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2024-01-05

anond:20231014165438

子供公立学校に通わせているけれど、子供が入ってから今までの間に負担軽減はどんどん進められている気がする。

子供入学した時の通信簿は親が書く欄が用意されていて、次の学期が始まるときにその欄を埋めて持って行くという仕組みがあった。

それを記入する大変さはあったものの、休みの時の子供の様子などを先生が知る機会にはなったと思う。

今はそれが廃止されたが、それぞれの家庭の状況をどうやって把握しているんだろう。

各学期の最後は1週間以上午前授業の日が続くようになったが、おそらくその間に先生方は通信簿を書いているんだろうと思う。

土曜授業があったら次の月曜日半ドンになるようになったのもおそらくは先生方の休み補填するためだろうな。

それだったらわざわざ土曜に授業する必要ないんじゃないかとは思うけど...

休み中の宿題もどんどん減っていって、今回の休み書初めくらいしか宿題と言えるものは無い。

学校は声高に「学校勉強で十分だ!塾には行くな!」みたいなことを主張するけれど、正直、学校勉強量だけじゃ全然足りないと思う。

かつては家は貧乏でも、熱心な先生サポートを受けて階級上昇するような話があったが、今はそういうこと起きないと思う。

貧富の差が家庭学習量の差になり、学力の差になるという時代になってきていると感じる。

2023-07-21

娘よ、パパは小学校が嫌いだった。

今年、娘が小学生になった。都内公立小学校に通っている。そんな娘に「パパは小学校しかった?」と聞かれて、僕は「楽しかったよ」と答えたけど、これはハッキリ言って嘘だ。

娘に変な先入観を持ってほしくないから、ポジティブに答えたけれどパパは小学校が大嫌いだった。正確には学年が上がるとともに制度先生が嫌いになっていった。

平成初期に生まれた僕は小学校3年生まで80年代に開発された所謂ニュータウンに住んでいた。比較若い住民が多く、大きな電機メーカー工場などが集積していたので、所得教育水準もそれなりに高かったのだと思う。小学校も開校20年程度だったと思う。好きな先生もいたし、友達ともよく遊んだ。指の皮が剥けるまでスマブラ64をしていたと思う。

その後、両親の離婚を経て、僕は母方の祖父母の家に住み、かつて祖母や母が通ったという小学校に転校した。明治時代からある古い学校だった。

カルチャーショック

この学校に転校した時は激しいカルチャーショックに見舞われたので一部ご紹介する。

1.男女でトイレが分かれていなかった。壁際に小便器がずらっと並び、その後ろには個室が並ぶ。要するに男子便所と同じ構造だ。そして、この個室には男子女子関係なく入る。ジェンダーレストイレが話題になった今となっては時代最先端なのかもしれないが、当時は本当に驚いた。

2.自転車に乗っていいのは小学4年生から自転車の解禁が小学4年生以降だった。何も知らずに毎日自転車乗っていたら、ある日学年集会でいきなり晒し上げられてルールを知った。

こういう一つ一つ、当時の自分が嫌なポイントが増えていったのだが、決定的だったのは先生の質の低さだ。

小学校先生たち

3年生当時

30歳前後/女性

とにかくヒステリーをよく起こす人で、どうでもいいことで一々叫び散らす先生だった。クラスで少し問題があるとなんでもかんでも集団責任と言い、一々放課後に全員で居残りさせられて迷惑だった。クラスいじめられている子がいて、僕は転校生クラスヒエラルキーの外にいたので、助けようとして喧嘩になったら怒られたり、その放課後に、このクラスいじめはありません!とか宣言しててこの人もうダメだと思った。毎日上履きに泥を詰められたりして、◯◯菌とか言われてる奴がいじめられてなかったらなんなんだろう。

4年生

40代後半前後/男性

この先生はかなり変なおじさんだったが、好きだった。いつも扇子を持ち歩き、教室に畳を敷いて、カーテンを簾に変えていた。将棋趣味将棋を教えていた。その先生から将棋を教わって将棋を始めたクラスメイトはその後、当時史上最年少で女流棋士としてプロになったのでその一点だけでも凄い人だと思う。

5,6年生

30代半ば/男性

この人はマッチョな見た目そのままの脳筋だった。子供ながらこんなに頭悪いのに学校先生になれるんだなぁ、と思ったものだ。悪気があるのか無いのかわからないが、事ある毎にうちが母子家庭であることをクラスで話し、当時は今ほどシングルマザー理解も無かった時代、そして土地柄。そのせいでクラスメイトやその親から「お父さんいないってどんな気持ち?」と聞かれたり、煽ってくる奴がいた。

決定的におかしいと思ったのが、成績の評価だった。大前提として、僕は公立小学校程度のテストならばどの科目も殆ど100点以外取ったことが無かった。年に1回の県統一学力テストでも成績は学年1位だった。そういうわけで国語算数理科社会通信簿は常に5段階中の5以外もらったことがない。

ところが、僕はこの先生に「3」を付けられたのだ。そして、自分より頭の悪い子が5を取っていた。この成績を見た母は「1学年1位の息子が何故3なのか?」と学校に問い合せた。実は当時、通信簿評価がそれまでの相対評価から絶対評価に切り替わった。先生曰く、生徒一人ひとりの成長を元に点数を付けることになったが、100点しか取らない僕は成長が見られないので中評価だという説明だった。

それに加えて、各科目の課題や授業に対する態度が悪いということ。具体的にはドリルとか問題集とか、その学期を通して行うべき課題最初の1週間で全部終わらせて提出したことが悪い、授業中騒いだり他のことをしたりするわけではないが、かと言って授業も真面目に聞いていないことも理由であったと。

全く意味がわからなかった。

学校簡単テストは100点以外取りようが無いのに、どうやって成長を示せばいいのか。簡単宿題を早く終わらせて一体何が悪いというのか。教科書を読めば一瞬でわかることを延々と説明する授業の一体なにを聞けばいいのか。僕は授業の邪魔することもなく、ただただ黙って大人しく時間が過ぎるのを待っていたのに。

ちなみに結局その後、試しに中学受験に向けた全国模試を受けたら偏差値は55~60くらいしかなくて、中学受験組の中では精々中の上程度だとわかった。そして日能研の「シカクいアタマをマルくする」とかい広告問題全然解けなかった。別に自分が頭が良いわけではないことを理解出来た。そして実際に市川という上の下くらいの中学校になんとか滑り込んだ、というのが僕の実際の実力だ。開成筑駒?渋幕?全然無理、って感じ。

何故嫌いになったのか

当時を振り返ると嫌いになった要素がいくつかあると思う。

まず第一に、制度問題日本公教育は、基本的に出来ない子に合わせざるを得ない環境であり、そもそも人間としての最低限の指導しかしてもらえない。加えてその基準は非常に低い所にありすぎて、子どもたちの学力すらもまともに測れない。物差しすら用意していない。当たり前のことが出来るだけでメーターを振り切ってしまう。そして相対評価の謎運用無駄な不平等を生み出している。

そして先生問題先生の魅力というのは、学力だけでなく教育への熱意や広く言えば人間力など様々な観点があると思う。そしてその仕事過酷さが度々話題になるように大変な仕事なのもわかる。

しかし僕が出会った先生は今思い出してもヒステリーなオバさんや脳筋が多く、学歴的にも大凡他人に物を教える事ができるようなレベルではない。人間力含めたって精々小学生くらいにしか教えを説けるレベルになかったと思う。

考えてみれば、そこそこの学歴を持つ友人を見渡した時、高校教員大学教員になった奴はいても小学生相手をしている奴なんて殆どいない。

そんなことを考えると、子供私立小学校に入れる選択肢を考える親の気持ちもわかる。ただ、個人的には小学校の時に悪かった友達大人になって逮捕されたりしてるのを見ていると、人種の坩堝に身を投じて色々な人がいるということを理解するのも大事な気がする。

娘よ、そういうわけでパパは小学校が嫌いだった。お前が思ってるよりしょうもない大人先生をやっているからな。そういうことにも一つ一つ気づいていきながら人生を歩んで欲しい。

