はてなキーワード: 常識人とは
これからはファンが常識人から後ろ指さされるような社会にしないといけないなって思った。
その文化が好きすぎるあまり、アンチ・ヘイト発言に対して「うるせえな」以外の言葉を返してこない人間であってもこちらが怒っている態度を見せることこそ意味がある。
社会からの怒りが可視化されないからいつまでたっても変化が起きない。
どんなに日本国民全体の政治への関心がなかろうが、表面上でも関心ある層の界隈の中の岸田に後ろ指さす人のおかげで支持率下がった日本の政治とかを見習わないと。
やっている感でいいので常識ある人からファンなどに対するNO!という態度をとらないと世間からは誰も怒っていないと思われてしまう。
最近、都市伝説の動画を検索して試しに見ていた。こういうのはエンタメのための情報だから、一見するとただ面白おかしいだけに思える。
しかしよく背後の情報を確認してみると反ユダヤ主義が隠されていることに気がつく。
金融や戦争の原因を一部の権力者の裁量ですべてコントロールされているというニセ情報が典型例だ。
しかもその「権力者」が誰なのかということについて話があると、「ユダヤ人」という設定になっていることが多い。
これは危険思想の兆候である可能性がある。特定の人種が世界のすべてを牛耳っているなどということを、例えば政治家連中が信じたらどうなるか想像してほしい。
その「特定の権力者」が通貨発行権を利用できるから許せない!というタイプの浅はかな陰謀論も見たが、陰謀論自体が陰謀ではないかとさえ思えてくる。
資産大国である日本のような国の貨幣価値と資産力を弱体化させるためにインフレを起こそうとしているのではないかと。
つまり、経済というのは基本的に数学法則に支配されており、「裁定の限界」が存在するので、資産家がいつでも儲かるといううまい話ではないのである。
日本が世界一の資産大国であることは有名だが、資産を持っているだけで自動的に儲かるようなことはないのだ。
偽情報によって自らにダメージを与えたり、反ユダヤ主義を無意識に信奉している陰謀論者たちは、怪しい情報に真実性を求めるよりも前の段階で、経済の標準教科書を読むべきだろう。
一行目からこんな印象操作目的の文言書かれてる文章を論だと思ってるなら、私は論理的なやり取りをすることが出来ません、って言ってるようなものやで。
続きも一応読んでみたが、何の証左にもならん政治家の発言引用したり、債務残高に関する独自解釈だったり(アメリカが財政破綻すると本気で信じてる奴おらんやろ、債務上限引き上げのプロレスなんか毎年やってるで)、最初に書いたような印象操作の形容詞が多数含まれていたり、”巨額の紙幣を印刷するとインフレが起こる”の根拠としてあげられているのが、誰かも分からん人の一行程度の発言の引用だったりで論理構成も滅茶苦茶やで。
MMT の支持者は、MMT が現代の経済的進歩だと私たちに信じてもらいたいようだが、その誇大宣伝を信じないほうがよい。常識人はMMTを面と向かって否定する。
2008年にバラク・オバマ氏は 「我々は要するに銀行からクレジットカードを借りているだけだ」と述べていた。私たちはそのお金を借りている。オバマ氏は2期の任期中に国家債務を8兆6000億ドル増加させ、これは前任者の2倍以上となった。トランプ大統領は6兆7000億ドルを追加した。
米国の国債は 28.1兆ドルに達している。1960年、 米国の国家債務は 2,860億ドルだった。1980年には9,080億ドルに増加。2000 年までに、その額は 5 兆 6,000 億ドルに増加。2010年には13兆5000億ドルまで膨れ上がった。わずか 7 年後には 20 兆ドルの大台を超えた。
アメリカの債務対GDP比も持続不可能な軌道に乗っている。1960年には53パーセント。1980 年には 34 パーセントに減少。2000 年には 58% まで上昇。2020 年の時点で、その割合は 129 パーセントまで急上昇し、第二次世界大戦終結時に記録された過去最高の 118 パーセントを上回っている。
