はてなキーワード: ポストモダンとは
こういうタイトルにしてみたけどさ、俺は村上春樹はすきじゃないよ。
一方で描写の巧みさに舌を巻きつつ、一文一文に「権力」が染み付いていると思う。
でも他方で、そんなハルキストを批判している人たち(ここでは安部公房とか伊藤計劃のファンを想定しています、外れている人は流して下さい)に対しても全く共感できない。
ラフに言って、三者ともにバカな調子こいてる物語作家でしょう。村上春樹が背伸びした上京したての田舎者であるとして、それなら安部公房は私的言語使用のボンクラだし、伊藤計劃はしょーもないオタクだ。
もうちょい真面目にいうと、安部公房はたとえば都会にたいして「砂漠」を持ってきてオッケーみたいなその安易さがヤバ過ぎる(逆にその安易さがいい、という批評はあり得る)し、クソどうでもいいレトリックでドヤ顔してるのがヤバ過ぎるし、普通すぎるセクシャリティがやばい。伊藤計劃は前野隆司とか真に受けてる時点でカス(こんなカスでもポストモダンは云々言えてしまうことが「ポストモダン」最大の失策ではないか?)だし、ブログの意識と物語を結びつけている文章とかカスだし(誰か意識と物語を多少なりともしっかり定義して、両者の関係性を論じられる?)、管理社会が云々いいつつそこでの社会とやらに一切の具体性を与えられないのがカス。
繰り返し言っておくと、こういう文章って村上春樹擁護として捉えられるのかもしれないけど、俺は全く好きじゃないから。
在野の村上春樹擁護とかクッソ気持ち悪いし。批評空間をそんなに批判したいなら中上健次の物語性をつく地道な仕事をしろよ、ボケ!
なんかモゴモゴいってさ、「あぁ〜村上春樹は〜だけれどもうんぬん」ってヨダレ垂らしちゃってさ、舐めてんじゃねえよ!
アニメを見た後はその感想や評論を見るのが好きなんだけど、アニメについて書かれたのはだいたいキャプを貼りながらあらすじをなぞっていく系か「ポストモダンが〜」的な頓珍漢な論考ばっかりな気がする。
大学時代はオタサーっぽいところに居たこともあるけど、「天使ちゃんマジ天使」「にゃんぱす〜」的なアニメを通じた表層のコミュニケーションばかりなのでつまんなかったんだ。表面をなぞって記録をつけたり、アニメをツールにコミュニケーションするのは楽しいからしょうがないね。でも、それだけじゃ物足りない。
ところで、町山智浩という映画評論家を知ってるだろうか。彼の映画評論は監督の来歴、物語の背景、ストーリーに隠されたパターンなどを駆使して「隠された構造を暴き出す」という楽しみを聴いている人に提示してくれている。
町山智浩氏はオタクっぽさが滲みでているが深夜アニメなんて評論してないので(まどマギ劇場版はやってたかな)、町山智浩っぽい深夜アニメ評論があれば教えてください。監督を含め、作画脚本スタッフ、声優などの来歴を踏まえて縦横無尽に評論したら面白いと思うんだけどね。『エヴァ』や『まどマギ』など、いかにも「ストーリー考察」しやすいものは既にやられているけど、露骨な萌アニメの評論でも「ゴチうさ2期のED作画陣が凄い」などという話題も有ったのでそっちが見たい。
フェミニストからキモオタは死ねと言われ、私はもちろんキモオタであるから激昂してクソフェミは死ねと言い返しかけて、そこでふと気がついて困惑した。
フェミニズムとは何だろうか。
私はフェミニズムを名前ぐらいしか知らない。しかし知らないものを知らないままにしておくことは、少なくとも私にとってキモオタらしからぬ行為である。私は自分に自信をもってキモオタでありたい。クソフェミに死ねと罵られるキモオタであることに誇りを持ちたい。ならばフェミニズムについて知らなければならない。
しかしフェミニズムについて知りたかったら何を読めばいいのか。これが意外と分からない。ロールズやセンを読めというのを見つけたので読んでみたが、やはりフェミニズムが分かった気になれない。
そこで手当たり次第に適当にフェミニズムの書籍を読んでまとめみることにした結果が本稿である。決して十全ではないが、私同様、フェミニズムをよく知らないオタク諸姉諸兄にとって、フェミニズムの理解の取っ掛かりになれば幸いである。
フェミニズムは大きく三種類ある。ラディカル・フェミニズム(以下ラディフェミ)、リベラル・フェミニズム(以下リベフェミ)、そしてマルクス主義フェミニズム(以下マルフェミ)であり、それぞれ理論の組み立ては全く異なる。以下順に見ていこう。
現在のラディフェミの理論的支柱はキャサリン・マッキノンと言っていいだろう。「性の不平等の源はミソジニー(女嫌い)」であり、「ミソジニーの源は性的サディズムにある」(C.マッキノン,"フェミニズムと表現の自由",1987,*1)。そして社会に溢れるポルノグラフィ(以下ポルノ)こそが「性差別主義者の社会秩序の精髄であり、その本質をなす社会的行為」(*1)に他ならないと喝破する。この諸悪の根源はポルノであるという揺るぎない確信から、ポルノの法規制を推進する。
ポルノが性犯罪を誘発するという統計的な証拠はあるのか。この批判に、しかしマッキノンは自覚的である。誘発するという調査もあり、無いという調査もあると率直に認める。従って彼女が起草した反ポルノ法は「被害をもたらすことが証明されうる物だけが告発できる」(C.マッキノン&A.ドウォーキン,"ポルノグラフィと性差別",1997,*2)。「証明されるべき被害は、強制行為、暴行脅迫、名誉毀損、性にもとづいて従属させる物の取引といった被害でなければなら」(*2)ず、不快に感じた、宗教上の信念を侵しているといった被害は認められない。被害者ではない第三者が告発することも認められない。
ポルノには、ホモもレズも二次元も、古典文学から芸術作品まで被害をもたらすことが証明される限り全て含まれる。自分が叩きやすいゲームやマンガだけを槍玉にあげて、自分が叩かれやすい文学や芸術から目を背けるチキンではない。殴るからには全て殴る。それがマッキノンである。
なお、田嶋陽子はラディフェミを名乗りドウォーキンへの共感を示しているが、ポルノを諸悪の根源とはせず、現実的政策としてはリベフェミに近い内容を述べているため注意されたい("愛という名の支配",1992)。
J.ロールズの「公正としての正義」やA.センの「不平等の再検討」をその理論的土台とし、リベフェミは次の点を問題視する。「ジェンダーシステムは、その根を家族における性別役割にもち、事実上わたしたちの生活の隅々まで枝葉をはびこらせた、社会の基礎的構造のひとつ」(S.オーキン,"正義・ジェンダー・家族",1989,*3)であり、「女性と男性の重要な差異が、家族内で現在おこなわれている性別分業によって作られる」(*3)。
夫婦がともに働いている姿を子供に見せることが教育上望ましいと考え、そして共働きにおいて妻にだけ家事育児が押し付けられることは不平等であり、二人で平等に分担するべきであるとする。もし専業主婦なら、夫の稼ぎは夫婦二人で稼いだものとして両者で均等に等分すべきだとオーキンは言う。
このように家庭内の賃金、労働の不平等の解消によって性差別の無い社会が構築されるとする考えから、リベフェミは女性の社会進出を推奨し、出産休暇や託児所の拡充、男性の育児休暇取得を推進する。また「子どもたちがなりたい人間になる機会」(*3)を拡大するため――その機会を無知ゆえに狭めないために、性教育の重要性を訴える。
なお、「男性を敵視し憎む分派は消滅するだろう」(B.フリーダン,"新しい女性の創造",1965)が示すように、フェミニズムを男性と女性の権力闘争化することに否定的立場をとる。
出産を含む女性の家事育児は明白な労働行為である。にも関わらず男性社会はそれに一切の支払いをしてこなかった。ゆえに女性とは搾取されるプロレタリアートであり、その意味で男性とはブルジョワジーである。女性の抑圧は、資本制と家父長制の構造上必然的に生じたものであると喝破し、資本制・家父長制の打倒を訴え、そしてこれが日本の伝統的フェミニズムである。
女性の社会進出に関してはリベフェミの主張とほぼ同一だが、フェミニズムの主要な敵は男性であると断じ、マルフェミでは家事育児という労働に対する賃金の支払いを請求する(上野千鶴子,"家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平",1990,*4)点で異なる。ただし誰に請求しているのか、また家父長制を崩壊させるために「資本制との新しい調停」を、というが、それが共産制かというとそれも曖昧で判然としない。
日本ではさらにそこに独自の思想が入り交ざる。例えば男女混合名簿の推進は「日の丸・君が代をシンボルとする儀式を撃ちくずす」(河合真由美,"「男が先」を否定することでみえてくるもの――学校の中での性差別と男女混合名簿",1991)から良いのだ等、目的が何なのか、いささか混沌としている向きも見受けられる。
レズビアン・フェミニズム、ブラック・フェミニズム、エコロジカル・フェミニズム、ポストモダン・フェミニズムなど多岐にわたる。マルクス主義フェミニズムの派生であるサイボーグ・フェミニズム(D.ハラウェイ,"サイボーグ宣言",1985)は読むとつまらないがネタとしては面白い。あとキワモノで言えばスピリチュアル・フェミニズムとか。
同性愛者とフェミニストの関係は、従来男性権力社会に対する「敵の敵は味方」関係に過ぎなかった。そこで登場したのが「フェミニズムと、ジェンダーに関するゲイ/レズビアンの視点と、ポスト構造主義の理論を、政治的にひとつに纏め」(J.バトラー,"ジェンダートラブル",1990)たクィア理論である。これにより統一戦線を理論的に張ることが出来るようになった。
リベフェミは広範な男性差別は否定するが、アファーマティブ・アクションでの男性差別は肯定する。ラディフェミは男性敵視の姿勢を持つが、しかしマッキノンは男性だけが徴兵されることは男性差別だとして否定する。「平等とは、ジェンダーの違いではなく、ジェンダーヒエラルキーを問題にし、その根絶をめざすものである」(*1)からである。マルフェミはよくわからなかった。女性兵士に反対しているので、男性差別は肯定されるのかもしれない。
セクハラ、家庭内暴力、中絶、女性兵士等色々あるが、本稿ではオタク、わけてもアニメオタクと関係の深い「性の商品化」について取り上げる。
マッキノンは、猥褻として過去に規制された、まさに「性の商品化」であるユリシーズ(J.ジョイス,1922)について「ポルノではない」と述べる(*2)。現実の被害が証明されていないからである。「性の商品化」は法規制の理由にならない。
リベフェミであるN.ストロッセンは「子供や妻への虐待、強姦、日常的な女性への屈辱行為などを正当化する内容が詳細に述べられている」書籍として聖書をあげ、「禁止されない安全な思想などほとんど存在しない」("ポルノグラフィ防衛論",2000)とする。そして性教育がかつて猥褻として政府に規制された例を上げ、ポルノ禁止法は政府の検閲に利用されると強く批判する。
一方、上野は「性の商品化」だとしてミスコン廃止を訴えるフェミニストについて、彼女らは「法的取り締まりを要求したわけではなく、受け手として「不愉快」だという意思表示の権利の行使」であると言う。そして「性の商品化」は「メディアのなかでも、なんらかの基準がつくられる必要がある("「セクシュアリティ」の近代を超えて",新編日本のフェミニズム6,2009)」とする。
ここから見えてくる点として、女性が「不愉快」であることが問題なのだということが分かる。「性の商品化」とは何か、それに実害があるかは、おそらく最終的にはどうでもいいのである。さらに求めているのは自主規制であって法規制ではない。自主規制によって発言者は自ら口をつぐむのだから、表現の自由は全く関係のない話である。
リベフェミであるマーサ・ヌスバウムは嫌悪感を根拠とした法規制を徹底して批判し、ゾーニングの妥当性を論じるが("感情と法",2004)、マルフェミである永田えり子は「ポルノ市場が成立すれば、必然的にポルノは市場の外部に流出する。そして流出すると不快に感じる人がいる」("道徳派フェミニスト宣言",1997)としてゾーニングは効果がないと批判する。
