はてなキーワード: 吹奏楽部とは
地域クラブということは、一般の吹奏楽団とほぼ同じような団体になるので、一般楽団を複数経験している増田が「お金」の面を試算してみたよ。
練習場所の費用、楽器保管場所の費用、楽器保管場所から練習場所やコンクールなどの本番演奏の場所まで楽器を運搬するための費用、外部講師の費用、個人保有が難しい楽器や設備(主に打楽器、ハモデレなど)の維持管理費用、譜面購入費などだ。
・地域は首都圏のベッドタウンレベル。今話題の柏市クラスとする。
・練習は週3回(平日2回、土日どちらか1回)、1日あたり3時間とする。一般楽団は初心者を断っていることもあり週1回の練習がほとんどだが、学生を対象とした地域クラブの場合は初心者教育も行わないといけないため、週3回とする。
・練習準備と後片付けにかかる時間はそれぞれ1時間とする。つまり練習場所の確保は5時間必要。
・外部講師は毎回の練習に来てもらう常任指揮者1名と、土日練習で管楽器や打楽器などを見てもらう講師2名が居るものとする。
・練習場所は公民館のホールレベル、保管場所は8帖のレンタルボックス、楽器運搬に使うのは2tトラックのレンタカーとする。楽器運搬に使うレンタカーの運転は団員の親が持ち回りで担当するものとする。
・本番は吹奏楽コンクール2回(県大会、地区大会)、定期演奏会1回とする。→これは学校の部活と同じ条件なので、費用試算では考慮しない。
・大型楽器や打楽器のラインナップは地区大会まで出られるレベルの吹奏楽部と同等とする。ティンパニ4台、鍵盤楽器一式、ピアノなどを保有。また、楽器購入費は考慮しない。
練習場所の公民館は5時間利用だとだいたい5000円くらい。意外と安い。これが年間150回になるので75万円。
講師の費用は、まともな人(何処かのプロ楽団に常任メンバーとして属しているクラスの人)なら1人あたり3時間で2万円くらいが今の相場だ。常任指揮者には2万円×150回=300万円、講師2名は2万円×50回×2名=200万円。合計500万円。
保管場所は、8帖のレンタルボックスは1か月あたり3万円~4万円が相場。3.5万円とすると、年間42万円。2階建てのレンタルボックスの2階だともう少し安くなるが、レンタルボックスの2階は楽器の保管には使えない。階段の傾斜が急すぎて大型楽器の出し入れが物理的に不可能だからだ。
練習場所への運搬費用は、レンタカー費用が1回当たり1.5万円なので、150回を掛けると225万円だ。
合計すると、862万円。
この中で学校の部活動だとかからない(学校側が負担してくれる)費用は「練習場所費用」「常任指揮者の費用(顧問が担うため)」「保管場所費用」「練習場所への運搬費用」であり、それらを差し引くと300万円。
これは大雑把な試算だが、部活動を地域クラブ化することで、かかる費用、つまりクラブ活動の参加者が負担するお金は2倍以上になると言うことは覚えておくとよいだろう。もちろん団としてのレベルを下げて、ティンパニは保有しない(ティンパニを使う曲を一切やらない)で4帖のレンタルボックスで間に合うようにする、練習回数を減らして楽器運搬もミニバンで間に合わせるようにするなどしたらかかるお金はもっと減るが、それは吹奏楽団の「質」とトレードオフになる事も覚える必要がある。
中高と吹奏楽部だった。
俺の学校の顧問は合奏(集まって演奏の練習)をするときは、打楽器のバチ(ドラムを叩く棒)を両手で叩いてリズムを刻んでいて、演奏が気に入らないとバチを持った手を振り上げてから思いっきり足元の床にバチ投げつけては暴言を吐いていた。
狭い音楽室にギュウギュウ詰めだから、跳ねて人に当たりそうになったり楽器に当たることもあった。控えめに言って危ねえ。
俺も含め部員は騒ぐこともなければ、怯えすぎることもなく練習していた。ように思う。
ある日、顧問がバチを叩くことを辞め、電子ピアノのメトロノーム機能でリズムを刻むようになり、バチを投げることも無くなった。
それでも、合奏中に機嫌が悪くなるのは変わらず、ある日「親にチクるやつもいるしな」と愚痴っていたが俺は感心がなく「ああそんなことしたやつがいるんだ」くらいにしか思わなかった。
そんな感じで数ヶ月、特になんとも思っていなかった俺だが、ある日、吹奏楽部ではない友人から思いがけないことを言われた。
「おまえのお母さんすげえな。吹奏楽部の顧問に直談判したんだろ?」
寝耳に水だった。母親からも部員からも全く聞いていない。友人はそういう噂を聞いただけで詳細は知らなかった。
帰宅して母親に確認したら「言いに行ったよ。バチのこと~」と呑気に言う。
マジか。
母親に何でも話していた俺は、練習のことやバチの話もしていた。でも、問題提起をしたつもりはなかったし、母親も問題視しているようには見えなかった。
それから部員達は知っていたのか確認してみたら、俺以外全員知っていた。
俺が鈍感だったのか、皆から白い目で見られていなかったのかは分からないが、この数ヶ月間みんなと仲良く話していたし何不自由なかった。
顧問がおかしいのは一目瞭然だったし、当時は深く考えることもなく楽しいブラバンライフを満喫していた。
日本の吹奏楽は競技人口(あえてこう書くが)は大きく演奏水準も高い。
日本の吹奏楽人口は、500万人ともいわれます。プロのオーケストラの管楽器奏者にも、吹奏楽部出身者がずらり。当然、全日本吹奏楽コンの出場経験を持つ人も多くいます。
朝日新聞社は吹奏楽コンクールの主催である。ちなみにこれは2019年の記事であるから、昨今の事情を考えれば幾分人口は減少しているだろう。
豊かな音楽社会を支えるのは演奏家だけではない。楽器を修理するリペアマンや、楽器店の店頭に立つ販売員なども、音楽が好きでなくては続かない仕事だろう。作曲家も吹奏楽をルーツに持つ人は(プロフィールに書かない人も含めて)意外にも多い。
とにもかくにも、日本の音楽社会を広く支える人間を育成しているのは全国の吹奏楽部であることは間違いない。無論合唱部や軽音楽部なども音楽シーンを支える担い手であることは言うまでもない。
部活(中学)のトラウマで会社怖かったけどもしかして社会って意外と優しい?
現在社会人3年目。中学時代はブラック部活の代表格、吹奏楽部に3年所属していた。
音楽や楽器は今でも好きだけど、部活は大嫌い。顧問も嫌いだし、部活仲間も先輩も後輩もみんな好きじゃない。当時はみんな大好きで大事だと思ってたけど、今なら分かる。あんなの洗脳だ。
私は先生のお気に入りじゃなかったから、しょうもないことで目をつけられていつも理不尽に怒られていた。
夏休みの1日練習で、たったの10分休憩をした。パート練習だった。私は打楽器を担当していたから1日中立ちっぱなしで、音楽室のクーラーはバカだから日中も扇風機で乗り切っていた。暑くてクタクタで、パートのみんなも水筒を煽って床に座り込んでいたと思う。そこにたまたま顧問が現れた。楽譜を取りに来たとかそんな程度の用事だった。
誰1人楽器を触っていない時間を見られた。休憩なんだから当たり前だが、顧問の目は鋭かった。あの人は何も言わずに音楽室から出て行って、パートのみんなとほっと息をついた。
合奏の時間になった。打楽器パートは晒し上げられた。「なぜ座っていた」「なぜ練習をさぼっていた」「床に座り込んで楽しそうに喋っていたな」
確かこんなことを言われた。当時私はパートリーダーだったので、代表してこう答えた。
今でも何一つ理解ができないが、私たちは激怒された。練習が9で休憩が1なら顧問が1の時間にたまたま音楽室を訪れる確率はどれくらいだ?9練習をしているなら、俺が見かけるはずなのはたったの1の休憩時間じゃなくて練習をしている時間のはずだろう!
