はてなキーワード: 排他とは
それはキモい弱者男性が不幸で惨めな人生であることが女性をはじめとする他の属性の人にとっての幸福であり
特にフェミニストやリベラル系の人にとってはそれが自身の正しさの証明になるからである。
逆に弱者男性が楽しそうに日々を送っているのは不幸でありあってはならないことなので、
彼らが好みそうな二次元や性的なコンテンツを日頃は対立する右派と左派が
思惑や理路は別々でも協調して潰しに来ていたりするわけである。
弱者男性の幸福と他の人の幸福は完全な排他関係であり、両方幸せになることは絶対にない。
佐倉杏子が言うように幸福の総量はゼロなので、みんなが幸福になるためには誰かが不幸でなければならず、
一方キモくて憎いからと弱男を皆殺しにすると残った人の中から新たに不幸な属性が生まれてしまうことになるので
一部の人が求めているような安楽死は行われず、むしろ(表向きは別の理由で)反対することとなる。
弱者男性は繁殖できないのにその存在が途絶えないのは、おそらく何らかの方法で人為的な供給が行われているからと考えられる。
この世で一番素晴らしいものは愛とか情とかみたいな考えが人間界ではいつも幅を効かせているけど、愛は本人たちにとっては素晴らしいかもしれないけど外野にとっては排他や暴力を感じる事がある
理想はともかく、実際は、男にとっては彼女ができれば他の男は潜在的な敵だし、家族ができれば他の人間は家族を生かすための道具だし
既にいくつかの増田において触れられている点ではあるが、元増田の見解は類似性の解釈適用の面で、相当程度「アイディア」保護論的な立場に立っており、一般的な法解釈、裁判例の理解とは遠い立場となっているように見受けられる。ただ、その点の指摘よりも増田の大まかな論調に同意する反応も比較的多いようであるので、念のため著作権法を学部時代に諦めた現役ヘボ弁護士が言及しておきたい(著作権の基本書等すら引っ張り出さずに雑に書いただけなので匿名で。)。
そもそも、著作権は、実質的要件を満たしただけで、つまり創作をしただけで当然に発生し、他者に対する差し止め等、排他的独占的な行使をすることができる極めて強力な権利であるという性質を持つという基本的なところを押さえておきたい。知的財産法で言えば、特許権や商標権、実用新案権等、いずれもその強力な権利の代わりに、形式的要件として登録や公開などの制約が課せられていることと対照的である。
これは、著作権法の目的である「文化の発展」のため、創作活動を行った者を保護することが重要であると考えられたために作られた制度であるが、他方で表現は多かれ少なかれそれまでの表現の歴史との連続性の中にあるものであって、いかなる他の表現に一切依拠しない表現というものはあり得ない以上、創作者の保護にも自ずから限度も存在する。著作権の保護の範囲を過大なものとしてしまえば、強力な著作権の排他性ゆえに後続の表現が委縮してしまい、逆に文化の発展が阻害されることになってしまいかねないためである。そこで、アイディアとそれを具体的なものに落とし込む表現とを峻別し、具体的「表現」のみを保護の対象とし、「アイディア」は保護の対象にしない、という「アイディア・表現二元論」が著作権の保護範囲論の最も重要な原則として長く受け入れられてきているわけである。
類似性における「表現上の」本質的な特徴が何であるのかということを考える際も、この点は忘れてはならない点であり、その絵がどういう物を描いているのかという漠然とした「本質」ではなく、その絵をその絵たらしめる「表現」がどこにあるのかということを考えなくてはならない。
と書いていることや、
目の見えない人に、件の女性が描いたイラスト説明することを考えてみろよ。
・真横を向いてふりかえった構図
と書いていることはかなり「荒い」議論であることがわかってもらえるのではないだろうか。
もちろん、構図や身に付けているもの、ポーズ等の選択が表現と言える部分もあるが、「表現」となった部分には独占的な権利がこの作者に与えられるのだと考えれば、この程度の特定の仕方では「アイディア」に近いものと断ぜざるを得ないことはわかるだろう。元の絵の構図やポーズが、この作者にしか生み出せない創作的表現で、この作者のみが独占的に描くことができるものだとしていいのか、と考えれば、「いやいや、そういう抽象的な構図、ポーズはありふれたもので、独占的に他を排除できるほどオリジナリティがあるものではないだろう」と思う人が多いのではないか。ポーズの選択についても、せめてもう少し具体的な言及が必要である(「半身(横向き?)