はてなキーワード: メンタリティとは
こういう「長い物には巻かれろ」的な価値観の中で育てられたら、そりゃあジャニー喜多川にしゃぶられても掘られても告発できないようになるのも道理だ。櫻井翔もそうだろう。
「みんな我慢しているジャニーさんの性的虐待の洗礼を、チクっちゃいけません」
「みんな我慢しているのに、ひとりだけ抜け駆けして、恩義あるジャニーさんを裏切るのは評判が悪い行為です」ってわけだ。
単刀直入に言おう、俺は「うっせぇわ」と「可愛くてごめん」が嫌いだ。
「可愛くてごめん」は最初気に入って何度か聞いていたが、しばらくしてからその歌詞から漂う人格にだんだん嫌気がさしてきて、気づくと聞くのをやめていた。
初めて聞いた時、なんて痛々しい歌詞だと思った。この歌詞考えたやつ絶対黒歴史になるだろ。
高校生が考えた歌詞に違いない。と思ったが調べてみたらこの歌詞を書いた作曲家は25歳らしい。嘘だろ。じゃあ天才だ。
まずこの曲の歌詞の大意は、社会に出るまでに敷かれたレールに対する反抗というこれまでの音楽で幾度となく繰り返されたありきたりなテーマだ。
こういった思考は中高生に多く見られるというのは同意してもらえると思う。
気づいたら大人になっていた』
というフレーズを見てほしい。この時点でこの歌詞における主人公は”大人”になっている。
俺の意見では、”社会のレールに乗ってしまった”という意味での”大人”だと思う。
精神的な成熟を示す”大人”という形容詞は”気づいたら”なっているものではないからだ。
さてここで作者の話に戻るが、作曲家は通常の社会のレールに乗ってなれるものではないので、この作者は仮想の主人公を立てていると考えられる。
そう考えると歌詞の奇妙さが浮き彫りになってくる。
それは、この”大人”像があまりにもディティールが低いということだ。
・最新の流行は当然の把握
・酒が空いたグラスあれば直に注ぎなさい
・皆みながつまみ易いように串外しなさい
・会計や注文は先陣を切る
ステレオタイプ過ぎないか? 俺が最初に高校生が考えた歌詞か? と感じたのはここが大きい。
俺の考えだと、この歌詞の仮想主人公は高校生くらいだ。というか社会に出た人間がこんなこと考えてたらヤバくないか? いくらなんでも幼稚すぎるだろ
『社会のレールに乗るくだらない社会人になりたくない、という中学生か高校生の痛々しいメンタリティを表現した曲』
だった。
現代は誰もが「何者」かになりたい時代だ、としばしば指摘される。「うっせぇわ」の歌詞は痛いほどその事実を体現させていると思う。
という歌詞は、自分はほかの者たちとは違う、一切合切凡庸ではない「何者」であるという宣言に他ならない。
他にも、
・頭の出来が違うので問題はナシ
・私が俗に言う天才です
自分が特別だ、と思うことがどれだけ特別じゃないことかとかそういうことも気づいていない青臭い歌詞だ。
はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
“自身のお気に入りの歌詞は「あなたが思うより健康です」というフレーズだという。syudouはまだネットシーンでのみ活動をしていた当時に、ネットの音楽が「病んでいる」「暗い」というイメージで片づけられていたことに不満を持っていたといい、それに対してガツンと伝えたいという思いが上記の歌詞に込められている”
と言っていたそうで、これはつまるところ”大人”に対する反抗というこの曲のテーマに加えてもう一つ、”陰キャの復讐”というものがあるということだ。暗い、根暗な陰キャは実は強いんだぞ! というシンプルなテーマだ。
俺が最も気に食わないのは
『つっても私模範人間
殴ったりするのはノーセンキュー』
という部分だ。
昔の有名なコピペを思い出す。
“初カキコ…ども… 俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、 他に、いますかっていねーか、はは
今日のクラスの会話 あの流行りの曲かっこいい とか あの 服ほしい とか ま、それが普通ですわな
it'a true wolrd.狂ってる?それ、誉め 言葉ね。
なんつってる間に4時っすよ(笑) あ~あ、義務教育の辛いとこね、これ”
この最後のほうにある
という部分が「うっせぇわ」の歌詞とめっちゃ似てる。すごい似てる。
結局、この曲の歌詞とこの曲に共感している人々は、自身を社会のレールに乗ることを受け入れた”模範的な人間”なんだ、という肯定的な評価を(無理やり)することで、国家による法的な統治に安住している卑怯者に過ぎず、その自分が語る反抗もせいぜいSNSで(しかも匿名で)文句を言うくらいしかする度胸しかない。
うわあ、まさしく陰キャって感じだ。
と俺は思ったわけだ。ああ、もちろん犯罪行為を肯定しているわけではない。
この曲で最も頻発される「可愛くてごめん」という歌詞に関する俺の考察を述べておく。
まず想像してほしい、橋本環奈が「可愛くてごめん」と言ったとする。そんなことを言われてしまったら俺たちは何も返す言葉はない。「はい、可愛いです」と答える以外の余地はない。
さてここで考えてみてほしい、
と言うだろうか?