仕事の時間に私語をすると怒られるし、普通に働いていてもきっと何か咎められるし、倒れるまで頑張らないといけないし、上司に呼ばれたら説教だし、朝は30分前に職場にいないといけない。私はそう思っていた。
でも、現実は違う。もちろん過度な私語は慎むべきだろうが、世間話や適度なユーモアが通じる楽しい人の方が仕事は上手いし、普通に働いていると「頑張っているから」とお菓子をくれる。褒めた後に周りはみんな「頑張らなくていい」「ほどほどにやればいい」と言うし、上司に呼ばれるときはただの打ち合わせだ。朝は始業までに座っていれば良い。
もう上司に呼ばれても怖くないし、先輩には気軽に話しかけられる。後輩にもちゃんと休みを取るように伝えられるし、定時の日は早く帰りなさいと言える。同期と話すのが毎日楽しみで、部署が違うのが寂しい。
荒れた地元から抜けだしたくて、中学受験のための勉強に明け暮れた小学生時代。(受験半年前に父がリストラにあい、経済的な余裕がなくなり公立中へ進むことになる。
それをきっかけに家庭は崩壊、母は父に「毎日ハローワークに行け」などと言い、母方の祖母は「死んで償え」と父を執拗に責めた。もう既に亡くなっていた父方の祖母の遺影を蹴っ飛ばし、何度も父の前で踏んづけて見せた。その後父は母方の祖母のお望み通り、自殺した。)
吹奏楽部に入り、夏休みのコンクール前には朝から晩まで練習、それでも力及ばず銀賞(吹奏楽コンクールにおける銀賞は全然上手くないことを意味する)だった中学時代。
部活引退後猛勉強をして偏差値60くらいの第一志望の高校に合格。両親共に偏差値40くらいの学校に通っていたので個人的には上出来だと思っている。
ギリギリで合格したこともあり、結構頑張って勉強しても全然平均点に届かない。
部活に力を入れている学校だったので、頻繁にクラスメイトが全国大会のために授業を休んでいた。
自分は自分なりに頑張っているつもりだったが、「全国大会出場」という大きな功績を残せないことが悔しかった。
大学受験はセンター試験で大失敗したので大幅に受験校を変更することになってしまったが、受験した学校は全部受かった。
父が亡くなったときの保険金で、無事大学に進学できることになった。
もちろん授業はちゃんと出ながらだけど、高校時代の悔しさを晴らすべくサークル活動に打ち込んだ。
サークル引退後はスナックでアルバイトをして100万くらい稼いで、自動車学校の費用と、学生特例で猶予してもらっていた年金の支払いに充てた。
半年くらいはスケジュールにほとんど空きがないくらい、インターンや説明会や面接の予定を入れた。
大手ばかり10社から内定が出て、その中でもいちばん人気の企業に入ることにした。
シンプルに何で私ここ入れたんだろうと思った。
圧倒的に顔採用だし、学歴フィルターもあったし、同期のほとんどは体育会系サークル出身だった。
研修が終われば関わりがなくなるしと思って泣きながら会社に行った。
1か月の研修はなんとか乗り越えた。
初日の朝から指導係に「お前は人の顔色を伺っている」という理由で泣くまで詰められ、「泣くなら帰れ」と言われた。
指導係から、一切の仕事を教えてもらえず、一日中罵倒される日々が続いた。
化粧をしないで会社に行った日があった。
疲れすぎて化粧をする気力がなかった。
家を出るときに、母に「化粧できないほど辛いってアピール?(笑)」と言われた。
辞めたかった。
30代になったら年収が1000万になるらしかったけどそんなのどうでもよくなるぐらい辞めたかった。
指導係から毎日一切仕事のことを教えてもらえず、「お前って本当に日本語が通じないよな!」と言われた日、会社の廊下で声を上げて泣いてしまった。
「人生終わったね」
会社を辞めることになりました、と母に伝えたらそう言われた。そうだと思った。特に反論はしなかった。
ハローワークの相談員に「絶対ADHDだと思う、じゃなきゃこんな無能なの説明つかないよ」と言われたので、精神科に行き、発達障害の検査を受けた。
結果は、平均よりIQは少し高いので知的障害の可能性はありません、「言語理解」「知覚推理」「ワーキングメモリー」「処理速度」も平均的でばらつきはありません、得意なことと不得意なことにやや差がありますが、発達障害とはいえないとのことだった。
次の就職先はすぐ決まった。
デザイン事務所でのデザイナー(未経験)として採用された。他県での仕事だったのでここで初めての一人暮らしが始まった。
デザインに使用するAdobeのソフトの使い方を必死で覚えた。
業界柄残業が死ぬほど多く、指導係から性的な内容の気持ち悪い手紙をもらい、社長から「雇って失敗したな」と直接言われた。
でも仕事の内容は誰かに聞けば教えてもらえたし、やりがいがあって楽しかった。
疲れて帰ってきた日は何も食べる気になれず、あばらが完全に浮き出るまで痩せた。
そういうのもあったのか、2年目のひどく暑い夏の出勤途中、倒れた。
人事から「戻っても腫れ物扱いだよ」と言われていたし、復職してちゃんと健康的な生活が送れる気がしなかったので、3か月休職して辞めた。
全く、本当に全く原因が分からない。
休職直前、誰からも何も言われてないのに涙が止まらなくなったり、背中がすごく痛くなったりした。
やっと落ち着いて働けそうなところを見つけたのに、休職してしまった。休職期限が来月に迫っているが、全く回復の見込みが無いため、退職予定である。
疲れが永遠に取れない。
頑張れなくなってしまった。
ふと、数年前の野球の応援のためコンクールを辞退した吹奏楽部のニュースを思い出したので黒い感情を吐き出させてもらう
私は中学生の頃吹奏楽部に入ってたんだけど、野球部の試合の応援に絶対参加だった
当時うちの学校の野球部は問題児が多くて、校内で他の生徒に暴力振るったりいじめをしたり
私はデブスの陰キャだったからブタwwとか思いっきり言われてたのでそいつらが大嫌いだった
でもその大嫌いなやつらが野球の試合をするからって吹奏楽部総出で応援に行かされて、本当に嫌だった
なんで自分の悪口言ってくるやつらの応援しないといけない?暑い中楽器を吹き続けて疲れるし、当日は楽器の運搬もあるし、、コンクールの練習も応援曲の練習で潰れるし
一回戦で負けちまえってずーーっと思ってた
どうしてこんなことになったんだろう。ここ数年で何度も思ったことだ。
これは奇妙な巡り合わせで出会った私にそっくりの友人が大学卒業時に書いた文章の書き出しである。この鏡合わせの彼が書いた文章を何度も自分事のように反芻してきた私は今年大学院を出る。修了という立場に際して、私も少し自分語りをしてみようと思う。他人の自分語りなど興味の無いという方もたくさんいるだろうから、そういう方はこの時点で引き返してほしい。思うままに書き殴っているので読みづらいし長いと思うが、それに我慢できる人だけ読んでもらえればと思う。
・生い立ち
私はごく普通の環境で育ったと思っている。地方在住で金持ちでも貧乏でもない家で、両親は優しくて、友達もいた。小中学生のころの自分は一言でいうと優等生気質だった。学校の勉強はそこまで苦にしなかったし、危ないこともしなかった。先生の言うことには従っていたし、学級委員を務めたりするタイプの人間だった。強いて言えば両親が少し頑固だったくらいだ。
小学校では初めに陸上クラブに入った。運動は苦手かつ嫌いだったし、何よりブラスバンドのようなクラブがありそちらに入りたかった。父が無理にでも私を陸上クラブに入れたのは運動の楽しさを知ってほしかったのだと思っている。運動神経のいい父にしてみれば運動は娯楽だったのかもしれないが、運動神経が壊滅的な私にとっては純粋な身体能力を問われる陸上は苦しかった。そのため5年生からはブラスバンドをやらせてくれと懇願した。タダで許してくれるはずもないので中学では運動部に入ると交換条件を付けた。5年生から始めたトランペットは本当に楽しくて練習した。6年生の途中からは1stトランペットを担うこともできた。
中学では周りの部員が吹奏楽部に行くのを横目に約束通り運動部に入った。誤解のないように言っておくと別に部活動自体は楽しかった。ただ音楽室から聞こえてくる音を聞くたびに自分もこの中にいたらどうだったろうと思うことは度々あった。中学では同学年内でいじめもあって、被害者ではなかったものの学年中を巻き込みつつも教師が黙殺しているそれに優等生気取りの私は心を痛めたものだった。その頃の私はもっぱら公正世界仮説(当時この言葉は知らなかったが)の敬虔な信者であり、親や先生にほめられている優等生の自分はいつか報われるし、逆にいじめなんぞ加担している人間はその人間性からどこかで破綻すると思っていた。
高校は少し離れた進学校に入った。近隣の学校に行く人が多かったが、いじめの件もあり彼らと距離を置きたい気持ちも大きかった。流石にレベルの高い授業でもあったが、モラルや教養を持った人が多く非常に楽しい生活を送った。高校の部活は軽音部と兼任しようかなと考えていたが、他方の顧問が専任を希望するような言い方をしたので諦めた。別に悪い人ではないと思うが、他人に機嫌を取らせるタイプの人間だった。高校では成績をぐんぐん落とした。周囲のレベルの高さもそうだが、私には2点の欠陥が見え始めていた。1つは努力。中学生まであまり勉学に苦労しなかった私は勉強に労力をかける癖がなかったし。加えて苦手な運動は一向にできなかったし、好きな人にアプローチしても付き合えなかったし、理論武装して親に頼み込んだことも結局許されなかったり、努力してできた経験と言えば自転車の補助輪を外すときくらいのものであったように思う。努力の数と成功体験の数なんて鶏と卵かもしれないが、努力をした経験もおそらく人よりは少なく、努力が実った経験はもっと少ない人間だったように思う。もう1つは先天的能力の限界である。これまでの自分は「丁寧に教えてもらえば理解ができる」という能力を有していたと思っている。中学生までの自分が苦労しなかったのもこれが原因だと思っている。しかし高校3年生になると少しそれに陰りが見えているのを人知れず自覚していた。周囲の人間には見えていないようで、親や先生は褒めてくれるし、同級生からも勉強ができるという認識をされていた。