ポルノは「人々に広く不快を甘受させているかもしれない。そして事実不快だという人がいる。ならば、それは公害である」。「性の商品化は多くの人々に対して、確実に何らかの不快や怒りを与えるはず」であるがゆえに規制されるべきだと主張する。
そのような不快感を根拠とした規制は恣意的な運用がなされるという批判は当たらない。曖昧な法は他にもあるが、現に警察と司法は正しく運用しているからである。性道徳に根拠が無いという批判も当たらない。「根拠がないということがすなわち不当であるわけではな」く、それは「正しいから正しい」のである。
なお、福島瑞穂は非実在児童のポルノ規制は法的安定性が保証されないとして反対しており、この永田の見解がマルフェミの共通見解でないことは述べておく。が、例えば児童ポルノの法規制に対して日本ユニセフ協会広報室長の中井裕真から司法は正しく運用してくれる旨の見解が述べられており(永山薫・昼間たかし,"マンガ論争勃発2",2009)、これがフェミニストの通説でないことは明らかだが、一定数存在する見解であるように思われる。
初期の日本のフェミニズムには「反主知性主義」があり、「女性であれば(女性としての経験をもってさえいれば)誰でも女性学の担い手になれること、専門的なジャーゴンや注の使用を避け」、「プロとアマの距離をできるだけ近づけること」が目指されたと上野は述べている("女性学の制度化をめぐって",2001)。
こうした取り組みで女性が声をあげられる空気を作り出すことに成功したが、結果としてフェミニズムは「一人一派」と化した。筆者の私見に過ぎないが、これは同時にフェミニズムと「私」の区別を曖昧なままにしたのではないか。
「私」とフェミニズムが一体化しているとすれば、「私」が不愉快ならフェミニズム上も不公正に決まっている。それが従来のフェミニズム理論と矛盾していたり整合性が取れなくとも関係ない。「「オンナ対オトコ!」なんて言ってるフェミなんて、いないのになぁ」(北原みのり,"フェミの嫌われ方",2000)が示す通り、従来の理論について知識も興味もないフェミニストは珍しくない。知らなければ(当人の中で)矛盾はしない。
「理論を欠いた思想は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがちである」(*4)と上野は言う。そのような啓蒙主義者にとって「真理はつねに単純である。(中略)真理を受け容れることのできない人々は(中略)真理の力で救済することができなければ、力の論理で封じるほかはない」。そうして治安警察国家を招き寄せる人々は「反主知主義の闇の中に閉ざされる」。
これは実は上野によるリベフェミへの批判なのだが、筆者にはリベフェミではないところに突き刺さっているように思えてならない。
このようにフェミニズムは一言で言い表せるような概念ではもはやない。日本の初期フェミニズムはマルフェミが中心であったが、現代日本のフェミニストは必ずしもそうではないだろう(例えば堀田碧は"「男女共同参画」と「日の丸」フェミニズムの危うい関係"で一部の若いフェミニストの愛国心に苦言を呈している)。
最後になるが、フェミニズムはクソだという見解に私は全く同意しない。職場で上司が女性社員の尻を撫でることは強制わいせつ以外の何物でもないし、家庭内暴力は夫婦喧嘩ではなく傷害である。どれだけ成果を上げようが性別を理由に賃金を低く抑え、出世コースから排除するといった制度の是正にフェミニズムが尽力したことを、私は決してクソだとは思わない。
私がクソだと思うのは、……まぁ、書かなくても察してもらえるかと思う。
いささか長い増田になった。この程度の調査力でキモオタとかw という批判は甘んじて受けるしか無いが、とはいえもし誰かの理解の役に立ったのならそれに勝るものはない。
いまどきのデザイン業界って知識も教養も基本デッサン力もなくて、
「コミュ力」で適当なことやって売れたらOKみたいなイメージある。
オリンピックのエンブレムとか、どうみても、墓標であり、落日であって、
昂揚感とか平和と繁栄とか飽くなき挑戦とか祝祭とかそんなイメージないよね。
佐野氏だけじゃなくて、
他の有名若手デザイナーの皆様の作品で立ち止まってにやにやする、みたいな
文原聡の低燃費少女とか醜悪だったし、佐藤可士和のウイダーinゼリーなんかもやっつけ感
半端なかった。
ここ20年位の悲劇は、デザインを裏打ちする哲学や大きな流れが貧困になっていることで、
愚民から100円ずつ携帯で掠め取るとか他人の作ったコンテンツを劣化再編して
アフィリエイト広告貼って楽して金儲けしたものが勝ちとか、そんな流れになっているなぁと思う。
安い仕事は下っ端にやらせてネットから切り貼りしてくていかに手をかけないかライフハックだ!
みたいな。
以前モダンだ、モジュールだ、システムだ、実存だ、ポストモダンだ、脱構築だ、ホリスティックだ、オーガニックだ、複雑系だ、
って言ってたのが
今はコミュ力だ、ネット拡散だ、みたいな安いものに劣化してる。
ジョルジュ・サルマナザールはフランス生まれの白人だったが、ウィリアム・イネスという牧師の協力を得て「キリスト教に改宗した台湾人」になりすました。「台湾人の先祖は日本人である」「香草をまぶした生肉を食べている」などデタラメな風習を広め、独自の「台湾語」まで作りだした。当時のヨーロッパでは台湾のことなど全く知られていなかったので、サルマナザールは25年ものあいだ台湾の専門家と見なされ、彼が執筆した『台湾誌』は知識人からも信頼されていた。しかし、ハレー彗星で知られるエドモンド・ハレーが、『台湾誌』に掲載された星図などから矛盾を見つけ出して突きつけたため、彼はついに自らの虚偽を告白した。
数学教授ロデリックと図書館司書エックハルトは、横柄な態度のヨハン・ベリンガーに腹を立て、悪質ないたずらを仕掛けることにした。二人は石灰岩に細工をして、カエルやミミズの化石、彗星や太陽の形をした化石、「ヤハウェ」という文字が刻まれた化石などを作り出し、ベリンガーが化石を採集していた山に埋めておいた。当時は化石が生まれる原因が分かっておらず、神秘的な力によって形成されると考えられていたので、いま見ると明らかにおかしな化石でも、ベリンガーは本物だと信じこみ、図版を収録した書籍まで出版してしまった。話が大きくなって慌てた犯人の二人は偽造であることを明かしたが、ベリンガーはそれを中傷だと考えてまったく取り合わなかったという。
コック・レーンにあるリチャード・パーソンズの家に、ウィリアム・ケントとファニーという夫妻が下宿していた。しばらくしてファニーは天然痘で亡くなったが、それ以来、パーソンズの家では何かを叩くような音や引っかくような音がたびたび聞こえるようになり、パーソンズは「ファニーの幽霊に取り憑かれた」と主張した。ファニーの幽霊は、自分がケントに毒殺されたことを訴えているのだとされた。幽霊のことはロンドン中の話題になり、見物客が連日のように集まってコック・レーンを歩けないほどだった。しかし調査の結果、パーソンズが自分の娘を使って、木の板を叩いたり引っかいたりさせていたのだということが分かり、彼は有罪となった。
ヴォルフガング・フォン・ケンペレンは「トルコ人」という名の人形を完成させた。それは完全な機械仕掛けでチェスを指し、しかもほとんどの人間より強いというものだった。「トルコ人」はヨーロッパ中を旅してチェスを指し、その中にはベンジャミン・フランクリンやナポレオン・ボナパルトなどの名だたる人物がいた。多くの人間がその秘密を暴こうとしたが果たせなかった。ヴォルフガングの死後、「トルコ人」はヨハン・メルツェルのもとに渡り、ふたたびアメリカなどで大金を稼いだが、1854年に火事によって焼失した。その後、最後の持ち主の息子が明らかにしたところでは、やはりチェス盤のあるキャビネットの中に人が入っていたのであった。
宝石商シャルル・ベーマーは、自身が持つ高額な首飾りを王妃マリー・アントワネットに売りたいと思い、王妃の友人だと吹聴していたラ・モット伯爵夫人に仲介を依頼した。伯爵夫人は、王妃に渡すと言って受け取った首飾りを、ばらばらにして売りさばいてしまった。その後、ベーマーが代金を取り立てようとしたことから事件が発覚し、伯爵夫人は逮捕された。しかし「王妃と伯爵夫人は同性愛関係にあった」「本当は王妃の陰謀だった」といった事実無根の噂が流れ、マリー・アントワネットの評判は貶められた。ちなみに、かの有名なカリオストロ伯爵も巻き添えで逮捕され、のちに無罪となっている。
19歳のウィリアム・ヘンリー・アイアランドは、父親を喜ばせるためにシェイクスピアの手紙や文書を偽造するようになった。多くの専門家がそれを本物だと鑑定し、ジェイムズ・ボズウェルなどは「我らが詩人の聖遺物を生きて見られたことに感謝する」と祝杯を上げたほどだった。ついにウィリアムは戯曲の偽作まで行うようになったが、その戯曲「ヴォーティガンとロウィーナ」はあまりにも悲惨な出来栄えだった。また、その頃にはエドモンド・マローンによる批判も広まっていた。ウィリアムは罪を自白したが、世間はそれをウィリアムの父親が息子に言わせているものだと受け取った。当の父親も、無能な息子がそんなものを書けるわけがないと、死ぬまで贋作であることを信じなかった。
イギリスで異国の言葉を話す身元不明の女性が保護された。ある船乗りが「言葉が分かる」というので通訳となった。船乗りによれば、彼女はインド洋の島国の王女カラブーであり、海賊に囚われていたが逃げ出してきたのだということだった。彼女は地元の有力者たちのあいだで人気となり、またその肖像画は新聞に掲載されて広まった。しかし、その新聞を見た人から通報があり、彼女はメアリー・ベイカーという家政婦で、架空の言語を作り出して、カラブー王女のふりをしていただけだということが判明した。
イギリス軍人グレガー・マクレガーは、中南米で実際に功績を上げたのち、イギリスに戻って「ポヤイス国」への移住者を募集した。ポヤイス国は南米の美しい楽園で、土地は肥沃であり、砂金が採れると喧伝された。ポヤイス国の土地や役職、通貨などが高額で売りに出された。それを購入した二百七十人の移住者グループが船で現地へ向かったが、そこにポヤイス国など存在しなかった。荒れ地に放り出された移住者たちは次々に死んでいった。マクレガーはフランスに高飛びし、そこで同じ詐欺を働こうとして失敗した。さらにベネズエラへと逃げて、そこで英雄的な軍人として死んだ。
アメリカの冒険家だったジョシュア・ヒルは、ハワイへ移住しようとして失敗した後、タヒチ島からピトケアン島へと渡った。ピトケアン島は、イギリスからタヒチまで航海したのちに水兵たちが反乱を起こしたという「バウンティ号」の生き残りと、その子孫たちが暮らす絶海の孤島だった。ヒルは、自分はイギリス政府から派遣された要人だと嘘をつき、独裁者として君臨した。逆らう者には容赦なく鞭を振るい、恐怖で島を支配した。それから6年後、通りすがりのイギリス海軍の船に島民たちが助けを求めたことで、ついにヒルは島から追放された。
イギリスの名門ティッチボーン家の長男ロジャーは、1854年に南アメリカ沖で海難事故に遭って亡くなっていたが、その10年後にオーストラリアで肉屋を営む男が「自分がロジャーである」と名乗り出た。翌年、ロジャーの母である未亡人と「ロジャー」はパリで面会した。華奢だったロジャーとは違い、「ロジャー」は体重100kgを超える粗野な男だったが、未亡人は彼こそがロジャーだと認めた。貴族を名乗りつつも労働者であった彼は、イギリスの庶民からも大いに人気を集めた。しかし未亡人が亡くなった後、裁判において彼は偽者であるとの裁決が下され、14年の懲役刑を課されることになった。
