はてなキーワード: 脱構築とは
"クリエイティブな仕事"が何をしているか知らないんだろうな。
[[GDC 2024]「サイバーパンク2077」の街づくりは現実の都市計画と変わらない。“生きている街”ナイトシティはいかにして作られたのか](https://www.4gamer.net/games/189/G018964/20240320011/)
「一般的な街」を作るには街の成り立ちや構造を研究しなければならない。Google Mapのコピー&ペーストでは,リアルな街を移せるわけではないのだ。
実際の都市の構成や都市計画を参照することで,完全にオリジナルだが本当にあるかのような街のリアルが生まれ,さらにそこに暮らす人たちの生活の現実味が高まっていくというわけだ。
まず新たな世界(街)を作り上げるには,起源と歴史,社会構造,派閥,政治経済をしっかり理解したうえで進めなければならない。そのためには信ぴょう性が高く,現実のような論理があり,確立されたルールが必要だ。
人口分布図や電力地図,各地のギャングや団体の勢力図も用意し,街区の特性を表現。建築物にはそれぞれ脱構築,荒廃,破壊の跡,再開発といった特徴を与え,そこに住む人たちがイメージできる街の風景が作られていく。
目次
1.はじめに
(1)歴史認識について
(2)対北朝鮮外交について
3.佐藤優による主張の使い分け
(1)ナショナリズム論
(2)ポピュリズム論
(3) 格差社会論
6.「人民戦線」という罠
(1)「ファシズム政権の樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する
10.おわりに
註
1.はじめに
このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル・左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。
だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディアで排外主義そのものの主張を撒き散らしている。奇妙なのは、リベラル・左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。
佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル・左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象の意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場の記述の検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画・編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。
「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動に共鳴する特定の編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチで共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」
馬場の見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点である。ある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論の公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル・左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義」体制下の護憲派が、イスラエルのリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。
以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)武力行使、在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル・左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的なものである。「戦後民主主義」が、侵略と植民地支配の過去とまともに向き合わず、在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象としか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル・左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。
私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在のジャーナリズム内の護憲派の問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。
馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である。佐藤自身は自ら国家主義者であることを誇っており、小谷野敦の言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本に右翼なんか一人もいない」。
佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであることは誰にでも分かることであるし、事実、ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本の知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」ものという嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男や魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店や朝日新聞の出版物では、排外主義的ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?
