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はてなキーワード: ハルキストとは

2020-12-26

anond:20201226163219

直流行りのものは何でもそう

ハルキストも鬼滅のオタクも、普段物語に接しない層が「流行りだから」という理由で接して「最高!」と言っている

比較せずに崇拝できるのは本人たちには幸せなんだろうな

2020-11-19

完璧文章存在しない。完璧絶望存在しないようにね

 上記台詞村上春樹風の歌を聴け』の冒頭の台詞であるが、先日これについて書こうと決めた矢先、ホッテントリ村上春樹記事が上がっていたので先取りされたことに焦りつつ書くことにした。ところで純文学ギャルゲーと言えばドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンがそれに当たると思う。詳しくはネタバレになるので避けるけど

 タイトルで述べた台詞村上春樹読者、つまりハルキストにとってもあまり深くは理解されていない台詞で、ただ何となくオシャレなだけの台詞に近い扱いを受けている。でも実際のところそれは間違いである。文章漠然とし過ぎていて意図するところを汲み取りにくいのは確かなのだけれど、それでいいのかハルキストタイトルでは幾分省略したのだが、原文は次の通りだ。

完璧文章などといったもの存在しない。完璧絶望存在しないようにね。(『風の歌を聴け』より)

 昔、春樹本人がこの言葉について次のように語っている

小説書いてて、これは正しくないんじゃないか、嘘なんじゃないか小説を書く意味なんかないんじゃないか、って思うときね、ここを読み返すと、ああ嘘じゃないなってね、勇気づけられる。書くだけのことはあったのかなって思うんです」(「宝島」83年11月号)

 完璧文章とは何で、完璧絶望とは何なのか。この言葉から完璧に読み解くことができる。よく聞け。

 つまり文章とは、物語とは基本的に何かを伝えるために書くわけです。文章によって我々は何かを伝える、何かを伝えるために文章を書く。当たり前の行為です。我々はそこに避け難く、何らかの主張や主旨というものを紛れ込ませます。つまりもっと言うならば自分意見というものを紛れ込ませるのです。要は、どんな文章にであれ何かしらのエゴというものが混入することになるということです。

 とは言え、何らかのエゴ文章の中に、あるいは物語の中に混入させるということは、ある意味では文章純粋さ、文章の混じりけの無さを汚濁してしまうことにも繋がります。つまり人間文章を書くが故に、つまりは伝達という手段を取るがゆえに、文章自己エゴを混入させ、その物語を完結した破綻のないものから不完全で安定を欠いた代物へと変貌させてしまうということです。よく人は小説というものエゴの発露であると主張しますが、これは嘘で、むしろエゴ小説小説たりえるための何かを、文章文章たりえるための何かを阻害し、邪魔しているのです。エゴは、小説を完成させる為に、あるいは、文章を完成させる為に、それらを完璧にする為には全くもって不必要どころか、邪魔ものでさえあるということなのです。

 あるいは、完璧文章というものが仮に存在するとすれば、それはその文章の中に一切のエゴが含まれていない文章のことを言うのです。文章自己を含まない。つまり、伝達の手段として文章を用いながらにして、一切を伝達することを拒絶した文章。一欠片たりともエゴを含まない文章。仮に、本物の文章というものが、完璧文章というものがあるとすれば、それはそんな文章に他なりません。そう、伝達の形態において何事も伝達せず、何事もエゴについて伝えようとしない。そこに、一切の伝達の可能性を認めず、そのような可能性に一片の期待さえ抱くことのない――そういう文章のことを人は完璧文章と呼ばうのでしょう。果たして、そのような文章はあり得るのか。

 ここで、冒頭の台詞に立ち返ってくることとなります。つまり、そのような完璧文章などといったもの存在しないのです。完璧絶望存在しないようにね。

 伝達の可能性に一切期待しない、一片としてさえエゴを含まない、自己の伝達を拒絶した文章は、本当に存在するのでしょうか? 否、結論から先に述べれば、そんな文章というもの存在しません。仮にそんなもの存在するとすれば、それは絶望に他ならないのです。絶望。つまり、それは自己存在がこの世において断絶してあるということです。自己存在が、誰にも伝わらないということです。あるいは、伝えようとしても伝わらないということです。力の限り叫んだとしても、何一つ誰一人にさえ――言葉が通じないということです。伝達の可能性が存在しないということは、絶望しているということは、そういうことなのです。