2023-05-28

[]5月28日

ご飯

朝:ナポリタン。昼:なし。夜:天かす、オクラ味噌汁ネギ納豆たまごかけごはんサンドイッチ。間食:プリングス。柿の種ポテチ。スーパカップ

調子

むきゅーはややー。お仕事は、おやすみー。

ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生

・はじめに

わずとしてれた名作中の名作でゲームとしてのシリーズ展開だけでなく、小説漫画アニメなどでのメディアミックスもたくさんある、ダンガンロンパシリーズ第一作目。

勿論僕もプレイ済みなのだけど、シナリオライター小高和剛さんの超探偵事件簿 レインコードという完全新作がリリースされるということで復習としてもう一度遊んだ

超高校級の様々な才能を持つ高校生入学式当日、奇妙な目眩に襲われ気付くと閉鎖された学校に閉じ込められていた。

そこで巻き起こるコロシアイとその犯人(クロ)を特定する学級裁判の果てに絶望意味を知っていく、という後にダンガンロンパフォロワーがいっぱい出るのも納得な魅力的なあらすじ。

デスゲームじみたルール分析解釈の楽しさに、ミステリっぽいフーダニットめいた展開、そして何より超高校級の才能を持つキャラ達の魅力さ、それらとシステムガッツリ絡み合ってまさにゲームになっているのが楽しいポイント

ノンストップ議論という発明

システム部分はアドベンチャーゲームではあるものの、学校を探索するためにキャラ操作するパートや、音ゲーシューティングっぽいミニゲームに、それらを有利に進めるための育成要素もあったりと、出来る範囲で手を変え品を変え楽しませてくれる。

特にノンストップ議論呼称されているパートは抜群の面白さだ。

ミステリ系のアドベンチャーゲームでよくある尋問や追求のようなパート自動文字送りにして、かつ狙い撃つシューティングの要素を足した感じなんだけど、ゲームシナリオの融合が素晴らしい。

ミステリの大きな魅力の一つに議論があるにだけれど、どうしても文章での表現となると「タイミング」や「合いの手」や「野次」みたいな部分が削ぎ落ちてしまうのだけど、ノンストップ議論はそこをゲーム的なレベルデザインに落とし込むことで、議論をディフォルメしつつ楽しめるようにしてくれている。

発言の中の気になる点をシューティングの的にして、証拠証言弾丸見立てて、的を撃ち抜いて論破するからダンガンロンパ」という作品タイトルになるのも納得に素晴らしいシステム

声優さんのボイスや、立ち絵演出バッチリ決まっていて、ノンストップの名に相応しいハイテンポで楽しくかつロジックで考える謎解きの妙がある緩急も良き。

こういうゲームらしい楽しさと、テキストを読む楽しさが、相乗効果でどちらも楽しくなるようなシステムは大歓迎だ。

ただノンストップ議論以外のシステムちょっと取ってつけたというかミニゲームかなといった具合なのは残念だが、それだけで十分お釣りが出るほどに楽しめた。

・魅力的がすぎるキャラクタたち

公称でサイコポップと呼ばれる雰囲気でまとまっているデザインも素晴らしい超高校級キャラたち。

なんといってもココがダンガンロンパ最大の魅力だろう。

自分のことは棚に上げつつ主人公に信頼を要求する強引さが素敵な霧切響子御曹司頭脳明晰ながら割とポカをする十神白夜ギャンブラーとしての生き様が格好いいセレス、オドオドしてて小動物系の愛らしさがある不二咲千尋ギャルとしての一面だけでなく様々な表情を見せてくれる江ノ島盾子辺りが僕の好きなキャラだ。

通信簿会話と呼ばれる好感度を上げて読むことができるキャラ個別シナリオが楽しめるのも嬉しい。

話の都合上すぐリタイアしてしまキャラもそちらで楽しめるのが救いだ。

・腐川冬子好き

僕は自発的にお風呂に入らない女性キャラクタが大好き。

ドMで陰気でオドオドしている割に忘れてたとかでなく自発的にお風呂サボるし言われないと歯磨きもしない、可愛いなあ。

まあこの好きは癖の好きなのであまり掘り下げないでおこう。

・閉鎖空間ならではのフーダニット面白

今作の事件トリックらしいトリックもあるものの、概ね誰が行ったかが焦点に当たる展開が多い。

そのため超高校級の魅力的な仲間たちを疑わないといけないんだけど、これが辛くて面白い二つの気持ちに挟まれる。

なにしろ少し前まで楽しく好感度を上げて個別エピソードを読んでいた相手を疑い告発するのだから

今回リプレイだったこともあり、あえて先回りしながら犯人個別エピソードばかり読んでたんだけど、この辺の構造が辛面白かった。

突然閉じ込められてゲームに巻き込まれ現実にはありえない突飛な設定に加えて、主人公達の中に科学捜査が出来る人がいなかったり、色々ありそうで色々ない閉鎖空間の都合などもあってホワイダニットハウダニットは少な目なんだけど、この辺も良い意味で割り切ってると感じられて謎を解いていく部分が物足りなくはなかった。

仲間を疑うからこそのストーリー葛藤も作中に用語で言う「絶望」らしさがあって恐ろしいからこそだ。

希望絶望の結末はもどかしい

そんなわけで大絶賛なんだけど、締め方は少し雑だったかも。

希望絶望という大きなテーマの掘り下げは正直ちょっと不足していた。

要しちゃうと諦めずに生きるか諦めて死ぬかの二択になってしまうのも、要しすぎただけかもだけど、希望絶望ではなく生対死ってことになっちゃって、そりゃ絶望が不利だよと思ってしまう。

前提条件のために大きく無茶な設定を作ってしまったので苦労している感じの伝わってくるので、この辺はシリーズが続いて良かったなあ、と前向きに捉えておきたい。

・おわりに

10数年ぶりのリプレイだが楽しかった。

犯人トリックを知っていても楽しめるのは本物の面白さがあるからこそだ。

当時なかったスクールモード通信簿会話をお手軽に読めたり、システム面の改修がされているのも嬉しかった。

レインコードまでに2とV3も遊ぼうと思う、特にV3は途中でリタイアしてしまったので、楽しみだ。

2023-05-03

anond:20230502211723

そもそも株やってる人間の8割以上は損してると言われてるんだから利益出してる時点で上位20%のエリート

通信簿でいえば5段階評価の5だ

2023-04-27

anond:20230427000424

増田の言うことを全て信じるとして増田一人でひっくり返すのは厳しいと思う。同じ被害を受けてる同級生の親御さんに協力を頼んで数で押し切るしかない。

万が一通信簿やらに書かれたり、嘘が広がる前に訂正してもらった方がいい。

2023-04-13

おいしんぼってことばの意味

おいしさを求めるお坊ちゃんってきな言葉の略だと思ってたけど、

もしかして雄山から通信簿つけてもらう適菜 おいしさのつうしんぼっていみなのかもしかして

2023-03-17

anond:20230317005202

教師通信簿見て薦めてくる高校を素直に受験しちゃったりするしな。

そうだとしても優等生バカが同じ高校にはならんやん…

自然理由をつけるなら、よっぽど田舎で他に近隣に高校がない、って理由しかないな

でも大抵漫画舞台って都会だよなあ

スラダン別に田舎臭くはなかった気がする(詳しい設定忘れたけど)

anond:20230317004231

スラダン限定でって事なら、あれ原作がだいぶ古いからなー。

公立高校だったら、一概に偏差値だけで入学まらんケースも、無くは無いとも言えるし。

今ほど偏差値高校選ばん風潮もあったしな地域によっては。

というか、受験当時の中学生ケータイ持ってるヤツ、レアケースだと思うんだ時代設定として。そうすっと今ほど情報が入ってこないので、教師通信簿見て薦めてくる高校を素直に受験しちゃったりするしな。