この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。
まず、佐藤の排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤の排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。
(1)歴史認識について
佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」。朝鮮の植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのものの発言である。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。」と述べている。
特に、大川周明のテクストと佐藤の解説から成る『日米開戦の真実―大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である。
「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ、イギリスによる植民地化支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種の棲み分けの理論である。日本人はアジアの諸民族との共存共栄を真摯に追求した。強いて言えば、現在のEUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本の武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民地活動家の眼には、日本も列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリス、アメリカはつけ込んだ。日本こそが中国の植民地化と奴隷的支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国の政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘の南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。
右翼たる佐藤の面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代の知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている。
(2)対北朝鮮外交について
佐藤は、「拉致問題の解決」を日朝交渉の大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題の解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエルの国権侵害でもある。人権と国権が侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府の方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。
さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が、アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で)、「北朝鮮の情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派の原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤は現在、右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。
佐藤は、「在日団体への法適用で拉致問題動く」として、「日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。
漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件の摘発が拉致問題を解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮に日本と交渉する気にさせるのが警察庁の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤の発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関・民族学校などへの強制捜索に理論的根拠を提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。
3.佐藤優による主張の使い分け
排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。
佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。
一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループのサイト上での連載である〈地球を斬る〉では、「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的な立場から日本政府の謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題は Permalink | 記事への反応(1) | 18:32
「浮」
今年は毎日やってくる地震に精神的に対抗するために、レビテーションガジェットが数多く発売され、浮遊ブームとなりました。
浮遊ベッドや浮游チェアーの生産が間に合わず、喜びと事故の両側面で人々に強い印象を残しました。
これらの開発を可能にしたのが、年初に発見された世紀の科学的発見、浮動次元です。
これまでダークマター、ダークエネルギーとされてきた2つが共に浮動次元に由来することが分かり、その実証と応用が異例の速度で進みました。
その結果生まれた浮動モジュールの構造は非常にシンプルで、量産を可能としました。
