はてなキーワード: ハルキストとは
上記の台詞は村上春樹『風の歌を聴け』の冒頭の台詞であるが、先日これについて書こうと決めた矢先、ホッテントリに村上春樹の記事が上がっていたので先取りされたことに焦りつつ書くことにした。ところで純文学ギャルゲーと言えばドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンがそれに当たると思う。詳しくはネタバレになるので避けるけど
タイトルで述べた台詞は村上春樹読者、つまりハルキストにとってもあまり深くは理解されていない台詞で、ただ何となくオシャレなだけの台詞に近い扱いを受けている。でも実際のところそれは間違いである。文章が漠然とし過ぎていて意図するところを汲み取りにくいのは確かなのだけれど、それでいいのかハルキスト。タイトルでは幾分省略したのだが、原文は次の通りだ。
昔、春樹本人がこの言葉について次のように語っている
「小説書いてて、これは正しくないんじゃないか、嘘なんじゃないか、小説を書く意味なんかないんじゃないか、って思うときね、ここを読み返すと、ああ嘘じゃないなってね、勇気づけられる。書くだけのことはあったのかなって思うんです」(「宝島」83年11月号)
完璧な文章とは何で、完璧な絶望とは何なのか。この言葉から完璧に読み解くことができる。よく聞け。
つまり、文章とは、物語とは基本的に何かを伝えるために書くわけです。文章によって我々は何かを伝える、何かを伝えるために文章を書く。当たり前の行為です。我々はそこに避け難く、何らかの主張や主旨というものを紛れ込ませます。つまり、もっと言うならば自分の意見というものを紛れ込ませるのです。要は、どんな文章にであれ何かしらのエゴというものが混入することになるということです。
とは言え、何らかのエゴを文章の中に、あるいは物語の中に混入させるということは、ある意味では文章の純粋さ、文章の混じりけの無さを汚濁してしまうことにも繋がります。つまり、人間は文章を書くが故に、つまりは伝達という手段を取るがゆえに、文章に自己のエゴを混入させ、その物語を完結した破綻のないものから不完全で安定を欠いた代物へと変貌させてしまうということです。よく人は小説というものがエゴの発露であると主張しますが、これは嘘で、むしろエゴは小説の小説たりえるための何かを、文章の文章たりえるための何かを阻害し、邪魔しているのです。エゴは、小説を完成させる為に、あるいは、文章を完成させる為に、それらを完璧にする為には全くもって不必要どころか、邪魔なものでさえあるということなのです。
あるいは、完璧な文章というものが仮に存在するとすれば、それはその文章の中に一切のエゴが含まれていない文章のことを言うのです。文章に自己を含まない。つまり、伝達の手段として文章を用いながらにして、一切を伝達することを拒絶した文章。一欠片たりともエゴを含まない文章。仮に、本物の文章というものが、完璧な文章というものがあるとすれば、それはそんな文章に他なりません。そう、伝達の形態において何事も伝達せず、何事もエゴについて伝えようとしない。そこに、一切の伝達の可能性を認めず、そのような可能性に一片の期待さえ抱くことのない――そういう文章のことを人は完璧な文章と呼ばうのでしょう。果たして、そのような文章はあり得るのか。
ここで、冒頭の台詞に立ち返ってくることとなります。つまり、そのような完璧な文章などといったものは存在しないのです。完璧な絶望が存在しないようにね。
伝達の可能性に一切期待しない、一片としてさえエゴを含まない、自己の伝達を拒絶した文章は、本当に存在するのでしょうか? 否、結論から先に述べれば、そんな文章というものは存在しません。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望に他ならないのです。絶望。つまり、それは自己の存在がこの世において断絶してあるということです。自己の存在が、誰にも伝わらないということです。あるいは、伝えようとしても伝わらないということです。力の限り叫んだとしても、何一つ誰一人にさえ――言葉が通じないということです。伝達の可能性が存在しないということは、絶望しているということは、そういうことなのです。