数十年にわたる制御不能な受給権支出、パンデミック、中東での高額な費用のかかる戦争など、債務の大失敗の原因は数多くある。
MMT に慣れていない人のために説明すると、MMT は本質的に、米国政府が無制限に印刷してお金を使うことができると述べている。赤字は関係ない。国の借金も同様である。
MMTには、バーニー・サンダース上院議員(バーモント州、バーモント州)からアレクサンドリア・オカシオコルテス下院議員(ニューヨーク州、ニューヨーク州)まで、何人かの著名な支持者がいる。
MMT に関しては多くの本が書かれており、最も有名なのはステファニー・ケルトン著『赤字の神話: 現代貨幣理論と人民経済の誕生』である 。
一言で言えば、MMTの真の信者は、長年の経済教義は時代遅れであると主張している。MMTは伝統的な経済理論をひっくり返す。
Investopediaによると 、「MMT の中心的な考え方は、法定通貨制度を管理下に置く政府は、破産することができないため、必要なだけのお金を印刷 (または今日のデジタル時代では数回のキー入力で作成) できるし、そうすべきだということです」
実際には、 政府は常識的な経済学のルールに反した場合、破産する可能性がある。
しかし、MMT支持者たちは、通貨下落と多額の債務という落とし穴を回避する秘密のレシピを持っていると主張している。Investopedia が説明しているように、「MMT によれば、巨額の政府債務は崩壊の前兆ではないと私たちが信じ込まされているわけではありません。米国のような国は、懸念する必要もなく、はるかに大きな赤字を抱え続けることができます。赤字支出が人々の貯蓄を生み出すものであるため、少額の赤字や黒字は非常に有害であり、不況を引き起こす可能性があります。MMT 理論家は、借金は単に政府が経済に投入し、税金を還付しなかったお金であると説明しています。」
これはばかげている。政府の赤字支出は経済に恩恵をもたらすものではない。それは経済成長の妨げとなり、将来の世代を貧困に陥れる。
さらに、MMT支持者の主張にもかかわらず、巨額の紙幣を印刷するとインフレが起こる。
ジョナサン・ハートレー氏が 書いているように、この主張は「ハイパーインフレにつながった債務の収益化という暗い歴史を無視している…紙幣を印刷して債務を収益化することは、たとえその債務の一部が現地通貨建てだったとしても、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、ワイマールドイツで壊滅的なインフレを引き起こした」
同じようなことが最近、ブラジル、ベネズエラ、ジンバブエでも起きている。
現代貨幣理論は画期的どころか、現代的とは程遠い。これは何度も試みられ、いずれの場合も経済的破壊をもたらした失敗したアイデアにすぎない。
それにしても2日前まであれだけジャニー喜多川擁護してセカンドレイプ加害までしてたのに、事情が変わったら記憶喪失担ったかのように豹変するの女怖すぎる… ジャニオタが言ってること何も信用できないわ……
要するに「ジャニーズ事務所を守りたい」という目的があって、そのためなら手段は選ばず今まではジャニー喜多川を「クロだと確信しながらも」「しらばっくれて」擁護してたジャニオタがめちゃくちゃ多いわけだね。
ところが、「ジュリーさんの会見」によって「ジャニー庇わなくていい」になった瞬間に瞬時に「ジャニーとメリーを悪者にしてジュリーさんありがとう」路線に切り替えてる。ジャニオタにとって理屈とは常に後付で、目的が100%なんだなってことがよくわかったわ…… もうこのひとたちのいうこと二度と信用できない