一部の大富豪は住宅を浮遊させ、最近ではタンカー級の浮遊も運用圏内となりました。25年は海運革命の年となるでしょう。
また、この人類史の転換点となる技術革命を背景に、中華圏を中心として既存文明からの脱構築を図る「浮生族」が発生しました。
中国政府は彼らを「羅浮人」と呼び、弾圧を強めていますが、世界中に広がる華僑からの支援もあり、巨大海上国家の誕生が秒読みであるという見方が優勢です。
提唱された「脱構築」については (この当論でも話題になりましたが)、コメントのしようがありません。なぜなら、そのほとんどは、わたしには、ちんぷんかんぷんにみえるからです。しかしもし、これもまた深遠さを認識する能力がわたしに欠如していることを示す表れのひとつに過ぎないのだとしたら、次の指針ははっきりします: その結果をわたしにも理解できるふつうの言葉で表現し直してください。そして、それがなぜ他の人々が以前から長らくやってきてし続けていることと異なっているのか、より良いのかを示してください。三音節の用語や、支離滅裂な文章や、誇張したレトリックなんかは(少なくともわたしにとっては)大部分無意味なのですから。そうしたら、わたしの欠陥も治ることでしょう──もっとも、それが治るものならば。
世の中には、わたしが理解していないことも、たくさんあります──たとえば、ニュートリノには質量があるか否かという最新の議論だとか、フェルマーの最終定理が最近 (おそらく) 正しいと証明された方法だとか。しかし、この五十年間のゲームから、わたしは二つのことを学びました: (1)その分野で仕事をしている友人に訊いて、わたしが理解できるレベルで説明してもらうことができる。そして彼らも、それほどの困難もなくそれができる。(2)もし自分に興味があるなら、もっと学習を進めて、理解できるようになることができる。さて、デリダやラカン、リオタール、クリステヴァら──フーコーでさえ。彼のことは知っているし好きで、他の人々とはちょっと違ったけれど──は、わたしにも理解できないことを書きます。しかし、(1)も(2) もできなかったのです。自分は理解しているという誰ひとりとしてわたしに説明することができず、分からなかったところを克服して勉強を続ける糸口もつかめませんでした。
とにかくデリダを取り上げましょう、大御所のひとりです。わたしは、少なくとも彼の『グラマトロジー』を理解できるはずだと考えました、そして、読んでみました。少しは分かりました。たとえば、わたし自身よく知っていて何年も前にそれについて書いたことのある古典的文献の批判的分析なんかは。哀れな誤読に基づいた、酷い学識だと判りました。そして彼の議論は、以前と変わらず、わたしが子どもだった頃から慣れ親しんできたような水準にも及ばないままでした。そうですね、わたしが何かを見落としているのかも知れません: あり得ることです、しかし疑いは残ります。既に書いたように。繰り返しになりますが、証拠抜きのコメントで申し訳ありません。でも問われたので、応えているのです。
この手のカルト(わたしにはそう見えます)の人々のなかには、会ったことのある人もいます: たとえばフーコー (数時間の議論もして、出版されています。多くの時間は楽しく対話しました。現実の諸問題について、きちんと理解可能な言葉で──彼はフランス語で、わたしは英語で)、ラカン(彼には何度か会って、おどけて完全に自覚的なペテン師だと思いました。カルト以前の初期の仕事は意味のあるもので、それについては出版したものの中で論じたことがあります)、クリステヴァ(彼女が熱烈な毛沢東主義者だった頃に、少しだけ会ったことがありました)、などです。会ったことのない人もたくさんいます。なぜなら、そういったサークルからとても疎遠なところにいますから。選ぶとしたら、まったく異なる、幅広いところを好みますから──そういったところで、講演に行ったり、インタビューを受けたり、活動に参加したり、毎週のように十通以上長文の手紙を書いたりしています。わたしは、好奇心から、彼らの著作を手に取りました。しかし既に述べた理由から、それほど深入りしませんでした: 大仰に虚勢をはりながら、検証してみれば、大部分は単に無知なだけだと判りました。わたしのよく知っている(なかには、わたしが論じたこともある)文献を異様な誤読して、議論はいつも初歩的な自己反省の欠落したひどいもので、主張の多くは(複雑な饒舌で装飾されていても)当り前か間違っているもので、かなりの部分はまったくちんぷんかんぷんなものでした。他の分野で自分が理解できなかったところでするように続けると、上に挙げた(1)と(2)に係わるような問題にぶつかります。ですから、デリダはわたしの言う人々のひとりで、これが深入りしない理由です。
フーコーの具体的な例のいくつかは (たとえば、18世紀の刑罰手法など) は興味深く思います、そして、その正確さを調査するだけの価値があります。しかし、その「理論」というのは、他の多くの人々が何か深遠なものが絡むと装ったりせずシンプルに表現したことを、異様に複雑にして膨張させたものでしかありません。
そして事実、どれも分かりきったことばかりです。こういった自明なことが興味深いのは、透けて見えるその原理ではなく、人々にとって重要な具体的な事例でそれ自体がどのように機能するかを示すことです: 介入や攻撃、搾取やテロ、「自由市場」の詐称、など。こういったことはフーコーの著作にはみられません。わたしに理解できる文章を書き「理論家」として知識人界に属していないような人々の著作には、たくさんあるのですが。
そのシンプルで慣れ親しんだ考えから 複雑で思わせぶりなレトリックを剥ぎ取ったら「理論的構築物」という程のものは何もないということです。
【https://rootless.org/chomsky/postmodern_cults】より
たとえば科学であるとか、何であれまじめにやっている分野でなじみがあるような理論なんてのはジジェクの仕事のどこを探したってありはしないのです。こころみに、ジジェクのすべての仕事のなかから、結論の引き出せるような原則や、12歳の子どもに5分で説明できるレベルを超えるような経験的に例証可能な命題を見つけ出してごらんなさい。あるいは、けばけばしい言い回しを言い換えることができるかどうか。私にはできません。だから、そういうはったりには興味がないし、ジジェクはそういうはったりの顕著な例だと思います。で、ジャック・ラカンについてですが、彼とはじっさいに知己があったんですよ。彼のことは好きでしたし、ときおり会いもしていました。ただ、率直に言って、彼はまったくのペテン師だったと思いますね。ラカンがしていたことと言えば、テレビカメラの前でポーズを決めることだけ、ですよ。パリの知識人の多くがやっているようにね。それで、なぜこういうはったりが影響力を持つのか。私にはその理由がまったく分かりません。そこには影響力を持ってしかるべき要素はぜんぜんないわけですし。それで、色んな人がそういう「理論」の重要性について私に説明するのですが、やっぱり理解できませんね。まあ、そういう次第なので、ほんとうは理論なんてないのにあるふりをする空疎なはったりには興味はないわけです。
