがかかるというのがまず事実で、
普通?のキリスト教の教会だったら、回ってきた袋に誰がいくら寄付したかは分からない
自分はカネがないので100円ぐらい入れて、昼飯はちゃっかりごちそうになったりしたこともあるw
ただ、カルトは現世利益が重視されることが多いので、寄付に比例した分だけ現世利益があるよ、みたいな教義があるのかもしれない
オウムとかもそうだったし…
普通?のキリスト教の教会だったら、まず本部から運営資金がちょっとは来るはず
普通?の教会なら現世利益は重視されないので、寄付をすればするほど良いわけではない
あと、教会の牧師、神父は兼業で平日は働いてる方が普通というか、金欠な方が普通なはず
宗教だけで回ってる、羽振りが良すぎる、というのはちょっと変だと思ったほうがいいかも
もちろん貧乏ほどマトモというわけでもないけど
難し🌾
法律の話するときは条文だけじゃなくてその条文をWikiれば構成要件やら判例出てくるからさ、せめてその程度は読んでからにしようよ
人をぶん殴るのは悪いことだ、だって刑法でダメだと定められてる。
確かに
刑法第二百四条 人の身体を傷害した者は、十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する
これしか書かれてない
堂々とテレビ中継されてる。
204条にひっかかるはずだよね?
だけど容認されてる。
あれ?
リングの上ならいいのか、レフリーがいればスポーツだからいいのか
緻密に言えば
「業務」という単語は一般用語と法律用語で概念が異なる点は注意しておくが
とにかく法律条文がすべてではない
省令、政令、通達、条例、判例、施行規則、etcで詳細が規定されてる
ところが条文厨が、法律でわぁ、条文でわぁ、をやる
本人はそのナンセンスに気がついてない。
法律を守る、条文通り、文字通りに解釈するのが正しい、正義、ドヤドヤ
彼らにとって悪いことではないからだ。直接的短期的には、まぁその話はいい
彼は改正条文には例外漏れなく規定されなきゃ欠陥法になる式議論をやってた
傷害罪の但し書きに現存するスポーツすべてを列挙し、プロと素人
試合の怪我をどこまで容認するか明文規定を定めよというてるような違和感。
法律条文なんてざっくりでいいんだよ。
骨格はこれでいい、法律条文はこれだけでいい。
実務運用は常識でやればいいんだけど、確かに特に新しい法律はそれが許されなくなってきてる。
世の中をがんじがらめにしたいのか。
権力が暴走して別件逮捕に使う、ネットの健全な発展を阻害する、トライアンドエラーが
許されない、権力乱用、本来はこれらを国民監視で抑制できりゃいい。
検察は新しい法律ができれば判例基準に寄与するような案件やりたいからギリ狙いで訴追するわけだが、それを抑制する仕組みがあればいい。
ところが「それ起訴するほどじゃないよね」的な国民監視による起訴覆しは無い。
ノーアクションレターも日本は外圧で導入したものの骨抜き形骸化させた。
新しい商売やりたい、でも既存の法律の解釈次第ではひっかかってしまう。
日本はそういうのができない。
あれもカリフォルニアではグレーゾーンだった、ノーアクションレター取って始めた。
そうやって社会をすこしずつ変えていく。
そういうサイクルを回してる。
ルールは、まずは守ってから変えようと声をだして、賛同が得られたら改正されて
破りながら変えていくでええんやで
おおらかな昔の日本はまだマシだった。
米穀通帳
誰一人持ち歩いてない。
日本人全員が違法状態なのに長らく議論にすらならず1979年に大臣で使っていたのは
法務大臣一人だけ、他大臣全員アウト、所管の農林水産大臣すら使ってない。
ありゃりゃ、じゃぁ法律変えようかとようやく議論になり法改正された牧歌的時代
でもそんなんでええやん
まだ悩んでるんだけど、ここで言及した可能性について考察したい。
男性の性衝動には多寡がある。居ても立っても居られない男がいれば、常に平静さを保てる人もいる。加害を未然に防ぐのを考えているのだから、欲望の強い個体をどうするかに焦点をしぼる必要がある。