親も熱心じゃないと偏差値に合った公立私立も厳しかったりもしたし。

そもそも金無いのかもしれねーよ、私立どころか遠方の公立に通うの交通費しんどいのかもしれねーよ。

2023-03-03

ADHD当事者リアル感覚

ふと、ADHD当事者リアル感覚表現したいと思った。

物心ついた頃から現在までのことを(ボカしやフェイクを入れつつ)時系列で書かせていただく。

N=1の話で恐縮だが、読者には少しでもADHDについて知って欲しいし、それにより社会の分断がなくなって欲しいと思う。

と、ここまで書いて思ったのだが、私は数日前よりADHD治療薬を断薬しており、マトモに「書く」ことができないことに気がついた。数日ぶりに薬を飲むこととする。

1.〜小学生

およそ30年前、共に高卒の両親から長男として産まれた。

母親専業主婦だったり、少しパートをしたりしていた。

父親について覚えているのは、しょっちゅう会社を辞めてしまうということだ。それも突然に。

故に、夫婦喧嘩が絶えない家庭だった。

何かが(主にカネ)キッカケで口論となる。

不貞寝する父親。怒り狂う母親

暴力を振るう父親実家電話しようとする母親

電話線をハサミで切り、電話機を叩き潰す父親

父親包丁を突きつける母親。まだ産まれたばかりの弟を盾のように前に突き出す父親

床にぶちまけられる牛乳

警察を呼んだ方がよいのか本気で悩む自分

私が思い出せる小学校低学年頃の家庭の記憶はほぼこれだ。

弟が1歳の頃、「ハロワいけ!」と喋ったことを覚えている。母親の真似である

自分自身について書くと、忘れ物の多い子供だった。

教科書を忘れ、資料集を忘れ、宿題の提出を忘れ…

机をくっつけて、隣の席の子しょっちゅう見せてもらっていた。授業はまあまあ理解できていたと思う。

宿題に関しては「忘れる」というより「やろうとしても動けない」が正しい感覚

テコでも動けなかった。

宿題の代わりに家で何をしていたかというと、デュエル・マスターズデッキを組んだり、ミニ四駆カスタマイズをしたり、スマブラDXをしたり…?あれ、そんなもんかな。当時何してたか自分…あまり思い出せない。熱中すると深く深くどこまでも熱中し続ける性格だった。(過集中)

同じマンションに1つ下、1つ上の子供が何人か住んでいたので、毎日遊んだ河原秘密基地作ったりとかしていた。

また、男女分け隔てなく誰とでも遊ぶ子供であった。

違う。

(上で挙げたマンションの住人以外の)男の友達がどうしても出来なかった。

全く交流できないということではなかった。

あいさつはするし、何人かでサッカーをする時は参加していた。

同学年で話したことがない人は恐らくいない。

誰とでもそれなりの雑談ができた。

しかし、そこ止まりだった。

輪に入れはするが、誘われる人間ではなかった。

故に、常に疎外感を感じていた。

今になって振り返ると、原因は恐らく「自分の話ばかりして止まらない」から嫌われたのだと思う。

次第に、無理してグループにいなくてもいいと思うようになり、休み時間教室でひとりでボーっとしていた。

かねた心優しい女子グループが、自分を輪に入れてくれた。情報量0のどうでもいい雑談がとても楽しかった。自分が輪に誘われたことが、なんだか初めて他人に受け入れられたようで、とても嬉しかった。

通信簿の「担任からコメント欄」には毎年「男女分け隔てなく仲良く友達がおり〜」と書かれていたので、客観的にはそう見えていたようだ。

2.中学高校大学

地方なので中学受験をする人なんてひとりもおらず、当然のように地元公立に進む。

当時は中学受験という言葉すら知らなかった。

中学での成績は150/200あたりだった。

日々の勉強時間は0分。

たまに一夜漬けの過集中が爆発して、50番あたりになった。

国、社、英は不得意で、理数が得意だった。

相変わらず宿題はできないし忘れ物は多かった。

勉強をしない分の時間は何をしていたかというと、運動部活動をするか、家のパソコンニコニコYouTubeを見たり、携帯を買い与えてもらえたのでモバゲーMixiをやっていた。

中学3年で麻雀を覚え、どハマりした。

ハンゲーム天鳳毎日夜中まで打つようになった。

高校受験は持ち前の過集中で上振れを引き、偏差値50位の公立情報学科に滑り込んだ。

元がアホなので上振れしてもこの程度である

地方偏差値50なんてハナクソオブハナクソである

なぜ情報系にしたかというと、自分専用のパソコンを親に買ってもらう為だ。

高校では朝読書時間があったので、とつげき東北氏の「科学する麻雀」を何度も何度も読み込んだ。熱心に読みすぎて、本の小口が手垢で黒くなった。点数計算を覚えたり、チンイツの牌効率を考えたり、24時間麻雀のことを考えていた。

この頃はもう自分の行動を制御できなくなっていた。自室のPC毎日朝までニコ生をしながら天鳳を打っていた。学校の授業は全部寝ていた。教師は注意しても無駄だと悟ったようだった。自分人生天鳳の段位とレーティングが全てだった。

謎の過集中で競技プログラミングが少し出来たので(当時はchokudai氏もまだ大学生で、AtCoderもない時代だった)、大会に参加して何度か受賞するなどした。

その後、持ち前の過集中により小論文面接突破し、AO(アホでもオッケー入試)により近所の私大に滑り込む。

麻雀への情熱大学に入っても変わらず、1限どころか2限3限も出席できなかった。たまに講義に出ても何も分からなかった。

イプシロンデルタはみんなも分かってないようだったが。

情報系科目だけはテストだけ出て100点を取るという天才ムーブかました(自慢)。

数学情報科学だけは好きだった。

麻雀サークルに入った。楽しかった。今でも付き合いのある友人が数人できた。

2年次が終わった時点で16単位しか持ってなかった。中退した。

3.社会

バイト経験すらないない、学位すらない、麻雀廃人の二十歳が社会放出された。

なんていうか、普通に死のうと思った。

ある日、ふと一回死んだ。

自○未遂をしたということではない。

自分は今死んだ。そして新しい自分が今生まれた。そう思うことにした。

どうせ一回死んだのだから、もう好きに生きよう。

それでなんともならなくなったら、生活保護でも受けよう。

それもダメなら最終的に死ねばよいだけだ。

とにかく今死ぬのはもったいない、と思うことにした。

一応、親は家に住まわせてくれた。

速やかに就職して家を出ろということだったので(言われなくてもそうするが)仕事を探し始めた。

やり方がわからなかったので、若者向けハローワーク的な所に行った。色々親身に相談に乗ってくれて、クソみたいな人売りSIerを紹介していただき内定が出た。

自分内定が出るということは、「バイト経験すらないない、学位すらない、麻雀廃人の二十歳に内定を出さざるを得ないクソ企業であることが導かれるのである

人売りのクソさを書くと主旨がブレるので割愛する。

結果的に、一年半で会社を辞めた。

自分特別社会適応できなかったのかは分からない。他にも大勢辞めていたから。

この辺で(不快になる方もおられると思うので大変恐縮なのだが)所謂理解ある彼女ちゃんが突然地面から生えてきて、家を出て2人暮らしを始めた。

会社を辞める前に人生初の精神科に行き、うつ診断書を書いてもらい、色々金に困らないような諸手続きをした。こういう手続き自分では何もできないので、理解ある彼女ちゃんサポートしてくれて本当に助かった。

