はてなキーワード: 価値相対主義とは
デビット・ライス氏のブログはバランスの取れた議論と時折混ざる素直な感想が好きで、時々読んでいました。
『How to Not Die Alone』の書評とかは、あまり英語の文章を読めないものですから、とても有益で思わずメモを取ったほどです。
先日、私が好きな『責任という虚構』のブログを挙げてるなと思って読んでみて結構びっくりしました。
https://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2022/10/04/155546
まず、全体的に内容に基づいた批判というよりも、文体や語り方の批判になっています。しかもかなり口汚くののしるような文体で、かなりショックを受けました。
普段、結構素直に感想を語っていらっしゃるなと思っていましたし、今回も個人の意見の範疇かなと思ったのですが、今回のは批判が結構ズレているし、主張の部分と著者の感想を取り違えているような気がしました。
一部(アンダーソンの手紙の部分)有益な情報はあったのですが、数度読み直してみても、全体的にズレているなと感じました。
普段ほとんど人の書評にケチをつけないですし、内容理解にひどい部分があったとしても特に反応もしませんし、私はあまりネットに名前を出して文章を書きたくないので、どうしようかとも思いましたが、はてな匿名ダイアリーはネットの片隅に残るようなので、少々ずるいかと思いますが、書いてみたいと思います。
気になったのは4つの点です。
一つ目。
書評の中では、ロールズについて書かれた箇所に出てくる「理想郷」という言葉から、理想と現実の対比を引き出して『責任という虚構』は理想論を模索する哲学者を非難しているとして、それに対する再批判を展開しています。
私が本書を読む限り、理想と現実の対比は大して重要な対比ではないです。
ライス氏は「理想的な基準や規範が存在することで、ようやく、「現状の財の配分のされかたは間違っている」と批判したり問題を提起したりすることができる。」と続け、それを理解しない小坂井氏を非難する文章を連ねてますが、この論点は本書の主張に対する批判になっていません。
著者の小坂井氏が言いたいのは、人の行動や社会の動きというのは、人の手を離れて自律運動して生み出されるもので、したがって人の意識や理性でコントロールできるものではないので、そもそもべき論とは雨乞いの踊りのように無意味なものだ、という主張だと思います。
規範について言い換えれば、現実の世界における規範は、論理的だったり理性的に構築されたものではなく、権威などによって根拠づけられていることで初めて人の心理的な抵抗を起こすことなく円滑に機能するので、理性によって規範を人工的に構築しようとしても、規範の生成のメカニズムが異なるのでどこかで無理が生じる、という主張です。
ロボットを作っても出来上がるメカニズムが違うので人間にはならない、というのと同種の主張です。
この主張に反論するならわかりますが、規範を否定しているのに規範論を行う著者は倫理的相対主義のジレンマに陥っているというのは、少なくとも本筋に対する批判ではありません。
実際、哲学者の山口尚氏もライス氏と同じく、小坂井氏の哲学者批判に反論されています。しかし、批判の直接の理由は価値相対主義のジレンマではありません。
https://note.com/free_will/n/n24feea05db99
二つ目。
「哲学者やリベラルやフェミニストなどが「ただしさ」を語ることは否定しながらも、「ただしさがもたらしている悪さ」や「ただしさを語っている連中の悪さ」をあれこれあげつらって非難することで「ただしさ」を語るという自分の行為だけは特権的に許容する」
ということをしていると書いています。ほかのネット論客の方の本を拝読したことがありませんので、それに対するコメントは控えますが、『責任という虚構』を読む限りこの批判はズレていると思います。
一つ目の内容で書きました通り、小坂井氏は、規範論で物事を理解しようとすると、どうしても現実に規範が機能しているメカニズムを無視することになりがちであると主張しています。
これは、政治に利用しようと思って進化を研究すると、進化の本来の仕組みを無視することになるのと同種の主張だと思います。規範が対象なので感情的な反発が起きやすい文章で(正直言えば小坂井氏もちょっとケンカを売っているような気もしますが)、ライス氏の言うようなものではないと思います。