彼の性欲を抑える方法として、AV などのセックスファンタジーの摂取が役割を果たしているのは否めないと思う。夢精で済ますのが理想的と見る立場からは、ファンタジーは性欲を煽って高めているように見える。でも一方で、吐精を促して賢者化するハンディな手段という側面は確かにある。
私が提示した ❶ 夢精で済ます ❷ 理性を高める、このふたつは効率の側面で女性威迫型の虚構を超えるだろうか。厄介さは夢精体験がいつ起こるのか予測不能な点にある。あまり知られていないが、成熟した男性器は夢精しないらしい。生産された精子を体内に吸収してリサイクルする能力が完成しているからだ。不幸にして未成年の多感な時期に、夢精のトラブルは起こりやすい。
目覚めたときに夢精しているのに気づいて対処に追われた男子も多いと聞く。なんとか親にバレないように隠蔽しなければいけない。登校前に。
女子の初潮は、赤飯を炊いて祝う文化があったのを思い出して欲しい。夢精の処理をクリーンに行うために未然にする準備は、女子のナプキンやタンポンほどには整備されていない。いやさ全く開発されてないと言っても過言ではないと思う。男性器は収縮があるのでラップを巻いても就寝中に外れてしまう。粘度の少ない状態の液は、隙間から流出しやすい。進歩した技術で現実的に安価な解決策を作れるだろうか? 検討される間も無く、積極的な吐精か消極的な夢精かの選択は、まるで自明のように積極性へと舵を切っていた。事実上、少年たちは選択権を持ってないと言える。
理性を高める方法は、輪ゴムを使った方法が知られている。アルコール依存症の方々などが使うやり方で、お酒を飲みたい欲望が高まってきたときに、腕に巻いた輪ゴムを弾いて、我に帰るのである。極めて即時性が高いので、おそらく性加害を防ぐためにも有効だと思う。だが困難もある。アルコール依存は対処としてトリガーとなる刺激、お酒の広告などを避ける。コンビニやスーパーで酒類のある場所に近づかないようにする。日々注意して生きるのは社会生活を送る上で間違いなく辛い習慣だが、性欲での回避行動は輪をかけて厳しいはずだ。あらゆる場所に女性はいるのだから。
「スク水揚げ」を目撃しただろうか。要するにただの魚の水揚げの報告に集まったブックマークコメントは、しかし主旨とは全く異なるものだった。少女を性的に消費する祭りが大々的に興る一方で、それを注意する活動はおろそかにされてる。増田でだってベロベロ舐める女性への威迫が、そこかしこに付けられてるのに、ほぼほぼ咎められてないよね。回避行動の困難さの他方、
理性を高める何かは、個人的努力の範囲では手軽さはなく、むしろ厭世家の修行のような格好になってしまうだろう。言語でのコミュニケーションを媒介にして厚く行われる必要がある。いま私の中に浮かんでいるイメージは、往年の非モテ論壇のありようだ。非モテの男性同士がブログを通じてトラックバックを投げ合っている様子は、現在の中島のイデアとは似ているようで大きく異なる。
中島が友だちの弱者男性、磯野を誘って東京ドームでキャッチボールするイメージは、弱者男性の共助のロールモデルとして深く増田たちの心に刻まれた。牧歌的な光景は、まるでもともと孤独の救いの原風景であったかのようだ。しかし混じりなき善意にも関わらず、中島の救いは、磯野を言葉で説得することでは為されてないことに注意してほしい。
非モテ論壇の議論に結論は無かったかもしれない。しかし、彼らの価値観に作用したのは疑う余地がない。男性性の「善きあり方」を模索していく方向性は、未達のままに放棄された希望だと思う。その先に道を探すべきだ。内心の自由の内側にこもるのでなく。
「匿名アカウントでつぶやいてるから見ず知らずの人に特定されるわけないじゃんwww」って言う人は結構多いけど
そのID使ってる人がどの当たりに住んでるどんな人かは割と割り出せるからな
普段のつぶやき頻度や時間、天災や事故事件への反応、店や食事の写真、好き嫌いや主義主張、職種や友人関係その他