3年生になると嫌でも受験を考えなければならなくなる。私はどこに行って何をするのだろう。勉強は好きではない。高校では文芸部の本に部外から投稿してすごく評判が良かったし、文化祭の劇の脚本や演出を担当して最優秀賞を取れた。そのあたりの活動は楽しかったしクリエイティブなことがしたいかな、あと音楽。それとなく親に専門学校の打診してみたけど、4年制大学に行けといわれた。「いい大学に行けばいい企業に行けるからね」と言われてきていたし、親心としてはそんなもんだよねと理解した。自分としてもレールを外れることに恐怖はあったし、レールに従うことで周りと同じように大学に行って、就職して、結婚して子供を作って、今の家族のような生活が送れるならそれでいいと思っていたのでじゃあ普通に大学に行くねとなった。
問題になるのは何がやりたいかである。私がやりたいことって何だったんだろう。結局見つからなかった。そこで親がアドバイスをくれた。
「まだやりたいことが見つかっていないなら、ここに行けばいいんじゃない?」
親が指し示した大学は、入学時に専攻を決めなくてよいという特殊な制度をもつ大学だった。みなさん名前ぐらいはご存じの都内の大学である。幸か不幸か、私にはそこを目指せるだけの能力はあった。
1浪しなんとか2年目で合格して大学1年目。はじめに学んだ格言がある。
「大学では勉強、サークル、恋愛、バイトのうち2つしかできない」
勉強は好きではないので、サークルとバイトをやるんだろう、恋愛もあるのかななどと入学後の私は胸を躍らせていた。憧れのバンドサークルにも入った。周りは経験者なので食らいつこうと頑張った。大学から帰って仮眠を取り深夜の安いパック料金で明け方までスタジオで個人練、シャワーを浴びて大学へ。その生活をしていたら資金がショートした。親にバイト禁止されていたため練習や交流のためのお金が足りず、実力もつかず人脈もできずにフェードアウトした。
大学の授業はひどく不親切であった。大学のレベルも相まって何をやっているのか理解できなかった。高校の時に疑問を持っていた内容が解決されるかと期待していたが、それらは大体1,2回目の講義で解決してしまうものか、もしくは深くがっつり専攻しないと理解できないようなもののどちらかで、学ぶモチベーションにはつながらなかった。教える側も教科書も「説明してはいる」「書いてはある」という感じで、高校までのようにわかりやすくとはいかなかったから、「丁寧に教えてもらえば理解できる」タイプの私では太刀打ちできなかった。つまらないし時間の無駄に思えて次第に講義も休みがちになった。
それでも、とりあえず大学を出れば何とかなると思っていた。ここで耐えている自分はきっと報われると思っていた。好きなものが大学で見つかればいいし、そうでなかったら高校までの勉強ができるから教師になればいい。これが1年目の私であった。
・崩壊
初めてショックを受けたのは成人式のことだった。新成人代表として何人かの陽キャ集団が壇上にあがった。式の前後に彼らと会ったがある人はバツが悪そうに私から目をそらし、ある人は肩を組んで話しかけてきた。どちらもいい気はしなかった。彼らはいじめの関係者である。なんで彼らの方が人生を謳歌しているんだろうか。その時にふと思った。「結局彼らは世渡りがうまかったんだ」と。くだらない正義なんて捨ててその場で空気を読んで得なほうに回るっていうのが正解で、黙殺していた奴らもそうだったんだ、なんて自分は愚かだったのかと。そう考えてみると社会に明確な悪役はいなくて、したがって明確な正義も存在しない。正義と道徳に立脚した自尊心のなんと脆いことかと思い知らされた。
そして、もう一つ。親や教師というのもまた所詮人間だとこの年になって気づいた。この中の何人かが数年のうちに教師になって、親になる。はっきり言って話の通じない人だっているが、そんな人も年さえ取ればいつかは親や教師になりうる。だから、黙殺した教師も、話の出来ない親もおかしくはない。じゃあ私が優等生してきた、私が正しさの根拠としてきたものは何だったんだろう。優等生であることを数字で示してくれるものは成績くらいしかない。世渡りが下手で運動などの技能も持たず、それでも私が公正世界仮説を信じてこれたのは、案外「勉強ができること」に依存していたのかもしれない。勉強しかできないやつだけど勉強ができるから何とかなる、そんな風に自分の無能さを騙して生きていたのかもしれない。
さらに拠り所の勉学さえ崩れ落ちた。留年が確定したのだ。受験でも足を引っ張った物理がとことん苦手で何も理解できなかった。2年目は学費の負担を減らすべくバイトをさせてもらった。サークル活動は事実上全部やめ、バイトと勉強の日々が始まった。バイト先は学生が割と多かったため、みんなと仲良くなれた半面、繁忙期が重なった。私は試験前はむしろシフトが増加し、結果的に致命的な必修単位だけ落としてしまった。2留である。親に電話して事情を説明した。単位くらい取れとストレートに怒られるかと思った。代わってあげる優しさを評価しつつもやりすぎだと注意されるかもとも思った。
人にやさしく優等生してきた自分の生き方への批判と自分が仲良くしている人たちへの非難のダブルパンチで頭に血が上った。怒りで何も言葉が出ずに何秒か無言の後電話を切って、壁を殴った。
数日すると気分が落ち込んできた。親はそれを「単位を落としたから」と解釈したようであるが、全く違う。私は他の人が当たり前のようにサークルやバイト、恋愛を掛け持ちして進級している中で、バイトしながら進級できなかった。私は当たり前のことすら満足にできない無能であると、薄々感じていた自分の無能が隠せなくなってしまったのである。
3年目は再びバイトを禁止した。クラスでの試験対策の仕事もやり、その科目の勉強をしなければいけない状況を作った。サークルとしては冒頭の彼の紹介で新しいサークルに入った。サークルでできた友人とは本当に仲が良く、勉強を助けてもらったり、サークル関係なしに遊んだり大学での生活の基盤になった。助けてもらえる人も増え、自分で学習するようになり、この年の上半期では単位の取得ができた。しかし、私が感じていたことは決してポジティブなことではなかった。私がこの年の経験でわかったことは「お前はやればできるが、環境のサポートがあって自分で勉強してもちゃんとできるのは2単位」ということである。私は2年で70単位以上取得する想定のカリキュラムを、半年で2単位しか取れない脳みそでやっている。無能すぎてもはや卒業が無理なのではないかと思った。
公正世界仮説、評価軸としてきた大人たちへの信頼、自身の実力への評価の3つが音を立てて崩れて、この時私は確かに一度死んでしまった。このことに気づく前の自分に戻れなくなってしまった。中学のいじめがらみで「死にたいけど死ぬ勇気もない」って言ったときに「死ぬのなんて勇気って言わねえ」って怒鳴りつけてくれた友人がいた。
・専攻決定
4年目にして2年生。この年は諸々の事情でクラスから孤立した。喧嘩別れのようなものである。私としても仲良くする気はなかったので1人でどこまでできるかやってみようと思った。結果は惨敗だった。単位取得こそぎりぎりできたものの私はこの大学では人に寄生しないとやっていけないと気づかされた。
そして、4年前に選択を先延ばしにしたツケの返済期限が来ていた。専攻の決定である。結局4年間でやりたいことは見つからなかった。勉強は面白くないし、勉強以外の何かを思い切って始める余裕もなかった。教員になろうかとも思ったが、それもかなわないと思った。教職は卒業単位には含まれないため、追加でいくつも講義を取る必要がある。通常のカリキュラムすらまともにできない私にそれは無理だろう。ちなみに私と同じく成績の芳しくなかった冒頭の彼は教職を志して単位を取得しに行ったが、弊学では満足に教職まで取り切れなかった。教職を目指した世界線の私もきっとこんなものだろうと思ってしまった。
理系科目はわからなかったので、唯一興味がわいた心理学を専攻しようと思った。しかし、成績が足りなくて進むことが絶望的だった。ここで初めて間違いに気が付いた。この大学のシステムは何をやりたいか不明瞭な人間を救済するシステムではなく、やりたいことや才能が複数ある人間に選択肢を与えるシステムなのだと。私などがこの大学には来てはいけなかったんだと激しく後悔した。
このシステムでは通常、成績が足りなければ次の年に再挑戦することができる。しかし、私は4年目であったがために在学年限が迫っており、この年で専攻を決定しなければならなかった。そのため、当時人気の低かった化学を選んだ。化学は苦手で高校化学すらわからないが「とりあえず大学を出れば何とかなる」のであれば、と苦渋の選択をした。
5年目、3年生。1限からの授業と週3回の実験があり、9時-18時のような生活になる。実験には予習とレポートがあるため、実際の拘束時間はこれより長い。何とか4月を乗り切ったところで、レポートを1つ残してしまった。GWに入ってレポートをやらなければと思って毎日机に向かおうとした。いや、向かったこともあった。だが、ペンを持っても何も書けない。そのまま時間が過ぎてごはん時になり席を外してご飯を食べる。そんな日が続いてGWの最終日、床にへたり込んで泣いた。書かなきゃいけないと思いつつも1文字も書けなかった。