うつ治療で通院する中で、医師よりADHDについて指摘された。

ストラテラというADHD治療薬を飲み始めた。

3割負担だとバカ高かった。1ヶ月分で5000円以上したのではないだろうか。当時はジェネリックがなかったと思う。無職にはとても支払えなかった。

色々手続きをして、1割負担になった。

4.現在

ストラテラを飲み始めてから、本当に変わった。

脳の中の話なのでうまく言語化するのは難しい。

簡単にいうと頭がめっちゃ良くなる感じだ。

特に「読み書き計算」がすごい。

今まで自分は文をうまく読めなかった。

脳のメモリが小さいので、読んだ瞬間内容を忘れてしまい、戻り読みばかりしていた。

また書くのはもっと苦手だった。いくら考えても頭にモヤがかかり、表現が出てこなかった。

そして計算は最も苦手だった。一時的に何かを記憶しておいて、他のことを考えるのが無理だった。

プログラミングが得意だったのは、自分計算する必要がなく脳のメモリがあまり要らないからだろう。

皆これが普通だと思っていた。

薬を飲む前は苦手だとも思っていなかった。

当然みんなもそうなんだと思っていた。

こんな「脳縛りプレイ」で学生生活を送ったら、そりゃ、こうなるわと思った。

薬を飲んでからは夜更かしが減った。

自分の1日を計画コントロールできるようになった。

アホみたいな情熱に突き動かされることはなくなったが、その方が穏やかで心地よかった。

人生も徐々に良い方向に向かった。

5.総括

長々と書いてしまった。

もし読んでくださった方がいるのだとしたら、とてもありがたいと思う。

自分ADHD当事者として、発達障害で苦しむ人の気持ちが分かる。

「○○ができないだけでしょ?」「やれないっていうかやろうとしてないだけでしょ」のような反応を見ると、心が痛む。

かに、その瞬間を点で見ればただそれだけのことである

しかしながら、発達障害はその「できない」「うまくやれない」があらゆるライフステージで常に足枷となり、人生全体に負の影響を及ぼし続ける。

そして大人からは常に怒られ続け、自己肯定感もなくなり、「自分可能性」を信じられなくなる。

その一瞬だけではないのだ。「常にその状態が続く」ことによる不利が、生まれた瞬間からその人にはあるんだということを、できれば理解してほしいと思う。

そして、今小さい子供を持っている親に言いたいこと。

もし子供が何かをできなくても、その全てを無条件に受け入れてあげてほしい。

学校安心感を得られない子供には、家庭しか場所がない。

そして、もし発達障害の疑いがあるなら、早い段階で医療アクセスしてほしい。

子供保険証を持って一人で病院に行くことなんてできない。親が全てだ。

治療は早ければ早いほどよいと個人的に思う。

子供の1日1日はかけがえがない。その1日をデバフがかかった状態で過ごすことの影響は、子供の一生を左右しかねない。

2023-01-07

墓場まで持っていきます

フェイクありノンフィクションです。

正月家族連れをたくさん見たからでしょうか。めちゃくちゃ久しぶりに親の夢を見ました。

夢の中の私は親と妹と、とても仲良く正月を過ごしていました。目覚めて、「あ、夢だったのか」と思った時、私はまだ親に期待してるんだと気づいて愕然しました。

親は悪い人ではなかったと思います必要ものは十分に買い与えられていたし、学校も県外の大学まで出してくれました。ただ、小さい頃から私が普通じゃないことを、私の努力不足だとして改善をせまる以外は。

私は小さい頃から一人遊びが好きで、人と上手くコミュニケーションを取れませんでした。

まだ1歳とか2歳の時に、遊びの集団から外れて日向ぼっこを一人でしていたといいますから、多分本当にうまれつきそうだったんでしょうね。

小さいうちはギリギリなんとかなってましたが、小学校高学年から高校くらいまでは本当にぼっちでした。

通信簿には「個性的な子」と書かれ、三者面談では母が担任先生に「友達とか大丈夫ですか」と聞いて困らせていて、家に帰ると「なぜ友達ができない、作ろうとしないのか」と責められました。

そんなこと言われたって、友達の作り方なんてよく分かりません。学期半ばになって既に出来上がった人間関係に割り込む勇気もありませんでした。

人間関係が辛くなって、不登校になりかかった時もありました。両親はなぜ私が学校行きたくないのか、と聞くことはなく、無理やり学校に連れて行くので、結局ちゃん不登校になることも出来ませんでした。

高校生の半ばくらいに、ようやく同じクラス優等生の真似をするという方法人間関係を円滑にするということが形だけ出来るようになりました。何をされても笑顔で、人の嫌なことを進んでする。苦痛でした。

両親はそんな私の変化を喜んでいたみたいです。「ようやく情緒が育った」と冗談のように言っていました。

人間関係問題は多々ありましたが、勉強関係は苦手ではなかったため、県外の大学に進学しました。進学先の大学には、「発達障害療育を受けている」と公言している人がいました。

その人の言動には、自分と通じるものがありました。「もしかして」と思いつつも、誰にも相談できず、大学卒業しました。

就活は苦労しました。本当は研究を続けたかったのですが、「妹もいるか学費はこれ以上出せない」と言われていたから、就職するしかありませんでした。

でもやりたいことでもないことに志望動機なんて書けませんでした。志望動機は「お金」以外に何があるのでしょう?そういうところを見抜かれるのでしょう、筆記は何十社も通ったのに、面接は片手の指で数えられるほどしか通りませんでした。

苦労した就活の果てにたどり着いたのは、人を指導する際に恫喝することしか知らない、休みが数週間ないこともあるようなブラック企業でした。

私は1年後に病んで、ブラック企業退職しました。正確には、休職願いを出した後、それを知った両親が「向こうの会社さんも迷惑だろうから」と退職するように何度も言ってきたのに折れた形です。

すぐに働けないのが分かってるから、ぎりぎりまで休業手当を貰いたい、休業手当は会社が出すものではないから向こうの会社は財布も痛まない、主張しまししたが、親は「迷惑」の一転ばり。戦う気力もありませんでした。

ブラック企業への退職届は手渡しするように指定されたため、父親に連れられてブラック企業に行きました。ブラック企業でのつらい記憶がよみがえり、帰り道に泣いた私に対し、父は「道端でそんなに泣くな、みっともない」と言いました。

実家は居心地が悪く、結局すぐに転職活動理由に家を出ました。

そのあと職業訓練を受けて、面接を何個か受けて、ブラックまではいかないけど、グレー寄りの企業就職しました。休みが少なく、賃金は安いけれど、前の会社に比べると優しい人の多い会社でした。新卒で1年で退職したこと空白期間があったことが響いて、ホワイト企業への転職は難しかったのです。

グレー企業ではなんとかやっていました。人がすぐ退職するので、クビになることもありませんでした。

ただ休みが少ないのはジワジワ効いていて、数少ない休日はずっと寝て過ごすような日々でした。ネットショッピングスマホゲームストレス発散にお金を使うので、数少ない貯金がどんどん減っていきました。

ある年のお正月実家に帰りました。その時に母に言われた言葉が忘れられません。「妹はあなたの失敗を見てきたかちゃんとしたところに就職した。あなたと妹だったら妹の方がお給料が良い。」

妹は私と違って「学費をこれ以上出せない」といって就職をせかされていなかったじゃないか、妹が就職決まったのは卒業する年の二月で、学校コネだったじゃないか、とかいろいろ言いたいことはありましたが、確かに今は妹の方がお給料が良いでしょう。黙って苦笑いを浮かべました。

それから帰省すると、いろいろとありました。もう疲れました。

今はコロナ理由に帰ることをやめました。何も言われないうちはこのままで行こうと思っています

親には黙ってることがいっぱいできました。

グレー企業は結局やめて、今は派遣社員です。ボーナスは無くなり、年収は低くなりましたが時給は良くなりました。残業もなく、土日祝が休めるので幸せです。派遣仲間には私みたいな感じの人もいるので、あまり問題にされることもありません。

あとメンタルクリニックにも行って、発達障害だと診断を受けて、お薬も飲むようになりました。障害者手帳も取得しました。障碍者手帳申請書類には「両親の住所」を書く欄がありましたが空白で出しました。ドキドしましたが何も言われませんでした。

ようやく発達障害だと診断がおりたことで、普通になんかなれないんだ、と改めて感じました。普通にならなきゃ、と思っていたけれど、ようやく肩の荷が降りました。普通にならなくて良い。今すごく幸せです。人生の中で、今が一番楽しいです、間違いなく。

でも全部、一生両親には言いません。墓場まで持って行きます。もしかしたらなんかのはずみで知ってしまう、もしくは知ってしまたかもしれませんが、親にはこちからは言う気はありません。

墓場まで持って行きます

私は独身のまま死ぬでしょう。黙っていたら実家のお墓に入れられることになるのでしょうが実家のお墓には絶対入りたくありません。

少しでも貯金をためて、自分のお墓を買って、そこに入るのが私のささやかな夢です。

anond:20230107164818

「なぜ子供卒業式で泣く親が居るのか、子供の節目は親の通信簿からだよ、その時しか親は成果を認めてもらえないからだよ」

自分の親が卒業式成人式当日に泣いていたなと思い出してグッと来てしまった

そういうことかぁ、親は自分は正しかったとその時初めて知ったのかぁ

anond:20230107163545

なんなんだろうこの気持ち普通母親って子供が大好きで子供のためなら死ねものだよね?