ジョージ・ハルは進化論を支持する無神論者だったが、聖書に登場する巨人の実在について口論となり、それがきっかけで巨人の化石を捏造することを思いついた。石膏を巧みに加工し、毛穴まで彫り込んで、いかにも偶然発見したかのように装って大々的に発表した。専門家たちはすぐに偽物であることを見抜いたが、キリスト教原理主義者の一部は進化論への反証としてこれを支持し、また全米から多くの見物客がやってきた。フィニアス・テイラー・バーナムが同様に巨人の化石を見世物にしはじめたことで、ハルはバーナムを訴えるが、その裁判を取材していた新聞記者がハルの雇った石工を突き止めて自白させたため、ハルも観念して偽造を認めてしまった。
ドイツの靴職人ヴィルヘルム・フォークトは、古着屋で軍服や軍刀などを購入し、「プロイセン陸軍の大尉」に変装した。彼は大通りで立哨勤務をしていた近衛兵に声をかけ、十数名の兵士を集めさせると、ケーペニック市庁舎に踏み込んだ。フォークトは、市長や秘書らを逮捕し、また市の予算から4000マルクほどを押収すると、兵士たちにこのまま市庁舎を占拠するよう言いつけ、自分は悠々と駅に向かい、新聞記者からの取材に応じた後、列車に乗り込んで姿を消した。彼はすぐに逮捕されたが、ドイツ全土で人気者となり、時の皇帝によって特赦を受けた。
イギリスのピルトダウンでチャールズ・ドーソンによって発見された化石は、脳は現代人のように大きいが、下顎は類人猿に似ている頭蓋骨だった。ドーソンはこれをアーサー・スミス・ウッドワードと共同で研究し、人類の最古の祖先として「ピルトダウン人」と名付けて発表した。当時は大英帝国の繁栄期であり、人類発祥の地がイギリスであるという説は強く関心を持たれた。しかし1949年、フッ素年代測定により、ピルトダウン人の化石が捏造されたものだと断定された。捏造の犯人は未だに分かっておらず、『シャーロック・ホームズ』の作者であるアーサー・コナン・ドイルが真犯人だという説まである。
後に作家となるヴァージニア・ウルフを含む6人の大学生たちは、外務次官の名義でイギリス艦隊司令長官に「エチオピアの皇帝が艦隊を見学するので国賓として応対せよ」と電報を打ってから、変装をして戦艦ドレッドノートが停泊するウェイマス港に向かった。ぞんざいな変装だったにもかかわらず正体がバレることはなく、イギリス海軍から歓待を受けた。彼らはラテン語やギリシア語を交えたでたらめな言葉を話し、適当なものを指して「ブンガ!ブンガ!」と叫んだりした。ロンドンに帰った彼らは新聞社に手紙を送って種明かしをし、イギリス海軍の面目は丸潰れとなった。
ドイツの曲芸師オットー・ヴィッテは、アルバニア公国の独立の際に「スルタンの甥」のふりをしてアルバニアへ赴き、嘘がバレるまでの五日間だけ国王として即位した、と吹聴した。そのような記録はアルバニアにもなく、当時からオットーの証言は疑わしいものとされていたが、オットーはドイツ国内でよく知られ、新聞などで人気を博していた。オットーが亡くなったとき、その訃報には「元アルバニア王オットー1世」と書かれた。
コティングリー村に住む少女、フランシス・グリフィスとエルシー・ライトは、日頃から「森で妖精たちと遊んでいる」と話していた。ある日、二人が撮影してきた写真に小さな妖精が写っていたことに驚いた父親は、作家のアーサー・コナン・ドイルに鑑定を依頼した。そしてドイルが「本物の妖精」とのお墨付きを与えて雑誌に発表したため、大騒動となった。50年後、老婆となったエルシーは、絵本から切り抜いた妖精を草むらにピンで止めて撮影したと告白した。しかし、フランシスもエルシーも「写真は偽物だが妖精を見たのは本当だ」と最後まで主張していた。
オーストラリアの現代詩誌『アングリー・ペンギンズ』に、25歳で亡くなったという青年アーン・マレーの詩が、彼の姉であるエセルから送られてきた。『アングリー・ペンギンズ』誌はこれを大きく取り上げて天才と称賛した。しかし、これは保守派の詩人であるジェームズ・マコーリーとハロルド・スチュワートが、現代詩を貶めるためにつくったデタラメなものだった。この事件によりオーストラリアの現代詩壇は大きな損害を蒙ったが、1970年代に入るとアーン・マレーの作品はシュルレアリスム詩として称賛されるようになり、以降の芸術家に大きな影響を与えるようになった。
フィリピンのミンダナオ島で、文明から孤立したまま原始的な暮らしを続けてきたという「タサダイ族」が発見された。彼らの言語には「武器」「戦争」「敵」といった言葉がなかったため「愛の部族」として世界的な話題になった。彼らを保護するため、世界中から多額の寄付が集まり、居住区への立ち入りは禁止された。しかし15年後、保護地区に潜入したジャーナリストは、タサダイ族が家に住み、タバコを吸い、オートバイに乗っているのを目撃した。全ては当時のフィリピンの環境大臣マヌエル・エリザルデJr.による募金目当てのでっちあげだったとされた。
評論雑誌『ソーシャル・テキスト』は、「サイエンス・ウォーズ」と題したポストモダニズム批判への反論の特集に、アラン・ソーカルから寄せられた『境界を侵犯すること 量子重力の変換解釈学に向けて』という論文を掲載した。しかしそれは、ソーカルがのちに明かしたとおり、きちんと読めば明らかにおかしいと分かるような意味不明の疑似論文であり、ソーカルはそうしたでたらめをきちんと見抜けるかを試したのだった。それはポストモダンの哲学者たちが科学用語を濫用かつ誤用している状況に対する痛烈な批判だった。
先日からテレビ東京で『LOVE理論』というドラマが始まった。水野敬也さんという『スパルタ婚活塾』や、このドラマの題名でもある『LOVE理論』という、婚活や恋愛のハウツー本を出されている方の本が原作で、このドラマはその本に登場するメソッドを、面白おかしく、ドラマ仕立てにして、パロディにして紹介している。テレビ東京だからこそ可能な際どいラインを攻めたドラマだ。まだ1話しか放送されていないが、「非モテがLOVE理論を学び、実践し、意中の女性を手に入れる(語弊があるかもしれない)サクセスストーリー」であることは間違いないだろう。
さて、このドラマやこの話題に、いち早く反応しそうなクラスタが、昨今はてなやTwitter界隈で話題になったことが記憶に新しいのではないだろうか。「恋愛工学」、「藤沢数希」、「ナンパ師」。
藤沢数希さんを長に作られている「恋愛工学コミュニティ」では、メルマガ上で、日々履修者たちが実践や経験を共有し合い、スクリプトやメソッドを共有し合い、開発し合い、切磋琢磨してる。ナンパ師クラスタでは、カリスマナンパ師を筆頭に、ナンパ講習が行われ、ルサンチマンを抱えた男性の自己啓発の一面も担った実践が、都内各所で行われ、ナンパ師同士で切磋琢磨している。似て非なるこの2つのクラスタが、時には交わり共にフロントラインに立ち、切磋琢磨している。
Twitter界隈では、ナンパ師や恋愛工学履修者たちの行動について、様々な意見が飛び合っている。クラスタ外の人でも目につくほど、最近話題に上がっている。最近というか、ここ半年というリアルタイム感。ここ一週間で言うと「街なかでの声掛け」についてだ。とてもHOTで活発な議論が日々いたるところで行われているこのタイミングで、良いネタきた。このドラマというわけだ。タイミングが絶妙すぎて、個人的には、何もかも藤沢数希所長の計算だったのだろうなと思うほどである。
前置きが長くなってしまった。僕は前者、つまり恋愛工学受講者である。数ヶ月前まではTwitterでも盛んに議論に加わっていたり、成果をブログに報告したりし、一定以上のつながりもクラスタ内外で形成し、日々仲間達と切磋琢磨していた。しかしながら、そこで利用していたアカウントを、自分の所属している別のコミュニティでも利用していたため、その別のコミュニティから恋愛工学等への批判が多く、トラブルになる可能性が高まったため、そのアカウントは削除して、僕は現在ネット上での活動を自粛し、ひたすら淡々と個人で実践を繰り返していた。そこから、数ヶ月が経過し、ほとぼりが冷める頃を見計らって、新たにアカウントを開設し、活動の報告やコミュニケーションを再開しようと考えていて、その最初の一歩が、この匿名ダイアリーへの投稿である。本来であれば、ブログを新たに開始し、そこに投稿すべきなのだけれど、もともと僕が成果や記事の投稿を頻繁に匿名ダイアリーに投稿していたので、その名残で、今回の一発目はこちらに投稿した。
自己紹介も長くなってしまった。本題の「LOVE理論、あるいは恋愛工学(戦略・戦術)」について、僕の思うところを、自己満足的に、ひたすらに淡々と、書き綴っていきたいと思う。これは、僕の主観に満ち溢れた、独断と偏見に満ち溢れた、ただの戯れ言である。
僕は昨年の10月~今年の3月にかけ、多くの女性を抱いた。すべての女性は、別々であり、Sexの回数であれば、その倍以上になるだろう。彼女たちとの出会いは、基本的に、語弊を恐れずに書くと「ナンパ」である。渋谷のスクランブル交差点付近で目的もなさそうにしていた女性、恵比寿駅の西口改札前で浮足たっている感じのルブタンのヒールを履いた女性、新宿バルト9で席が隣になったサブカル系女子、Twitterで相談によくのってあげたキャバ嬢、そのジャンルの幅はとても広く、一人ひとりについて書くことは不可能に近い。そんな活動を、モクモクと、ある種、ロボット的に、日々こなしている人たち、それが「恋愛工学受講生」や「ナンパ師」であり、僕も、例によって、それなのだ。僕達には、これがとても日常的で、それは一方で、とても感覚が麻痺していることも気がついてはいる。心が磨り減るだけのこともあれば、深い愛情と安心で満たされることもある。
社会学者の宮台真司は、昨今の近代化や合理化について以下のように述べている。
〈システム〉と〈生活世界〉の関係を確認します。〈システム〉ではデニーズ的アメニティが提供されるのに対し、〈生活世界〉では地元商店的アニメティが提供されます。前者は「役割&マニュアル」優位な関係性で、後者は「善意&自発性」優位の関係です。だから前者は匿名的・入替可能で、後者は記名的・入替不能です。
近代化とは、〈生活世界〉で賄われて来た便益を〈システム〉に置き換える「合理化過程」。置き換え途上の段階ゆえに〈システム〉化され切らない〈生活世界〉が残っていると信じられるのが「近代過渡期」(モダン)で、置き換えが完遂して汎〈システム〉化=脱〈生活世界〉化した段階が「近代成熟期」(ポストモダン)。
近代化がある程度進んで、「まだ〈生活世界〉が残っている」というより「敢えて〈生活世界〉を保全している」と言えるようになるのが「再帰的近代」です。これにも2段階あって、いったん汎〈システム〉化した後に、かつての〈生活世界〉の機能的等価物を再構成したのが「ポストモダン的な再帰的近代」ということになる。
昨今の国内の人々の恋愛関係の事柄の矛盾や苦悩は、まさに宮台が上で指摘していることだ。近代化の影響ですべてが合理化されていくことは自明の事実である。それは恋愛(〈生活世界〉)というカテゴリーに対しても同じだ。恋愛〈生活世界〉の合理化<システム>化、突き詰めると、人間の生殖、子孫繁栄、それに対してこれまでは、「恋愛」「愛情」というとても曖昧なもの〈生活世界〉がそれを肯定していた。しかし近代化が進むにつれて、それすら合理化する波が押し寄せてきている、しかしその合理化に適応しきれない部分も存在し、それが苦悩や悩みと表象されている。<システム>化され、合理化が進んだ現代であれば、本来であれば、そこに恋愛という後押しが、「人間の生殖、子孫繁栄」には必要でなくなるのだ。ただ、現状はその過渡期であるから、そこで私達は苦悩する。「敢えて<生活世界>を保全することによって発生する負荷/代償」というとわかりやすいかもしれない。今回のネタでもあるLOVE理論や、恋愛工学のメソッド、スクリプトは極めて現代的であるのだ。理詰めされた戦略、整然としたロジック、曖昧性を排除した合理的で、もっともシステマティックな、生殖へのアプローチ方法なのだ。それを「心のないロボット」と揶揄する人も多くいるだろうが、それは<システム化>された社会の行き着く先であることは否定できない。
僕達が信じている(あるいは信じていた)恋愛観など、欧米から輸入した価値観でしかない。その押し付けられた恋愛観、一種の洗脳、から開放されることは、非常に難しい。生まれた時から、その価値観を埋めつけられているからだ。人は環境に規定されてしまう、一度規定されると、なかなかにその規定から外れることはできないし、規定され続ける限り、自身を客観視することは非常に難しくなる。