3年生の必修は実験だけだったので、他の単位を犠牲にしてでも取ろうと考えた。1時間だけ講義を休んで...その1時間を何も書けずに終えた。これを繰り返してほぼ全ての講義を欠席した。次第にいろいろおかしくなっていった。頭痛もちでもないのに頭が痛みだした。文字が読めなくなり、教科書はおろかネットニュースくらいの簡単な文章でも字が滑るようになった。1日にできることがゴミ出しと洗濯くらいになり、起きて寝る以外に食事、入浴、ソシャゲの周回くらいしかしてない生活になった。
溜まりに溜まったレポートは夏休み前に呼び出しを食らったことで、無理やり夏休みを使って消化した。歯を食いしばりながら全部消化したことは覚えているが、歯を食いしばればできたことがなぜここまでできなかったのかこの時は疑問だった。
4年生になり、大学院へ進学することになったが、大学院の手続きと入試勉強、足りなかった単位の試験勉強などでタスクが溜まった瞬間、この症状は再発した。友人の勧めを受けて学生相談所に通うことになった。
学生相談所のカウンセラーはいい人だった。いろいろお話をして気持ちは和らいだ。専門的なこととしてはWAISの検査を受けた。結果は処理速度だけが異様にへこんでいる格好になった。別に数値は低くないので大丈夫と言われたが、「問題の有無は環境によって決まりませんか?能力の高い人が集まる環境ではそれなりの能力が要求されますよね?」という質問には満足のいく回答は得られなかった。
親にも何度か愚痴を言ったことがある。そのたびに「あなたは世間一般には優秀だから大丈夫」と返されるのである。何が大丈夫なんだろうか。”今の環境”が辛いと言っているのに”世間一般”という別の集団を持ち出して何の救いになるんだろうか。これ自体も言ってみたことがあるが「なんでそんなこと言うの」と言わんばかりの困惑した顔をするだけだったのでやめた。別に親以外でも同様のことを言う人はいる。世間一般の評価が邪魔をして、まともに助けを求めることすらままならない。内部の人間から見て無能で、外部の人間から見て有能な私は、共感を得られる対象がとても限られていて苦しかった。大学ブランドという呪いにかけられて苦しかった。
やりたいことをやれていればよかったのだろうか。サークルで作曲を体験させてもらう機会があった。でも続かなかった。結局忙しいとかいろいろ言ってインプットから逃げている自分がいる。クリエイターにはなれなかっただろうなと思った。好きなことも頑張れない自分に「自分が勉学を頑張れなかったのは勉強が嫌いだからじゃない、努力が嫌いなんだ」という事実を突きつけられてまた悲しくなった。あれほどに信じてきた公正世界仮説は「お前が苦しいのはお前が間違ってきたからだ」と自分に牙をむき始めていた。
・進学と私
大学院へ進学することにした私だが、実は私は望んでいなかった。学部生時代に夜遅くまで研究に勤しむ先輩たちを見ていて「私にこれは無理だ」と実感していたからである。研究への熱意はおろか、化学への意欲も知識もないのである。ただでさえ病む人が多く出る大学院という環境にこんな人間が行くのは自殺行為に他ならない。そのため、私は就職を強く希望した。しかし、親にそれを伝えると「今のお前に就職はできない」と言われた。就活を終えた今だから言えるが、これは正しかったように思う。議論は「就職はできないから進学しろ」「院でやっていけないから就職させろ」の平行線で、就職も進学もろくにできない無能をぼこぼこにリンチするだけで生産性はなく、結局「とりあえず進学はするがいつでも辞めてよい」という落としどころになった。
私は院試に落ちるのが最適解だと思った。学力もないので真面目に受けても受からないだろう。院試を受けたけど落ちましたというのが親にも研究室にも一番角が立たない。しかし、筆記試験が思ったより点数が低かったのか通ってしまった。面接をすっぽかすことも考えたが、会場に研究室の先生方がいるかもしれないことを考えると気が引けた。面接では辞退の意思を伝えるつもりだった。面接官と私だけの秘密である。私は院試を受けて落ちたのだと周りに言えばよい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/cfb969e3d2c94746cddf549aa4b5e3f706f17e93
日本の強豪校の吹奏楽部で過重な練習時間が問題になった事例があった。
では、吹奏楽先進国とされているアメリカの高校ではどうなんだ?というのを紹介しておく。
まず、吹奏楽は高校の選択授業と言う位置づけ。地域や学校によって異なるが、オーケストラがあったり、マーチングバンドがあったり、吹奏楽(コンサートバンド)があったりなど様々。
そして学校の授業なので、週に数コマ×1~2時間しかやらない。
そもそも吹奏楽の授業に参加するためのトライアウト(オーディション)がある。これに通らないと吹奏楽部に参加することすらできない。
また、授業の時間は短いので基礎練習や個人練習をやっている時間もない。
だから、吹奏楽に参加する学生達はみな、放課後に外部のトレーナーのところに行ってレッスンしたり、個人での練習に明け暮れる。
学校が長期休暇に入ると、日本の吹奏楽部よりも厳しい「キャンプ」を行うところもある。
ある例では、毎日朝8時から夕方4時まで練習する。事前準備、片付けなどを考えると朝7時~夕方5時までの9時間拘束される。
日本の強豪校の吹奏楽部に勝るとも劣らない、いやそれ以上の練習時間である。
こんな環境なので、学生は朝早くに親の車で送ってもらうことが前提のようだ。
つまり、アメリカの吹奏楽部は、「校外での自主練でスキルアップが前提」であり、「長期休暇期間は長時間練習」でもあるのだ。
日本だとこの2つとも校内のリソースだけでやろうとするからブラック部活化するが、アメリカでは外注することでブラック部活化を表面上防いでいる。
ただし親の金銭的負担はアメリカの方がめちゃくちゃ大きい。平民層には手が出せない領域だ。
日本の吹奏楽部のブラック部活状態を改善するには、練習環境の外注化しかないのだが、そうすると楽器に触れない平民層が多数出てくる。
俺はオカマではないが芸能に詳しく特にジャニーズの知識は当時豊富だったのでイケメンでも運動が得意でもないが男子の中ではトップクラスで女子と会話している方だった
同じ部活の子と二人きりでカラオケにいったりクラスの子とデートに行ったこともある
だがセックスには至らなかった やはり女子比率が多いと迂闊な事が出来ず男子は肩身が狭い
高校で培った女子とのコミュニケーション能力が活きていた
だが既にTwitterで知り合った同い年の彼女が居るので大学で恋愛に発展することはなかった
それでもサークル活動に明け暮れたり留学生の女と食事に行ったりと充実していた
今は鳴りを潜めているがコロナ禍になる前は本当に青春のためにがむしゃらだった
足りない青春は補えばいいし叶えられないなら環境を変えればいい
ホルンの元増田さんが追記で「ディスったつもりはない」と仰っておりますので、この議論に関してはこれ以上反論も補足もいたしません。
ただ一点、元増田さんには「あのような書き方をすれば尺八(またはマイナーな民族楽器全般)がディスられたと感じる読み手が私を含め一定数居る」ということだけはご認識いただきたいです。
それより私が驚いたのは、はてなの中でどのようなきっかけであれ尺八という楽器にここまで注目していただいたということです。
特に「面白い」「勉強になった」「尺八吹いてみたくなった」等のコメントは予想外で本当に涙が出るほど嬉しく、励みになりました。
これが元増田さんへのツッコミという形ではなく単発のエントリだったとしたら、たとえ同じ内容でもここまで反響を頂けなかったと思うのです。
こんなチャンスはもう二度と来ないと思うので、今回の件をきっかけに尺八に興味を持っていただいた方に向けて、もう少し書かせてください。
尺八がマイナーな楽器であることは十分承知していますが、少しでも楽器としての魅力をお伝えしたく、なるべく専門用語を使わずお伝えさせていただきます。
流派によって多少の違いがありますが、基本的にカタカナで縦書きに表記されます。
基本となる音は5種類で、順に「ロ、ツ、レ、チ、ハ(リ)」となっています。
このカタカナは音程ではなく指使いを表しています。ギターでいうところのTAB譜に近い表記です。ですので同じ音程でも指使いが違えば表記も変わりますし、逆に表記が同じでも尺八の長さが変われば出てくる音の高さも変わります。
音の種類は替え指や特殊奏法を全部カウントするとおよそ30種類です。殆ど全ての音が西洋音楽の12音に対応していますが、中には五線譜では表現できない替え指や特殊奏法もあります。
尺八の音域はおよそ2オクターブ半ですが、ホルンと同じく音域の高い音は正確に当てるのが難しいです。
しかも、高い音の中にたった一つだけ、なんと足(正確には太もも)を使わないと演奏できない音が存在するのです!足を使わなくても音自体は鳴ることは鳴るのですが、ピッチが上ずってしまい使い物にならないのです。
指使いや首振りだけではこのピッチのずれをカバーしきれないので、太ももで尺八最下部の息の出る穴を塞いでしまい、首振りのくだりでご説明した「開口端補正」を利用してピッチを適正な所まで下げているのです!