そんなわけねーだろ

様々な複雑な感情があって、それでも諦めるわけにはいかないとやっているのが子育て

子供が居ない人たちにはわからんが、親なんてもの自分の子育てが正しいかどうかなんて毎日確認できないんだよ

定期検診で他の子よりも小さかったり太りすぎていないか?というのを確認したり、運動会で他の子と同じように競技参加できてるなと確認したり、そういった節目節目じゃないと親の正しさなんてわからん

なぜ子供卒業式で泣く親が居るのか、子供の節目は親の通信簿からだよ、その時しか親は成果を認めてもらえないからだよ

その時しか認めてもらえないから、親は度々自分の様々な行動や感情が正しいのかって不安になるもんなんだよ

アンタが今「なんなんだろうこの気持ち普通母親って子供が大好きで子供のためなら死ねものだよね?」と思ってしまうのはアンタが親だからこそだ

親じゃねぇヤツはそんなこと考えねぇんだ!アンタは親だからこそ不安に思うんだよ!

ハッキリ言ってやるぞ!アンタは立派な親だよ!立派な親だからこそ通る不安を感じてるだけなんだよ!

アンタはよくやってる!子供が独り立ちした俺がそう言ってやろうじゃねえか!

2023-01-06

悲報古谷経衡、読解力のないバカであることを露呈する

暇空茜

@himasoraakane

21分

読解力不足です。中学生くらいの国語からやり直し

奴らがそこを焦点に燃やしにくるだけで、バトル漫画暴力が燃やされてたら俺はそのために戦う

公務員か何かか知らんけどその読解力では社会人は無理だよ

引用ツイート

古谷経衡作家評論家

@aniotahosyu

読んだけど印象としては「萌えキャラを貶された恨み」みたいな動機ニュアンスに感じる→「Colabo問題」追及で7000万円の支援金を集めた男性が独占告白「これはネット界におけるウクライナVSロシア戦争です」 https://dailyshincho.jp/article/2023/01061216/

#デイリー新潮

dailyshincho.jp

「Colabo問題」追及で7000万円の支援金を集めた男性が独占告白「これはネット界におけるウクライナVSロシア戦争です」(抜粋) | デイリー新潮

東京都から事業委託され、虐待や性被害を受けている少女たちの支援活動を行っている一般社団法人「Colabo」の会計不正疑惑で、ネット界が盛り上がっている。…

午後4:24 · 2023年1月6日

古谷経衡作家評論家

@aniotahosyu

作家評論家。社)令和政治社会問題研究所所長、社)日本ペンクラブ正会員、株)オフィス・トゥー・ワン所属。著書『敗軍の名将』(幻冬舎)、長編小説愛国商売』、『女政治家の通信簿』(小学館)『意識高い系研究』(文藝春秋)『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)等。★お仕事の問い合わせ

https://twitter.com/aniotahosyu/status/1611262401705570310

Colaboを擁護するための印象操作をするようなバカはColaboから金をもらっているかナニカでしかないので、しょせんまともなことは言わない。日本財団とずぶずぶの関係なんですね。

だったら今後言論活動をやめてほしい。こういうちんけな印象操作に加担した以上、信頼するに値しない。

ちょっとがっかりだね。

2023-01-04

2021年に読んだ本

1月12冊)

前半では美術知的にとらえようとした。後半は生物学テーマ

2月10冊)

脳科学生物学が中心。小説ゼロ

3月12冊)

SFと平安文学

4月12冊)

平安文学マイブームが続き、続いて神林長平ヴォネガットを読み始める。

5月17冊)

英国貴族執事メイドテーマ。なぜか田中啓文も読みだす。疲れたので脱力系を。

6月10冊)

空想法律読本シリーズ経済学、それと奇妙な味短編集。

7月(16冊)

シオドア・スタージョン一角獣・多角獣」

奇妙な味シリーズがしばらく続く。たまに古いSFが読みたくなる。

8月(7冊)

ブラウン神父シリーズは途中で飽きる。「聊斎志異」を読みだす。

冊数が少ないのは、中島敦全集がぶ厚いからだ。ページ数では一冊で実質三冊ほど読んでいる勘定だ。

9月(9冊)

ひたすら中国古典を読む。物語としては読みやすいが、脚注について調べていると意外と時間がとられる。

中島敦全集手紙手帳メモ書きまで収録。

10月(10冊)

アーネスト・サトウを除いて中国文学が続く。明治維新が一日単位で記録されていると見落としていた事実が多いとわかるし、刻一刻と情勢が変わっていったのも感じられる。。

11月12冊)

歴史に関心が移る。アイヌ民族について知りたくなる。

12月(13冊)

アイヌ民族から琉球視点を移す。

漫画(19冊)

やっと森薫を読み始める。ハルタコミックス(旧fellows!)ばっかり。

美術展など

コロナで回数は少なめ。

映画

プーと大人になった僕

パディントン

「イェスタディ

JUNK HEAD」★★

「シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版」★★★

雑感

生物学脳科学歴史SF海外文学が多い傾向は昨年から変わっていない。

一方で、日本古典文学にも少し手を出した。

また、「聊斎志異」「西遊記」「三国志演義」と長めの中国古典に取り組めたのは良かった。

2022年に読んだ本

今更だけど2020年に読んだ本

2022-12-19

育児に協力してくれないとか学校行事に参加してくれないという夫に対する妻の愚痴を見るたびに思うけど

やってきた俺は超当たり物件だし、俺を振った女どもは総じてバカ

振った女どもがワンオペ育児疲れしてたらバカ越えてキチ。ホント救いようのないやつら

  

それはそうとEXILEみたいな男と子作りしたい女はEXILE育児イメージ持ってるのか?

ジャニーズと子作りしたい女はジャニーズ授業参観に行ったり通信簿を受け取って担任と話をするイメージ持ってるのか?

もしかしてイメージ通りの結果になって約束された愚痴を言ってない?

  

だってちゃん結婚相手結婚後の想像をして選んだよ

ちなみに細いのと爪が派手なのはいっちばん最初対象外

子供を産めて育てられそうな女を選んだ

2022-04-24

祖母との思い出

私は本当に出来が悪く、親戚従兄弟の中では

ダントツ最下位

毎回お盆正月通信簿の提出を求められ

親戚一堂の中で開示。これでは大学に行けないだろうと、大勢の前で言われ、それがもう40代中盤の今になっても夢に出てくるほどだ。

もう一つ、頭に焼き付いているエピソード

お盆雑誌クイズに応募しようという事になってハガキを従兄弟と書いたんだけど、わたしだけ葉書に住所や氏名、宛名を書くことができませんでした。それを祖母はとても呆れかえってしまい私は夕方まで完成するまで何回も書かされ、ため息をつかれ、しまいには、こりゃダメだと。

それは40代を過ぎたいまも頭に鮮明にこびりついており、たまに苦しくなる。

そんな私ですが今はそこそこ稼いでいると思います。今は時代が味方してくれてると思う。

2022-03-18

anond:20220317180252

弱者男性の99%がギャンブル中毒な事を鑑みる弱者男性なのにギャンブルしていないは小中高皆勤通信簿全5集合時間絶対時間前集合くらいの真面目だと思うけどな

2021-11-08

祖母との思い出

私は本当に出来が悪く、親戚従兄弟の中では

ダントツ最下位

毎回お盆正月通信簿の提出を求められ

親戚一堂の中で開示。これでは大学に行けないだろうと、大勢の前で言われ、それがもう40代中盤の今になっても夢に出てくるほどだ。

もう一つ、頭に焼き付いているエピソード

お盆雑誌クイズに応募しようという事になってハガキを従兄弟と書いたんだけど、わたしだけ葉書に住所や氏名、宛名を書くことができませんでした。それを祖母はとても呆れかえってしまい私は夕方まで完成するまで何回も書かされ、ため息をつかれ、しまいには、こりゃダメだと。

それは40代を過ぎたいまも頭に鮮明にこびりついており、たまに苦しくなる。

そんな私ですが今はそこそこ稼いでいると思います。今は時代が味方してくれてると思う。

2021-10-01

学校通信簿に「落ち着きがない 」って書かれてた人たち

あれってADHDだったのだろうか

2021-06-09

○ンポさんに期待してたものはなかった

Pixiv検索したけど「○ンポさんがイックゾー!敏腕プロデューサーポルノで主演デビュー!90分ポッキリコース!」みたいのはありませんでした。

残念です。

私はこのときを6年待ち続けましたよ?

