はてなキーワード: 映画評論家とは
この文章は、セクハラ行為を批判し、根絶するために記しています。2022/05/30表現を一部修正しました。
昨今の日本の実写映画業界では、監督・プロデューサー・男優たちによる性的加害行為・物理的暴力行為・ハラスメント等が露見・報道されることが続いていますが、そんな中で新たな動きがありました。映画評論家である町山智浩が、自身の行なった『とされる』セクハラ行為について、Twitter上で『反省』または『謝罪』らしきものを表明したのです。
態々『とされる』・『反省』・『謝罪』と二重カギ括弧で囲んで書いたのには、もちろん理由が有ります。町山智浩は、件のセクハラ行為について「話を盛っていた。現実で行為に及んだわけではない」と釈明しているからです。
仮に百歩ゆずって「現実に行なった行為ではない」という釈明内容が本当であったとしても、町山智浩が後輩男性の元・配偶者(現在は既に離婚成立済み)の肉体的な特徴を公然とあげつらったこと、しかも、自分(町山智浩)は彼女の身体を触った経験があるという内容を、笑いながら面白おかしく語ったことは事実です。そして、その町山智浩の語った行為そのものが、紛れもなくセクハラ行為です。
一般企業・地方自治体・教育機関などの職場においてセクハラ防止・根絶の研修を受けた経験が有る人ならば、私の言うことを容易に理解できるでしょう。あなたの会社で上司が「経理の○○君の奥さんがいい身体をしていて、○○君が触っていい』と言うから、オレは触らせてもらった」などと笑いながら話している場面を想像してみて下さい。如何に気持ち悪いか実感できるでしょう。こんな言動は、言っている内容が想像上のことであったとしても、セクハラ行為以外の何ものでもありません。後輩の配偶者に対して性的欲望を向けていることを、堂々と公言する気持ち悪さは、筆舌に尽くしがたいものがあります。
ちなみに言っておきますが、問題の町山智浩のセクハラ自慢話のインタビューが行われたのは、2011年のことです。昭和の話、20世紀の話ではありません。町山智浩のインタビューと同じ頃には既に「セクハラ行為は良くないことだ。止めるべき」という研修を受けていたという人も少なくなかったでしょう(私個人の体験で言えば、そのような研修を受けていました)。
セクハラ自慢話についての町山智浩の言い訳を読んだ時、私は「小山田圭吾が『雑誌QuickJapan上でイジメについて面白おかしく語ったのは、盛っていた。あれは事実ではない』と言い訳したのと瓜二つだな」と強く思いました。小山田圭吾と彼のファンや関係者も、東京五輪という機会によって国際社会にイジメ自慢話が知れ渡り、サブカル系業界人という威光が通用しない場で批判に曝されて初めて、謝罪を述べたのです。
町山智浩も同じです。木下ほうか、榊英雄、園子温etc.のニュースの影響で、マニアックな映画ファン・信者ではない人々も、日本の実写映画業界のスキャンダル関連情報に注目するようになり、このため町山智浩のセクハラ自慢話のインタビューも多くの一般人が知るところとなりました。そういった一般人にはサブカル系業界人としての威光も通用しないので、町山智浩は仕方なく形式的に『反省』や『謝罪』を述べたのに過ぎません。『映画秘宝』の読者やサブカルウォッチャー等にしか情報を知られていなかった状態が続いていたとしたら、これまでと同様に批判の声など無視していたであろうことは想像に難くありません。
支持者集団の内部にいる時には、自分が他人にした悪い行いを鼻高々に自慢していたのが、集団外部の一般社会にまで知れ渡ると、急に自慢を止めて「語ったことは事実ではない。誤解を招いた」と釈明して取り繕おうとする行動様式は、自民党や維新の会などの政治家たちの専売特許かと思っていましたが、町山智浩らサブカル系業界人たちも見倣っているようですね。
それにしても、町山智浩のTwitter上で述べた『反省と謝罪』を読んで、ほとほと呆れたのは「『後輩男性』たちには謝罪しました」と書いていたことです。謝罪ならば、町山智浩が「性的欲望を向けた相手」である「セクハラの被害者となった女性」が先に来るべきでしょう。この期に及んでも町山智浩は、ホモソーシャル的で男尊女卑的なサブカル系ムラ社会の序列を優先して、セクハラ行為の被害者を軽視するつもりなのでしょうか。救いようのない愚かさです。