に構えて首を曲げて顔を正面に向けた状態で、奥側にある右手を顔の付近に持ってきてそこに画面を正面に向けたスマートフォンを持たせたポーズを、胸元から頭頂までをグラデーションの背景のみで画面中心に収める構図で描いていること」とか、絵の心得がないので適当だが。)。あえて言えば帽子は特徴的だが、全体として見れば帽子の比重は強くなく、塗りの特徴やくっきりとした主線等の「絵柄」、表情や体形、手に持った筆や鉛筆等の小道具の選択、スマートフォン画面の表示内容、服装の選択等といったあたりも、元の絵の「表現上の」本質的特徴に含まれると考える方が私としてはしっくりとくるところである。無論この辺りの具体的線引きは最終的には正解のないところであろうが、元増田のとらえ方は不正解と言ってもおかしくない程度に極端な議論であるとは言えるものと思われる。「本質的特徴」や「創作的表現」というテクニカルタームはその文字面に反して非常に解釈が難しく、安易な素人判断を信用するのはやめた方が良いだろう(それは私のこの投稿も同じようなものだが。)。
なお、依拠性がある以上類似性で争うのは無理があるだろうとか、AIが翻案したんだから翻案権侵害は確実だろうというような反応がブコメに見られるが、コーヒーを飲む男性の写真をトレースした事案で侵害が否定されている地裁事例からすれば単純化し過ぎた判断だろう
さて、突っ込みは以上だが、ついでにもう少し著作権の保護範囲について考えたい。完全に私見だが、著作権権侵害事件における本質的特徴とは、「その人にしかできないその表現の魅力はどこにあるのか」というところから考えれば少しわかりやすくなるのではないか。著作権法を運用するにあたって、何を保護し、何を保護してはならないのかと考えると、それを作った人が生み出した、その人らしさの表現こそが保護されるべき、でいいじゃないのというイメージである。恐らく、現実に絵を描くときには、構図や服装を考えることも大変で、そのためにいわゆるトレパクが嫌われるのだろうが、構図や服装だけでその人らしさが出るレベルとなると相当特異だと考えられ、それを保護してしまえば逆側の弊害(委縮)が大きすぎるのではないかと考えるし、その人らしさの部分が保護されれば、いくらトレパク等の邪魔が出ようとその人が創作をする価値は失われないはずなのではないだろうか。無論、この辺りの創作側の主観的「大変さ」と法的保護の乖離の部分はまた難しいところではあるが、意図的に特定の作家からのトレパクやそれのみを材料にしたAI学習、出力が続けば場合によっては不法行為等を構成することはあるだろうし、ばれた時の社会的制裁は大きなものになるだろうというあたりでバランスをとるしかないのではないかと今のところは考える次第である。
ニューノーマルとなった温暖化、そして電波障害が日常的に引き起こす世の中で、日本ではテレビ局が多すぎるため各国から「1局減らすように」と圧がかけられてしまった。
この時、日本はどこのテレビ局系列を捨てるべきかの会議が行われた。
日本放送協会(NHK)は、曲がりなりにも全国区を賄っているため、高い・ウザイ・わかりにくいによるN国からの圧力があっても完全停波にすることはできない。
逆にテレビ東京系列やTOKYO MX、テレビ神奈川などの独立テレビ局(UHF局)も、範囲が小さいので停波しても各国の要望には応えにくい。
衛星放送についてもほとんどインターネットに移行はできるだろうからそれを進めていくことにした。
この時点で残ったのは右翼な日本テレビ、左翼なテレビ朝日、東京放送ことTBS、ウジテレビなフジテレビの4局のみとなった。
東京放送(TBS)は沖縄や宮崎では甚大な被害を被ってしまうだけでなく、JNN排他協定によるクロスネットを絶対にしないテレビ局であり、今後の電波チャンネルの管理をするためにも逆に残さないといけなくなるとして免除された。
日本テレビは沖縄県以外を除けば日本全国が放送区域となっているため、停波しても他局がバックアップすればなんとかなると主張した。
ましてやジブリやタツノコなどのアニメ作品だけでなく、24時間テレビなどのビッグコンテンツを解体するのが難しくなる。
テレビ朝日は空いている区域があるものの、日本テレビと同様にビッグアニメコンテンツが強すぎるため解体するのが難しくなる。
また民放5局の中で圧倒的な左のテレビ局であるため、バランスを取る観点で停波は難しいだろう。
消去法で残ったフジテレビは、何度となくBPOに怒られ、捏造の塊でありコンテンツも他の受け皿が存在している。
昔のキモオタは家庭環境や容姿や才能や人間関係に恵まれず、社会不信を募らせ生きる目標や将来の夢が無く、一時的に不貞腐れ自暴自棄になり、気の合う仲間と刹那的快楽に現実逃避しているタイプの人が多かった。だから昔は一人ひとりは素直で明るくひょうきんな人間だった。