「私は悲しい」と人が言う時に、それは「私は悲しい」という気持ちを伝えることへの、希望を含んだ発話であると言うことができると思います。その文章には、自分の感情を、自分のエゴを誰かへと伝え、誰かと共有し、誰かと何かを分かち合うという切実な希望が溢れているのです。しかし、それは同時に完璧な文章ではありません。何故か。そこには、エゴがあるからです。
自己がそこには混入しており、エゴが文章を汚濁させているからです。
伝達とは、感情の伝達とは、文章の完成度を基準に考えれば、汚濁であり不浄の象徴とさえ言えるかもしれません。
でも逆に、そこに何一つとして、伝達への期待が含まれていないとしたら――? 何一つ自分の感情を伝達することなく、何一つ自分のエゴを伝えることなく、何一つとして他人と何かを分かち合いたいという希望を含まない文章――エゴの一切を根絶した文章が存在するとすれば――? それは、恐らくはエゴの一切を根絶し切った、完璧な文章である筈です。
そして、それは同時に、明白に絶望なのです。
誰かと何かを共有することを放棄し、誰かに何かを伝えることを放棄した、伝達の用を為さぬ伝達。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望にほかならないのです。一切の、伝達への望みを絶った、絶えた望みのみを伺いうる文章――それは完璧な文章であると同時に、完璧な絶望の表現ということになるのです。
そう、存在しないのです。そんな、完璧に絶望した文章。伝達への望みを断ち切った文章。それは存在しないのです。完璧な文章は、完璧な絶望が存在する時にのみ、存在することができます。でも、それは存在しないのです。何故なら、伝達を目的とするための文章によって、伝達の可能性の絶滅を表現することは、不可能だからなのです。
あるいは、そのような、伝達の根絶、伝達の不可能性を仮に表現しようとしたところで、そこには、「筆者の絶望」が必ずや表現されてしまうのです。そこに、色濃い絶望を刻み、筆者は自らの絶望、何一つとして伝えるに至らなかった絶望を、文章に込めざるを得なくなるのです。つまり、そこには作者のエゴが混入し、伝達の不可能性が打破されてしまうのです。そう、完璧な絶望が存在する時、完璧な絶望の存在は否定されるというパラドックスが、そこには示されています。つまり、比喩を使って言うならば、その瞬間、我々の心の内側にある凍てついた海は、言葉という斧によって砕けることになるのです。
だからこそ、春樹は上記のように言ったのではないでしょうか。「嘘じゃないな」と。どんな文章にであれ、人はどうしても、どんな形であってさえ、エゴを、つまりは自分の真実を混入してしまうのです。そこには、表現の不可能性ではなく、表現の不可能性の不可能性が存在しているのです。人は、どんなに黙っていても、どんなに沈黙を守ろうとしても、どうしても、誰かに何かを伝えざるを得ないのです。
上記の台詞は村上春樹『風の歌を聴け』の冒頭の台詞であるが、先日これについて書こうと決めた矢先、ホッテントリに村上春樹の記事が上がっていたので先取りされたことに焦りつつ書くことにした。ところで純文学ギャルゲーと言えばドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンがそれに当たると思う。詳しくはネタバレになるので避けるけど
タイトルで述べた台詞は村上春樹読者、つまりハルキストにとってもあまり深くは理解されていない台詞で、ただ何となくオシャレだけれど適当な台詞に近い扱いを受けている。でも実際のところそれは間違いである。文章が漠然とし過ぎていて意図するところを汲み取りにくいのは確かなのだけれど、それでいいのかハルキスト。タイトルでは幾分省略したのだが、原文は次の通りだ。
昔、春樹本人がこの言葉について次のように語っている
「小説書いてて、これは正しくないんじゃないか、嘘なんじゃないか、小説を書く意味なんかないんじゃないか、って思うときね、ここを読み返すと、ああ嘘じゃないなってね、勇気づけられる。書くだけのことはあったのかなって思うんです」(「宝島」83年11月号)
完璧な文章とは何で、完璧な絶望とは何なのか。この言葉から完璧に読み解くことができる。よく聞け。
つまり、文章とは、物語とは基本的に何かを伝えるために書くわけです。文章によって我々は何かを伝える、何かを伝えるために文章を書く。当たり前の行為です。我々はそこに避け難く、何らかの主張や主旨というものを紛れ込ませます。つまり、もっと言うならば自分の意見というものを紛れ込ませるのです。要は、どんな文章にであれ何かしらのエゴというものが混入することになるということです。