なお、園子温のスキャンダルが表面化した途端に町山智浩は「自分(町山智浩)は、2006年以降、園子温とは会っていない」と、2006年以降も交流が有ったのにも関わらず、いけしゃあしゃあと嘘をつきました。そんな嘘つきの町山智浩が「セクハラ行為は実行していません」と言い訳したとしても、どれほどの人が信用するでしょうか。
たぶん、次に町山智浩は「自分が批判されるのは当然だが、話を持ち出されると被害者が傷つくので、これ以上、同じ話を持ち出すのは止めろ」と、加害者であるにも関わらず「自分(町山智浩)は被害者の心情に寄り添っている」とアピールする作戦をとるのではないでしょうか。
今回は以上です。2022/05/30表現を一部修正しました。
町山智浩の虚言インタビュー及びそれに基づいて誤った人物評価を記した箇所を含む、既に問題が有ると判明している記事については、はてな社に削除依頼を申請していましたが、2022/05/31削除措置を済ませたとのご連絡をはてな社からいただきました。はてな社にもご迷惑をお掛けして、誠に申し訳ありませんでした。
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%9C%92%E5%AD%90%E6%B8%A9&oldid=88849597
『映画秘宝』を創刊した映画評論家・コラムニストの町山智浩は2009年のベスト10を選んだ際に、園の『愛のむきだし』を一位に選んだ。同年に日本で公開されたクリント・イーストウッド監督・主演『グラン・トリノ』を二位にして「『グラン・トリノ』は『愛のむき出し』を見るまで一位の作品」「どちらも(『グラン・トリノ』と『愛のむきだし』)「不在の聖母」を描いた作品。」と評した[13]。
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%9C%92%E5%AD%90%E6%B8%A9&oldid=88886392
ファンであり友人である著名な者として、水道橋博士[19]や『映画秘宝』を創刊した映画評論家・コラムニストの町山智浩が知られる。町山は2009年のベスト10を選んだ際に、園の『愛のむきだし』を一位に選んだ。同年に日本で公開されたクリント・イーストウッド監督・主演『グラン・トリノ』を二位にして「『グラン・トリノ』は『愛のむき出し』を見るまで一位の作品」「どちらも(『グラン・トリノ』と『愛のむきだし』)「不在の聖母」を描いた作品。」と評した[20]。水道橋博士とは親交が深く[21]、お笑いライブを二人で開催したりしている[22]。水道橋博士は園子温を「映画監督として圧倒的に天才」と絶賛している[23]。他に園と親交が深い友人として、茂木健一郎、会田誠、津田大介[24]、宮台真司がいる。宮台真司はあいちトリエンナーレの「表現の不自由展」に対する批判意見への反論に友人・園子温の作品を例にあげ、「そもそもアートは心に傷を付ける。心を回復させる娯楽とは違う」「こうした基本的なことでさえ、行政、政治家、そして市民までもが分かっていないことに驚きました」と開催を擁護している[25]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/Haydnwharfo
・ゾンビはゾンビウィルスが原因で発症する病気で被差別民として描かれる。言論系映画評論家が「~病のメタファーで」とかいい感じに拾って絶賛してくれる。
・見た目や動き方以外普通の人と変わらない。症状が軽く普通の人に溶け込んで生活する隠れゾンビも多数居る。
・基本的に小さく群れを作って生きている。中には都会で生きるゾンビも居る。
・いじめられっ子はゾンビというあだ名をつけられて馬鹿にされる。
・ゾンビになれば簡単に生活保護が降りる。保険が降りてfire可能。悪いブローカーゾンビが「お前もゾンビにならないか」と誘ってくる。
・現代社会で生きにくい若者の間で高福祉のゾンビの嫉妬から「俺もゾンビになりてぇ」が流行語になる。
・謎の超絶美少女がクラスでゾンビとあだ名をつけられてる弱者男子と恋をする。実は超絶美少女の正体は隠れゾンビだった。