まあ俺の意見では、橋本環奈はそんなことを一ミリも思わないだろうし、言うわけがない。橋本環奈にとって自分が可愛いことは息を吸うことと同じくらい当たり前のことだからだ。わざわざ自慢する必要がない。
そして本当に可愛い女の子は、自分のことを可愛いなんて言おうものならほかの女子から総攻撃を受けるので、心のそこでそう思っていたとて口に出さないものだ。
つまり本当の勝者は他者の僻みに迷惑をかけられることはあれど、そこから一転攻勢、「むかついちゃうでしょ? ざまあw」などとは絶対に言わない。ここに「可愛くてごめん」に秘められた興味深いメンタリティが表現されている。
この「可愛くてごめん」の主人公は、学校では地味な女の子で(確かPVでもそう表現されてたかな?)、周りの、いわゆる”一軍”女子に憧れ嫉妬し、ある種、僻みさえしている。
そして休日になると自分の好きな可愛い服を着て、メイクをして、”可愛く”なって街に出かける。そう――”一軍”女子と肩を並べるために。
可愛い自分に嫉妬する誰かがいると思い込み(実際にいる可能性はもちろんある)、自分のことを僻む、顔の見えない誰かのことを意識し、自撮りをSNSに載せて、自分が可愛いことを証明することで、そうした誰かと一人孤独に戦っている。
その誰かとは実は、スクールカーストのてっぺんに位置する一軍の女子を僻み、コンプレックスを抱く自分なのだ。
「可愛くてごめん」について考察してるとなんか可哀そうだなという感情がわいてきて、執筆当初にあった嫌いという感情が薄れてきた
俺もこんな風に匿名掲示板で嫌悪を吐き出すという陰キャムーブをしてるなと今思ったw ダブスタかもしれん
誰もが「何者」になりたい世界はSNSの発展によってもたらされた。他人といくらでも比べることができる世界で、自分という唯一無二の存在が本当に唯一無二であるということを証明する必要がある。
俺もこんな記事を書いて「何者」になったつもりなんだろう。伸びるといいな。
ありがたいことにたくさんのコメントを頂いた。
いくつか興味深い指摘があったのでその点をもう一度考察してみた。
この指摘は、「可愛くてごめん」の歌詞はほかの人からバカにされたりする自身の趣味に対する偏見をはねのける少女の精神性を表現したものだ、というものだ。
そうした精神性からこの曲の歌詞を振り返ると真っ先に浮かぶ疑問はこれだ
“なぜ自身の趣味をバカにされたり、見下されたりすることへの反抗が「自身が可愛いこと」なのか?”
これはルッキズムに少女の価値観が支配されていることを示していると言える。しばしば言われるように”可愛いは正義”というやつだ。この価値観の元では”可愛い”者は強く、”可愛くない”者は弱いのだ。
人からバカにされたり、根暗や変わっていると思われる蔑まれがちな趣味を持っている私(≒いわゆる陰キャ)の私でも可愛いぞ(≒強いぞ)! という主張だ。これは”陰キャの復讐”という文脈に回収できるのではないだろうか?
そして、その精神性の内側には普段抑圧されているマイノリティのコンプレックスがある。
そのコンプレックスが最も示されているのは、「可愛くてごめん」の歌詞すべてと言っていい。
「可愛くてごめん」と連呼することは、可愛くない自分を無理やり鼓舞するために必死に主張しているように見える。私は可愛いのだ! ということを全身全霊で認めようとしている。それは他者に向かっているように見えて、自分自身を納得させるために繰り返されている。
そうすることで「私は強いのだ!」と納得しようとしているように見える。
あと、「うっせぇわ」も「可愛くてごめん」も作詞者がそう考えている、と俺自身が思っているわけではないよ。正直ここまで若者に刺さる歌詞を詳細に書くことはマジですごいと思う。
実際こうやって俺が嫌いになっているという事実こそがこの曲の歌詞が素晴らしいものであるということの証左でもあるしね。
あと、「それを嫌うお前の中にそういう精神性がまだ少し残ってるからだろ」的な指摘があって笑ったwww
これってヒューマンライツナウやColabo、ぱっぷす、BONDプロジェクト、Spring、安田菜津紀、全てに通じる。
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
#BlackLivesMatter って結局何?スレッドです。
大坂なおみ嬢やワイドショーの報道で、「黒人差別撤廃」を訴える運動かな?くらいに推測していると思います。
今回、ろくでなしこさんの質問に答える形で、マスコミや支持者が教えない事実も含めて解説します。
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
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BLMは2013年に黒人への警察の横暴に抗議する3人の黒人女性人権活動家により結成。
彼女達は「我々はよく訓練されたマルクス主義者」と公言、ベネズエラの独裁者マドゥロ氏や、国内極左テロリスト達との親交も。
https://twitter.com/yousayblah/status/1307065325855346689?s=20
2: BLMの意外な理念
BLM公式サイトより
「…シスジェンダーの特権を解消しトランスの地位向上。同志との学びと共感。核家族から脱却、共同体による家族形成、子育て。ヘテロ基準を捨てクィアを肯定…」
「同志」は共産風呼びかけ。核家族の否定もマルクス主義の特徴。
https://twitter.com/yousayblah/status/1307065327889657857?s=20
3: BLMのゴール
警察組織の廃止、資本主義からの脱却、黒人達への賠償など、彼らの要求は多岐に渡ります。個々に見ていきましょう。
↓「国が我々の要求をのまないなら、システムを‘燃やし尽くして‘置き換える、わかるな?」と憤るNY支部長