だからこそ、恋愛工学クラスタ、ナンパ師クラスタ、が発生することは、合理化された社会では当たり前なのだ。合理化が進んだ、<システム>化が進む恋愛市場への、一番合理的なアプローチであり、社会への適応なのだから。もちろん、そのアプローチが時には、女性への迷惑行為になり得ることも十分に承知している。一種の危険性を孕んでいる事実は隠せない。しかし、それを頭ごなしに否定することは、それも全く違うのだ。「ナンパ・声掛け」とてもマイクロ的な事象を、もう2,3歩さがって改めて考えてみると、全体が見えてくる。<システム>化という波にのみこまれそうな恋愛<生活世界>という具合だ。
僕はこんなことを考えながらナンパをしているのか、と改めてこのように文字に起こしてみると、新しい発見がある。現代病とくくれば、そうなのだろうけれど。
はるしにゃん君がセクハラやら暴言やらで話題になっている。長らく彼をヲチしてきた者として、これから彼をヲチする者のために、彼の人物像を紹介するよ。
殻辺(@hallucinyan)さん | Twitter
もともと彼は立命館の経済だかに通っていたアイマス好きのオタクで、東浩紀や宮台真司への憧れを募らせながら、ゲンロン界隈に溶け込もうとがんばっていた。そういえば昔はハルシナと名乗っていたな。
むりゃかみゆうとは (ムリャカミユウとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%80%E3%82%8A%E3%82%83%E3%81%8B%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%86
むりゃかみゆう@非公式(@muryakamiyuu)さん | Twitter
https://twitter.com/muryakamiyuu
ゲンロンの前身にあたる合同会社コンテクチュアズのマスコットキャラクター、むりゃかみゆうをモチーフに女装なんかやってた頃は、彼にも可愛げがあった。
ニコニコ動画に歌ってみたなんか上げちゃって、東浩紀への目配せがいじらしい。
組曲『あずまん動画』 - ニコニコ動画:GINZA
で、彼はそのままゲンロンのホモソーシャルで姫をやってりゃよかったものを、欲っ気を出して同人誌の編集を始めてしまった。
Amazon.co.jp: イルミナシオン: 松本 卓也, 黒瀬 陽平, 上祐 史浩, 佐藤 雄一, 有村 悠, はるしにゃん, 藤城嘘: 本
この『イルミナシオン』所収の「イルミナシオンは愛を求めて」は、はるしにゃん君が不幸な家庭で育ち、エヴァにハマり、友人の自殺を経て、童貞卒業への闘志に芽生え、デリヘルで失敗し、メンヘラ女を食い漁るようになるまでを描いた自分語りで、彼の批判者はまずこれを読んでおいたほうがいいよ。
これは劣化版『超人計画』みたいなもので、はるしにゃん君も「滝本竜彦の劣化コピーのごとき実存」とか自分で言っている。
これだけを見るとゲンロンに擦り寄っていた哀れなオタクがなんか覚醒したっぽいというだけの話だけど、覚醒した彼は『イルミナシオン』の刊行と前後して、アニメ批評にちょっかいを出すようになった。
杉田悠の「『けいおん』の偽法――逆半透明の詐術」という論考に準じて、はるしにゃん君はブログに「けいおん!の「内面」について」という記事を載せた。今は削除されちゃっているけど、ブコメから雰囲気は伝わってくる。っていうかなんで削除しちゃったんだろうね。そんなに批判されたくなかったのかな。
けいおん!の「内面」について - A Mental Hell’s Angel
http://b.hatena.ne.jp/entry/hallucinyan.hatenablog.com/entry/2012/07/25/200631
で、この記事に、泉信行や岩下朋世なんかの『ユリイカ』系の漫画研究家たちが反論を加えたことでちょっとした論争がおこった。
はるしにゃん君によると、日常系・空気系アニメである「けいおん!」には内面がなく、むちむちとした身体性によってそれが覆い隠されているんだそうだ。
その結論に至るまでの不備を指摘されているわけなんだけど、泉信行が「研究と批評は違う」みたいなことを言っちゃったせいで、はるしにゃん君は「じゃあ批評は適当でもいいじゃん」みたいなスタンスをとってしまった。これは良くないよね。
泉信行は「研究と批評は違う」とは別に「たとえ研究のような厳密性が求められない批評であっても、媒概念不周延の誤謬には注意しようね」ということを主張している。これをはるしにゃん君はガン無視し、杉田悠に助けを乞うた上、俺が批判に応えてやってるのに、みたいなことを言い出した。
当時、杉田悠が寄稿した『アニメルカ』を中心に「アニメブロガー総合スレ」というスレがあったんだけど、はるしにゃん君の大立ち回りはそこそこ話題になった。
953 :名無しさん名無しさん:2012/09/14(金) 22:52:30.49
・テンプレ
@sugita_u 生活上のストレスとかあるんでしょうけど、礼儀って素朴に重要なんじゃないですか
@sugita_u 僕は杉田悠さんがアニメルカの中では相対的に優秀だと思っています
@sugita_u 僕はあなたの原稿をトゥギャッターで乗り越えました
@sugita_u 少なくとも、擁護しようとした立場の人にいきなり「カチンと来た」「仲間だなんて思ってくるな」という発言したことを謝罪する気はないんでうすね。それは失礼です。その失礼が謝罪によって解消されるか病院の薬で解決されるか、ということでよろしいですね
@sugita_u 僕としては優しかった頃、余裕のあった頃の杉田さんが好きでした。でも変わられてしまった。しかしそれが良い展開に向かう可能性もある。僕は杉田さんの幸福を数年間祈って来ました。
@sugita_u 疑問なのはどうしてそう喧嘩腰にしか喋れないんですか。「カチンと来た」「仲間だと思わないでくれ」もそうですが。人格障害だと認めますか?
892 :名無しさん名無しさん:2012/08/31(金) 23:37:02.97
こういう奴は裏では嫌われてるって自覚ないまま消えていくよ
人の褌で相撲を取ろうとしておいて、なかなか図々しいね。でも、そこがはるしにゃん君の可愛さでもあるんだ。
https://twitter.com/hallucinyan/status/230988133540458497
僕はディベート部の部長だったので、議論と喧嘩の区別をつけています。今回の議論で僕はいずみのさんに悪印象を持ったりはしていません。むしろマンガ論の沃野の広大さを教えてくださって感謝しています
http://togetter.com/li/349401#c643714
「虐待される美少女ブヒィィィすっぽんぽんブヒィィィ」と同人誌で萌えサカッた後、「いやこれは『実在性』を剥ぎ取られた『キャラ』に『身体性』と『精神性』を『補完』する『試み』に興味を抱いたわけで」などといった「普段の僕は頭いいんです」アピールで己の「ゲスな身体性」への言い訳をするのが現代の哲学や評論であるのなら、ンなもんさっさと死ねばいいのに、と思いました。
散々な言われようのはるしにゃん君を擁護しておくと、「けいおん!内面論争」での「内面」は「ポストモダン的成熟」の有無によって判断されるもので、一般的な意味での「内面」とは別物なんだよね。でも、その辺りを理解できなかったラノベ天狗なんかはいつまで経ってもグチグチ言ってるみたい。
じゃあ「ポストモダン的成熟」って何だよって話だけど、やっぱり意味不明なんだよね。定義を明示せずに言葉を振り回しているところが、いかにも批評家くずれっぽくて微笑ましいね。
さてさて、はるしにゃん君はその後も批評をがんばり続けてきた。と同時に、メンヘラを食いまくってきた。
はるしにゃん君のメンヘラの食い方は、「俺はメンヘラなんだよぅ~つらいにゃんつらいにゃん~」ってメンヘラを引き寄せ、「君はラカンも読んだことがないの?ザコ?」みたいなことをいって罵倒し、依存させるって感じかな。想像だけど。
そうやって彼はメンヘラ女を集め、ヤりまくり、一方で、彼女たちを批評で救うみたいなスタンスのもと、同人誌を作っていった。
ところが、メンヘラはメンヘラだから、適切な治療を受けなければ死んでしまう。
はるしにゃん君の仲間で、一緒に同人誌を作っていたメンヘラ神は、メンヘラであることをコンテンツにしていくうちに、自殺してしまった。
メンヘラ神の死は、それはそれは多くのメンヘラに影響を与えたんだけど、ウェルテル効果というまではいかなかった。
でもまあ、メンヘラを集めてコンテンツ化していたはるしにゃん君は、メンヘラ神を死に追いやった一因として、散々な批判を浴びることになっちゃった。かわいそうに。
そのせいか、はるしにゃん君はしばらく燻っていたんだけど、2014年の秋ぐらいから元気になってきたみたいなんだよね。
彼の文章も、東浩紀やら宮台真司やら千葉雅也やらに褒められるようになってきた。よかったね。
で、また最近は批評をやってるみたいだ。
あれこれ思想家を引用してるけど、言ってる中身はシンプルっていうか、一般的な意味での内面がないのはご愛嬌。まだセカイ系とか言ってて、まさしくゼロ年代の亡霊だ。
東浩紀の『存在論的、郵便的』『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』『動物化するポストモダン』について - Togetterまとめ
東浩紀についてなんか、かなり熱心に語っている。
ちなみに東浩紀自身の言説には内面がないどころか、自己矛盾の塊だ。
で、はるしにゃん君の文章をいくつか読めば分かるけど、彼は思想家や哲学者の名前をジャブジャブ出しまくって権威付けを図ろうとしているよ。
けれど、本人が何か新しいことを言っているわけでもなくて、権威付け以外の何かに発展している例は今のところ見当たらないし、そこはがんばって欲しい。しんかい35と正面衝突してくれないかな。
さて、はるしにゃん君の権威付けは、複数の哲学者や社会学者が共通して言っていることを抜き出して言い換えることによって成り立っている。
はるしにゃん君が「ルーマンはラカン以下」なんて言っちゃった時は、ルーマン研究者の酒井泰斗がげっそりしていたよ。
https://twitter.com/contractio/status/197244430338633729
前者は「似てるよね分析」と呼んでいますが、後者はなんと呼びましょうかね。
RT @sskyt: 「Aは……Bと……似ている!」とか「Aは……Bを……読んでいた!」みたいな研究て全然興味持てないんだけど。
https://twitter.com/contractio/status/197247900085002240
組み合わせると、「昔の人Bが言っていたXは 最近Aが言っているYに似ているのでB偉かった」のようなかなり高度な主張が可能となる。
https://twitter.com/hallucinyan/status/547789378999681024
ルーマンの言ってることって大概ラカンが述べてるしラカンを超えてる部分があまり見当たらないというのが個人的な見解で、じゃあ「ポストモダニストより社会学者から引用したほうが叩かれにくい」という政治的効率性以外の点でルーマンの卓越性ってどこにあるんだろうって思っている
https://twitter.com/hallucinyan/status/547790901955670016
そしておそらくオートポイエーシスもコンティンジェンシーもシニフィアン連鎖や対象aの問題であり、そして後期ラカン的なサントームや、男女間のセクシュアリティの差異、大文字の他者の享楽についてルーマンが叙述できているかといえばできていないと思う
https://twitter.com/hallucinyan/status/559584058137538560