・大金持ちの財閥女社長がパラグライダー事故でゾンビ集落に墜落。もう助からないってとき美形ゾンビ男子に噛まれ一命を取り留めるも本人もゾンビになってしまう。
・田舎のゾンビ集落でひっそり暮らす平凡jkゾンビが「わだすもうこんな村嫌だ!」と言って上京してアイドルを目指す。
・神武天皇は日本初のゾンビで生きている。そして裏で日本社会を操っている黒幕だった。無敵の設定だけど、三種の神器のみ倒すことが可能。
某男性映画評論家のことは、積極的に活動を追いかけてたわけじゃないけど、結構好きだった。
映画の内容や対戦相手にキレ散らかす様が、完全に大麻やってるやつの「それ」だったから。本物だな、と思った。強さとか弱さじゃない。大麻と本気で向き合ってるな、と。
暴言の質が映画秘宝特有(これも映画秘宝差別になってしまうんだろうか?)の「オタクが引く」タイプのものだったことを考えると、本当の意味で「サブ○ルお○様」を体現していたと言えなくもない。
そんな氏のことをなんとなく受け入れてしまっていた映画秘宝界隈にも反省すべき点はあったのかもしれない。
もっと早めに「人前に出るプロとしてそういうことを言ったらアカン」と注意すべきだった。もっとも及び聞くところによると同僚の映画ライターが手を焼くレベルで気が強かったという彼が素直に注意を聞き入れていたかどうかは怪しいが。もしくは既にそのような注意は裏でなされていたのかもしれない。
あるいはそんな氏の姿を見て、どこかで痛快さを覚えていたB級映画ファンも多かったのかもしれない。
かつて映画秘宝は、社会からはみ出した人たちを受け入れる場所だった。
そこに集まる人達は大体において当然のようにトガリ散らかしていた。悪言暴言当たり前。多少の蛮行も「面白いものが正義」という風潮によって一定程度肯定されていた。ちなみに自分はそういう文化を横から眺めてニヤニヤしているだけの暗いオタクだったがそれはそれとして。
そしてそんな時代は過ぎ去ってしまった。「Twitter」の波が洗い流してしまった。なにもTwitterが悪いわけじゃない。あらゆるアンダーグラウンドなカルチャーが同じような道を辿ってきたわけで。
氏は、そんな過ぎ去った時代の残り香を感じさせてくれる存在だったのかもしれない、と捉えるのはあまりに感傷が過ぎるだろうか?いや、それはさすがに感傷すぎるな。大げさだ。
単に「俺らも昔はやんちゃだったしなぁ」という負い目があったがゆえに氏の放言が温存されていた、というのが個人的な想像。
今のところ今回の件についてなにかしらの発言をしているのは、同じ女性の映画ライターや、元々大学業界で活動していた女性学者が主だ。
「あんたたち、単に元々あの人のことがキライだっただけちゃうの? 女ってこわ」と思わないでもないが、思わぬところでミソジニーがガチだったことが証明されてしまう形になった。というのは単なるゴシップ。
映画雑誌や本に締め切りがありそれを守れないことを考えれば今回の映画評論家引退は致し方ないものだと思う。
一方で、Twitter中毒たったひとつで一人の人間の生計の途が突然全て奪われてしまうことにはついては残酷だと感じずにはいられない。
例えばどこかの公式アカウントの中の人として個人のTwitterアカウントを取り上げて一定期間働き、折を見て個人アカウントを復帰、という形になればTwitter中毒治療できるんじゃないかなあ、などと妄想している。不祥事をした芸人が突然介護施設で働き出す、みたいなノリで。
日本はともかく映画もドラマもポリコレじゃないとダメになった。
当然、映画を評論する媒体もポリコレに媚びなければ仕事がもらえない。
そんな状況では昔は鬼畜系とか言ってエログロナンセンスを大歓迎していたM氏でさえ今やポリコレの尖兵。
そのくらい、自由な評論なんかとっくに許されない世界になってると思う。
自分と意見が異なる人間へのゲスな発言見てたら、「ああ、これお仕事の時だれポリコレってるだけだな」ってわかるじゃん。
あれだけプライドが高い人が、それでもポリコレしぐさしないと仕事もらえないんだよ。
そんな世界で生きていくためにはみんなもMさんみたいにポリコレに従順じゃないと無理だよね。
本心からポリコレを尊重するつもりはなくて女性蔑視的と受け取られかねない表現をしているし