https://twitter.com/yousayblah/status/1307065329999327232?s=20
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
3-b: 脱資本主義
共産主義の色が濃いBLMは、資本主義社会は白人至上主義的であるとして脱却を目指します。資本主義の象徴であるNikeやApple他大企業から莫大な寄付を得ていますが、それは「富の再分配」として奨励されます。
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
77%以上の黒人の赤ちゃんは未婚女性のもとに生まれます。「父親不在」は黒人社会へ対する大きな批判の一つですが、共産主義的な体制を目指すことで打ち消せるでしょう。個人による私的財産の所有を阻むこともできます。
https://twitter.com/yousayblah/status/1307065336206942209?s=20
🇯🇵Blah
@yousayblah
「奴隷の子孫である黒人に賠償せよ」論。試算によれば総額は12兆ドルにもなります。その一環としてBLMは黒人への土地、住宅、教育、医療、中絶費用などの無償提供、黒人犯罪者の保釈金免除を要求。
https://twitter.com/yousayblah/status/1307065339713388544?s=20
3-e: トランプ辞めろ
カラーズ女史がCNNに答えています。「我々のゴールはトランプを追い出すことです」…つまりこのBLMによる大規模な抗議活動は、アメリカ大統領選を見据えた政治運動だということです。
BLMが民主党への投票を示唆する #WhatMatters2020 もその例です。
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
3-f: その他の要求
無数にある“BLM demands”の例として、ワシントンDCでは、刑務所増設反対、売春の合法化、学校内での警察配備禁止、逮捕された暴徒達の無罪釈放、stop&frisk (警官が不審者を尋問し武器所持の有無を触って確認)の撤廃などが叫ばれました。
#これ本当にやっています
#この場合の売春合法化は犯罪組織が儲けるので日本の売春合法化と違います。学校内の警察配備禁止がブラック校則です。
4: 影の支援者達
GAFA含むあらゆる企業が大口ドナー、セレブやエリート富裕層も一般人もこぞって多額の寄付をしていますが、注目すべきはジョージ・ソロスと中国共産党のバックアップでしょう。
https://twitter.com/mei98862477/status/1294433890354860032?s=20
https://twitter.com/meguchan203/st
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@yousayblah
莫大な寄付金、不明瞭な用途は保守派のみならず左派からも批判の対象です。BLMのスポンサーはサウザン・カレンツというNGOで役員にはスーザン・ローゼンバーグという極左テロリストが名を連ねます。仔細な会計報告が出されることはありません
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
「BLMは平和的なプロテスト!一部の無関係な暴徒に乗っ取られただけ」などという言い訳が擁護派から聞こえます。これは真っ赤な嘘です。彼らは「黒人は過去に略奪されたのだから、今後はこちらが仕返しするべき」と考え、略奪を正当化しています。
ジョージ・フロイドの死後、大勢の若者がBLMに共感しプロテストに加わりました。当初は平和な行進をする者が大半でしたが、香港プロテスターやANTIFAに触発され、コロナ自粛の鬱憤も手伝い、彼らはすぐに危険な暴徒へと変貌を遂げました。
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
暴動に巻き込まれ、子ども達を含む多くの黒人が命を落としました。家屋が焼け店を失い路頭に迷う人達が続出しました。多くの人たちが昼夜問わず街を練り歩き、難癖を付けてくる集団を恐れるようになり、思想を語り合うことは自殺行為になりました。
保険会社の試算によれば、アメリカ全土における暴動の損害額は200億円にものぼるようです。個人の商店や家屋が受けた損失、心理的被害は修復できません。
10: 終わりに
トランプ大統領が繰り返し「これは極左との戦いだ」と言っていますが、その通りです。BLMの目的は「差別撤廃」ではありません。彼らの革命思想、近代アメリカの左傾化、進歩派リベラルの台頭、若年層の社会主義盲信、歴史、黒人問題…これらの予備知識無くしてBLM議論は出来ないです
映画は終わったはずなのに、心の中にまだ音楽が鳴り響いていた。帰り道の高揚感はまるでライブ会場から帰るときのようで、音楽に包まれた世界で息をするような感覚からずっと抜け出せない。映画『BLUE GIANT』は、感情を奏でる演奏で観客の心を掴む、最高の音楽ライブだった。
公式サイト: https://bluegiant-movie.jp/
予告編(YouTube): https://www.youtube.com/watch?v=h1I116oS_Lk
今年の二月から上映している本作は、同名の漫画を原作としたアニメーション映画だ。音楽と人間の物語を楽しみながら、ジャズ界の独自の価値観や挑戦についても理解を深めることのできるものになっている。