単にルーマンがつまんないって言っても面白くないから「じゃあラカン先生のどこを超えてるんですか? どこも超えてないでしょ?」って煽ってるのわからないのかわかったうえでなにも言えないのか
https://twitter.com/contractio/status/559588003417296896
煽ると何が面白いんですか。
https://twitter.com/contractio/status/559588541454233600
「どっちが強いですか」で語る現代思想。
https://twitter.com/contractio/status/559590072593309698
「つまんない」場合の対処は、面白い読み方に変えるか 読むのを止めるかのどっちかではないですかね。
はるしにゃん君は「越えてる」「越えてない」で思想家を語るのが好きなんだ。すぐにブロックするところは、師匠の東浩紀譲り。
そんなこんなで、批評をがんばっているはるしにゃん君は、同時にホストとしてもがんばっているみたい、と思ったら、最近言及してないし辞めたのかな。
その代わりに、イベンターやら何やらでがんばっているみたい。高円寺のカフェバーでいろいろやるみたいだよ。
ところが、はるしにゃんの努力を邪魔する連中が現れてしまった。
成上友織, はるしにゃん君の暴言・差別発言について
これは、はるしにゃん君と交友があったセイジョウ君からの批判だ。
はるしにゃん君の言葉を用いると、彼の言動を理解できない者は「ザコ」であり、彼に疑問を呈する者は「アスペ」であり、彼に反発する者は「ボダ」になる。
そして、はるしにゃん君はその広範な知識と、お得意の言い換えによって批判を封殺しようとしたよ。
メンヘラとレイシズムについての所感と応答 - A Mental Hell’s Angel
http://hallucinyan.hatenablog.com/entry/2015/02/07/134950
まず第一に私は大学で精神病理学を学んでいた。もちろんクラインもラカンもドゥルーズも読んだうえに、さらにアメリカのDSM的な診断マニュアルについても目を通している。そして最新の精神療法についてもサーヴェイしている。
大学で精神病理学を学んでいたからといって、学位を持ってるわけでもないのだから、別にはるしにゃん君の言動は正当化されないんだけど、はるしにゃん君は批判者に病識があるという一点のみで批判を潰そうとした。批判の内容についてはほぼ耳を貸そうとせず、俺はメンヘラと正しく交流しているから、って理由で自己正当化を図っている。
そして私は単に批判しているのみならず、いわゆる弁証法的行動療法であるとかメンタライゼーションといった理論と療法については高額な医学書を大量に購入してサーヴェイしているし、また、それを人口に膾炙させるために活動しているつもりである。
でも、実際。
メンヘラ神は死んじゃったよね。
はるしにゃん君に全く落ち度がなかったってわけじゃないだろう。
っていうか何でメンヘラと交流するんだろうか。やっぱりヤレるからなのかな。
精神医学の知識をばら撒き、メンヘラとセックスするメリットを享受しておきながら、メンヘラを批判し、メンヘラを善導しているから俺はオッケーってどういうスタンスだよ。メンヘラとセックスできることがメリットなのかどうかはさておき。
さらにさらに、はるしにゃん君の行く手を阻むものは次々と現れる。
はるしにゃん君は2月11日に、マネージャーを務めるカフェバーで「インテリイケメンツイッタラーによる一日限定ホストクラブ」というイベントを開催しようとしていた。
明らかにメンヘラを集めて搾取しようというイベントだけど、さっきの「メンヘラとレイシズムについての所感と応答」によるとはるしにゃん君は「私としては一方で啓蒙的にコンスタティヴな文章を書き、他方でパフォーマティヴには「ボダはあまり私に関わらないで」といったパフォーマンスをせざるをえない。」らしい。ホストイベントにボダ来るだろうし、キャストもボダっぽいじゃねーか。
で、はるしにゃん君はイベントのキャストの知人友人にセクハラを働いていたみたいで、団結したキャスト達にそれを暴露されてしまったようだ。
ところが、このキャスト達ははるしにゃん君からドラッグを貰っていたようで、はるしにゃん君にそこを突かれると逆らえないようだ。
便乗して、同人関係ではるしにゃん君と揉め事があったホリィ・センがはるしにゃん君を批判しようとしたけれど、私怨だし、アスペだしで不発に終わってしまった。
きっとはるしにゃん君のセクハラは事実だろうし、暴言を取り消すつもりはないようだし、そして自ら公言しているように彼はドラッグをやっている。
だから、彼を批判したければ、その3点を攻撃すればいいというのに、批判者はザコばかり。
だからはるしにゃん君は怒っている。
はるしにゃん君の論法は、ジャーゴンに次ぐジャーゴン、パラフレーズに次ぐパラフレーズ、そして脈絡なくホストクラブやドラッグの話を持ち出し、相手の理解が追いつかないところが一点でもあれば封殺するというものだ。
宮台真司譲りのこの論法をどうにかできる人が現れるまで、ヲチを楽しみたい。
http://twitter.com/hallucinyan/status/562904272363614208
【無限への飛翔 集合論の誕生 (大人のための数学 3)/志賀 浩二】を読んだ本に追加 →bookmeter.com/b/4314010428 #bookmeter
http://twitter.com/Back0126/status/562961572063375360
@hallucinyan こうやって、数学にいい加減な哲学かぶれが生まれると思うと感慨深い 数学に関しては、じっくり真摯に読むことをお勧めします
http://twitter.com/Back0126/status/562975033807884289
@hallucinyan おお、ブロックされた その程度か
http://twitter.com/Back0126/status/562978566921793538
@hallucinyan 高校数学を勉強したからと言って、集合論を含む専門的な数学を斜め読み程度で理解できるといういい加減な考えをバカにされてるわけです
http://twitter.com/hallucinyan/status/562971657800024064
馬鹿はすぐにソーカルがどうとか言い出すが、そもそもお前どの程度ソーカル読めてて理数的に優秀でそのうえで人文社会科学への理解あるんだという話。
http://twitter.com/Back0126/status/562978789643550720
@hallucinyan ソーカルの言明程度なら、大学数学をきちんと理解していれば誰でも理解できますよ わからないんですか?
http://twitter.com/hallucinyan/status/562972324442681344
日本におけるサイエンスウォーズでは浅田彰と山形浩生の位相幾何学問題があったわけですが、それも浅田は間違っていなかったという形で終焉を迎えましたし、彼もそもそも経済学部でゲーム理論やっていたわけです
http://twitter.com/Back0126/status/562979281123684353
@hallucinyan しかし、浅田氏が理解していたわけではない、概ね菊池先生のフォローによるものだ、という考えが一般的なようですね
http://twitter.com/hallucinyan/status/562972928057561089
hallucinyan:そして日本において最も早くソーカル事件を紹介したのもポストモダン系の人間でありそして一定以上はきちんと真摯にそれを受け止めたように思われる。
http://twitter.com/Back0126/status/562979357300641793
@hallucinyan え?
http://twitter.com/hallucinyan/status/562974083143704578
そして「××は間違っている!」とばかり声高に言いたがる奴は大概自分から生産的なことを言えないので、きちんと内容のあること言ってその次に批判すると良いんじゃないかと思います。当事者含めた全員のために。
http://twitter.com/Back0126/status/562980233218109441
@hallucinyan 間違っていることを間違っていると指摘することは、当人が生産的かどうかと無関係に指摘していいんじゃないですか?少なくとも、真偽の判定が比較的易しい数学においては
http://twitter.com/Back0126/status/562980757292191744
@hallucinyan というわけで、とりあえずこの辺りでやめておきましょう 貴方が数学に関していい加減なことを言わない限り、今後リプライしません
http://twitter.com/Back0126/status/562981991889784832
はるしにゃん(@hallucinyan)という人物が、数学をいい加減な理解に基づきいい加減に発言しているということが、概ねはっきりしたようだ
ディベート部と同じで、高校数学をやっていたからって乱暴に数学を語っていいということじゃないけど、はるしにゃん君の勢いは止まらない。
http://seana.hatenablog.com/entry/2015/02/05/230648
アイドルの曲は、アイドルが歌うことに意味があるということに気づけただけでも、ジャニーズを好きになってよかったなと改めて思います。
アイドルファンのみんながみんなそうというわけじゃないよ、という話も。
そもそも「音楽とはその演者の主張である」という基準自体が、常に正しいとは限らない。
何の主張も、意思も、意見も、欲求も何もなく、音楽はただ音としてあるだけでも許されるはずだ。
それは、西洋哲学の古典の文脈で、「世界には何らかの真理があるはずだ」とされてきた価値観に似ているかもしれない。
これはおそらく、人間のコミュニケーションの手段、あるいは記録・伝達の手段の発達に関係していると言えそうだ。
音楽を伝える手段は、口伝から楽譜、レコードからCD、デジタルデータへと発展してきた。
一番最初は「自分たちの音楽をいかに奏でるか」から始まったし、実際にそういう手段や発想しかなかったわけだが、
文明の発達によって「楽器を弾かなくても音楽が作れる」、「発表した数分後には世界中の誰でも聴くことができる」ようになり、
音楽のありようは大きく変わってきた。
つまりシニフィエを持たず、純粋にシニフィアンとして存在しうるものに変わってきた。
音楽を奏でる上で、その主体が自分の顔や外見を聴衆の前に晒し、
その言葉が本人の主張であると常に解釈されなければいけない時代は終わったということだ。
人間、あるいは自己の「表現」としての「音楽」には限界がある。
そもそも「音楽」と「自己」とは関係なく存在しあってもいいものであるはずだ。
「自分たちの音楽とは、自分たちの表現だ」という自己規定は、そのうちに必ず自家中毒を引き起こす。
いわゆるアイドル戦国時代と言われたところから、近年のヒットチャートをアイドルが占拠するようになったこの音楽のあり方は、
何も正当性がないただの「衰退」や「退廃」とは異なる、文化としての次のステップの意味を示している。
「音楽」と「自己」、あるいは「音楽」と「意味」の離別は、音楽そのものの純粋さをより推し進めるものともとれる。
たとえばそれは、女性キャラしか登場しなくなったアニメや、10代の若者が世界を救うジュヴナイル作品とも近いもしれない。
その「音楽」をより純粋な形で届ける上で、最適な手段を探した結果、それが「アイドルだった」としても実は不思議なことではないのだ。
ポップスという大衆音楽には、その音楽性やジャンル自体の制限はない。
あらゆる音楽性はポップスに含まれうるが、しかし外見や表現を含めてもそうだといえるだろうか?