前から言ってるけどジャニオタって何百万人どころか何千万人もいて、99%の人は常識人だと思ってます。とにかく1%の人間がやばすぎる。これって別にジャニオタに限らず他のアイドルオタでもアニオタでもミリオタでも鉄オタでも全部同じなんだろうなと思うけれど、ジャニオタの1%は今まで見た中でも特にヤバかった
本人たちはすぐに自分たちが加害行為してたことを忘れるんだろうね。
ちなみに、今回チェックしてて気になったこととして、セカンドレイプ大好き加害者ジャニオタ、かなりの確率で「ウクライナバッシング」を行っている。そういうやばいジャニオタが今回のセカンドレイプ加害活動の中心にいるんだろうね…
まぁいいや、ジャニオタがキモすぎるあまり、このキモいジャニオタに活力を与えてるジャニーズ自体が社会悪だなって思ってたけど、それをトップのジュリーさんが認めてくれた以上、これ以上ジャニーズに興味ない。ジュリーさんありがとう。
ごめんなさい。ジャニオタ全般がそうだというのは失礼すぎる。今までの話は「ジャニー喜多川を直前まで擁護してたのに今日になっていきなり手のひらクルーしてる、ごく一部の節操なしのジャニオタ」だけに限った話です。
ああ、たしかに。
12人の様々な職種の人を集めて生活をともにしながら、様々なゲームを行っていく。
ピースと呼ばれるアイテムが最初に1枚ずつ配られて、ゲームに勝てば追加のピースがもらえたり、負けたら減らされたりする。
最終的にピースを一番多く持ってるものが優勝となり、優勝賞金を独り占めできる。
またゲームが行われる中で手持ちのピースが一枚もなくなってしまった者は、その時点で脱落者となりゲームに参加できないだけでなく、番組から去らなければいけない。
システム的にはカイジのデスゲームそのまんまって感もあって、カイジでいう星がピースとなっている。
ゲーム自体は12人が競い合う通常のゲームが一回、その後賞金マッチと呼ばれるゲームが1回、一日の間に計2回のゲームが行われる。
ゲームが行われるホール、出場者が寝泊まりしたり食事をしたりする生活棟(シェアハウスみたいな感じ)、その他に監獄などがある。
監獄というのは、通常ゲームでトップになった人が下位から2名指名して、指名された二人は監獄に入れられる。その二人はその日の賞金マッチには参加できなくなるというルールがあるため。
参加者はみんなで生活も共にすることになるんだが、そこでも当然様々な出来事が起こる。
ピースは生活棟にいる時のみ譲歩や取引ができるというルールもあるので、ゲームをしている時以外の立ち振舞もとても大事になってきたりする。
だいたい構成としてはそんな感じなんだが、まず、行われるゲームの内容自体がめちゃくちゃに面白い。
最初にルール説明される時は見てる方もあまりにも複雑で意味がわからんってなるんだけど、実際にゲームが始まるとなるほどああこうなるのか、と意外とすぐに理解していけるようなルールになっている。
例えば1回目に行われたゲームはウイルスゲームというもので、市民、テロリスト、記者、捜査官、研究者など色々な役割が12人にランダムに割り当てられ、それぞれ役割毎にミッションを持っており、それをまっとうできればピースをもらえる。
他の人がどの役になってるかわからないのだが、率先してバラしてもいいしウソをついてもいい。
これがまあゲームが始まるとウソみたいに12人それぞれのキャラが発揮されてヒリヒリするような展開が生まれる。
これは演出があるとか参加者がうまいとか以前に、ゲームの仕組みがとてもよく考えられているのだ。
疑心暗鬼、協力、裏切りなどが無意識のうちに行われてしまうような、なんともいやらしいルールが散りばめられている。
カイジでもルールの裏をかいて逆転劇を見せる、みたいなのがあったけど、そこまで計画的ではなくても意外な逆転劇みたいなのが起こりやすくなっている。
またゲームが行われるホールにはいくつかの個室が設けられていて、ゲームが進んでみんながルールを理解しはじめると、密室での駆け引きなども頻繁に行われるようになっていく。