1つのワードだけなら該当する人は大量にいるけど、複数のワードに関連付く人なんて実はそうそういないから意外と見つかる
特に極端な主義主張してる人はたいていSNSやってるから割とすぐ見つかる
そういう意味では便所の落書きな匿名時代のがよっぽど気楽で牧歌的で「安全」だった
コテハンはしらん
(WEBエンジニアリング)未経験から(院卒新卒カードを使って)Webエンジニアになって(5年で)年収1000万円(の会社員と同等の手取りを本業副業合わせて)稼げるようになった話
工学部(情報系でない)の修士課程で、画像処理や機械学習を用いた研究をしていた。
PythonやLinuxについては少々経験したが、MVCに関する技術は一切触った事がなかった。
就活して、Web系のC向けの名の知れたサービスを自社開発している企業にエンジニアとして入社することになった。
※当時は今より牧歌的で自分のような人間が入社することができた。今はわからない。
PythonのFWを使ったWebサービスの開発を行なっていた。
とはいえ、腰を据えて開発している時間は少なかった。大きい企業の既存事業にいると開発とは無関係の運用や調整業務がかなりあった。
3年目くらいで副業を始めることにした。
上記の通り業務内で技術力を向上させることがむずかしかったのと、未経験で業界に来ているハンデを抱えていたのである。
Python以外の言語はほとんど書けなかったのでPythonでwebかスクレイピングの案件を探した。
5件ほどお祈りされたが、懲りずに応募し続けてたら採用された。Flaskの案件だった。Flaskは書いたことがなかったが採用された。
当時はその会社に Python が書けるエンジニアがいなかったので重宝されたし、仕事も任せてもらっていた。
契約は週15時間だった。その間にCOVIDが来て全てが在宅勤務になり、気付いたら週30時間まで稼働するようになっていた。。
当初の見込み通り基礎体力は身に付いていったと思う。
最初の案件を納品したあと、次の案件をもらい、段々仕事の幅が広がっていった。
Linuxサーバを触ったりDBサーバを触ったりphpを雰囲気で書いたりDockerfileを書いてECSの環境を構築したりなど。
※Golang, Rust, k8sなど人気の技術の案件は探してもちょうどいいものが見つからないのでチュートリアルをやる以上の勉強はできていない。
ちょうど良さそうな募集があったので応募したところ今度は一回で採用された。
給与も少し上がった。後ほど元の副業の給与も上がり、本業の給与も少しずつ上がった。
年収がいくらなのかよくわからなくなったので、月々の手取りを銀行口座から調べて、年収1000万円の会社員の手取りと比較すると大体同じくらいの金額になっていた。
犠牲にしていることといえば可処分時間くらいだと思っているので、TLDR節に書いた内容についてはそんなに無理がなくある程度再現性があるんじゃないかと思っている。
辛さでいえば大学院のほうが辛かった。
可処分時間ということでいえばCOVIDで通勤時間が無くなった影響はそれなりにある。
自分について
・要領は決していい方ではない
要領がいい人なら5年も掛けずもっと早く辿り着くのではないか。
今回、特にジョブホッパー的な動きはしていない。各職場(案件)に恵まれたこともあるし、器用さが足りないといえばそうだと思う。
エージェントは中抜きされるという意見もあるが、自分はSNSは長続きしないし、勉強会もあまり肌に合わずほとんど出席することはないのでエージェントを通してしか案件を見つけられていない程度の行動力しかない。
年収についてはおおむね満足するようになり、人間とは面白いもので段々欲がよく出てくるようになった。
モダンな技術は、レガシーな技術よりも、おしなべて責任範囲が明確であり、何かあったときのリカバーがききやすかったり、謎の負債が含まれるリスクも少なく、幾分か安心して開発ができる。枯れた理論は好きだが、新しい技術を先回りして身につけることにも興味が湧いてきた。