とは言え、何らかのエゴを文章の中に、あるいは物語の中に混入させるということは、ある意味では文章の純粋さ、文章の混じりけの無さを汚濁してしまうことにも繋がります。つまり、人間は文章を書くが故に、つまりは伝達という手段を取るがゆえに、文章に自己のエゴを混入させ、その物語を完結した破綻のないものから不完全で安定を欠いた代物へと変貌させてしまうということです。よく人は小説というものがエゴの発露であると主張しますが、これは嘘で、むしろエゴは小説の小説たりえるための何かを、文章の文章たりえるための何かを阻害し、邪魔しているのです。エゴは、小説を完成させる為に、あるいは、文章を完成させる為に、それらを完璧にする為には全くもって不必要どころか、邪魔なものでさえあるということなのです。
あるいは、完璧な文章というものが仮に存在するとすれば、それはその文章の中に一切のエゴが含まれていない文章のことを言うのです。文章に自己を含まない。つまり、伝達の手段として文章を用いながらにして、一切を伝達することを拒絶した文章。一欠片たりともエゴを含まない文章。仮に、本物の文章というものが、完璧な文章というものがあるとすれば、それはそんな文章に他なりません。そう、伝達の形態において何事も伝達せず、何事もエゴについて伝えようとしない。そこに、一切の伝達の可能性を認めず、そのような可能性に一片の期待さえ抱くことのない――そういう文章のことを人は完璧な文章と呼ばうのでしょう。果たして、そのような文章はあり得るのか。
ここで、冒頭の台詞に立ち返ってくることとなります。つまり、そのような完璧な文章などといったものは存在しないのです。完璧な絶望が存在しないようにね。
伝達の可能性に一切期待しない、一片としてさえエゴを含まない、自己の伝達を拒絶した文章は、本当に存在するのでしょうか? 否、結論から先に述べれば、そんな文章というものは存在しません。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望に他ならないのです。絶望。つまり、それは自己の存在がこの世において断絶してあるということです。自己の存在が、誰にも伝わらないということです。あるいは、伝えようとしても伝わらないということです。力の限り叫んだとしても、何一つ誰一人にさえ――言葉が通じないということです。伝達の可能性が存在しないということは、絶望しているということは、そういうことなのです。
「私は悲しい」と人が言う時に、それは「私は悲しい」という気持ちを伝えることへの、希望を含んだ発話であると言うことができると思います。その文章には、自分の感情を、自分のエゴを誰かへと伝え、誰かと共有し、誰かと何かを分かち合うという切実な希望が溢れているのです。しかし、それは同時に完璧な文章ではありません。何故か。そこには、エゴがあるからです。
自己がそこには混入しており、エゴが文章を汚濁させているからです。
伝達とは、感情の伝達とは、文章の完成度を基準に考えれば、汚濁であり不浄の象徴とさえ言えるかもしれません。
でも逆に、そこに何一つとして、伝達への期待が含まれていないとしたら――? 何一つ自分の感情を伝達することなく、何一つ自分のエゴを伝えることなく、何一つとして他人と何かを分かち合いたいという希望を含まない文章――エゴの一切を根絶した文章が存在するとすれば――? それは、恐らくはエゴの一切を根絶し切った、完璧な文章である筈です。
そして、それは同時に、明白に絶望なのです。
誰かと何かを共有することを放棄し、誰かに何かを伝えることを放棄した、伝達の用を為さぬ伝達。仮にそんなものが存在するとすれば、それは絶望にほかならないのです。一切の、伝達への望みを絶った、絶えた望みのみを伺いうる文章――それは完璧な文章であると同時に、完璧な絶望の表現ということになるのです。
そう、存在しないのです。そんな、完璧に絶望した文章。伝達への望みを断ち切った文章。それは存在しないのです。完璧な文章は、完璧な絶望が存在する時にのみ、存在することができます。でも、それは存在しないのです。何故なら、伝達を目的とするための文章によって、伝達の可能性の絶滅を表現することは、不可能だからなのです。