「私は悲しい」と人が言う時に、それは「私は悲しい」という気持ちを伝えることへの、希望を含んだ発話であると言うことができると思います。その文章には、自分感情を、自分エゴを誰かへと伝え、誰かと共有し、誰かと何かを分かち合うという切実な希望が溢れているのです。しかし、それは同時に完璧文章ではありません。何故か。そこには、エゴがあるからです。

 自己がそこには混入しており、エゴ文章を汚濁させているからです。

 伝達とは、感情の伝達とは、文章の完成度を基準に考えれば、汚濁であり不浄の象徴とさえ言えるかもしれません。

 でも逆に、そこに何一つとして、伝達への期待が含まれていないとしたら――? 何一つ自分感情を伝達することなく、何一つ自分エゴを伝えることなく、何一つとして他人と何かを分かち合いたいという希望を含まない文章――エゴの一切を根絶した文章存在するとすれば――? それは、恐らくはエゴの一切を根絶し切った、完璧文章である筈です。

 そして、それは同時に、明白に絶望なのです。

 誰かと何かを共有することを放棄し、誰かに何かを伝えることを放棄した、伝達の用を為さぬ伝達。仮にそんなもの存在するとすれば、それは絶望にほかならないのです。一切の、伝達への望みを絶った、絶えた望みのみを伺いうる文章――それは完璧文章であると同時に、完璧絶望表現ということになるのです。


 して、結局のところそんな文章存在するのでしょうか。

 そう、存在しないのです。そんな、完璧絶望した文章。伝達への望みを断ち切った文章。それは存在しないのです。完璧文章は、完璧絶望存在する時にのみ、存在することができます。でも、それは存在しないのです。何故なら、伝達を目的とするための文章によって、伝達の可能性の絶滅表現することは、不可能からなのです。

 あるいは、そのような、伝達の根絶、伝達の不可能性を仮に表現しようとしたところで、そこには、「筆者の絶望」が必ずや表現されてしまうのです。そこに、色濃い絶望を刻み、筆者は自らの絶望、何一つとして伝えるに至らなかった絶望を、文章に込めざるを得なくなるのです。つまり、そこには作者のエゴが混入し、伝達の不可能性が打破されてしまうのです。そう、完璧絶望存在する時、完璧絶望存在否定されるというパラドックスが、そこには示されています。つまり比喩を使って言うならば、その瞬間、我々の心の内側にある凍てついた海は、言葉という斧によって砕けることになるのです。

 だからこそ、春樹は上記のように言ったのではないでしょうか。「嘘じゃないな」と。どんな文章にであれ、人はどうしても、どんな形であってさえ、エゴを、つまり自分真実を混入してしまうのです。そこには、表現不可能性ではなく、表現不可能性の不可能性が存在しているのです。人は、どんなに黙っていても、どんなに沈黙を守ろうとしても、どうしても、誰かに何かを伝えざるを得ないのです。

 つまり完璧文章といったもの存在しないのです。完璧絶望存在しないようにね。

2020-11-18

完璧文章存在しない。完璧絶望存在しないようにね

 上記台詞村上春樹風の歌を聴け』の冒頭の台詞であるが、先日これについて書こうと決めた矢先、ホッテントリ村上春樹記事が上がっていたので先取りされたことに焦りつつ書くことにした。ところで純文学ギャルゲーと言えばドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンがそれに当たると思う。詳しくはネタバレになるので避けるけど

 タイトルで述べた台詞村上春樹読者、つまりハルキストにとってもあまり深くは理解されていない台詞で、ただ何となくオシャレだけれど適当台詞に近い扱いを受けている。でも実際のところそれは間違いである。文章漠然とし過ぎていて意図するところを汲み取りにくいのは確かなのだけれど、それでいいのかハルキストタイトルでは幾分省略したのだが、原文は次の通りだ。

完璧文章などといったもの存在しない。完璧絶望存在しないようにね。(『風の歌を聴け』より)

 昔、春樹本人がこの言葉について次のように語っている

小説書いてて、これは正しくないんじゃないか、嘘なんじゃないか小説を書く意味なんかないんじゃないか、って思うときね、ここを読み返すと、ああ嘘じゃないなってね、勇気づけられる。書くだけのことはあったのかなって思うんです」(「宝島」83年11月号)