主人公の宮本大は「世界一のジャズプレイヤーになる」という大きな目標を抱え、故郷の仙台を飛び出し、単身上京する。東京で出会った凄腕のピアニスト・沢辺雪祈や、高校の同級生で素人のドラマー・玉田俊二とジャズバンド「JASS(ジャス)」を結成し、それぞれが音楽に向き合いながら、壁にぶつかりつつ、夢の実現に向けてひたむきに取り組む一年半が描かれる。
原作の「東京編」を中心にエピソードを厳選し、上映時間の四分の一をライブシーンに充てるという大胆な構成が採用されていたが、まずこれが見事な成果をもたらしていた。上原ひろみ(ピアノ)、石若駿(ドラム)、馬場智章(サックス)の演奏はとにかく圧倒的で、音楽とアニメーションのコラボレーションの最高峰と言える。また、その魅力を余すことなく味わうことができたのは映画館という環境の存在が大きく、Netflixの支配力が高まる現代において、専用施設の役割や可能性を示すことにもなっていた。
今回は、そんな傑作の魅力を紹介すると共に、宮本大の「ジャズを信じる」信念の問題点や、JASSの「So Blueに立つ」という目標が物語の性質に与えた影響について考えていきたい。
映画『BLUE GIANT』のテーマは「演奏者と音楽の関係性」だ。宮本大、沢辺雪祈、玉田俊二は、それぞれ「演奏すること」について異なる意味を見出している。その違いゆえに彼らの人生は巧妙に交わり、そして必然的に別れを迎える。
演奏者である彼らが「音楽に向き合う」ということは「自分自身と向き合う」ことを意味しており、この作品において演奏技術を高めることは、自分自身と真摯に向き合うことと同一に描かれる。自分自身と対話を重ねて演奏力を磨き、ライブを繰り返しながら音楽との関係性を深めていく若者たちの姿が、本作の大きな見どころだ。
ライブシーンはどれも素晴らしかったが、中でも僕が心を奪われたのは「汗」に関する表現だった。演奏者たちの身体から吹き出る大量の汗や、そこからこぼれた大粒の一滴が、アニメーションならではの表現で美しく描かれる。それは、音楽が空気を振動させて生じる運動の結果であることや演奏者の存在を再確認させるばかりでなく、自己探求の試みを象徴しているようにも思えた。落ちてきて弾け飛ぶ汗を見たとき、その背景にある身体的な研鑽や精神的な苦悩に思いを馳せてしまうのは、物語と音楽と映像が見事に組み合わさって感情を揺さぶるからだろう。
ライブシーンでもう一つ印象深かったのは「凄まじい演奏に目が釘付けになる」という描写だ。特に終盤の人々の目が幾重にも重なって演奏に引き込まれていく表現が印象的だったが、これらは音楽の演奏が聴覚だけでなく視覚も惹きつけるものであることを効果的に示している。実際に音楽ライブに行くと、音楽は「耳で聴くもの」というよりも「目で見るもの」「肌で感じるもの」であることを実感するが、この映画ではアニメーションの技術やアイデアによって同じ体験をもたらしていると言える。
また、脚本として素晴らしかったのは、この映画が「沢辺雪祈の物語」として完璧に仕上がっていたことだ。漫画版では交通事故によって最後のライブに参加できなかった雪祈だったが、映画版ではアンコールで大や玉田と共にSo Blueの舞台に立つというシナリオ改変が施されている(最高だ!)。怪我を負った雪祈は片手で演奏することを余儀なくされるが、その姿が大が初めて雪祈のプレイを見たときに片手で演奏をしていたシーンと重なり、呼応することになる。手を抜いて片手で演奏していたプレイと、片手でしか演奏できない状況で全力を尽くすプレイの対比があることによって、映画版はより一層雪祈の精神的成長が強調されるものになっていた。
本作はジャズライブの世界を美しく表現しているだけでなく、コミュニケーションや人間関係のあり方についても、ジャズ・プレイヤーたちの世界や文化を伝えるものになっている。素晴らしい取り組みである一方、その描き方にはついては大きな問題がある。それは、彼らの世界をただ単に肯定的に、あるいは美学さえ伴って、無批判に描いてしまっているという点だ。
ジャズバンドには「独立した個人たちが自分自身の活躍や成長を目指して組まれる」という文化的な特徴がある。作中のセリフにあるように「ジャズはロックバンドみたいに永遠に組むもんじゃない。互いに踏み台にして名を揚げていく」ということだ。そのため、良くも悪くもバラバラな状態が肯定され、自助を基調としたコミュニティ文化が成立している。
例えば、玉田俊二や沢辺雪祈はそれぞれ大きな課題に直面するが、大はその苦境に共感したり、手助けをしたりはしない。それどころか、雪祈が玉田を、玉田が雪祈を心配しても「自分自身の問題だから、おれたちに出来ることは何もない」と、その配慮を無用なものとして切り捨てる態度を取っている。
しかし、自分自身の問題であることと、周囲がその解決をサポートすることは決して矛盾しないはずだ(でなければ、カウンセリングという仕事は成立しなくなってしまう)。むしろ、人間が抱えるあらゆる問題は究極的には自分自身の問題でしかない。それでも人は、他者の悩みや状況を想像し、共に心を痛めることができる(=エンパシー)。そこに人間の素晴らしさがあり、そのような想像力に支えられることで、僕たちは日々の問題に対して継続的に立ち向かうことができているはずだ。
ところが、ジャズ・プレイヤーとしてあまりに完成されすぎている大のメンタリティは、そのような想像力を必要としない。自助を当然とする大の態度に、玉田は大きく動揺し、雪祈でさえ戸惑いを見せ、二人は困難に直面しても「助けてほしい」と言うことができない状態に追い込まれてしまう。大は「ジャズを信じている」と口にするが、これはジャズという音楽の良さが理解されることだけでなく、「ジャズバンド的な人間関係やコミュニケーションの方法が通じる」と信じていることを意味しているのではないか。つまり「ジャズを信じる」大の信念が、JASSの「助けてほしい」とさえ言えない人間関係を強固にしているのだ。