三つ目。
ライス氏は、規範を論じる哲学者たちに小坂井氏が、「傲慢」「偽善」「おぞましい」などの価値判断を含む言葉を使いながら非難を浴びせかけていることについて批判的です。
実際、小坂井氏のほかの著作を読んでも、哲学者に傲慢や偽善、おぞましいと言える根拠はありません。あくまで小坂井氏の主張する範囲では言えば、哲学者は「苦しい言い訳」を捻りだしているだけであり、別にだからと言って哲学者が傲慢だとか偽善だとかおぞましいとかいう主張はできません。
ではこれは何かといえば、小坂井氏のただの感想なのだと思います。
ライス氏のブログで言えば、「好ましく思った」とか「イラっとした」みたいな文章に相当します。
私は小坂井氏にかなり共感していまして、こうした言葉に少し心を揺り動かされたりしますが、でもこれは小坂井氏の感想以上のものではないと思います。
こういう言葉が出てくるのは、小坂井氏にとって学問が、ある種の実存をかけた戦いだからなのでしょう。私はそういう学問観、正直すごい好きです。強く共感します。
でもこれは本筋ではないので、ここに関して批判するのは、好み以上のものではなく、論理的な主張になりえないと思います。
もしここに論理的な批判を加えるのであれば、上述した山口さんの批判文のように、主体を虚構と言っておきながら主体を前提とする「責め」を行っているではないか、というものになるのではないでしょうか。
(とはいえ、このような「責め」が著者によって行われること自体が、主体の"虚構"性を表しているとすら私は思いますので、別にこの本の価値は減じないと思っています。この本の中において、虚構は単なる嘘ではないのですから)
ちなみに、小坂井氏の言う相対主義は認識論的な相対主義のことで、善悪は単独では決まらず、枠組みに依存するという立場のことです。この立場に立てば、「小坂井氏という枠組み内では哲学者は偽善者だ」といっているにすぎないので、特に問題はないと私は感じました。ライス氏の言う「イラっとした」と同じです。枠組みを超えた正しさは主張できないだけで、言う分には問題ないと思います。
四つ目。
正直、上記3つだけであれば、この文章も書かなかったかもしれません。ライス氏の言うことも理解できなくはないですから。
しかし、これがあったので書こうと思いました。
端的に申し上げて、他人の著作の題名を加工するというのは、少々失礼ではないですか。
『責任という虚構』であって、『<責任>という虚構』ではありませんよね。
類似の名称の書籍『〈責任〉の生成』と混同したのかもしれませんが、ブログが書かれてから随分と経たれたのに直っていませんし、別のブログで批判的な言及をされた際にも同じ書き方をしていたので、もしかしたら、意図的なものかなとも思いました。
もし、ただの間違いなのであれば、訂正した方がいいと思います。どんな著作であれ、一生懸命書いたものだと思いますし、関わったのも著者だけではないのですから。
例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?
引用した文章は、河瀬氏の東大入学式祝辞の一部。燃えてるのは、『「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。』の部分。
Togetterのまとめをざっと見る限り、「ロシアが悪者に決まってんだろ。」「どっちもどっち論に持ち込むな」などといった批判(と中傷)が多い印象。Togetterのコメント欄には、『平和主義者だと思っていた人たちは、いざ戦争が始まったら侵略者を賛美する好戦主義者でした』っていうコメントも。
Togetterのまとめ
→『東大入学式で河瀬直美氏「ロシアを悪者にするのは簡単」→「いや完全なる悪者です」「歪んだ価値相対主義」「中立の名を借りた判断停止」と批判殺到』-(https://togetter.com/li/1872195
河瀬氏が「ロシアは悪者ではない」と主張していると勘違いしてない?
そうじゃなと『いざ戦争が始まったら侵略者を賛美する好戦主義者でした』って感想出てこないでしょ。
河瀬氏が新入生に伝えたいのは、「多角的な視野を持って欲しい」という事じゃないの?思考停止して「ロシアは悪!」って決めつけるんじゃなくて、両国のバックボーンや主張を理解した上で判断してほしいと伝えたいんじゃないの?