散々に語られ尽くしていたように思ってたけど、まだまだ似たような議論が絶えない雰囲気なので、論点整理をしてみたいと思って失敗しました。
ちなみに私は左翼とか右翼とかよくわかんないので特に意見はないです。自由研究みたいなものと思ってください。
まず、今回の意見を分割するとそれぞれの極がきれいに分割できる。
もちろん両方とも極端な例であるし、時には「そもそもテロに該当するものではない」とか「救済されるべき被害は存在しない」とかいった意見もあり得るので、あくまで捨象された極であることは見ての通り。
ここでAとBの意見において、一般に(あくまで自分の私的な視界の範疇ですが)前文については一般に肯定されており、後文においては一般に否定されている。これはおそらく、世間の道徳的直観と一致しているように思う。しかし、その因果(?)関係からは、お互いの前文を肯定することは、相手の前文を否定せざるを得ない側面がある。
(ツイッターやはてブもそうだが、短文でのコミュニケーションでは得てして後文に触れず正しい前文だけで意見を発表できるので、どこまでも正しいままそれ以上の踏み込みをする必要がないのは、脱構築的な気がする。デリダエアプだけど)
特にA→Bの観点からは、被害者救済という観点を取り上げることは、加害者の要求を満たしたという点で、テロリズムを許容することと見なされるものとして反駁されている。
今回このあたりがすごい揉めているように見えたので、一回この論点を詰めてみたい。
まず、テロリズムの要求を肯定することが、テロリズムを有効な手段として世間に認知させることとなる、という点については特段の疑義のないところと考えるので、問題は「テロリズムという不正な手段で、被害者救済という公正な対応を求める」というところにあるように思う(厳密には暗殺事件が被害者救済を求めていたのかとかそういうのは置いておく。世間での認識によって議論を継続する)。
こういうときは、一旦他の例から問題を比較して考えてみたいが、公正な手段で公正な対応を求めるとか、不正な手段で不正な対応を求めるなんてのはもう特に言及する意味もないので、今回は「公正な手段で不正な対応を用いる」ケースというのが何があるかを考えてみたい。
今回は自分の趣味の範囲から引っ張り出すことになるので、不適切な側面があることは否めないが、端的に言えば「ナチス法」の問題が散々に語り尽くされた例として挙げやすい。戦後において「法とは何か」を法実証主義に散々に突きつけ続けた大問題であり、これでもかと議論され続けたから。
例えば、「悪法もまた法なり」としてナチス法に従い、敗戦後には当然罰されることとなったが、裁判例(密告者事件判決とか)からは結構特殊な意見が出た。
例えばラートブルフが「制定法による不法」を克服するために「制定法を超えた法」なんてものを提示することになったり、フラーが法には8つの道徳的原理を含める必要があるといったりといった具合に。
そもそも公正な手段というものは単に物理的法律によって規定されるラインを上回る、なんて言い方をすると、おそらく過言であって適切な読解に基づくものではないと思うが、そういう考え方もあるだろう。テロリズムを許容する、という片方の極の意見には、そうしたものもあるかもしれない。というか革命ってそういうのじゃないの?
もちろん、(新)自然法的な考え方が現行において主要な説ではないことなどもあるが、まあいいや。これ以上進みそうにないから別の話をしよう。
一般に、不正な手段によって被害が生じた者を救済するというのは国家の責務の一つと言って良いと思う(少なくとも被害を防ぐ必要があるということについてくらいは、リバタリアニズムのレベルでも肯定されるように思う)。
その一種の根幹的利益とも呼ぶべき法益の侵害について、それがテロリズムによって判明した場合、その法益侵害に対して触れるべきではない、ということは、なぜ必要となるのか?
まぁ、それは単純で今回のような「不正な手段」によって与えられた課題が「不正な対応」ではなく、「公正な対応(と一般に受け取られているように見える)」であったからだろう。でも、これは実は順序が少しだけおかしい。テロリズムという「不正な手段」で与えられる課題というのは、因果としては常に「不正な対応」になるのではないか? 今までの議論は大概がそこをスルーできてきた(もちろんきちんと対処述べてきたものもあり、その上で議論を重ねている者もいるように見える)、今回の議論はそこが他の価値とバッティングしてしまって、バグが起きているせいで余計にこんがらがっている。
逆に、敢えて今までの議論を全てごちゃまぜにしてしまうなら、おそらく世間一般の意見というのは、先程のA、Bにおける前者を肯定しながらも、双方の後者を否定するというロジックになる。無論、それは矛盾を必然的に孕んでいるが、おそらくそれが一番良く見る意見だった。
まず単純に、道徳的直観から。目的として、双方前文が正しいという直観から、双方を推進すべきであるという素朴な意見。当然ながら前文を進めれば後文を毀損する。それを、時には毀損したままであれ、進めるべきであるということ。所詮理屈なんてものは道徳的直観による結論を推し進めるための道具なんだからと。開き直りと言ってもいい。とはいえこれは、単に世間が「正しい」と「わかってる」ことをを推し進めたいという素朴な意見の衝突による勢いだけの(あるいはリベラルな恣意的妥協による)ものであって、問題解決につながるかは知らない。つまるところ、結論が先にあって、理由があとにあるんだから(クリーレの視線の往復的な、あるいはダンカンケネディの「基準」による法執行的な?)。
まあいいや。
全く関係ない個人的な意見なんだけど、何で他人の意見を否定する時に人格否定をすべきでないってみんな言ってるのにみんな人格否定してるの? やっぱ何か効果があるの?