 完璧文章とは何で、完璧絶望とは何なのか。この言葉から完璧に読み解くことができる。よく聞け。

 つまり文章とは、物語とは基本的に何かを伝えるために書くわけです。文章によって我々は何かを伝える、何かを伝えるために文章を書く。当たり前の行為です。我々はそこに避け難く、何らかの主張や主旨というものを紛れ込ませます。つまりもっと言うならば自分意見というものを紛れ込ませるのです。要は、どんな文章にであれ何かしらのエゴというものが混入することになるということです。

 とは言え、何らかのエゴ文章の中に、あるいは物語の中に混入させるということは、ある意味では文章純粋さ、文章の混じりけの無さを汚濁してしまうことにも繋がります。つまり人間文章を書くが故に、つまりは伝達という手段を取るがゆえに、文章自己エゴを混入させ、その物語を完結した破綻のないものから不完全で安定を欠いた代物へと変貌させてしまうということです。よく人は小説というものエゴの発露であると主張しますが、これは嘘で、むしろエゴ小説小説たりえるための何かを、文章文章たりえるための何かを阻害し、邪魔しているのです。エゴは、小説を完成させる為に、あるいは、文章を完成させる為に、それらを完璧にする為には全くもって不必要どころか、邪魔ものでさえあるということなのです。

 あるいは、完璧文章というものが仮に存在するとすれば、それはその文章の中に一切のエゴが含まれていない文章のことを言うのです。文章自己を含まない。つまり、伝達の手段として文章を用いながらにして、一切を伝達することを拒絶した文章。一欠片たりともエゴを含まない文章。仮に、本物の文章というものが、完璧文章というものがあるとすれば、それはそんな文章に他なりません。そう、伝達の形態において何事も伝達せず、何事もエゴについて伝えようとしない。そこに、一切の伝達の可能性を認めず、そのような可能性に一片の期待さえ抱くことのない――そういう文章のことを人は完璧文章と呼ばうのでしょう。果たして、そのような文章はあり得るのか。

 ここで、冒頭の台詞に立ち返ってくることとなります。つまり、そのような完璧文章などといったもの存在しないのです。完璧絶望存在しないようにね。

 伝達の可能性に一切期待しない、一片としてさえエゴを含まない、自己の伝達を拒絶した文章は、本当に存在するのでしょうか? 否、結論から先に述べれば、そんな文章というもの存在しません。仮にそんなもの存在するとすれば、それは絶望に他ならないのです。絶望。つまり、それは自己存在がこの世において断絶してあるということです。自己存在が、誰にも伝わらないということです。あるいは、伝えようとしても伝わらないということです。力の限り叫んだとしても、何一つ誰一人にさえ――言葉が通じないということです。伝達の可能性が存在しないということは、絶望しているということは、そういうことなのです。

「私は悲しい」と人が言う時に、それは「私は悲しい」という気持ちを伝えることへの、希望を含んだ発話であると言うことができると思います。その文章には、自分感情を、自分エゴを誰かへと伝え、誰かと共有し、誰かと何かを分かち合うという切実な希望が溢れているのです。しかし、それは同時に完璧文章ではありません。何故か。そこには、エゴがあるからです。

 自己がそこには混入しており、エゴ文章を汚濁させているからです。

 伝達とは、感情の伝達とは、文章の完成度を基準に考えれば、汚濁であり不浄の象徴とさえ言えるかもしれません。

 でも逆に、そこに何一つとして、伝達への期待が含まれていないとしたら――? 何一つ自分感情を伝達することなく、何一つ自分エゴを伝えることなく、何一つとして他人と何かを分かち合いたいという希望を含まない文章――エゴの一切を根絶した文章存在するとすれば――? それは、恐らくはエゴの一切を根絶し切った、完璧文章である筈です。

 そして、それは同時に、明白に絶望なのです。

 誰かと何かを共有することを放棄し、誰かに何かを伝えることを放棄した、伝達の用を為さぬ伝達。仮にそんなもの存在するとすれば、それは絶望にほかならないのです。一切の、伝達への望みを絶った、絶えた望みのみを伺いうる文章――それは完璧文章であると同時に、完璧絶望表現ということになるのです。


 して、結局のところそんな文章存在するのでしょうか。

 そう、存在しないのです。そんな、完璧絶望した文章。伝達への望みを断ち切った文章。それは存在しないのです。完璧文章は、完璧絶望存在する時にのみ、存在することができます。でも、それは存在しないのです。何故なら、伝達を目的とするための文章によって、伝達の可能性の絶滅表現することは、不可能からなのです。