ダンスミュージック、ディスコ、あるいはプログレ、ハードロック、メタル、
これらはそのファッション、スタイルと相まって存在していた音楽、文化だ。
ヒップホップの音楽性には、ヒップホップのファッションが必要で、ヒップホップなアティチュードが求められる。
一人の人間、あるいはバンドでこの様々な音楽性の表現は一貫して行うことができるだろうか?答えは「No」だ。
なぜなら自己の表現として音楽が存在すると仮定した場合、多種多様な音楽を奏でることはそのまま分裂症的に解釈されてしまうのがオチだからで、
純粋な音楽の表現において、多種多様な音楽をできるだけピュアな形で届けるには、アニメやアイドルといった、
何の主張も持たない、時にはフィクショナルな存在の方が向いているということは起こりうるのだ。
彼ら、彼女たちと、そこで歌われる、奏でられる音楽は、本当の意味で結びついてはいない。
しかしながら、いや、だからこそ、その音楽は純粋に存在しているし、鳴っているのだ。
ともすれば、その歌詞が支離滅裂で意味を持たなかったとしても、
ナンセンスであるほどにその身体性、サウンドとしての純度は高まるかもしれない。
ひと昔前であれば、優れた40代50代の音楽家が表現しうる音楽の手法、伝える手段は、より限られたものだったろう。
今は、アニメ、アイドル、ボーカロイド…。様々な手段によって、自己の肉体や外見とは関係なく、純粋に音楽を表現できる時代になったのだ。
ぼくもやってみることにした
年代別に代表的な長編を英米と日本でそれぞれで10作えらんでみたよ
この手のベストだと叙述系が挙げられがちなので
あえてベタにえらんでみました
長編しばりでなので
ま、有名だしね
黄金期にミステリの臨界点を冷静に見つめていたバークリーらしい作品
『第二の銃声』とかもバークリーらしいけど
こっちのほうが一般向けかな
複雑なフロットでグイグイ読ませる
長編しばりなので
名作揃いの初期短編ではなくこれを
言わずと知れた奇作かつ傑作
マニアの人ごめんなさい
インパクトのつよさでこれを
これも本格復興期の名作
亜愛一郎シリーズも必読
なんでこれなんだ、とかいわれそうだけど
多分これが一番読みやすいと思うので
『神様ゲーム』もそうだけど
うっかりしてました
酒飲みながら書いてたので注意力散漫だったようです
ってことで
「ゾンビに殺された人間もゾンビ化する」というロメロ的ゾンビ観に基づく
・垂直的なコミュニケーションによって「記号」に振り回されるという状況がありつつも、水平的に自ら「記号」を操作する立梅にある
インターネットを利用して自分も記号を用いて振り回すこともできる。
→オタクの字義が広がった(市民権を得たというのもある)。もしくはレッテル貼りによってそう語られる人が増えた。ファッション的にオタクを名乗る人が増えた
記号のパンデミック。ある属性を身にまとう人が増え(もしくは着せられる)、それがゾンビが仲間を増やすように他人にもその属性をうつす。ウイルスのよう。
・ネットワーク消費
消費の対象は、それらが共有されるか否かで判断される。同じ作品を見ているかどうか、それについて他人と話し合えるかどうかが問題。それが多数派であるか少数派(ニッチ)であるかはまた別問題か。TwitterなどのSNSで感想を共有出来る場が増えたことなどから諸費は他人とのシェアを含めたものとなる。シェアできる人がいない→他の人に薦めればいいじゃんというゾンビ的な行動が起きる。見ている人が多いから選ぶというのもありそうではある。その場合、評価が裏打ちされているからでなく、ただ単にシェア可能性が高まるからだろう。
・オススメ○○選!
割りと個人ブログでも見かけるが、PV稼げるだけだからでもないだろう。これは一種の噛み付きである。しかし噛まれる方は噛まれることを望んでいるのかいないのか。
■イントロ。
今回の【N.C.P.】は、『へっぽこ通信』のへっぽこくん氏と二人で、1999年度のベスト5を選ぶ……という、年間総括だったりします。あと、例によって筆者の暗い文章。とほ。
おいら的に今年やったゲームって事で……(汗) 発売は去年かも……多数?
1 Kanon
2 ぱすてるチャイム
3 がんぶる
4 days innocent
1→久々にやりまくりでした~音楽と絵のタイミングがよかった。
2→コレットさんが成長しちゃうところがマイナスですが、ぶかTシャツにスパッツはよい。
3→全てが丁寧に作られた感じがよいいなり。ただパッドがないと最後つらかった。
4→一部当てはまらないけど、精神的にはみんなずーれーだから。
5→はじめて、ごんぽりーな女の子が可愛く見えた。(EDENは今年の作品なのかわからないけど……やったのは今年)
【個人的総括】
うーん、今年はKanonですかねぇ~。何はともあれ、音楽が好きかも~。当時はアレンジCD聴きまくってました。オープニングからかっちょよろしくて、ぶるぶるきました。他的には……う~ん『days~』がえろ~すゲームとしてはえろかったかなぁ。後は可愛いので選んでしまった感じ。
実際、まだ全部のゲーム終えれてないので、今やってるママトトとかがランクインしてた可能性もあるんですけど、いかんせん、おいらゲームはじめる前にねかして熟成した頃にやるから(^^; 故に、ママトトやダークロウズは、すでに来年のゲームな位置づけなり。個人的には、大作なえろーすRPGをやりたいなり~(闘神都市2みたいな)
実は、キャラ的には沙耶(ぱすてるチャイム)だったりします……へふ。
1 フロレアール
2 Kanon
3 とらいあんぐるハート2
4 くるみちゃん あ・そ・ぼ◆
5 憧れ
1→巧みに構築された論理と悲劇……と書くと『総長賭博』っぽい?(誰も分かりません)
2→バランスの悪さはあれど、印象は強烈。でも、えろげーとしてはちょっと辛いかも……(全年齢版出るけど)。
3→昔気質のラブコメ魂と意地を感じさせる作品だと思う。中毒性はメチャ高い。
5→アダルトで上品に抑えた雰囲気がナイス。女教師ゲーとしては最強かも。
【個人的総括】
今年はエロゲー界のチェ・ゲバラこと、臭作さんのようなヒーロー不在で寂し……もとい、昨年に比べると、大手・中堅メーカーに意欲作が少なく、面白みに欠けたかも。大作ばかりでなく、味のある小品がもっと増えないと、全体の層が薄くなる一方だと思う……。
あと、恋愛描写の水準は強まっているけど、全体的にえっち度が弱まっているような感じが、ちょっとあるなあ……。キャラ萌え&ストーリー重視な流れの弊害かも知れないけど、えろげーはやっぱり、エレクチオンさせてナンボ!って気はするですね(小池先生ライクな台詞)。……いや、Kanonもかなり好きですが~。
■本文。
親がとある新興宗教の狂信者だったので、生まれてからずっと、カルト的なコミューンの中で育った。ある時、その閉鎖性に気づいて、家を飛び出した。でも、辿り着いたのは、[オタク]という別のカルトだった。
それはそれとして、1999年の美少女ゲーム界で最も気になっているのは、ジャンルとしての共通言語が失われつつあるな、ということだったりする。[萌え]と[泣き]の両極がそれぞれ先鋭化し、カルト的なコミューンが形成されつつあるようにも見えるのだ。具体的に書く気すら起きないが、コミケの企業ブースやデジフェスで、毎回決まったように起こる混乱は、そのあたりの空気を微妙に表していると言えるだろう。
量的な飽和と多様化が、ユーザーの細分化をもたらしている。そのこと自体は悪くないと思うが、それがカルト的な求心力を持ってしまうことには、危惧を抱かざるを得ない。そして、[萌え]=キャラクター志向派、[泣き]=ストーリー志向派……という図式が発展していく過程で、両者がそれぞれ保守化し、一部では対立の構図も見られるようになっている……というのは、美少女ゲームというジャンル全体を考えるに、不幸な結果しかもたらさないのではないか? という気がするのだ。
早い話が、筆者が、ある陣営のゲームについて、コラムを書くだけで、別の陣営には激悪な印象を与えている……という状況が、厳然と存在していて、どうも息苦しいのだ。
さっき、「カルト的」と書いたのは、特定のイデオロギーを通してでしか、ゲームや人間関係を判断できない人が、あまりにも増えてしまったからだ。元々、美少女ゲームには、フェミニズムやマッチョイズムに属することのできなかった人々にとっての宗教という側面はあるが……。
例えば、神仏を信じられない人のために、心霊主義(スピリチュアリズム)や科学信仰があるように、それ自体はごく自然なものなんだけど、行き過ぎると単なる狂信者になってしまうのは、どちらも同じだ。筆者も、昔は狂信の極みにいたしね。
だから、このコラムも、印象批評的な文章はすっかり書けなくなってしまった。どうしても状況論的なものに終始してしまうのは、印象批評を書いた瞬間に、どちらかの陣営に与したと見なされ、筆者の友人は半分に減ってしまうからだ。これがまた、かなり実話だったりするから笑えないんだけどさ……。
別に[萌え]でも[泣き]でも、どちらでもいいのだ。出来上がったゲームが面白ければ。いや、本当に心を動かされるような良質の物語は、[萌え]と[泣き]を内包しつつ、そんなイデオロギーの枠組みすら超えてしまうはずなのだ。だいたい、イデオロギー抜きの意見を述べるのが最も難しいという状況は、冗談抜きでふざけているとしか思えない。好きなゲームを好きと言えないって、どういうことだい?