繰り返しになりますが、基本の尺八は指孔が5個しかありません。これによる最大のデメリットは「細かいパッセージが吹けない」ということです。
基本の音だけで構成されたパッセージなら吹けなくもないですが、半音や特殊音が混じってくると、かなり厳しいです。そう考えると5孔で平然とジャズを吹きこなすZac Zinger氏はマジで化け物です。
このデメリットを克服するために、指孔を増やした尺八が存在します。まとめて「多孔尺八」と呼んでいますが、メジャーなものは6孔と7孔で、多いもので9孔があります。
指孔が増えることで、本来であれば「首振り」や「指孔を少しだけ開ける」などの細かい動作を必要とする音も指孔の開閉だけで出すことが可能になります。
この多孔尺八を「邪道だ」と毛嫌いする奏者もいますが、私はこれにより尺八音楽の表現の幅が広がるのであれば良いのではないかと考えます。
プロの定義が曖昧なので何とも言えませんが、メディアに複数回登場したり、CDを出したり、定期的にリサイタルを開催している奏者に限定すれば、国内で100~150人くらいではないでしょうか。
最近活躍している若手プロはその多くが東京藝大の尺八科邦楽科尺八専攻出身です。https://hougaku.geidai.ac.jp/
そんな中、メディアへの登場頻度が図抜けて高い現役プロ尺八奏者が2人存在します。一人は「和楽器の貴公子」こと藤原道山氏、もう一人は「美人すぎる尺八奏者」こと辻本好美氏です。
辻本好美氏の演奏は、実は某テレビ番組で毎週必ず、それも何回も使われています。正解は以下の動画の1:55あたりから。
https://www.youtube.com/watch?v=2NfBpCQ5VYQ
お二人とも人気実力ともに申し分ないですが、私が個人的に一番好きなプロ尺八奏者は小湊昭尚氏です。彼の演奏がきっかけで尺八の世界に興味を持ったと言っても過言ではありません。
小湊さんがYOASOBIの「夜に駆ける」を尺八でカバーした動画は超絶オススメなので是非皆さんにご覧いただきたいです。先ほど紹介した「足を使わないと出せない音」や「首振り」も速いパッセージの中でバンバン使っていて、言葉がありません。
https://www.youtube.com/watch?v=LI0nzOKtTuk
尺八と聞いて多くの方がイメージされる「ブヒョ〜」という荒々しい音ですが、あれは口腔内や唇の形状を変えることで敢えて乱気流を発生させ雑音を含ませていて、専門用語で「ムラ息」と呼んでいます。
やり方は奏者によって様々ですが、基本的には舌の先端を下の歯の付け根あたりに巻き込んで通常より強めの息で吹き込むことで鳴らすことができます。
このムラ息、曲中であまり多用しすぎるとうるさい演奏になってしまいますので、ベースは綺麗な音で演奏し、ここぞという時に使用しています。ちなみに上記紹介の「夜に駆ける」動画の中では3:06あたりで使用されています。
本当はもっともっとお伝えしたいことがあるのですが、長すぎると逆に興ざめになってしまいそうなのでここまでにします。
ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました。
尺八に関する質問があればトラバやブコメにお寄せください!可能な限り追記で回答いたしますので。
2/26 追記
皆様ありがとうござます。これまでに頂いたブコメからいくつか回答いたします。
兎にも角にもまず楽器が無いと始まらないのですが、これには明確な回答がございます。
ズバリ、「プラスチック尺八 悠」の一択です。初心者用の尺八としてはこれ以外の選択肢は無いと言っていいでしょう。価格は約16,000円です(昔はもうちょっと安かったんだけどなぁ…)。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00P2FXKRS/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_VR20JYRNZ0YEQJ2QWS28
ヤフオクやメルカリなどで中古の竹製尺八が売られていますが、初心者には高確率で地雷となりますので絶対に手を出さないでください。実家の押入れに眠っていた尺八も避けた方が無難です。
理由として、竹製は太さがまちまちで本人の口に合わない場合があること、手入れがされておらず割れていたり調律されていない場合があること、作者がわからないのでクオリティが玉石混淆なこと、などが挙げられます。
その点「プラスチック尺八 悠」はその名の通りプラスチック製なので太さ、仕上がりが均一で、乾燥などによって割れる心配がなく、プロ尺八奏者による監修もされております。
もし竹製の尺八が欲しくなっても絶対に一人判断して買わず、信頼できる師匠、尺八奏者、製管師と一緒に選んでください。
尺八選びを間違えたために最初の段階でつまづき、「私には無理だ」「やっぱり尺八は難しい」と思い込んでリタイヤする人の何と多いことか。残念でなりません。
楽器以外に必要なのは譜面台、チューナー、露切り(管楽器でいうところのスワブ)、テキストくらいでしょうか。
譜面台は尺八用をお勧めします。蛇腹式で横に広がるので主に縦書きの尺八用楽譜を置くのに適しています。
https://www.amazon.co.jp/dp/B000WMCB94/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_HKHG69Q886CJS94SFZAP
チューナーは一般的なものであれば何でも構いません。スマホのアプリでも大丈夫です。
露切りは購入すれば間違いないですが、自作で手ぬぐいやハンカチに紐とおもりを結びつけた物でも大丈夫です。
練習後に露切りで尺八内部に付着した水分を拭き取って終わりです。簡単ですね。これも尺八の魅力です。
不可能とは言いませんが、できれば信頼できる尺八奏者から直に教わってほしいですね。
オンラインレッスンを開講しているプロ奏者も何人かいらっしゃいます。レッスン料は講師によって千差万別です。
各流派の師範などの肩書を持った方もいらっしゃいますが、師範=プロではないので注意して下さい。実際にその人の演奏を聴いたり体験レッスンを受けたうえで決めた方が良いでしょう。
最近はプロ奏者がYoutubeで解説してくれている動画もありますので参考になるかと思います。
https://www.youtube.com/channel/UCzD1bRWJ6o9ECnHRUVGctMw/videos
初心者用のテキストですが、個人的なオススメは「鳴るほどザ尺八」です。
https://www.amazon.co.jp/dp/4991014433/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_Q2V39NSKQTAXAGBANXCG
著者の菅原久仁義氏は現役のトッププロ奏者で、多くの若手プロ奏者を育成した実績もお持ちです。
もしあなたが大学生であれば、「和楽器サークル」または「尺八サークル」に入会してください。懇切丁寧に教えてくれるはずです。
もし自分の通う大学にそうしたサークルが存在しない場合、近所の大学のサークルに相談するのも手です。
社会人になってから尺八に出会った私としては、同年代が集まって切磋琢磨できる環境と練習時間がある大学生が羨ましくて羨ましくて仕方ありません。
一緒に練習できる仲間って、本当にかけがえのない存在です。小中高の吹奏楽部での経験があるからこそ、尚更そう思います。
ホルンの知名度のくだりでも少し話題になりましたが、国内唯一の和楽器専門誌「邦楽ジャーナル」によれば、現在の尺八人口は国内におよそ2万人とのことです。
他の楽器の人口がわからないので、この数字が多いのか少ないのか、私には判断できません。詳しい方いらっしゃいましたら教えてください。
ご想像の通り、曲の調や音域に合わせて随時最適な尺八を選択しているからです。そのため、曲の中で転調があると動画のような持ち替えが発生します。
尺八は一寸刻みで長さの違うものがあり、一寸長くなると出る音が全体的に半音低くなります。
最も一般的な長さは一尺八寸(D管)で、次いで良く使われるのは一尺六寸(E管)、二尺三寸(A管)となります。
ちなみにこの「一尺八寸」が「尺八」という名の由来になっているといわれています(諸説あり)。
そうです。大甲のツです。
「夜に駆ける」動画では結構な頻度で使われていましたがこれは極めてレアケースで、通常の曲で使われることはほぼ無いのでご安心ください。
尺八が合奏用の「楽器」として使われ始めたのは明治時代以降で、それまでは禅宗の一派である普化宗の虚無僧が修行の一環として使う「法器」でした。
そのため、他の楽器と合奏することが禁じられていたのが原因と思われます。事実、虚無僧が吹いていた曲はそのほぼ全てが独奏曲となっております。
箏と三味線と尺八が合奏する曲がありますが、あの編成が成立したのも明治以降で、それ以前は胡弓という楽器が今の尺八のパートを担っておりました。
さらに、当時の尺八は現代の尺八とは違い管の内部が漆で整えられておらず細かい凹凸があったため、音程や音量が不安定でそもそも合奏に不向きだったことも原因かもしれません。
楽器の方でなんとかしてくれよ
https://anond.hatelabo.jp/20220220153320
このエントリ、本編は興味深く読んでいたのに最後のおまけで唐突に尺八がディスられていて唖然としてしまいました。
ちなみに私は小中高と吹奏楽部で金管楽器を担当しており、ホルンの音色の魅力や特有の難しさも理解しているつもりです。
そして大学卒業後は尺八に興味を持ち、各流派を学んでおります。
元増田が尺八という楽器の現状を知らずにディスっているのは明白で、あまりに理不尽です。
オーケストラ曲や吹奏楽曲に尺八が用いられている曲は複数存在します。
一番有名なのは武満徹作曲の「ノヴェンバーステップス」でしょう。初演は小澤征爾指揮のニューヨークフィル。それでも「無名な日本の民族楽器」でしょうか?