「信じるだけ」の大は、いわば「仲間のために戦わないルフィ」だ。彼の言動からは、人の弱さを認めず、自分が出来ることはみんなも出来ると思い込んでいるマッチョなワンマン社長のようなパワハラ気質が伺える。もしかするとそれは「お互いを追い込みながら、最高のソロを引き出し合う」というジャズの性質を、人間関係のアプローチに転用したものなのかもしれない。だとしたらそれは、今日ではあまり受け容れられないスポ根的なスタイルが、文化系の皮を被ることで見過ごされているだけなのではないだろうか。
この映画では、周囲の人々に助けを求めず、自分自身を追い込んで課題を克服しようとする姿を肯定的に描いている。しかし僕は、それらをもう少し批判的に捉える視点があるべきだったと思う。あれほどまでに深く自己と向き合うことができるのであれば、そこで培った想像力を活かして他者の心に深く寄り添う可能性も求められるはずだ。自助の圧力が高まる世の中だからこそ、自分自身に向き合い、自分自身の問題に取り組みながら、他者に対しても理解し、助けることができる人間関係を築く、そんなジャズプレイヤーたちの関わり方を提案して欲しかった。
この作品にはもう一つ、物語の性質に関わる問題がある。それは彼らの立てた目標、あるいは権威との関わり方の問題だ。
大、雪祈、玉田の三人は「JASSの目標」として、十代のうちに日本一のジャズクラブ・So Blueのステージに立つという目標を掲げる。もちろん大きな目標であり、大胆かつ困難を伴うチャレンジではあるのだが、僕はこの目標によって彼らの物語が「質的に」小さいものへと制限されてしまったと思う。
ジャズマンにとってのSo Blueは、野球の甲子園やラグビーの花園に相当する憧れの舞台だ。ただ、その性質は大きく異なっている。甲子園や花園は「勝ち上がる」ことで立てる舞台であるが、So Blueは「認められて」立つことができる場だ。つまり、そこに辿り着くためには権威を求めなければならない。このことから「権威に認められなければ成功しない」という価値観が生まれるのだが、それが(若者たちの挑戦を描くにしては)物語を物足りない方向へ導いてしまっている。
JASSはSo Blueの支配人・平にライブを観に来てもらうというチャンスを掴むが、雪祈のプレイが否定され、夢への道が閉ざされてしまう。このとき「縁がなかったということで」と断った平だったが、後に彼が自戒したことで雪祈へのオファーが生まれ、それがJASSのSo Blue出演へとつながっていく。雪祈のソロ克服という要因はあったものの、もしこの権力者が凡庸な人格の持ち主であったら、JASSはSo Blueに立つことはできなかっただろう。若者たちの挑戦に重きを置くには、権威的な存在が過剰である。
また、中学生の頃からSo Blueに立つという目標を持っていた雪祈には、権威主義的な性格が定着してしまっている。自分が評価していないギタリストと共演しても、相手が一定のプレゼンスを持っているとお世辞を言ったり、自分のソロについて大から指摘を受けたときは反発しつつ、平から叱責を受けると素直に聞き入れたりする。葛飾ジャズフェスティバルへの出演が決まった際には「フェスとなればジャズ業界の人間もたくさん集まる。駄目バンドの烙印を押されたら、もう一生どこにも呼ばれない」とまで言い切っており、妄想の中で権威が肥大化し、視野が狭くなっている様子が伺える。これらは、挑戦する若者というキャラクターの魅力を損ねる要素だ。
若者たちの挑戦を描くのであれば「権威に認められようとする挑戦」よりも「権威を打倒しようとする挑戦」のように、もっと質的に大きなものを期待したいが、ジャズ・プレイヤーの挑戦である限り、権威に対する依存は避けられないのかもしれない。
映画を通じてジャズという音楽の魅力は十分に伝わってきたが、僕は大がジャズを信じる姿に共感する気持ちにはなれなかった。映画『BLUE GIANT』は、ジャズの美学を称えるはずの作品でありながら、同時にジャズ的なもの(自助を前提とした人間関係やコミュニケーション、権威に認められることで成功するという価値観)が抱える課題も浮き彫りにしてしまっている。
それでもこの映画は、音楽の力とそれを支える視覚的な表現力で観る者を魅了してしまう。そこに問題があったとしても、圧倒的な恍惚によってどうでもよくなってしまう。それこそが、この映画の正体なのだろう。最高のクリエイターたちがもたらす感動が、自助を強要する主人公や助けを求められない人間関係、挑戦の質による物足りなささえもかき消すことで、「音楽の力」を証明することに成功したのだ。物語パートで引っかかることがあったにも関わらず、あまりに強すぎるライブシーンが全てを帳消しにした結果、鑑賞後の僕の心にはただ音楽だけが存在していた。大、雪祈、玉田たちにとって演奏することがそうであったように、まさに、最高の演奏によって数々の問題を乗り切った物語だったと思う。
ハッキリ言って行列させる店が全て悪い。
まずもって、店側が明確に行列のルールを設けないからこういうトラブルが生じる。だが、問題はそれだけではない。
そもそも行列とは、一種の飲食契約の予約である。要するに、紙に書いてその辺で待たせても本来問題はない。紙なら「グループの1人が早く来て人数書いて仲間を待っていても全然問題ない」ことは明白だ。たとえば電話で予約を受けるときに「全員分お声いただけますかー」なんていう馬鹿な飲食店はまずない。時間までにメンバーが揃えば店は何も困らない。
「行列」は、そういった対応を店が面倒がって、客に無意味な負担をかけて紙で済む順序を可視化し、何なら「店の人気を通行人に見せつけるアピール手段」にする卑劣な行為だ。道路という公共財を勝手に店の待合に使うだけに更にたちが悪い。なのに、客は真面目に並んで、何なら「長時間我慢したご褒美のように食事をいただく」という、まるで配給に並ぶ窮民のような卑屈なメンタリティーで店の非道に唯々諾々と従い、返す刀で客同士批判し合っている。控えめに言って阿呆では?