まあ、美少女ゲーム業界に限らず、どこの世界でもそうなりつつあるのは確かである。編集やライターを生業とする筆者の周辺でも、オタク系とサブカル系でお互い反目しているので、人間関係では要らぬ苦労を強いられる。全てのジャンルにおいて、そういった対立構造が必ず存在し、延々と繰り返されているメビウスの輪の中で、閉塞感だけが肥大していく……そんな悪夢が年々、増幅されているような気がする。
だから、もう嫌なのだ。オタク世界全体に漂っている、奇妙な停滞感が。何より、汲み取るべきものが見当たらないから、何も編集する気が起きないし。よって、編集者としては、秋から休業中だったりする。なんだか、自分の話ばかりで申し訳ない上に、冒頭から変なことをカミングアウトしているんだけども、今回の年間総括は、この連載を一年近く続けてきた、自分に対しての総括でもあるのです。申し訳ない……。
最後に、[萌え][泣き]……どちらにしても、[癒し]を大量消費している構造には変わりはない。問題は、[癒し]という概念が、思考の暴走を抑えるという、本来の意味を失い、思考停止の為だけに使われていることである。何も考えないために、生まれてくる全てのものを消費していくのだとしたら、これほど不毛なことはない。これはもう、「終わらない日常」どころじゃない。だいたい、始まってもいないのだから。何となく、『キッズ・リターン』のラストみたいだけども。
この状況に対して本当に必要なのは、ノイズを削ぎ落とし、完成された構造の作品ではなく、むしろ、ノイズとされてしまった要素を積極的に取り込み、想像力の領域を拡げ……ポストモダンを超えていく作品だと思う。新しい[魔法]の材料は、ノイズの中にしかないのだから。
しかし、閉塞を乗り越えた作品も時が過ぎていくにつれ、カルトに取り込まれ、更なる閉塞へ向かって保守化してしまう。そう、どんなに素晴らしい魔法も、[メディアミックス]という名の魔物による、カルト性を帯びた資本主義の洗礼によって、いつかは解けてしまうのだ……。
もっとも、商売としては、カルト化して、一定数のユーザー=信者から、大量の金を収奪するシステムにしてしまった方が、美味しいんだろうけど……その辺は、世間を騒がせている『法の華』や『ライフスペース』の事件を見ても分かる通りで……カルトの信者ほど、財布の紐が緩い人々はいないからねえ……。
それでも……いや、だからこそ、作り手とユーザーは、次々と新しい魔法……新しい物語を目指さなければならないのではないだろうか?
それは、思考停止して閉塞へと向かっていくカルトの罠から、自立していくために必要なことだ。更に言えば、進化と消費は、セットであるべきもので、乖離してしまっては、全く意味を成さないのだ。
つーか、逃げるために消費するのは、もう止めようや。キャラクターへの愛情は、グッズに注ぎ込んだ金額じゃ計れないんだぜ!(←バカ)
■総括の総括というか、感想。
毎年恒例(?)年間総括……と思ったら、周りにバランス良くえろげーをやってる人が、へっぽこさんしかいないという……いや、それ以前に、えろげーをバリバリやってる人もいない……何故~?
という訳で……へっぽこさん、今回は本当に、ありがとうございました~。
■その1。
発端は、とあるまんが家と喫茶店で打ち合わせている時だった。お互い、ヘビーな美少女ゲーマーだったので、自然と最近のゲームの話になったのだけど、『Kanon』の話になった途端、そのまんが家は激昂し、強硬に『Kanon』を否定したのだ。激昂の理由は後述するけど、普段は温厚なそのまんが家を激昂させた、『Kanon』というゲームはどんなゲームなんだろうか……という興味が(本人には悪いが)沸いたし、何よりも、巷では大人気のはずなのに、筆者の周辺でプレイした人が、まるでいなかったのも気になっていた。
『Kanon』というゲームが、恋愛系ゲームに興味の薄い人間にとって、敷居が高いのは確かだ。コアなファンは多いのに、その面白さはプレイしていない人には、なかなか伝わって来ない。実際、雑誌の紹介記事を読んでも、「今泉伸二のまんがより泣ける!」程度しか分からないし(すまん、古いギャグで)、何より、雑誌ごとに扱いの大きさが極端に違っていた。しかも、筆者は『MOON.』も『ONE~輝く季節へ~』もプレイしていなかったので尚更だ。
……さて、ゲームをプレイしての印象だけども、音楽を含めた演出面は素晴らしいし、シナリオも読んでいて引き込まれる力は十分にある。そういう意味では良質の作品なのかも知れない。でも、正直言って、全体にバランスが悪すぎる……というか、凡庸な部分と突出した部分の落差が激しすぎるのだ。
まず、シナリオに関して、引き込まれつつも、違和感を感じていた。何故なら、どのシナリオも不条理が剥き出しの状態で、そこにあるからだ。この物語での不条理とは、主に[祈り]と[奇蹟]にまつわる部分で、物語の根幹を成す部分なのだけど、物語を形成する要素としての世界観や、恋愛に至る過程といった場所での論理がどれもこれも飛躍し過ぎている。それは、意図的なのかも知れないが、結果、説明不足に陥っている場所が大量に存在するのはどんなものか……と思っていた。
……更に本質的な問題として、エロゲーとしては全く成立していないのだ。これについてはもう論外としか言いようがないし、ゲームとして見た場合、『Kanon』は、整合性というものが全く欠けていた。
しかし……そんな欠点がゴロゴロしているにも関わらず、筆者の評価は悪くない。悪くないどころか、個人的には極めて面白かったのだ。じゃあ、何で面白かったのか……それが最大の問題だった。
話は逸れるが、物語を構築する要素というのは、ウラジミール・プロップの「26のカード」以降、現在では分析され、かなり法則化されている。更に、近代化に伴って、スピリチュアルで曖昧だった物語要素は、更に表層的な記号へ解体され、方程式を組むように商品を作ることができるようになったし、記号の選択と方程式の組み方さえ間違えなければ、ユーザーを「泣き」や「萌え」の状態に導くのも、割と簡単にできる。実際、ほとんどのおたく向けヒット商品&作品はそういう計算の上で作られている。逆に、ヒットしない商品のヒットしない理由とは、作り手の創作性……悪く言えば、偏執的なこだわりがノイズになってしまったケースが大半だったりする。
そして、全ての事象が表層的な記号へ分解されていくこの状況が、この連載で何度も書いてきた[オブジェクト嗜好]の正体で、別の場所では[ポストモダン]と呼ばれていた状況だったのだ。
■その2。
商品として成立させるために、計算によって整合性を高めると、計算できない要素はノイズとして排除されてしまう。例えば、スピリチュアルな物語要素の代表例である[奇蹟]は、近年は「陳腐なもの」として、扱うことを避ける傾向にある。
何故なら、ロボットならいざ知らず、人の生死に関する[奇蹟]は極めて不条理で、論理的な説明が困難だからだ。確かに、『To Heart』でも、いくつかの[奇蹟]は存在したが、論理的に説明できる程度に抑え、逸脱することを防いでいた。これは、日常性の維持=普遍性を、物語世界の根幹に据えていたからだろう。
ところが、『Kanon』の場合は、[奇蹟]を、物語世界の根幹に据えてしまった。作り手が日常から逸脱してしまうことを覚悟していたかどうかは分からない。しかし、『Kanon』は表層的な設定よりも、ドラマトゥルギー的な主義主張が先に立っている作品で、キャラクターの記号性で、その綻びを強引に追補していた。それでも、原初的な物語要素……スピリチュアルな展開、に対する思い入れが強すぎて、全体のバランスが崩れることは食い止められなかった。
これではどう見ても、物語として完結させるのは困難で、ああ、このまま破綻したまま終わるのかな……と思いきや、[奇蹟]によって力づくで完結させてしまったのだ。これはとても希有なことだと思う。
だけども、同時にこの作品は、表層的にも、「泣き」や「萌え」という要素を達成して、商品としても成立している。いわば、作品が二重構造になっており、そのことが先に述べた敷居の高さの原因になっているのだろう。しかし、記号の組み合わせにも、緻密な計算や、意図的なものが、いまいち感じられないのだ。
肝心の文章そのものにしてもそうだ。シナリオの構成自体は随所で破綻しているにも関わらず、文章が独特のリズム感と情念を持っていて、物語に引き込まれてしまう。キャラクター描写やストーリー展開で、同じパターンを反復している箇所も多く、もちろん、ある程度の計算は感じさせるのだけど、全体としては緻密な計算より、感覚を優先したように見える。こういう文章を昔、読んだことがあるな……と思ったら、思い出した。平井和正の小説……それも、『幻魔大戦』や『地球樹の女神』あたりの感覚に近い。
平井和正は、自身の紡ぐ物語を「言霊が降りてくる」と表現していたが、それが結果として、[天然の美]となっていた。単純に比べるには抵抗はあるが、『Kanon』についても同じことが言えるだろう。そして、計算だけでは超えられなかった、魔術めいた部分が、このゲームの最大の魅力なのだと思った。
更に、私見ではあるが、ファンの心性も似た傾向があるように思う。これは、どちらにも共通するのだが、作り手はいざ知らず、ユーザー側が全員、[ポストモダン]という状況を肯定している訳ではない。その状況に戸惑ったり、諦観していたりする人々も存在する。そして、そんな最先端から取り残された人々の存在に思いを馳せなければ見えないものも、また存在するのだ。
本誌(カラフルピュアガール)の若い読者は、最先端の絵柄で上手いという理由だけで美少女ゲームを買うかも知れないが、そういう人には、『Kanon』が売れる理由は多分、分からないだろう。
絵描きにしてもそうだけど、[作り手]と呼ばれる人々は、常に最先端を追い続ける義務感を持っている。そういう人々が、立ち止まることを肯定してしまうような作品を否定するのは、無理もない。冒頭の出来事の原因もまた、そういうことだったし、筆者も、順調に本業だけ続けていれば=最先端を追いかけていれば、こういう視点は持たなかったろう。けれども、筆者にとっては、最先端の行き着くところは[ポストモダン]という名の絶望だったのだ……。
しかし、今回のプレイでの教訓は、[真・善・美]が最先端の中にあるとは限らない、ということだ。問題は、突き進むにしても、立ち止まるにしても、そこで何を成すか、想像力の限界を拡げることができるかどうか、なのだと思う。
■複雑な気分の総括。
真琴シナリオをプレイしていたら、ネームに詰まったかかしあさひろが遊びに来た。そして、後半の反復する連鎖コンボのような展開を見ながら「ああ、こりゃルネッサンスだな」と言った。おそらく、タイトルから何か連想して言ったのだろう。
しかし、これは面白い発言だ。エヴァ以降、完結しない物語が当たり前になり、影響を受けた若い世代は、技術至上主義のビジュアル志向に走り、物語という概念すら放棄しかねないという状況……そんな、進化による閉塞から逃れるための、前近代への回帰として考えると、『Kanon』という、無謀極まりない物語は、微妙な可能性を秘めていると思う。まあ、それは別の閉塞なのかも知れないけど……。
ループする世界に意味をこじつけなくたって、ポストモダンが動物化しなくたって、何かで性欲を正当化する必要なんかなく、いつだって僕たちにはオナニーする権利はある。
F4Uの新作『好奇心は猫をもアレする』は、ひとたび開けば一気に理性なんて吹っ飛ばし、声に出して読みたい日本語と限りない法悦が襲い掛かる、そんなステキな作品である。
この一冊を開いて、一番初めのコマに書いてあるのは「ヘルス部だぁ!?」の一言である。変な部活ものがこの世の春を謳歌する現代において、逆に禁じ手なのではないか。
僕はこれから自分を打ちのめすであろうF4Uワールドへの期待に、床上手な処女のように打ち震えた。
手際よくぴゅっぴゅする導入を経て、「偏差値15学園」連作は開始される。ヒロインはレイプが横行する偏差値15学園において先述のヘルス部を立ち上げ、貯めたお金で塾に行くことを夢見る黒ギャルである。奇想である。どこへ行くんだこの話。その先は是非あなたの目で確かめてほしい。その果てで、あなたはきっと「偏差値」という単語の持つポテンシャルを知ることとなるだろう。