他の人からも心にもない西欧賛美をしようとしすぎて中国蔑視発言をしてしまったって言われてる。
それでも実力があれば、見るべき文章を書ける人であればお仕事もらえるんだろうが
映画評論についてもたいした実力がないと何人かの人から指摘を受けている。
そういう人でもお仕事を続けられてるってことは
「実力では仕事もらえない」タイプだけどポリコレ的な語りをアピールすることの方が重要な世界っぽい。
この構図どっかで見たことあるなと思ったら、自民党における女性議員みたいな立ち位置だ。
「男性議員がいうと辞職ものの発言を、女性議員に言わせて観測気球として利用」してると言われている。
ほんとかどうか知らんけど少なくともリベラルの人たちはそう主張している。
んで、今回のSHIROBAKOをDISってるおじさんは、リベラル界における杉田水脈さんみたいな立ち位置なんじゃないだろうか。
映画評論家としての実力はそれほど期待されてなくて、メディアにとっての便利な鉄砲玉、観測気球としての役割を求められている。
おつとめを果たして生き延びられたらまた面倒見てやる、中枢ではないがそれなりの立場を与えてやるって扱い。
なんか一人だけ孤軍奮闘を強いられて、映画評論家の仲間から応援が来ないあたりも杉田さんとかと立ち回りが似てる。
なんのことはなくて、自民党を批判してる同じ口で、リベラル側も同じようなことをしてるってわけだ。
やっぱり人間って左翼とか右翼とかいったところで、やることあんまり変わらないんですねえ。
という陰謀論。
どないやろ。
「私は様々な監督や脚本家など(小説家もいます)国内外の様々な優れたクリエイターにインタビューしてきましたが、あなたみたいに社会への影響についての意識が低い人はいませんでした」
プレジデント誌ですしざんまいについてのデマ記事を書いてた人である。
彼のプロフィールには、「CAとして著名な成功者から話を聞いてきた」という触れ込みがある。
もちろん、すしざんまいの記事も、彼は直接すしざんまいの社長から話をきいたというていで語っていた。
知念氏の発言に対して、彼は自分の作品を表に出して語ればよかったのである。
彼は映画評論家としてだけではなくマンガデビューもしているのだから。
しかし、彼は自分の作品を出して「私は社会的責任にもとづいて書いてます」と言わず
他の作家さんもこんなこと言ってましたよという太宰論法を使った。
なぜ彼がそんなことをするか。
自分の意見は他者からのお墨付きがあると見せかけたかったのであろう。
呼吸をするようにほらを吹く。
そのホラを真に受けるとひどい目に合う。
ただ、こういう性格でありながら詐欺などに手を染めていないのは魂が善良と言える。
この手の性格の人間は、半数くらいが詐欺師とか情報商材屋になっているからだ。
他人から批判されつつもちゃんと表にでて名前を出して活動しているというだけで立派に思える。
ただし目立ちすぎるといろいろと不都合はあるだろう。
その覚悟を持ってやっているならなかなかえらい。
映画評論家様も男は見た目通りに描かれているのに女性は美化されて描かれているならそれはそれで問題だし、本当に現場に美人でそれなりに若い女性しかいないんだとしたらそれはそれで問題だという話もしている。後者は「男性は見た目に関係なく能力で採用されているのに対して、女性は外見という要素が採用に強く作用しているのではないか」という疑惑を抱く理由としては十分だからだ。
前者に関しても「女は美人に描くのが礼儀」という感覚自体が「女性は美人であるほうが価値が高いよね」というファッキズム的であるとして批判を受けているという前提が共有できていないなら議論にならない。
これは女性側が「かわいく書いてくださいよ~」と言った言わないの話でなく、ファッキュズムの批判者はそうして女性が顔面に固執すること自体が女性顔面至上主義的ファッキン抑圧によるものであるという批判をしている。
https://twitter.com/tm2501/status/1477133658587021313
じゃあ、女の子に茶沢的な人やらせます?不摂生で太ってしまった監督をおばちゃんにします??
むしろ、叩かれたり物議を醸す役を男性が引き受けてる点で、あの作品ってものすごーく配慮してると思うんですが??