増田が長時間並ばされた理不尽、そして丼に髪の毛が入っていた理不尽を、店にぶつけることなく、客や巡り合わせに向けているのは、極めて残念だ。 店を批判しない自分の卑屈さが惨めにならないのか? 行列に入る人がいたらあなたは「店」にジャッジを求めればよかったし、丼に髪の毛が入っていたら「店」にそれを訴えるべきだった。それはめんどくさい人ではなく、客として当然の権利だった。 あなたは店に搾取されたのである。というか、不快感を持ち越している今も搾取され続けているのである。腹が立たないか?
まあ、なんだ。二度と行列に並ばないというのは、それは見識だと思うよ。さっさと潰れろそんな店。
(念のため、「店にも都合が……」とか店側に立って色々言い訳めいたことを述べる人もいると思うが、そう思う人は行けばいいしそう思わない人は行かなければいい、それだけの話である。そして前者を「随分卑屈だ」と思うのは私の単なる感想だ。それ以上でもなければ以下でもない。強いて言えば、私は増田の「もやもや」に、ある方向性を与えたかっただけである。)
自分の子どもが欲しい人って、だいぶ初期からそういうもの?なんだろうか。
いや、なんていうのかな、子ども苦手なのはそうなんだけど、それ以上に「子どもほしい」と思ったことが全然なくて、そういう気持ちってどこでわいてくるものなんだろう?と思って…。
子どもが身近にいなかったからでは?みたいな話もあると思うんだけど、きょうだいはいる。
ただ発達障害(自閉スペクトラム)で、小学生くらいからはずっと邪魔としか思えず、こんなのが産まれてきたら死ぬしかないという恐怖には、たしかにつながっていると思う。とにかくコレが存在することが嫌だみたいな気持ちがあり、弟2号はぜっっっったいに要らない。
そのうえ自分自身にもASD傾向があって(診断は出てない)、自分みたいな子どもは死んで欲しいし自分も死にたいので、自分の血筋と全く関係ない子どもで障害がなければ頑張れる可能性はほんの少しある。
でも自分で産むとそうはいかないし、こんなメンタリティでひとの家から引き取った子どもがまともに育つと思えず、子ども欲しいと感じる道が塞がってる感じなんだけど、他の人はなんかこんなことは考えてなくてただ欲しいって感じなんだよね。
そういう根源的な欲求って、ずっと子どもの頃からあるものなの?正直子供の時からあまりそのような気持ちがないので、そういう人ってどういう経緯・きっかけで子どもが欲しいって思うようになったんだろうなと単純に興味がある。
5.15テロのときはメディア(筆頭最右翼が朝日新聞)にノセられて無抵抗の犬養を射殺した海軍を
「義士の愛国心に応えよう!」と派手に助命嘆願運動して署名を集めて減刑させたんだけど、今回は山上助命を訴えるメディアなかったっぽいし。
勝手連でせいぜい100万ちょいの寄付が集まったくらいで終わってる。
かつては5.15や2.26のテロリストたちを賛美してるカスどもも、自分たちがなにをやってたのか思い知ったみたいで、そこは良かったかなと思います。
抵抗できない犬養や是清、晋三を殺したクズを「よっしゃよっしゃ」と持ち上げてたゴミのようなメンタリティ、そろそろ引導を渡していいのでは。
これはなんてことはない「オタクの独り言」を試しに書こうとしているだけである。
そこに高尚さも思慮深さも無い。そう言うものを求めてきた方はここで閲覧を終了して欲しい。
なんの話かと言うと、アイドルマスターの話だ。
結論から言えば、私はもうバンダイナムコの出すアイマス公式だけを喜んで飲み下すことをやめた、さらに言うならアイマス公式を絶対的なものと考えなくなったという話である。
当時まだ10歳を超えて数年の人間にとって、彼女らは衝撃的に眩しく映った。
まだガラケーを使っていた時代に、よく分からずに触れたのがそのアイマスシリーズだったのだ。
当時は結局多少触れた程度で終わり、数年が経ってデレステがリリースされた。
友人の勧めもあって試しに触ってみるとこれが存外面白く、何より、3次元の少女というものに当時虐められていたトラウマがあった私は2次元の少女ならその想起をしなくて済むことに驚きのめり込んだ。
少ない小遣いを考えて課金してみたり、イベントでどこまで行けるか試してみたり、上位勢の「大人」たちの崩壊加減を見て尊敬1割恐怖2割戸惑い7割の感情を抱いたりと、私の青春の隣には少なくともアイマスがあった。
Twitterで総選挙の話題を調べているときに、自らの担当アイドルをデカデカと掲げながら負の感情を撒き散らしている一団を見てしまった。
別段何かしようとも思わなかったが、運営はもちろんのこと他のアイドルの悪口まで大っぴらにして嘲っている姿に、彼らは何と戦い、何のためにアイドルマスターに触れているのかと疑問に思った。
私はその時点で公式との間に溝を感じてしまったのだろうと思う。
それは、彼らを見て感じた違和感というのが「ゲームのユーザー」の愚痴を「プロデューサー」が言うというものに起因していた。
その時点で、言葉たらずではあるがもはやアイマスをゲームとして消費するメンタリティは私の中に存在していなかったのだ。