ここでのプレイヤー達のやり取りも非常に面白くて、追い詰められるもの、漁夫の利を得るものなど様々な人間模様が見れることになる。
もうこの最初のゲームだけでも見ていて痛快すぎて思わず声が出てしまったほどだ。
そしてゲーム自体が面白すぎるのに加えて、ゲームが終わればみんな生活棟に戻ることになり、そこでまたみんなあれこれ反省点やら語り合ったりしていてそれもまた見ていて楽しいのだ。
絶妙なのが一日の間に最初は個人戦とも呼べるゲームが行われるが、その後に賞金金額そのものを釣り上げる賞金マッチがあることだ。
この賞金マッチは最初の個人戦に近いルールとは違い、主催者から与えられたミッションを全員で協力してクリアすることができれば、賞金金額が釣り上がるといったものになる。
全員協力とはいえ、賞金マッチでも個人的にピースが与えられるような要素もあるので、そこがまたプレイヤー達の心を揺さぶったりもするんだが、
基本的にはそんな個人的な思惑など通用しないほど難しいミッションなので、賞金額を上げるためにはみんなで力を合わせないとなかなかクリアは難しい。
例え貪欲に一人勝ちを狙う者がいたとしても、賞金マッチで賞金額を積み上げていかないと、せっかく優勝しても全然大したことない、みたいなことになるので、一匹狼でずっといるということは難しいのだ。
それにゲームが終わればみんなで同じ場所に戻るので、いつの間にかゲームの出題者(主催者側)VS俺達みたいな仲間意識みたいなのもできていくことになる。
変にきついキャラとかもいないし、基本的にみんな常識人である点も良い。
セットなんかは豪華だけど制作側の独りよがりな演出とかもなく、全体的に見ていてイラっとするとこがなくて気持ちがいい。
現在4話まで公開されていて全12エピソードあるらしくこの勢いで最後までいけるのかはわからないが、今のところ進めば進むほど面白くて、なんかもう見てて思わず笑ってしまうほどだ。
を観てきた。
主演の伊藤英明のビジュアルと、数年前の大河ドラマ『麒麟がくる』における伊藤氏の役どころが素晴らしかったため、今回もそれを期待して行ったわけである。
あらすじは公式ホームページにあるが、
https://stage.parco.jp/program/aviewfromthebridge
ステレオタイプなジェンダーロールに拘泥し家長として振る舞うエディ(伊藤氏)とその妻ビー(坂井真紀)、妻の姉の娘でエディが愛してやまず、成長してなお家に縛り付けられているキャサリン(福地桃子)、そして妻の従兄弟でありイタリアから不法移民としてやってくる兄弟、マルコ(和田正人)とロドルフォ(松島庄汰)の物語である。
で、何が書きたいかというと、よくわからない観劇体験をしてしまったという話。
冒頭は、狂言回しの弁護士(高橋克己)の澱みないモノローグで始まる。その後幕が開き、幸福な頃の一家の姿が描写されるが、伊藤氏が口を開いた瞬間に強い違和感が襲ってくる。
棒読みだ。
言葉の一つ一つが、『セリフ』として意味を持たず流れ落ちていく。
キャサリンは帰宅した叔父の胸に飛び込み、絡みつくように抱き合う。不穏さを感じさせる、目に焼きつくほど無邪気な愛の光景と共に、低音で棒読みのセリフが流れ落ちていく。
劇が進行し、過保護に育てられ男を知らないキャサリンは、初めて目の前に現れた若い移民の独身男性・ロドルフォに一目で恋に落ちる。エディはロドルフォが『カマ野郎』(ママ。70年も昔の戯曲なのだ)であると言いがかりをつけ、そんな男に姪が奪われてなるものかと旧知の弁護士の元へ駆け込んだ。「法にできることはない」と窘める弁護士に激昂した口調で激しく詰め寄る。激昂した口調で激しく詰め寄っているのにも関わらず、セリフは相変わらず流れていく。会話が成立していないのだ。
高橋克己演じる弁護士は、本能的かつインモラルな嫉妬に駆られた男を前にした常識人というより、意味を持たない言葉の奔流の前に、言語の限界を知って戸惑い立ち尽くすインテリといった様相を呈してくる。