これから大学で学び、探究心を持って未知の世界や真理を追究していく上で、物事をいろんな角度から観察して見定めてほしい、っていう至極まっとうな話だよこれ。
一体この祝辞のどこをどう読んだらこんな酷い勘違いするのやら...。っていうかそもそも読んですらいないのか。反射的にバッシングしてるからこんなチンプンカンプンなこと言えるんだろうな。
一昔前に「AI vs.教科書が読めない子どもたち」なんて本が話題になってたけど、世の中「教科書が読めない大人たち」ばっかりやな...。
河瀬さんが訳の分からんことを言って左右を超えて四面楚歌になってる件、当然はてブでも叩かれていた。
[B! ロシア] 東大で入学式 来賓の河瀬直美氏 「ロシアを悪者にすることは簡単」:朝日新聞デジタル
問題になったのはこの部分なわけだが…。
管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないので、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか?例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。
このうちの「悪者にすることは簡単」の部分がタイトルになって特に叩かれた部分なのでそこを中心にこの増田を書くとしよう。
これ、ネットで一時期流行ってた類の陳腐な正義の暴走論じゃないの?実際にこの祝辞を抽象化してみようか。
(2) 正義と正義がぶつかり合っていると考え両者の意見をよく聞いてみることが必要ではないだろうか。
(3) 悪と断じて切り離すよりも自分事として自省することが大事だ。
この(1)(2)は正義の暴走論における典型パターンだ。まあ正義の暴走論でなくても一方的に悪のレッテルを貼り糾弾することはよくないことだという論法はよくある。
悪と認定することについて例を出せば、ナチスについて「絶対悪」だと論じた記事にも「世の中に『絶対悪』などと言うものが存在するという考え方も十分危険」「絶対悪とか言い出す人って、時代が違えばホロコーストやってた方なんじゃないかと思う」というコメントがついた。あのナチスですら、だ。
[B! 歴史] 新書の役割――「ナチスは良いこともした」と主張したがる人たち(田野 大輔)
それとも「世の中に『絶対悪』などと言うものが存在するという考え方も十分危険」と「誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか?」には大きな差があるだろうか。「絶対悪」と「悪」は違うということなの?
「一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?」という文章があると意味が変わるとか?それならこの部分を叩くべきなのでは?
まあ、そもそもきっと恐らく同じ人が書いているわけではないだろう(両はてブで誰がどんなコメントをしているか比べるつもりはない)から、一方が優勢なら他方は黙って他方が優勢なら一方を黙って様子を窺っているだけで意見が変動したように見えるだけだとも言えるかもしれない。
ただ、正義の暴走論って例えば「何かを悪だと決めつけるのは危険だ。ファシズムだって正義の暴走から始まった」って議論が数年前ツイッターとかで起こったらしいけど、こんな感じである意味将来惨禍を起こさないようにする謙抑的な目的を持った思想でもあったはずなんだよね。個人的にはこういった論は期せずして矮小化や擁護に繋がってしまいがちではと危惧するし悪しき価値相対主義に陥りそうで不安になるんだが、一方で自省的な側面に意義があるとも思ってたわけです。
つまりこういう時どう考えても悪(いや侵略行為はどう考えても「悪」でしょ?何か時代によって価値観は変わるからって言う人もいるけどそういう話ではなく)だと考えられる行為を行っているものが悪認定されてボコボコに言われていれば言われているほどこういう論が出てこないとその意義は達せられないよなと思うとこもあって…。いや言い出しにくいよ。現にナチスがユダヤを虐殺している最中に「絶対悪が存在するのと考えるのは危険」なんて言ってみ?最悪だよね。人格を疑われて当然だと思う。でも誰もが悪だと考えている時に異議申し立てしてこそという話になるのでは感はある。
でもそれができずに過去の出来事に適用して話をするだけなら意味もなく矮小化しかねないリスクを伴うだけでどうしようもない論法じゃね?まあくだらないことで炎上した人を過剰な叩きから庇うことには使えてるからいいのかな?中途半端な理解で口を出して火に油になるパターンもあるけどそれは使い方が悪いということで。