私は幼い頃から、モノの設定を考えたり物語を紡ぐことが好きな人間だった。
私の視点から見れば、アイドルマスターの公式ゲームはあくまでひとつの窓のようなものに過ぎず、私の窓やその他のたくさんの窓からたくさんの並行世界を覗けること、それが許される土壌があることこそがアイドルマスターというブランドコンテンツの魅力だった。
そういった中で、ひとつの窓でしか無い総選挙に固執し、あまつさえ他のアイドルやプロデューサーを貶すまでに凝視するのは気味が悪かった。
私にとってアイドルマスターの公式は最も大きな窓であるにすぎず、もちろん声がつくだとか様々な特典はあるにせよこだわるものと思えなかった。
先んじて述べた想像と創造への好奇心、そしてその原動力となる小説をはじめとする活字媒体との触れ合いは私の中で彼女らの声を勝手に合成して再生していたし、やり取りを目を瞑れば感じいることもできた。
彼らは皆で共有したいという思いなのだろうか。しかしそうであればあんなことは言わないだろう。私は声をつけたい、声が欲しいという意味がわからなかった。
声がつけば露出が増えると言われても、その露出は公式での露出という意味であって、つかなくても「プロデューサー」が物語を作っていけばいいのでは無いか?
ソロ曲がもらえると言われても、まあ確かにこれは聞けたら嬉しいものではあるのでなんとも言えない。熱狂する意味がわかるのはこの理由だが、もらえるのもかなり遅れるという印象がある。
彼女らの声が聞きたいという意見はもっとわからなかった。先にもいったが、聴こえていたわけだから。
さて、これがマイノリティであることはしっかりと認識できていたので、この一般とのズレに蝕まれていくのにそう時間は掛からなかった。
そんな折に、今回のような話が出た時期があった。
公式は営利企業であって、アイドルマスターというコンテンツは近い将来たたむ可能性もある。
その時に一緒に自分までアイドルマスターを捨てるような真似をする気はなかった。
公式は一次創作者として尊重はすれど、その創作が発表された時点で観測される世界は爆発的に増え発散する。
何が言いたいか。マルチバースというか、並行世界がその時点で無数にできるということを言っているわけだ。
私が観測するアイドルマスターは私にとってのアイドルマスターで、それは誰かに邪魔されるものでは無い。
そして、その中で公式の受け入れ難い幾つかの変更や終了或いは新規開発を見た。
だから私は、私の中のアイドルマスターを尊ぶことに決めたのだ。
営利企業だから営利だけを求めるという決断は一見正しいが、その姿勢を貫きステークホルダーやユーザーを無視すれば営利より得難い「信用」はなくなる。
私の中でバンダイナムコという企業への信用はもはやつゆほども残っておらず、そしてそれを相手に伝え改善してもらおうと考えるほど彼らに熱心ではなかった。
なんかここまで書いて思ったのは、自分も読み手も煙に巻こうとするような書き方をするとまあ某アイドルっぽくなるし私が彼女の担当に見えるのではという不安である。
安心して欲しい。確かに可愛いとは思うが担当では無い。そもそも可愛く無い子がいるか?いねえよなあ?うん。
クソ眠い中で数年自分の中で渦巻いていた感情をなんとか言葉にしようとしたのでまるで分かりにくいのは自分でも理解している。
結局何が言いたいかというと、公式が全てでは無いということだ。
公式が紡ぐのを手放したなら自分が紡げばいい。どんな形であれ。
さらにこれを一般化すれば、「こちらを裏切ると分かっている人を信じてついていくほど我々は暇でも優しくもないのだ」ということなのである。
今まで元増田は場の空気がめちゃくちゃにならないようにアレコレ気をまわして議論を議論たるようにしてきてたんだろうなぁ。
ただ、こういう「最悪な状況にならないように、少しでも有意義になるように」って心遣いって、まーーーーーじでホントこれっぽっちも褒められもせず、何だったら気がつかれすらしないことばっかだよな。
なぜかというと最悪な状況にならない努力というのは非常に見えづらいから。
「観測されていない事象」に心を向けられる人間は少ないんだよ。
そして、最悪の事態を想定、想像できてないからこそその同僚は不機嫌をいつも表出させてて、多分直す必要性も感じていない。
こういう手合いは非常に好ましくない状況になったとしても「別に俺悪くないし」と思っていられるメンタリティでしょ。
そういう時にまた元増田みたいな人がどうにかしてくれるし、おおかた最悪は回避される。
ただ、議論をなるたけ有意義にしたいと腐心してる側の人間にはそういうくそみてえな鈍感と甘えの構造が理解できても、同僚みたいな戦略は取れない気持ちも、現在感じているであろう「人間を落としてる」と感じる気持ちもものすごく分かる。
不機嫌になると黙る人間にまだまだ寛容なとこあるよね。他の国はどうか知らないから何と比べてる訳じゃないんだけどさ。
議論に強くなりたい(決して口喧嘩で勝つ話ではない)なら、最低「キレない」「泣かない」「黙りこくらない」くらいは一般的に周知されて欲しいね。
とにかく損な役回りだよ…
上司みたいな風見鶏がいると余計萎えるのもめちゃくちゃ分かる。