 あるいは、そのような、伝達の根絶、伝達の不可能性を仮に表現しようとしたところで、そこには、「筆者の絶望」が必ずや表現されてしまうのです。そこに、色濃い絶望を刻み、筆者は自らの絶望、何一つとして伝えるに至らなかった絶望を、文章に込めざるを得なくなるのです。つまり、そこには作者のエゴが混入し、伝達の不可能性が打破されてしまうのです。そう、完璧絶望存在する時、完璧絶望存在否定されるというパラドックスが、そこには示されています。つまり比喩を使って言うならば、その瞬間、我々の心の内側にある凍てついた海は、言葉という斧によって砕けることになるのです。

 だからこそ、春樹は上記のように言ったのではないでしょうか。「嘘じゃないな」と。どんな文章にであれ、人はどうしても、どんな形であってさえ、エゴを、つまり自分真実を混入してしまうのです。そこには、表現不可能性ではなく、表現不可能性の不可能性が存在しているのです。人は、どんなに黙っていても、どんなに沈黙を守ろうとしても、どうしても、誰かに何かを伝えざるを得ないのです。

 つまり完璧文章といったもの存在しないのです。完璧絶望存在しないようにね。

2020-10-12

村上春樹ノーベル賞を取ることは100パーセントない。

毎年、この時期になると村上春樹ノーベル賞を取るんじゃないか、と話題になる。

で、なぜかハルキストや母校の関係者は本気で受賞を信じて、そのたびにガッカリするわけだが、彼らはノーベル賞特性をまったくわかっていないと言っていいだろう。

断言するが、村上春樹ノーベル文学賞絶望的だ。

なぜなら、ノーベル財団村上春樹に受賞させる理由が、まったくないからだ。

理系部門と違い、平和賞文学賞は受賞理由政治性を重視しているからだ。

平和賞文学賞は、功労者や優れた結果を残した人に与えられるわけではなく、ノーベル財団から世界へのメッセージ意思表明に近い。

たとえば、2016年ボブ・ディランに関しては、ドナルド・トランプ代表されるような排他的ナショナリズムに傾きがちな人々に対して、「あの頃の公民権運動戦争反対燃えた、反骨の気風はどこに行ったんだ?」というメッセージに近い。ボブ・ディランが良い歌を作ったから受賞、ではないのだ。与えるべき受賞理由メッセージがあるとノーベル財団判断たから与えられたのだ。これがジョン・レノンが生きていたら、100パーセント彼に与えられただろう。

莫言アリス・マンローに与えられたのはアジア文学女性文学に目を向けましょう、というメッセージだし、それを通した一部の国や差別の現状への牽制である

これに対して、村上春樹はどうか?彼が受賞したとしても、なんのメッセージにもならないのである

村上春樹の特徴はその無国籍性や非政治性であり、それが理由世界的にも売れているのだが、それゆえ、ノーベル財団が彼に受賞させる理由がないのだ。

村上春樹ノーベル賞を受賞しても、世界に対してなんのメッセージにも、牽制にもならない。

それを意識してか、最近村上春樹政治的なメッセージを受賞コメントなどで言ったりしているが、どれも抽象的なお題目で、彼が言う必然性がない。彼の国籍や生い立ちに裏付けされた「凄み」がないので、受賞にはほど遠い。

ノーベル賞アイデンティティ政治性、そして文学性が合わさり、さらノーベル財団が伝えたいメッセージ合致した人物に与えられる。村上春樹はどれも欠けている。ノーベル賞とは一番遠い人物だと言っていい。おそらく、次に取るのはサルマン・ラシュディだ。

村上春樹ノーベル賞を取ることは絶対にない。彼はただ「すごく人気がある」というだけで、受賞させるほどの理由がない。音楽でいえば「GLAY」や「ラルク」みたいなもので、彼らがいくら人気でも、政治的に権威ある賞を取らないのは当然だろう。