いつかもっと有名になって、そしたら名前キャッチーだしきっと出るだろうって。

映画がでっるぞ~~~」のCMを見たときは、これなら「薄い本がでっるぞ~~~」がいいたくて書く人が続出でしょうなと思ったものです。

でも違ったんです。

なかったんですよ。

なにも。

○ンポさんが○ンポに囲まれているような絵はどこにも。

こんなことってありますか?

○ンポさんの作者が大好きな○イカだって女児向けアニメなのに平気で○ンポが出てくるような絵がPixivいくらでもあるじゃないですかコミケでの新作の告知がされているじゃないですか。

なんでですか?

その境界はどこにあるんですか?

あなた達の視聴覚と○ンタマを繋ぐ神経がバグってるんですか?

それともなんですか5年ぐらいかけて私が画力を鍛えて自分で描いてればよかったんですか?

美術の授業通信簿2(課題は送れずに提出しましたが3以上を与えることを美術教師としてのプライドが許しませんでしたの意)を12年間守り続けたこの私に絵を描けと?

事故で脚を切り落とした子供サッカーボールプレゼントする○ンタクロースかなんかですか?

2021-03-22

又三郎

風の又三郎

宮沢賢治


どっどど どどうど どどうど どどう

青いくるみも吹きとばせ

すっぱいかりんも吹きとばせ

どっどど どどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな学校がありました。

 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。

 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室なかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。

 もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき川上から

「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから太郎さたろうだの耕助こうすけだのどやどややってきました。

「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて言いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛おかしな子がすまして、しゃんとすわっているのが目につきました。

 みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集まって来ましたが、だれもなんとも言えませんでした。

 赤毛の子どもはいっこうこわがるふうもなくやっぱりちゃんとすわって、じっと黒板を見ています。すると六年生の一郎いちろうが来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大またにやってきて、みんなを見て、

「何なにした。」とききました。

 みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指さしました。一郎はしばらくそっちを見ていましたが、やがて鞄かばんをしっかりかかえて、さっさと窓の下へ行きました。

 みんなもすっかり元気になってついて行きました。

「だれだ、時間にならないに教室はいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して言いました。

「お天気のいい時教室はいってるづど先生にうんとしからえるぞ。」窓の下の耕助が言いました。

しからえでもおら知らないよ。」嘉助が言いました。

「早ぐ出はって来こ、出はって来。」一郎が言いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室へやの中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。

 ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革かわの半靴はんぐつをはいていたのです。

 それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。

あいづは外国人だな。」

学校はいるのだな。」みんなはがやがやがやがや言いました。ところが五年生の嘉助がいきなり、

「ああ三年生さはいるのだ。」と叫びましたので、

「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。

 変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰掛けています

 そのとき風がどうと吹いて来て教室ガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱かやや栗くりの木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。

 すると嘉助がすぐ叫びました。

「ああわかった。あいつは風の又三郎またさぶろうだぞ。」

 そうだっとみんなもおもったときにわかにうしろのほうで五郎が、

「わあ、痛いぢゃあ。」と叫びました。

 みんなそっちへ振り向きますと、五郎が耕助に足のゆびをふまれて、まるでおこって耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助もおこって、

「わあ、われ悪くてでひと撲はだいだなあ。」と言ってまた五郎をなぐろうとしました。

 五郎はまるで顔じゅう涙だらけにして耕助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいました。

「わあい、けんかするなったら、先生ちゃん職員室に来てらぞ。」と一郎が言いながらまた教室のほうを見ましたら、一郎はにわかにまるでぽかんとしてしまいました。

 たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友だちになった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕とった山雀やまがらに逃げられたように思いました。

 風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱かやをだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。

「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。

 みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。

「やっぱりあいつは風の又三郎だったな。」

二百十日で来たのだな。」

「靴くつはいでだたぞ。」

「服も着でだたぞ。」

「髪赤くておかしやづだったな。」

「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かけ乗せでったぞ。」二年生の子が言いました。見るとその子の机の上にはきたない石かけが乗っていたのです。

「そうだ、ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」

「そだないでああいづあ休み前に嘉助石ぶっつけだのだな。」

「わあい。そだないであ。」と言っていたとき、これはまたなんというわけでしょう。先生玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現ごんげんさまの尾おっぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。

 みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と言いましたのでみんなもついて、

先生お早うございます。」と言っただけでした。

「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻もどってきました。

 すっかりやすみの前のとおりだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。

 二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。

 するとその間あのおかしな子は、何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌をかむようにして、じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田たかださんこっちへおはいりなさいと言いながら五年生の列のところへ連れて行って、丈たけを嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。

 みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。

 先生はまた玄関の前に戻って、

「前へならえ。」と号令をかけました。

 みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたが、じつはあの変な子がどういうふうにしているのか見たくて、かわるがわるそっちをふりむいたり横目でにらんだりしたのでした。するとその子ちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して、指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから、嘉助はなんだかせなかがかゆく、くすぐったいというふうにもじもじしていました。

「直れ。」先生がまた号令をかけました。

一年から順に前へおい。」そこで一年生はあるき出し、まもなく二年生もあるき出してみんなの前をぐるっと通って、右手下駄箱げたばこのある入り口はいって行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとの者もじっと見ていたのです。

 まもなくみんなははきもの下駄箱げたばこに入れて教室はいって、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一列に机にすわりました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろにすわりました。ところがもう大さわぎです。

「わあ、おらの机さ石かけはいってるぞ。」

「わあ、おらの机代わってるぞ。」

「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れで来たぢゃあ。」

「わあい、さの、木ペン借せ、木ペン借せったら。」

「わあがない。ひとの雑記帳とってって。」

 そのとき先生はいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんしろで、

「礼。」と言いました。

 みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたが、それからまたがやがやがやがや言いました。

「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が言いました。

「しっ、悦治えつじ、やがましったら、嘉助え、喜きっこう。わあい。」と一郎がいちばんしろからまりさわぐものを一人ずつしかりました。

 みんなはしんとなりました。

 先生が言いました。

「みなさん、長い夏のお休みおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の中で鷹たかにも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上うえの野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友だちが一人ふえました。それはそこにいる高田さんです。そのかたのおとうさんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道学校におられたのですが、きょうからみなさんのお友だちになるのですから、みなさんは学校勉強ときも、また栗拾くりひろいや魚さかなとりに行くときも、高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」

 すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢いよく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたが、すぐ、

「わかりましたね、ではよし。」と言いましたので、みんなは火の消えたように一ぺんに手をおろしました。

 ところが嘉助がすぐ、

先生。」といってまた手をあげました。

はい。」先生は嘉助を指さしました。

高田さん名はなんて言うべな。」

高田三郎さぶろうさんです。」

「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手をたたいて机の中で踊るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑いましたが、下の子どもらは何かこわいというふうにしいんとして三郎のほうを見ていたのです。

 先生はまた言いました。

「きょうはみなさんは通信簿宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」

 みんなはばたばた鞄かばんをあけたりふろしきをといたりして、通信簿宿題を机の上に出しました。そして先生一年生のほうから順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。というわけはみんなのうしろのところにいつか一人の大人おとなが立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇あおぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしいんとなって、まるで堅くなってしまいました。

 ところが先生別にその人を気にかけるふうもなく、順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと、三郎は通信簿宿題帳もないかわりに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇に戻りました。

「では宿題帳はこの次の土曜日に直して渡しまから、きょう持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治ゆうじさんと良作りょうさくさんとですね。ではきょうはここまでです。あしたかちゃんといつものとおりのしたくをしておいでなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除そうじをしましょう。ではここまで。」

 一郎が気をつけ、と言いみんなは一ぺんに立ちました。うしろ大人おとなも扇を下にさげて立ちました。

「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろ大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが、四年生の子どもらはまだもじもじしていました。

 すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇をおりてその人のところへ行きました。

「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。

「じきみんなとお友だちになりますから。」先生も礼を返しながら言いました。

「何ぶんどうかよろしくねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして目で三郎に合図すると、自分玄関のほうへまわって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を目をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下のほうへ歩いて行きました。

 運動場を出るときの子はこっちをふりむいて、じっと学校やみんなのほうをにらむようにすると、またすたすた白服の大人おとなについて歩いて行きました。

先生、あの人は高田さんのとうさんですか。」一郎が箒ほうきをもちながら先生にききました。

「そうです。」

「なんの用で来たべ。」

「上の野原の入り口モリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」

「どこらあだりだべな。」

「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」

モリブデン何にするべな。」

「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」

「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が言いました。

又三郎だない。高田三郎だぢゃ。」佐太郎が言いました。

又三郎又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤かにしてがん張りました。

「嘉助、うなも残ってらば掃除そうじしてすけろ。」一郎が言いました。

「わあい。やんたぢゃ。きょう四年生ど六年生だな。」

 嘉助は大急ぎで教室をはねだして逃げてしまいました。

 風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。

 次の日一郎はあのおかし子供が、きょうからほんとうに学校へ来て本を読んだりするかどうか早く見たいような気がして、いつもより早く嘉助をさそいました。ところが嘉助のほうは一郎よりもっとそう考えていたと見えて、とうにごはんもたべ、ふろしきに包んだ本ももって家の前へ出て一郎を待っていたのでした。二人は途中もいろいろその子のことを話しながら学校へ来ました。すると運動場には小さな子供らがもう七八人集まっていて、棒かくしをしていましたが、その子はまだ来ていませんでした。またきのうのように教室の中にいるのかと思って中をのぞいて見ましたが、教室の中はしいんとしてだれもいず、黒板の上にはきのう掃除ときぞうきんでふいた跡がかわいてぼんやり白い縞しまになっていました。

「きのうのやつまだ来てないな。」一郎が言いました。

「うん。」嘉助も言ってそこらを見まわしました。

 一郎はそこで鉄棒の下へ行って、じゃみ上がりというやり方で、無理やりに鉄棒の上にのぼり両腕をだんだん寄せて右の腕木に行くと、そこへ腰掛けてきのう三郎の行ったほうをじっと見おろして待っていました。谷川はそっちのほうへきらきら光ってながれて行き、その下の山の上のほうでは風も吹いているらしく、ときどき萱かやが白く波立っていました。

 嘉助もやっぱりその柱の下でじっとそっちを見て待っていました。ところが二人はそんなに長く待つこともありませんでした。それは突然三郎がその下手のみちから灰いろの鞄かばんを右手にかかえて走るようにして出て来たのです。

「来たぞ。」と一郎が思わず下にいる嘉助へ叫ぼうとしていますと、早くも三郎はどてをぐるっとまわって、どんどん正門をはいって来ると、

お早う。」とはっきり言いました。みんなはいっしょにそっちをふり向きましたが、一人も返事をしたものがありませんでした。

 それは返事をしないのではなくて、みんなは先生はいつでも「お早うございます。」というように習っていたのですが、お互いに「お早う。」なんて言ったことがなかったのに三郎にそう言われても、一郎や嘉助はあんまりにわかで、また勢いがいいのでとうとう臆おくしてしまって一郎も嘉助も口の中でお早うというかわりに、もにゃもにゃっと言ってしまったのでした。

 ところが三郎のほうはべつだんそれを苦にするふうもなく、二三歩また前へ進むとじっと立って、そのまっ黒な目でぐるっと運動場じゅうを見まわしました。そしてしばらくだれか遊ぶ相手がないかさがしているようでした。けれどもみんなきょろきょろ三郎のほうはみていても、やはり忙しそうに棒かくしをしたり三郎のほうへ行くものがありませんでした。三郎はちょっと具合が悪いようにそこにつっ立っていましたが、また運動場をもう一度見まわしました。

 それからぜんたいこの運動場は何間なんげんあるかというように、正門から玄関まで大またに歩数を数えながら歩きはじめました。一郎は急いで鉄棒をはねおりて嘉助とならんで、息をこらしてそれを見ていました。

 そのうち三郎は向こうの玄関の前まで行ってしまうと、こっちへ向いてしばらく暗算をするように少し首をまげて立っていました。

 みんなはやはりきろきろそっちを見ています。三郎は少し困ったように両手をうしろへ組むと向こう側の土手のほうへ職員室の前を通って歩きだしました。

 その時風がざあっと吹いて来て土手の草はざわざわ波になり、運動場のまん中でさあっと塵ちりがあがり、それが玄関の前まで行くと、きりきりとまわって小さなつむじ風になって、黄いろな塵は瓶びんをさかさまにしたような形になって屋根より高くのぼりました。

 すると嘉助が突然高く言いました。

「そうだ。やっぱりあい又三郎だぞ。あいづ何かするときっと風吹いてくるぞ。」

「うん。」一郎はどうだかわからないと思いながらもだまってそっちを見ていました。三郎はそんなことにはかまわず土手のほうへやはりすたすた歩いて行きます

 そのとき先生がいつものように呼び子をもって玄関を出て来たのです。

お早うございます。」小さな子どもらはみんな集まりました。

お早う。」先生はちらっと運動場を見まわしてから、「ではならんで。」と言いながらビルルッと笛を吹きました。

 みんなは集まってきてきのうのとおりきちんとならびました。三郎もきのう言われた所へちゃんと立っています

 先生はお日さまがまっ正面なのですこしまぶしそうにしながら号令をだんだんかけて、とうとうみんなは昇降口から教室はいりました。そして礼がすむと先生は、

「ではみなさんきょうから勉強をはじめましょう。みなさんはちゃんとお道具をもってきましたね。では一年生(と二年生)の人はお習字のお手本と硯すずりと紙を出して、二年生と四年生の人は算術帳と雑記帳と鉛筆を出して、五年生と六年生の人は国語の本を出してください。」

 さあするとあっちでもこっちでも大さわぎがはじまりました。中にも三郎のすぐ横の四年生の机の佐太郎が、いきなり手をのばして二年生のかよの鉛筆ひらりととってしまったのです。かよは佐太郎の妹でした。するとかよは、

「うわあ、兄あいな、木ペン取とてわかんないな。」と言いながら取り返そうとしますと佐太郎が、

「わあ、こいつおれのだなあ。」と言いながら鉛筆をふところの中へ入れて、あとはシナ人がおじぎするときのように両手を袖そでへ入れて、机へぴったり胸をくっつけました。するとかよは立って来て、

「兄あいな、兄なの木ペンはきのう小屋でなくしてしまったけなあ。よこせったら。」と言いながら一生けん命とり返そうとしましたが、どうしてももう佐太郎は机にくっついた大きな蟹かに化石みたいになっているので、とうとうかよは立ったまま口を大きくまげて泣きだしそうになりました。

 すると三郎は国語の本をちゃんと机にのせて困ったようにしてこれを見ていましたが、かよがとうとうぼろぼろ涙をこぼしたのを見ると、だまって右手に持っていた半分ばかりになった鉛筆を佐太郎の目の前の机に置きました。

 すると佐太郎はにわかに元気になって、むっくり起き上がりました。そして、

「くれる?」と三郎にききました。三郎はちょっとまごついたようでしたが覚悟したように、「うん。」と言いました。すると佐太郎はいきなりわらい出してふところの鉛筆をかよの小さな赤い手に持たせました。

 先生は向こうで一年の子の硯すずりに水をついでやったりしていましたし、嘉助は三郎の前ですから知りませんでしたが、一郎はこれをいちばんしろちゃんと見ていました。そしてまるでなんと言ったらいいかからない、変な気持ちがして歯をきりきり言わせました。

「では二年生のひとはお休みの前にならった引き算をもう一ぺん習ってみましょう。これを勘定してごらんなさい。」先生は黒板に25-12=の数式と書きました。二年生のこどもらはみんな一生

風の

どっどど どどうど どどうど どどう

青いくるみも吹きとばせ

すっぱいかりんも吹きとばせ

どっどど どどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな学校がありました。

 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。

 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室なかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。

 もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき川上から

「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから太郎さたろうだの耕助こうすけだのどやどややってきました。

「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて言いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛おかしな子がすまして、しゃんとすわっているのが目につきました。

 みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集まって来ましたが、だれもなんとも言えませんでした。

 赤毛の子どもはいっこうこわがるふうもなくやっぱりちゃんとすわって、じっと黒板を見ています。すると六年生の一郎いちろうが来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大またにやってきて、みんなを見て、

「何なにした。」とききました。

 みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指さしました。一郎はしばらくそっちを見ていましたが、やがて鞄かばんをしっかりかかえて、さっさと窓の下へ行きました。

 みんなもすっかり元気になってついて行きました。

「だれだ、時間にならないに教室はいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して言いました。

「お天気のいい時教室はいってるづど先生にうんとしからえるぞ。」窓の下の耕助が言いました。

しからえでもおら知らないよ。」嘉助が言いました。

「早ぐ出はって来こ、出はって来。」一郎が言いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室へやの中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。

 ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革かわの半靴はんぐつをはいていたのです。

 それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。

あいづは外国人だな。」

学校はいるのだな。」みんなはがやがやがやがや言いました。ところが五年生の嘉助がいきなり、

「ああ三年生さはいるのだ。」と叫びましたので、

「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。

 変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰掛けています

 そのとき風がどうと吹いて来て教室ガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱かやや栗くりの木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。

 すると嘉助がすぐ叫びました。

「ああわかった。あいつは風の又三郎またさぶろうだぞ。」

 そうだっとみんなもおもったときにわかにうしろのほうで五郎が、

「わあ、痛いぢゃあ。」と叫びました。

 みんなそっちへ振り向きますと、五郎が耕助に足のゆびをふまれて、まるでおこって耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助もおこって、

「わあ、われ悪くてでひと撲はだいだなあ。」と言ってまた五郎をなぐろうとしました。

 五郎はまるで顔じゅう涙だらけにして耕助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいました。

「わあい、けんかするなったら、先生ちゃん職員室に来てらぞ。」と一郎が言いながらまた教室のほうを見ましたら、一郎はにわかにまるでぽかんとしてしまいました。

 たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友だちになった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕とった山雀やまがらに逃げられたように思いました。

 風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱かやをだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。

「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。

 みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。

「やっぱりあいつは風の又三郎だったな。」

二百十日で来たのだな。」

「靴くつはいでだたぞ。」

「服も着でだたぞ。」

「髪赤くておかしやづだったな。」

「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かけ乗せでったぞ。」二年生の子が言いました。見るとその子の机の上にはきたない石かけが乗っていたのです。

「そうだ、ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」

「そだないでああいづあ休み前に嘉助石ぶっつけだのだな。」

「わあい。そだないであ。」と言っていたとき、これはまたなんというわけでしょう。先生玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現ごんげんさまの尾おっぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。

 みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と言いましたのでみんなもついて、

先生お早うございます。」と言っただけでした。

「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻もどってきました。

 すっかりやすみの前のとおりだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。

 二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。

 するとその間あのおかしな子は、何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌をかむようにして、じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田たかださんこっちへおはいりなさいと言いながら五年生の列のところへ連れて行って、丈たけを嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。

 みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。

 先生はまた玄関の前に戻って、

「前へならえ。」と号令をかけました。

 みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたが、じつはあの変な子がどういうふうにしているのか見たくて、かわるがわるそっちをふりむいたり横目でにらんだりしたのでした。するとその子ちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して、指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから、嘉助はなんだかせなかがかゆく、くすぐったいというふうにもじもじしていました。

「直れ。」先生がまた号令をかけました。

一年から順に前へおい。」そこで一年生はあるき出し、まもなく二年生もあるき出してみんなの前をぐるっと通って、右手下駄箱げたばこのある入り口はいって行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとの者もじっと見ていたのです。

 まもなくみんなははきもの下駄箱げたばこに入れて教室はいって、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一列に机にすわりました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろにすわりました。ところがもう大さわぎです。

「わあ、おらの机さ石かけはいってるぞ。」

「わあ、おらの机代わってるぞ。」

「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れで来たぢゃあ。」

「わあい、さの、木ペン借せ、木ペン借せったら。」

「わあがない。ひとの雑記帳とってって。」

 そのとき先生はいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんしろで、

「礼。」と言いました。

 みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたが、それからまたがやがやがやがや言いました。

「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が言いました。

「しっ、悦治えつじ、やがましったら、嘉助え、喜きっこう。わあい。」と一郎がいちばんしろからまりさわぐものを一人ずつしかりました。

 みんなはしんとなりました。

 先生が言いました。

「みなさん、長い夏のお休みおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の中で鷹たかにも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上うえの野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友だちが一人ふえました。それはそこにいる高田さんです。そのかたのおとうさんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道学校におられたのですが、きょうからみなさんのお友だちになるのですから、みなさんは学校勉強ときも、また栗拾くりひろいや魚さかなとりに行くときも、高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」

 すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢いよく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたが、すぐ、

「わかりましたね、ではよし。」と言いましたので、みんなは火の消えたように一ぺんに手をおろしました。

 ところが嘉助がすぐ、

先生。」といってまた手をあげました。

はい。」先生は嘉助を指さしました。

高田さん名はなんて言うべな。」

高田三郎さぶろうさんです。」

「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手をたたいて机の中で踊るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑いましたが、下の子どもらは何かこわいというふうにしいんとして三郎のほうを見ていたのです。

 先生はまた言いました。

「きょうはみなさんは通信簿宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」

 みんなはばたばた鞄かばんをあけたりふろしきをといたりして、通信簿宿題を机の上に出しました。そして先生一年生のほうから順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。というわけはみんなのうしろのところにいつか一人の大人おとなが立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇あおぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしいんとなって、まるで堅くなってしまいました。

 ところが先生別にその人を気にかけるふうもなく、順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと、三郎は通信簿宿題帳もないかわりに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇に戻りました。

「では宿題帳はこの次の土曜日に直して渡しまから、きょう持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治ゆうじさんと良作りょうさくさんとですね。ではきょうはここまでです。あしたかちゃんといつものとおりのしたくをしておいでなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除そうじをしましょう。ではここまで。」

 一郎が気をつけ、と言いみんなは一ぺんに立ちました。うしろ大人おとなも扇を下にさげて立ちました。

「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろ大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが、四年生の子どもらはまだもじもじしていました。

 すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇をおりてその人のところへ行きました。

「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。

「じきみんなとお友だちになりますから。」先生も礼を返しながら言いました。

「何ぶんどうかよろしくねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして目で三郎に合図すると、自分玄関のほうへまわって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を目をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下のほうへ歩いて行きました。

 運動場を出るときの子はこっちをふりむいて、じっと学校やみんなのほうをにらむようにすると、またすたすた白服の大人おとなについて歩いて行きました。

先生、あの人は高田さんのとうさんですか。」一郎が箒ほうきをもちながら先生にききました。

「そうです。」

「なんの用で来たべ。」

「上の野原の入り口モリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」

「どこらあだりだべな。」

「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」

モリブデン何にするべな。」

「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」

「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が言いました。

又三郎だない。高田三郎だぢゃ。」佐太郎が言いました。

又三郎又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤かにしてがん張りました。

「嘉助、うなも残ってらば掃除そうじしてすけろ。」一郎が言いました。

「わあい。やんたぢゃ。きょう四年生ど六年生だな。」

 嘉助は大急ぎで教室をはねだして逃げてしまいました。

 風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。

2021-01-20

想像力のない人の夢は小規模なんだろうか

子供の頃から通信簿想像力豊かとか書かれるタイプなんだけど

夢でご飯を食べれるしおいしいしウンコが落ちてればウンコ臭いセックスをすれば気持ちいいんだよね

その上なんていうか夢の中の世界が大抵壮大というか

自宅にいる夢なのにリビングが40畳ぐらいあったりだとかするんだわ

これって想像力問題なのかなあと考えたりしてみるけど

他人の夢は意外と4畳の部屋でお茶漬けを食べてる(味はしない)みたいな規模だったりするのかな

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