あとは性格に難がある人物は女性でも数名出てますが…そう見えないからすごい!
映画評論家のライターのレベルがこれなんだったら、そりゃ私の動画が数万再生されますわ。
こんなの評論でもなんでもない。作品細かく見てたら見える部分を見てないで、ポリコレ的な批判とは片腹痛い。
よりによってSHIROBAKO選ぶところが、酷い
みたいに言う人がいんだけどさぁ…違うんだよ。
オタクも性格の悪い女の子、外見にコンプレックスがある子は描いてるんですよ。
SHIROBAKOの悪口書くんだったら、「日本中のクレヨンしんちゃんとガルパンのファンを敵に回して、朝でも夜でもどこからでも襲われる覚悟をしてから書け」とは思うわ…。
水島監督の描く女性が型にはまってるだ、アップデートしてないだ?
だいたい、「女性像がアップデートしてない作品」の代表例として、ゴリゴリにクレしんに関わってた水島努監督監督作品を選ぶのがもう、頭悪いんだよ。
クレしんほど老若男女いろんな人間を描いてる作品はないし、萌えアニメになってもその人間描写のセンスは残るわけです。
で…アップデートですか?
よりによって映画評論家ともあろう人が、水島努監督作品にあんなこと言うのかぁ…。
ちゃんと万人向けのアニメを作った経験から作品全体の整合性やバランスが取れる監督さんの作品に文句言うんだ…。
経歴調べたら、「それだけは絶対やめとこう」と思うぐらいに悪手なことしてるだけにびっくりしてる
「朝でも夜でもどこからでも襲われる覚悟をしてから書け」はオタクの間でだけ通じる表現。一般人相手ににこうした表現使うのダメ。フェミは二次元と三次元の区別ができない人が多いが、オタクはこいつのように現実と二次元の区別はできるが身内のノリとそれ以外の区別が付けられない人間が死ぬほど多い。
https://twitter.com/tm2501/status/1477138810928758786
昔、映画評論家だのアニメ評論家だのにけちょんけちょんにブログを炎上させられた経験から、ああ言う人ってすげー知識持ってるんだと思ってたら、自分の得意ブニャから見ると…ゴミみたいな見識しかないことを知って
「なんだ、じゃあ萎縮しないで好きにやればいいや」
って気持ちになれた。
ルパンの記事は誰がどう見てもダメだったのにいつの間にか俺は正しいこと書いてたのに理不尽に批判されたと記憶を捏造してて草。
今や映画など、「映像作品」のうちの「2時間前後のもの」でしかなく、スマホから見ようがテレビで見ようが映画館で観ようが開くデバイスが違うだけで「同じもの」というのが若い世代の感覚だ。
映画評論家と名乗る人が、万引き家族も評論すれば、アナと雪の女王についても語る、というのはおかしなものだ。消費者からすれば、両者には「長い」ぐらいの共通点しかない。
勿論、製作チーム、配給会社、スポンサー達からすれば「映画」は「映画」であり、同じカテゴリにあるだろう。
しかし、映画もドラマもアニメも漫画も小説も5分に満たないMVでさえも同じように「物語」とみなしフラットに消費する我々にとっては、「映画」というカテゴリーは大した意味を持たない。
むしろ必要とされるのは、「社会問題を扱った現代が舞台の作品」だとか「家族がテーマの作品」だとか、「子供向けのファンタジー作品」だとか、「誰に向けたどんな話なのか」というカテゴリーである。
映画館は年々減少傾向にある。しかし、ストリーミングサービスの発達によって映画はむしろ、より身近になってきている。映画は「映画館で見るもの」ではなくなってきているのだ。
地方の名座がなくなって……と嘆く声はよく聞くが、映画館というものは映画文化のおまけとしてできた副次的なものでしかない。一家に何台も高画質なディスプレイが存在し、映画サイズのデータを簡単に送受信できる現代にはさほど必要性のない空間だ。
映画館で見るもの→映画、という空間によるカテゴライズももはや意味を失っている。
映画文化に寄生し、映画評論家などと名乗り、映画をやたらと特別扱いして持ち上げてきた人間は、そろそろ時代と共に去っていいのではないだろうか。