1994年から4年に1回「世界尺八フェスティバル」が世界各地で開催されており、8回目となる今年は中国で開催されます。世界中の尺八愛好家が参加します。それでも「無名な日本の民族楽器」でしょうか?http://www.wsf2022.com/ja/
知り合いの製管師(尺八の製作者)によれば、最近は日本よりも海外、特に中国から注文が殺到しているとのことです。それでも「無名な日本の民族楽器」でしょうか?
最近は国内外問わず尺八の構造が研究され、金属やプラスチック、3Dプリンタ等で制作した新たな尺八が毎年のように登場し、それらをネットで販売する人も現れています。それでも「無名な日本の民族楽器」でしょうか?
ちなみに現在国内で最も精力的に尺八の改良に取り組んでいるのは「泉州尺八工房」でしょう。https://shakuhachi.co.jp/
逆に、ホルンは世界中の街角で当たり前に吹かれているのでしょうか?少なくとも日本の街角でホルンを吹いている人を観たことは私は一度もありません。
さらに言えば、虚無僧は楽器として、音楽として尺八を吹いているのではなく、「吹禅」といって宗教的な修行の一環として尺八を吹いています。ゆえに虚無僧が街角に現れる頻度と尺八の楽器としての有名無名はまったく相関関係がありません。木魚が楽器として流行すれば街角にお寺は増えるんですか?
確かに尺八の発音原理はフルートと同じです。しかし楽器の構造がまるで違います。きっと元増田は「竹をくり抜いて穴を開けただけの単純な構造」だと思ってらっしゃるんでしょうけど。
違いを挙げればきりがないですが、代表的なのは「首振り」でしょう。あれは首というか顎を上下させて唇と歌口の接触面積を変えることで開口端補正を行い、音程を変えているのです。
尺八は指孔が5個しかなく、指使いだけではすべての音程を出すことができません。そこで首を上下させることで指使いだけでは出せない音程を補っているのです。
首振りで変わるのは音程だけではありません。息の流れも変わるため、尺八特有の「枯れた音」「渋い音」になります。
「首振り三年」ということわざめいたものがありますが、これは首振りによる音程や音色のコントロールが難しいことを端的に示す例えです。
なぜ首振りという奏法が笛類の中でも尺八にしか存在しないのか?これも尺八特有の構造に由来するのですが、ここでは説明を省きますのでご興味ある方は調べてみてください。
元増田であればこうした楽器の特性に不満を抱いて「楽器の方でなんとかしてくれよ」と思うのでしょうが、尺八はこの楽器としての不完全さを逆に特徴として他のエアリード楽器にはない特有の音色を出しているのです。
「尺八がホルンより難しい」とは言いません。というか、難しさの土俵が違うので比べようがありません。
私が言いたいのは、どちらの楽器も構造上不完全な特徴があるからこそ、唯一無二の音色が出せる、という側面もあるということです。
尺八にも初心者向けの「アダプター」なるものが存在します。リコーダーの口で咥える部分のようなパーツを尺八の歌口にはめ込むと、初心者でも難なく音が出せるというしろものです。
ところが、このアダプターをはめて尺八を吹くと、皆さんがイメージする尺八の音色とは似ても似つかない何とも悲しい下手なリコーダーのような音しか鳴りません。上級者が吹いても、です。つまり尺八を誰もが鳴らせるように息の通り道を固定すると、本来尺八が有する自由度が失われ画一的でつまらない音しか鳴らなくなり、尺八の個性が死んでしまうのです。
それは「音を外すな」である。
それくらいホルンは、音が外れやすい楽器として世界的に有名なのだ。
それも「プルッ」という耳障りな音とともに、全音とか半音とか平気で外す。しかもしょっちゅう外す。
これは学校の吹奏楽部出身のアマチュアだけでなく、プロでさえ高頻度で外すため、純粋なクラシックのCDなど、OKテイクの継ぎ接ぎで作られるのが当たり前。
生演奏でホルンソロとか来た日には、他の演奏者はもちろん指揮者も観客も、揃って「外すなよ…」と神仏に祈ることになる。
というか「祈らせる」という意味では神父や坊さん以上に「良い仕事」してるので、これには神様も仏様もニッコリ?知らんけど。
ついには「世界一難しい金管楽器」としてギネス登録され、更にホルンで音を外すこと=「キークス」という名詞が用意されてしまった。
ではなぜホルンはそんなに音が外れやすいのか?可能な限り端的に言うと
「低い音が得意な楽器で、非常に高い音を常に吹かされているから」
ということになる。
もう少し詳しく言うなら
「ヘ音記号の音域が得意な楽器で、いつもト音記号の音域を吹いてます」
と書けばわかるだろうか。
つまり、ホルンの美点である「甘く柔らかい音」は「低音楽器で超高音を吹く」という無茶振りによって成り立っていると、こういうわけなのだ!
なので「管の長さを短くして音を当てやすくする」のは、音色的な意味であまり良い解決法じゃなかったり。
これはフルートを半分の長さにしたピッコロが、フルートと同じ音なのに全く違う音色に聞こえることと、ほぼ一緒の理由と言っていい。
とはいえ、プロでも音を外しまくる楽器なんて、これもう普通に楽器の欠陥じゃね?と思うわけ。
実際、上に書いた事情を知ってもなお、ホルンで音を外されるのは非常に不愉快だし。
なので、そろそろ現代のハイテクとやらで「管を短くする」以外の解決法を発明してほしいのだが、一向にそんな気配はない。
困ったもんだ。
おまけ
「世界一難しい」とか書くと必ず「尺八はどんくらい難しいの?」などと愚にもつかない事を訊いてくるアホがいるけど、
「世界的に無名な日本の民族楽器なんて、誰も難易度とか問題にしません。尺八を吹く虚無僧が世界中の街角で当たり前になってから、もう一度おいで下さい」
で終わりなんで、そこんとこよろしく。
おまけ2
更にフルートが取り立てて難しい楽器とされていないどころか、本邦ではアマチュアのフルート奏者が多数存在することを踏まえれば、自ずと難易度は把握できるわけで。
30代になって、どうしても後悔してることがふたつある。
小学2年から視力検査で引っかかっていて、眼鏡も作ってはいた。
でも、当時私の学年には眼鏡の子はひとりもいなくて、学校でも片手程度。更に3年になって転校してきた子が眼鏡だったとき、男子が「メガネザル」と激しくからかっているのを見て、私の眼鏡はランドセルの底に封印された。
とはいえ、生活に困らない程度の視力……な訳ではなく、中学時代は先生の手の動きで板書がわかるという謎技術を取得し、吹奏楽部では楽譜も完全暗記でコンクールに臨んでいた。
そんなこんなで眼鏡を使い始めたのは高校生になってから、それも授業と部活中のみ。
眼鏡をかけて外出したとき、近所の景色すら新鮮で、見えていなかったものの多さにショックを受けたのを覚えている。
ふたつめは、英語。
当時私のまわりは、英語の発音が上手いと褒められる前に「外国人かよw」みたいなからかいをうけるところだった。
すごく上手い子がいたんだけど、その子がそう言われてるのを見て、発音を真似することは恥ずかしいことと思ってしまった。
結果、成績はそこそこ良いものの単語を覚えたりスラスラ英語を読むことが苦手になった。
外国人教師の授業やペア音読なんてもってのほか。人前で発音するのが恥ずかしい、そしてどんどん下手になる、の負の連鎖。
当時恐れずに英語を勉強していたらいまもっと字幕番組を楽しめていたのかもしれない。
ふたつとも、周囲の雰囲気に負けて「これは恥ずかしいことだ」と自分で決めつけてしまったことが原因なんだよね。
もっと周りを気にせず生きてこられたらよかったなと思う。
「競争する」っていう関係性が苦手だからスポ根ものが全部無理。
苦しんで練習して、成果で優劣が付いて、それで片方が勝って喜んで、もう片方が嫉妬とか無力感とかに苛まれながらまた練習するみたいなのが、見てて苦しすぎてそれ以外のところに集中出来なくなってくる。
『ピンポン』とかがド直球にそこがテーマなんだけど、なぜか読めた(めちゃくちゃ苦しかったけど)のは主題が関係性だったからなのか、名作すぎて読ませてくるのか。
少女漫画でものだめカンタービレとか、きらら系でもNEWGAMEとか、なんでそんなに苦しんでまでやるんだよもうやめちまえよという気持ちになって読めない。読んだけど。
読めるけど苦しいの方が正解っぽい。苦しんでまで読みたくないので部活動ものはみんなで協力タイプが好きです。あぁでもみんなで協力タイプも能力の優劣で苦しむんだよな、演劇部とか吹奏楽部とか……。
現実でも劣等感と戦いながら日々を過ごしてるのにわざわざ漫画でも劣等感と戦って苦しんでる人を見たくないんだよ。こういう層がなろう系を読むんだろうなきっと。
提供:
埼玉県内で有数の進学校である女子中高一貫校の淑徳与野中学・高等学校。同校では18年度から電子黒板を導入するとともに、一部クラスで一人一台端末の授業での活用に乗り出すなど、ICT教育を積極的に推進してきました。そして2020年に新型コロナウイルス感染症拡大により登校自粛が迫られたことを踏まえ、同校はICT教育のあり方を再検討。学内利用だけでなく、質の高いオンライン授業も実施可能とするために、2021年度からSurface Go 2のLTE Advancedモデルを導入、Microsoft 365と組み合わせてクラス別の教材管理と授業の仕組みを整備し、運用を開始しています。ICT教育を進化させて授業の幅を広げ、生徒一人ひとりに最適化された学びを実現するための取り組みが続けられています。
1892年、淑徳(深い知性と情緒に富んだ人間性)を備えた自立した女性の養成を目指して設立された淑徳女学校は、仏教の精神を背骨として幼稚園から大学までを擁する総合学園に発展してきました。その中にあって、1946年に開校された与野分校を前身とする中高一貫教育の女子校が、埼玉県・さいたま市の淑徳与野中学・高等学校です。海外の姉妹校などへの短期語学研修などを通じて、国際舞台で活躍できる人材の育成に力を入れる同校は、インターハイ常連の剣道部や、バレーボール部、バトン部、吹奏楽部など、文武両道の学校としても知られています。
そんな同校は、「コンピュータや情報通信ネットワークなどの情報手段を活用するために必要な環境を整え、これらを適切に活用した学習活動の充実を図る」との国の方針が示される中、その対応をいち早く推進してきました。2018年度には動画などを利用した分かりやすい授業のための電子黒板を導入するともに、一部クラスで試験的に一人一台のタブレット端末を導入。そして2021年度入学の中学1年生・高校1年生からは、全生徒を対象にした2-in-1デバイスのSurface Go 2(LTE Advancedモデル)とMicrosoft 365の活用を前提とする授業にも乗り出しています。
学校教育は今、大きな転換期を迎えています。新学習指導領により、生徒の思考力や判断力の養成がより強く求められることとなり、教育現場では従来の講義中心の学びから、主体的な学習へ生徒をどういざなうかが課題となっています。ICT活用は、そこで鍵を握る策の1つに位置付けられます。淑徳与野中学校 学年主任 英語科教諭の山﨑貴志氏は、「ICTを使えば、講義型の"覚える"学習から"考える"学習につなげられます。また、視覚・聴覚に訴えるデジタル教材は、生徒の自発的な学習を促す効果も期待できます」とICT教育の可能性を生徒・保護者に説明しています。
もっとも、淑徳与野中学・高等学校がMicrosoft 365を導入したのは、今から3年ほど前にさかのぼります。
淑徳与野中学・高等学校で進路指導部長を務める小嶋恵子氏は、「学内では各種分科会などで大量の校務文書が作成され、それは授業用の各種資料や保護者向け文書でも同様で、だれもが消化不良を起こしていました。そこで情報を精選し、管理を効率化し、さらにペーパーレス化によってコストを削減するためにも、Microsoft 365による文書管理・教材管理に乗り出しました」(小嶋氏)
そこでの文書管理の扱いやすさの体験が、タブレット端末を組み合わせた生徒向け教材提供のアイデアにつながります。以来、同校ではデジタル教材の拡充を推進。ただし、そうした中で直面したのが、2020年に入って拡大した新型コロナウイルス感染症です。
「緊急事態宣言を受けての登校制限により、当校は多様な対応に迫られました。生徒が在宅で学習を進めるための授業動画配信や教材準備はもちろん、自宅での規則正しい生活のために、Teamsを活用したホームルームの仕組みも整備しました。特に後者は、生徒が友人と会えない不安を防ぐとともに、学習状況に対する保護者の不安を解消するためにも重要な活動と位置付けられました」(小嶋氏)
その後、登校は再開されましたが、新型コロナの収束の見込みが明確には立たない状況にありました。この状況を鑑み、2020 年秋に固まった方針が、再度の登校制限に見舞われた場合でも、子どもたちの学びを止めないために生徒全員に一人一台Surfaceを持たせ、同時にTeamsなどを活用したオンライン授業の仕組みを整備するというものでした。具体的にはTeamsの「チャネル機能」を用いて、クラス別の動画配信と文書管理の仕組みを作るとともに、2021年度入学生から全員にSurfaceを所有してもらう決断を下したのだと言います。
「Teamsがあればクラスごとにいくつもの教材を管理でき、同時にSurfaceのカメラを通して生徒の顔を見ながら配信授業も行えます。対面授業の場合でもデジタル教材による、従来より深い理解を可能にする授業が行えます。さらに、Teamsによる課題配信を活用すると、生徒一人ひとりの習熟度に応じた自立学習も促進できます」(小嶋氏)
"ネットワーク障害"と"相性問題"への備えとしてSurface Go 2 LTEモデルを選択
淑徳与野中学・高等学校が生徒用端末に採用したのが、Surface Go 2の「LTE Advanced」モデルです。タブレットとしても利用できる汎用性の高さと、持ち運びで負担にならない800gを切る軽さ、そして高い処理能力が特徴です。今回、Surface Go 2のLTE Advancedモデルを選定した狙いは、授業での確実な活用だと言います。
同校ではICT活用に着手して以来、校内ネットワークの整備を推し進め、 2021年度の開始時には無線LANのカバーエリアも全教室にまで拡大していました。とはいえ、全生徒のPC利用による通信量の急増により、従来では考えられなかったネットワーク障害も危惧されました。
また、2年前から一部クラスで試験的に利用してきた他社OS製のタブレット端末では、OSとアプリケーションの操作性の違いからか、Microsoft 365のOfficeアプリなどが使いづらいと感じることが間々あったと言います。
こうした2つの課題を解決するために導入したのが、Surface Go 2 LTE Advancedモデルです。淑徳与野高等学校 進路指導主任の粕谷俊介氏は、「無線LAN頼りでは、ネットワーク障害時に端末が使えなくなり、授業に影響が出てしまいます。しかしLTEモデルであればモバイル回線をバックアップとして使うことで授業を進められます」と話します。
また、今回の生徒端末導入を支援したKDDIまとめてオフィス株式会社 北関東支社 法人営業2部 営業2グループの八島圭氏は、「相性問題は、OSとアプリケーション、ハードウェアが絡む厄介な問題です。Surface Go 2はWindows OS、Microsoft 365と同じマイクロソフト製ですから、相性問題への懸念を払拭するには、この組み合わせに勝るものはありません」と強調します。
今回、モバイル回線は無線LANに障害が発生したときのバックアップという位置づけですが、いざモバイル回線に切り替えたときに通信が不安定では困ります。その点について八島氏は「学校などへのLTE端末の導入時にはユーザーが一気に増えます。そこで当社では、机上での調査を行うとともに現地を確認して、通信品質の対策を行うなど、確実につながる環境づくりに力を入れています」と、通信品質の維持・向上への取り組みを説明します。
機種選定に関しては、教員の間でも様々な意見が出たと言います。その中にあって他OSのタブレットではなく、Windows搭載の2-in-1デバイスを選んだ理由について山﨑氏は、「スマートフォンやタブレットは急速に普及しましたが、社会に出て仕事で使うとなるとWindows PCがほとんど。早い時期からWindowsに慣れておくことはメリットになることはあっても、決してデメリットにはなりません」と語ります。
そして、軽量化やコスト的な制約からキーボードが犠牲になりがちな2-in-1デバイスにあって、Surface Go 2には標準的な配列で、タッチ感の良好なキーボードが用意されていることも高く評価されました。
「生徒の卒業後を見据えたICT教育という考えもありました。午後の授業前の10 分間、英単語力の向上を目的にクイズ形式のタイピング練習を行っていますが、これにはタブレットやスマホでは経験できないキーボード操作に慣れ親しんでもらうという意味もあります。本校の探求学習では4000字以上の小論文を書くこともあります。長文をストレスなく入力するうえで、キーボードの品質は重要だと考えました」(山﨑氏)
最終的に導入したのは、最上位のSurface Go 2 LTE Advancedモデル(Core m3/メモリ8GB/SSD128GB)。ハイスペック・モデルにしたのは、デバイスのパフォーマンスが使える教材や授業内容の制約にならないようにするためだと言います。
TeamsとSurfaceを教科の特性に合わせて多面的に活用
2021年度の授業開始から約3か月を経て、Microsoft 365とSurface Go 2による授業は着実に軌道に乗っています。例えば数学の授業では、Teamsで共有したテストの答案を生徒端末や電子黒板に表示しながら間違えやすいポイントを解説する、デジタル教材を使って視覚に訴えて理解を促す、といった取り組みが行われています。