不機嫌になって黙りこくるやつらを一堂に会してデスゲームして欲しい。
誰が見てもDQN丸出しなスーパーパワハラクズ上司が奥さんを自殺未遂させ2度目の離婚をした
上司自体も人間には理解できないチンパンジーなのはともかく、それ以上に元奥さんが理解できない
というのも、こんなゴミ男と結婚できるのは同程度のDQN女か危機を察知できないアスペ女かどちらかなのだと思うが、そういったメンタリティの女は自殺未遂なんかしないと思うんだよね
結婚相談所で知り合ってという経緯らしいが、どういう思考回路をしていたらこんな男と付き合って弱るんだろう。殴り合うなら全然わかるが。
生活保護をもらうための偽装自殺未遂か?それなら計算高い(見え見えの浅知恵だが…)クズ女ということでわかる
とにかく欲しかった。誰かが好きになるというかは誰かを彼女にしたかった。
ただ積極的ではないので、空から美少女が降ってくれればいいみたいな夢想をしていた。
あと、積極的にモテるようなファッションをするというのは負けとおもっていたのでそんなモテたい素振りをしないようにしていた。今思えばどうしてそれをしなかったんだと思うが…
高校生の頃、彼女ができる夢を見た。特定の誰かではなく、架空の人物、その時僕はついに「ついに僕にもできたぁぁ!!」という気持ちで、今でもその高揚感を覚えている。そして目が覚めた時にそれが夢だと分かったときの落胆ぶりも覚えている。
好きな人と付き合いたいではなく、誰かと付き合いたいだった。
90年代は、何かと恋愛文化が重要視されていて、ドラマは恋愛ものがほとんどだったし、やらずに二十歳を超えることを「ヤラハタ」と言われて童貞は恥ずべきものというのが男どもの共通認識であった。
彼女ができるというのは、その社会での一つ上のステップにいけるという気持ちだったのかもしれない。
いわゆるトロフィーってやつ。
19のときに初彼女ができた。しかし1か月で別れた。それでもなお僕は「彼女がいたことがある人間だぜ。20歳前にできたんだぜ」という気持ちになった。
完全にトロフィーだよね。何を勉強するかではなく偏差値で大学を決めている人間と同じだったわけだ。
初彼女と別れた後も、付き合っている状態じゃないとダメだという気持ちになった、フラフラし始めてしまったが、
その後いろいろあって大人になって、大学時代にできた彼女と(前述の人の次に付き合った人)そのまま卒業と同時に結婚した。
ステータスや世間体じゃなく人として見るということを教えてもらったんだね。なお妻は大学生ではなく、自分の周りとは違った価値観を教えてくれた。年もだいぶ違ったし。
19歳の頃初彼女ができなかったり、今の妻に出会えなかったりして、あの頃のトロフィーを求める気持ちをもったまま今の年齢になっていたらどんな人間になっていたんだろうと思うことがある。
ある時から諦観していたと思う。僕を選ばない側が悪いと思っただろう。それには根拠があって、こじれていた16くらいの頃はでも、チャラい男を選ぶ女が目がないという気持ちになっていたからね。
勉強ができる僕のような人がいいだろうとも思っていた。
その気持ちはおそらくずっと増幅されることになっただろう。
あと、当時のスクールカースト上位の男子たちを疎ましくも思いつつも、どこかあこがれているところがあった。
僕は本当はおしゃれしたいけれど、気恥ずかしさがあってできない。それをやすやすと越えている連中はすごいという気持ちもあったが、鬱屈しているメンタリティは素直になれない。
強そうだからモテるとか、イケメンだからもてるとか、はやりのファッションをきているからだとか、体育会系だからとか、表面的な分析にしかならないわけだ。
だから、連中のことを嫌だと思いつつ、自分にないものを持っていて社会に認められているとも思っている。つまり強さとか男らしさというモノの価値を逆説的に認めちゃっている状態だった。
このまま僕があのまま年を取っていたら、男らしさというモノへの羨望と恨みで鬱屈した感情を持つかもしれない。
「僕は男らしさを持てなかった。男らしさは低俗なものだ。粗暴だ。だからあえて持たなかったともいえる。でもそれでは女からは見向きもされない。女どもは男らしさを無くせというが、その結果が俺みたいなもんなんだぞ」と思っていそうだ。
自分たちの世代にも問題があったことを認めれないという性質が。自己を客観的に評価する能力に乏しく、また他人に感謝する意識がないが故に、自分たちの受けた「苦痛」を他の世代も味わうべきであると考え、「溜飲を下げる機会」をいつも伺っている。
老害って究極的にはこういう奴らだと思うんだよ。
自分たちはいつも被害者だと思っていて、だから他人に対して加害行為を加える権利を持っているという思い込みに基づいて動いてる。
同時に今まで自分たちは騙されてきたと考えていて、そこから自分なりに真実NI目覚めたと考えているから、自分の思い込みに固執し、他人の意見に耳を貸さない。
まさに氷河期世代だよね。
氷河期の口癖ってこんなのじゃん。
「上のせい」
「下のせい」
「なんもかんも政治が悪い」
「バカバカしいから選挙行ってなかったらその間に好き放題にされた」
「俺たちはもう騙されない」