さてさて話はかわるが、読者諸賢もご存知の通りエロ漫画において女の子が行為に及ぶエクスキューズは数多く存在する。そして、どの「なぜ」を選ぶかには、作家性が色濃く現れる。
らぶらぶえっちがあり、無理やりからの快楽堕ちがあり、悪堕ちがあり。中には、極端に人口上の男女比が崩れ女は牝奴隷と化している、機械が人類の観察のために性行為を模するなど、世界の法則を歪めるレベルのエクスキューズでSFというジャンルに一歩も二歩も足を踏み入れた作品も少なくない。
『好奇心は猫をもアレする』では、凌辱系にしろらぶらぶ系にしろ、とにかく女がペニス(作中の言葉をひくなら“そう、それは――ちんぽと呼ぶには、あまりにもペニス”)を求めて堕ちてゆく。
エロ漫画ってそういうものでしょう、と紳士たるあなたは思うかもしれない。
しかしそこはF4Uの真骨頂、堂々たる男根で牝を盛らせ、攻撃的なまでに擬音を響かせながら堕としていく様は迫力すら感じられる。中出しした後に膣から溢れ出る精液からは生命が匂い立つ。
言葉で、絵柄で、セックスに至る過程を暴力的なまでに納得させられている。その独特な言語感覚に支えられた強烈なドライブ感に、F4Uの作家性があらわれている。
思うにF4Uの凄味は、可愛い女の子描写(頭身高め、ヤンキー、優等生、地味子、巨乳貧乳何でもアリ)、ダイナミックな構図作り(魅せるための体位作り!)だけではないのだろう。
それらに加えて、底抜けに力強いちんちん賛歌があるのではないか。どいつもこいつも血管の浮き出た逸物をビキビキイキり立たせ、牝を思うがままに喘がせている。
F4Uの描くちんちんは、物言わずともその在り様で雄弁に語る。早く挿入れたいと切なげに、女を牝に引きずり堕としたいと猛々しく。
「カラオーケストラ」では優等生らしいJKに自ら笑顔でチンポを求めることを強要して内側から精神を破壊し、「忘れ××もの」では処女からセックス中毒に堕とした元カノに真の絶頂を思い出させている。
F4Uの作るエピソードには、どれにもチンポへの畏敬の念が通底している。本作のカバー下でも、チンポ作画に関するこだわりを見せている。そのチンポへの飽くなき追求、はもはやちんちん賛歌の域にある。
これは私見なのだが、エロ漫画は可愛い女の子とちんちん賛歌の両輪で駆動する地獄車である。エロスとナルシシズムの幸福なマリアージュと言い換えてもいいだろう。
性的欲望を向けるに足りる対象と、欲望やその持ち主自身を肯定する象徴としての力強いペニス。特に後者は、露出された欲望を雄々しいもの・女性から欲望されるものそのものとして描いていることで、読者から理性を引き剥がすための後押しとなりうる。僕たちはヒロインたちに欲望を肯定され、ガチガチの男根の背中に自分を重ね、ひととき獣に戻る。男根によって世界に没入し世界と繋がり、猫をもアレしているのは、きっと僕たちだ。
理屈をこねまわすのは終わりだ。サタデーナイトはオナニーフィーバーとキャノン先生も言っている。
さあ諸君。知恵の実なんて吐き捨てよう。猫に戻ろう。めくるめく夜を始めよう。
「ファイト!戦う君の歌を戦わない奴らが笑うだろう」とはアメリカ大統領の誰かの遺言だったと思うが、戦うのがダサい痛いとされる今時じゃそんな言葉は流行らないだろうな。
ジャンプ黄金時代とは違って90年代以降ポストモダンが浸透し明確な善悪の区別がすっかり消失したこともこれに起因する。ほとんど全ては善なのだ。みんな違ってみんないい。
では多様性ある今の時代何が重視されているかと言えば答えは簡単コミュ力である。我々(脱)ゆとり世代の日本人は義務教育課程でスクールカーストの洗礼を受けてお勉強よりも何よりもコミュ力の重要性を学ぶ。
しかしコミュ力という言葉は甚だ曖昧でそこには自信のなさから来る人見知りが多分に含まれる。要は日本語能力とか言語的知能の問題よりも対人緊張や受容的態度などの気持ちの問題が大きい。
なるほど確かにコミュ障が多いとされるオタクと言われる人達は排他性が著しく異質な人間たちとのコミュニケーションには困難をきたすが、対立感情のない仲間うちどうしでは円滑に交流しているように見える。
それで満足に生きていけるならわざわざ異質なものと交流する必要などないというのもポストモダンな現代社会における道理であろう。換言すればコミュ障それ自体には全く問題がないのである。
自分の幸福にとって必要な他者受容のレベルがどの程度かそれを見誤っていなければ、何らかの自分とは無関係なクラスターでコミュ障と非難されても気にすることはないのである。
しかし一方で気持ちの問題を度外視した純粋なコミュ力、これをトーク力と名付けるが、トーク力が無い人間はこれからの社会死滅していく運命なのである。
気持ちというのは(対人不安障害でもない限り)相手によって大きく変わるが、トーク力は誰が相手でも基本的に共通しているから大事なのだ。
聞き手の年代・性別・人種などで話題の展開しやすさに違いは生じるが、そこは知識ですぐに補完できる部分であり本質ではない。
話すべき相手なら当然事前に知識を入れてるはずであり、知識不足でうまく話せない相手というのはあまり関わる必要のない相手だから気にしなくて良いと割り切って考えることもできる。
ではどうやってプロはトーク力を磨いているのかという疑問が当然わいてくる。トーク力といっても様々な状況があるが例えば友達3人以上で話すときにはテンポの良さが特に重視される。
多人数であるほどあまり独りよがりに話を拡げることは出来ない。中身のある込み入った話が求められることも少ない。となれば自ずとテンポが最重要になるわけだ。
誰かが何か発言した瞬間に話をほんの少し拡げるような一言ボケを入れる。そんなスピード勝負になるから場をリードする人間であるにはスピードが命。瞬発的なトーク力のない人間に発言権はない。
瞬発力ない人間は発言権がないからなかなか多人数の会話でのトークスキルが磨かれないという負のスパイラルに陥る。でも作文の瞬発力は何も多人数のトークだけで鍛えられるものではない。
いやむしろ人との実際の会話よりも多くの時間を毎日費やしている日頃の思考のほうが大事なのだ。日頃見聞きしたものを独自の着眼点で吟味して話の引き出しに入れておく。
そしてここが重要なのだが引き出しを人との会話だけでなく自分自身の思考にも積極的に活用せねばならない。日頃使っているから素早く引き出しに出し入れできるようになるのだ。
さて話者が二人である時には、互いの興味をかなり具体的に想定できて共通の話題を見つけやすいため突っ込んだ話が可能になる。話題をテンポよく変える必要もない。
ここで重要になるのはスピードよりもバラエティである。バラエティと言っても娯楽番組じゃなくて多様性な。柔軟に変幻自在に話題を拡げられること。
結局これも日頃の思考がベースになってるんだよね。話題が広がらないと会話が途切れるのは誰しも経験したことがあるだろう。なぜ話題が広がらないかというと
話題の引き出しの少なさも勿論あるんだけど、それ以上に引き出しが乱暴にしか整理されてないのが大きい。例えば、トーク力が致命的にない人間に限って
大抵「女は馬鹿」みたいな凝り固まった考え方にとらわれている。過度な一般化と断定口調とそれを強弁するための乱暴な言葉遣いが特徴だ。
これでは浅い会話しかできず表面でしか繋がりのない人間関係しか構築できないのは当然である。そしてその原因は物事の認識が曖昧かつ大掴み過ぎることにある。
何も天才的頭脳なんて必要なくて普通に日頃から色んなことをまんべんなく考える癖があるかどうかの話だ。それが出来てる人ほど頭が柔らかく、話をしてても会話が広がりやすい。
三井不動産は首都高を目の敵にしているのではないか、と私も感じるところがある。
コレド日本橋や日本橋三井タワーは日本橋にふさわしい景観なのかどうか。
ガラスファサード建築がアリなら首都高の高架だっていいじゃない。
日本橋三井タワーにしても、三井本館をぶち抜くように高層ビルが生えていて、ポストモダン建築のよう。
日本郵便のKITTEや明治大学のリバティタワーとか、ああいうビルも好きなのだけど。
都市の景観を考える上で、石造りの日本橋がそんなに素晴らしいものなのか分からない。
だいたい明治時代に架けられた今の日本橋を取り戻して、それが観光資源になりうるのか。
元増田にもあるとおり、ビジネスにおける選抜にフェルミ推定を用いたいなら特にそう。
なぜならビジネスで要求されているのは、結果・数字・利益であって、能力ではないから。
ピアノ調律師が何人いるかが直接ビジネスに関わるのならば、ググレばいい。まじで。
それで答えが出てくるならそれに依拠するのが一番早い。ピアノ協会(あるかどうかしらねーけど)が
人数とか公表してるかもしんねーじゃん。検索結果の信憑性とかを言い出すならフェルミ推定の結果の信頼性も
どっこいどっこいですから。0を1にする端緒としてフェルミ推定とグーグルのどっちが上かは一概には決まらないよ。
むしろ論理的思考力なんて無くても答えにたどり着けるグーグルの方が優秀とさえいえるかもしれない。
多くの反論が予想されるのは
「画一的な答えが期待できないからこそ帰納的・演繹的推論能力を見るためにフェルミ推定をやるんだ」
ってやつ
いやー、でもこれ言い換えると「ビジネス上の問題にグーグルは答えてくれねーよksg」ってことでしょ?
だったら最初から「ググッてもいいよ」くらいの余裕が面接側にほしいよね。答えが無いって分かってるならさ。
ってことは事実上要求されてるのは知識の運用能力(と知識量)だよ。フェルミ推定を始める端緒としてぐぐれる環境が
あっても全然いーじゃん。
いっつも思うんだけど、企業の採用活動として、何を目的にフェルミ推定を面接過程につっこむ(べきな)のか
繰り返しになるけど、調律師の数字が問題なのであればむしろ必要な能力は
どこを掘るとその情報に出会えるか知ってることだよ。そんでもって人間の活動でまったく新しい何かなんて
ポストモダンな現在にあっては存在しませんよ。むしろXに迫るためにAとBとCとOとPとQのどれを組み合わせて
先行研究とすべきかという能力のほうが重要なんですよ。さらに言えばそういう先行研究の成功と失敗を踏まえないと
そこまでブレイクダウンして採用活動にフェルミ推定を導入しましたか?もっと言えば普段の活動をそこまでブレイクダウンしてますか?
そういうの抜きでフェルミ推定だけ採用活動に導入すると滑稽ですよ。
話が大分逸れてきた。
言いたいことは、フェルミ推定で要求されている能力が情報・知識の運用能力であるなら、
むしろグーグルをいかに活用するあるいはしないかというところも見ないと現代社会では無意味でしょということ。
そういう設問のフェルミ推定問題を作らないとダメですよということ。
そんでもってぐぐって得た情報でみんなが妥当な答えにたどり着けるならそれは出題側の問題だし、恐らく普段の業務も
ちょっとググれば答えが転がってることを棚上げにしてる可能性が高いってこと。
id:lovelovedogは本当にネウヨらしい。
id:hazama-hazama-hazamaの過去の指摘を引っ張っておく。
最後にもう一つ、歴史修正主義とポストモダンの関係についての述べておこう。lovelovedog氏は、時に不可知論に近い言動も見られるようだ。*3Apeman氏も指摘するように、この態度で一貫していれば論理的には正しい。しかし、ここで論理的に正しいことは倫理的に正しいことなのかという問題が浮上するのだ。
http://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama-hazama/20080329/1206773121
lovelovedog氏の議論は典型的な歴史修正主義者のそれであることは、本人の自覚はともかく、もはや明確だろう。
http://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama-hazama/20080329/1206773121
しかし、愛・蔵太氏の主張は仮説段階にも至っていないと思われる。もし、これが大学の学部生のプレゼミ発表であれば、多分、指導教官に怒られる。
http://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama-hazama/20080404/1207304127