会話してるとき意味不明な質問してくる人がいるけどあれはなんなんだろうね。会話の内容(修飾関係がどうなってるか、代名詞は何か、文全体の論理的構造)が理解できてないってことなんだろうけど、それって日本語の文法自体が危うそうじゃん。
でも日本語を話すことは普通にできるわけよね。彼らの言ってる受け答えは脱構築されたものとしては文法上等に異常はなく、ただ問題とする文脈に置かれたものとしては不適合ということなんだから。
これは英語学習などの常識で考えれば奇妙なことだ。文法も理解できずにネイティブに違和感を持たれない発信ができるとな。
ああいった人種ってまじでなんなんだろう。ディスレクシアでは少なくともない。会話が理解できてないんだから。かといって知的障害かといえば知的障害ならまともに言葉を話せないはずなのでそれもないと思われる。謎だ。
それでこれ思い出したわ。
でも,あれは本当のところ一種の哲学の貧民窟だね.ラッセル・ウィトゲンシュタイン・フレーゲの時代にあんなゆるゆるな論理構成の本が書かれるなんて,耐えられないよ.あれでやってけるのは,相手にしてる読者が専門分野で有能な哲学者じゃないからじゃないかな.彼らは文学理論みたいな他分野の人たちに向けて話してることが多いよね.それに,哲学にはいつもこんなふうに考える一派がいるんだ,「いや,ぼくらは自分たちの専門だけを狭くやるばかりじゃいけない.こういう他のアイディアにも開かれてなきゃね」って.新しいアイディアに開かれている方がいいってのは全面的に賛成だけど,まともで高度な哲学の著作と,知的に許容できない著作との区別はしないとね.
このことは前にミシェル・フーコーに言ったことがある.デリダに対する彼 の敵対心ときたらぼくすら上回るくらいだけど,その彼が言うには,デリダは obscurantisme terroriste(テロリズム的蒙昧主義)って手法を実践してるんだって.ぼくらはフランス語で会話してたんだ.で,ぼくはこう言った,「いったい そりゃなんのこと?」 で,フーコーが言うには,「デリダはすごくあやふやな 書き方をして,何を言ってるんだかわからなくするんだ.これが「蒙昧主義」の部分.で,人がじぶんを批判すると,『あなたは私を理解していないよ.あた まがわるいね』とくる――これがテロリズムの部分だよ.」 これが気に入ってね.脱構築について文章を書いたときに,ミシェルにその発言を引用してもいいかなって訊いたら,「いいよ」って言ってくれたよ. フーコーはしょっちゅうデリダと一括りにされてた.でも,それはフーコー に対してすごくアンフェアだよ.彼は思想家としてデリダとはまるで器がちがう.