あるいは、そのような、伝達の根絶、伝達の不可能性を仮に表現しようとしたところで、そこには、「筆者の絶望」が必ずや表現されてしまうのです。そこに、色濃い絶望を刻み、筆者は自らの絶望、何一つとして伝えるに至らなかった絶望を、文章に込めざるを得なくなるのです。つまり、そこには作者のエゴが混入し、伝達の不可能性が打破されてしまうのです。そう、完璧な絶望が存在する時、完璧な絶望の存在は否定されるというパラドックスが、そこには示されています。つまり、比喩を使って言うならば、その瞬間、我々の心の内側にある凍てついた海は、言葉という斧によって砕けることになるのです。
だからこそ、春樹は上記のように言ったのではないでしょうか。「嘘じゃないな」と。どんな文章にであれ、人はどうしても、どんな形であってさえ、エゴを、つまりは自分の真実を混入してしまうのです。そこには、表現の不可能性ではなく、表現の不可能性の不可能性が存在しているのです。人は、どんなに黙っていても、どんなに沈黙を守ろうとしても、どうしても、誰かに何かを伝えざるを得ないのです。
毎年、この時期になると村上春樹がノーベル賞を取るんじゃないか、と話題になる。
で、なぜかハルキストや母校の関係者は本気で受賞を信じて、そのたびにガッカリするわけだが、彼らはノーベル賞の特性をまったくわかっていないと言っていいだろう。
なぜなら、ノーベル財団が村上春樹に受賞させる理由が、まったくないからだ。
理系の部門と違い、平和賞と文学賞は受賞理由に政治性を重視しているからだ。
平和賞や文学賞は、功労者や優れた結果を残した人に与えられるわけではなく、ノーベル財団から世界へのメッセージ、意思表明に近い。
たとえば、2016年のボブ・ディランに関しては、ドナルド・トランプに代表されるような排他的なナショナリズムに傾きがちな人々に対して、「あの頃の公民権運動や戦争反対に燃えた、反骨の気風はどこに行ったんだ?」というメッセージに近い。ボブ・ディランが良い歌を作ったから受賞、ではないのだ。与えるべき受賞理由、メッセージがあるとノーベル財団が判断したから与えられたのだ。これがジョン・レノンが生きていたら、100パーセント彼に与えられただろう。
莫言やアリス・マンローに与えられたのはアジア文学、女性文学に目を向けましょう、というメッセージだし、それを通した一部の国や差別の現状への牽制である。
これに対して、村上春樹はどうか?彼が受賞したとしても、なんのメッセージにもならないのである。
村上春樹の特徴はその無国籍性や非政治性であり、それが理由で世界的にも売れているのだが、それゆえ、ノーベル財団が彼に受賞させる理由がないのだ。
村上春樹がノーベル賞を受賞しても、世界に対してなんのメッセージにも、牽制にもならない。
それを意識してか、最近の村上春樹は政治的なメッセージを受賞コメントなどで言ったりしているが、どれも抽象的なお題目で、彼が言う必然性がない。彼の国籍や生い立ちに裏付けされた「凄み」がないので、受賞にはほど遠い。
ノーベル賞はアイデンティティと政治性、そして文学性が合わさり、さらにノーベル財団が伝えたいメッセージと合致した人物に与えられる。村上春樹はどれも欠けている。ノーベル賞とは一番遠い人物だと言っていい。おそらく、次に取るのはサルマン・ラシュディだ。
村上春樹はノーベル賞を取ることは絶対にない。彼はただ「すごく人気がある」というだけで、受賞させるほどの理由がない。音楽でいえば「GLAY」や「ラルク」みたいなもので、彼らがいくら人気でも、政治的に権威ある賞を取らないのは当然だろう。
ハルキストだ。
目覚めたのは高校生の頃。
たまたま手にしただけなんだ。嘘じゃない。
ちょうど年頃だったので恋愛やらセックスやらの話が読みたかったんだ。
1q84は楽しかったし、多崎つくるは80点くらいで正直あの話題になったアマゾンレビューの方がクリエイティブだったかな。
彼女には俺がハルキ好きなこと伝えている。好きになった経緯も、好きなところも。
でもだめだ。
もうハルキをディスるのが体に染みついているみたいで、ご飯食べて仲良しムードになった帰り
「どこが楽しんだろうね」
とディスってきて、俺は「そうだね」と返した。
それ以外返せなかった。
「ハルキストの男たちはみなセックス下手って友達と言ってるw」
「ハルキストは厨二」
そういう言葉に俺は心えぐられてきた。
もう、たくさんだ。
どうやら俺はここまでだったようだ。
あとは任せた。
本当に好きだったんだよ、嘘じゃない。今でも目をつむればあのころのことを思い出せる。
でも思い出すのに時間がかかるようになっただけなんだ。