ビーを演じる坂井真紀氏は、妻として夫に寄り添い、あるいは向き合う姿そのままに、崩れがちな家庭の場面を立て直そうとしていたが、やはり圧倒的に流れていく主演のセリフ量の前には勝てない。
ロドルフォとキャサリンとの会話は慣れてくれば違和感がなかったが、おそらく物語の構造上、その若き二人は、そもそも一人の人間として彼に見られていないためだ。だから会話が成立しなくても大丈夫なのだ。
しかし今度はそのせいで、二人がエディに向ける愛や憎悪、困惑に一切の重みがなくなってくる。あの純粋に不可解な言語の羅列に対し、何を真っ当に苦悩しているのだ、という感じがしてくる。
そしてその異様な不協和音を抱えたまま、劇は終盤の悲劇へなだれ込んでいく。
失礼なことばかり書いてしまったが、伊藤英明氏はおそらく演技が下手なわけではないと思う。「演技の適性がピーキーすぎる」だけだ。正直動きだけで言えば他の役者の方が怪しいところもなくはなく、伊藤氏がそれをカバーしていたところもあった。
エディのくたびれた労働者の姿態、日常的に男らしさを意識しつけた一挙手一投足、戯れにロドルフォにボクシングを仕掛ける時の軽やかで悪意を秘めた動きと笑い、嫉妬を滾らせて部屋の隅に沈み込んでいる姿の不気味さ。舞台映えしないとは決して言わせない長身も相まって、エディという男そのものを見事に、しかも色気と悲哀を横溢させて表している。
ただひとたびセリフを発すると、演劇空間の位相が容赦無くズレ出してしまう。
パンフレットを買えなかった(持ち帰る袋がなかった)ので薄い理解ではあるが、アーサー・ミラーの脚本は、シンプルに受け止めれば、移民への差別意識問題と女性の自立・連帯の問題をからみつけつつ、家父長としての姿にこだわる男の自尊心と、その体面の下に押さえつけられた欲望を鋭く抉り出したものだろう。
ただそんな真っ当な狙いを外れて、主演のセリフの大半が機能しない状況で、この舞台は圧倒的な不条理劇として立ち上がってくる。冒頭の弁護士のモノローグで、ギリシア悲劇的な『条理』は示されているにもかかわらずである。
繰り返されるエディの「尊重されたい」という言葉は発されるそばから空疎になり、なんの意味も持たずに空を彷徨う。圧倒的な空疎に対して周囲は嘆き、怒り、困惑し、愛を語り、そして悲劇を止められないことをなぜか勝手に悟る。
そしてその空を彷徨うような言葉で表される自尊心に怒りを掻き立てられ、エディはあまりにも無意味で不可解な死へと突っ込んでいくのである。伊藤氏の怒りの演技は見応えのあるものであるが故に、その怒りの根源が空虚でしかないという不条理性はいや増していく。
そして唐突に死んだエディを、役者たちは無表情で見下ろす。我々の中に紛れ込んでいた全くの異分子がやっと去った、という解放感さえ浮かべて。
それはとりもなおさず、エディが脚本上囚われていたすべてのものの虚しさを示す、メタ的かつ正確な表現に他ならない。
あるいは、棒読みの彼こそがリアルな人間であり、周りの役者たちを「芝居がかった偽物たち」と捉えることさえできる。
人間の感情を言葉で表すことなど到底無意味であり、根底にあるのは超言語的な(本能的な)愛と嫉妬、憎悪だけだ。それでも周囲の「芝居がかった偽物たち」とエディは、無意味で空疎な言葉でコミュニケーションする他ない。そして彼は己のものでない空虚な言葉で己を取り繕い、縛り、孤立し、ついには偽物たちに殺されてしまう。
この姿が、あらゆるイズムに囲まれた現代人の戯画でなくてなんだろう。
つまりこの劇を伊藤英明の演技が不条理劇に昇華することによって、今回の舞台は一応の成立を見ているのである。
幕が降りた後、私はいい観劇体験をしたのかどうか一考した。期待していたものではなかった。しかし無ではない。あのエディは間違いなく、ただ達者な役者が演じるよりはるかに深みのある造型をしていた。よくわからない観劇体験だったが、今私にこれほどの長文を書かせるほどの体験ではあった。