https://blueeyedson.hatenablog.com/entry/20111201/1322730931
以下が背景ね。
ジャック・デリダによるサールへの最初の攻撃は1971年行われた。サールはタイプ原稿9枚の感想を書いた。その後サールは発話行為の自然な発展的研究主題として志向性の研究に専念し、1983年『志向性』を公刊する。この書評はその直後である。デリダは、アメリカ・ディコンストラクション派の無名の雑誌「ジラフ」に、サールの感想文を引用して解体したかのような長大な文章を掲載し、1993年サールに無視され続けたデリダは「討議倫理」に関するさらなる文章をつけて『有限責任会社』を1990年公刊する。日本ではこの版のみが知られ「サール=デリダ論争」というものがあったという神話が法政大学出版局によって広められた(邦訳2003年刊、『ジョン・サールとの会話』にて詳述)。同年サールはNew York Review of Booksに”The Storm Over the University
” 1990を掲載(未邦訳 http://www.ditext.com/searle/searle1.html )。ここで『社会的現実の構成』に一部含まれるポストモダニスト批判を展開した。1990年代、社会生物学論争と「マーガレット・ミードとサモア」による文化相対主義批判の勝利、さらに1994年アラン・ソーカルによる疑似論文投稿に始まるソーカル事件が起こり、以降フランス哲学者らの理論がアメリカでフレンチ・セオリーと別称されるようになる。
Hunter X Hunterの原稿が進捗ているらしい謎のTwitter情報が現れているけれども、暗黒大陸へ向かう船の中の、主人公たちとは微妙に関係のない王族の話がまとまったとして、どうやってお話全体が終わるのか、または、物語全体の終わりに向けて、王族の蠱毒が何の意味を持つかということを考えると、「得ることと失うこと」に何らかの意味がありそうと妄想している。
あの作者は連載が長くなると、それまで構築してきた少年漫画的な構造に飽きて、脱構築を始める感じがあるけれども、今回もきっとそうで、主人公のゴンが真っ当に力を得て成長する物語を既に手放している。成長して、父親を乗り越えるという流れを放棄すると、主人公が手に入れるのは何か。それはもしかすると「失うことで何かを得た」「全ての力を放棄することで別の何かを見出した」ことになるんじゃないか。念という超能力を失い、別の何かを得る。戦い続ける道を捨て、別の冒険に出る。そういった何か。
そこに行き着く前振りとして、念獣、他人に突然与えられた力を使った争いを描いているとすると。結末は「全てを放棄した人物が、戦いを終わらせる」みたいなオチ。真っ当に戦った人間が勝利を得る直前に、全てを捨てた人間が答えにたどり着く。そんな妄想。
ホソモーシャルで脱構築っていう奴だな!俺知ってんだ。
女性学(じょせいがく、英: women's studies; 仏: études féminines)とは、第二波フェミニズムから生まれた新しい学問領域であり、従来の男性中心主義的な学問の客観性・中立性を問い直し、これまで度外視または過小評価されてきた女性の存在、経験、問題・関心を顕在化、言語化、理論化し、これによって従来の知の体系の脱構築を目指す幅広い学際的研究である[1]。
領域としては社会学、人類学、法学、経済学、地理学、倫理学、文学、歴史学、哲学など従来の人文・社会科学の各領域に個別にまたは分野横断的に関わる学問であり、女性史研究、音楽・アート・映画・メディア等に関するフェミニズム批評、さらにはケアの倫理、エコフェミニズムなど新たな概念が提唱されている。
いやたしかに日本の仏教がふにゃふにゃなのは同意なんだが、大乗仏教の歴史をざっと見ると、龍樹とか世親とかのビッグネームがいるじゃん
こいつらが説いた理屈はかなり強度がありそうに思えるから、潜在能力としてはなかなかしっかりした教理がありそうに思える
ポストモダンというのは基本的に「色即是空」としか言っていない。
仏教はそこから「空即是色」としてこの世界を引き受けようとするところがある。
ポストモダン的に言うと、すべてのものには本質や根拠、意味なんかなくて、単に名前をつけられた存在にすぎない。
でも仏教は、であるが故にこの世の中をどういうふうに引き受けるのか、この現世の中で意味ある生を生きていくのか、その精神をもう一度問う。
大乗仏教はプレモダンのように思えて、実はポストモダンを超克し得る可能性があるらしいんだわ
(色即是空空即是色つってるからここで言及されてる「仏教」は大乗仏教のことだわな)
こんな感じで、上座部を現代思想として捉えたとき、どういう視点を提供できるのかについてわりと気になってるんで、詳しい人いたら教えて欲しい