はてなキーワード: 倭人とは
『魏志』倭人伝によると、邪馬台国の女王・卑弥呼が亡くなった際に100人以上の奴婢をいっしょに葬ったとされる。
卑弥呼以て死す。大いに冢〈ちょう〉を作る。径百余歩。徇葬〈じゅんそう〉する者、奴婢百余人
https://museum.bunmori.tokushima.jp/museum_documents/museumnews/mnews014/014_2-3_cc.html
飛鳥時代においては中国を範とした律令国家が形成され、その中で奴婢制度が定められた。(大宝律令 701年)
これは延喜格(907年)まで続いた。
https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111E0000017-14-3.pdf
公的な身分としての奴婢制度は廃止されても、飢饉や借金を苦にした人減らしのための人売りは長く横行した。
鎌倉時代の『吾妻鏡』延応元(1239)では、人身売買の禁止の原則と、飢饉におけるその緩和特例が見られる。
A 寛喜三年餓死のころ、飢人として出来の輩は、養育の功労につきて、主人御計らいたるべきの由、定め置かれおわんぬ。
B およそ人倫売買の事、禁制ことに重し。
D しかるにその時減直の法につきて、糺し返さるべきの旨、沙汰出来の条、はなはだその謂れなきか。
E ただし両方和与せしめ、当時の直法を以て糺し返すに至っては、沙汰の限りにあらざるか。
延応元年四月十七日 平
散位(太田康連)
前山城守
沙弥(二階堂行盛)
https://wallerstein.hatenadiary.org/entry/20081121/1227250694
人買船は沖を漕ぐ、とても売らるる身ぢやほどに、静かに漕げよ船頭どの
この状況は豊臣秀吉が人身売買禁止令を出すまで続き、以降は年季奉公制が主流となる
ただし、性奴隷については以降も活発に人売り人買いが横行したらしい
瀬川深さんという人が「ドングリ食って埴輪作ってた古代日本は誇りにならない」と言って燃えているらしい
これに限らず、日本の左派は古代日本を馬鹿にする傾向にあるが、ぶっちゃけ日本をdisる程、古代朝鮮の株も下がるので止めた方がいいと思う。
というのも古代朝鮮って日本に攻め込まれて属国にされてた時期がある。「あぁネトウヨの妄想か」と思っただろう?実はこれ朝鮮側の記録に残ってるんだよ。4世紀の高句麗の王様が「倭人が新羅と百済に攻め込んで属国にしていたので我々が倭人を打ち倒して解放してやった」って石碑残しちゃってるんだよ。これを広開土王碑という。中国や日本、朝鮮の歴史書にもこれに比定できる内容がある。
5〜7世紀に掛けて日本が朝鮮から多くのことを教わったのは事実だが、それ以前は朝鮮側もまだ文明がそこまで発達していなかったのか数と暴力でひっくり返せる程度の差だったらしく朝鮮側の記録には倭人の蛮族の被害が多く描かれている(そもそも日本に王族を人質に送ってたし)。古代日本を馬鹿にすると自動的に古代朝鮮も下げることになるので気をつけた方がいい
ちなみに朝鮮語の起源が日本語であるという意味でなく、逆に日本語の起源が朝鮮語という意味でもない。
日本語と朝鮮語は同祖の可能性があるという学説。
更に言えば同じ民族だったということも意味しないので、未だに嫌韓こじらせていたり、日本叩きを続けてる連中は巣に帰って良いぞ。
そんなことで好悪感情を昂ぶらせても俺たちの祖先みんなアフリカ出身なので学問の邪魔になる党派性は巣に持って帰ってくれ。
これで何がわかるかと言えば、古代朝鮮人と古代倭人はかなり密接に交流していたってのがわかる。
まぁ言語学から見ると過去の朝鮮半島は多民族な地域だったので古代朝鮮人と呼んで良いのか悩みはするが、ここはわかりやすく古代朝鮮人として定義する。
お前らがいくら韓国へ好悪感情持ってても過去の時代から影響されあっていた間柄なんだよ。
言語学が日韓祖語を証明したとき、それをその瞬間の事実として受け入れ、より良い未来と選択し、過去の時代の研究が進んだほうが世の中がほんの少しだけ楽しくなるはずだ。
広告に水着が使われづらくなったのは、あれは弾圧によって一つの市場、表現、仕事、働き口が潰された事例だ。
「小人プロレスが倫理的非難で潰されて小人症の稼ぎ先がなくなった」は信憑性が怪しいし古い話だから検証も難しくなっている。
だが、広告に水着が使えなくなったのはここ二十年に私たちの目の前で行われた弾圧だ。
確かに社会や思想はそのように動いたが、その動きが正しかったことは保証されていない。
だから「水着広告もなくなったんだし、他の性的魅力を生かしたプロモーションや仕事も公開範囲を狭めるのが妥当」なんてのは全然正当性がない。
水着が減ってよかったと思ってる人からしたら、運動成果であり倫理進歩なんだろう。
だが私から見れば、アメリカ人がネイティブアメリカンを殺したり改宗を迫ったこと、倭人がアイヌを殺し差別したのと同じくくりだ。
今ではそれらの行為はおおむね過去の過ちとして反省対象となっていて、輝かしき運動成果として扱われることはほぼない。
なのに、フェミニストなどが水着広告界を潰したことを疑いなく世の中の進歩であり実績であり「価値観のアップデート」などと呼んでいるのは、死体の山の上で快哉を上げているようでグロテスクに見える。
水着広告を潰したことや、今後性的表現が許される場を狭めていこうとしていることが、果たして先住民虐殺のような過ちとなるか奴隷解放のような偉業となるかは長い時間が経たないとわからないだろう。(なんならその二つも千年後には評価が逆転しているかもしれない)
だが少なくとも、自分達がしているのは絶対に奴隷解放的な正義の行いだと疑わず、反対者を悪だとかアップデートできていない愚か者だとか断じるのは止めるべきだ。