2020-07-22

村上春樹著作って何が魅力なのか

村上春樹著作好きな人島耕作シリーズも好きそう(偏見

村上春樹著作読んだことないんだけど、書店に新作が平積みされていると気になりはする

ハルキストと呼ばれるうざいファンがいるらしい(そんな奴本当にいるのか?)という理由だけで読むのを避けている気もする

しかしそんな理由食わず嫌いするのももったいないのかもしれない

最新作買ってみるか

読んでみて魅力を感じなければ本をヤギに食わせてしまおう

2020-02-21

anond:20200221040552

国内ハルキスト存在が先でしょ。

あの日本の国内でなぜか爆発的に売れてる作家」の看板第一だ。

からノーベル文学賞ノミネートまでで逃す。一番面白い作品看板を得た時点でもうとっくに出てしまっているからな。

2020-02-02

村上春樹ノーベル文学賞を取れない理由

何度でも言うわ。

まらないポルノじゃあ、ノーベル文学賞は取れないよ。

ドストエフスキーが、「乳房は小さく、腰は細かった」なんで書くか?

残念ながら、狙いどころが悪すぎる

学生運動くらいで何かを語るなよ、ってことだ

あ、ごめん。

増田ハルキストが多いんだよな?

2019-10-11

村上春樹来年受賞するから祝賀会の準備に一年使えると思えばいいと気づいた

コンテナスペース借りてハルキスト20人くらい知り合いにいるから集めてパーティ出来るようにするわ

2019-10-10

村上春樹受賞まであと2時間だね

お前ら土下座の準備はできてるか?

土下寝でもいいぞ五体ボッチで俺たちハルキストに謝れ

2019-04-18

anond:20190418155012

ハルキストを下に見るのと同じ論理だよ。

大勢が大好きな作品同調するのダサい

もっと一般人達(この言葉が既に下に見てる)に理解できない作品を愛する漏れカッケー

いかにも売れるように描いてる作品にまんまと騙されてるwww

みたいな感覚かな。

2018-10-18

村上春樹小説って何がそんなに話題になるんだ?

何冊か読んでみたけど、なんというか文章気持ち悪くて最後まで読めない

そういう経緯もあってか、何故こんなに持て囃されているのか不思議でならない

ただ、毎年文学ノーベル賞発表の時期になる度に、所謂ハルキストが毎回騒ぎ出すのは、本人に妙なプレッシャーかけているようなもんだし止めてやれよとは思う

マスコミネタに困っているのか知らんけど、毎年村上春樹を引き合いに出すのどうにかならんのか

2017-12-20

anond:20171220123553

うそれ!

俺、村上春樹作品で一番好きなのに

ハルキストたちは認めない傾向...

2017-12-19

anond:20171219213012

スティーブキング作品の中に何作かあったよ、村上春樹も実は1作そんなのを書いてる、ハルキストには無視されているようだが 笑

2017-05-27

BLAME!原作ファン熱狂したいけどそうはしまいって感じ

なんかハルキストっぽいよな

2017-03-05

ハルキ嫌いの彼女が俺を殺しにかかってる

ハルキストだ。

目覚めたのは高校生の頃。

たまたま手にしただけなんだ。嘘じゃない。

海外日本人用の図書館で、赤と緑の装丁小説が目について、

ちょうど年頃だったので恋愛やらセックスやらの話が読みたかったんだ。

最近はそんなハルキしてないよ。

新刊がでたら、一年後くらいに手に取って読むぐらい。

1q84は楽しかったし、多崎つくるは80点くらいで正直あの話題になったアマゾンレビューの方がクリエイティブだったかな。

そんな俺だが村上ハルキ嫌いの彼女ができた。それも流れだよ。

彼女には俺がハルキ好きなこと伝えている。好きになった経緯も、好きなところも。

でもだめだ。

もうハルキディスるのが体に染みついているみたいで、ご飯食べて仲良しムードになった帰り

本屋ディスプレイに例の新刊が展示されているの見て、

「どこが楽しんだろうね」

とディスってきて、俺は「そうだね」と返した。

それ以外返せなかった。

ハルキストの男たちはみなセックス下手って友達と言ってるw」

ハルキストは厨二」

そういう言葉に俺は心えぐられてきた。

もう、たくさんだ。

俺は、彼女と別れられないから、脱会する。

痛みを持った決断だがしょうがない。

ハルキストのみんな、いや村上原理主義のみんな。

どうやら俺はここまでだったようだ。

あとは任せた。

p.s.

本当に好きだったんだよ、嘘じゃない。今でも目をつむればあのころのことを思い出せる。

でも思い出すのに時間がかかるようになっただけなんだ。

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