「数学では図形を頭でイメージすることが苦手な生徒も少なくありません。しかし、デジタル教材であれば、立体図形を3次元で動かし、断面図がどうなるかまで分かりやすく示せます。同様に二次関数の各係数を変えることでグラフがどう変化するのかなども理解しやすくなります」(粕谷氏)
総合活動の時間における、生徒間の意見共有も格段に容易になり、深い議論につながっていると言います。映像の活用も始まりつつあり、授業映像に生徒同士でコメントを付け合うといった取り組みも試行中です。生活指導の一環として、従来、紙ベースで行ってきた生徒のスケジュール管理やPDCAもTeams上に移行。手作業による回収や配布の手間も一掃されました。
PCは汎用性が高く、学習以外にも幅広く利用できます。その点を考慮し、淑徳与野中学・高等学校ではホワイトリスト型でのアクセス制限を実施していますが、それも最低限にとどめていると言います。
「動画サイトに入り浸ることがないよう制限をかけていますが、学習目的であれば柔軟にアクセス可能なサイトを追加しています。ルールを破ると制限が厳しくなることを認識してもらいつつ、生徒の自主性を尊重して使ってもらおうというのが現在の方針です」(小嶋
氏)
淑徳与野中学・高等学校では授業でのPC活用の高度化に向け、すでに運用改善を視野に入れています。今後は生徒にアンケートを実施したうえで、教員同士の話し合いを通じ、さらに新たな活用方針を固める計画です。
そこで温めているアイデアの1つが、生徒の思考を発表につなげるためのMicrosoft 365の活用です。考えを自身の内にとどめていては、それ以上の発展にはつながりません。ICTを活用すれば、生徒の表現活動を格段に増やすことができます。
「論文作成ではWordを、情報の授業ではExcelをと、すでにMicrosoft 365を授業で活用していますが、中でも総合学習におけるPowerPointを使った授業は、どう表現すれば分かりやすく伝えられるかを試行錯誤することで、思考を整理する効果も期待しています。さらにTeamsを活用すれば、グループワークやグループ内発表も容易です。授業ごとに生徒からフィードバックをもらうことも簡単にできます」(小嶋氏)
このほか、部活動の試合をSurface Go 2で撮影し、動画を共有して振り返りに活用するなど、授業以外でも自主的に活用する生徒の姿が見られると言います。
無線LAN環境がなくてもネットワークを使えるLTEモデルの採用は、野外授業でフィールドワーク中に気になったことをその場で調べたり、課外活動で生徒の自主的な活用を促進したりするうえで必ずやプラスに働くことでしょう。
導入・運用からわずか3か月。Surface Go 2は淑徳与野中学・高等学校でのICT教育と生徒の学園生活に欠かせない存在になっていると言えるでしょう。
「中学受験すれば?」と親に聞かれ、当時小学生の何も知らない自分はなんとなく「やる」と答えてしまいました。「お前がやると言い出したんだ。最後までやれ」と圧をかけられ、凄く嫌がりながらも中学受験をさせてもらいました。案の定結果はボロボロで、適当に受けた適当な中高一貫校に入学する事になりました。思えばここから始まりだった気がします。
部活動はソフトテニス部に入部しました。中高一貫校なので高校生の先輩もいました。そんな先輩方に体操服を引きちぎられたり、羽交い締めにされて「携帯のパスワード教えろ」と言われ勝手に中を覗かれたり、その他諸々、所謂いじめを受けて、それが無理で1年で辞めました。
辞めてからは新しく吹奏楽部に入部しました。吹奏楽部はブラック部活とは良く言う話ですが、うちの吹奏楽部も似たようなものでした。部活動は平日はもちろん休日も朝から夜まであり、中学生の朝練は当たり前、お昼を食べる時間は15分、理不尽な事で怒られたりもしました。合奏中ミスをすれば女性の先輩に胸ぐらを捕まれて女子トイレに連れ込まれ正座をさせられてペチペチされながらこっぴどく叱られました。今思えば異常ですが、(自称)メンタルの強い自分はなんだかんだ上手くやっていたと思います。高校に上がり、自分達が先輩になった時にはそんないらない伝統やルール、文化は廃止させていきました。
ソフトテニス部でイジメられた時も、吹奏楽部でボロカスに怒られた時も、涙を流す事はありませんでした。むしろ、自分にも非があったとも思いますし、先輩の機嫌も悪かった、仕方が無かったと捉えています。そんな自分が突然、涙を流した事件がありました。
高校三年生になり、大学受験を視野に入れる歳になりました。部活動は12月末まであったため、勉強と部活の両立をしていました。部活動の同期は徐々に病んでいき、気付かぬうちに自分も病んでいました。病んだ同期は、部活の練習で使用する教室の机に置いてあった赤の他人の教科書をグシャグシャに丸めて捨てたり、リスカ痕を僕らに見せつけては笑顔で「今日も切ってきたよ!」と報告したりしました。それを見た僕らも「またかよ!笑」「今回はどんな形?」と、リスカを心配する素振りもなく楽しく話していました。僕らは壊れていました。日々死にたいと思い、明日が来ない事を毎日祈り、眠れない夜が続きました。それでも怖くて死ねない自分が情けなくて仕方ありませんでした。
とある日、急に毎日微熱が続いたので親に相談しました。「気の持ちようだ」と言われましたが、どうしても勉強と部活をサボりたかった自分は病院に連れて行って貰えないか交渉しました。何故か親は頑なに断り、「甘ったれてんじゃねーよ!」と怒られました。諦めの悪い自分は、夜寝れてない事、もしかしたら心を病んでいるかもしれない事、辛くて学校に行きたくない事を打ち明けました。きっと心配してくれる、休ませてくれると願いました。
「原因それじゃん。夜は無理矢理でも寝なよ」
「学校は行くから、病院に行かせて欲しい。本当に寝れないし、熱も出てる」
「だから無理矢理でも寝ればいい」
初めて親に怒鳴りました。母の言葉を遮るように叫びました。ここから先はあまり覚えていませんが、母は変わらず何度も何度も何度も何度も何度も何度も同じ事を言い続けていました。「無理矢理寝ろ」 と。話にならないと思い自分の部屋へ逃げました。
自分の怒声を聞いた父が部屋へやってきて、「どうしたの?」と声をかけてくれました。自分は夜に眠れず、病院に連れて行って貰いたいことを打ち明けました。ですが父の返答は驚くものでした。
「○○(自分の名前)の気持ちも分かるけど、怒鳴っちゃあだめだよ。」
自分は一瞬、理解が追いつきませんでした。この人は心配にし来たのではなく、怒鳴った自分を注意しに来ていました。怒鳴ってはいけない事くらい高3にもなればわかります。母も父も、僕の味方ではありませんでした。
自分は「わかった。1人にさせて」というと、父は何か言いたげでしたが、言わせる前に「いいから出てってよ!」と叫ぶと、僕の事を心配しながら出ていきました。
父が扉を閉めると同時に、涙が溢れました。頭の中は真っ白で、何故泣いているのか理解できませんでした。自分はその状況にゲラゲラ笑いました。涙を流しながら、声高らかに笑い転げました。感情が、文字通り「死んだ」瞬間でした。その日は夜通し涙を流しながら笑っていました。泣き終えた後が怖かったんだと思います。朝になりリビングに行くと母が居ました。母は「父が心配してたよ。可哀想に」と言いました。その言葉を聞いた時にはもう何も思いませんでした。
この人達は僕の味方でいるつもりで、僕を理解しているつもりかもしれませんが、僕に金をかけているだけで、全くそんなことはありませんでした。結局、当時の僕の事を思ってくれている人はいませんでした。
その日からはどんなに面白い動画を見ても笑う事は無く、何をされても苛立つことも無く、泣く事も、楽しいと思う事もありませんでした。屍のように生き、大学受験も見事に失敗し、適当な大学に入学する事になりました。大学受験をせずに適当な専門学校へ行った姉に「そんだけ金かけてもらって大学落ちてんの?笑」と言われましたが、なんとも思いませんでした。僕をイジメていたソフトテニス部の先輩は超有名国立大学に合格しており、理不尽な事で怒っていた吹奏楽部の先輩達は指定校推薦で超有名私立大学へ入学していました。僕の高校卒業後の部活動は、秩序の無いただの動物園のような場所になっていました。自分は今まで何をしてきたのか。全てがどうでも良くなりました。惨めな人生だなぁと心の底から思いました。
今では大学での出会いや吹奏楽団での出会い、バイト先での出会い等で息を吹き返しました。人から大事にされる事がこんなに嬉しいなんて知りませんでした。父や母も、なんだかんだ大学通わせてくれてますし、なんと奨学金無しで通っています。本当に感謝です。
第三者からみれば僕の経験など大した事ではないかもしれません。ですが、もし似たような状況に置かれている人がいればこれだけは伝えたいです。戦わずに逃げる事も戦略です。僕は逃げる事が出来ず追い込まれました。死ぬくらいなら全てを投げ出して逃げてしまいましょう。
大丈夫です。