惨めな自分が嫌で馬鹿にされたり苛められたりされたくないから、オシャレさを感じない娯楽にはまり、当時の常識人には理解できないような格好をしてアニメ絵のステッカーの貼られている車を乗り回すなど虚勢を張ることである種の自己防衛をしていた。
しかしそういった当時の青少年少女の問題は大人の問題。クズだのキモいなどと批判し排他すれば、却って自分を肯定し愛せるようになるために昔のキモオタやDQNヤンキーに憧れる青少年少女がまた世に出てくる。彼ら彼女らに不足しているのは愛。彼ら彼女らを批判する者も同様。
追記でブコメに反応いただいた id:koo-sokzeshky です。
私のブコメ:
解がさっぱり分からんので、素人が言えるとしたら「統計的差別を容認する前にせめてトランス差別解消の意思を見せろ」くらいだと思うけど、そうすると「その前にせめて性犯罪問題解消の意思を見せろ」で膠着状態に…
増田氏の反応:
(引用)
これだけ言ってもまだわからんか。
黒人差別反対の主張に対して、「黒人差別の解消を叫ぶ前に、その前にせめて黒人による犯罪の多さの解消の意思を見せろ」と要求するクソな醜悪さがわからんのか。(実際に過去にも今もそういう主張する白人、わりといる)
「膠着状態」になんてなんないよ。なぜそんな意見を考慮する必要があると思うの?「せめて黒人の犯罪をなんとかしてから黒人差別反対を訴えろ」と思うのか?それと全く同じ主張を差別反対と同列に扱ってると自覚できんのか。
なぜ分離排斥されてる被差別弱者に「問題解消の意思を見せろ」と要求して当然だと思ってるんだ。
「その前にせめて」じゃねえよ。
言い訳になるけど私のブコメは、個別には筋の通っている複数の主張がぶつかったときに「その前にせめて…」式の優先順位の取り合いが発生しちゃって難しいね、というボヤキです。
「その前にせめて性犯罪問題解消の意思を見せろ」が私の主張ではないのです(そう言う人にも同情的なのは事実だけど)。
というか、「性犯罪の危険性を強調することで特定の属性をまるごと排除するのは黒人差別と同じ構造であり、手放しに肯定できるものではない」という点については完全同意なのよ
(構造が同じならすべてが同じというわけでもないが、ではトランス差別問題に固有の話は何かということになると、私は明るくないので論じられない)。
なお、増田氏が私のブコメを「誤読」した等と主張するつもりはなく、基本的に私の書き方が悪い。伝わってて怒られたのだとしたら私の理解度が低い。
なぜと言われると一言では難しいが、一般論としては、あると思う。
というか、私もできているとは言いがたいけど、一般にリベラルは非リベラルを含む他者の主張(場合により差別的だとしても)の背後にある問題意識を無視すべきでないと思っている。
これはしばしば保守派がリベラルを批判するときに言っていることで、限度はあるにせよ、方向性としては確かにそうだなあ、という感想。
なお考慮とは「その通りにする」という意味ではなく、検討材料にカウントするということ。
当然ではないだろうけど、ちょっと整理が要る。
この要求がまだ満たされていないと思う場合は教えて貰えるとありがたいです。実際、私が未だにわかってなくても不思議でないので…。
なるほど、わかる。ただ、『トランス差別を問題視する人が「当然、男性も含めて皆で負担するのだ」』はどうなの、という気がする。悪いリバタリアン的。逆に差別を問題視する人がいなければ差別を放置していいのか。
「悪いリバタリアン的」は実は薄々思いつつ端折ってしまい申した。
"皆で負担" は一見社会主義的だけど、逆説的にリバタリアンがこういう主張をすることがよくありますね。
ソーシャルリベラル的な批判としては、最終的な理想だけを(まるで既に実現しているか、もしくは容易に実現可能であるかのように)述べても、今そこにある問題の是正について議論が進まない、これでは一向に不公正が無くならない……という反応になる。
しかし一方で「現状はともかく、理想はこうだよね」という確認作業も大事ではあるんだよなとも思っており、まずはそこで合意を示しておくべきかな、と思った次第です。
理想論と現実論の混同は色んな話題でよく揉めますよね。混同しなくても単体でも揉めるけど。
・DD論はやめろ
2ch的レスバはやめろという気持ちだが、気持ちは置いといて、その2点については良い指摘だ。
それと "2振りの武具" とやらはリベラルの傲慢さを批判したいのだろう。その連帯責任を私に求めている? それとも私のエントリに該当箇所がある?